瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯 想像イラスト
三野郡の宗吉瓦窯跡 
 三野郡の宗吉瓦窯跡から善通寺や丸亀の古代寺院に瓦が提供されているように、地方の寺院間で技術や製品のやりとりが行われていたことが分かってきました。前回は、仲村廃寺や善通寺を造営した佐伯直氏が、丸亀平野の寺院造営技術の提供センターとして機能したという説を紹介しました。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
善通寺KA101Aを祖型とする軒丸瓦の系譜
 善通寺周辺の瓦工房では、7世紀末には技術の吸収から製品供給へと、段階が進んでいたと研究者は考えているようです。今回は善通寺から土佐への瓦製造の技術移転を見てみることにします。テキストは、「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です
この時期の讃岐地方の軒丸瓦のデザインの中には、瓦当中央の蓮子を方形に配置するものがあります。扁行唐草文軒平瓦の中には、包み込みによって瓦当面と顎を形成する技法が用いられています。この軒丸瓦の文様と軒平瓦の技法の2つを比較検討するという手法で、但馬地方(兵庫県北部地方)と土佐と讃岐善通寺の瓦工人集団がつながっていたことを研究者は明らかにしています。今回は、そのつながり見ていくことにします。

善通寺白鳳期の瓦
    善通寺他出土 十六弁素弁蓮花文軒丸瓦(ZN101)
この軒丸瓦は善通寺と仲村廃寺の創建の瓦とされてきました。2カ寺に加えて、次の寺院から同笵瓦が出土しています。
①平成11年に丸亀市の田村廃寺跡
②平成12年に高知市の秦泉寺廃寺跡
③平成13年に伊予三島市の表採資料から同笵関係を確認
善通寺同笵瓦 田村廃寺
善通寺(ZN101)と同笵瓦

この丸瓦とセットになる軒平瓦は、善通寺、仲村廃寺では扁行唐草文軒平瓦ZN203とされています。田村廃寺、秦泉寺からも同型式が出土しています。これらの瓦を実際に研究者は手にとって、善通寺のZN101と田村村廃寺、秦泉寺の3カ寺の型木の使用順を明らかにしてきます。
その手がかりとなるのは、型木についた傷の進行状態です。
善通寺同笵瓦 傷の進行

土佐奏泉寺の瓦は、拓本でも木目に沿った3本のすじ傷がはっきりと分かり、一番痛みが激しいようです。次に田村廃寺の丸瓦は、はっきりした右側の1本(a)と、この時点で生じつつあった左側の1本(c)がかすかに確認できます。これに対しZN101に見えるのは、右側の1本(a)だけです。以上から型木は「善通寺ZN101→田村廃寺→秦泉寺」の順番に使用されたと研究者は考えています。

田村廃寺伽藍周辺地名
田村廃寺の伽藍想定エリアの地図

丸亀の田村廃寺を見ておきましょう。
この寺は以前にも紹介しましたが、丸亀市田村町の百十四銀行城西支店の南東部が伽藍エリアと考えられています。地形復元すると古代には、すぐそこまで海岸線が迫っていた所になります。臨海方の古代寺院です。讃岐の古代寺院が、地盤が安定した内陸部の南海道周辺に立地しているのとは対照的な存在になります。

田村廃寺 軒丸瓦3
 TM107 やや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期

拓影の木型傷を比較することで田村神社の軒丸瓦TM107と善通寺ZN101と同笵であることを確認します。セットの扁行唐草文軒平瓦も瓦の右肩の木型傷などからZN203Bと同笵であるあることを確認します。田村廃寺には軒丸瓦と軒平瓦がセットで、善通寺(佐伯氏)から提供されていたことになります。
 善通寺や仲村廃寺建立の際の窯跡で焼かれた瓦が製品として提供されたのか、木型だけが提供されたかは分かりません。私は製品を提供したと推察します。善通寺の瓦工人集団に、引き続いて、田村廃寺の瓦を焼く依頼が造営氏族(因首氏?)からあったという説です。
  ちなみに善通寺(佐伯氏)から提供された同笵瓦は、第Ⅱ期工事に使われたものとされます。金堂は別の瓦が作られ、その後に建築された塔に使用されたと考えられます。
善通寺・弘安寺の同笵関係
善通寺と同笵瓦の関係

善通寺と田村廃寺で使われた木型の痕跡は、四国中央市の一貫田地区にも残されています。
1978年に伊予三島市下柏町一貫田地区の土塁の中から軒丸瓦の小片が発見され、松柏公民館に保管されてきました。それが2001(平成13年)に伊予三島市で採取されていた瓦が同笵関係にあることが確認されました。研究者は実際に手にとって、善通寺瓦と蓮子、間弁の位置関係を比較し、同笵品であると結論づけます。一貫田地区には古代寺院があったとされますが、本来の出土地(遺跡)は分かりません。讃岐の善通寺と田村廃寺で使われた型木が、工人たちとともに移動し、四国中央市での古代寺院建立に使われたとしておきましょう。

秦泉寺廃寺21

次に同笵型木が使用されたのが土佐の秦泉寺(じんぜんじ)廃寺です
秦泉寺は、寺名から秦氏が造営氏族だったことがうかがえます。創建は、出土した軒瓦から飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末葉頃とされ、土佐最古級に位置づけられる古代寺院になります。発掘調査では伽藍遺構は分かっていませんが、創建瓦の一部は、阿波立善寺と同笵なので、阿波の海沿いルート「海の南海道」からの仏教文化の導入がうかがえます。
 寺域の西約4㎞には土佐神社や土佐郡衙推定地があるので、土佐郡の政治拠点と想定されます。
また、寺域周辺では、吉弘古墳をはじめとする秦泉寺古墳群があって、6世紀頃から古代豪族の拠点だったことが分かります。この勢力が寺院建立の造営氏族だったのでしょう。また古代の海岸線を復元すると、寺域南側の約200mの愛宕山付近までは海で、愛宕山西側の入江を港(大津・小津に対して「中津」と称された)として、水運活動も活発に行っていたようです。
秦泉寺廃寺1
浦戸湾の地形復元図 古代の秦泉寺廃寺は海に面していた
 
秦泉寺の造営氏族について、報告書は次のように記します。
当寺院跡の所在する高知市中秦泉寺周辺は、古くから「秦地区」と呼称されている。「秦」は「はだ」と奈良朝の音で訓まれている。土佐と古代氏族秦氏との関連は早くから論議されているため省略するが、秦泉寺廃寺跡の退化形式の軒丸瓦が採集されている春野町大寺廃寺跡は吾川郡に属し、『正倉院南倉大幡残決』のなかに「天平勝宝七歳十月」「郡司擬少領」として「秦勝国方」の名が記され、秦泉寺廃寺跡と大寺廃寺跡は秦氏の建立による寺院跡であることが推定されている。秦泉寺廃寺跡を建立した有力氏族として秦氏を候補に挙げることについては賛同したい。
 なお、秦氏だけが寺院跡建立に関与した有力氏族であったのかは不明で、秦姓の同族や出自を同じくする別姓氏族・同系列氏族の存在を勘案することも必要ではないかと考える。ここでは、秦氏などの在地有力氏族によって秦泉寺廃寺跡・大寺廃寺跡などが建立されたことを考えておきたい。 
  報告書も造営氏族の第1候補は、秦氏を考えています。
比江廃寺跡・秦泉寺跡からは,百済系の素弁蓮華文軒丸瓦や,顎面施文をもつ重弧文軒平瓦など,朝鮮系瓦が数多く出土しています。これも前回見た但馬の三宅廃寺と共通する点です。浦戸湾周辺を拠点とする勢力が朝鮮半島や,日本列島内で朝鮮半島からの影響が強い地域と交流を行っていたことがうかがえます。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、比江廃寺や秦泉寺廃寺の特徴を、次のように述べています。
「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」
「土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、土佐はまだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかった。
 ここに指摘されているように、秦泉寺廃寺のもうひとつの特徴は、中央からの瓦の伝播があまり見られないようです。地方色が強く、非中央的な性格と云えるようです。ここにも中央に頼らなくても独自の海上交易路で、寺院建立のための人とモノを準備できる秦氏の影が見えてきます。
 秦泉寺廃寺跡からは平安時代前期頃以後には、新たな瓦は見つからないので改修工事が行われなくなり、廃絶したと推定されます。

平成12年度の発掘調査で、善通寺と同笵の16弁細単弁蓮花文軒丸瓦、扁行唐草計平瓦が出土しました。
  もう一度、傷の入った軒丸瓦を見てみましょう。
善通寺同笵瓦 傷の進行

木目に沿うように大きく3本の傷があります。これが善通寺と同笵であることの決め手の傷です。同時に軒平瓦も善通寺と同笵のものがあり、「包み込み技法」という善通寺と独自技法が使われています。そのため型木だけが移動したのではなく、瓦工人集団も善通寺から土佐にやってきたと研究者は考えているようです。
 このように見てくると、善通寺側に主導権があるように思えます。善通寺(佐伯直氏)が、まんのう町の弘安寺や丸亀の田村廃寺へ瓦を提供し、土佐の秦泉寺廃寺には型木や瓦工人を派遣する地方の「技術拠点」という見方です。ところが、秦泉寺廃寺は技術受容だけでなく、送り手でもあったことが分かっています。秦泉寺廃寺と同じ同笵瓦を使用した寺院がいくつかあるようです。
秦泉寺廃寺3


 これをどう考えればいいのでしょうか。
  私は善通寺の造営者である佐伯氏の技術力とネットワークを示すものと考えていました。佐伯氏が善通寺造営の際に編成した工人集団を管理し、友好関係にある周辺有力者の寺院建立を支援していたという見方です。
 しかし、見方を変えると寺院造営集団「秦氏カンパニー」の出張工事とも思えてきました。
①秦氏が寺院建立の工人集団を掌握し、佐伯氏からの求めに応じて、善通寺造営に派遣した。
②仲村廃寺や善通寺の姿を見せると、周辺豪族からも寺院建立依頼が舞い込み、設計施工を行った。
③秦氏の瓦工人は、持参した型木(善通寺で製作?)で仲村廃寺・善通寺・弘安寺・田村廃寺の瓦を焼いた。
④丸亀平野での造営が一段落すると、土佐で最初の寺院造営を一族の秦氏がおこなうことになり、お呼びがかかり、そこに出向くことになった。
⑤その際に、善通寺や田村廃寺の軒丸瓦の型木も持参した。しかし、使い古された型木で作った瓦には何カ所もの傷があり、施主の評価はいまひとつであった。
⑥土佐でも、新たな寺院造営の設計施工を依頼された。その際には、土佐で新たに作った型木を用いた。
このような秦氏に代表されるような渡来系の工人グループの動きの方に主導権があったのではないかと思うようになりました。当時は白村江敗戦で朝鮮半島からの渡来人が大量にやってきた時代です。彼らの中の土木・建築技術者は、城山や屋島などの朝鮮式山城の設計築城にあたりました。南海道や条里制施行の工事を行ったのも彼らの技術なしでは出来ることではありません。同時に、この時期の地方豪族の流行が「氏寺造営」でした。それに技術的に応えたのが秦氏の下で組織されていた寺院造営集団であったという粗筋です。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで  香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」
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 南海道 八条池と宝幢寺池

宝幢寺池は丸亀市の郡家にあります。3つの池がパズルのように組み合わさって四角い形をしています。その南を南海道が通過しています。宝憧寺池の下池は、冬になり池干しのために水が抜かれると、塔心礎の大きな石が現れます。
宝憧寺 心礎遠景

ここには、古代寺院があったようです。それがいつの時代かに廃寺になり水田化されていたのを17世紀になって、池が築造されることによって池底に沈んだようです。昔から宝幢寺と呼ばれていたので、出来上がった池も宝幢寺池と呼ばれるようになります。この池から出土したもの、池を築造する際に移転したものなど探りながら、宝憧寺について見ていくことにします。
  DSC00285

 金倉寺の古記録(香川県文化財保護調査会『 史跡名勝天然記念物調査報告第11所収』 には、宝憧寺のことが次のように記されています。
「此寺者清和天皇貞観年中 智證大師開基ニテ 自作之聖観音所安置之精舎也、即大師開基十七檀輪中ノ其十一二而堂塔僧院数多有之侯所 天文争乱二伽藍不残破壊仕り 基跡用水池卜相成宝瞳寺池卜云今池中二大塔礎石―ツ相残 り、古瓦箸多御座候」
意訳しておくと
この寺は清和天皇貞観年中(859年~877)に智證大師が開基し、自作の聖観音菩薩を安置した。つまり智証大師が開いた十七の寺院の中の十一番目の堂塔で僧院も数多くあった。しかし、天文年間の争乱で伽藍は残ず破壊された。その後、寺院跡は用水池となって宝瞳寺池と呼ばれるようになった。今この池の中には大塔礎石がひとつ残っている。また古瓦も数多くある。
 
ここからは次のようなことが分かります。
①宝憧寺は貞観年中(9世紀後半)に智證大師作の観音菩薩を本尊として建立され、
②天文年間 (1552~ 1554)に「伽藍は残らず破壊」され戦国乱世 に荒廃した。
③天明5(1785)に里正小笠原輿衛門によって宝瞳寺跡に溜池が築かれ、礎石が残る
しかし、出土した瓦は、四重孤文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦などで、奈良時代前期や白鳳時代のものです。古代の郡司レベルの豪族達の氏寺として建立されたと考えるのが妥当のようです。智証大師以前に作られた古代寺院のようです。
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文献資料では、宝憧寺があった中世の郡家郷は、
①15世紀半ばの鎌倉時代に後嵯峨上皇預となり
②嘉元4(1506)年『御領目録』には、前右衛門督親氏卿の所領
と中央の権門勢家の荘園となっていたことが分かります。そのような情勢を伝える地名として、郡家小学校周辺には『 地頭 』『 領家 』などの地名が残ります。
これらの資料を受けて宝幢寺について、丸亀市史は次のように記します
白鳳時代に創建された寺で、創建されてから800有余年にわたって繁栄したが、永禄元年(1558)、阿波の三好実休が讃岐を支配下に置こうとして、多度・三野・豊田の三郡を領有していた香川之景を攻めて那珂郡に侵入した永禄合戦の際に兵火にかかり、再興に至らずついに廃寺となった。
 慶長年間に宝憧寺池、続いて寛永9年(1672)に上池(辻池)が築造された」
とあります。
これだけの予備知識を持って、現場に行ってみましょう
宝憧寺 心礎近景

冬になって水が抜かれて池干しされると、宝憧寺上池には大きな石が水の中から姿を現します。 かつて放置されていた礎石類も今は、心礎周辺に配置されています。礎石は動かせても、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺塔心礎

 この石は花嵩岩の自然石で、最大南北185㎝、東西約230㎝、高さ約67㎝の大きなもので、池の築造の際に動かせなかったというのも分かります。しかし、古代の建立時には、ここまで運んできています。考えられることは
①近世の灌漑水掛かりのエリアから集められる労働力では動かすことは出来なかったが、古代の郡司クラスの有力者の動員できる労働力では移動可能であった
②古代には、渡来人系の専業技術者集団がいて、少人数でも移動させることの出来る技術や工具を持っていた。
③近世の人たちには、移動させたり利用する意図がなかった。人柱のように、水に沈めた方が自然であった。
まあ、頭の体操はこのくらいにしておきましょう。

断面図を見れば分かるように、平坦にされた上面に柱座が彫られ、その中央にU字型に舎利孔がうがたれています。段の部分を舎利を入れた心孔の蓋と考えると、二重式心礎ではなく、三重式心礎になるようです。心礎上面には、排水溝も掘られています。
 心礎の設置工法は、飛鳥時代は地下式心礎、白鳳時代は地表に露出する工法が一般的と云われているようです。宝幢寺の心礎は、心礎上面が池の外側の水田面より約50㎜、現地表面より70㎜ほど高いので地表に出ていたことがうかがえます。心礎の設置状況や形状からは、白鳳時代の特徴をよく示す心礎で、建立当時から動かされた形跡はないと研究者は考えているようです。

調査報告書には、トレンチを入れた調査の結果を次のように記します
宝憧寺 トレンチ
  
①心礎を中心として土壇が広がり、その上面にはおびただしい河原石が散らばっている
②土壇は、上池からの通水のために、二箇所で掘削されている
③その上面も、築堤以来の土手改修などによって、何度も大規模に削平されている。
④土壇上が良質の粘質土のため壁土やカマド用に、地元民が土取りを行ってきた痕跡がある。
以上によって、旧地表面は完全に失われていたようです。
伽藍の形式は分かったのでしょうか?
①土壇は、東西方向の長さが90m。南北方向は、北辺のみ確認できた。
②仁池や上池の池中からも瓦片が多数でてくることから、寺域は2つの池にも及んでいた
③伽藍形状は方形か、南北に長い矩形
④伽藍配置については、部分的な発掘のために分からない。
⑤上壇の南北方向の軸は、N20°Wで、丸亀平野の条里遺構N50°Wと大きくズレがある。
⑥土壇は、5層からなっていて土壇として造成された第1層と第2層は、粘質土に河原石を混ぜて固めたもので、県下には類例のないものである
⑦塔心礎以外に礎石はない。
現在心礎の周りに並べられている礎石群は、その後の堤防工事などで出てきた者を無作為に並べてあるようです。

昭和15年発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告第 11』 には、次のような記載があります
金堂は基壇と思しき土壇あって東西約25米 、南北約20米である。塔婆は基壇と思しき土壇 あって東西約15米、南北も同 じく約15米である。心礎を中心として瓦礫が散在 している。金堂と塔婆の間隔は10米、金堂より東方20米 、塔婆より西方20米 にて寺域が終わっている。

80年前の戦前に書かれたこの報告書には、塔心礎の東に金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと以下のような配置を推定しています。その根拠は、古瓦の分布密度から心礎から南へ中門・南大門が建っているとの推察です。

南海道 宝幢寺推定伽藍図

 もし法隆寺式の伽藍配置とすれば、塔跡の東に金堂の土壇があるはずです。しかし、1980年の発掘調査では、土壇の跡を発見することはできなかったようです。そのために丸亀市史は、伽藍配置は「不明」としています。

 戦前は、古代寺院を中央の大寺の分寺として捉えようとする傾向が郷土史家には強かったようです。そのため
「宝幢寺は、那珂郡の郡司庁の所在地であったし、法隆寺の荘園でもあったので、その分寺が建てられたものと思われる。」

と考えられていたようです。今は、東大寺が讃岐に置いたのは拠点で、寺院と呼べるものではなかったことが分かっています。代わって白鳳時代の寺院建築には、壬申の乱以後の政治情勢が色濃く反映していると研究者は考えるようになっています。つまり地方の有力豪族の論功行賞の一環として古代寺院の建設が認められるようになり、争って地方の有力豪族が建立を始めたというストーリーです。そうだとすると考えなければならないのは、次のような点です
①郡家に宝幢寺を氏寺として建立した地域有力者とは何者か?
②彼らの祖先の古墳時代の首長墓はどこにあるのか?
③どのようにして古代寺院の建築技術集団を招いたのか。
④周辺の有力者とは、どんな関係が結ばれていたのか(善通寺の佐伯氏 金蔵寺の因岐首氏)
⑤多度郡や鵜足郡では、古代寺院と郡衙と南海道はセットで配置されているが那珂郡ではどうなのか
  これらを課題としながら出てきた見てみましょう
宝憧寺池、仁池などから出てきた瓦には次のようなものがあるようです。
 ●八葉複弁蓮華文軒丸瓦(奈良時代)
 ●四重弧文軒平瓦(白鳳時代)
 ●均正唐草文軒平瓦
  ・そのほか多数の布目平瓦
宝憧寺 出土瓦1


これらの瓦は、どこで焼かれ宝憧寺まで運ばれてきたのでしょうか
その一部は、鳥坂峠を越えた三豊市三野町の宗吉瓦窯跡で焼かれたことが分かってきました。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯は、初めての瓦葺き宮殿である藤原京に瓦を供給するために作られた最新鋭のハイテク工場だったことは以前にもお話ししました。その窯跡からは,いろいろな種類の瓦が出土 しています。その中の軒丸瓦は、単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので,これは三豊市の豊中町の妙音寺のものと同笵でした。
また8号瓦窯からは、重弧文軒平瓦,凸面布目平瓦などが出土し,その中の軒瓦が宝幢寺跡から見つかっていた瓦と同笵であることが分かっています。つまり、三野町の宗吉瓦窯で焼かれた瓦が、妙音寺や宝幢寺に運ばれて使われていたということになります。
宝憧寺 軒丸瓦

これまでの調査からは、次のような事が言えるようです。
①宗吉瓦窯は、在地有力氏族によって造営された妙音寺や宝幢寺跡の屋瓦を生産する瓦窯として作られた
②その後,藤原宮所用瓦を生産することになり、多くの瓦窯が増設された。
③そこでは藤原京用に,軒丸瓦6278B,軒平瓦6647Dの同笵瓦が生産された
また、宗吉瓦窯から南500mには古墳時代後期に操業を開始した瓦谷古窯や7世紀前半から8世紀初頭にかけて操業した三野古窯跡群などの須恵器窯が先行して操業していたことが前提条件 になっていたと研究者は考えているようです。
 つまり、三豊湾沿岸東部は7世紀前半から8世紀初頭にかけて,讃岐で最大の須恵器生産地であったのです。そのような中で、須恵器生産エリアを支配下に置く有力者が、自分の本拠地に氏寺を造営することになります。その際に、瓦技術者を誘致すると共に。それまでの須恵器工人を組込むことによって、自分の氏寺用の瓦生産を行ったようです。その結果、完成するのが豊中町の妙音寺です。これが7世紀半ばから末にかけてだったことが出土瓦から分かるようです。そして、この寺院建立を行ったのは、壬申の乱で一族に功績者が出た丸部氏だと研究者は考えているようです。
当時の氏寺建立は郡司クラスの地方豪族のステイタスシンボルでした。
空海の佐伯家や智証大師の因岐首氏を見ても分かるとおり、地方豪族の夢は中央政府の官人となることでした。そのステップが寺院建立であったのです。ある意味、古墳時代の首長たちがそのシンボルである前方後円墳を競って築いたのと似ているかもしれません。
 丸部氏の氏寺建立を見て、多度郡や那珂郡の郡司達も氏寺建立に動き始めます。その際に協力を求めたのが、すでに寺院を完成させている丸部氏です。彼を通じていろいろな技術者集団との連絡を行ったのかもしれません。そして、実績のある宗吉瓦工場へ瓦を発注したことが考えられます。
 瓦は三野町からどのようにして運ばれてきたのでしょうか。
  大日峠越えの南海道が整備されるのは8世紀初頭で、まだできていません。鳥坂峠越えの道を、人が担いで運んだのでしょうか。
三野 宗吉遺跡1

考えられるのは、舟を使った運搬です。以前にもお話しした通り、当時の宗吉瓦窯跡は、三豊湾がすぐ近くにまで湾入してきていました。そこで舟で多度津の堀江港か、土器川河口まで運んだことは考えられます。その輸送実績が、藤原京用の瓦受注につながったのかもしれません。どちらにして、古代の宝幢寺や善通寺の瓦は三豊から運ばれてきたことを押さえておきたいと思います。
ここからは隣接する郡司(有力豪族)間の協力関係がうかがえます
 当時は白村江の敗北や壬申の乱など、軍事的な緊張が続く中でその対応策として、城山や屋島に朝鮮式山城が築かれ、軍道的な性格として南海道の工事も始まろうとしていました。これらの工事をになったのは各郡の郡司だちです。かれらは、府中の国府に定期的に出仕もしていたようです。
そのため軍事的緊張下での大土木工事は、地方有力者の求心力を高めるベクトルとして働いたのでないでしょうか。
各郡の郡司と氏寺を次のように想定しておきましょう。
多度郡の佐伯氏  氏寺は 仲村廃寺・善通寺
三野郡の丸部氏      妙音寺
那珂郡の因岐首氏     宝憧寺
鵜足郡の綾氏       法勲寺
彼らは、緊密な関係にありそれが氏寺造営にも活かされたとしておきましょう。今回は、宝憧寺の瓦までです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
小 笠 原 好 彦 藤原宮の造営と屋瓦生産地  日本考古学第16号
丸亀市教育委員会  宝憧寺跡発掘調査報告書1980年

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DSC01155
王墓山の墳丘の麓にある箱形石棺  
「古代善通寺の王家の谷=有岡」に、王墓山と菊塚の横穴式石室を持つふたつの前方後円墳が相次いで造られたのが6世紀後半のことでした。しかし、それに続く前方後円墳を、この有岡エリアで見つけることはできません。なぜ、古墳は築かれなくなったのでしょうか?
 その理由に研究者たちは、次の2点を挙げます
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと
②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
こうして古墳は時代遅れの施設とされたようです。変わって地方の豪族達が競うように建立をはじめるのが仏教寺院です。

古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」

と研究者は言います。各地の豪族は、権力や富の象徴であり地域統治のシンボルであった古墳築造事業を寺院建立事業へと変えていったのです。
古墳から寺院へ
古墳から古代寺院へ
 それでは豪族達は、自分の好きなスタイルの寺院建築様式や、仏像モデルを発注できたのでしょうか。
そうではなかったようです。前方後円墳と同じく寺院も、中央政権の許可なく建立できるものではありませんでした。寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては、作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていました。中央政府の認可と援助なくしては、寺院は作れなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す威信財として機能します。
 前方後円墳がヤマト政権に許された首長しか建設できなかったこと、その大きさなどにもルールがあったことが分かってきています。つまり、前方後円墳は地方の首長の「格差」を目に見える形で示すシンボルモニュメントの役割を果たしてもいたと言えます。このような中央政府による「威信財(仏教寺院)」管理で地方豪族をコントロールするという手法は、寺院建立でも引き続いて行われます。

3妙音寺の瓦

 例えば壬申の乱の勝利に貢献した村国男依〔むらくにのおより〕は死に際して、最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、氏寺の建立を許され下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立は認められています。地方豪族が氏寺を建てたいと思うようになった背景には、寺を建てることで、さらなる次の中央官僚組織への進出というステップにを窺うという目論見が見え隠れします。
3宗吉瓦2

 その例が、多度郡のお隣の三野郡で丸部氏が讃岐最初の古代寺院を建立するプロセスです。丸部氏は、天武朝で進められる藤原京造営に際して「最新新鋭瓦工場=宗吉瓦窯跡」を建設し、瓦を供出するという卓越した技術力を発揮します。中央政府は「論功行賞」として、丸部氏が氏寺を建設する事を認めます。こうして、讃岐で一番最初の古代寺院・妙音寺(三豊市・豊中町)が、姿を見せるのです。これを手本にして、佐伯氏の氏寺の建立は始まったと私は考えています。

佐伯氏の氏寺建立のプロセスを見ていきましょう。

DSC01201
伝導寺跡(仲村廃寺)
  佐伯氏の最初の氏寺は  伝導寺(仲村廃寺)
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、考古学が明らかにした答えとは異なるようです。善通寺の前に佐伯氏によって建立された別の寺院(Before善通寺)が明らかにされています。その伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。
 発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。

DSC04079
仲村廃寺の軒丸瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。瓦の一部は、先ほど紹介した丸部氏の宗吉瓦窯で作られたものが鳥坂峠を越えて運ばれてきているようです。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。
ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。
この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
ここまでは、有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したと受けいれやすい話です。

DSC01206
墓地の中に散在する仲村廃寺の礎石

 ところが話をややこしくするのが、時を置かずにもうひとつの寺を建て始めるのです。
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善通寺の軒丸瓦
それが現在の善通寺の本堂と五重塔のある東院に建立された古代寺院です。そして、善通寺東院伽藍内からも伝導寺と同じ時期の瓦が出てくるのです。中には伝導寺と同じ型で模様が付けられたものも出てきます。これをどう考えればいいのでしょうか。考えられることは
①伝導寺も善通寺伽藍の創建も白鳳時代で、同時代に並立した。
 しかし、伝導寺と現在の善通寺東院は、直線にすると300㍍しか離れていません。佐伯氏がこんな近い所に、ふたつの寺を同時に建立したのでしょうか。前回に紹介した大墓山古墳と菊塚古墳は非常に隣接した時代に造営されたことをお話ししました。そして、被葬者は佐伯一族の中の有力一族の関係にあったのではないかという推察をしました。ここでも、本家と親家のような関係にある人物がそれぞれ氏寺を建立したという仮説もだせますが・・・何か不自然です。

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仲村廃寺の礎石
②白鳳時代に伝導寺が建立されたが短期間で廃寺になり、今の伽藍の場所に移転した
 善通寺伽藍内で発見された白鳳時代の瓦は、廃寺とした伝導寺から再利用のために運ばれ使われた。この仮説には、移転の原因を明らかにする必要があります。
.1善通寺地図 古代pg
  伝導寺の南にあった3つの遺跡を見てみましょう。 
  ①生野本町遺跡は、善通寺西高校のグランド整備に伴う発掘調査で出てきた遺跡です。
溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。

  ②生野本町遺跡の南 100mに は生野南口遺跡が 位置する。
ここでは 8世紀前葉~中葉に属する床面積40㎡を越える庇付大型建物跡1棟、杯蓋を利用した転用硯1点が出土している。生野本町遺跡に近接し、公的な様相が窺えることから、両遺跡の有機的な関係が推測できる。
 そして、文献学的な推定からこの付近には南海道が通っていたとする次のような説がありました。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
 
 ③これを裏付ける考古学的な発見が、四国学院大学構内遺跡から出てきました。
この遺跡は、南海道推定ライン上にあるのですが、そこから併行して延びる2条の溝状遺構が見つかりました。時期的には7世紀末~8世紀初頭で、この2条の溝状遺構は南海道の道路側溝である可能性が高いようです。また、ここからは伝導寺で使われた同じ瓦がいくつか出てきています 。  
この3つの遺跡について述べられているキーワードを、取り出して並べてみましょう。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設
②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
 → 官衛的な様相が強い遺跡
③延床400㎡の大型建築物
 → 地方権力の拠点?
④遺跡の間を南海道が通っていた           
 → 多度郡の郡衛が近くにあるはず
⑤伝導寺の瓦が出土
  → 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理
⑥どの建築物も短期間で消滅
これらを「有機的な関係」という言葉でつなぎ合わせると、出てくる結論は何でしょうか?
それは、四国学院キャンパスから南にかけての微髙地に多度郡の郡衛施設があったということ、そして、佐伯氏の館もこの周辺にあったということでしょう。
それを研究者は次のような言葉で述べます
   この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。

要は、研究者も、7世紀後半には多度郡の郡衛がここにあったと考えているようです。
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以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
 条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・

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多度郡の郡衛の北に姿を現した古代寺院。これは甍を載せた今までに見たことのないような大きな建造物で、中には目にもまばゆい異国の神が鎮座します。古墳に代わる新たなモニュメントとしては最適だったはずです。佐伯の威信は高まります。

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佐伯氏の居館は、どこにあったのでしょうか?
  従来説は、
  ①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
 
でした。  しかし、以上の発掘調査の成果を総合すると

  ②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった

  ③そして伝導寺の廃絶と善通寺伽藍への移転に伴い、佐伯氏の活動の拠点も今の誕生院の場所へ移動した と考えられるようになっているようです。
 ここで、残された問題に帰ります。
なぜ伝導寺が短期間で廃棄されたのかです。
 この問題を解くヒントが、実は3つの遺跡の中に隠されています。それは、
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。
ということです。これは伝導寺とおなじです。何があったのでしょうか?
7世紀後半の南海沖地震の影響は?
災害歴史の研究が進むにつれて
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」

という説が近年出されています。
「日本書紀」の巻二九、天武十三年(678)10月14日の記録に
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
とあります。
 続いて十一月三日には
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
ともあり、10月14日の地震により発生した津波の被害の報告のようです。7世紀後半に何回か大きな地震が起きていたようです。「伊予」「土佐」でも大きな被害が出ていることから、讃岐の善通寺市付近でも、戦後の南海地震と同じような被害があったのではないかと研究者は考えています。
 伝導寺が姿を見せた頃は、佐伯氏の居館は生野町本町遺跡付近にあった?
 先ほど見てきたように、この遺跡は白鳳時代の初め頃(七世紀後半)に成立し、白鳳時代末頃(八世紀初め頃)には廃絶しています。寺の移転に併せるように現在の西院に佐伯の居館も移転したようです。これも同じ地震被害に関連するものではないか、と研究者は推測します。確かに、戦後の南海地震規模と同規模の揺れなら善通寺にも被害があったでしょう。実際に多度津からの金毘羅街道の永井集落に立っていた鳥居は根元からポキンと折れています。建立されたばかりの寺院に、大きな被害が出たことは考えられます。
王墓山古墳や菊塚古墳の報告書には、大地震によると考えられる石室の変形が見られるとしています。善通寺市周辺における奈良時代以降の大地震の記録は残っていませんから、これらも白鳳時代の大地震によるものではないかといいます。
 こうした白鳳の南海大地震の被害を受けて、佐伯家の主がその対策をシャーマンに占なわせた結果、新しい場所に寺も本宅も移動して再出発せよという神託が下されたというSTORYも充分に考えられるとおもうのですが・・・・
  以上が現時点での伝道寺短期廃棄説の仮説です。これにて一件落着!と言いたいところなのですが、そうはいかないようです。
伝導寺跡からは平安時代後期の瓦が出土するのです。これをどう考えればいいのでしょうか?
普通に考えれば、この寺は平安末期まで存続していたということになります。しかし、寺として存続していたのなら瓦が別な場所で再利用されることはありません。とりあえず次のように解釈しているようです
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」

しかし、今後の発掘次第では「解釈」は変わっていくことでしょう。

   以上をまとめておくと次のようになります。
①7世紀後半に佐伯氏は、初めての氏寺・伝導寺を建立した
②この建立には三野郡の丸部氏の協力があった
③伝導寺建立後に南海道が整備された。
④現四国学院大学の図書館付近を東西に南海道は走っていた
⑤その付近には、多度郡の郡衛や付属施設が建ち並び、佐伯氏の館も周辺にあった。
⑥しかし、天武十三年(678)10月14日の「天武の南海大地震記録」によって大被害を受けた
⑦そのため建立されたばかりの伝導寺や郡衛・館も廃棄された。
⑧そして、新寺を現在の善通寺東院に、郡衛・館を現在の西院に移動した
これが空海が生まれる半世紀前のこの地域の姿だと私は考えています。  
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

         讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは?  

 三豊人と話していると「鳥坂峠の向こうとこちらでは、文化圏がちがう」
「三豊は独自の文化を持つ」という話題が出てくることがあります。
確かに、三豊には独自の文化があった気配がします。例えば、財田川河口に稲作を持ち込んだ弥生人とその子孫は、わざわざ九州から阿蘇山の石棺を運んできて、自らの前方後円墳に設置し、その中に眠る首長もいます。古墳時代には、三豊は九州とのつながりを感じさせるものが多いようです。
そんななかで、三豊の古代史の謎がいくつかあります。
その1 高瀬川流域の旧三野郡に前方後円墳がないこと
その2 讃岐最初の古代寺院妙音寺がなぜ三豊に建てられたのか、その背景は?
その3 藤原京の宮殿用の宮瓦を焼いた「古代の大工場」が、なぜ三野に作られたのか?
この疑問に答えてくれる文章に出会いました。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」という冊子です。

       讃岐最初の古代寺院妙音寺を建立したのは誰か?

 この冊子は、白村江の敗北から藤原京の造営にいたる変動の時代を、果敢に乗り切った地域として三野評(郡)(現三豊市)に光を当てます。現在の三豊市の高瀬川流域では、前方後円墳の姿を見ることができません。古代における首長の存在が見当たらないのです。大野原に見られるような六~七世紀の大型横穴式石室墳もありません。延命院古墳などの中規模の石室墳がありますが、それもわずかです。

 ところが白村江の敗北後の七世紀中ごろ、ここに讃岐最古の古代寺院・妙音寺が突然のように姿を現します。 隣の多度郡の善通寺地区と比較するとその突然さが分かります。善通寺地区では大麻山と五岳に挟まれた有岡の盆地では、首長墓である前方後円墳が東から磨臼山古墳 → 丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳 と順番に造られ「王家の谷」を形作っていきます。7世紀後半になると古墳の造営をやめて、古代寺院の建立に変わっていきます。それを担った古代豪族が佐伯氏を名乗り、後の空海を産みだした氏族です。

 つまり、古代寺院の出現地には、周辺に古墳後期の巨大な横穴式石室を持つ古墳を伴うことが多いのです。そして、古墳時代の首長が律令国家の国造や地方政府の役人に「変質・成長」するというパターンが見られます。ところが、繰り返しますが三野平野はその痕跡が見えません。それをどう考えたらよいのでしょうか?

一方、西となりの財田川とその支流二宮川一帯の旧刈田郡(観音寺と旧本山町)は早くから開けたところで、財田川とその支流沿いに稲作が広がり、周辺の微髙地からは古代の村々が発掘されています。その村々を見下ろす台地の上に、讃岐最初の古代寺院妙音寺は建立されます。
妙音寺は、三豊市豊中町上高野の小高い上にある寺院です。
 周辺の古墳を探すと、妙音寺の北300mに大塚古墳があります。中期の古墳で墳頂に祠が立ち、かつては“王塚”と呼ばれていたようです。2014(平成26)年度に確認調査が行われ、径17.75m、埴輪列まで含めると径22.0m、周濠まで含めると径37.5mの円墳です。川原石の葺石および円筒・朝顔形埴輪がでてきていますが、形象埴輪はありません。埋葬部は未調査です。 

台地の下には、財田川の支流二宮川が蛇行しながら流れます。

その河岸の岡に延命院があります。その境内に開口部を南に向けているのが延命古墳です。地元に人は「延命の塚穴」と呼んでいます。先ほどの紹介した古墳時代中期の「大塚古墳」に続く後期古墳です。墳墓の上には立派な宝篋印塔が立っていて、径約16m以上とされる楕円形に近い円墳にアクセントを付けて簪のように似合っています。
 花崗岩の天井石の一部が露出し、片袖型横穴式石室が南東に開口し、サイズは羨道[長さ1.8m×幅1.4m]、玄室[長さ4.48m×幅2.4m×高さ2.8m]です。採集された須恵器から、6世紀後半から末の築造とされています。巨石の配置の見事さ、さらに整備された構造、境内の中にあって長年にわたって保護されきた環境などから、見ていて楽しい古墳です。
 妙音寺は、この古墳と大塚古墳の間にあり、どちらからも直線では数百mの距離です。善通寺地区の大墓山古墳と善通寺、坂出の府中地区の醍醐古墳群と醍醐寺のように終末古墳から古代寺院への建立へと進む地方豪族の動きが窺えます。この周辺に妙音寺の建立に係わった一族の拠点があったと推測されます。

 この丘の上に寺院が建立され始めたのは7世紀後半のことのようです。

昭和のはじめから周辺で工事や小規模な発掘調査が行わ多くの古代瓦が見つかっています。瓦からはいろいろな情報を読み取ることができます。この寺の完成までには20年ほどの歳月がかかったようです。そのために何種類かの瓦が使われています。
 最初の建物に使われた瓦は大和・豊浦寺にモデルがある独特の文様が採用されています。そして、竣工間際の七世紀も終わりごろには、天皇家の菩提寺である百済大寺式の瓦で軒が飾られるようになります。
どちらにしろ寺院の建設は地域の豪族にとって初めての経験であり、その高度な建築技術持つ大工や工人を都周辺から招いたと考えられます。一枚が10㎏もある重い古代瓦は、輸送コストのことを考えると、なるべく寺院の近くに瓦窯を作って生産するのが基本です。妙音寺の場合は、ここから約五㎞北の宗吉瓦窯跡(三豊市三野町)で生産されたことが発掘から分かってきました。 さらに驚くべき事が分かってきます。
ここで焼かれた瓦が持統天皇が造営した藤原京の宮殿に使われているのです。
瀬戸内海を越えて船で運ばれたのでしょうが、なぜこんなに遠いところから運ぶ必要があったのでしょうか? また、なぜ古代豪族の影が見えなかった高瀬川流域に忽然と大工場が現れたのでしょうか?

それには、もうすこしこの最新鋭の工場を見ていくことにしましょう。

 最盛期には、宗吉瓦窯跡では最新鋭構造の窯五基前後をセットにして、それを四グループ並べるかたちで、全部で20あまりの窯跡が稼働していました。窯詰め・窯焚き・冷まし・窯出し、といった工程をグループ毎にローテーションするような効率的な生産が行われたようです。
 これだけ集中的で組織化された生産方法や・監視システム・さらにはそれを担う技術者を集めることなど、地方豪族の力を越えています。この工場は、国家プロジェクトとしての形が見えると専門家は言います。
この地に、最新鋭の大規模工場が「誘致」されてきたのは、どんな背景があるのでしょう?
 誘致以前に、すでに三野地区には須恵器生産地(三野・高瀬窯跡群)があり、瓦作りの基礎技術や工人はすで存在していたようです。その経験を生かしながら国家からの財政的・技術的な支援を受けながらこの地に先端の瓦製造工場を呼び入れた地方豪族がいたのです。その人物は、中央政府との深いつながりを持っていた人物だったのでしょう。さて、その人物とは?

七~八世紀に都との際立った深いつながりをもつ人物として、讃岐国三野郡(評)の「丸部臣」(わにべのおみ)を専門家は挙げます。

この人物を、天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手とするのです。君手は、壬申の乱(六七二年)に際して美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーとなる人物です。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と推察することが出来ます。妙音寺周辺の本山地区に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 また、隣の多度郡の善通寺や那珂郡の宝憧寺造営に際しても、瓦を提供していることが出土した同版瓦から分かっています。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったといえるのかもしれません。
 もし君手が三野評出身でなくとも、彼が同族関係にある三野郡の丸部臣と連携して藤原宮への瓦貢進を実現させたと推測できます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  

妙音寺の建立から百年後、宗吉瓦窯跡が操業を終えた八世紀初めごろ、

三野津湾の東側にそびえる火上山の南のふもとに火葬墓が造られます。猫坂古墓と呼ばれるその墓では、銅製骨蔵器(骨壷)と銅板が須恵器外容器に収められていました。讃岐国の中では最も早い時期に火葬を受け入れた例とされます。専門家は、骨蔵器の優れた造りからみて郡司大領クラスの被葬者と考え、「立地場所からからみて三野郡司・丸部臣氏との関係が濃厚」としています。
 丸部臣氏は、7世紀後半から8世紀にかけて中央とのパイプを持つことに成功し、当時の政権の意図である「造宮と造寺」を巧みに利用し、三野郡における「古代の文明化」を達成していったのす。

それに対して隣の刈田郡(旧大野原町)は、どうだったのでしょうか?

 観音寺市大野原町には、六世紀後半から七世紀初めにかけて、傑出した大型横穴式石室墳である椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳(いずれも国史跡)が世代毎に築かれます。同時期の讃岐では、突出した巨大な石室をもつ大野原古墳群は、三豊平野南部に君臨した豪族の墳墓です。また県境を越えた四国中央市には、角塚古墳と石室の構造は近似しているものの使用している石材が異なる宇摩向山古墳があり、大野原古墳群の勢力と連合した豪族がいたことがうかがえます。この勢力が最後の平塚を完成させたのが7世紀半ば、それに前後して三野地区の丸部臣氏は寺院建立に着手していたことになります。この時流への対応が、後の両勢力の歩む道の分岐点になったと研究者は考えているようです。
 この大野原・川之江の燧灘東方の連合勢力(紀伊氏?)に、国家はくさびを打ち込むかのように国境を入れるのです。彼らこの地域の豪族たちにとって、これは「打撃」でした。この打撃から立ち直り、その衝撃を乗り越えて行くには、相当の時開かかかったようです。大野原地域に中心的な古代寺院、紀伊廃寺が建てられるのは、出土瓦からみると「丸部臣」が建立した妙音寺に遅れることと約百年。この間、三豊平野の主導権は、「丸部臣」ら三野郡の勢力に握られていたと考えられます。
 
 刈田郡の豪族も、遅れながらもやがては他の地域と同様に開発を進めていったのでしょう。平安時代になると、郡の名を負った苅田首氏が中央官界に進出します。打撃を被りながらも地域の経営を進め、九世紀には、他地域と同様に地域経営を進めた痕跡を見ることが出来ます。

参考文献 
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界


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