瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変遷します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
威徳院の末寺である地蔵寺には、善女龍王の勧進記録があります。そこには、次のように記されています。
善女龍王勧進記 地蔵院
善女龍王勧請記 (文化7(1810年 地蔵寺)
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
①上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに⑤龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。⑥潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、次のようなことが分かります。
①地蔵寺住職が文化七年(1810)に②財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したこと。
③これは伊舎那院管理下のもので、④祈雨祈願に効力があること
⑤それ以前に上勝間では八つ山に竜神の小社が建立されていたこと
⑥その上に⑥渓道龍王を勧進してパワーアップを図ったこと
 威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。同時に、財田の伊舎那院管理下の渓道龍王が祈雨祈願に効力があると近隣の村ではされていたことがうかがえます。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王

 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  本山寺・威徳院・地蔵院に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。
それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これは那珂郡佐文へ麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる綾子踊りに、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があるようです。
イメージ 11
綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」

     さぬき三十三観音霊場第22番威徳院勝造寺/三豊市
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)

 前回は、威徳院の歴史について次のような仮説を立てて見ました。
威徳院には史料的に中世に遡るものはない。戦国時代になってから道隆寺の末寺として建立されたのをスタートにする。それが生駒時代に藩の保護を受け、周囲の新田台地
の開発を進め伽藍を整備し西讃の教学センターとして大きな地位を占めるようになった

 ある意味、象頭山の松尾寺金光院と似ています。松尾寺も近世初頭に創建された新興寺院でした。それが、金毘羅神という流行神を祀り、天狗信仰の聖地となることで多くの修験者を集めるようになります。そして、金比羅で修行した修験者が各地に分散し、金比羅講を開き信者を組織し、彼らが先達として金比羅詣でを進めるようになります。金比羅の出発は「海の神様」ではなく、「天狗信仰の聖地」であったのです。同じような動きが高瀬の新田台地でも起こっていたと私は考えています。

「威徳院に近世以前の歴史はない」云いましたが、この寺には中世の絵図がいくつも伝わっています。これらをどう考えるかが次の問題になってきます。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院には、絵画や書跡の掛幅、屏風、扁額など135点が保存されているようです。その中には、奈良国立博物館に保管されている威徳院所蔵の中世仏画四件を含みます。その内訳を見ると、絵画90件、書跡45五件と、絵画が全体の約2/3を占めます。その伝来は、高野山や、住職の兼帯などが行われた本山寺(三豊市豊中町)からもたらされたものが多いのが特徴のようです。
この中で中世に遡るのは次の九件です。
①南北朝時代に描かれた「不動明王二童子像」
②室町時代の作として、「十三仏図」
③「十一面観音像」
④「愛染明王像」
⑤「三千仏図」
⑥「仏涅槃図」
⑦「弘法大師像」
⑧「荒神像」

大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)には①「不動明王二童子像」と②「十三仏図」を「宝物」として冒頭に記しています。ここからは、この2つが威徳院にとって特に重要な仏画と位置付けられていたことが分かります。

① 不動明王二童子像(南北朝時代(十四世紀)から報告書を片手に見ていきます。
威徳院不動明王

 右手に剣、左手に頴索を持って語々座に結珈践坐する不動明王です。頭頂に蓮華を載せ、髪を総髪にして左前に弁髪を垂らし、両眼を見開いて上歯で下唇を噛みしめています。いわゆる弘法大師様と呼ばれる図像です。背後の迦楼羅炎は、朱と金泥で全身を覆うように表され、激しい火焔が台座の下に写っているのが見えます。不動明王の肉身は群青で、頭髪や眉は金泥で線描されています。
脇侍の二童子は、床に置かれた方形の台座上に立ちます。向かって右が衿掲羅童子で、右手に蓮華、左手に独鈷杵を持ち、肉身を白色に近い明るい色の顔料で塗り、頭髪は墨の細線で描かれていて黒髪の雰囲気がよく出ています。
左が制吐迦童子で、右手に宝棒、左手に三鈷杵を握ります。躰は全身が朱色で、頭部の巻毛は金髪です。おおらかさも感じられ、制作時期は南北朝時代、十四世紀頃と研究者は考えているようです。
県内にある不動明王画像の中でも古作の一つになるようです。大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)では弘法大師筆と伝えられ「宝物第一号」とさています。大正時代には、この「不動明王二童子像」が最重要宝物として扱われていたようです。
 不動明王は修験者の守護神です。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
現在の四国霊場の多くは、このように行者たちの行場から生まれたお寺が数多くあります。行場には不動さまが祀られていました。山の上にの行場近くにあったお寺は、近世になると麓に下りてきます。本山寺などはその典型であることは以前にお話ししました。行場は奥の院として残り、そこには不動さまが今でも祀られていることが多いようです。
ここからは不動さまを祀っている寺院はかつては行場を持つ山岳(海洋)寺院であったことが推察できます。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。
威徳院十三仏図2

②「十三仏図」(室町時代(十四世紀)は三豊市の有形文化財に指定されています。
中世には、死者追善のために十三回の忌日ごとに供養を行う十三仏信仰が広がっていました。そのために描かれたのがこの仏画のようです。十三仏信仰は、鎌倉時代に中国から伝来した十王信仰をもとに、各王に本地仏を定め、忌日も増えるなどして南北朝時代頃に成立します。それぞれの忌日と本地仏は、次の通りです。
初七日忌-不動明王、
二七日忌-釈迦如来、
三七日忌-文殊菩薩、
四七日忌-普賢菩薩、
五七日忌-地蔵菩薩、
六七日忌-弥勒菩薩、
七七日忌-薬師如来、
百ヶ日忌―観音菩薩、
一周忌-勢至菩薩、
三回忌-阿弥陀如来、
七回忌-阿問如来、
十三回忌-大日如来、
三十三回忌-虚空蔵菩薩
威徳院十三仏図

威徳院の「十三仏図」は、各仏を上のように配置して、それぞれに仏の名称のほか、十王の名と忌日を二行で墨書しています。
 室町時代以降の十三仏図では、忌日順に本尊が並ぶのが多いのですが、この図は各尊像の順番が交錯する複雑な配置になっています。これは、「画面中央に位置する阿弥陀三尊や釈迦三尊などのまとまりを意識した構図とも考えられ、類例の少ない図像」と報告書は指摘します。
 それ以外の特徴としては、通常は虚空に浮かぶ蓮華座上に仏たちをを描くことが多いのですが、この図は文殊・普賢菩薩が獅子と象に騎座します。また各仏の下には、岩座や水波などの自然景が描かれます。この絵図の制作時期は、室町時代前半、十四世紀と推定されているようです。
 しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。

威徳院十一面観音像

③十一面観音像 縦100,5㎝ 横39㎝ 室町時代(十五世紀)
「十一面観音像」は、錫杖を持って立つ十一面観音の両脇に、難陀龍王と雨宝童子が配されるスタイルです。頭上に十一面を戴せて、右手首に念珠を巻いて錫杖を持ち、左手に水瓶を持って立ちます。その下側に両手で宝珠を捧げ持つ難陀龍王、宝珠と宝棒を持つ雨宝童子の二脇侍が描かれます。このような十一面観音三尊像スタイルは、奈良・長谷寺の本尊と同じで、長谷式十一面観音と呼ばれます。県内では、長谷式の十一面観音画像は非情にめずらしいようです。秘仏とされる威徳院の本尊も長谷式十一面観音像で、難陀龍王、雨宝童子の脇侍が附属する三尊像です。この図も本尊との関連性が考えられます。報告書の記述を見てみましょう
 十一面観音は、肉身を金泥で塗り、肉身線を朱の鉄線描で描き起こす。顔貌は、正面向きでやや平板化した印象もあるが、衣や光背の文様はのびやかな墨線で破綻なく描かれる。
脇侍の二尊はごく細い線で眉や頭髪を描き、顔は墨や朱などを使って表情豊かに描かれており、室町時代十五世紀に、優れた技量を持つ画家によって描かれたものと考えられる。巻留および箱の銘文から、十九世紀の前半と文久三年(1862)に、遍空と密道の二人の住職の手でそれぞれ修復されたことがわかる。
威徳院愛染明王像
④愛染明王像 縦104、2㎝横41、3㎝ 室町時代(十五世紀)
 愛染明王は、人々が愛欲、煩悩に向かう心を浄化して悟りへと導く明王です。息災、調伏、敬愛などを祈願する愛染法の本尊として信仰を集めたようで、香川県内にも数多く残されています。。
 この図は、中央に、宝瓶の上の蓮華座に結珈鉄坐する一面三目六腎の愛染明王が描かれます。その上には環路の下がった天蓋、床上には宝瓶から湧き出した宝玉や貝殻を描かれます。明王の六腎は、第一手の左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵、第二手の左手に弓、右手に矢、第三手の左手に蓮華が握られ、右手は金剛拳です。髪は怒りの怒髪で、獅子冠を戴せています。教典通りの絵柄です。
 報告書を見てみましょう
粗めの画絹の上に、愛染明王は肉身を朱で塗り、肉身線を細い墨線で描くが、描写は全体にやや硬く形式化がみられる。台座等も含めて截金の使用は見られず、衣の文様も金泥と彩色によって截金文様風に描いており、画風から、室町時代、十五世紀の制作と考えられる。巻留には、智証大師筆とする墨書があり、威徳院でも重要な仏画の一つとして伝来したものと考えられる。

⑤ 三千仏図 三幅 南北朝~室町時代(十四世紀)
 三千仏図は、過去・現在・未来に現れる諸尊の仏名を唱えることで、罪を傲悔し、功徳を得ようとする仏名会(仏名懺悔会)の本尊です。これも巻留に、宝暦五年(1755)に住職の周峯が高野山で求めたことが記されています。18世紀半ばまでは高野山に伝来していたものが、その後威徳院に伝来したことが分かります。
威徳院仏涅槃図幅

⑥ 仏涅槃図幅 縦140、9㎝ 横108,8㎝ (十五世紀)
 釈迦は、その生涯を沙羅双樹の下で終えます。釈迦入滅の情景を描いたのが仏涅槃図です。この図は、中央に右腕を枕にして宝床に横臥する釈迦を描かれます。その周りに釈迦の死を聞いて集まり、嘆き悲しむ諸菩薩や仏弟子、様々な動物たち会衆の姿があります。画面向かって左上には、知らせを聞いて天上界から飛来する釈迦の母摩耶夫人の姿も見えます。この構図が鎌倉時代以降に主流となった定形版のようです。
 仏涅槃図は、涅槃会の本尊として用いられるので、大きな寺院には必ず備えられていました。
  この図とほぼ同じものが、覚城院(三豊市仁尾町)、地福寺(丸亀市広島)などのいくつかの真言宗寺院に伝来しています。ここからは同一の絵師、または工房で制作された可能性があります。 室町時代以降、地方寺院では宗教行事のために「仏画需要」が高まります。それを受けて、絵所などで粉本を用いた仏画を数多く制作し、供給していたことがうかがえます。
 
 地福寺本の紙背には、次のように記されています。
文明三/辛/卯/十月十五日/絵所/加賀守主計/彩圓終焉屹

ここからは文明三年(1472)に絵所の絵師、加賀守主計が描いたことが分かります。威徳院のものも同じ工房で作られたとすると、十五世紀後半に加賀守主計の絵所か、またはそれに近い位置にいた絵師によって描かれたことが推測できます。加賀守主計については、史料では室町時代に、京都で活動した加賀守(加賀)を名乗る絵師がいたことが分かっているようです。
 高野山の寺院を兼帯する威徳院住職が高野山で求めて持ち帰ったのを周辺の僧侶が見て、「うちにもあれと同じものを求めてきてくらんやろか」と依頼する姿が浮かんできます。 
 この仏画にも紙背に宝永年間(1704~11)と文化11年(1805)の二度にわたって修復が行われたことを示す墨書銘があるようです。

威徳院弘法大師

⑦ 弘法大師像   室町時代(16世紀)
 画面向かって左斜めを向き、右手に五鈷杵、左手に念珠を持って背のある椅子に坐す弘法大師の姿が描かれます。その背後に、山間から姿を現した釈迦如来が描かれています。「善通寺御影」とよばれる弘法大師像です。高野山で描かれた弘法大師像には釈迦如来は描かれていません。ところが讃岐で描かれたものには、釈迦如来が描かれるようになります。
どうしてなのでしょうか?
 空海が四国の山中で修行をしていた時に、釈迦如来が雲に乗じて現れたという説話を絵画化したものとされます。鎌倉時代に讃岐に留配された僧道範が著した「南海流浪記」に、善通寺で釈迦如来の姿が描かれた空海自筆の大師像を見たという記述があります。ここからこのスタイルは「善通寺御影」と呼ばれるようになったようです。
 この様式は香川県内には、多くの作例があります。その背後には、与田寺の増吽の布教活動と重なることが指摘されています。つまり、この善通寺御影があるところは、増吽の組織していたネットワークに組み込まれていたと研究者は考えているようです。増吽の性格は「熊野信仰 + 勧進僧 + 書写ネットワークの元締め + 高野聖 + 弘法大師信仰」といくつもの要素が絡み合ってることは以前にお話ししました。そのようなネットワークの中に威徳院も組み込まれていたことがうかがえます。
 今に伝わる「善通寺御影」の作例は、どれもほぼ同じ図様です。そこからは原本となるものを、写し継いで、増吽の工房などで多数の画像を描いたことが想像できます。報告書の記述を見てみましょう。
本図は釈迦如来の描写も含めて、明快な墨線と彩色で描かれるのが特徴である。釈迦如来や岩山などの描写にやや形式化した硬さも認められることから、制作時期は十六世紀、室町時代後期と推定される。紙背の墨書から、仏涅槃図と同じ時期に修復が行われていることがわかる。
威徳院荒神像

⑧ 荒神像 縦70,2㎝ 横38、8㎝  室町時代(十五世紀)
 荒神は、仏教経典の中に出てきません。神仏習合思想や俗信的信仰の中から生まれたものです。荒神には、次の3つタイプがいます
A 相好柔和な如来荒神、
B 八面八(六)腎の夜叉羅刹形である三宝荒神
C 宝珠と宝輪を持つ俗体形で子島寺の真興が感得したという子島荒神
この荒神は、B三宝荒神を描いたもののようです。報告書を見てみましょう。
 本面の左右に脇面、頭上に五面を戴いた八面で、いずれも怒髪の忿怒形で怒る姿が描かれている。第一手は胸前で合掌し、第二手は左手に宝輪、右手に羂索、第三手は左手に弓、右手に矢、第四手は左手に三叉戟、右手に三鈷戟を持ち、火焔を背にして荷葉座に坐す。
荒神の肉身は朱で塗り、輪郭は肥痩のある墨線で描く。持物の一部や座具の縁には截金を施し、頭髪や眉を金泥で筋描きするほか、装身具や衣の文様なども金泥で描く。粗い目の画絹に素朴だが伸びのある描線で描かれており、火焔などの彩色には細やかな輦しも見られる。制作時期は、室町時代、十五世紀前半と考えられ、県内でも類例がほとんど見られない中世の荒神画像として貴重である。

  威徳院に伝わる中世仏画を見てきました。ここから推測できることを挙げておきます
①江戸時代の威徳院の住職は、高野山のお寺と兼帯する者が増え。その関係からか高野山からの伝来を伝えるものがいくつかある。
②「十三仏図」「仏涅槃図」「弘法大師像」「荒神像」「十一面観音像」などは、年間の宗教行事の「開帳」のために必要なもので、後世に必要に応じて購入伝来した可能性が高い
③「不動明王二童子像」「愛染明王像」などは、密教系修験道に関係するもので、威徳院の本源的な姿を伝えている。

   以上から威徳院に残された中世仏画類が威徳院の中世の歴史を伝えるものとは、必ずしもいえないことがうかがえます。「威徳院近世出現説」を葬り去ることはできません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2


   生駒藩にて取り立てられ、家老までになったのが三豊の三野氏です。上図は生駒藩時代の高松城の本丸周辺に配置された重臣たちの屋敷図です。⑦が「三野孫之丞」の屋敷です。生駒家の親族たちと比べても見劣りしない広さです。そして5000石の高級取りでした。
さて、三野氏とは何者なんでしょうか?
三野氏のことについては、私はほとんど知りませんでした。秋山氏や生駒氏のことを見て行くにつれて気になりだしました。一度、その「発生から消滅」までをまとめておきたいと思います。テキストは高瀬町史 高瀬町域の武家と生活 三野氏 133Pです。
 三野氏のことが最初に記された史料は『吾妻鏡』のようです。
源平合戦で、いち早く平氏を見捨てて、京都に上り源氏方に加勢する讃岐武士のグループのことは以前にお話ししました。下の氏名一覧が、この時のメンバー表です。

讃岐の御家人 吾妻鏡
讃岐國御家人 
注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日
①は古代綾氏の系譜をひく讃岐藤原氏の統領で、リーダー的な存在だったのでしょう。
古代綾氏は、阿野北平野を拠点に勢力を伸ばし、国府を府中に誘致し、その後は国衙の在庁官人の中心的存在になります。菅原道真が国司とやって来た時代にも、郡司兼在庁官人として出仕していたことが史料からも分かります。そして、讃岐最大の武士集団に成長し、中世には讃岐藤原氏(藤氏)を名乗るようになるのは、以前にお話ししました。つまり、国衙の在庁官人のトップが平家支配を嫌って、一族を率いて源氏方に走ったのです。
その中の⑤⑦に三野氏の名前があります。
⑤三野首領盛資は「首領」とあるので、三野郡の郡司
⑦三野首領太郎以下は、郡司盛資の息子や一党
三野家文書には、自らを綾氏の末裔と記します。つまり讃岐藤原氏の一族であるという意識を持っていたことがうかがえます。古代の綾氏は阿野郡を拠点に鵜足郡・多度郡へと勢力を拡大していったようです。12世紀には、多度郡郡司に綾氏の名が見られます。中讃を拠点に西讃にも勢力を伸ばし、三野郡の郡司を代々務めるようになり、その一族が三野氏を称するようになったとしておきましょう。三野氏の郡司としての活動ぶりは分かりませんが、源平合戦ではその動向が『吾妻鏡』に記されているので武士化したことはうかがえます。

讃岐国絵図天保 三野郡
讃岐国絵図 天保版の三野郡 
 源平合戦の際に、いち早く平氏から源氏へと移り、勝ち馬に乗り換え、頼朝の御家人となった14人の武士達は、恩賞を受け、所領を安堵され、在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになります。三野氏も三野郡の勢力基盤を確保し、勢力拡大を果たした筈ですが史料的な裏付けはできません。その後は戦国期まで、三野氏は史料には登場しません。

1永正の錯乱

戦国期の三野氏 
 管領兼讃岐守護の細川政元が永正四(1507)年に香西元長などの家臣によって暗殺されます。後継者をめぐって、細川一族、家臣の間で争乱が起こり、讃岐も戦国時代に突入します。これが「永正の錯乱」という政治混乱です。このなかで、秋山氏は阿波守護家出身の澄元方についていることが分かります。秋山家文書の中に阿波守護家の重臣一宮賢長から、当時の秋山家の頭領・秋山源太郎にあてた書状が二通あります。そこに三野氏が登場します。
 阿波守護家から秋山源太郎に対して、三野氏が澄元へ味方する意思を示したならば、同道して一宮のもとに参上するよう促しています。またもう一通は、阿波守護家は秋山氏も三野氏も決して扱いをなおざりにするものではない。合戦で馬廻の者が多く死傷してしまったので、使者を立てられないが、直接会って申し上げると述べています。秋山氏を通して三野氏も阿波方の味方に引き入れようとしていることがうかがえます。この時点では、三野氏も秋山氏と同じように西讃守護代の香川氏の配下には入っていなかったことが分かります。

高瀬下勝間地図 
下勝間のエリア
戦国時代の三野氏の拠点は、どこにあったのでしょうか。
善通寺から大日峠を越えて西進する南海道と、鳥坂峠から南下してくる中世の伊予見大道が合流するのが現在の国道11号の六つ松です。この合流点の西側の小高い丘の上に城山神社があります。
ここに勝間城があったとされます。

1勝間城

 ちなみに勝間城跡の候補地としては、県の調査報告書ではここよりも、隣にある②威徳院の西の院跡を候補地(③勝間城)として次のように述べています。

DSC06244勝間城・威徳院
「周囲より10m高い小山で、頂部は広い平坦地になっている。傾斜のゆるい北側には幅6~10mの細長い平坦地があり、西端は土塁状になっている。また南西端にも土塁状地形が続くが、池が決壊したときのための堤防という話も聞かれた。」

私もここを押したいと思います。かつての城郭があった丘の上に、柞原寺に代わる新たな菩提寺が江戸時代になって建立されたとしておきます。
 「全讃史」には
「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」
とあります。
三野氏は代々、この山城(勝間城)を拠点に勝間を支配した。三野菊右衛門は、その末裔であるというのです。地元では「勝間を支配した三野氏の居城があったのが、ここだ」とされてきたようです。『西讃府志』には城主名は無く、戸慶城とだけ記されています。
 西讃府志には16世紀初頭のこととして、詫間城の項目に詫間城城主に詫間弾正を挙げて、その後に「三野大炊頭城」と記します。ここからは、三野大炊頭が所領を没収された後に、詫間氏が城主となったことがうかがえます。中央の細川家の騒乱に際して、勝ち馬に乗りきれないと「所領没収」という羽目になります。三野氏は、この時に詫間の所領を失ったようです。

三野津5
 中世の三野湾の湾入状態
その後の動きを三野文書と秋山文書で追ってみましょう。
秋山文書の永禄四(1561)年の書状は、天霧城主香川之景が秋山兵庫助にあてた知行宛行状です。ここには秋山氏の所領であった三野郡高瀬郷水田分と守利名が、三野氏の所領になっているが、それを秋山氏に返付するというものです。ここで奉行的役割を果たした者として、三野泰佐、三野菊右衛門の名が見えます。香川之景の感状に「詳しくは三野菊右衛門が口頭で申す」と記されています。ここからは、三野氏が香川氏の重臣として活動していたことがうかがえます。

1563(永禄6)年8月7日の三野文書には、次のような内容が記されています。
 天霧城主・香川之景が、三野菅左衛門尉に阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の働きを賞し、河田七郎左衛門尉に扶持していた領地を本知行地として返還し、また作原寺分を返付することを約す

 そして翌年1564(永禄7)年5月13日には、約束通り、香川之景が三野勘(管)左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返し与えています(三野文書)
 鴨村というのは、 近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村と記されているので、柞原寺周辺にあった村のようです。これが30年前の大炊頭の時代に没収された所領のようです。失った所領を香川氏の下で取り戻したことになります。

永禄七年の三野文書に見える勘(菅)左衛門は、菊右衛門の父になるようです。
 「全讃史」の 「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」という記事は、一次資料で裏が取れます。三野菊右衛門は「三野大領の末裔」のようです。
 以上から、三野氏は、郡司時代には詫間を拠点にして、中世には詫間城を居城していたのが、内陸へも所領を拡大し、その一族が勝間にも入ってきて拠点を構えた。それが勝間城だったというストーリが描けます。

また帰来秋山家文書には、1577(天正5)年2月13日付けの次のような書状があります。
 香川信景が秋山帰来源大夫親安に高瀬郷のうち帰来分および近藤出羽守知行分の地を宛行い、奉行三野菊右衛門尉に、この旨の申し渡しを命じる

これは香川信景の知行宛行状で、秋山源大夫に知行を宛行うものです。その使者となっているのが奉行三野菊右衛門で、ぬかりなく忠勤を励むように伝達を命じられています。また、その際に作成された知行日録には、三野方一町三反とあり、三野氏も所領を獲得したことが分かります。その後も三野氏は、香川氏の奉行として活躍したようで、三野菊右衛門は、勝間城主と記されています。
 三野菊右衛門は天霧城主香川氏に仕え、その奉行(重臣)として活動していることが分かります。逆の視点で見ると天霧城主の香川氏は、周辺の三野・秋山・河田氏などを家臣団へと組織化して、急速に戦国大名へと変身していたことがうかがえます。

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柞原寺とその向こうに爺神山
柞原寺は、三野氏の氏寺?
近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村が記されています。鴨村は現在の高瀬高校や杵原寺があるエリアにあったようです。柞原寺には境内に鎌倉期に建立された石造宝塔が残され、かつては方八町の大伽藍を有していたという伝承があります。これは大げさにしても『西讃府志』には、林三町五反を持っていたと記されます。

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柞原寺
 実際に柞原寺背後の林を造成して高瀬高校を建設中に、山林の土中から五輪墓石数十基が出土しています。戦国期の戦死者をとむらつたものと伝えられます。三野氏のものかもしれません。どちらにして、現在の柞原寺から高瀬高校一帯が境内で、それが三野氏の菩提寺であったとしておきます。柞原寺は、その背後に甘南備山として信仰対象でもあった爺神山を望む「遙拝所」であったと私は考えています。秋山氏が本門寺を保護したように、三野氏も柞原寺を保護したのでしょう。

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柞原寺
長宗我部元親の讃岐侵攻直前の三野郡の情勢を見ておきましょう。
①高瀬郷 秋山氏
②勝間郷        三野氏
③詫間郷 詫間氏
④熊岡(比地)郷帰来秋山氏
⑤麻郷    麻近藤氏
  当時の中讃から三豊にかけての勢力対立は、次の2勢力でした。
A 戦国大名化する天霧城の天霧山
B 讃岐全域を支配下に置こうとする阿波の三好勢力
三野郡の①~⑤の武士団の棟梁たちも、AかBのどちらに付くかの選択を求められることになります。Aの香川氏の外交方針は一貫しています。それは「反三好」です。主君である細川氏を下克上で追いやった三好氏は許せないという感情論もあったでしょう。讃岐に侵攻してくる三好に対抗するためにどうするかが香川氏の外交方針です。そのために、あるときは信長と組み、後には毛利に頼り、そした最後に長宗我部元親と同盟するのです。香川氏が目指したのは「反三好」戦線の構築です。

1細川氏と三好氏

 一方、香川氏の勢力に反発を抱く者は、阿波三好勢に頼ります。
例えば、⑤の近藤国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。こうして次のような関係ができます。

 長宗我部元親=天霧城の香川氏 VS 阿波の三好氏=麻近藤氏

これを香川氏の目から見ると、三好氏についた讃岐の武士団は敵なのです。


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「南海通記」などの軍記物は、幕藩体制も固まった江戸時代中期になって書かれました。そのため各藩ごとの「郷土愛」で彩られ、長宗我部元親の侵攻を土佐軍と讃岐防衛軍の戦いという「郷土防衛戦争」の視点描いています。そこでは、最後まで抵抗する香西氏や東讃の武将に共感が働き、抵抗せずに降伏した香川氏は「悪者」としての役割を与えられています。読んでいて、土佐軍に果敢に抵抗する藤目城などに、どうして援軍をおくらないのか。同じ讃岐人として恥ずかしくないのか・! というような感情がわいて来ます。
 しかし、さきほど見たように、香川氏の基本的な外交戦略を思い返すと、その反発は的外れなことに気付きます。長宗我部元親と香川氏は「反三好」で利害が一致するのです。
そして長宗我部氏も香川氏も、かつては細川氏の臣下だったのです。
阿波三好氏との戦いは、主君細川氏のともらい合戦という大義名分もついてきます。香川氏は早い時期から長宗我部元親との同盟締結を模索していたと私は考えています。それは元親配下の修験者たちによって密かに進められていたと想像します。だから、香川氏は、土佐軍の侵入に対しても援軍を送らないし、動かないのです。近藤氏や本目・新目氏たちは、かつて三好氏の先兵として天霧城を取り囲み、その後も小競り合いを続けて来た敵なのです。それを土佐軍が「駆除」してくれる。その長宗我部元親と手を組むのは自然です。これは「降伏」ではなく「同盟」なのです。当初は「秘密同盟」であったかもしれません。
 そういう目で土佐軍が焼き討ちを行ったとされる所を見てみると。阿波三好方についていた武士団の拠点が多いことに気づきます。観音寺や本山寺、弥谷寺などの寺院は、焼き討ちを受けていません。それは、香川氏の勢力範囲だった所です。そういう意味では、三野氏の氏寺である柞原寺も戦禍にはあっていないと思うのですが、なぜか焼かれたと寺伝は伝えます。これも金刀比羅宮と同じで、長宗我部元親を嫌う機運が高まった結果かもしれません。そして、長宗我部側と戦った近藤氏などの所領は没収されます。

 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領として麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬などが挙げられています。これはかつての近藤氏の所領でした。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったのです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が移住・入植してきました。

香川氏が長宗我部元親に降って同盟関係を結んだ仕上げに、元親の次男親和が香川氏の養子に入ります。
その見返りの人質として岡豊城に入ったのが三野菊右衛門です。土佐へ移った香川信景・親和父子のその後の動向は、どうだったのでしょうか?
 岡豊城の近くの東小野という所に、屋敷を宛がわれたようです。『長宗我部地検帳』には「香川殿様分・香五様分」などと記されている土地があるようです。香川殿様は香川信景、香五様は香川五郎次郎(元親次男)のことです。ここからは、長宗我部氏から知行地を与えられていたことが分かります。この隠居地で晩年を過ごしたようです。
  一方、土佐へ赴いたのは香川氏父子だけではなかったようです。
『地検帳』には、三野・河田(川田)・詫間・山路・観音寺などの名前が見えます。これは香川氏の家臣です。その中の三野菊右衛門・河田七郎兵衛は、信景が元親と和議を結んだ際に人質として土佐へ赴いた人物です。ここからは香川氏の家臣の多くは土佐へ亡命し、そこで所領を与えられたことが分かります。戦いで敗れて逃げ落ちたかつての同盟軍のものたちを、元親は迎え入れています。多くの者は新しい領主山内氏のもとで帰農していったのでしょう。
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生駒親正
 秀吉によって讃岐領主に指名されたのは生駒親正です。
親正が秀吉から命じられたのは「次は九州平定で、その次は朝鮮出兵じゃ、それまでに船と兵をそろえておけ」ということです。水軍強化と兵士増強が最重要課題でした。そのために手っ取り早いのは、任地讃岐の讃岐の武士を家臣に取り立てることです。香西氏の家臣達をはじめ、数多くの土豪たちが取り立てられます。
 親正の子である一正に取り立てられたのが、三野四郎左衛門です。香川氏の重臣であった三野菊右衛門の息子です。彼は土佐に行かず三豊に残っていたようです。若き一正と共に、対馬海峡を越えて朝鮮出兵に従軍しています。讃岐武士団の登用は、朝鮮出兵の動員兵士を確保するためでもあったことが分かります。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺)
 関ケ原の戦いに生駒家は、父親正は西軍に、子一正は東軍について戦います。この時も、三野四郎左衛門は一正に従って関ヶ原で戦います。この時に四郎左衛門は、大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めることになります。讃岐出身者としては最高の出世者です。こうして生駒藩の中で三野家は押しも押されぬ存在になっていきます。

三野氏は、見てきたように中世の三野郡司の出身で国人領主でした。
そのため地元の勝間では、多くの作人を支配し土地耕作を行っていたと考えられます。特に生駒藩では、「自分開」の新田開発が認められていました。自分が開発した新田は自分の領地となるというのです。そのため有力者は百姓たちを使って周辺の未開地の新田開発を進めます。またこれを聞いて、周辺の国々からも資金力のある土豪や帰農を目指すかつての武士団の一族がやってきて開発を進める光景が至ることろで見られたようです。その筆頭に立っていたのが家老職にあった三野氏です。
 こうして三野氏の拠点である勝間では、新田開発が急速に進められていきます。三野四郎左衛門の息子の孫之丞は、700石もの「自分開」を持っています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。この広大な新田を、どのようにして拓いたのでしょうか。これはまた次回に・・・
以上をまとめておくと
①三野氏は、綾氏出身で三野郡の郡司と在庁官人を兼務する有力者で、次第に武士団化した。
②源平の戦いの際には、平家の支配する讃岐国衙を捨てて、京都に上り源氏方に付いた「讃岐在庁官人グループ」の一員ともなった。
③これによりいち早く源氏の御家人となったメンバーたちは、その後の留守所でも大きな政治力をもつことになった。
④三野氏は、その後も三野郡で勢力を保持していたが16世紀初頭の細川家の内紛で、詫間城や勝間郷の権益を失った
⑤その後、天霧城の香川氏の重臣として活動し、勝間城を拠点に勢力を伸ばした。
⑥三野氏の菩提寺は、柞原寺が考えられる。
⑦香川氏が長宗我部元親と同盟を結ぶと、三野菊右衛門は人質として岡豊城に入るとともに、残された一族は東讃侵攻の先兵としても活躍した。
⑥生駒氏の下では、三野四郎左衛門が生駒家二代目の一正に登用されて、関ヶ原の戦いで大殊勲をあげ、その戦功で5000石の家老にまで出世した。
⑦生駒家の文書には、西嶋八兵衛と並んで生駒家の主の名前が並ぶものが数多くある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献 高瀬町史  高瀬町域の武家と生活 三野氏 133P
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