瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:宗吉瓦窯

      
三野平野2
前回に続いて、三野郡を見ていきます。まず復元図からの古代三野郡の「復習・確認」です
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。それが7世紀後半になると、時代の最先端に並び立つようになります。
三野郡発展の原動力になったのが窯業です。
このエリアには、火上山西麓を中心とした地域(三豊市三野町)と東部山南西麓(同市高瀬町)に窯跡が見つかっています。これらは7つ支群
瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻
の各支群)に分かれていますが、全体を一つの生産地と捉えて「三野・高瀬窯跡群」と研究者は呼んでいるようです。
発掘から分かった各窯跡の操業時期を確認しておきましょう。
第1段階(6世紀末葉へ一7世紀初頭)
 十瓶山北麓の瓦谷支群(1)で生産が始まる。
第2段階(7世紀前葉)
 瓦谷支群での生産停止と野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
 野田池支群での生産拡大と、道免(3)・高瀬末(5)群の生産開始、
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)
 道免・野田池の2支群での生産継続。宗吉瓦窯継続
第5段階(8世紀前葉~中葉)
 道免・野田池の2支群での生産継続。青井谷支群(4)での生産開始
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
 青井谷支群での生産拡大。五歩田支群(6)での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
 青井谷支群での生産継続。上麻支群(7)での生産開始
  6世紀末から始まって10世紀まで400年近く三野郡では、土器や瓦が作り続けられていたことが分かります。そして、窯跡は

瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)
と移動していったことが分かります
どうして窯跡(生産現場)は移動していくのでしょうか。
移動の方向は海岸線から離れて、次第に山の奥へと入っていくようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は次のように云います
 窯相互の間隔から半径500mが指標。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えると三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされた
  須恵器窯は、燃料として大量の薪を必用とします。そのため周辺の山林の木材を伐り倒して運ばれてきました。そのために木がなくなると木がある山の麓に移動して新たな窯場を作る方が、生産効率がよかったのです。そのために木を求めて、奥へ奥へと入っていったようです。そして、その跡には丸裸になった里山が残りました。当時の須恵器や瓦生産の背景には、里山の伐採と丸裸化があったようです。そして、これが大量の土砂を三野津湾にもたらし堆積し、陸地化を急速にもたらすことになったのは、前回にお話ししました。
東大寺に運ばれた三野郡の檜
 これに加え、7世紀半ばの東大寺大仏殿の建設には、高瀬郷から木材(ヒノキ)が供給されています。使える木材が三野郡で残されていたのは、毘沙古山塊(標高231m)と、その東側で多度郡に接している弥谷山塊(標高381.5m)だけにしかなかったようです。このふたつの山は、弥谷寺周辺の死霊のおもむく聖地や甘南備山(なんなび)とされていた霊山で、伐採が禁じられていたのかもしれません。そして、北側が瀬戸内海に面し、南西側は「浅津」という地名があるように三野津湾に近く搬出にも便利です。おそらく須恵器生産用の「陶山」と、東大寺材木用の「楠山」とは分けられて管理されてたはずです。保護されてきた檜も、東大寺建立という国家モニュメントのために切り出され、海に浮かべて運ばれていったのでしょう。
 このように8世紀には、周辺の里山の木材も資源としての重要性が高まり、管理強化が行われるようになった気配があります。
  窯跡の移動に関して、研究者は次のように指摘します。
①窯場の移動は、製品搬出に便利な河川や谷道沿いに行われている。
②7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、
③8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にあった。
③窯場をできるだけ高瀬郷内に設定するような傾向がある。
  このように先行する須恵器窯業を受けて、宗吉瓦窯跡が登場します。
三野 宗吉遺2

この瓦工場は、当時造営中の藤原京に瓦を大量供給するために作られた大規模最新鋭の瓦工場で、それまでの須恵器窯とは、スケールも技術も経営ノウハウも格段の違いがあります。地元の氏族が単独で設置運営できる代物ではありません。氏族が中央権力に働きかけて最新の瓦工場を誘致してきたということが考えられます。設置に当たっては、中央からの技術者集団がやってきて取り仕切り、完成後の運営も行ったと考えられます。
三野 宗吉遺跡1
 立地は、藤原京に送り出すために船舶輸送を考えて、三野津湾の奥の海岸線近くに設置されます。しかし、気になるのが燃料である薪の確保です。今までは、薪を求めて窯は奥地に入っていました。それが海岸線に工場を作って確保できるのでしょうか?

 宗吉瓦工場は、郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が行われたようです。それまでの須恵器窯は、移動をしながらも高瀬郷内に置かれています。つまり高瀬郷内を基盤とする氏族によって担われていたことがうかがえます。しかし、藤原京への瓦供給という国家プロジェクトに関わることによって、この勢力は高瀬郷以外への権益拡大を図っていったようです。
そして、須恵器生産でも次のように競合するライバル達を8世紀初頭までは凌駕していたようです。
①競合する三豊平野南縁の辻窯跡群(三豊市山本町、刈田郡)を7世紀中葉には操業規模で圧倒
②讃岐最大の須恵器牛産地・十瓶山窯跡群(綾川町陶)よりも、8世紀初頭までは規模で勝る
③8世紀以降は十瓶山窯が優位になり、10世紀前葉には格差がさらに大きくなる
④10世紀中葉以後、三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小
10世紀近くまで高瀬郷では土器生産が行われ、周辺の山の木が伐採が続いたことになります。
製塩用の薪を提供する山が汐(塩)木山
平城宮木簡には阿麻郷(託間郷?)で塩生産が行われたことが記されます。「藻塩焼く・・」と詠まれたように製塩にも、大量の薪が必要でした。三野津湾西側の山名「汐木(しおぎ)山」は、そのための山として古代から管理されきた山であることがうかがえます。
森林管理センターとしての密教山岳寺院の登場
 このように窯業や製塩業の操業のためには、大量の薪が必要で、そのためには山を管理しなければならないという発想が生まれてきます。条里制施行で田畑の管理は、机上では行えるようになりましたが山野は無放置だったのです。それに気付いた勢力が行ったことが山野の管理センターとして寺院を山の中に建立することだったようです。いわゆる山岳密教寺院の登場です。若い頃に讃岐山脈を縦走していて気付いたのは、山頂にお寺がぽつんぽつんとあったことです。
 西から稜線上に次のような山岳寺院が並びます。
 雲辺寺 → 中蓮寺(廃寺)→ 尾野瀬寺(廃寺)→中村廃寺 → 大川寺(廃寺)→ 大滝寺
これらの寺は、その山域の「森林管理センター」の役割も果たしていたのではないかと思うようになりました。管理人は真言密教の修験者たちということになるのでしょう。同時にこれらのお寺は、孤立化していたのではなく修験者のネットワークで結ばれ、ある程度一体化していたと思われます。
中世の熊野詣での行者たちは、里に下りることなく阿波の鳴門から伊予の八幡浜まで、山の上をつなぐ修験者ルートで行くことができたと云います。そのルートを唐に渡る前の若き空海が歩いたのかもしれません。最後は妄想気味になりました。
最後にまとめておくと
①古代三野郡には須恵器窯跡が数多く見つかっている。
②これは同時に操業していたものではなく、スクラップ&ビルドを繰り返した結果である
③その背景には、燃料の薪確保のために海際から次第に山の奥に入っていった経緯がある
④そのような中で藤原京への瓦提供のために宗吉瓦工場が誘致される
⑤これは当時のハイテク産業で、超大型の工場であった。
⑥この工場誘致を進めた勢力は、三野郡の有力者に成長し、讃岐で最初の古代寺院妙音寺を建立することになる。

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤 竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
DSC00012
合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
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「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
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本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

DSC00076
 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

 讃岐で一番古い寺院と云えば? 
昔は、国府の置かれた府中の開法寺が讃岐で一番古いと云われていた時期もあったようですが、今では妙音寺が讃岐最古の古代寺院とされているようです。妙音寺と聞いても、馴染みがありませんが、地元では宝積院と呼ばれています。四国霊場第70番本山寺の奥の院でもあります。
まずは現場に足を運んでみましょう。
 四国霊場本山寺は国宝の本堂と明治の五重の塔で知られていますが、その奥の院と言われる妙音寺まで足を伸ばす人はあまりいません。本山寺が平地に建つ寺とすれば、妙音寺は丘の上に建つ寺という印象を受けます。「広々とした沃野が展開し、そこには条里制の遺跡が現在している」というイメージではありません。妙音寺の北側の尾根上では、古墳や8世紀代の遺物を出土した茶ノ岡遺跡やがあることから、低い平な尾根の上に古代集落が存在したようです。
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さて、古代寺院を攻める場合には瓦が武器になりますが、古代瓦は私のような素人にとってはなかなか分かりにくので簡単に要約します
①妙音寺出土の軒丸瓦は6種7型式が出てくる
②この中で一番古いものは十一葉素弁蓮華文軒丸瓦M0101モデルの「高句麗系」のデザイン
③このM0101モデルは、大和・豊浦寺出土瓦とデザインが似ている
④作成時期は「瓦当の薄作りや、丸瓦を瓦当頂部で接合するといった技法の特徴は7世紀前半的だが、文様の構成や畿内での原型式からの変容が著しい点」
を考えると年代的には、630年代末~670年代頃の作成が考えられるようです。つまり壬申の乱に先行する形で建立が進められたことになります。
続いて登場するタイプが軒丸瓦MO102A ・ B型式とM0103型式です。
 これらは百済大寺で最初に使われた「山田寺式」の系譜に連なる瓦です。
ところで、これらの軒丸瓦はどこで生産されていたのでしょうか?
妙音寺の瓦は隣の三野町の宗吉瓦窯で焼かれていましたが、そこでは藤原京の宮殿造営のための瓦も同時に焼いていたのです。つまり妙音寺用のM0102A・Bや同103モデルは藤原宮軒丸瓦6278B型の瓦と同じ場所で同じ時期に作られていたことになります。
 妙音寺から出土した瓦は、650~670年代の幅の始まり、90年代にほぼ終了したと考えられるようです。ここから建立もこの時期のこととなります。瓦が年代をきめます。
 妙音寺の創建時に高句麗式と山田寺式の新旧の2つの瓦が使われていることをどう考えればいいのでしょうか。
新旧の瓦に年代差があるのは、出来上がった建物毎に瓦を焼いて、葺いていったということでしょう。古代寺院の建設は、まず本尊を安置する金堂から着手するのが通例です。そうだとすれば、最初の「高句麗系」瓦は金堂に、次いで「山田寺式」瓦はその後に出来上がった塔や回廊・中門に葺かれたこと。その場合、垂木先瓦や隅木先瓦が使われているので、塔が建立されていたと研究者は見ています。讃岐で垂木先・隅木先瓦が出土した寺院は妙音寺のみで、讃岐最古の寺院にふさわしい荘厳がされたようです。
なぜ地方豪族達は、競うように寺院を建立し始めたのでしょうか? 
  その謎解きのために目を美濃国の周辺に移してみましょう。
壬申の乱後に成立した天武朝になると、各地域の豪族はステイタスシンボルとして寺院建立が進められます。その背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。そのモデルが美濃の川原寺式軒瓦を持つ古代寺院です。美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、最初は3か寺ほどでした。尾張・伊勢の場合も同様です。ところが7世紀後半になると、川原寺式軒瓦で葺かれた寺が一挙に17か寺にも急増するのです。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも見られます。これは一体何が起こったのでしょうか?
  
それは壬申の乱に関係があるようです。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表されました。その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。例えば、乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立を認めたのです。美濃や周辺の豪族による造寺に至るプロセスには、壬申の乱の論功行賞を契機として寺院を建立し、さらなる次のステップである央官僚組織への進出を窺うという地方豪族の目論見が見え隠れします。
 このような中で讃岐の三豊の豪族も藤原京造営への瓦供出という卓越した技術力を発揮し「論功行賞」として妙音寺の造営を認められたのではないでしょうか。
ちなみに、かつての前方後円墳と同じく寺院も中央政権の許可無く造営できるものではありませんでした。また寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていたとされます。どちらにしても中央政府の認可と援助なくしては寺院はできなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す物として機能します。

この時代は白村江敗北で、大量の百済人亡命者が日本列島にやってきた時代でもありました。
亡命百済人の活躍

彼らの持つ先進技術が律令国家建設に用いられていきます。それは、地方豪族の氏寺建設にも活用されたと研究者は考えています。

亡命百済僧の活動

妙音寺の瓦は、どんなモデルなの
妙音寺の周辺には忌部神社があり「古代阿波との関係の深い忌部氏によって開かれた」というのが伝承です。果たしてそうなのでしょうか。讃岐で他の豪族に魁けて、仏教寺院の建立をなしえる技術と力を持った氏族とは?
 先ほど、これらの瓦は宗吉瓦窯で生産されたこと、その中でも創建期第2段階に生産されたM0103モデルは藤原宮式の影響を受けていることを述べました。研究者は、そこから進めて「藤原造宮事業への参画を契機に妙音寺は完成した」と見るのです。

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 妙音寺の創建第1段階の「高句麗系」瓦は、畿内では「型落ち」のデザインでした。
そして第2段階の妙音寺の所用瓦も最新形式の藤原宮式でなく、デザイン系譜としては時代遅れの「山田寺式」なのです。藤原京に船で運ばれるのは最新モデルで、地元の妙音寺に運ばれるのは型落ちモデルということになります。これは何を物語るのでしょうか。
 こうした現象は、政権中枢を構成する畿内勢力とその外縁地域との技術伝播のあり方を物語るもののなのでしょう。もっとストレートに言えば畿内と機内外(讃岐)との「格差政策」の一貫なのかも知れません。
 三野の宗吉瓦窯を経営する氏族と妙音寺を建立した氏族は同じ氏族であった可能性が高いと研究者は考えています。それにも関わらず中央政権は、讃岐在住の氏族への論功行賞として妙音寺に最新式の藤原宮式瓦の使用を許さなかったと研究者は考えています。

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佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

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