瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:守護細川氏

仁尾町の賀茂神社 - 三豊市、賀茂神社の写真 - トリップアドバイザー
仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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 3兵庫北関入船納帳.j5pg
兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
DSC03651
                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波の三好氏のような家臣登場の道にもつながりかねません。細川氏にとっては、宇多津の支配は重要な意味合いを持っていました。東讃岐に拠点を持つ安富氏を宇多津へと移動させたのは、このような思惑があったためだと研究者は考えています。
 
 宇多津を失った香川氏は、どうしたのでしょうか
  これに直接応える史料はないようです。考えられる事を箇条書きするのにとどめます
①堀江港に替わって、新たに桜川河口に新多度津港を開き、香川氏専用の港湾施設とした。
②白方に拠点を置いていた海賊衆山路氏を、配下に入れて輸送力や海上軍備の増強に努めた。
③三野方面へと勢力を伸ばし、三野氏や秋山氏を家臣団化した
④香西氏の代官を務める仁尾浦への介入を強めた。

応仁の乱を契機として、讃岐での細川氏の力は大きく減退し、在地の国人が活発に動きを見せるようになります。
それは守護細川氏の支配下から抜けだし、在地支配を強化していく道だったのでしょう。ところが、その前に阿波三好氏が侵人し、東讃岐の国人たちは従属していきます。
 その中にあって最後まで対抗したのは香川氏でした。香川氏が周辺国人たちを家臣団化し、戦国大名化していく様子がうかがえるのは、以前にお話した通りです。

以上をまとめておきます
①讃岐守護代の安富・香川氏は、関税フリーの国料船の運行権を持っていた。
②国料船の当初船籍は、安富氏が方元(屋島の潟元)、香川氏が宇多津であった
③その港湾管理体制が文安2(1445)年に変更され、宇多津を安富氏が管理するようになった④この背景には、守護細川氏の備讃瀬戸制海権や讃岐国内統治をめぐる思惑があった。
⑤備讃瀬戸に関しては、宇多津・塩飽を安富氏に任せることで制海権確保の布石とした
⑥讃岐統治策面では、台頭する香川氏の勢力拡大を阻止しようとした。
⑦しかし、応仁の乱の混乱で細川氏による讃岐支配体制が弱体化し、東讃は阿波の三好氏の配下に入れられていった。
⑧一方、西讃については西讃守護代の香川氏が戦国大名化し、最後まで「反三好」の旗印を掲げた。
⑨香川氏は、多度津港を拠点として瀬戸内海交易において経済的な富を獲得し、それが戦国大名化のための経済基礎となっていたふしかがある

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参考文献
 橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力所収
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