三野郡の宗吉瓦窯跡
三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。
善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺(ZN101)と同笵瓦
この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図
丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。
TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期
拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。
次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。
報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。」
ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。
平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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