宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。
安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。
東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。
①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
意訳変換しておくと
①11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。
ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。
② 五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也
意訳変換しておくと
② 五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク一 入福丸二百石積 庄五郎船一 灘古丸二百石 七之助船一 弁天丸 百石 市蔵船以上大破之分右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云一 長水丸 百石 和吉船一 末吉丸六十石 宮次郎船一 宝水丸 百石 利吉船一 長久丸六十石 元助船以上小破之分右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。一 入福丸二百石積 庄五郎船一 灘古丸二百石 七之助船一 弁天丸 百石 市蔵船この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。以下の4艘は小破であった。一 長水丸 百石 和吉船一 末吉丸六十石 宮次郎船一 宝水丸 百石 利吉船一 長久丸六十石 元助船この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、森田健助鎌田多兵衛本条和太右衛門サマ渡辺五百之助サマ右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、阿河加藤次十一月十五日内濱 新濱屋内 洲賀新地
意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。
④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。
阿野北郡郡図
⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、十一月十六日出( 中略 )
意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。
一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、十一月十六日出( 中略 )
ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、近藤本之進十一月念三日坂出村宮崎善次郎サマ人々御中
意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵以上、評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵以上、評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、又評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )
意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。又評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
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坂出市史
参考文献「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
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