前回は丸亀平野の元吉城攻防戦が、織田信長と毛利氏の備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争の舞台となったことを見ました。阿波三好氏は、そのどちらに加担するかをめぐって混乱状態となります。それを収拾したのが淡路から帰ってきた十河存保でした。彼によって再興された阿波三好家は、足利義昭や毛利氏を中心とする反織田ネットワークに組み込まれます。このため、阿波・讃岐は織田氏や織田氏と結ぶ土佐の長宗我部氏の攻勢に晒されるようになります。この辺りは分かりにくいところなので、最初に信長と長宗我部元親の関係を整理しておきます。
元親の正室は美濃の名門土岐一の石谷頼蔵の妹で、頼蔵は明智光秀の重臣です。
土岐家・明智家、光秀と長宗我部家との関係は古く、元親の正室は、土岐の一族である石谷光政の娘でした。さらに、光秀の家臣である斎藤利三の兄、頼辰は石谷光政の嫡男として養子に入っています。
また、光秀と元親の関係は、信長の上洛の前(1568年)からあり、『元親記』には次のように記されています。
土岐家・明智家、光秀と長宗我部家との関係は古く、元親の正室は、土岐の一族である石谷光政の娘でした。さらに、光秀の家臣である斎藤利三の兄、頼辰は石谷光政の嫡男として養子に入っています。
また、光秀と元親の関係は、信長の上洛の前(1568年)からあり、『元親記』には次のように記されています。
長曾我部氏は、信長公とは御上洛前から交流があった。その取り次ぎは明智光秀殿であった

信長の対長宗我部元親政策の転換背景
元親はこの人脈を頼りに織田信長に接近したようです。そして信長に嫡男の弥三郎の烏帽子親になってもらうことに成功します。信長から一字拝領した弥三郎はこれより信親と名乗るようになります。
長宗我部元親の外交戦略 信長と組んで阿波の三好を攻める
信長という大きな後ろ盾を得た元親は、二方面から阿波に侵攻し、天正7年(1579)に阿波国岩倉城の三好氏を攻め、三好山城守康長の嫡男の三好康俊を降伏させます。

『元親記』によると、元親は天正8年(1580)6月に、弟の香宗我部親泰を安土へ送り、信長から四国は元親の手柄次第でいくらでも切り取ってよいという許しを得と南海通記は記します。しかし、先ほど見た石谷家文書からは、これよりも先に、長宗我部元親は信長に接近していたことが分かります。
当時の四国には長宗我部氏への対抗勢力がいくつもありました。伊予国の西園寺公広や河野氏、阿波国の三好康長、讃岐の十河(三好)存保らです。彼らはまずは秀吉に使者を立て、元親の野心を伝え、その脅威を説きます。秀吉の進言によって、信長は「四国=長宗我部元親切り取り自由」容認政策を転換します。つまり、一度は四国を好きに切り取ってよしという許可を与えておきながら、手のひらを返すように三好康長を支援する立場に変わった信長と戦うことを決意したのです。
このような中で、それまで三好氏に従ってきた安富氏も独自の判断を迫られるようになります。安富氏が織田権力とどのように関係を持ったのかを見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021年」です。

まず備前の宇喜多直家が、小豆島の領主・須佐美紀伊守に宛てた書状を見ておきましょう。
【史料1】宇喜多直家書状「中野嘉太郎氏旧蔵文書」
先日被対左衛門進、如預御内証下警固雖乗上甲斐々敷儀無之、於千今ハ失手成候、殊急度為御先勢、始羽筑(秀吉)歴々被指下候、大坂之義、大概相澄之条、羽筑申談御注進申上候ハ、可被出 御馬之由、御朱印頂戴、此度中国之儀、相澄可申与存候、此等之趣、雨滝(城=安富氏)へも可頂御伝達候、呉々先日御内証快然之至候、猶左衛門進申入之条、不能審候、恐々謹言、宇泉(宇喜多) 直家(花押)三月二十四日須紀 御宿所
意訳変換しておくと
意訳変換しておくと先日、左衛門進の働きぶりにを見ましたが、警固や乗馬などかいがいしく勤めている。羽筑(秀吉)の働きで、大坂の石山本願寺については、大方決着がついた。そこで羽筑秀吉から次のような指示が送られてきた。 四国平定について御朱印を頂戴したので、中国平定に片が着き次第、速やかに実行に移す。ついてはこの旨を、雨滝(城=安富氏)へも連絡するように伝達があった。呉々先日御内証快然之至候、なお、左衛門進についての申入については心配無用である。恐々謹言、宇泉(宇喜多) 直家(花押)三月二十四日須紀 御宿所
ここからは、備前の字喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉からの情報を小豆島の領主須佐美紀伊守に伝え、それを「雨滝」への伝達を命じていることが分かります。
ここからは次のような情報が得られます
①備前の宇喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉に配下に組み入れられていたこと②宇喜多直家は、小豆島の須佐美紀伊守を配下に置いて、人質を取っていたこと③須佐美紀伊守に対して、秀吉の伝令を雨滝城の安富氏に伝えるように命じていること。
ここからは次のような命令系統が見えて来ます
信長 → 秀吉 → 備前岡山の宇喜多直家 → 小豆島の須佐美紀伊守 →
→ 雨滝城の安富氏 → 讃岐惣国衆
ここに登場する 宇喜多直家について押さえておきます。

①美作守護の赤松氏の被官人の浦上氏が前守護代として自立②浦上宗景(むねかげ)の下で、有力武将に成長し岡山城(石山城)を拠点に勢力拡大③これが備前福岡などの東部地域から備前中央部の岡山城下へ経済的中心の移動につながる④主君の浦上宗景(むねかげ)が織田方に付いたのに対して足利義昭の仲介で毛利氏と和議⑤織田方に付いた備中松山三村元親を、毛利勢と共に攻め落として所領拡大。⑥さらに主君浦上宗景の天神山城を攻め、美作、播磨まで兵を進めて制圧⑦下剋上を成し遂げた宇喜多直家は、備前、美作そして播磨の一部を領有する有力大名へ⑧ところが羽柴秀吉が中国地方攻略に乗り出してくると、直家は秀吉方へ付き、織田方の先鋒として、攻め寄せる毛利の大軍と再三にわたり激戦を展開
この書簡は、直家が秀吉と密に連絡していることや本願寺との交渉を記しているので、天正8(1580)年のものと研究者は判断します。小豆島の領主・須紀(須佐見)を通じて、「雨滝」との連絡が行われていたことが分かります。ここでは1580年には、安富氏は織田方についていたこと押さえておきます。
上の表からは、長宗我部元親の阿波侵攻に対して、篠原氏や安富氏が人質を秀吉に出して保護を求めていることが分かります。秀吉は黒田官兵衛に命じて、篠原氏の木津城や撫養の土佐泊城に戦略物資を容れています。

上の表からは、長宗我部元親の阿波侵攻に対して、篠原氏や安富氏が人質を秀吉に出して保護を求めていることが分かります。秀吉は黒田官兵衛に命じて、篠原氏の木津城や撫養の土佐泊城に戦略物資を容れています。

撫養の土佐泊城(緑内部)
【史料10】長宗我部元親書状写「土佐国議簡集」
此度申合旨、宜無相違土佐泊之者共悉被討呆旨、安富方同前可被遂御忠儀者、三木郡共外壱郡於隣国可進之候、無異儀御知行候、恐々謹言、長宮 (長宗我部)元親 (花押)九月十六日篠弾入 御宿所
意訳変換しておくと
この度の約束について以下が相違ないことを明記しておく。土佐泊を討ち取った場合には、安富方の忠儀として、讃岐三木郡とそれ以外の壱郡を知行地として与えることを約束する。恐々謹言、長宮 (長宗我部)元親 (花押)九月十六日篠弾入 (篠原実長(弾正忠入道)御宿所
ここからは、長宗我部元親が篠原実長に対し、阿波で最後まで抵抗している撫養の土佐泊城を落としたら、讃岐国の三木郡とその他一部を与えることを約束していたことが分かります。篠原実長は阿波三好家の重臣です。その篠原氏を長宗我部元親が調略ができたのは、阿波三好家の内紛で十河存保が讃岐に逃れていた天正8年(1580)のことと研究者は判断します。
ここで研究者が注目するのは実長に求められるのが「安富方同前」の「忠儀」であることです。ここからは安富氏が長宗我部氏の配下として動いていることが分かります。安富氏は織田方に身を投じながらも、織田氏の同盟者である長宗我部氏と連携していたことがうかがえます。
ここで研究者が注目するのは実長に求められるのが「安富方同前」の「忠儀」であることです。ここからは安富氏が長宗我部氏の配下として動いていることが分かります。安富氏は織田方に身を投じながらも、織田氏の同盟者である長宗我部氏と連携していたことがうかがえます。
長宗我部元親の書状です。三好康慶が讃岐の安富氏の居館に下向してくることを伝えています。
【史料11】長宗我部元親書状写(部分)「吉田文書」
【史料11】長宗我部元親書状写(部分)「吉田文書」
一、三好山城守(康慶)近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、
意訳変換しておくと
一、三好山城守(康慶)が近日中に、讃州の安富氏の居館を訪れる予定である。子細については、使者が口頭で説明する。
この文書には天正8(1580)年11月24日付の書状写の一部とされます。 三好康慶が「安富館」(雨滝城)に下向する予定があると記されます。この他にも、阿波の勝瑞が本願寺の残党によって占拠されていることにも触れられています。こうした状況の中で安富氏の天霧城は、信長勢力の四国での重要拠点としての役割を果たしていたと研究者は考えています。これを裏付けるのが次の書簡です。
【史料12】松井友閑書状「志岐家旧蔵文書」
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就共阿・讃之儀、三好山城守(康慶)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時ニ両国不残一着候様ニ可被仰付候、可被得其意之旨、可申届之通、上意候間、其元□□二□[一、尤専用候、猶追々可中候、恐々謹言、宮内卿法印 友感(閑) (花押)十一月二十三日安富筑後守殿安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度、淡路平定が完了したので、次の課題となる阿波・讃岐の平定について、三好山城守(康慶)を派遣するので、定められた日時に、定められた兵員数を即時に出兵できるように両国の国衆たちに仰せつけておくように。この申し届けを上意として受け止めた物に対しては、後々に褒美を使わすものである。恐々謹言、宮内卿法印 友感(閑) (花押)十一月二十三日安富筑後守殿安富又三郎殿御宿所
送り主の「宮内卿法印友感(閑)」は、信長の側近である松井友閑です。
天正9年(1581)に淡路が羽柴秀吉・池田元助によって平定された後のことで、阿波・讃岐計略について三好康慶が「安富館」(雨滝城)に派遣されること、阿波・讃岐の両国の諸勢が、その指示に従って動くように安富氏に伝えています。この翌年には織田氏は康慶の養子となった信長三男信孝を主将として四国平定を計画します。その計画の初見が、この文書になるようです。
ここに登場する三好山城守(康慶:やすなが)を押さえておきます。
ここに登場する三好山城守(康慶:やすなが)を押さえておきます。

三好康長は阿波三好氏の一門衆で、兄の三好元長が宗家を継ぎ、その子・三好長慶は甥にあたります。畿内で転戦後に、信長の配下となり、阿波に強い地盤を持つ三好一族として影響力を評価され、織田軍の四国攻略の担当に抜擢されます。まず、天正6(1578)年には、淡路の安宅信康に働きかけて自陣に引き込みます。この頃に、三好康長と秀吉は接近しはじめます。秀吉のねらいは、当時交戦中だった毛利氏に対抗するために、三好氏の水軍を味方につけることでした。さらに、康長の子の三好康俊(式部少輔)は長宗我部側にあって、岩倉城主でした。そのため自分の子を織田方へ寝返らせるために、秀吉が送り込んできたようです。その受入口が安富氏の雨瀧城ということになります。天正9(1581年)1月に、康長は雨滝城にやってきて、情報収集や分析を行った後に阿波に入ります。そして長宗我部氏に属していた自分の子の三好康俊を織田側へ寝返らせることに成功します。
天正10(1582)年2月9日、三好康長に再度「三好山城守、四国へ出陣すべき事」の書状が信長から届きます 。今度は長宗我部元親を討つ四国遠征に先んじて再び阿波に渡たります。5月7日付の信孝宛の朱印状には、次のように記されています。
①信長の三男信孝を三好康長の養子とする。②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
『宇野主水日記』同年6月1日条には、このとき康長が信孝を養子とする事も内定していたと記されています。こうして、5月1日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日の出港に向けて準備を進めていました。ところが、6月2日に本能寺の変が起きて信長が光秀に殺されてしまいます。そのため信孝の出征は急遽、中止となります。この時、康長は阿波一宮城と夷山城を攻略中でした。6月3日に知らせを受けると、急ぎ兵をまとめて河内に戻り、上洛します。
ここでは信長による四国平定の立案責任者が三好康慶であったこと、康慶は安富氏の雨滝城を足場にして阿波に入っていることを押さえておきます。安富氏は阿波・讃岐の親織田勢力のまとめ役を果たしていたことになります。
最後に当時の安富氏の居城とされる雨瀧城を見ておきます。

最後に当時の安富氏の居城とされる雨瀧城を見ておきます。

髙松平野の東端に位置する雨瀧城
「雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていました。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。
『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています。




①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。つまり、安富氏も瀬戸内海交易の活動メンバーの一員だったのです。
雨瀧城の町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります。
「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・
「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」
これらの地名がある場所を確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨滝城 奥宮内居館跡
以上をまとめておきます。
①天正6年(1578)の阿波三好家再興後も安富氏は三好氏に属していた。
②それが1580年頃から羽柴秀吉・宇喜多直家の調略や本願寺が織田氏に屈服したことを受けて織田方として動き始めまる。
③こうした動きは阿波三好家の三好存保(義堅)の指示によるものでなく、安富氏独自の判断によるものであった。
④安富氏は織田方の三好康慶の下向先でもあり、織田氏の意向を讃岐や阿波ヘ伝達する役割を担うなど、信長の四国平定政策の重要な役割を担う一員であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究 四国中世史研究16号 2021年」最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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