瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:安楽寺末寺

真宗興正派の研修会でお話しした内容の3回目です。今回は、美馬・安楽寺の丸亀平野への教線ルートを見ていきたいと思います。最初に安楽寺の丸亀平野の末寺を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

これをグーグル地図に落とすと次のようになります。

安楽寺末寺分布図 丸亀平野

黄色いポイントが初回に見た三木の常光寺の末寺です。緑ポイントが安楽寺の末寺になります。右隅が勝浦の常光寺です。そこから土器川沿いに下っていくと、長尾氏の居城であった城山周囲のまんのう町・長尾・長炭や丸亀市の岡田・栗熊に末寺が分布します。これらの寺は建立由来を長尾氏の子孫によるものとする所が多いのが特徴です。
 また、土器川左岸では垂水に浄楽寺があります。

垂水の浄楽寺

ここには垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転し再建されたと伝えられます。これは垂水の檀家衆の誘致に応えてのことでしょう。ここからも山にあった真宗興正派の寺が里へ下りてくる動きがうかがえます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
 
讃岐の真宗寺院で本願寺から木仏が付与されているのは寛永18(1641)年前後が最も多いようです。その中で、安楽寺末寺で木仏付与が早いのが上の4ケ寺になります。この4ヶ寺を見ておくことにします。
安楽寺の丸亀平野の拠点は、勝浦の長善寺であったと私は考えています。

イメージ 2
かつての長善寺(まんのう町勝浦)
  「琴南町誌」は、長善寺について次のように記します。
 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を含めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

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旧長善寺の鐘楼(鉦の代わりに石が吊されていた)
大川山に登るときには、よくこの寺を訪ねて縁側で、奥さんからいろいろな話を聞かせてもらったことを思い出します。檀家が阿波と讃岐で千軒近いこと、旧本堂は惣ケヤキ造りで、各ソラの集落の檀家から持ち寄られた檜材が使われたこと。阿波にも檀家が多いというのは、阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていたことが考えられます。


DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺(旧勝浦小学校跡)
次に長炭の尊光寺の由来を見ておきましょう。
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尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺中興開基玄正
上の史料整理すると
尊光寺中興開基玄正2

ここで確認しておきたいことは、安楽寺からやって来た僧侶によって開かれた寺というのはあまりないことです。開基者は、武士から帰農した長尾氏出身者というのが多いようです。

寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村  乗正坊
C 南条郡羽床村   乗円坊
D 南条郡羽床村   弐刀
E 北条郡坂出村   源用坊
F 宇足郡岡田村   了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村   源勝坊

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺
現在、グーグル地図には岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
この時期の真宗の教線拡大について、私は次のように考えています。
中世の布教シーン
 
世の村です。前面に武士の棟梁の居館が描かれています。秋の取り入れで、いろいろな貢納品が運び込まれています。それを一つずつ領主が目録を見て、チェックしています。武士の舘は堀や柵に囲まれ、物見櫓もあって要塞化されています。堀の外の馬に乗った巡回の武士に、従者が何か報告しています。
「あいつら今日もやってきていますぜ」
指さす方を見ると、大きな農家に大勢の人達が集まっています。拡大して見ましょう

中世の布教シーン2

後に大きな寺院が見えます。その前の家の庭に人々が集まっています。その真ん中にいるのは念仏聖(僧侶)です。聖は、定期市の立つ日に、この家にやって来て説法を行います。それだけでなく、お勤めの終わった後の常会では、病気や怪我の治療から、農作物や農学、さらにさまざまなアドバイを夜が更けるまで与えます。こうして村人の信頼を得ていきます。この家の床の間に、六寺名号が掲げられると、道場になります。主人は毛坊主になり、その息子は正式に得度して僧侶になり、寺院に発展していくという話になります。

蓮如の布教戦略を見ておきましょう。
蓮如は、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。そして
、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。


「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」


意訳変換しておくと

各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ


 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。

   岐阜県大野郡の旧清見村では、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。

①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ

②蓮如から六字名号(後には絵像本尊)を下付され

③それを自分の家の一室の床の間にかけ、

④香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。

⑤これを内道場または家道場という

⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。

⑦長百姓は毛坊主として集会の宗教儀礼を主宰する。

⑧村人の真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。

⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。

⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

この長百姓の役割を果たしたのが、帰農した長尾氏の一族達ではなかったのかと私は考えています。
 長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

安楽寺の丸亀平野への教線ルートをまとめておきます
①勝浦の長善寺が拠点となった
②長尾氏が在野に下り、帰農する時期に安楽寺の教線ラインは伸びてきた
③仕官の道が開けなかった長尾氏は、安楽寺の末寺を開基することで地域での影響力を残そうとした。
④そのため阿野郡の城山周辺には、長尾氏を開基とする安楽寺の末寺が多い。
今回は、このあたりまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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讃岐への真宗興正派の教線拡大は、三木の常光寺と阿波の安楽寺によって担われていたことが従来から云われてきました。前回はこれに対して、ふたつの寺の由緒を比較して、次のような点を指摘しました。
①常光寺と安楽寺は、興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって同時期に開かれた寺ではないこと
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったこと
③両寺の開基年代が1368年というのは、時代背景などから考えると早すぎる年代であること。
安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里:吉野川の河岸段丘上にある)

それでは安楽寺の讃岐布教の開始は、いつ頃だったのでしょうか。
16世紀初頭になると阿波では、守護細川氏に代わって三好氏が実権を握る「下克上」が進んで行きます。美馬郡里周辺でも三好氏の勢力が及んできます。そのような中で、大きな危機が安楽寺を襲います。
そのことについて寺史には「火災で郡里を離れ、讃岐財田に転じて宝光寺を建てた」と、そっけなく記すだけです。しかし、火災にあっただけなら再建は、もとの場所に行うのが自然です。どうしてわざわざ阿讃山脈を越えて、讃岐財田までやってきたのでしょうか。

安楽寺讃岐亡命事件

それを解く鍵は、安楽寺文書の中でもっとも古い「三好千熊丸諸役免許状」にあります。
従①興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世申候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言
      三好千熊丸
永正十七年十二月十八日              
郡里 安楽寺
意訳変換しておくと

①興正寺正寺殿からの口添えがあり、②安楽寺の還住を許可する。還住した際には、③諸役を免除する。もし、④違乱するものがあれば、ただちに(私が)が成敗を加える

三好千熊丸(長慶?)から郡里の安楽寺に和えられた書状です。日付は1520年12月ですから、亡命先の讃岐の財田に届けられたことになります。ちなみに、四国における真宗寺院関係の史料では、一番古いものになるようです。これより古いものは見つかっていません。ここからは四国への真宗布教は、本願寺に蓮如が登場した後のことであることがうかがえます。
三好長慶

 三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。

もう少し深く、三好千熊丸諸役免許状を見ておきます。
和解書というのは、騒動原因となった諸要因を取り除くことが主眼になります。ここからは③④が「亡命」の原因であったのかがうかがえます。 
③賦役・課税をめぐる対立
④高越山など真言勢力の圧迫 
親鸞・蓮如が比叡山の僧兵達から攻撃を受けたのと同じようなことが、阿波でも生じていた。これに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な一時退避行動ではなかったと私は考えています。
②の「特権を認めるからもどってこい」というのは、裏返すと安楽寺なしでは困る状態に郡里がなっている。安楽寺の存在の大きさを示しているようです。
もうひとつ注目しておきたいのは、書状の最初に出てくる①の興正寺の果たした役割です。
この時代の興正寺門主は2代目の蓮秀で、蓮如の意を汲んで西国への布教活動を積極的に進めた人物です。彼が三好氏と安楽寺の調停を行っています。ある意味、蓮秀は安楽寺にとっては、危機を救ってくれた救世主とも云えます。これを機に、安楽寺は本願寺から興正寺末へ転じたのではないでしょうか。
     
   財田亡命で安楽寺が得たもの何か?
①危機の中での集団生活で、団結心や宗教的情熱の高揚
②布教活動のノウハウと讃岐の情報・人脈
③寺を挙げての「讃岐偵察活動」でもあった
④興正寺蓮秀の教線拡大に対する強い願い
⑤讃岐への本格的布教活動開始=1520年以後
財田亡命は結果的には、目的意識をはぐくみための合宿活動であり、讃岐布教のための「集団偵察活動」になったようです。その結果、次に進むべき道がみえてきます。
④そこに、働きかけてきたのが興正寺蓮秀です。彼の教線拡大に対する強い願い。それに応えるだけの能力や組織を讃岐財田から帰還後の安楽寺は持っていました。それは、1520年以後のことになります。そして、それは三好氏の讃岐侵攻と重なります。
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「南海通記」で、讃岐への三好氏の侵攻を要約すると次のようになります。
1507年 細川家の派閥抗争で養子澄之による正元暗殺で、細川家の内紛開始。「讃岐守護代香川・安富等は、澄之方として討死」とあり、讃岐守護の澄之方についた香西・香川・安富家の本家は断絶滅亡。以後、讃岐で活躍するのは、これらの分家。一方、阿波では、勝利した細川澄元派を押した三好氏が台頭。
1523年 東讃長尾荘をめぐって寒川氏と守護代安富氏・山田郡十河氏が対立開始。これに乗じて、三好長慶の弟三好義賢(実休)が十河氏と結んで讃岐に進出し、実休の弟一存が十河氏を相続。こうして三好氏は、東讃に拠点を確保。
1543年には、安富・寒川・香西氏も三好氏に服従。16世紀半ば頃には、東讃は三好氏の支配体制下へ組み込まれた。
 そして、三好氏は丸亀平野へ進出開始。雨霧城攻防戦の末に、香川氏を駆逐し、三好氏による讃岐支配体制が完成。讃岐の国人たちは、服従した三好長慶の軍に加わり、畿内を転戦。その時に東讃軍を率いたのは十河氏、西讃軍を率いたのは三好氏の重臣篠原長房。
以上からは次のような事が分かります
①細川氏の内紛によって、阿波では三好長慶が実権を握ったこと。
②三好氏は十河氏などと組んで、16世紀半ばまでには東讃を押さえたこと
③16世紀後半になると丸亀平野に進出し、西長尾城の長尾氏などを配下に組み入れたこと
④そして天霧城の香川氏と攻防を展開したこと
  先ほど見たように「三好千熊丸諸役免許状」によって、三好氏から安楽寺が免税・保護特権を得たのが1520年でした。その時期は、三好氏の讃岐侵攻と重なります。また侵攻ルートと安楽寺の教線伸張ルートも重なります。ここからは、安楽寺の讃岐への布教は三好氏の保護を受けて行われていたことが考えられます。三好氏の勢力下になったエリアに、安楽寺の布教僧侶がやってきて道場を開く。それを三好氏は保護する。そんな光景が見えてきます。

安楽寺末寺17世紀

約百年後の1626年の安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図です。
百年間で、これだけの末寺を増やして行ったことになります。ここからは何が見えてくるでしょうか?
①阿波の末寺は、吉野川沿岸部のみです。吉野川の南側や東の海岸部にはありません。どうしてでしょうか。これは、高越山など代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。
②小豆島や塩飽などの島々、東讃にはほとんどない。
③東讃地域も少ない。大水主神社=与田寺の存在
④高松・丸亀・三野平野に多いようです。
これらの方面への教線拡大には、どんなルートが使われ、どのような寺が拠点となったのでしょうか。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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常光寺末寺1
常光寺の末寺一覧(高松藩領の一部)
前回は真宗興正寺派の中本山である常光寺(三木町)が、教線ラインを丸亀平野まで伸ばし、上表のように多くの末寺を支配下に納めていたことを見てきました。その中で19世紀になると、丸亀藩の末寺のほとんどが常光寺から離脱し「離末寺」となっていました。これは、阿波の安楽寺末の寺院にもいえることです。18世紀後半から常光寺や安楽寺などの中本寺と云われる有力寺院から末寺が離脱していく傾向が強まるようです。その背景には何があったのかを、今回は見ていくことにします。残念ながら讃岐には本末離脱を探れる史料がありません。

安楽寺1
安楽寺(美馬市郡里) 地元では「赤門寺」と呼ばれ興正寺派の中本山だった

あるのは阿波郡里の安楽寺です。安楽寺は先代の住持が大谷大学の真宗史の教授で、最後には学長も務めています。そして、安楽寺に残っていた文書を「安楽寺文書」として出版しています。今回は、美馬市の千葉山安楽寺に残る「安楽寺文書」の中に出てくる本末論争を見ていくことします。テキストは「須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって」です。
安楽寺末寺
安楽寺と讃岐布教の拠点となった末寺
 安楽寺については、以前にお話ししたように、阿讃山脈を越えて教線を伸ばし、丸亀平野や三豊平野に道場を形成し、それを真宗寺院に発展させ、多くの末寺とした中本寺です。そして、京都・本願寺-京都・興正寺-阿波国・安楽寺-末寺というネットワークの中に、讃岐の真宗寺院は組み込まれていきます。
寛永三年(1626)に安楽寺が徳島藩に提出した「末寺帳」 があります。
そこには、安楽寺末寺は阿波に18、讃岐に49、伊予4、土佐に8合計78ケ寺を数え、真宗の中本寺として四国最大の勢力を誇っていたことが記されています。徳島藩から寺領75石を宛がわれ、最盛期には末寺84ケ寺を誇るようになります。他にも郡里村にある勤番寺と隠居寺合せて8ケ寺を支配します。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
 安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図
東讃地区の末寺
光明寺(飯田)金乗寺(檀紙)安楽寺末東光寺下の光明寺(石田〉善楽寺(富田)西光寺(馬宿)善覚寺(引田)蓮住寺(鴨部)真覚寺(志度)

中讃地区
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾)慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)専光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦)   妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
三豊地区
宝光寺(財田)品福寺(財田)正善寺(財団)善教寺(財団)最勝寺(財団〉立専寺(流岡)西蓮寺(同)仏証寺(坂本)光明寺(坂本〉善正寺(柞田)宝泉寺(円井)徳賢寺(粟井)

ところが18世紀頃から讃岐の末寺が安楽寺から離脱していく末寺が出てきます。
その原因となったのが本末論争とよばれる本寺と末寺の争論です。別の言い方をすれば「上寺・下寺との関係」です。これについては、「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)に、次のように記されています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」

ここには、上寺の役目は下寺から本山へ寺号・木仏・絵像・法物・官職・住持相続等を願い出るとき取次ぎをしたり、下寺に違法がある場合、軽罪は上寺が罰し、重罪は本山に上申して裁断を仰ぐ、と規定されています。
 このように下寺は、本山より上寺に預け置かれたものとされ、下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要でした。そのための上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗は禁じられていましたが、宗派間の改派は認められていたので、下寺の離末・直参化の道はただ一つ、改派する以外にはありませんでした。つまり、興正寺派の場合ならば、西本願寺か東本願寺などの他の会派に転じるということです。しかし、これには、門徒の同意が必要になります。どちらにしても、本末論争は下寺にとって越えなければならない障害が多い問題だったようです。これだけの予備知識を持って、安楽寺と東光寺の本末論争を見ていくことにします。
東光寺 クチコミ・アクセス・営業時間|徳島市【フォートラベル】
東光寺(徳島市寺町)

天寿山東光寺は、徳島城下の寺町にある浄上真宗興正寺に属した寺院です。

寛永11年(1625)、本寺の安楽寺からの離脱を図りますが、結果的には離脱はかなわなかったようです。東光寺が安楽寺から離脱しようとした背景は、何なのでしょうか?
東光寺は、城下町徳島の寺町にあり、藩士や有力商人・豪商を門徒に数多く持っていたようです。そのため経済的にも豊かで、その財力によって本願寺教団内部での地位の向上を図り、寺格を高め、阿波での発言力を高めていったようです。そして、本寺である安楽寺からの離脱を早くから計ろうとします。その動きを史料で見ておきましょう。
(史料1)東光寺跡職に付一札(『安楽寺文書』上巻7頁) 
「東光寺講中から入院願之状」
以上
態令申候、乃而東光寺諸(跡力)職に付而、をねヽと正真坊を申含、東光寺之住寺二相定申候、若正信坊別心候ハゝ、当島之御もんと中をねゝ得付可申候、為後日一筆如件、
慶長六(1601)年拾月廿八日
青山積(勝力)蔵(花押)
梯九蔵
土田彦経兵衛(花押)
梯藤左衛門(花押)
馬渡市左衛門(花押)
森介三(花押)
東へや
藤左衛門(花押)
きの国や
与大夫(花押)
まふりや
四郎右衛門(花押)
天工寺や
善左衛門(花押)
ぬじやの
平十郎(花押)
しをや
惣有衛門(花押)
半回
与八郎(花押)
益田
橘右衛門(花押)
       東光寺講中
安楽寺様
まいる
  「史料1」慶長六年(1601)に東光寺講中が次期住持職の選任件について、本山安楽寺への報告した文書です。事前の承認を安楽寺に求めたりするものではなく、結果報告となっています。ここには東光寺講中14人の署名があります。その構成は、武士と商人がそれぞれ6人、その他2人となっています。特に商人たちは、徳島城下町の有力者たちだと研究者は指摘します。ここからは東光寺の門徒は、武士や有力商人層で、経済的に豊かであったことがうかがえます。そのため彼らを檀家に持つ東光寺の経済基盤はしっかりとしたものとなり、その財政基盤を背景に本願寺内部での地位向上を図るようになります。
 例えば、東光寺は寛永12(1625)年には余間一家(本願寺における着席の席次に基づく格式の一つ)の位を得ています。
 西本願寺では、院家・内陣・余間・廿四輩・初中後・飛檐(国絹袈裟)・総坊主の階層があり、それに応じて法会などでの着座順位が定まっていました。上位3つにの「院家・内陣・余間」は三官と呼ばれて、戦国期の一家衆に由来する高い階級でした。
 寺号免許や法宝物の下付、官職昇進については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されています。
木仏御礼     五両二分
木仏寺号御礼 十一両
開山(親鸞)絵像下付 二四両二分
永代飛檐御礼 三三両一分
永代内陣(院家)御礼金五〇〇両
内陣より院家への昇進 五〇〇両
官職の昇進に必要な冥加金のほか、定期的に年頭・中元・報恩講の御礼金を上納しなければなりません。東光寺は、城下町に立地する裕福な寺院として、冥加金や上納金を納めて寺格を高めていったようです。東光寺が任命された頃には、余間一家は全国でわずかに31ケ寺で、四国では東光寺以外にはありませんでした。こうして、東光寺は阿波真宗教団における発言権を強めるにつれて、安楽寺の末寺であることが窮屈になり、不満を持つようになります。
 寛永三年(1626)の「四ケ国末寺帳」に、東光寺は安楽寺の末寺として記されています。東光寺はこのことを不服として、寛永11年(1634)に安楽寺からの離脱を試みるようになります。
この動きに対して、安楽寺の尊正が本願寺の下間式部卿に宛てた書状を見てみましょう。
「史料2」東光寺一件に付安楽寺尊正書状草案(安楽寺文書)
尚々東光寺望之儀、其元隙人不申候様二奉頼候、以上、
東光寺被罷上候間、 一書致啓上候、上々様御無事二御座被成候哉、
承度奉存候、去年ハ讃州へ御下向被成候処、御無事二御上着被成之段、誠有難奉存候、
東光寺望二付被上候、如御存知私末寺代々事候条代々下坊主之事候間、其御分別被成候て、其元二而隙入不申候様二御取合奉頼候、担々御浦山敷儀御推量可被成候、不及申上候へ共、右之通可然様二奉頼候、何も乗尊近口可罷上之条、其刻委可申上候間不能多筆候、恐性謹言、
     安楽寺
寛永拾弐(1635)年 卯月十六日
進上
下間式部卿様
人々御中
意訳変換しておくと
東光寺が望んでいる(安楽寺からの末寺離脱の)件について、そのことについては、耳にしなかったことにしてお聞きにならないようにお願い致します。東光寺の件については、以前に文書を差し上げたとおりです。
 上々様は無事に職務を果たしていると承っています。昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。
東光寺の申出については、ご存じの通り代々、東光寺は私ども安楽寺の末寺です。下坊主の分別をわきまえて、本寺よりの離脱申請などには取り合わないようお願いします。
ここには、安楽寺は、東光寺の離脱願いを相手にしないで欲しい、はっきりと却下して欲しいと依頼しています。
 「昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。」というのは、讃岐の安楽寺の末寺を下間式部卿が視察訪問したことへのお礼のようです。安楽寺が本願寺に内部においても、高い位置にあったことが分かります。

はじめ東光寺は安楽寺と話し合いの上で本末関係を解消し、興正寺直参になろうとしたようです。
その経過がうかがえるのが次の「東光寺一件に付口上書草案」(『安楽寺文書』上巻です
(前欠)
可給、於左様ニハ、鐘を釣り寄進可仕と申候て、与兵衛と申東光寺家ノをとなヲ指越申候処二、中々不及覚悟二義、左様之取次曲事二之由申二付、与兵衛手ヲ失罷帰申候、末寺に□無之候ハ如何、
様之調仕候哉、
一其段東光寺申様、右同心於無御座ハ、副状被成可被下と申候故添状仕、式部卿様へ宜□申候処二、此状上不申由、式部卿様より被仰下驚入申候、か加様迄之不届義仕候二付、今度両度まて人を遣尋申処二、私ハ五年三年居申者二而御座候ヘハ万事不存候間、但方へ尋可有と両度之返事二而御座候条、左様二面ハ埒明不申故、先以西教寺ヲ致吾上候間、有体二被仰付可被下候、以上、
寛永十三(1636)年
二月二日                安楽寺
式部卿様
まいる
一部を意訳変換しておくと
東光寺は釣鐘を寄進する旨を、与兵衛と東光寺家がやってきて申し出てきました。しかし、末寺のそのような申し入れは受けられないと断わりました。与兵衛は為す術もなく帰りました。末寺の分際を越えた振る舞いです。

ここからは、東光寺が安楽寺への鐘を寄進するので、それと引き換えに本末関係を解消して欲しい旨を申し入れていることが分かります。しかし、安楽寺の拒絶によって話し合いは落着しなかったようです。そこで東光寺は、方針を変えて安楽寺の末寺ではないと申し立て、本末争論が始めます。
それが寛永十九(1642)四月晦日の安楽寺から本願寺の下間式部卿への書状から分かります。
(史料4)東光寺一件成敗に付願書控(「安楽寺文書」上巻17頁)
申上ル御事
先度双方被召寄、御吟味被成候へ共、否之義於只今不被仰付迷惑仕候、
一 理非次第二仰付可被下候哉、
一 東光寺せいし二被仰付候哉、但私せいし二被仰付候哉、
一 私国本之奉行方へ御状御添可被下候哉
右之通被仰上相済申様奉頼候、此度相済不申候ハゝ、下坊主・門徒之義不及申、世門(間)へつらいだし不罷成候、急度仰付可被下候、
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
意訳変換しておくと
下間式部卿に申し上げます
先日は、当方と東光寺の双方が京に呼び寄せられ、本末論争について吟味を受けました。しかし、東光寺の申し出を「否」とする決定が下されず、当方としては迷惑しております。、
一 白黒をはっきりと下していただいきたい
一 東光寺の誓詞が正しいのか、私共の誓詞が正しいのかはっきりと仰せつけ下さい、
一 徳島藩の奉行方へ、決定文を添えて書状をお送り下さい
以上についてお計らいいただけるようにお願い致します。この度の件については、下坊主・門徒に限らず、世間が注視しています。急ぎ結論を出していただきますよう。
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
京都の本山で安楽寺と東光寺双方が呼び寄せられ吟味がなされたようです。しかし、はっきりとした結論が出されなかったようで、これに対して「迷惑」と記しています。そして、今後の本願寺への要望を3点箇条書きにしています。本願寺内部でも、東光寺の内部工作が功を奏して、取扱に憂慮していたことがうかがえます。

それから1ヶ月後に、東光寺から安楽寺に次のような「証文」が送られています。
「史料5」東光寺一件裁許に付取替証文写(『安楽寺文書』)
端裏無之
今度其方と我等出入有之処二、興門様致言上、双方被聞召届、如前々之安楽寺下坊主なミニ東光寺より万事馳走可仕旨被仰付候、御意之趣以来少も相違有之間敷候、為後日如此候、恐々謹百、
寛永拾九(1642)年             東光寺
五月十四日             了 寂判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
この度の安楽寺と我東光寺の争論について、本願寺門主様から双方の言い分を聞き取った上で、東光寺は従来通り安楽寺の下坊主(末寺)であるとの決定書を受け取りました。これについていささかも相違ないことを伝えます。恐々謹百、

 寛永19年(1642)五月に、本寺の興正寺の調停で、本末争論は終結し、両寺は約定書を交換しています。東光寺からの証書には、「東光寺は従前通り安楽寺の末寺」とされています。これは、幕府の「本末の規式を乱してはならない」という方針に基づいた内容です。東光寺の財力を背景にしての本末離脱工作は、この時点では敗訴に終わったようです。
 安楽寺はこれを契機に、末寺に対して本山興正寺に申請書を出すときは、必ず本寺安楽寺の添状を付して提出するように通達し、これについての末寺の連判を求めています。いわば末寺に対する引き締め政策です。これは讃岐の安楽寺の末寺にも、求められることになります。
本末制から触頭制へ
 東光寺はその経済力と藩庁所在地に位置しているという地理的条件の良さによって、触頭(ふれがしら)の地位を得ます。触頭制について、ウキは次のように記します。
触頭とは、江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。
 寛永13年(1635年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った
 従来の本末制は安楽寺の場合のように、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがったネットワークで、いくつも藩を抱え込みます。藩毎に通達や政策が異なるので、本寺では対応できなくなります。これに対して触頭制は、藩体制に対応した寺院統制機構で、江戸時代中期以後になると、寺院統制は触頭制によって行われるようになります。触頭制が強化されるにつれて、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反する前に、合意の上で金銭を支払えば、本末関係を解く道を選びます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、安養寺配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

常光寺離末寺
常光寺の離末寺院一覧

 前回に三木の常光寺末寺の一覧表を見ました。その中に「離末寺」として挙げられているかつての末寺がありました。ここには高松藩以外の満濃池御領(天領)の玄龍寺や丸亀藩の多度郡・三豊の末寺が並んでいます。これらが文化十(1813)年十月に、集団で常光寺末を離れていることが分かります。この動きは、安楽寺からの離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。

以上をまとめておくと
①中世以来結ばれてきた本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
②しかし、江戸時代によって制度化され本末制度のなかでは離脱はなかなか認められなかった。
③それが触頭制度が普及するにつれて、本末制度は有名無実化されるようになった。
④そこで安楽寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑤その結果、常光寺も丸亀藩や天領にある寺との末寺解消を行った。
⑥安楽寺を離れた讃岐の末寺は、興正寺直属末寺となって行くものが多かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって―  四国大学紀要
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尊光寺史S__4431880

尊光寺史
図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会った。手にとって見ると寺から新たに発見された資料を、丁寧に読み解説もつけて檀家の支援を受けて出版されたものである。この本からは、真宗興正寺派の讃岐の山里への布教の様が垣間見えてくる。早速、本を借り出し尊光寺詣でに行ってみた。

DSC02130

やって来たのはまんのう町炭所東(すみしょ)の種子(たね)集落。バス停の棚田の上に尊光寺はあった。
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石垣の上に漆喰の塀を載せてまるで城塞のように周囲を睥睨する雰囲気。
「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」
いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。
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この寺の由緒を「尊光寺史」は
「 明応年間 少将と申す僧  炭所東村種子(たね)免の内、久保へ開基」
という資料から建立を戦国時代の15世紀末として、建立の際の「檀那」は誰かを探る。
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①第一候補は炭所東の大谷氏?

開発系領主の国侍で大谷川沿いの小城を拠点に、西長尾城主の中印源少将を助けた。伊予攻めの際に伊予の三島神社の分霊を持ち帰り三島神社を建立もしている。後に、大谷氏は 敗れて野に下り、新たに長尾城主となった長尾氏への潜在勢力として、念仏宗をまとめてこの地区で勢力温存をはかる。
 つまり真宗興正寺派の指導者となることで、勢力の温存を図ったということらしい。

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 ②第2候補は平田氏

 平田氏は、畿内からやってきて、広袖を拠点に平山や片岡南に土着した長百姓であり、金剛院に一族の墓が残っている。

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最初は建物もない念仏道場(坊)からスタートしたであろう

名主層が門徒になると本山から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間とする。縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行。正信偈を唱え御文書をいただき法話を聞く。非時を食し、耕作談義に夜を更かす。この家を内道場、家道場と呼び、有髪の指導者を毛坊主と呼んだという。

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中讃での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬町の安楽寺である。

真宗興正寺は瀬戸内海布教拡大の一環として、四国布教の拠点を吉野川を遡った美馬町郡里に設ける。それが安楽寺である。当時の教育医学神学等の文化センター兼農業・土木技術研修でもあった安楽寺で「教育」を受けた信仰的情熱に燃える僧侶達が阿讃の山を越えて、琴南・仲南・財田・満濃等の讃岐の山里に布教活動に入って来る。

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安楽寺からのオルグを受けて名主や土侍たちが帰依していく。

中讃の農村部には真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、このようなかつての安楽寺の布教活動の成果なのだ。讃岐の真宗の伝播のひとつは、興正寺から安楽寺を経て広がっていったといえる。
DSC02145

 その布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように話す。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、むしろ道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。
DSC02149

 中央での信長の天下布武に呼応して、四国統一をめざす長宗我部元親の動きが開始される。1579年に始まる元親の讃岐侵入と5年後の讃岐平定。そのリアクションとしての秀吉軍の侵攻と元親の降伏。この激動は、中讃の地に大きな怒濤として押し寄せ、在来の勢力を押し流してしまう。

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 在地勢力の長尾城主であった長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働いた。そのためか生駒氏等の讃岐の大名となった諸氏から干される結果となる。長尾一族が一名も登用されていない
 このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入る。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを示す。
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 長尾氏出身の僧侶で尊光寺中興の祖と言われる玄正により総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になる。阿波国美馬の安楽寺を中本山に昇格させ阿讃の末寺統制体制が確立したと言える。このため中讃の興正寺派の寺院は、阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行っていた。
 尊光寺が安楽寺より離脱して、興正寺に直属するのは江戸時代中期の1777年になってのことである。

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「尊光寺史」は、浄土真宗の讃岐での教線拡大のありさまを垣間見せてくれる。

三好町男山の徳泉寺について

徳泉寺 男山2
男山の徳泉寺
まんのう町塩入から県道4号(丸亀ー三好線)を財田川源流に沿って原付バイクを走らせる。15分ほどで東山峠に出る。ここから三好町の昼間方面に下っていく。二本栗キャンプ場の上の分岐を右にたどると東山の男山集落へと入っていく。

徳泉寺 男山1
徳泉寺
集落の中に新築中の銅板葺の赤い本堂が見えてくる。徳泉寺だ。
今日は、このお寺についての報告。 
 この男山の地に、美馬の安楽寺で修行した僧が「奥の院」と呼ばれる坊を構えたのが天正十八年(1580)のこと。安楽寺は興正寺派の阿波・讃岐における布教センターの役割を果たし、多くの僧侶を阿讃の村々に送り出し、各地に「道場」を立ち上げていく。そのひとつが徳泉寺になる。阿讃の里のお寺は、どこもそんな歴史を持つ。 
 しかし、この道場は一度は「挫折」する。それを再興し、お寺にグレードアップさせたのが教順である。
教順の先祖は讃岐の落人と伝えられ、次のような話が残っている。
教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤左衛門太郎氏正。氏正が瀧の宮の城主蔵人に敗れ、阿波三好郡太刀野山に隠れ住んだ。讃岐からの落武者氏正の孫の重次の二男が教順であり、文禄二年(1592)田野々に生まれ、6歳から讃岐金倉の念宗寺で学んだという。
 その後、教順の母方の伯母が東山の大西庄屋に嫁いでおり、その家に三年ほど寄寓していた。そして、庄屋甚左衛門(教順の従兄)の理解と協力を得て、男山の「奥の坊」再建に着手することになる。 教順30歳 元和7年(1621年)のことであった。
徳泉寺 男山6
徳泉寺
教順は博学多才で徳高く、自宗他宗にかかわらず人々の世話をしたので帰依する人が増えた。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍がととのっているものを想像する。しかし、この時代の真宗寺院は、「道場」と呼ばれていた。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけの施設だった。
蓮如筆六字名号】 真宗大谷派 長命寺 上杉謙信の位牌を安置する真宗大谷派の名刹 創建弘安・正応年中 山形県米沢市
六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱える。大半が農民だから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞く。このように道場といわれるものが各地に作られる。「道場」の責任者の一人が教順であった。この道場が発展してお寺になっていく。

浄土真宗の道場(飛騨の嘉念(かねん)房の復元図)

教順が男山で道場を立ち上げていた時期は、美馬の安楽寺が教線ラインを、吉野川流域や阿讃の山々を越えて中讃地域へ伸ばしていた時期でもあった。安楽寺の支援を受けながら教順は、寺院への脱皮を図ろうとする。そのためには本尊を安置し、寺号を手に入れる必要がある。そこで東山の有力者である男山の喜兵衛、葛韻の四郎兵衛、内野の甚太夫、石本の孫右衛門、増川の弥兵衛の五人に協力を依頼。彼らの支援を取り付けた上で、教順は動き出す。
  ちなみに本号免許や法宝物の下付については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されている。
木仏御礼      5両2分
木仏寺号御礼
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼 両1分
寛永十五年(1638)男山の喜兵衛(後の大谷)と利右衛門(後の市場)の二人が奉加帳を回して、38両を集める。これを資金に寛永18年(1641)に上洛し、本願寺に木仏と寺号の徳泉寺を願い出た。さらに、木仏と寺号が免許されると翌年再び上洛して、本尊仏に本願寺聖人良知上人の裏判をもらい受ける。本尊仏は長さ二尺、総金泥弥陀九重座、仏師左近の作であり、裏判は寛永十八年である。

阿弥陀如来像(絵像本尊)
 正式に寺院として認められた徳泉寺は、東山における文教センターの役割を担っていく。
代々の住職は布教のかたわら寺子屋教育に従事し、維新当時の住職山西家信も子ども達に読み書きを教えていた。
 明治十三年(1880)に小学校として使用されるのを契機に草葺きを瓦葺きに替えた。維新後、教順の子孫である11代山西宗嫌が都合で讃岐観音寺へ移った。後には、伯父甥の関係から長尾良雄が来て12代となった。

徳泉寺 男山4
徳泉寺
 昭和六十三年に本堂屋根の葺き替えと一緒に内陣の改装、仏画・仏壇の彩色、鐘楼の屋根・白亜の改修を行った。そして、現在平成26年には、本堂の建替工事が進んでいる。讃岐の落ち武者の子孫が、ここにあった道場をお寺に成長させて500年の歳月が流れようとしている。
 参考文献 三好町史 民俗編299P
 

茅葺きのお寺 長善寺 

原付バイクで旧琴南町下福家をフィールドワーク中
イメージ 1
谷を越えた勝浦方面に大きな建物を発見
イメージ 2
旧長善寺(まんのう町勝浦)

石垣と白壁に囲まれた要塞のような印象
そして屋根が茅葺き?
早速行ってみることにします。
DSC00794
旧長善寺
やってきました。勝浦の長善寺です。
正面の階段を上ると・・
DSC00797
長善寺鐘楼 鐘がない!
茅葺きの鐘楼です。
しかし、つり下がっているのは??? 大きな石材です
本堂は・・・

DSC00796長善寺破れ本堂
旧長善寺本堂

「琴南町誌」に、このお寺についてこんな記述がありました。

 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を命めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

勝浦地区の政治・文化・宗教センターとして機能してきたお寺のようです。
DSC00792

門前にはこんな言葉が掲げられていました。
「生きることはすばらしい
しかし いつまでも生きられないことを知ったとき
それはさらにすばらしい」
この言葉を繰り返しながら境内で「哲学」(?)しました。
DSC00820長善寺全景

もうひとつ不思議だったのは、「廃墟」ではないのです。
境内は綺麗に手入れされています。
庫裡には人も住まわれている気配。
それと、あの鐘はどこに・・
その答えは帰路に分かりました。

長善寺
現在の長善寺

旧勝浦小学校前に突然現れた新寺。
これは本勝浦にあった長善寺が「移転」してきたものなのです。



讃岐に多い真宗。
その中でも興正寺派の割合が多いのが大きな特徴と言われています。
わが家も興正寺派。集落の常会ではいまだに正信偈のお勤めをする習慣が残ります。そんな讃岐への真宗布教の拠点のとなったのが阿波の安楽寺。かねてより気になっていたお寺を原付ツーリングで訪ねてみました。
美馬市 観光情報|寺町
   安楽寺
吉野川北岸の河岸段丘上に、寺町と呼ばれる大きな寺院が集まる所があります。三頭山をバックに少し高くなった段丘上に立つのが安楽寺。かつては、洪水の時にはこのあたりまで浸水したこともあったようです。吉野川を遡る川船が、寺の前まで寄せられたような雰囲気がします。 新緑の中 赤い門が出迎えてくれました。
イメージ 2
安楽寺の赤門

四国各地から真宗を治めるために集った学僧の修行の寺でもあったようです。
この門から「赤門寺」と呼ばれていたようです。
桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」

境内は手入れが行き届いた整然とした空間で気持ちよくお参りができました。
本堂前の像は誰?
安楽寺本堂 文化遺産オンライン

親鸞です。私のイメージしている親鸞にぴったりときました。こんな姿で、旅支度した僧侶が布教のために阿讃の峠を越えていったのかな。
ベンチに座りながら教線拡大のために、使命を賭けた僧たちの足取りを考えていました。
徳島県美馬市美馬町の観光!? | 速報 嘆きのオウム安楽寺

阿波にある安楽寺の末寺はすべて古野川の流域にあります。阿讃の山向こうはかつての琴南・仲南・財田町の讃岐の山里にあたります。この山越のルートを伝道師たちは越えて行きました。国境を越えるといえば大変なように思えますが、かつては頻繁な行き来があったようです。このためか中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は、山に近い所に多いようです。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像します。しかし、この時代の真宗寺院は、むしろ「道場」と呼ばれていました。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
Amazon.co.jp: 掛け軸 南無阿弥陀仏 尺三 仏事掛軸 仏書作品 六字名号 ...
そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。



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