瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:安養寺


安楽寺の拠点寺院

前回までに阿波安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点寺院となった3つの寺院を見てきました。中本寺としての安楽寺があり、三豊への布教拠点となった寶光寺、丸亀平野への布教拠点となったのが長善寺ということになります。今回は髙松平野の拠点となった安養寺見ておきましょう。

安養寺縁起3


 髙松藩に提出された由来を見ておきましょう。
意訳変換しておくと

安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に河内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。


安養寺縁起5


①設立年代については、これを裏付ける史料がないのでそのまま信じることはできません。道場を開いたのは安楽寺からやってきた僧侶とされています。②「道場の場所は最初が安原村の東谷 その後、川内原に移転」とあります。いくつかの道場がまとめられ、惣道場となり、それが寺になっていくという過程がここでも見えます。地図で位置とルートを確認しておきます。安楽寺の真北が高松です。ここでも峠を越えてやってきたその途上に開かれた道場が末寺に成長して、里に下りていく過程がうかがえます。

③寺号許可は1595年とします。安養寺に下付された木仏が龍谷大学の真宗研究室にはあることが千葉氏の論文の中には紹介されています。木仏には1604年の年紀がはいっているようです。ここからは安養寺の寺号許可は17世紀初頭であることが分かります。本願寺が東西に分かれて、末寺争奪を繰り広げる時期です。この時期に、寺号を得た道場が多いようです。安養寺という重要な役割を果たした寺院でも寺号の獲得は、17世紀になってからだったことを押さえておきます。

安養寺末寺の木仏下付
本願寺の木仏下付日
安養寺の末寺リストを見ておきましょう。
寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
安養寺末寺リスト3

 安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)

安養寺末寺リスト2

ここからは次のような事がうかがえます。
①香川・山田郡の髙松平野を中心に、東の寒川方面にも伸びています。②注意しておきたいのは西には伸びていません。丸亀平野への教線拡大は、常光寺や安楽寺と棲み分け協定があったことがうかがえます。③一番最後を見ると天保4(1833)年3月の日付です。これは最初に見た常光寺の一覧表と同じ年なので、同時期に藩に提出されたもののようです。
ここには、髙松平野を中心に19寺が末寺として記されていますが、その多くがすでに離末しています。安養寺は安楽寺の末寺ながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院に成長していたことが分かります。まさに髙松平野方面への教線拡大の拠点センターであったようです。安養寺が髙松方面に教線を拡大できたのは、どうしてなのでしょうか。それには、次の二人の保護があったと私は考えています。

三好長慶と十河一存

真宗興正派を保護したのが、この兄弟がす。ふたりは姓は違いますが実の兄弟です。一人が三好長慶で、もうひとりが讃岐の十河家を継いだ十河一存(かずまさ)。この二人を見ていくことにします。

三好長慶と十河氏

美馬安楽寺に免許状を与え讃岐への教線拡大を保護したのは三好長慶でした。三好長慶は、天下人として畿内で活躍します。一方、弟たちは上図のように、阿波を実休、淡路を冬康・讃岐を十河一存が押さえます。そして、兄長慶の畿内平定を助けます。長慶が天下人になれたのも、弟たちの支援を受けることができたのが要因のひとつです。その末弟一存(かずまさ)は、讃岐の十河家を継ぎ、十河氏を名乗ります。十河氏は三好氏の東讃侵攻の拠点になります。また、三好・十河氏は、共通の敵である信長に対抗するために本願寺と同盟関係を結びます。「敵の敵は味方」というのは戦略のセオリーです。こうして安楽寺は三好一族の保護を得て、各地に道場を開いて教線を伸ばしていきます。それを史料で見ておきましょう。

十河氏の高松御坊への免許状

十河一存の後継者となった存保(実休の息子)が真宗興正派の高松御坊の僧侶達に出した認可状です。①の野原郷の潟(港)というのは、現在の高松城周辺にあった湊です。②高松にあった寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することを認める。③ついては課税などを免除するという内容です。「寺内」となっているので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアがあったことがうかがえます。地図で見ると池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺です。高松御坊が、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを十河氏が保護しています。ここで注目したいのは、新たに寺内町が作られることになった位置とその周辺です。近くには十河氏の居城十河城があります。そして、東には常光寺があります。ここからは常光寺や高松御坊が十河氏の庇護下にあったことがうかがえます。十河氏の保護を受けて常光寺や安養寺は髙松平野や東讃に教線ラインを伸ばしていたことがうかがえます。この免許状が出されたのは1583年で、秀吉の四国平定直前のことになります。三好長慶は、阿波の安楽寺に免許状をあたえ、十河存保は高松御坊に免許状をあたえています。
今までお話ししたことを、高松地区の政治情勢と絡ませて押さえておきます。

16世紀の髙松平野の情勢


①1520年の財田亡命帰還の際の三好氏の免許状で、安楽寺は布教の自由を得た。しかし、吉野川より南は、真言密教系修験者の勢力が強く、真宗興正派の布教は困難だった。

②そのような中で三好氏の讃岐侵攻が本格化する。香西氏など東讃武士団は、三好氏配下に組み入れられ上洛し、阿波細川氏の主力として活動するようになる。

③そこで堺で本願寺と接触、真宗門徒になり菩提寺を建立するものも出てきた。

④彼らに対して、本願寺は讃岐の真宗布教の自由を依頼。

⑤こうして、本願寺や真宗興正派は髙松平野での布教活動が本格化し、数多くの道場が姿を見せるようになる。それは16世紀半ばのことで、その拠点となったのが安養寺や常光寺である。

こうして、生駒氏がやってくるころには、讃岐には安楽寺・安養寺・常光寺によって、真宗興正派の教線がのびていました。それらの道場が惣道場から寺号を得て寺に成長して行きます。それを支えたのが髙松藩の初代藩主松平頼重という話になると私は考えています。今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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高松市御坊町 興正寺別院
高松御坊町にある興正寺別院と勝法寺
 高松市の御坊町という町名は、ここに高松御坊があったことに由来するようです。高松御坊は、現在の興正寺別院にあたります。興正寺別院と勝法寺は並んで建っていて、その前の通りがフェリー通りで、長尾線の向こうには真言の名刹無量寿院があります。このレイアウトを頭に残しながら

高松御坊(興正寺別院)
「讃岐国名勝図会」(1854年)で見てみましょう。
 勝法寺という大きな伽藍を持った寺院の姿が描かれています。これが高松御坊でもありました。この広大な伽藍が戦後の復興と土地整理の際に切り売りされて、現在の御坊町になったようです。通りを挟んで徳法寺・西福寺・と3つの子坊が見えます。その向こうに見える無慮寿院の伽藍の倍以上はある大きな伽藍だったことが分かります。この辺りは江戸時代には寺町と呼ばれ、西方の市役所辺りまで、大きな寺院がいくつも伽藍を並べて、高松城の南の防御ラインでもありました。そのため勝法寺の南側には堀が続いているのが見えます。このような広大な伽藍と、偉容を備えた寺院を誕生させたのは高松藩初代藩主松平頼重です。その裏には頼重の真宗興正派保護政策があったようです。まずは、ここにこのような寺院が現れる経過を見ていくことにします。
興正寺別院歩み

高松興正寺別院の境内の石碑「高松興正寺別院の歩み」の一番最初には次のように刻まれています。
1558年 興正寺第16世証秀上人讃州遊化。

これについて『興正寺付法略系譜』には、次のように記します。
永禄ノ初、今師(証秀)讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

永禄年間(1558~70)のはじめに、興正寺門主の証秀が讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したとあります。この一宇が現在の高松別院のことを指すと伝えられています。また現在の高松別院のHPの寺伝には次のように記されています。

 1558年(永禄元年) 興正寺第十六世 証秀上人が教化活動として讃岐を訪問されたのをきっかけに、当時、東讃を支配下に置いた阿波の三好好賢(三好実休)の庇護を受けて、「楠川の地(現高松市上福岡町)」に高松御坊勝法寺を建立。現在地へは、1614年(慶長19年) 高松藩主 生駒正俊公の寄進により、寺地三千坪で移転。

 証秀は興正派の富田林の地内町建設に大きな役割を果たすと同時に、彼の時代に西国布教を進めています。しかし、実際に讃岐や四国に来たことはないと研究者は考えているようです。証秀が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、これは憶測で、証秀の代に高松御坊(現在の高松別院)が開かれたとまでしか云えません。ここでは現在の興正寺富田林別院や、高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられていることを押さえておきます。

16世紀半ばになると三好氏配下の篠原氏に従って、讃岐国人の香西氏や十河氏が畿内に従軍します。
そして本願寺を訪れ真宗門徒となり、帰国して地元に真宗の菩提寺を建立するようになることは以前にお話ししました。この背後には、三好氏の真宗保護政策があったようです。どちらにしても16世紀半ばには、髙松平野には本願寺や真宗興正寺派の末寺が姿を見せるようになっていたようです。
 文献によって確実に高松御坊(別院)が確認できるのは、天正11年(1583)2月18日の文書です。
三好実休の弟で十河家を継いだ十河存保が、高松御坊の坊主衆に対して出したもので次のように記されています。

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

意訳変換しておくと
 ①野原の潟の寺内を、②池戸の四覚寺原へ引き移し、再興したいという願いについて、それを認める。しかる上は③課役、諸公事などを免除する。仍如件
 
野原郷の潟(港)の寺内町と坊を四覚寺原に再興することを認め、課税などを免除する内容です。池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺になるようです。この時点では讃岐御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。

 野原・高松・屋島復元図
中世の野原の港(現高松市) 背後に無量寿院が見える
 ①の「野原の潟」とは野原の港周辺のことです。
髙松平野で最も栄えていた港であったことが発掘調査から明らかになっています。その背後にあったのが無量寿院です。その周辺に真宗門徒の「寺内町」が形成され、道場ができていたともとれます。同時期の宇多津でも鍋屋町という寺内町が形成され、そこを中心に「鍋屋下道場」が姿を現し、西光寺に成長して行くことは以前にお話ししました。しかし、「可有再興之由」とあるので、移転ではなく「再興」なのです。ここからは高松御坊は、お話としては伝わっていたが、実態はなかったことも考えられます。この時期は、興正寺の中本寺として三木の常光寺が末寺を増やしている時期です。
常光寺と始覚寺と十河氏の拠点である十河城の位置を、地図で見ておきましょう。

常光寺と十河城
三木の始覚寺 常光寺の近くになる
地図で見ると、常光寺や始(四)覚寺は、十河氏の支配エリアの中にあったことがうかがえます。ある意味では、十河氏の保護を受けられるようになって始めて、教勢拡大が展開できるようになっとも考えられます。ちなみに、安楽寺の末寺である安原村の安養寺が教線を拡大していくのも、このエリアです。ここからは次のような仮説が考えられます。
①三好氏は阿波安楽寺に対して、禁制を出して保護するようになった。
②安楽寺は、三好氏の讃岐侵攻と連動する形で真宗興正派の布教を展開した。
③三好氏配下の十河氏や香西氏も真宗寺院を保護し菩提寺とするようになった。
④そのため十河氏や香西氏の支配エリアでは、真宗寺院が姿をみせるようになった。
⑤それが安養寺や常光寺、始覚寺などである。

十河文書出てくる再興を認められた池戸の四覚寺の坊について見ておきましょう。
坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内で、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからは坊の境内地には俗人の家屋もあって、小規模な寺内町をかたち作っていたと推測できます。しかし、四覚寺原での再興がどうなったのかははよく分かりません。また、常光寺との関係も気になるところですが、それを知る史料はありません。

高松野原 中世海岸線
中世の海岸線と御坊川流路
再び御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。
 讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。そのため高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、それにともなって坊も移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。

高松御坊(興正寺別院)2
東寺町に勝法寺が見える 赤は寺院で寺町防衛ラインを形成
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。
それが現在地の高松市御坊町の地です。これは、先ほど見たよう高松城の南の防衛ラインを寺町として構築するという構想の一環です。寺院が東西に並べられて配置されたのです。その配置先が高松御坊の場合には、無量寿院の西側だったということになります。

高松城下図屏風 寺町2
高松城下図屏風
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重が21歳でやってきます。
 松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則の娘です。しかし頼房は、頼重が兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったため、遠慮して葬らせようとした所、頼房の養母英勝院(家康の元側室)の計らいで誕生したといわれます。そのため、頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でした。英勝院が将軍家光に拝謁させ、常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、その後に21歳で讃岐高松12万石の城主となりました。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、的確な情報提供者を幾人ももっていたようです。そして、宗教ブレーンに相談して生まれたのが次のような構想だったのでしょう。
①真宗興正派の讃岐伝道の聖地とされる高松御坊(高松別院)を勝法寺とセットで創建する。
②勝法寺は京都の興正寺直属として、代々の住職は興正寺より迎える。
③その経済基盤として150石を寄進する。
④御坊護持のために3つの子院(徳法寺・西福寺・願船坊)を設置する。
高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺とセットになった高松御坊(興正寺別院)
このような構想の下に、現れたのが高松御坊と勝法寺が一体となった大きな伽藍のようです。ところが「入れ物」はできたのですが、その運用を巡って問題が発生します。それは次のような2点でした。
①勝法寺が奈良から移されたよそ者の寺で、末寺などが持たず政治力もなかった。
②勝法寺は興正寺直属のために、興正寺から僧侶が派遣された。
このため讃岐の末寺との関係がうまく行かずにギクシャクしたようです。そこで、松平頼重が打った手が、頼りになる地元の寺を後見としてつけることです。そのために選ばれたのが次の2つの寺です。
①三木の常光寺 興正寺末の中本寺として数多くの末寺保有
②安原村の安養寺 阿波安楽寺の末寺ではあるが髙松平野への真宗興正派の教線拡大の拠点となり、多くの末寺保有
このふたつの寺については以前に紹介しましたので詳しく述べませんが、讃岐への真宗興正派の教線拡大に大きな役割を果たし、数多くの末寺を持っていました。そして、目に見える形で勝法寺の後見寺が安養寺であることを示すために、安養寺を高松の城下町へ移動させます。その場所は、先ほど讃岐国名勝図会でみた見た通りです。この場所は、寺町防衛ラインの堀の外側になります。これは、寺町が形成された後に、安養寺が移転してきたために外側でないと寺地が確保できなかったようです。こうして、常光寺と安養寺を後見として勝法寺は、京都の興正寺直属寺として機能していくことになります。

松平頼重は、どうしてこれほど興正寺を保護しようとしたのでしょうか。 
一般的には、次のような婚姻関係があったことが背景にあると言われます。
松平頼重の興正寺保護

しかし、これだけではないと研究者は考えています。
松平頼重の寺社政策についての腹の中をのぞいてみましょう

大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしていくことが必要だ。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか? 

具体的な対応策は?
①東讃では、大水主神社の勢力が大きい。これは長期的には削いでいくほうがいいだろう。そのために、白鳥神社にてこ入れして育てていこう。
②髙松城下では? 生駒藩時代には、祭礼などでも楯突く神社が城下にあったと聞く。岩清尾神社を保護して、ここを高松城下町の氏神として育てて行こう。そして、藩政に協力的な宮司を配そう。
③もっとも潜在的に手強いのは、真言宗のようだ。そこに楔をうちこむために、長尾寺と白峰寺の伽藍整備を行い、天台宗に転宗させよう。さらに智証大師の金倉寺には、特別に目をかけていこう。
④讃岐の真言の中心は善通寺だ。他藩ではあるが我が藩にとっても潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか? 近頃、金毘羅神という流行神を祭るようになって、名を知られるようになった金毘羅大権現の金光院はどうか。ここを保護することで、善通寺が牽制できそうだ。
松平頼重の宗教政策
潜在的な脅威となる寺社(左側)と対応策(右側)
⑤もうひとつは、讃岐に信徒が多い真宗興正派の支援保護だ。興正寺とは、何重にも結ばれた縁戚関係がある。これを軸にして、高松藩に友好的な寺院群を配下に置くことができれば、今後の寺社政策を進める上でも有効になる。そのためにも、京都の興正寺と直接的につながるルートを目に見える形で宗教モニュメントとして創りたい。それは、興正派寺院群の威勢を示すものでなければならない。
このような思惑が松平頼重の胸には秘められていたのではないかと私は考えています。

高松興正寺別院
現在の興正寺高松別院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

DSC02132
尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号

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