瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:始覚寺

高松市御坊町 興正寺別院
高松御坊町にある興正寺別院と勝法寺
 高松市の御坊町という町名は、ここに高松御坊があったことに由来するようです。高松御坊は、現在の興正寺別院にあたります。興正寺別院と勝法寺は並んで建っていて、その前の通りがフェリー通りで、長尾線の向こうには真言の名刹無量寿院があります。このレイアウトを頭に残しながら

高松御坊(興正寺別院)
「讃岐国名勝図会」(1854年)で見てみましょう。
 勝法寺という大きな伽藍を持った寺院の姿が描かれています。これが高松御坊でもありました。この広大な伽藍が戦後の復興と土地整理の際に切り売りされて、現在の御坊町になったようです。通りを挟んで徳法寺・西福寺・と3つの子坊が見えます。その向こうに見える無慮寿院の伽藍の倍以上はある大きな伽藍だったことが分かります。この辺りは江戸時代には寺町と呼ばれ、西方の市役所辺りまで、大きな寺院がいくつも伽藍を並べて、高松城の南の防御ラインでもありました。そのため勝法寺の南側には堀が続いているのが見えます。このような広大な伽藍と、偉容を備えた寺院を誕生させたのは高松藩初代藩主松平頼重です。その裏には頼重の真宗興正派保護政策があったようです。まずは、ここにこのような寺院が現れる経過を見ていくことにします。
興正寺別院歩み

高松興正寺別院の境内の石碑「高松興正寺別院の歩み」の一番最初には次のように刻まれています。
1558年 興正寺第16世証秀上人讃州遊化。

これについて『興正寺付法略系譜』には、次のように記します。
永禄ノ初、今師(証秀)讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

永禄年間(1558~70)のはじめに、興正寺門主の証秀が讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したとあります。この一宇が現在の高松別院のことを指すと伝えられています。また現在の高松別院のHPの寺伝には次のように記されています。

 1558年(永禄元年) 興正寺第十六世 証秀上人が教化活動として讃岐を訪問されたのをきっかけに、当時、東讃を支配下に置いた阿波の三好好賢(三好実休)の庇護を受けて、「楠川の地(現高松市上福岡町)」に高松御坊勝法寺を建立。現在地へは、1614年(慶長19年) 高松藩主 生駒正俊公の寄進により、寺地三千坪で移転。

 証秀は興正派の富田林の地内町建設に大きな役割を果たすと同時に、彼の時代に西国布教を進めています。しかし、実際に讃岐や四国に来たことはないと研究者は考えているようです。証秀が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、これは憶測で、証秀の代に高松御坊(現在の高松別院)が開かれたとまでしか云えません。ここでは現在の興正寺富田林別院や、高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられていることを押さえておきます。

16世紀半ばになると三好氏配下の篠原氏に従って、讃岐国人の香西氏や十河氏が畿内に従軍します。
そして本願寺を訪れ真宗門徒となり、帰国して地元に真宗の菩提寺を建立するようになることは以前にお話ししました。この背後には、三好氏の真宗保護政策があったようです。どちらにしても16世紀半ばには、髙松平野には本願寺や真宗興正寺派の末寺が姿を見せるようになっていたようです。
 文献によって確実に高松御坊(別院)が確認できるのは、天正11年(1583)2月18日の文書です。
三好実休の弟で十河家を継いだ十河存保が、高松御坊の坊主衆に対して出したもので次のように記されています。

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

意訳変換しておくと
 ①野原の潟の寺内を、②池戸の四覚寺原へ引き移し、再興したいという願いについて、それを認める。しかる上は③課役、諸公事などを免除する。仍如件
 
野原郷の潟(港)の寺内町と坊を四覚寺原に再興することを認め、課税などを免除する内容です。池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺になるようです。この時点では讃岐御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。

 野原・高松・屋島復元図
中世の野原の港(現高松市) 背後に無量寿院が見える
 ①の「野原の潟」とは野原の港周辺のことです。
髙松平野で最も栄えていた港であったことが発掘調査から明らかになっています。その背後にあったのが無量寿院です。その周辺に真宗門徒の「寺内町」が形成され、道場ができていたともとれます。同時期の宇多津でも鍋屋町という寺内町が形成され、そこを中心に「鍋屋下道場」が姿を現し、西光寺に成長して行くことは以前にお話ししました。しかし、「可有再興之由」とあるので、移転ではなく「再興」なのです。ここからは高松御坊は、お話としては伝わっていたが、実態はなかったことも考えられます。この時期は、興正寺の中本寺として三木の常光寺が末寺を増やしている時期です。
常光寺と始覚寺と十河氏の拠点である十河城の位置を、地図で見ておきましょう。

常光寺と十河城
三木の始覚寺 常光寺の近くになる
地図で見ると、常光寺や始(四)覚寺は、十河氏の支配エリアの中にあったことがうかがえます。ある意味では、十河氏の保護を受けられるようになって始めて、教勢拡大が展開できるようになっとも考えられます。ちなみに、安楽寺の末寺である安原村の安養寺が教線を拡大していくのも、このエリアです。ここからは次のような仮説が考えられます。
①三好氏は阿波安楽寺に対して、禁制を出して保護するようになった。
②安楽寺は、三好氏の讃岐侵攻と連動する形で真宗興正派の布教を展開した。
③三好氏配下の十河氏や香西氏も真宗寺院を保護し菩提寺とするようになった。
④そのため十河氏や香西氏の支配エリアでは、真宗寺院が姿をみせるようになった。
⑤それが安養寺や常光寺、始覚寺などである。

十河文書出てくる再興を認められた池戸の四覚寺の坊について見ておきましょう。
坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内で、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからは坊の境内地には俗人の家屋もあって、小規模な寺内町をかたち作っていたと推測できます。しかし、四覚寺原での再興がどうなったのかははよく分かりません。また、常光寺との関係も気になるところですが、それを知る史料はありません。

高松野原 中世海岸線
中世の海岸線と御坊川流路
再び御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。
 讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。そのため高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、それにともなって坊も移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。

高松御坊(興正寺別院)2
東寺町に勝法寺が見える 赤は寺院で寺町防衛ラインを形成
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。
それが現在地の高松市御坊町の地です。これは、先ほど見たよう高松城の南の防衛ラインを寺町として構築するという構想の一環です。寺院が東西に並べられて配置されたのです。その配置先が高松御坊の場合には、無量寿院の西側だったということになります。

高松城下図屏風 寺町2
高松城下図屏風
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重が21歳でやってきます。
 松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則の娘です。しかし頼房は、頼重が兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったため、遠慮して葬らせようとした所、頼房の養母英勝院(家康の元側室)の計らいで誕生したといわれます。そのため、頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でした。英勝院が将軍家光に拝謁させ、常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、その後に21歳で讃岐高松12万石の城主となりました。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、的確な情報提供者を幾人ももっていたようです。そして、宗教ブレーンに相談して生まれたのが次のような構想だったのでしょう。
①真宗興正派の讃岐伝道の聖地とされる高松御坊(高松別院)を勝法寺とセットで創建する。
②勝法寺は京都の興正寺直属として、代々の住職は興正寺より迎える。
③その経済基盤として150石を寄進する。
④御坊護持のために3つの子院(徳法寺・西福寺・願船坊)を設置する。
高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺とセットになった高松御坊(興正寺別院)
このような構想の下に、現れたのが高松御坊と勝法寺が一体となった大きな伽藍のようです。ところが「入れ物」はできたのですが、その運用を巡って問題が発生します。それは次のような2点でした。
①勝法寺が奈良から移されたよそ者の寺で、末寺などが持たず政治力もなかった。
②勝法寺は興正寺直属のために、興正寺から僧侶が派遣された。
このため讃岐の末寺との関係がうまく行かずにギクシャクしたようです。そこで、松平頼重が打った手が、頼りになる地元の寺を後見としてつけることです。そのために選ばれたのが次の2つの寺です。
①三木の常光寺 興正寺末の中本寺として数多くの末寺保有
②安原村の安養寺 阿波安楽寺の末寺ではあるが髙松平野への真宗興正派の教線拡大の拠点となり、多くの末寺保有
このふたつの寺については以前に紹介しましたので詳しく述べませんが、讃岐への真宗興正派の教線拡大に大きな役割を果たし、数多くの末寺を持っていました。そして、目に見える形で勝法寺の後見寺が安養寺であることを示すために、安養寺を高松の城下町へ移動させます。その場所は、先ほど讃岐国名勝図会でみた見た通りです。この場所は、寺町防衛ラインの堀の外側になります。これは、寺町が形成された後に、安養寺が移転してきたために外側でないと寺地が確保できなかったようです。こうして、常光寺と安養寺を後見として勝法寺は、京都の興正寺直属寺として機能していくことになります。

松平頼重は、どうしてこれほど興正寺を保護しようとしたのでしょうか。 
一般的には、次のような婚姻関係があったことが背景にあると言われます。
松平頼重の興正寺保護

しかし、これだけではないと研究者は考えています。
松平頼重の寺社政策についての腹の中をのぞいてみましょう

大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしていくことが必要だ。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか? 

具体的な対応策は?
①東讃では、大水主神社の勢力が大きい。これは長期的には削いでいくほうがいいだろう。そのために、白鳥神社にてこ入れして育てていこう。
②髙松城下では? 生駒藩時代には、祭礼などでも楯突く神社が城下にあったと聞く。岩清尾神社を保護して、ここを高松城下町の氏神として育てて行こう。そして、藩政に協力的な宮司を配そう。
③もっとも潜在的に手強いのは、真言宗のようだ。そこに楔をうちこむために、長尾寺と白峰寺の伽藍整備を行い、天台宗に転宗させよう。さらに智証大師の金倉寺には、特別に目をかけていこう。
④讃岐の真言の中心は善通寺だ。他藩ではあるが我が藩にとっても潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか? 近頃、金毘羅神という流行神を祭るようになって、名を知られるようになった金毘羅大権現の金光院はどうか。ここを保護することで、善通寺が牽制できそうだ。
松平頼重の宗教政策
潜在的な脅威となる寺社(左側)と対応策(右側)
⑤もうひとつは、讃岐に信徒が多い真宗興正派の支援保護だ。興正寺とは、何重にも結ばれた縁戚関係がある。これを軸にして、高松藩に友好的な寺院群を配下に置くことができれば、今後の寺社政策を進める上でも有効になる。そのためにも、京都の興正寺と直接的につながるルートを目に見える形で宗教モニュメントとして創りたい。それは、興正派寺院群の威勢を示すものでなければならない。
このような思惑が松平頼重の胸には秘められていたのではないかと私は考えています。

高松興正寺別院
現在の興正寺高松別院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 

空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
1日本霊異記
                                                            仏教説話集『日本霊異記』
日本霊異記とは

日本霊異記は、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、
この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。

そのヒロイン(?)が、田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)です。そのストーリーを見てみましょう。

①三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、②多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 ③広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、④広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 ⑤家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
要点を整理しておきます。
田中真人広虫女のプロフィール

①広虫女は三木郡の大領小屋県主宮手の妻であったこと
②彼女は、資産家であり、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ=高利貸)も行っていた
③広虫女は776年に、夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たち後に亡くなった。
 
広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。
罪を許してもらうため、三木寺(始覚寺に比定)や東大寺に対して家産を寄進し、息をひきとった
以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が讃岐の豪族層に浸透していたことがうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから8世紀後半の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」をテキストにして、広虫女の周辺を見ていくことにします。
広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。

古代の三木郡

ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。

三木郡田中郷
三木郡田中郷
 田中真人広虫女について「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」は、次のように語ります。
 広虫女は、宮手が住んでいる井上郷よりも南の山の方にある田中郷の生まれである。「真人」といえば少し前までは、高貴な人の力バネ(尊称)だった。「真人って言っているけど、自称らしいぜ」ど誰かが噂していたのも聞いた。それはともかく、広虫女は、馬・牛・稲・銭をはじめ、畑や田といった財産を持ち、多くの使用人を抱えていたと聞く。高貴なえらい人であるが、そのような家に生まれたからか、「がいな」女性であった。                
 ある日、私の友人が怒りながらやって来た。何事かと聞くと、広虫女から高い酒を買い、いざ飲んでみると、その酒は水で薄まっていたそうだ。集まった一同は驚愕し、友人は恥をかいたのだという。また、三木郡に住む親戚が云うには、コメなどを借リるときは小さい升を用いていたのに、返す時には大升を使って」だそうだ。広虫女のこのような話はいっぱい聞いており、取り立てがあまりにも厳しいため三木郡から逃げた人もいるそうだ。
 広虫女の仕事よりは実にせこいが、その貪欲さには脱帽である。
その姿は、最近流行の「富豪の輩」とかいうものなのだろう。寄進するだけの財産を築き上げたのは大領白身の手腕もそうだが、妻広虫女の功績もあるだろう。いろいろな噂を耳にしている。最近閣いた話だと、虫女は生前の行いから牛になってしまい、家族がその罪を許してもらおうと寺に寄進をしたというものだ。他にも広虫女は「亡くなる直前に閻魔さまに会った」という話も閻いた。実に怪しげな話だが心惹かれる話でもある。
田中真人広虫女が嫁いだのが、吉田川の下流を拠点とする三木郡の大領・小屋県主宮手です。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

 研究者が注目するのは広虫女の夫が、「県主」を名乗っている点です。県主は律令制以前において地方を統治した長のことです。ここからは、彼の一族が律令制以前の古い時代から権力を持っていた在地勢力であったことがうかがえます。ある意味では、三木郡南部の広虫女と、北部の小屋県主宮手の結婚は、地方豪族の婚姻を通じた連合を目指したものであったことがうかがえます。
 そういえば、以前にお話した山田郡殖田郷下司の舎人国足も「舎人」という姓をもっていました。舎人は名前の通り、ヤマトの大王に仕えたことを表しています。それが讃岐に帰ってきて使用するようになった姓です。舎人国足も小屋県主宮手も、壬申の乱以後は勝ち組の天武側に着いて、令国家に組み込まれて郡司となり、地域の支配権を維持したことがうかがえます。
 彼らは、在地勢力としての碁盤(財力や労働力)を持つとともに、地域の代表者として新しい知識・技術を中央政府から受け取ります。そのひとつの象徴が古代寺院でした。古代寺院の建設は、当時の最先端技術のシンボルでもあり、ステイタス=モニュメントでもありました。初期の前方後円墳のようなもので、ヤマト朝廷の認可がないと作れなかったようです。ある時期の中央貴族・寺院の保護支援を受けたものだけが取り組めるものだったのです。同時に、彼らは白村江の敗北の後の「祖国防衛」意識の高まりの中で、屋島や城山の山城建設工事を担い、東から伸びてくる南海道工事、それを起点とする条里制工事を行います。まさにヤマト政権の課す大規模工事を担う者が生き延び、郡司などになり得たのです。
 一方で彼らは、低地・湿地などの土地開発を進めます。讃岐の古代集落は、小規模で長期継続しない傾向があるようです。その背景には、農民達の生産性や自立性の低くさが挙げられます。その結果、支配者層に依存することが多かったのでしょう。広虫女や宮手は、積極的に経済活動に関与し、時として厳しい手段を用いつつ、地域経営を行わざるを得なかったのかもしれません。

夫・小屋県の氏寺が三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。
この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。三木町HPには次のように記します。
始覚寺全景 塔の下に心礎
現在の始覚寺 石塔の土台石に五重塔心礎が使われている
白鳳時代から平安時代まで続いたと考えられる始覚寺は,現在の始覚寺とその南西部一帯が寺域であったと思われる。この始覚寺跡地は北方へ高くなった南向き斜面で,ここから三木町の平地部のほぼ全景を見ることができる。まさに聖地としては最高の場所といえる。

始覚寺の礎石2
塔の心礎
 現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石(幅171cm,奥行き125cm,高さ55cmの花崗岩,中央部に直径80cmと38cmの二重の穴がある)が残っている。白鳳時代から奈良時代に建立された寺院の跡は,県下に約30か所あるといわれるが,その中でも礎石をもつ数少ない遺跡の1つである

始覚寺の礎石3

中央に径37.4cm深さ8.2cmの孔を穿つ。但し掘り込み穴はごく浅く不明確である。
 知識寺式心礎とされる。心礎は明治時代の開墾で抜取り、一時は庭石に転用されていたと伝える。
 始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。

始覚寺(三木寺)2
始覚寺寺域想定図
回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里制施工前の早い時期に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。また、この寺から出ている8世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。

夫の小屋県宮手が本拠としていたのが、始覚寺周辺の井上郷のようです。
 三木郡中央部の郷名には、井上郷の他にも、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。その語源を研究者は次のように指摘します。

井上・井閑は 「井乃倍」で、「水路や水源を拓き管理する集団(部民)」
池辺は   「伊介乃倍」は「池を管理する集団」
氷上は   「樋上(ひかみ)」で、「水路の上流、取水源」

 新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられた人工水路で、「井」や「樋」で表される水路と付け替えられた川のことを示すようです。また、出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を、長い年月をかけながら灌漑用の水路に生まれ変わらせることで姿を見せるようになった風景なのです。 

南海道 三木町農学部周辺

               南海道(赤)に併せて施行された吉田川周辺の条里制
確かに、三木郡の中央部には、碁盤の目のように整然とした条里型地割が広がっています。そこは低地と、扇状地や丘陵などの二つの地形面が見えます。その中で低地にあった農学部遺跡では、弥生時代以後に発展しません。低地(湿地)の開発は、当時の人力や技術では開発が難しかったようです。丘陵地域中心に開発が進められたことが
、始覚寺や下司廃寺や古代遺跡の分布から見えて来ます。ここでは小屋県主氏のような有力者が、郡司として労働力を組織し「井の戸」「池の戸」の低地開発を進めていったことを押さえておきます。
宮手をは、罰を受けた妻の虫女を救うために寺へ多くの財を東大寺に寄進した日本霊異記は伝えます。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

しかし、東大寺への寄進の目的は、それだけだったのでしょうか? 『続日本紀』765年の「天平神護」には次のように記します。

「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く。」

ここには讃岐の日置(叱)登乙虫が銭百万両を国家に奉納する代償として、外従五位下の爵位を得ています。銭を献上することで、官位を得ています。771年(宝亀二)には、三野郡の丸部臣豊球は、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられています。この時期になると、郡司などの地方役人の経済基盤が掘り崩されてうまみがなくなります。そのため空海の実家の佐伯直氏などの本家も本貫を京に移し、中央貴族化をめざす動きが現れることは以前にお話ししました。その兆しが見え始めているのかもしれません。
古代国家が姿を現す頃の讃岐

 ちなみに東大寺の造立は743年(天平一五)の大仏建立の詔に始まります。
これは国家の威信をかけたプロジェクトで、地方豪族の寄進も盛んに行われています。広虫女が亡くなった776年(宝亀7)頃は、大仏は完成したもののまだ本殿などは出来ておらず資金募集がされていた頃です。ここで寄付することが、自分の一族に有利になると考えたのかもしれません。また寄進には、開墾制限に対する対策としての一面もありました。自ら開発した土地の管理権を守るという目的です。いわゆる寄進系荘園のはしりです。このようなことを総合的に考えながら
宮手は、三木郡の運営を行っていたと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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