瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:宇多津

都市―ローマ人はどのように都市をつくったか』|感想・レビュー - 読書メーター

善通寺市の旧練兵場遺跡群の報告書を読んでいて「古代の都市的景観が、ここには現れている」という表現に出会いました。私の愛読書のひとつが上の「絵本」なので、「都市」と言われるとローマやギリシャの古代都市国家を、イメージしていまいます。しかし、どうも編者の伝えたい内容とは違うようです。讃岐の「古代都市」とは、何なのでしょうか。それを今回は追いかけて見ます。テキストは「阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
 古代都市の条件として、研究者は次の3つの条件を挙げています。
①政治的中心機能
②経済的中心機能
③文化的中心機能
  たくさんの人が住んでいるだけでは都市とはいえないと云うのです。これには耳が痛い地方都市があるかもしれません。③の「文化的中心」が見当たらない地方都市は、たくさんあるように思えます。

中国の咸陽や長安に似せて作られた平城京や平安京は、日本を代表する古代都市ということになります。
これらは都城とも呼ばれ、天皇の居所、政治の場であった官と、官人らが住む京から成っていました。京には官人の住居のほか寺院や市もあったので、政治・経済・文化の中心機能を持っていました。
それでは、讃岐はどうでしょうか?

讃岐国府跡復元図2

讃岐にも現在の県庁に当たる国衙が置かれていました。国衙は国司が行う政治の場であり、その近くに国司館や国分寺・国分尼寺などがあり、市も置かれていました。国司の数は、国の規模によって違いますが、守・介・佐官・目を合わせ、小国でも20人、大国では70人くらいはいたようです。さらに、彼らの家族や国分寺・国分尼寺の僧侶たちもいたので、ただの村でなかったことは間違いありません。
讃岐の国衙は、発掘によって坂出市府中町にあったことが確実視されるようになっています。開法寺周辺を中心に官衛らしきエリアがポツンポツンと散在していたことが分かっています。これも「古代都市的景観」のようです。
讃岐国府跡 4
讃岐国府の位置と構成

 讃岐の中世都市の成立
律令制の崩壊とともに平安京は衰退し、右京は廃絶して田園化してしまいます。代わって院政期なると鴨川沿いの白河に政治の中心が移っていきます。そうすると左京から白河にかけて、「平城京から京都へ」と新たな都市として京都は再生します。同じ頃に、筑前(福岡県)の鴻櫓館(迎賓館)とともに日本の国際交流の拠点だった博多津が国際港湾都市に生まれ変わり、唐人たちが居留する唐坊と呼ばれるチャイナタウンも登場するようになります。
この時代の讃岐国衙は、どうだったのでしょうか?
国衙遺跡存続表1
国衙の存続期間

国衙は10世紀頃に廃絶するところも出てくることは以前にお話ししました。しかし、政務を請け負った現地の国司(受領)らが、それまでの国衛を留守所と呼ばれる役所に再編し、一国支配の拠点とします。留守所の多くは13世紀半ば頃には、鎌倉幕府が任命した守護に政務の主導権導権を奪われ、守護館を中心とした府中と呼ばれる都市域の中に消えていった所が多いようです。もちろん留守所と守護館が別の所にあったこともあり、そこでは留守所の廃絶後、守護館を中心に新たな政治都市が形成されることになります。
讃岐国府跡建築物との比較
           讃岐国府跡の遺跡消長表
 

上表の坂出国府跡遺跡でも、建物の数は減りますが11世紀中頃までは機能していたことが分かります。綾氏などの武士化していく在地勢力は留守所を拠点としていたようです。
 このほか、院政期に整備された諸国の一宮(各国の中で最も社格の高いとされる神社)を中心に宮中という都市が成立する所もあります。宮中は府中とともに鎌倉期の地方都市の代表でした。こうしてふたつの都市が地方に見られるようになります
①府中 守護館を核に守護の菩提寺・家臣屋敷を伴う
②宮中 一宮を核に神宮寺や神官たちら屋敷を伴う
府中や宮中は、国府津の港町を支配下に置き、さらに街道沿いに成立した宿も緩やかに掌握するようになります。
 讃岐の一宮は田村神社(高松市)、伊予は大山祇神社(今清市)、備前は吉備津彦神社(岡山市)、備中は吉備津神社(岡山市)です。田村神社周辺にも「宮中」的なものがあったのかもしれません。
しかし、府中・宮中はまだまだ隙間だらけの都市でした。
府中は守護館・菩提寺・家臣屋敷を中心に一定のまとまりを持っていました。しかし、経済集落である宿・町や港町とは、離れていて一体化はしていなかったことは前回にお話しした通りです。宮中も一宮・神宮寺・神官屋敷などが一定のまとまりを持っていましたが、宿や港町は少し離れて存在しました。門前町と呼ばれる段階ではなかったようです。

 中世都市の発展と宿・町と市
鎌倉幕府が成立し、鎌倉が東国の首都として発展すると、京都と鎌倉を結ぶ東海道の重要性が増します。2つの中心都市の間を輸送される物資が増大し、往来する武士や公家・僧侶・百姓なども増加するようになります。京都と鎌倉の間には、いくつかの府中や官中がありました。その間に宿と呼ばれる町場が次々と成立します。これは山陽道や南海道でもおなじです。鎌倉時代になると、京都と各地の府中・官中の間に宿・市が相次いで姿を現します。

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『一遍上人絵伝』に描かれた備前福岡の市の賑わい

福岡の市は山陽道が吉井川を渡る地点にありました。立ち並ぶ市小屋の中には米・布・魚や備前焼など様々な商品が並べられています。武士・僧侶・商人・旅人・子どもをはじめ多くの老若男女が描かれて、市の開催日の賑わいのさまが伝わってきます。

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          備前福岡の市(拡大)
この絵が描かれた13世紀末頃は、月に3度開かれる三斎市が中心でした。それが15世紀になると、六斎市になって開催日が倍増するようになります。市日でないときの市場は、乞食や犬・鳥が描かれていて、閑散とした様子が強調されています。もっとも市と宿・町とは別物でした。河原に立っている福岡の市とは別に、山陽道の道沿いに福岡の宿があった研究者は考えています。
 こうした市や宿・町が13世紀以降、各地に次々と立てられるようになります。讃岐でも、港周辺や街道の交流点などには、このような市が立っていたはずです。さらに時代が下ると市は、町に発展していきます。同時に、瀬戸内海沿岸部の港町も、その数を増していきます。
5 居館・城郭と宿・町・市
鎌倉幕府は東国武士が源頼朝を担ぎ上げて、東国に成立した武士政権です。承久の乱などを期に、東国武士の一族が西日本に守護や地頭としてやってくるようになります。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
武士の居館

彼らは征服者として東国にいたときと同じように、地域の要となるところに居館を構え、その周辺に一族・家臣を配置します。そして、周辺にある宿・町・市に寄生する形で経済的な優位性を確保しようとします。同時に土器川などの氾濫原などの未開の荒野の開発を進め、地域の支配者として定着していきます。
 そのような中でも守護としてやってきた有力な東国武士の中には、国府の近くに守護所を建て、周辺に一族や家臣を配置し、国府ゆかりの工人や商人を自己の支配下に編入していきます。さらに近隣の街道沿いの宿・町・市や港町を緩やかに統合し、菩提寺なども建立します。こうして武士の居館を中心に、府中と呼ばれる都市が姿を見せるようになります。
府中城 - お城散歩
国府のあった跡に築かれた中世の府中城(茨城県石岡市)
 守護の本拠である府中は15世紀前後に充実期を迎えます。
14世紀の山口市の大内氏館跡 再現CG 友森工業7 - YouTube
大内氏館
その代表が、周防・長門の守護大名の大内氏館(山口市)です。館内には立派な庭園を設け、隣には迎賓館として利用されたとされる築山館を伴い、街道沿いには町も発展していました。また、豊後守護大友氏の館は大分川河口近くの府内(大分市)にあり、庭園跡や遺物が出土しています。

6宇多津2
   中世宇多津の復元図 多くの寺院が青野山の麓に並ぶ

 讃岐守護の細川氏の館は、青野山の麓(香川県宇多津町)にあったようです。
将軍義満の信頼を得ていた細川頼之が失脚したときに、一時的に宇多津に留まります。しかし、その他は幕府管領として在京することが多く、宇多津にはほどんどいませんでした。国元の支配を守護代に委ねていたため、宇多津が「府中」として発展することはなかったようです。
6宇多津1
中世宇多津復元図
 戦国城下町の成立と発展
 16世紀になると戦国大名と呼ばれる地域権力が登場します。彼らは守護大名より進んだ支配方式を取り入れるようになります。それが、防御に強い山や台地などに城郭を築き、その城下に一族・家臣団を集めるという方式です。こうして、いままでの宿・町・市に加えて、新たに新宿・新町と呼ばれる町の建設を行い、城下町を地域経済圏の中心に置いた経済政策が進められるようになります。こが戦国城下町の登場です。大内・大友・河野氏らは守護から戦国大名化し、府中を戦国城下町に発展させます。しかし、讃岐では先ほど見たように管領細川氏の被官で京都に在勤することの多かった安富氏や香西氏などは、本国経営がおろそかになり戦国大名化が進まず、本格的な城下町も出現しませんでした。一部、讃岐守護代の香川氏にその動きが一部見られる程度のようです。
太閤検地 タイムスリップ
近世城下町の出現 検地や刀狩りの中で進みお城造り
 近世城下町から近代都市へ
16世紀末~17世紀初の戦国時代から天下統一・江戸幕府成立の時期になると、生き残った大名や新規に取り立てられた大名が、藩づくりのために城と城下町の建設・改変をセットで進めるようになります。この時期の城下町建設ラッシュによって、姫路・岡山・福山・広島・小倉・高松・丸亀・今治・松山など、瀬戸内海の主要都市の配置ができあがります。

野原の港 俯瞰図イラスト
中世の野原(現高松)復元図
 高松城とその城下町は、16世紀末に讃岐にやってきた生駒氏が中世の港町である野原の上に建設したものです。生駒氏の後、松平頼重が高松12万石の大名になり、城と城下町を改修して近世城下町高松を完成させていくことは、以前にお話ししました。

6 高松城 天守閣2
取り壊される前の高松城天守
城下町は、明治になると廃藩置県で城が廃止され、その主人である武士がいなくなると、衰退するところも出てきました。
しかし、多くの城下町の場合、城跡に県庁・市役所などの役所、学校、図書館、軍隊などの公共施設が建設されます。それらの施設が核となって新たな活力を都市に与え、城下町を近代都市に再生させていくエネルギー源のひとつとなります。瀬戸内の都市の多くは、こうして時代の変化に対応しながら生き残り、発展してきたのです。
丸亀連隊 明治38年
      明治以後の丸亀城大手町は、陸軍がいた。

以上をまとめておくと
①中世には、市、宿、哺、泊、津、境内、門前と呼ばれる場所が、流通や宗教などの機能と補完し合う形で存在していた。
②これらは1か所に密集していたのではなく、分散しながらも緩やかに連携しあって「都市的場所」を形成していた。
③近世になると、それがら城下町に取り込められて城下町などに再編成される。
④城下町は、それまでの都市的空間をいくつも取り込むことで、巨大化した。
⑤明治維新になり、城下町から武士はいなくなったが、それまで通りの政治的中心機能を維持することで、地域社会の中心で在り続けることができた。
⑥それが高度経済成長期やバブル崩壊を機に、地方都市はふたたび厳しい時代を迎えている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会

   瀬戸内海の港について、これまでに何度もお話ししてきました。しかし、大きな流れの中で捉えることは出来ていませんでした。そんな中で瀬戸内海の港町の歴史をコンパクトにまとめている文章に出会いましたので、「読書ノート」としてアップしておきます。テキストは「市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海」です.

瀬戸内海

 
港と言われると、船が入港して停泊する場のことを思い浮かべます。しかし、古代には港という言葉は使われず、「水門・津・泊・船瀬」などの語が使用されていたようです。それぞれを見ておきましょう。
  水門は「水戸や江戸」と同じで河口にできた船着き場のことです。
その「みなと」が漢字で表記されて「湊」になったと研究者は指摘します。紀の川の河口に立地する和歌山市の一角に「湊村」があります。これは城下町になる前の和歌山が、港・湊を基礎に発展してきた例のひとつです。

津は川や海に面した湾・入江に成立した渡し場、船着き場を指す言葉でした。

宇多津地形復元図
中世宇多津復元図(聖通寺山との間に大きな入江があった)

宇多津は、大束川の河口とそれを包み込む湾にありましたので、宇多津と呼ばれたようです。袋状の湾からなる兵庫県の室津や広島県福山市の鞆の浦は津の代表です。

泊も湊・津と同じく船の着岸する場を意味します.
しかし、重点は停泊地という側面にあるようです。
福原京と大輪田泊(おおわだのとまり) | 自然に生きる
大輪田の泊と福原京
泊は、平清盛が整備した大輪田の泊(神戸市)がその代表になります。清盛が整備した港に、音戸の瀬戸(広島県音戸町)がありますが、ここは倉橋島との間の水道があります。尾道や瀬戸田も水道に成立していて、瀬戸内海の港湾のひとつの特徴のよううです。
 10世紀に編纂された『延喜式』には、主として川湊を指す言葉として船瀬が見えます。しかし、時代が下ると次第に、湊・津・泊の違いはなくなっていきます。中世後半には、どれも区別なく港湾を指す言葉として使われ、江戸期以降には港の表記が一般化します。

以上を整理しておきます。
①古代には「港」は使われずに、「水門・津・泊・船瀬」が使用されていた
②中世後半なると、その区別がなくなった
③江戸期には「港」が一般化する。
 港が登場したのは、いつなのでしょうか?
人々が生活のために川を渡り、海に漕ぎ出すことが多くなれば、船の発着する場が必要になります。縄文時代には丸木舟・刳り舟が登場するので、自然地形を利用した原初的な港があったはずです。
弥生時代の船-大航海時代のさきがけ- : 御領の古代ロマンを蘇らせる会
弥生・古墳時代の船
 弥生時代になると、刳り船の他に準構造船も現れます。倉敷市の上東遺跡では、船着き場らしい遺構も出てきていますが、その数が多くないので分からない事の方が多いようです。
古墳時代になると、讃岐から播磨や摂津に古墳の石棺などが運ばれています。ここからは物資輸送のために、大きな準構造船が瀬戸内海を往来していたことが考えられます。また、漁携や小規模な物資などを運ぶ小さな船も瀬戸内海を行き来していたのでしょう。当然、そこには船が寄港する港が各地にあったはずです。それは、大きな古墳に葬られる首長が管理る港から、民衆が日常的に使う地域の港まで階層性を持って、海岸線にあったと思います。この時代の船着き場や遺構は、残っていまでんが、河口や入江などに造られていたと研究者は考えています。

律令制の時代になると、瀬戸内海では海運・水運がかなり発展していたようです。
律令国家は最初は、陸運を重視する政策をとって、平城京や平安京を中心に7つの幹線道路が整備されます。そのうち瀬戸内地方では、
①中国地域南岸を東西に走る山陽道
②淡路島から阿波・讃岐・伊予を通って土佐国府に通じる南海道
南海道はのちに四国山地を横断するルートが開かれますが、これらの幹線は、畿内と各国の国府を結び、街道沿いにはは駅が置かれ、馬やその飼育に当たる人、宿泊・休憩施設などが設けられました。国司や朝廷の使者の移動、調庸をはじめとする貢納物輸送などに使用されていました。

5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(
鎌倉時代の船

律令制が崩れる10世紀以降になると、地域の実情に応じて柔致な交通路の選択が許されるようになります。

そうすると、瀬戸内海沿岸では便利で安価に物資や人を大量輸送できる海運・水運が改めて評価されるようになります。こうして、ほとんどの京都への貢納品は船で運ばれることになります。
どんな港が瀬戸内海沿岸には、現われたのでしょうか?
第一は、国府津・国津などと呼ばれる国衙管理下の公的な港です。
これらの港は、留守所と呼ばれるようになった国衛保護のもとに、山陽道・南海道の最大の港になっていきます。そこには石積で築かれた船着場や、船の発着を管理する人や施設、物資を保管する倉庫なども姿を見せるようになります。後には、隣接して市が建てられるようになります。
6松山津
讃岐国府津の林田・松山
讃岐の国府津のついては、綾川河口の林田や松山などに、機能を分散させながらあったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
第二は、郡単位に置かれた郡衛の付属港です。
律令制が崩れると郡衙も変質し、国司の子孫や武士化した郡司の子孫らが管理・運営するようになります。彼らは国府津に準じて沿岸部や河川の郡の港を整備し、船着き場や管理施設を持つ港も現れます。この例としては、多度郡の弘田川河口の白方湊や、三野郡三野湾の三野津が考えられます。
宗吉瓦窯 想像イラスト
三野津(宗吉瓦窯から藤原京への積みだし)
第三は、荘園の港です。これは11世紀以後のことになります
11世紀の院政期になると、院・天皇家や有力公家・寺社に荘園が寄進され、各地に荘園が増えます。荘園の年貢を京都の領主に輸送するためは、その積出港が必要になります。例えば、当時の国際港湾都市であった博多の西にある今津は、博多に対す新しい港であることを意味する名称です。、ここは12世紀に仁和寺領恰土(いと)荘(福岡市)の港として設置されたものです。

 尾道は、12世紀に後白河院を本家とする備後国大田荘(広島県世羅町)の倉敷(倉庫の敷地)に指定されたのが、港に発展する出発点です。こうして、そこに本家の氏神が勧進され、保護を受けた寺院が姿を現します。そして本家からの保護を受けた寺社は、港の交易センターの機能を果たすようになります。僧侶は、港や交易ネットワークの管理者でもあったようです。対外貿易にもつながるこのネットワークは、莫大な富をもたらすようになります。各宗派は瀬戸内海沿いに布教ラインを伸ばし、重要な港に拠点寺院を構えていくようになります。
第四は地域の必要から成立した港です。
大きな川の河口に、港が出来て大都市に成長するのは世界中で見られることです。大河川は河川輸送の最大の集積地の役割を果たすからです。人とモノとカネが集まってきます。これは瀬戸内海に流れ出す川の河口でも見られます。また、山地と海をつなぐ道路の海側の起点にも、港が現れます。こうして瀬戸内海沿岸地域には、大小さまざまな港が姿を見せるようになります。さらに、船の運航上、潮待ち・風待ちのためのための港も必要になります。現在では「離島」と呼ばれる島々にも港ができ、瀬戸内海航路や廻船のネットワークの中に組み込まれていきます。

 中世の航海法は、安全重視です。船から陸地が見えるところを目指し、隣り合った港に立ち寄りながら目的地に向かいます。沿岸部に並び立ち、島々にも散在する港は航海の安全を保障するためには必要な設備だったのです。目的地に一番最短距離で、一番早くというのは、動力船が登場する近代以後の論理です。

瀬戸内海の港町が発展するのは14世紀以後のことでした。
博多や兵庫(大輪田)など、比較的早く港町に発展したところもあります。しかし、瀬戸内沿岸の港が港町に発展するのは、案外新しく14世紀以降の経済発展によるもと研究者は考えています。
兵庫湊が港町に発展するのは、京都の発展に伴うもので13世紀にさかのばります。14世紀後半以降の物流の増大は、瀬戸内沿岸に新たな港を生み出すことになります。新しく登場する港を挙げておきましょう。
備前の牛窓・下津丼、
備後の尾道・輌
安芸の十日市
周防の三田尻・上関
讃岐の野原(現在の高松)・宇多津
野原復元図
野原(高松)港復元図

これらの港町の立地条件としては、中国山地から南下する河川や道路、讃岐山脈から流れ下る香東川などの河川や道路の結び目にあります。内陸から運ばれた物資が川船や馬借たちによって集められ、そこで海船に積み替えて各地に運ばれていきます。港は最大の物資集積地になります。港町は物資の集散地として、内陸から来たものは海へ、海から来たものは内陸へ運んでいく拠点となっていたことを押さえておきます。
DSC03842兵庫入船の港
野原(現高松港)の動き

 中世港町の構造の特色はなにか?
中世港町の尾道は、備後国太田荘の倉敷から発展した尾道は、次のような複数の集落から発展します。
①浄上寺とその麓の堂崎
②西国寺とその麓の上堂
③その西側に成立した御所崎
備前の牛窓も関・綾・紺など複数の集落からなっていました。讃岐の宇多津や綾川河口の林田湊なども同じことが云えるのは、以前にお話ししました。中世の主要な港町は、ほとんどがこうした複数集落の寄り集まりでできています。そして、それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かってきました。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、船に乗りこんでいたのです。つまり、船の運航は陸上での生活集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

法然上人行状絵図34貫 淀川を下る船
法然上人絵図の室津 塩飽に向かう法然が乗った船
 
もうひとつ押さえておきたいことは、港町は地域の権力から自立していたことです。
堺が自治都市であったことは有名ですが、瀬戸内海の港町にも、その中や周辺に武士団の館跡は見当たりません。尾道・牛窓・下津井などが、領主権力により直接支配されたことはなかったと研究者は考えています。確かに16世紀上を過ぎると、牛窓や下津井にも地域権力の城が造られます。これは権力が富の集まる港町に寄生するようになったことを示します。しかし、これで「支配下に置いた」とは云えないようです。
中世の和船2
中世の船
 江戸時代になると、幕府や藩の直轄港に指定される港も出てきます。それでも、港町の自治が全面的に否定されたことはありませんでした。それは、宇多津などにも云えることです。
 しかし、城下町最優先政策の結果、それまで重要な港湾機能を持っていた港町から、その一部が取り上げられ、城下町に持って行かれたり、主要住民が強制移住させられたりはします。それは藩主による城下町重視の「地域経済圏の再編」策のひとつであったようです。宇多津や多度津の機能も近世始めに大きく変化したようです。

 北前船の運航によって日本海沿岸と瀬戸内海の港町が大いに発展し、港町が日本の都市の代表となります。しかし、これが明治半ば以後に鉄道が姿を現すようになると大きく変化することになります。その中で、博多・下関・兵庫など主要な港町は、新たな役割を担って発展します。しかし、次のような状況が海運業界を襲います
①廻船輸送から鉄道輸送に主役が代わること
②船の動力化と大型で、目的地に直行
こうして主要道路や鉄道からから外れた港町は、瀬戸内海の多くの港町は衰退に向かうことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海
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兵庫北関入船納帳に出てくる船籍地は、全部で106ヶ所で、その内で讃岐の港は17港です。それを入船の多い順に並べたのが次の表です。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表
17の船籍地は、現在のどの港になるのでしょうか。
すぐには分からないのが、入港数ベスト3に入る「嶋」です。この嶋船籍の船が大量の塩を運んでいるので、研究者は「嶋」は小豆島と判断していることは、以前にお話ししました。
 「嶋」のように兵庫北関入船納帳は、島の港はすべて島名で記されています。例えば塩飽(本島)には泊や笠島などいくつかの港があったはずですが、それらが一括して島船と表記されています。瀬戸内海の海民たちは、昔から港名よりも島名で呼ぶ方が多かったようです。「嶋・塩飽・手嶋・さなき」は島であって、港ではありません。「塩飽・手嶋・さなき」の三島は塩飽諸島の島で、塩飽は本島のことで、さなきは佐柳島のことでしょう。
上から6番目に「平山」が出てきます。
研究者の中には、平山を備中真鍋島とする人もいるようです。しかし、宇多津の平山という説が強いようです。今回は、その理由を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂  瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権」です。
平山船の入港回数は年間19回です。それでは平山船は何を運んでいたのでしょうか。
兵庫北関入船納帳 船籍別の積載品目一覧
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積載品一覧表

表4の平山の欄を見ると(塩)2290石とあります。これは生産地が記された産地特定の塩のことです。「讃岐船の積荷の8割は塩」で、讃岐船は塩専用船化していたと云われます。平山船にもその傾向が見えます。
 一番右側の欄の全体合計数を見ると「塩13413石」「(塩・地域指名)12055石」とあります。両方併せると25468石の塩を讃岐船は畿内に向けて運び出していたことになります。しかし、これは讃岐船の塩輸送量であって、讃岐の塩の生産量ではありません。なぜなら他国の船が讃岐にやって来て大量の船を積み込んでいたからです。前回見たように、小豆島で生産された塩の半分以上は牛窓船が輸送していました。讃岐船の塩輸送総数25468石の内の1/10程度の2290石を平山船が運んでいることを押さえておきます。
ます。
それでは、平山船はどこの塩を運び出していたのでしょうか
 私はすぐに、坂出や宇多津、丸亀の塩田を思い浮かべて、ここからの塩を運んでいたと思ってしまいました。しかし、これらの塩田は近世になって開発された塩田で、中世には姿を見せていませんでした。平山船が運んできた塩には「タクマ塩」と記されています。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
兵庫北関入船納帳 讃岐産塩を運んでいた船の船籍地一覧
表8は地名指定商品(塩)が、どこの船で何回、兵庫北関を通過したが示されています。
詫間(塩)を運んできた船は36回で、その積載量の合計が6190石となります。詫間周辺では中世に大量の塩が生産されていたことが分かります。詫間塩を積み込みにやって来た船は、宇多津17、平山12、多度津3、香西2、牛窓1、塩飽1です。詫間の塩は、宇多津・平山・多度津の船で畿内に輸送されていたのです。ここで私が疑問に思うのは、詫間港の船が出てこないことです。製塩地には、それを運ぶ輸送船がいたはずなのですが、それが詫間には現れません。他所の港からの輸送船に頼っています。もうひとつは、仁尾の船もやってきていません。このあたりが今の疑問です。
 先ほど見たように、平山船の塩の総輸送量は2290石でした。平山船の一回当たりの輸送量は200石前後になり、小型船が使われていたようです。平山船は兵庫北関に19回やってきていますが、その内15件が積荷は塩です。そして12件が詫間塩を積んでいます。詫間塩は、平山船にとっては大きな商売相手だったことになります。
 視点を塩の生産地・詫間に変えてみます。詫間や三野湾に塩田があったことは史料から分かります。

三野湾中世復元図
          三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
「秋山家文書」には、次のような塩浜が相続の際の譲渡対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここからは本門寺から西側の東浜や西浜には塩田が並んでいたこと、その塩田の薪の確保のために「汐木山」が指定されていたことなどが分かります。詫間や三野湾では大量の塩が生産されていたのです。
 詫間塩を運んでいるのは、いずれも讃岐船です。ここからは、平山船も讃岐船であると研究者は考えています。
それでは平山とは、どこにあった港なのでしょうか.
兵庫北関入船納帳 平山
宇多津湾の中世復元図 太実線が想定海岸線
地図を見ると備讃瀬戸に突き出た聖通寺山の西北部に平山が見えます。現在は埋め立てられて宇多津と一体化していますが、中世の地形復元図では、海岸線が内陸部まで入り込んでいたことは以前にお話ししました。平山のある聖通寺山と宇多津のある青ノ山の間は海が入り込み隔てられていました。
湾を隔てて向かい合う宇多津と平山は、「連携」関係にあったと研究者は考えています。
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのが裏付けられます。
①平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
『兵庫北関入船納帳』からは、平山に本拠地を置く船主いて、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。
6宇多津2
中世宇多津復元図

「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は城を捨て、勝瑞城の十河存保のもとへ敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の麓の港で交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。


 一方、宇多津は、後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。

宇多津周辺図
宇多津と大束川周辺
大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業集団がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。宇多津は、川津荘の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように宇多津は後背地の広いエリアからの集荷活動を行う一方
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

以上から、宇多津と平山の関係を研究者は次のように指摘します。
①両港は相互補完的関係にあり、「棲み分け」共存ができていた。
②平山は坂出の福江・林田・松山・詫間などを商圏とし、宇多津は西讃から備讃瀬戸全域を商圏としていた。

常大坊旦那分書立写に「一、さぬきのくにうたづ ひら山一円」とあります。
常大坊輩下の先達によって導かれる檀徒集団が、宇多津と平山にいたことが分かります。檀徒集団がいたということは、多くの人々がいて、町並みを形成していたのでしょう。平山は聖通寺城の麓という位置から考えても、軍港的役割を果たす港であったと研究者は推測します。
 宇多津の目と鼻の先に平山湊がありました。しかし、宇多津と平山は商圏エリアが異なっていたこと、平山は、御供所と同じく、阿野郡(坂出市周辺)の福江・林田などの港物資を集積する港であると同時に、三野郡詫間の塩を輸送していたいうのです。そう考えれば、隣接して二つの港があったことも説明がつきます。こうして、平山は備中真鍋島ではなく、讃岐平山とします。

もうひとつ平山を特定する根拠があります。海産物の鯛です
もう一度表4を見ると、鯛(干鯛・塩鯛)は、宇多津・平山・塩飽船だけが運んでいます。それも4・5月に限定されています。今は番の州工業地帯で陸続きとなっている瀬居島付近は鯛の良魚場で、ここで獲れる鯛は「金山魚」と呼ばれて評価が高かったようです。加工された金山魚を、瀬居島に近い宇多津・平山・塩飽船の船が淀魚市場へ輸送して商品魚となったと研究者は推測します。ここにも平山と宇多津の連動性が見えます。平山は真鍋島ではないとする根拠のひとつです。

 近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。

①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫編成
②瀬戸内海交易集団の拠点作り
③商業資本集団の集中化
 丸亀城の北の砂浜には、平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアは、下図の通りです。
丸亀三浦3
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線

江戸時代半ばまでの丸亀港は土器川河口にありました。そのため平山住人の移住先は港に続く一等地として、繁栄するようになります。金毘羅船で大坂からやってきた参拝客は土器川河口に上陸して、御供所・平山の宿に泊まっています。彼らが丸亀の「商業資本」に成長して行きます。
以上をまとめておきます
①兵庫北関入船納帳に、寄港した船の船籍地として「平山」が出てくる。
②「平山」は、次のような根拠から宇多津の「平山」であると研究者は考えている。
③「平山」には、中世に交易活動を行う「海民集団」が定住していたこと
④宇多津と商圏の棲み分けを行って、宇多津港の補完的な役割を果たしていたこと
⑤詫間・三野湾では、塩浜があり大量の塩を生産されていたこと
⑥詫間産塩を主に運んでいるのが「宇多津・平山・多度津」船であったこと
⑦平山船のほとんどが詫間産塩の輸送のために、兵庫北関に入港していること
⑧瀬居島の鯛は加工されて、宇多津船と平山船が運んでいること
以上から兵庫北関入船納帳に出てくる平山船は、宇多津の平山の船であったと研究者は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 


    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
関連記事

  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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前回は、守護細川氏の支配下の讃岐で、西方守護代を務める香川氏が在京せずに、讃岐に根付いて在地経営を強めていたこと、それに警戒感を抱いた細川勝元は、1445年に宇多津の港湾管理権を、香川氏から取り上げ東方守護代の安富氏に任せたことを見てきました。
今回は香川氏が、多度津港をどのように管理していたのかを見ていくことにします。
テキストは 「橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」所収です。前回は、香川氏や安富氏が管理運行する「国料船」や、その母港の管理権を「兵庫北関入船納帳」で見ました。「国料船」とは、京都にいる守護細川氏に対して、讃岐から物資を輸送する船に関しては、無税で海関を通過でる権利が与えられていた船のことです。その運行権を、安富・香川氏は持っていました。これは、いろいろと「役得」があり、利益があったことを前回お話しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

 国料船以外に「過書船」が「兵庫北関入船納帳」には出てきます。
「過書」として、これらも無税通行が認められていたようです。過書船については、研究者は次の3つに分類します。
①先管領・管領千石に代表される幕府関係者
②南禅寺などの禅宗寺院の有力寺社
③淀十一艘と美作国北賀茂九郎兵衛なる人物
讃岐に関係のある過書は①で、ここから京へ物資を運ぶ船が過書船とされたようです。
讃岐の過書船として登場する船は以下の15件でです。

讃岐過書船一覧
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐からの過書船一覧表

船籍は、11件を三本松が占め、塩飽・鶴箸(鶴羽)が2件で、この3港で計13件となり、讃岐港の85%以上を占めます。 一方、多度津を船籍地とする「香川殿十艘」が一件あります。過書船に関わっているのは、この4港に絞られるようです。
 先ほど見たように、国料船の母港とするのは「多度津・庵治・方本・宇多津」の4港でした。これに過書船の母港である「三本松・塩飽・鶴箸(鶴羽)」を加えた七港が、管領細川氏と関わる港と云えそうです。こうしてみると、多度津以西には国料船や過書船の母港がなかったことに気づきます。中讃・東讃に集中しています。
少し回り道をして、兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐船の船籍地一覧表を見ておきましょう。
3兵庫北関入船納帳2

この表からは次のようなことが分かります。
①宇多津が47、塩飽37、島(小豆島)・平山(宇多津)の4港合計数が128件、で全体の約半分を越える。
②東讃の引田・三本松・野原・方本(屋島の潟元)・庵治の5港合計数が75件
③東讃に比べると、多度津以西の三豊地区の港からの寄港回数は少ない。
各港から兵庫北関に寄港した讃岐船は何を積んでいたのかを、下表で見ておきます。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表

讃岐船の特徴は、塩輸送に特化した専用船が多いことです。
特に庵治や方本(潟元)には、その傾向が強く見られます。それに対して、①の宇多津や塩飽の船は、塩の占める比率は高いのですがそれだけではないようです。米・麦・豆などの穀類も運んでいます。
 瀬戸内海は古代から海のハイウエーで、塩飽はサービスエリア兼ジャンクションの役割を果たしてきました。備讃瀬戸エリアの人とモノが、一旦は塩飽に運ばれ、そこから畿内行きの船に乗り換えることが行われていました。西讃地方の港からの寄港回数が少ないのは、塩飽を中継しての交易活動が行われていたことがうかがえます。

宇多津地形復元図
 宇多津と平山についても同じような関係が見られると研究者は考えているようです。
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田港や三野港などは兵庫北関入船納帳には登場しないと考えられます。

そういう目で②の東讃の各港を見ると、野原・庵治・潟元を母港とする船は大型船で、塩の専用船です。それに対して三本松や志度は、小型船です。ここからは、東讃エリアは小豆島を通じて、中継交易が行われていたかも知れませんが、同時に小型船が直接に畿内との間を行き来していたことがうかがえます。
 
さて、概略はこれくらいにして、多度津船籍の過書船について見ていくことにします。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津船
多度津船は1年間で12回の入港数があります。その内訳は、国料船が7件、過書船が1件、 一般船が4件の計12件です。一般船の入関日時を見てみると、2月9日・3月11日・4月17日・5月23日と年前半に集中して、それ以後にはありません。前回見たように、香川氏の管理する国料船の宇多津から多度津への母港移動は4月9日でした。
 多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏によって、それまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。過書船の「香川殿十艘」というのは、十艘という船数に限って、無税通過が認められたことを表すようです。

 これが香川氏に何をもたらしたかを見ておきましょう。
2月9日船や3月11日船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。それまでは兵庫北関で、一般船として1貫100文の関税を支払って通過していました。ところが5月以後には国料船や過書船と扱われ、無税通行するようになったことが分かります。
 こうして、香川氏は多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことがうかがえます。この香川氏の経済力が、その後の西讃岐地方一帯を支配し、戦国大名化していく際の経済基盤になったと研究者は考えているようです。

 多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
先ほどの表からは過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐で、国料船時の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 問丸とは何かを「確認」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を持つ運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水主として使っていました。それが水主も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。ところが、問丸が荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていきます。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。
 このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたようです。兵庫港を拠点とする問丸の中には、法華衆の日隆の信徒が数多くいました。彼らは、讃岐の宇多津・多度津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われます。そうして姿をたというのが宇多津の本妙寺であり、観音寺港の西光寺なのでしょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
讃岐船の問丸一覧 道祐は超大物の問丸だった
多度津に拠点を置いた道祐は『入船納帳』に出てくる問丸の中では、卓越した存在だったようです。
上表を見ると道裕は、多度津以外にも塩飽など備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱い、備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域といった広い勢力範囲を持っていたことが史料からわかります。香川氏は道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
  ちなみに、兵庫北関入船納帳に多々津(多度津)はでてきますが、堀江港は出てきません。潟湖の堆積が進む中で堀江港は港湾機能を失ったのかもしれません。それに替わって、15世紀半ばまでには、香川氏は新たな港を居館下を流れる桜川河口に開き、多度津と呼んだとしておきます。
多度津陣屋10
多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

香川氏は輸送船団を、どのように確保したのでしょうか。

海上交易活動に進出するには「海の民」の掌握が古代から必要でした。香川氏は、どのようしにて国料船や過書船などに使用する船やその水夫たちを確保したのでしょうか。これは、村上水軍の中で見たように、海賊衆を丸抱えするのが、一番手っ取り早い方法でした。海賊衆を、配下に置くのです。
 香川氏の配下となった海賊衆として考えられるのが、以前にもお話しした山寺(路)氏です。兵庫北関入船納帳が書かれた頃から約10年後の康正三(1456)のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を荒らす海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理となっています。なお、小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人がもっていること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
東寺領であつた弓削島は、少泉・山路・両村上氏の四人によって押領されていたこと、この4氏の本拠地はちがいますが、海賊衆という点では共通するようです。
 讃岐白方の山路氏については、以前にお話ししました。
白方 古墳分布

 白方は、現在の多度津町白方で、弘田川河口の港があった所で、現在の白方小学校の下辺りまでは、湾が入り込んでいたようです。その地形を活かして、古代においては多度郡の港の役割を果たしていました。そこを根拠とした山路氏は、燧灘を越えて伊予の弓削島まで進出し、その地を押領していたことが分かります。また、山路氏は「細川氏の奉公衆」ともされています。これをどう理解すればいいのでしょうか?

白方 弘田川

手持ちの材料を手立てに、海賊衆山路氏の動きを私は次のように考えています。 
①弘田川河口の白方には、小さな前方後円墳がいくつも並び、後には盛土山古墳などの特徴的な方墳も作られている
②白方は善通寺王国と弘田川を通じて結ばれ、その外港として役割を果たしてきた。
③そのため港湾施設が整い、交易活動が活発に行われてきた。
④空海の生家である佐伯氏の発展も、白方を拠点とする瀬戸内海交易活動に乗り出したことにある。
⑤中世になると、白方は海賊衆山路氏の拠点となった。
⑥山路氏は、室町幕府の成立期に細川氏の下で働いたために「細川氏の奉公衆」となった。
⑦しかし、実態は芸予諸島の村上氏と同じで「海の民」が「海賊衆」となった勢力であった。
⑧彼らは海賊衆として、村上衆と連携し、芸予の塩の島弓削島を押領したりすることも行っていた⑨また熊野海賊衆との交流もあり、瀬戸内海を広域的に活動し、交易活動も展開していた。
⑩その先達(パイロット)となったのは、備中児島の新熊野の五流修験者たちであった。
⑪このため児島五流の修験者たちが白方にはやって来て背後の弥谷寺で修行を行うようになった。
⑫さらに、熊野行者たちは白方の熊手八幡の神宮寺を中心に、いくつもの坊を建立し修験者の拠点化としていった。

ここで押さえておきたいのは、香川氏が「細川氏の奉公衆」の海賊衆である白方氏を、配下に取り込んでいったことです。
香川氏は、在京せずに多度津に居残り、在地支配をこつこつと進めていきます。そして、三野氏や秋山氏を家臣団化していったことが、三野・秋山文書からは分かります。同じようにして、白方の山路氏も家臣団化したと研究者は考えているようです。

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弘田川河口より見上げる天霧山
 これは、毛利元就が村上武吉の協力を得て、厳島合戦で勝利したような話と同じようにとらえることができるのかもしれません。どちらにしても、香川氏は海賊山路氏の協力を得て、独自の輸送船団を形成していた可能性はあります。

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熊手八幡神社(多度津町白方)

 こうした輸送船が桜川河口の多度津港に姿を現し、国料船・過書船の名の下に畿内との交易活動を行うようになった。また、守護細川氏からの動員令があった時には、山路氏の船団によって畿内へ兵が迅速に輸送される体制ができていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


 3兵庫北関入船納帳.j5pg
兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
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                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波の三好氏のような家臣登場の道にもつながりかねません。細川氏にとっては、宇多津の支配は重要な意味合いを持っていました。東讃岐に拠点を持つ安富氏を宇多津へと移動させたのは、このような思惑があったためだと研究者は考えています。
 
 宇多津を失った香川氏は、どうしたのでしょうか
  これに直接応える史料はないようです。考えられる事を箇条書きするのにとどめます
①堀江港に替わって、新たに桜川河口に新多度津港を開き、香川氏専用の港湾施設とした。
②白方に拠点を置いていた海賊衆山路氏を、配下に入れて輸送力や海上軍備の増強に努めた。
③三野方面へと勢力を伸ばし、三野氏や秋山氏を家臣団化した
④香西氏の代官を務める仁尾浦への介入を強めた。

応仁の乱を契機として、讃岐での細川氏の力は大きく減退し、在地の国人が活発に動きを見せるようになります。
それは守護細川氏の支配下から抜けだし、在地支配を強化していく道だったのでしょう。ところが、その前に阿波三好氏が侵人し、東讃岐の国人たちは従属していきます。
 その中にあって最後まで対抗したのは香川氏でした。香川氏が周辺国人たちを家臣団化し、戦国大名化していく様子がうかがえるのは、以前にお話した通りです。

以上をまとめておきます
①讃岐守護代の安富・香川氏は、関税フリーの国料船の運行権を持っていた。
②国料船の当初船籍は、安富氏が方元(屋島の潟元)、香川氏が宇多津であった
③その港湾管理体制が文安2(1445)年に変更され、宇多津を安富氏が管理するようになった④この背景には、守護細川氏の備讃瀬戸制海権や讃岐国内統治をめぐる思惑があった。
⑤備讃瀬戸に関しては、宇多津・塩飽を安富氏に任せることで制海権確保の布石とした
⑥讃岐統治策面では、台頭する香川氏の勢力拡大を阻止しようとした。
⑦しかし、応仁の乱の混乱で細川氏による讃岐支配体制が弱体化し、東讃は阿波の三好氏の配下に入れられていった。
⑧一方、西讃については西讃守護代の香川氏が戦国大名化し、最後まで「反三好」の旗印を掲げた。
⑨香川氏は、多度津港を拠点として瀬戸内海交易において経済的な富を獲得し、それが戦国大名化のための経済基礎となっていたふしかがある

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力所収
関連記事


信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
 サーフK - 村上海賊の娘。 - Powered by LINE
ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
関連記事

  戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」

  このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺山

聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
聖通寺城 曲輪2

この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
聖通寺城 曲輪

 北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
それを「聖通寺山には石垣がない」をキーワードに解いていくことにします。織豊政権のお城に石垣はつきものです。ところが聖通寺城は、戦国時代の終末期まで存続しながら石垣跡がありません。

聖通寺山 仙石秀久

 天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 |  サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
 織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。
仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。 
 仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。

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仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
 仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。
生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】 | でも、日本が好きだ。

 讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
  以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
聖通寺 岡豊城の石垣 長宗我部元親
長宗我部元親の居城 土佐・岡豊城の石垣

讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
聖通寺 長宗我部元親の侵攻
坂出市史より

県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
  長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡
②藤目城跡(観音寺市)
③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)
④西長尾城跡(丸亀市)
⑤勝賀城跡(高松市)
⑥上佐山城跡(同)
⑦鳥屋城跡(同)
⑧内場城跡(同)
⑨雨滝城跡(さぬき市)
⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。

他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引田城 - お城散歩
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。
「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
聖通寺城 坂出の城郭
坂出市史より

ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙名島 石垣
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。
その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
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聖通寺山・南峰山中の磐座
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
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聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。

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 聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
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聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。
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聖通寺

 そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。

聖通寺 復元図
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
 それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
 聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある
①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

    
 船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

   
15世紀の半ばに讃岐・宇多津に日隆によって本妙寺が開山される過程を前回は追って見ました。
DSC08543
宇多津の本妙寺山門前の日隆
今回は、15世紀の大阪湾沿岸の港をめぐる情勢を見ていきたいと思います。その際の視点が日隆と三好長慶です。
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。彼によって開山されたものだけでも兵庫港(神戸)の久遠寺、備中の本隆寺、宇多津の本妙寺が挙げられます。
DSC08550
        日隆が開山した宇多津の本妙寺
  日隆が築いた本門法華宗のネットワークを見ておきましょう。
 法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
 日蓮死後、ちょうど百年後に生まれた日隆は日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出します。その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。
utadu_01宇足津全圖
讃岐の宇多津湊と本妙寺

日隆の布教により寺院が建立された場所と、その後の発展の様子を見ていきましょう。
大阪湾岸では,材木の集積地であった尼崎,奈良の外港としての堺,勘合貿易の出発地である兵庫津などが挙げられます。また四国の細川氏の守護所である宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行い本妙寺を開きます。日隆の布教によって法華宗信者となった港町の都市商工業者の特色は,武家領主と結びついている点だとされます。

宇多津 本妙寺
 宇多津の本妙寺
 京都にあった法華宗各門流の本山の本国寺,妙顕寺,本能寺などの周辺には信者が集住していました。例えば、本国寺の場合には遅くとも天文元年(1532)までには要害化が進み,「数千人の宗徒」が住む「寺内」が形成されていたようです。そしてこれを、織田信長は「洛中城郭」として利用しています。
 さらには,日隆は京都の本能寺と尼崎の本興寺を「両本山」とします。15世紀後半につくられた本能寺の「当門流尽未来際法度」では,全国の末寺の住持職に対して本山への参詣を義務づけています。
本能寺が鉄砲伝来に果たした役割は?
京都本能寺
 
 本能寺は、明智光秀のクーデターで信長の最期となった寺として有名です。この時に焼き払われます。その後も、度々火災に見舞われたため、本能寺の「能」の旁がカタカナのヒの字を二つ重ねるのを避けて、火が去るようにと「去」の字に似せた異体字を使用しています。それでも同寺には、幾たびかの火災の難を逃れた多くの貴重な史料が残されています。その『本能寺史料』中世編に次のような細川晴元書状があります。
  「 本能寺         晴元」
種子嶋(鉄砲)鍼放馳走候而、此方へ到来、誠令悦喜候、
彼嶋へも以書状申候、可御届候、猶古津修理進可申候、恐々謹言
  四月十八日        晴元(花押)
   本能寺
 これは細川晴元の本能寺宛ての鉄砲献上に対する礼状です。
 年号は入っていませんが、晴元は天文一八年(1549)、摂津国江口の戦いで部下の三好長慶に敗れ、京都から近江へ逃げるのが6月のことですから、それ以前の発給とされます。鉄砲が種子島に伝来するのは、『鉄畑記』によれば、天文13年8月のことで、翌年に銃筒をネジで塞ぐ技術を習得し、量産化が開始されるのは早くもその翌14年のこととされます。そして、その種子島から足利将軍家に鉄砲が献上されたのが天文15年です。この文書の年代は、足利将軍家と相前後して細川氏にも鉄砲が送られた、あるいはこの鉄砲自体が将軍への献上品だった可能性もあると研究者は見ているようです。どちらにしてもこの文書の年代は天文15年4月のことでしょう。

鉄砲

 ここで確認しておきたいのは、種子島銃(鉄砲)をはるばる種子島から京都へ、そして晴元の下へ持参し、さらに晴元からの礼状を種子島まで届けたのは誰かということです。かつては「鉄砲献上」は、堺の商人によって行われたとされてきました。しかし、この文書から分かることは当時の種子島領主であった種子島時尭より本能寺を経由して晴元の下へ送られていることです。
184286

 当時の種子島は、領主の種子島氏をはじめ島民らも法華宗に帰依し「皆法華」が実現していました。種子島では15世紀半ばに日隆に学んだ日典によって法華宗義が広まります。本能寺と両本山である尼崎の本興寺から本門法華宗派の僧が伝教のために種子島や屋久島にやって来たのです。それは、同時代のイエズス会の宣教師にも似た姿です。この時代に法華僧侶達は海上ネットワークを通じて種子島と本山である本能寺を活発に行き来していたのです。その人とモノの流れの中に、鉄砲も含まれたようです。
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 本能寺の変で焼け落ちた伽藍再建に、日隆門流はすぐに動き始めます。
その際の勧進記録である「本能寺本堂勧進帳」が残っています。そこからは末寺がある種子島,堺,備前,河内の三井,越前,備後,駿河の沼津といった地域で勧進が行われていることが分かります。ここでも瀬戸内海や南海路の種子島の末寺から,本山である京都の本能寺,尼崎の本興寺に向かって,カネと人とモノが流れ込んでいたのです。そのようなネットワークの拠点のひとつが宇多津の本妙寺であったのです。15世紀半ばに開山された本妙寺が急速に時勢を伸ばしていくのは、このような流れの中にあったことも要因のひとつでしょう。

本能寺

 こうした本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れに目を向けるようになったのが細川氏や三好氏です。
室町幕府の管領であった細川高国は,永正一七年(1520),近江六角氏との戦争に際して兵庫津の大船を徴発し、大永六年(1526)には尼崎城を築城しています。ここには都市支配や軍事動員を目指す動きが見えます。また,細川晴元は阿波の国人である三好元長の支持を受けて,港湾都市である堺を事実上の政権所在地とし、いわゆる「堺幕府」を樹立します。
 この背景には,先ほど鉄砲伝来の際に述べたように日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じての流通システムを握ろうとする考えがあったと思われます。
 
一方、四国を本拠とする三好長慶は,畿内支配をめざします。
三好長慶
細川氏・三好氏を東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した権力として「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は,首都京都を背景に瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。
 その際に三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
彼は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。

三好氏は大坂湾の港湾都市への影響力をどのようにして高めたのでしょうか?
法華宗 顕本寺
   堺の顕本寺 宇多津の本妙寺と前後して日隆により開山
まず、堺を見てみましょう。
日隆は、宇多津に本妙寺を開いたのに前後して、宝徳3年(1451年)に堺にもやって来て有力な商人を信者とします。そして木屋と餝屋と称する豪商の自宅を法華堂としてたのが顕本寺の始まりとされます。当初の開口神社に近い甲斐町山ノロにあったこの寺は「南西国末寺頭」と呼ばれ、西国布教の拠点として機能するようになります。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その成果のひとつが先述した屋久島の「皆法華」化となって現れます。
  三好長慶の父・元長は一向一揆に敗れ,この顕本寺で自害します。
DC0sHVDUMAEOtyq
長慶の父元長は、顕本寺で自害した

天文元年(1532)のことです。後を継いだ三好長慶は「臥薪嘗胆」の末に、父を死に追いやった主君を京都から追放していきます。その過程で、長慶の本門法華宗の寺院に対する戦略が見えてきます。
20_02Web版『堺大観』写真集―顕本寺境内 三好海雲(元長)の
       長慶の父元長の墓も顕本寺にあります
例えば、次の史料は長慶が顕本寺に下した文書です
当寺(顕本寺)の儀, 開運(三好元長)位牌所として寄宿の事,長慶・之虎これを免許せられば,冬康においても別して信心の条,聊かも相違あるべからざるものなり,よって状くだんのごとし,
天文廿四二月二日 冬康(花押)
堺南庄顕本寺
 父元長の自害の場となった由緒によって顕本寺を位牌所として,軍勢の寄宿免許という特権を与えています。さらに弘治二年(1556)には,元長の二十五回忌法要が行われますが、三好氏の本拠地である阿波でなく,この寺で行われます。
法華宗 顕本寺.1jpg

こうして顕本寺は、三好氏の檀那寺として地位を固めるとともに、三好=本門法華宗の連携強化が進められていきます。
 先ほど顕本寺は,宝徳二年(1450)に木屋某と餝屋某が自宅を寄進することによって建立されたと述べました。当時の堺は尼崎と同様に、重要商品の一つが材木で、阿波から畿内への主要な商品でした。材木を取り扱う「木屋」という姓は、阿波との経済的な結びつきをうかがわせます。阿波を本拠とする三好氏も,こうした経済的なつながりを背景に顕本寺との関係を強めた行ったようです。
 『天文日記』によると,天文七年(1538),「堺南北十人のきゃくしゅ(客衆)」「渡唐の儀相催す衆」の一人として木屋宗観があげられます。木屋は会合衆の構成員で、顕本寺は会合衆の結集核である開口神社の西南隣に位置して,会合衆に対しても影響力をもっていたようです。こうして阿波から畿内への材木流通を通じて、顕本寺を仲立ちとして法華宗と阿波の三好氏を結びつけ,また顕本寺を通じて三好氏は堺の会合衆とも関係をとり結んでいったのではないかと研究者は考えているようです。
三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を,本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためであったかもしれません。しかし、それだけではなく、信長や謙信などの諸大名がやって来る堺での三好氏の勢威を広く示すデモンストレーションという面もあったでしょう。
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  布教活動と交易活動を考えるための手がかりとして、当時のポルトガルやスペインの東アジア貿易におけるイエズス会の果たした役割を考えて見ましょう。
 知らない土地への布教という宗教的な情熱を抱き、パリ大学などで当時の最先端の技術と知識を身につけた若き宣教師達。彼らは国営の船でアジア各地の布教拠点に運ばれ、布教活動を行うと同時に報告書を作成します。その中には、その土地の情勢や交易品・交易ルートなども含まれます。これは商業活動にとっては最重要の情報でした。これらを宣教師は本国にもたらしました。「宣教師がやって来た後に、商人がやって来る」と言われた所以です。つまり、宗教的な伝道者と交易活動者は連携していたのです。そして、本門法華宗の僧侶と商人・海運業者にも同じことが指摘できます。
 同時に、戦国大名がキリシタン大名になっていく理由の一つにポルトガル船を領地内の港に呼び入れて交易活動を行い経済的な利益を上げるという意図があったとされます。同じように日隆が瀬戸内海に開いた法華宗寺院はカトリックの教会と同じく布教拠点であると同時に、交易従事者のネットワーク拠点でもあり情報と安全をもたらしてくれる施設としても機能したはずです。

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 このような拠点があってこそ、瀬戸内海を舞台とする海上交易は可能となったでしょう。そして種子島、そして南シナ海を越えて琉球へと、そのエリアを拡大させて行けたのです。
 このような本門法華宗の海上交易ネットワークの形成は、宇多津にはどんな影響を与えるのでしょうか。
本妙寺というネット拠点が日隆によって新設されたことで宇多津の港湾機能は大きく発展したはずです。まずは、寄港する船の数や交易相手の港などの増加につながったはずです。例えば、それまでなかった種子島との交易船が立ち寄ることが増えたかもしれません。それは、古代に、カトリックの司教座が置かれた都市が発展して行ったのと同じように、周辺の湾岸都市とは違った人とモノの流通をもたらすことにつながったのではないでしょうか。
15世紀半ばに、本妙寺が宇多津に開山されたことは、経済的には本門法華宗の海上交易ネットワークに参加する権利を与えられただとも言えます。その同盟都市の一員として宇多津は、さらなる進化を遂げていくことになるのです。

参考文献 日隆の法華宗と三好長慶   法華宗を媒介に      天 野 忠 幸 都市文化研究 4号 2004年

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本妙寺
坂出から丸亀を結ぶ宇多津の旧街道を宇夫階神社を目指して歩いていると、いろいろな宗派のお寺さんが並びます。お遍路さんで賑わう郷照寺を通り越して、歩いて行くと広い参道が山に向かって伸びています。その向こうには城郭のような石垣が見えます。
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日隆像(宇多津の本妙寺) 

気まぐれに入っていくと二つの大きな銅像が山門入口で迎えてくれました。一方は日蓮、そしてもう一方は日隆と刻まれています。日蓮は、私にも法華教の開祖と分かります。しかし、日隆ってだあーれ?という印象でした。日隆という未知の人物とともに、本妙寺という寺に興味を覚えました。法華教だから鎌倉時代の東遷御家人として、東国からやって来た秋山氏に関係があるのかなくらいに思ったのを覚えています。
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本妙寺の日蓮と日隆像
 その後、何度か史料も中でこの本妙寺に出会う中で、日隆の果たした役割や当時の法華教団の動きなどがおぼろげながら私にも見えてくるようになりました。ということで、日隆という人物と本妙寺について、参考文献をもとにまとめておくことにします。

本妙寺には、日隆自筆の文書が幾つか伝わっています
まず宝徳二年(1450)2月に定めた讃州宇多津弘教院法度の條書には次のように記されます。
  定 讃州宇足津弘教院法度條々事
   一 無退転可有弘通事
   一 守本寺之大旨、可為壇那成敗事
   一 寺家造栄之事、惣壇那而可取成事
   一 公事等出来之時者、惣壇那而可為勤仕事
   一 時之住持於旦那而不可相計事
    右、守此旨、師壇共卜不可有聞如、
    但、寺家之事者、惣旦那中一味同心経談合、可然様可被相計者也、の為後代所定如件
  宝徳二年二月下旬
  摂州尼崎本興寺住持 日隆(花押)
ここには日隆が宇多津弘教院に下した法度状です。
退転なく弘通することと、
本寺たる本興寺に従うこと、
寺家のことは、惣檀那と相談しておこなうこと、
などが定められています。
最後の日隆の肩書きに注目して下さい。尼崎の本興寺の住職となっています。つまり、この法度(信仰誓約書)は、弘教院と呼ばれていた法華堂に集う法華信者たちに、尼崎・本興寺の日隆が下したものです。年号のある宝徳2年(1450)の時点で、宇多津法花堂(弘教院)が尼崎本興寺との間に本末関係を結び、日隆のもとに帰属したことがわかります。

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本妙寺山門
また、第三条に「寺家造栄之事」とあります。ここからは、この頃に弘経院では本堂などの建築工事が予定されていたことがうかがえます。そしてその2年後に、次のような日隆から寺号授与状が下されています。
 右所授与如件
 授与之 寺号事  宝徳年七月下旬
  本門法華宗      日隆(花押)
  可称 本妙寺  讃岐国宇多津
寺号を「本妙寺と称すべし」と寺号が授与されています。この文書は、先の法度状と同筆で、日隆自筆とされています。2年前には宇多津の弘教院という法華堂に集まる法華信徒(檀那)集団という段階から正式の寺号を持つ本妙寺へとグレードアップしています。

宇多津 本妙寺
 本妙寺

さて、日隆とは何者なのでしょうか?最初に年表を掲げておきます
至徳 2(1385)年 越中国浅井島村に桃井右馬頭尚儀公の子として生。
応永 5(1398)年 14歳で京都妙本寺で得度
応永25(1418)年 妙本寺退出後、河内三井村に難を避ける
応永27(1420)年 尼崎に本興寺建立の端緒を得、
応永30(1423)年 摂津守護細川満元の支援により尼崎に本興寺を興す。
応永32(1426)年 越中国に向い、色ケ浜における祈祷により禅宗金泉庵義乗を改宗させ、さらに敦賀では真言宗大正寺円海を帰伏させて本勝寺を得た。
永享 元(1429)年には京に本応寺を再建
永享11(1429)年には、河内に布教して加納の法華寺を得る
永享 5(1433)年 京都本能寺を創建した。
文安 2(1445)年 宇多津船籍の兵庫北関通関数が47隻 宇多津は讃岐随一の港町
宝徳 元(1449)年 西国布教を志し、牛窓本蓮寺を改宗させ、
          備中高松では川上道蓮を教化して本隆寺を建立し、
            讃岐宇多津に本妙寺建立の基を開き、
            帰っては兵庫の久遠寺を末寺とした。
宝徳二年(1450)年2月 日隆が讃州宇多津弘教院へ法度の定書下す
宝徳 2(1451)  堺に顕本寺を建立。
寛政 5(1464)年 尼崎にて八十歳にて没 
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本妙寺

日隆は法華宗の開祖日蓮の時代から百年以上後の人物のようです。彼は、当時の法華宗を「習損い」と批判し、法華宗再興運動を進めます。上の年表をからは各地に布教し、多くの寺院の建立や復興を行っています。その数は、近畿一円から北陸、岡山・讃岐方面にかけて計14カ寺を数えます。その拠点になったのが京都本能寺と尼崎本興寺です。ここを拠点として、敦賀、河内、堺、兵庫、牛窓、宇多津などの交通の要衝の地に寺院を配置し、弟子、信者などを得たことが分かります。晩年は、尼崎の本興寺に入り膨大な著作の執筆活動と弟子の養成に尽力し、81歳の生涯を閉じます。
 本門法華教では、日隆を「蓮師後身 本因下種再興正導 門祖日隆聖人」と呼ぶそうです。
「蓮師後身」とは「日蓮聖人の生まれ変わり」という意味です。日蓮が亡くなったのが弘安5年10月13日で、その約101年後の至徳2年10月14日に日隆が誕生したことによるようです。宇多津の本妙寺の山門の前に、日蓮と日隆の大きな像が立ち並んでいる訳がなんとなく分かってきました。

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本妙寺から聖通寺山方面
ここまで見てきて私が疑問に思ったこと
①なぜ尼崎を拠点としたのか?
②なぜ瀬戸内海の港町である牛窓・備中高松・宇多津・兵庫に布教活動を行ったのか
③日隆の教えを受入れて信徒集団を構成した人たちは、どんなひとたちだったのか
④瀬戸内海布教のための教団組織は

疑問を解くために、日隆の伝記書から瀬戸内海への布教についてみてみましょう。
 本能寺・本興寺開祖日隆大聖人略縁趣(日憲)
大上人(日隆)は本興寺居たまへて 是より弘法を西国ひろめんとほっしたまへて まづ兵庫の津(神戸)に行せたもふて町宿をもとめたもふ 処宿の宅主あしらい鄭重也 翌日わかれをつげて曰く 予深くなんじが厚志をかんずるゆへに此物を預る但 風呂鋪也 他日我かえりきたるまでつつしんで防護せよと 
 
西国弘法(布教)は、拠点である尼崎の本興寺から出発します。まずは西国から海のハイウエーである瀬戸内海東へ登る船が立ち寄らなければならなかったのが兵庫(神戸)港でした。ここには東大寺の「海の関所」が置かれ、大坂に向かう船はここで関銭を納めるシステムが当時はありました。そんなこともあって兵庫港は平清盛以来、瀬戸内海における最大の交易都市でした。
 この宿の主人との間の風呂敷袋を預けるエピソードが挿入されます。これが久遠寺建立へとつながります。

 是より西国趣二せたもふて まづ備中の国新庄村にいたりたもふ 村中の酋長 川上道蓮・江本蓮光といふ 七月にせったい供養をおこのふ 大上人此供養のかりや入らせたもふて右の酋長のものと清談の時をうつしたもふ 酋長大上人をとものふて我家に帰り本門の深秘をとききかせたもふ所 信伏随喜して蓮光道蓮力をあはせ仮に堂をいとなみ 村中の老若をあつめ聞法結縁をせしめさせたまへ一村こぞって受戒して則一院を創々する 是本隆寺と号(略)

 兵庫(神戸)港から向かったのは牛窓かとおもいきや備中の新庄村です。今は総社ICの近くで海岸線から遠く離れているように思えます。しかし、この付近は古代の吉備王国の核心部で「吉備の穴海」と呼ばれる入り江がすぐ近くまで入り込んでいました。その海が新田開発されるのは江戸時代になってからです。中世は児島湾から足守川を逆上れば、本隆寺の背後の庚申山のすぐ東の川港に着くことができました。そういう意味では、ここも水運を利用すると便利な場所だったようです。そこでは、村長の蓮光道蓮力をはじめ村人の心をつかみ「一村こぞって受戒」し、本隆寺が開かれます。

 是より讃州卯辰の浜つかせたもふて 大きに宗風を振はせたもふて 周く撃毒破則一院を創たもふて本妙寺と号

宇多津での布教活動に触れているのはこれだけです。讃岐の法華集団と云えば、東遷御家人の秋山氏が建立した三豊の本門寺が「皆法華」の隆盛を誇っていましたが、そこには立ち寄った気配はありません。備讃瀬戸を超えて宇多津の地にやってきます。ここでも布教活動の成果として「一院を創った」とあります。これが最初に見た宇足津弘教院なのでしょう。

享徳二酉年大上人 尼崎へ帰らせたもふ また御かえりがけ兵庫旅宿したもふて亭主御たいめん遊はされし所 亭主大きによろこび先達御預居しもの取出し大上人へ差出 大上人笑はせたもふて亭主まことに正直の人也 今よりして正直やと致べくよし仰ければ 難有請受申てけて、ここにおいて大きに宗義をとなへ一寺建立ある すなわち久遠寺坊舎十二宇

   そして、吉備・讃岐への布教活動を終えて尼崎に帰っていくのですが、その際に立ち寄るのが兵庫港です。そこで風呂敷を預けた宿の亭主を信者にし、久遠寺を建立させます。
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本妙寺(宇多津)
日隆が布教対象としのは、どんなひとたちだったのでしょうか
日隆が瀬戸内海への布教活動を行った同時代の史料として「兵庫北関入船納帳」があります。これは、文安二年(1455)3月3日から12月29日までに摂津国兵庫津の北関を通過した船舶の船籍地・積載品目・数量・関料・納付月日・船頭・船主(問丸)の各項目を列記した記録簿(通行記録)です。この船の船主(問丸)の中に日隆聖人と関係がある人物名があるのが分かってきました。例えば問丸として記されている「衛門太郎」は、日隆が宝徳三年(1451)12月3日に曼荼羅本尊を与えた「信男衛門太郎 法名道妙」と同一人物のようです。
また船頭と記されている「衛門二郎」も、聖人自筆の「寺領屋敷地所当収納日記」中に永享二年(1430)11月28日付で京の千代寿に土地を売却した「奈良屋衛門二郎」と一致します。。
 「兵庫北関入船納帳」には記されていませんが、「衛門五郎」にも注目点があります。
「衛門五郎」についてみると嘉吉三年(1441)七月下旬に、聖人より曼荼羅本尊を授与された「信男妙浄衛門五郎」(本能寺蔵)です。彼は「収納日記」の中で、日隆に本興寺敷地として五貫文で屋敷地を売却した者として記されています。このことから、衛門五郎は初めは日隆に対してビジネス相手として対応していた関係が、時を経るに従って信者の立場に変ったのではないかと研究者は指摘します。
 もしそうであるなら、日隆の信者獲得や瀬戸内海沿岸布教について、具体的な姿が浮んできます。こんなSTORYが作れないでしょうか。
日隆の信者たちの中に、町衆と呼ばれる富裕な商人たちがいました。その金持ちとは、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭などです。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を願い、支援したかもしれません。

 岡山牛窓の本蓮寺については、堂塔が整備できたのは石原氏の貢献が大きかったと伝わります。
石原氏の一族の石原遷幸は土豪型船持層で、船を持ち運輸と交易に関係したようです。石原氏の一族が自分の持ち舟に乗り、時折、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくというSTORYは考えられることです
 このように日隆が布教活動を行い新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆の何らかのつながりのあったことることが見えてきます。
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宇多津湊 「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画

それでは、当時の商業交易圈と信仰伝播の方法の関係を探っていきたいのですが、
その前に問丸とは何かを「学習」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。先に述べたように、日隆の信徒の中にはこのような裕福な問丸達がいたようです。そして、彼らは牛窓と同じように讃岐の宇多津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。
その中に服装や宗教などの文化情報も含まれています。あらたな流派の宗教活動についても強い好奇心と関心を彼らは持っていたはずです。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われたというのが私のいまの仮説です。
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本妙寺
最後に、日隆がこのような布教活動を行ったのはなぜでしょうか?
日隆が尊敬する大覚大僧正の跡をたどたのではないかというのが一つの考えです。ルート場には、妙顕寺末からの転派寺院が多くあることから想像されることのようです。
もう一つは、先師の大覚大僧正が布教と共に妙顕寺維持のための銭貨を集めて本寺に送った例があります。これを知っていた日隆は65歳という高齢ながら、本興寺や本能寺護持や勧学院運営のための財源確保というような目的もあったのではないかと考える研究者もいるようです。そうだとすれば布教活動だけでなく「募金活動」も含まれていたということになります。そして、それならお金を持っている人が多く住んでいる瀬戸内海の各港町を訪れたというのもよりリアルに納得できます。

  参考文献 小西轍隆 日隆聖人の瀬戸内海沿岸布教についての一試論
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浄土真宗の中讃への布教は、阿波の安楽寺が布教センターだったことを前回にお伝えしました。それは阿波ルートの興正寺派の教線でした。しかし、真宗の伝播には、もう一つ本願寺による「海のルート」があります。

四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布

興正寺派の阿波安楽寺の末寺分布図(寛永3年)
讃岐に数多くの末寺があったことが分かる。

 古代から瀬戸内海は東西を結ぶ「海のハイウエー」の役割を果たしてきました。島の湊はそのサービスエリアでもありました。この瀬戸内海を通じて真宗は入ってきます。これが本願寺のルートです。
 讃岐への真宗の伝播は、興正寺からのルートと本願寺からのルートの二つがあったことになります。讃岐の真宗寺院の分布状況を見ると、海岸線に本願寺系が多く、内陸部には興正寺系は多く存在しています。それは、海から伝わったか、阿波から伝わったかの伝播ルートのちがいによるようです。

 真宗と讃岐の結びつきはいつ頃から?

「天文日記」は、本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた19年間の日記です。その中の天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
『天文日記』天文十二年五月十日・七月二十二日
十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参第二七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
ここには、天文十二(1544)に「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、本願寺へ樽を持参していたことが記されています。福禅寺が本願寺の末寺となっていたようです。この16世紀半ばの天文年間に、本願寺と関係がある真宗寺院が髙松にはあったことが分かります。
 また、
七月二十二日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。これは、香西氏が初めて本願寺を訪れた記録になるようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。讃岐の武士団の中に真宗信者が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者もいたのです。

どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?

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 当時、讃岐は「阿波三好氏の支配下」にありました。そして、阿波三好氏の実権を握っていたのが重臣の篠原長房でした。そこで香西氏は長房に率いられて上洛し、本願寺へと赴くようになるのです。それは長房の夫人が、堺の真宗のお寺の娘さんという関係があったからのようです。それを縁に本願寺と長房は、深い結びつきを持つようになります。こうして、篠原長房に従った讃岐武士団のなかにも、真宗に改宗し、真宗を保護する者もあらわれます。
讃岐に真宗寺院が、増加するのは享禄から天文年間にかけてです。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐の真宗寺院の郡別創建年代一覧
応永・明応年間  1368年から1375年 1492年から1501年
②文亀・大永年間  1501年から1504年 1521年から1528年
③天文年間 1532年から1555年
④天正年間 1573年から1593年
上表から分かることをあげておくと
①の15世紀末時期に創建された4寺は、興正寺系末寺である
②になると三木郡の常光寺や阿波郡里の安楽寺の興正寺の教線がラインが伸びてくる。
③天文年間になると、瀬戸内海ルートで本願寺からの教線ラインが伸びてくる。
④大水上神社の信仰圏である大内・寒川・三木や、善通寺・弥谷寺など真言系修験道の信仰圏である多度郡・三野郡・豊田郡などは、この時期に設立された真宗寺院が少ない。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
讃岐郡別の真宗への転宗寺院数
上図は、この時期に旧仏教(真言・天台)から真宗に転宗した郡別寺院数を一覧化したものです。上の④で指摘したように、修験道系の旧仏教勢力の強いところでは、転宗寺院は少ないようです。
真言・天台の旧勢力が衰えていた地域に真宗が入り込んで、真宗に宗派替えをするようになっていることがうかがえます。地域的に見ると中讃地域に多いようです。改宗時期を見ると、讃岐で真宗寺院が増える天文年間(1532. ~1555年)のようです。
 ここからは、私の仮説です。
 この時期は、西長尾城主の弟・宥雅が流行神である金毘羅神を産み出し、金毘羅堂を象頭山に建立した時期にもあたります。宥雅の中には、讃岐山脈を越えて丸亀平野に入ってくる郡里安楽寺の布教僧侶たちの姿が目に入っていたはずです。土器川の奧の百姓たちに根付いて、各地で道場を開いていく真宗の僧侶たち。宥雅は善通寺で修行を修めた真言僧侶です。彼らは、丸亀平野の奥から次第に、門徒を増やして行く真宗の布教活動を見て、なんとかしなければならないという危機意識を膨らませます。その答えが、新たな霊力ある神を祭り、信者を獲得することでした。そのために地元に伝わる悪魚退治伝説の悪魚を、善進化しクンピーラとして登場させます。
 つまり、宥雅による流行神である金毘羅神の創出は、那珂郡や鵜足郡で急速に門徒を増やす真宗への対抗措置であったと私は考えています。
土器川沿いに上流から中流へと道場をふやしていく動きとは、別の動きが真宗にはありました、それが本願寺自らが開拓していた教線ルートである瀬戸内海ルートです。

その中の一つに宇多津の西光寺があります。

この寺の「縁起」を見てみましょう。『諦観山西光寺縁起』
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。
天文十八年(1550)に本願寺・証知の弟子になって、向専という名前を与えられています。そして、この寺に当時の支配者であった阿波の篠原長房が出した禁制(保護)が西光寺に残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記載があります。
 鍋屋というのは地名です。その付近に最初は「道場」ができたようです。それが「元亀貳年正月」には西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
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西光寺の門扉の紋章
本願寺派に属する宇多津の西光寺の前は、かつては海でした。

宇多津 西光寺

中世の宇多津
江戸時代になって塩田が作られ、現在ではそれが埋め立てられて海は遙か北に退きましたが、この時代は西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の船着き場にこぎ寄せることが出来ました。本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきたのです。
 宇多津は中世は管領細川氏の拠点で当時の「県庁所在地」で、讃岐で最も繁栄する「都市」であり「湊」でした。その山手には各宗派の寺院が、建ち並んでいました。このような「宗教激戦地」の中で本願寺は、どんな形で布教活動を進めたのでしょうか? 興正寺派が農村で進めた布教活動とは、どんな点がちがっていたのでしょう。

まず、布教対象です。どのような人々が門徒になったかです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世の復元図の中の西光寺 湾内に突き出た砂州上に立地

 先ほど史料で見たように、西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。手工業に従事する人々が、この付近に住んでいたことが分かります。この地域には、今も西光寺の檀家が多くいるそうです。
 また宇多津は港町として繁栄しますが、水運業に関わる人たちのなかにも門徒が増えていくようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちであり、また西光寺も支えていたのです。

宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津 西光寺(江戸時代後半)

 ちなみに、宇多津の沖の本島・広島には多くの寺院がありましたが真宗寺院はありません。小豆島もそうです。讃岐の島々は旧勢力の真言宗が強く、真宗の入っていく余地はなく「布教活動」は成功しなかったようです。
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宇多津の西光寺が成長していく永禄年間というのは戦国時代の真最中です。
 当時の讃岐の状況は、阿波の三好氏が侵入してきてその支配下になっていました。また中央では、大坂の石山本願寺をめぐって織田信長と本願寺の対立が目増しに激しくなっていく時期です。その渦に、讃岐の真宗寺院が巻き込まれていくのです。
 当時は真宗の門徒たちが一致団結して、権力者に立ち向かっていく状況が各地で見られました。一向一揆ですが、その「司令本部」が石山本願寺(現大阪城)でした。石山本願寺と信長が直接対決するようになるのが元亀元年からで、この戦いを「石山戦争」と呼んでいます。この「石山戦争」に建立されたばかりの讃岐の真宗寺院が巻き込まれていきます。
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西光寺

 大阪石山本願寺の顕如が阿波の慈船寺に当てた次の文書が残っています。顕如書状〔慈船寺文書〕
近年信長依権威、爰許へたいし度々難題いまに其煩やます候、此両門下之輩於励寸志者、仏法興隆たるへく候、諸国錯乱の時節、卸此之儀、さためて調かたなく覚候へとも、旨趣を申候、尚様鉢においては上野法眼・別邸郷法橋可申候、あなかしこあなかしこ
     十月七日
      阿波               顕如花押
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ
「阿波坊主衆中 門徒衆中」となっています。本願寺から直接阿波の寺院へ出したものです。内容は
「信長の非道を責めつつ、信長と本願寺がついに戦いを始めたから、各地の門徒たちは本願寺を援助しろ」
ということです。しかし、信長と戦うにも本願寺が自前の軍隊をもっているわけではありません。本願寺の要請によって各地の門徒たちがこぞって応援にかけつけることになります。また兵糧・軍資金の要請もします。このような顕如の手紙を「置文」といい、全国に多く残っています。
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西光寺本堂

 そして、讃岐でそれに応じたのが西光寺です。

 下間頼廉書状〔西光寺文書〕
  回文「詳定」
  一 青銅七百貫
  一 法米五十解
  一 大麦小麦格解貳斗
 今度御門跡様織田信長と就御鉾楯不大方、依之其方以勧化之働、右之通獣上述披露候所、懇志之段神妙思召候、早奉仰御利運所也、弥法儀相続無出断仏恩称名可披相嗜事、白河 以肝要愉旨、能々相心得可申候由御意愉、則披顕御印愉悦
             別邸郷法橋
     五月十三         頼廉(花押)
         西光寺 専念
これは本願寺の財務方の「法橋」からの礼状になります。
「青銅七百貨、植木五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状です。青銅七百貨は銭です。西光寺がそれだけの資金を準備できるお寺であり、それを支える門徒衆の存在がうかがえます。これは西光寺だけでなく、阿波の安楽寺や安芸門徒(広島)などの寺院も送っています。全国各地から多額の軍資金や兵糧が本願寺へ送られるのです。
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西光寺 白壁の塀には「銃眼」が開けられています

 信長は本願寺と戦うだけでなく、あちこちで一向一揆と壮絶な戦いを繰り広げています。本願寺にとってみれば、長島・越前など各地のの一向衆の一揆がたたき潰されていくのですから、生き残りをかけた戦いで敗れるわけにはいきません。ここで敗れることは本願寺王国の壊滅というせっぱつまった状況にあったのです。信長にとってみれば、本願寺をたたき潰すことにより、長年の一向一揆との戦いに終止符をうつことになるのです。お互いに負けることができない戦いがこの石山戦争なのです。そして、同時展開で西欧で展開されていた「宗教戦争」とも似ていました。
 そして本願寺は戦いの向こうに展望が開けて行くことになります。

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西光寺 東側はかつては海だった
どちらにしても、真宗の讃岐への伝播は
① 阿波ルートで「真宗興正寺派」が山から平野に
② 瀬戸内海ルートで「真宗本願寺」が海岸の港町を拠点に
讃岐に「教線拡大」していくのです。

参考文献 橋詰 茂 「讃岐における真宗の展開」
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絵図から探る200年前の瀬戸内海の港 宇多津

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「宇多津街道図」で、宇多津町の法華宗寺院本妙寺に伝わる絵図です。宇多津西部の町並みが海側から鳥瞰するように描かれてています。とは言っても、二百年前の作品で見たとおり退色が進み、何が書いてあるか分からない状態です。もとは衝立であったのが、その後に巻いた状態で保管されていたのでしょう。
 画面向かって右下に、「東埜原民馨」の署名があり江戸時代後期の讃岐の絵師、大原東野が描いたものであることがわかります。近世後期の宇多津を描いた貴重な絵画作品として、宇多津町指定有形文化財に指定されています。 
 200年前の宇多津の街並み散歩に出かけましょう
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 先ほどの絵図を香川県歴史博物館が調査のために描き起こした写真です。手前に、宇多津の北に広がる海が描かれます。画面向かって右中央には、鳥居から続く階段とやや高くなった岩山の上に神社が見えます。これが宇夫階神社です。鳥居を抜けて階段を登ると隨神門があり、その奥に本社の屋根が見えます。
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本社の横には、宇多津の海を見渡す位置に高松藩の遠見番所が描かれ、また隨神門の左横には神宮寺と思われる建物が見えます。階段下の鳥居の脇には一対の常夜燈が描かれています。これは現在も宇夫階神社の境内にある文政10年(1827)9月の建立銘文をもつ常夜燈でしょう。この絵が描かれたときには建立されたばかりでした。
 宇夫階神社の大きな鳥居のすぐ左横には、秋葉社の鳥居と階段らしきものが描かれています。その前から西町を通って東にのびる丸亀街道には、荷を担いて行き交う人々の姿が見えます。宇夫階神社の北側には、すぐそばまで海が迫っていることが分かります。神社の崖下を丸亀街道が通っています。
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 宇夫階神社の鳥居に帰ります。
そこから東に向かうと街道の中ほどから、本妙寺へと続く参道が上に伸びています。その角には元禄年間(1799)に建立された石碑が描かれています。現在、この石碑は参道の西側に場所を移しています。本妙寺は、他の建造物に比べると本堂の屋根の形などが比較的詳しく描写されています。 
 本妙寺の東には、郷照寺の塀や建物と、画面左端から続く参道が描かれます。
本妙寺と郷照寺の参道口の中ほどに、鳥居のような建造物と小さな祠のようなものが見えますが、これは現在も浄泉寺前にある祠と石造物を表したものでしょう。
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その西隣りに描かれた四角形の台が描写されています。
しかし、現在はこれに相当する建造物は見当たらないようです。上の絵図は江戸時代後期にまとめられた「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」に収められた挿絵「郷照寺 浄泉寺」です。ここには、郷照寺の下の街道沿いにこの四角形の台が描かれ「御旅所」と記されています。その位置から考えて、宇夫階神社の御旅所でしょう。しかし、現在では宇夫階神社の御旅所は田町神事場と聖通寺神事場で、それ以外で町の中に御旅所があったという話は伝わっていません。
再び宇夫階神社前に戻って画面を見てみましょう。
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鳥居の前から画面右下に向かって横町の街道がのび、浜町の街道と交わります。その交差点ある方形の堂宇は、「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」の挿絵「宗夫階社 神宮寺 秋葉社 神石社」によると釈迦堂です。そして道向こうにある長い屋根の建造物は十王堂です。
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その海側には方形をした池の中央に祠のある亀石神社が見え、掘割とつながる導入溝も描かれています。現在ではこの周辺は埋め立てられ、中央公園や小学校が建っていますが、当時は亀石神社から海側にのびる地が砂州となっています。この時期は石垣などで整備されていない様子がうかがわれます。
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 東西にのびる浜町の街道には町屋が並び、往来する人々の姿が見えます。また、西町と浜町に挟まれた幸町付近は、家屋などのない低地であったことが知られていますが、この絵でも植物の茂みのような表現が見られるだけで、自然状態の利用されていない土地であったようです。
最後に、浜町から北の海側に広がる区画を見てみましょう。
 海に突き出た堤防に沿って十八世紀中ごろから開発が始まった古浜塩田が見えます。堤防の根元には、海水を煮詰めるための釜屋らしき建物が見え、その横には、木々に囲まれた蛭子神社と鳥居が見えます。塩田の周囲は石を積んで護岸されており、掘割の入口には目印となる燈篭が見えます。周辺には、掘割の中も含めて数艘の船が行き来する様が描かれており、港町として賑わっていた宇多津の様子が描かれています。さて、この絵を描いたのは誰なのでしょうか?
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作者は、大阪から琴平に移り住んだ大原東野です。 
明和八年(1772)奈良に生まれ、後に大阪に住み画家となります。文政2年(1819)6月に、息子の萬年とともに讃岐を訪れ、金毘羅の参詣道を修造するために「象頭山行程修造之記」を著します。これは、丸亀から金毘羅に至る街道の現状を嘆いた東野が、施主の求めに応じて扇面から屏風まで様々な絵画を制作し、その代金を街道修繕の工賃にあてるというもので、木版刷りで広く配ったようです。その後、大阪に帰らずに苗田村(現琴平町)の丸亀街道沿いに家を構え、石津亮澄著「金毘羅山名勝図会」の挿絵を手がけた以外にも、数多くの花鳥、人物図などを描きました。
 画家としての東野は人物図を得意としましたが、「金毘羅山名勝図会」などの景観図を描く技術と経験も充分に備えていました。さらに、讃岐の琴平に移り住み、宇多津のことを充分に知り、その地形の特徴を把握したうえでこの作品に取り組んだと考えられます。11年(1840)に没しました。各種の藤を育てていたという寓居は「藤の棚」と呼ばれ、今も地名にその名が残っています。   

制作目的と制作年代は?

 描かれている範囲が町全体ではなく、宇多津西部の景観に限定されている理由は何でしょう。
 
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この絵には見るものの目線を画面の主題へと自然に導く構図の工夫があるようです。私たちの目線は、まず手前に広がる海から、掘割を通って宇多津の町に向かいます。そして横町、西町と街道をたどって進み、中ほどで掘割と平行するようにのびる参道を登って本妙寺に至ります。意識しなくても、大きな水路や道をたどれば、画面中央に描かれた本妙寺に自然に辿り着くという工夫です。しかし、本妙寺は特に強調して描かれることもなく、あくまでも周囲の景観にとけこむように表されています。ここからこの絵の主題は、本妙寺ではあっても、宇多津の町に一体化した佇まいをみせる寺の姿を描くことにあったのではないでしょうか。海から宇多津を訪れた人や、街道を行く人々には、青ノ山を背に、町並みから一段高く位置する本妙寺が、この絵のように見えたのでしょう。 
 景観年代については、宇夫階神社の鳥居横に描かれる常夜燈を現存のものとみれば、文政10年(1827)建立以降と考えられます。また作者の大原東野は天保11年(1840)に没していますので、それまでの制作されたことになります。いずれにしても、街道が整えられ、船も人も行きかう二百年前の宇多津を描いた貴重な絵画作品といえます。
 以上のように、日常的風景の中に本妙寺を中心として成立する宇多津の景観を描く工夫が織り込まれている点を考えると本妙寺の依頼によって描かれた可能性が高くなります。そして当初は、衝立のような複数の人と鑑賞を共有できる画面に、風景として本妙寺の姿を表現してみせたのがこの絵ではないでしょうか。
「香川県宇多æ´\ 本妙寺」の画像検索結果

 参考史料 松岡明子 近世の宇多津を描いた景観図

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