足利幕府のなかで、細川は一族の繁栄のために「同族連合」を形成していました。そのような中で勃発するのが応仁の乱です。10 年以上にわたって続いたこの乱は、足利将軍家での義視 対 義尚、畠山氏での持富対義就のほか、斯波氏、六角氏などでの同族内での主導権(家督)争いが招いた物とも云えます。これに対して細川一族は、内部抗争を起こすことなく、同族が連合することで、乱に対応しその後の発展につなげることができました。
応仁の乱の中で京兆家惣領勝元が死亡します。その危機的状況への対応策として生まれたのが「京兆家-内衆体制」だと研究者は考えています。
勝元が亡くなった時、後継者の政元はまだ7歳でした。
問題になるのが、誰に後見させるかです。そこで登場するのが内衆です。内衆とは、側近被官のことで、細川氏(京兆家)では、後醍醐天皇に追われた足利尊氏が九州から上洛する際に、被官化した者たちです。彼らは讃岐・阿波など瀬戸内海沿岸諸国の出身者が多かったようです。この者たちを同族連合の細川氏各家(各分国)の守護代や各種代官等に任命し、分国支配を任せるという統治スタイルです。これは、幕府と守護とが連携して中央と地方を支配するようなもので、京兆家と内衆が細川氏分国(細川同族連合)を連携しながら支配するという方法です。これを研究者は「京兆家-内衆体制」と呼んでいます。
問題になるのが、誰に後見させるかです。そこで登場するのが内衆です。内衆とは、側近被官のことで、細川氏(京兆家)では、後醍醐天皇に追われた足利尊氏が九州から上洛する際に、被官化した者たちです。彼らは讃岐・阿波など瀬戸内海沿岸諸国の出身者が多かったようです。この者たちを同族連合の細川氏各家(各分国)の守護代や各種代官等に任命し、分国支配を任せるという統治スタイルです。これは、幕府と守護とが連携して中央と地方を支配するようなもので、京兆家と内衆が細川氏分国(細川同族連合)を連携しながら支配するという方法です。これを研究者は「京兆家-内衆体制」と呼んでいます。
内衆のメンバーは、奉行人・評定衆・内衆・非譜代衆によって構成されます。そして、幼かった京兆家当主政元をもり立て、細川氏一族の強化を図ろうとします。うまく機能していた「京兆家-内衆体制」に、大きな問題が出てきます。それは政元は天狗道に熱中したことです。天狗になろうとして、修験道(天狗道)の修行に打ち込み、女人を寄せ付けません。そのため妻帯せず、後継者ができません。そこで3人の後継者候補(養子)が設定されます。


一人目は澄之。
関白を務めた九条政基の子息で現任関白尚経の弟です。関白は天皇の補佐役であり、公家のトップです。関白家出身の養子を後継者とすることで、武家(細川氏)と公家(九条家)が連合する政権構想があったことを研究者は推測します。しかし、これでは、細川氏の血脈が絶えてしまいます。
二人目は澄元。阿波守護家出身。
阿波守護家は細川氏一族では京兆家に次ぐ家格です。細川氏内部での統合・求心力を高めるには良いかもしれません。ところが、政元自身がこれには乗り気でなかったようです。
三人目が高国。京兆家の庶流である野州家の出身
政元が養子として認めたていたかどうかは、はっきりとしません。
どちらにしても、後継者候補が何人もいるというのは、お家騒動の元兇になります。それぞれの候補者を担ぐ家臣を含めたそれぞれの思惑が渦巻きます。互いの利害関係が複雑に交錯して、同族連合としてのまとまりに亀裂を生むことになります。応仁文明の乱を乗り切り、幕府内における優越した地位を保ち続けて来た細川同族連合の内紛の始まりです。これが織田信長上洛までの畿内地域の混乱の引き金となります。これが各分国にも波及します。讃岐もこの抗争の中に巻き込まれ、一足早く戦国動乱に突入していきます。
この口火を切ったのが細川政元の内衆だった讃岐の武将達のようです。
応仁の乱の際に 管領細川勝元の家臣として畿内で活躍した讃岐の4名の武将を南海通記は「細川四天王」と呼んでいます。当時のメンバーは以下の通りでした。
安富盛長(安富氏) - 讃岐雨滝城主(東讃岐守護代)香西元資(香西氏) - 讃岐勝賀城主奈良元安(奈良氏) - 讃岐聖通寺城主香川元明(香川氏) - 讃岐天霧城主(西讃岐守護代)
応仁の乱後に京兆家を継いだ細川政元も、この讃岐の四氏を内衆として配下に於いて政権基盤を固めていきます。中でも香西五郎左衛門と香西又六(元長)は「両香西」と呼ばれ、細川政元に近侍して、常に行動を共にしていたことは以前にお話ししました。それが後継者を巡る問題から、讃岐の「四天王」の子孫は、それまで仕えてきた細川政元を亡き者にします。その結果、引き起こされるクーデーター暗殺事件に端を発するのが永世の錯乱です。今回は、永世の錯乱当時の讃岐武将達の動きを史料でお押さえていきます。


「足利季世記」は、細川京兆家の管領で細川政元について、次のように記します。長文意訳です。
四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如きであった。ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であった。これは今の九条摂政太政大臣政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。この政基公の御末子を細川政元の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、細川源九郎澄之と名乗られた。澄之はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が与えられ入部された。
細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一という人があった。
その弟は与ニといい、兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。この人は一文字もわからないような愚人であった。が、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の輩は皆彼を信頼していた。先年、細川政元が病に臥せった時に、細川家の人々は協議して、阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体であるとして政元の養子と定めることにした。これを薬師寺を御使として御契約した。これも公方様より一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。
この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ現なき事を言い出した。
この様では、どうにもならないと、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して、六郎澄元を細川家の家督を相続させ政元を隠居させることで一致した。ここに謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は攻め落とされ、与一は自害することも出来ず生け捕りにされ京へと上らされた。与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、与ニはこの寺にて兄を切腹させた。与ニには今回の忠節の賞として、桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、新名などといった人々と寄り合い評定をした「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害(殺害)し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、われら各々は天下の権を取ろう。」と評議一決した。
1507(永正4)年6月23日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた。
そこを政元の右筆である戸倉と言う者が襲い殺害した。まことに浅ましい。この政元の傍に不断に仕える波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。この頃、政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けていた。また河内高屋へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、所々の敵たちは降参していた。しかし、政元殺害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討つために兵を向けた。明けて24日、薬師寺・香西を大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も深手を負い屋形の内へ引き返した。このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。この時、周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。中国西国は大方、将軍義材御所の味方となった。安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。
『宣胤卿記』(のぶたねきょうき)は、戦国時代の公卿・中御門宣胤の日記です。
1480(文明12)年正月から1522(大永29)年正月までの約40年の京を巡る政局がうかがえる史料のようです。細川政元の暗殺や細川澄元の敗死などの永正の錯乱については、次のように記します。
「宣胤卿記」1507(永正四)年六月二四日条去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣四十二歳。天下無双の権威。丹波。摂津。大和。河内・山城。讃岐・土佐等守護なり。被官竹田孫七のために殺害せらる。京中騒動す。
今日午刻、かの被官山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人、嵯峨より数千人を率い、細川六郎澄元政元朝臣養子。相続分なり。十九歳。去年阿波より上る。在所将軍家北隣なり。へ押し寄せ、終日合戦す。申斜、六郎敗北し、在所放火す。香西彦六討死す、同孫六翌日廿五日、死去すと云々。
六郎(澄元)同被官三好(之長)阿波より六郎召具す。棟梁なり。実名之長。落所江州甲賀郡。国人を憑むと云々。今度の子細は、九郎澄之自六郎より前の政元朝臣養子なり。実父前関白准后(九条)政基公御子。一九歳。家督相続の遺恨により、被官を相語らい、養父を殺さしむ。香西同心の儀と云々。言語道断の事なり。
意訳変換しておくと
細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。今回の子細については、澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父前関白准后(九条)政基公御子で一九歳である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちと相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
ここには細川政元暗殺の黒幕として、香西元長とその兄弟であると記されています。
その背景は、細川政元の後継者が阿波細川家の澄元に決定しそうになったことがあると指摘しています。そうなると、澄元の被官に三好之長が京兆家細川氏を牛耳るようになり、「細川四天王」と呼ばれた讃岐の香西・香川・安富・奈良氏にとっては出番がなくなります。また、今までの既得権利も失われていくことが考えられます。それを畏れた香西氏が他の三氏に謀って、考えられた暗殺クーデター事件と当時の有力者は見抜いていたようです。
「細川大心院記」永正四年六月二四日条には、次のように記します。
夏ノ夜ノ習トテホトナク明テ廿四日ニモ成ケレハ巳刻許二香西又六元長、同孫六元秋、同彦六元能兄弟三人嵯峨ヲ打立三千人計ニテ馳上リ其外路次二於テ馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ又六弟二心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕馳集り室町へ上リニ柳原口東ノ方ヨリ澄元ノ居所安富力私宅二押寄ル。
意訳変換しておくと
細川政元が暗殺された夜が開けて24日になると、香西又六元長と実弟の孫六元秋、彦六元能兄弟三人は、阿波細川澄元の舘を襲撃した。三千人ほどの兵力で嵯峨を馳上り、その途上で駆けつけた者達の数は分からない。又六元長の弟や心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕なども、これに加わり室町へ上リ、柳原口東方から澄元の居所へ安富勢とともに押し寄せた。
ここには細川澄元舘を襲撃した讃岐の四天王の子孫の名前が次のように記されています。
①香西又六元長・弟 孫六元秋(討死)・彦六元能(討死)②香川上野介満景③安富新兵衛尉元顕
奈良氏の名前は見えないようです。
細川政元暗殺クーデターの立案について「不問物語」( 香西又六与六郎澄元合戦事)は、次のように記します。
香西又六元長ハ嵯峨二居テ、一向ニシラサリケり。舎弟孫六・同彦六ナトハ同意ニテ九郎澄之ヲ家督ニナシ、六郎澄元并三好之長・沢蔵軒等ヲモ退治セハヤト思テ又六二云ケルハ、「過し夜、政元生害之事、六郎澄元・同三好等力所行也。イカヽセン」卜有間、又六大驚、「其儀一定ナラハ、別ノ子細ハ有マシ。只取懸申ヘシ」トテ、兄弟三人嵯峨ヲ千人余ニテ打立ケリ。於路頭馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ舎弟心珠院二申合間、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕、室町ヲノホリニ柳原口東ノ方ヨリ澄元屋形故安富筑後守力私宅二押寄、
意訳変換しておくと
香西又六元長は、嵯峨で細川高国暗殺計画について始めて一行に知らせた。舎弟の孫六・同彦六は同意して細川澄之を京兆家の家督として、六郎澄元とその側近の阿波の三好之長・沢蔵軒等を亡き者にする計画を又六に告げた。「夜半に、政元を殺害し、その後に細川・三好等なども襲う手はずで如何か」と問うた。これに又六(元長)は大いに驚きながらも、「それしか道はないようだ、それでいこう、ただ実行あるのみ」と、兄弟三人は嵯峨を千人余りで出発した。道すがらの路頭で馳付た数は分からない。京都には舎弟心珠院がいて、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕が加わり、柳原口東方から澄元屋形へ安富筑後守力私宅二押寄、
「細川大心院記」永正四年七月八日条には、次のように記します。
去程二京都ニハ澄之家督ノ御内書頂戴有テ丹波国ョリ上洛アリ。大心院殿御荼昆七月八日〈十一日イ〉被取行。七日々々ノ御仏事御中陰以下大心院二於厳重ニソ其沙汰アリケリ。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠。香西又六元長・心珠院宗純o長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。其外ノ面々各出仕申。
意訳変換しておくと
細川政元に命じられて丹波駐屯中であった澄之は京に上がって、細川京兆家の家督を継ぐことになった。その後に大心院殿で(細川政元)の法要を7月8日に執り行った。御仏事御中陰など大心院での儀式については、厳重な沙汰があった。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠・香西又六元長・心珠院宗純・長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。その外の面々各出仕した。

政元亡き後の京都へ、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた細川澄之が呼び戻されます。澄之は7月8日に上洛し、将軍足利義澄より京兆家の家督と認められます。そして政川政元の中陰供養が行われます。ここに参加しているメンバーが澄之政権を支えるメンバーだったようです。そこには奈良氏を除く讃岐の「細川四天王」の名前が見えます。こうしてクーデター計画は成功裏に終わったかのように見えました。 ここまでは香西氏など、讃岐武将の思惑通りにことが運んだようです。しかし、細川澄元とその被官三好之長は逃してしまいます。これが大きな禍根となります。そして、香西元長は戦闘で二人の弟を失いました。
香西家など讃岐内衆による澄元の追放を傍観していた細川一家衆は、8月1日に反撃を開始します。
典厩家の政賢、野州家の細川高国、淡路守護家の尚春などの兵が澄之方を襲撃します。この戦いは一日で終わり、澄之は自害、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐両守護代の香川満景・安富元顕は討死にします。それを伝える史料を見ておきましょう。
後の軍記物「應仁後記」には、細川澄之の敗北と切腹について次のように記します。
細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで近江甲賀の軍士を集めた。また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって攻め上がった。昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には自身も討ち死にした。これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せた。残る香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、香西元長も流れ矢に当たって死んだ。この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」九郎澄之は「それは覚悟している」そう言って硯を出し文を書いた「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。奥には一種の歌が詠まれた。梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、尋常に腹を切って死んだ。波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。
一次資料の「宣胤卿記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
早旦、京中物念。上辺において己に合戦ありと云々。巷説分明ならず。人を遣し見せしむるの処、細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督也。在所大樹御在所之北、上京小路の名なき所なり。に押し寄すと云々。(中略)九郎澄之。十九歳。己に切腹す。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等、九郎方として討死にすと云々。
意訳変換しておくと
8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告した。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。
「多聞院日記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
今暁、細川一家并に落中辺土の一揆沙汰にて九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒差し懸り合戦に及ぶと云々。則ち九郎殿御腹召されおわんぬ。波々伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助その外十人計り生涯すと云々。薬師寺宿所にては三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)その外三十人許り。嵐山城則ち焼き払いおわんぬ。
意訳変換しておくと
本日の早朝に洛中辺土で一揆沙汰があって、細川一家が九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒を襲撃し合戦になったと人々が云っている。九郎(澄之)殿は切腹されたようだ。その他にも、伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助など十人あまりが討ち死にしたと伝えられる。薬師寺宿所では、三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)など三十人あまりが討ち取られた。そして、嵐山城は焼き払らわれた。
日記などの一次資料はシンプルです。それが、後に尾ひれが付いて、周りの情景も描き込まれて物語り風になっていきます。当然、その分だけ分量も多くなります。
嵐山城は香西元長が築いた山城です。
場所は観光名所の桂川を見下ろす嵐山山頂にあります。渡月橋からは西山トレイルが整備されていて、嵐山城址まで迷うことなくたどり着くことができます。山道をひたすら登っていくと、城址最南端に穿たれた堀切が現われ、 そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開しているようです。
場所は観光名所の桂川を見下ろす嵐山山頂にあります。渡月橋からは西山トレイルが整備されていて、嵐山城址まで迷うことなくたどり着くことができます。山道をひたすら登っていくと、城址最南端に穿たれた堀切が現われ、 そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開しているようです。
「細川大心院記」永正四年八月一日条で、讃岐内衆の最後を見ておきましょう。
サテ八月朔日卯ノ刻二澄之ノ居所遊初軒ヘハ淡路守尚春ヲ大将トシテ大勢ニテ押寄ル。香西又六(元長) ハ私宅二火ヲ欠テ薬師寺三郎左衛門 (長忠)力宿所二馳加ル。同香川。安富モ一所ニソ集リケル。(中略)安富ハ落行ケルヲヤカテ道ニテソ討レケル。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
意訳変換しておくと
8月1日卯ノ刻に澄之の居所遊初軒へ淡路守尚春を大将として大軍が押し寄せた。香西又六(元長)は、私宅に火をつけて、薬師寺三郎左衛門 (長忠)の宿所に合流した。また讃岐の香川・安富も同所に集結して防戦した。(中略)安富は落ちのびていく道筋で討たれた。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。細川政元暗殺後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。
細川澄之と讃岐内衆が討ち取られた後のことを史料は、次のように記します。
京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのがただこの頃の反復である。両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河(川)たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ堀を掘った。城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、落書が書かれたきこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほりさりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれこの返事と思しいものでなからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさんこの他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。
細川政元暗殺クーデターを起こした讃岐内衆は、阿波の三好氏の担ぐ細川澄元の反撃を受けて、嵐山の麓で敗死したようです。嵐山が讃岐内衆の墓場となりました。そして、このような激動は讃岐や阿波へも波及していきます。
まず、棟梁を失った香川・香西・安富氏などでは相続を巡って讃岐で一族間の抗争が起こったことが考えられます。また、阿波三好氏は、この機会に讃岐への侵攻を進めようとします。そして、半世紀後には、讃岐の大半は三好氏の配下に置かれることになります。永世の錯乱は、讃岐にとっても戦国乱世への入口の扉をあけてしまう結果を招いたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まず、棟梁を失った香川・香西・安富氏などでは相続を巡って讃岐で一族間の抗争が起こったことが考えられます。また、阿波三好氏は、この機会に讃岐への侵攻を進めようとします。そして、半世紀後には、讃岐の大半は三好氏の配下に置かれることになります。永世の錯乱は、讃岐にとっても戦国乱世への入口の扉をあけてしまう結果を招いたようです。
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参考文献
田中健二 京兆家内衆・讃岐守守護代安富元家についての再考察
香川県立文書館紀要 第25号(2022)
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