瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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たいむタイムトラベル 博多全体
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
 ここに描かれているのは15世紀頃の博多です。
当時の東アジアは中国は明帝国の時代で、鄭和による南海遠征後には東南アジアとの南海貿易が開始されます。そこに琉球や日本・朝鮮との東アジア交易圏なども組み込まれて、アジアの「大航海時代」が始まっていました。当時の日本列島における拠点が博多で、多くの人とモノが行き交う貿易港の役割を果たすと同時に、中国人が数多く定住しチャイナタウンを形成していました。今回は、このイラストからいろいろな情報を読みとっていこうと思います。

中世の博多地図

  博多は、「息浜」という自然の砂州から発展した港湾都市でした。砂浜が拡がるだけの港の背後の中洲に町は発展していきます。
たいむタイムトラベル 博多左上

 息浜の港には多くの船が停泊しています。港から伸びてくる一本の道の両側には、店が建ち並んでいます。燕の巣があるので季節は5月初夏のようです。表通りの道は瓦の破片を敷きつめた舗装道路で、側溝もあります。これなら雨が振っても泥濘むことはありません。港と町の境には木戸があります。周囲は柵(釘くぎ貫ぬき)で囲まれています。町屋は板葺の屋根で、その上には石や太い木がおかれています。よく見ると,草葺や柿こけら葺ぶき(木羽板葺)の屋根もあります。しかし、瓦葺きの大きな家はありません。中世の町屋は,近世と比べるとまだ小さく,粗末だったようです。

たいむタイムトラベル 博多 商店
表通りの店先 一番手前が反物屋

表通りの一番手前にあるのが反物屋で、反物が並べられたり、吊されたりしています。
注意して欲しいのは、完成した呉服が売られていないことです。近代までは、着物は反物を買って、自分で縫っていたようです。完成品の着物は売られていませんでした。反物屋の軒先を見ると、売り手も買い手も女性です。そういえば、一遍上人絵伝の福岡の市の反物屋も売り手は女性でした。中世は性別分業がはっきりしていて反物商売は女の職業だったようです。その向こうが酒屋です。軒先には男性たちが酒をあおってたむろしています。時代が変わっても、人間の酒好きは変わらないようです。
その隣が曲げ物屋です。桶師(桶屋)が地面に座り込んで,桶に箍(たが)をはめています。

職人絵図 桶師
結桶は室町時代に登場した優れもので、頑丈なので水などの液体を運搬することができるようになりました。酒などもこの時期には瓶(かめ)でつくっていましたが,近世になると大きな結桶で大量の酒を醸造するようになります。それが醤油や味噌などにも転用されます。そして江戸時代になると樽に入れられた酒が、大量に灘から江戸に船で運ばれるようになります。現在のコンテナの出現のように、ある意味では運輸革命につながります。
 桶屋の前では、喜捨を求めた黒い僧服を着た僧侶が追い払われています。阿弥陀浄土信仰を説く念仏聖かもしれません。讃岐でも中世には、志度寺・白峰寺・弥谷寺などは念仏聖の拠点となって、多くの聖達が住み着いて、周辺への布教活動を行っていたことは以前にお話ししました。富み栄える港町には、いろいろな宗派の僧侶がやってきて布教活動を行っていました。

その向こうが米屋で,枡(ます)で量り売りをしています。次は刀剣を商っている刀屋。一つ道をはさんで向こう側が,陶磁屋です。中国からもたらされた陶磁器も扱われていたのでしょう。
博多 中国人の墨書陶磁器

 博多区店屋町冷泉(てんやまちれいせん)公園東側では、波打ち際に廃棄された12世紀初めの白磁の山が出土し、当時の博多の荷揚げ場(港)は「博多浜」の西部にあったと推定されます。また、「博多浜」の中央部にあたる店屋町や冷泉町周辺からは多くの中国製陶磁器類が一括して出土し、これらを取り扱う事務所や倉庫が軒を連ねていたと考えられます。

 今度は通りを行き交う人々を手前から見ていくことにします。
市女(いちめ)笠をかぶっているのが女主人で,頭上に包みをのせているのは侍女でしょう。頭上に薪をのせて売り歩いている女性もいます。かつては日本のどこでも、頭上に荷物を載せて運ぶことが普通に行われていたようです。

たいむタイムトラベル 博多左下
画面手前には,粗末な木の鞍をつけた馬が描かれています。これが運輸業者の馬借(ばしゃく)で、依頼に応じて荷物や商品を指定地まで運んでいました。馬借の登場で陸上輸送が発達し、商品がより大量に円滑に流通するようになります。宅配の出現で、アマゾンや楽天が成長するのと同じです。また馬借は、トラックやタクシー運転手と同じで、ネットワークを持ち情報伝達の役割ももっていました。そのために、土一揆などの広がりなどにも大きな影響を与えたとされます。

その向こうには、杖をついた2人づれの琵琶法師や猿曳ひき(猿回し)もいます。
芸能集団も孤立した存在でなくネットワークを持ち、活動していました。そして、それぞれの守護神をもち信仰団体としての側面を持っていました。
猿曳の芸を見物している人垣の背後には、守護の率いる武士集団が近づいてきます。それを町の有力者が迎えています。ここで注意しておきたいのは、中世の都市が支配者である武士集団の支配下に置かれていたのではないことです。都市は、自治権をもって独自に運営されていました。武士居館が都市の中にあることはありません。これが近世の城下町とは異なるところです。近世の城下町は、商人や有力寺院などを強制的に移住させて出来上がった人為的な空間であることを押さえておきます。
 町屋の壁のところに小さな屋根の小屋があって、乞食の親子と覆面をした「癩者(らいじゃ=ハンセン病患者)が物乞いをしています。
一遍上人絵伝の中にも、彼らは何度も登場してきます。中世の都市や寺社の門前には,けがれた存在として差別された人々も生活していたことを押さえておきます。

たいむタイムトラベル 博多 守護 陶器屋

木戸からの道の真ん中を、赤と青の長い袖の中国服を着た明の商人たちが歩いてきます。
律令体制が解体していく平安末期になると、古代からの官衛センターの鴻臚館(こうろかん)は機能しなくなります。それに代わって始まるのが、中国商人による私貿易です。そのために中国商人たちが、博多に住みつくようになります。彼らは「博多綱首」と呼ばれ、寺社や貴族などと結びつきながら、船主や船長として日中間を盛んに往来し、東アジア海域の貿易活動の主役になります。
 こうして博多は「博多綱首」と呼ばれる人達を中心に多くの中国人が定住するようになります。史料に出てくる「博多津唐房」の「房」は「坊」で、町の区画を表す言葉です。明代末期の伝承では「大唐街」と呼ばれるチャイナタウンが形成されていたとも記されます。そうすると、日本で最初のチャイナタウンができたのは博多と云うことになります。
「博多浜」の東部では、宋人が建てた「博多百堂(仏堂)」の跡地に、12世紀末に栄西によってわが国最初の禅宗寺院聖福寺が建立されます、また、1242年には博多綱首謝国明(しゃこくめい)によって聖一国師(しょういちこくし)を迎えて承天寺が創建されました。いずれも博多居住の中国人の直接・間接の援助によって建てられたもので、チャイナ・タウンの中核として、かれらの活動のより所となります。こうして、中国商人の保護を受けながら初期の禅宗寺院は博多に根付いていきます。

 町屋の裏は生活空間でした。

たいむタイムトラベル 博多右下
井戸や菜園があり,女性が洗濯や立ち話を,子どもは桶で水運びをしています。牛車には酒の瓶がのせられています。牛車の横の建物は土蔵です。また,乞食小屋の後ろで,子どもが独楽を回して遊んでいます。
ここで登場する人達の、衣類や髪形を見ておきましょう。

たいむタイムトラベル 博多 古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた
烏帽子を被る人と露頭の人 後は小屋掛けするハンセン病患者
中世中頃までは,男は烏帽子をかぶっていたのですが,この頃になると,なにも被らない露頭の人々も増えてきます。ただし,髷(まげ)はまだ登場しません。髷は近世のもので、この時代には見当たりません。
 中世の働く女性はも,褶(しびら)と呼ばれる布を腰に巻いていました。
*
褶(しびら)

それがこの頃から前垂れ(エプロン)に変わり始めまます。この時期は,衣類や頭髪スタイルは古代と近世の二つの時代のものが混じり合う過渡期だったようです。奈良時代や鎌倉時代と比べると、次のような事が云えます
①着物の柄があざやかになったこと
②下駄をはく人が増えていること
③古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた。
④これが月代(つきやき)につながっていくこと
 
港と沖に浮かぶ船を見ておきましょう。

たいむタイムトラベル 博多右上の港
博多
港の船(港湾施設はなく、着岸はできない)
右端の大きな船を拡大して見てみます。

たいむタイムトラベル 博多 沖の船

A 一番大きな船が右側の明船(ジャンク船)
B その左隣の船が朝鮮の船
C その奥が日本の貿易船
D 四番目は軍船
港には着岸できないので、沖合に停泊して渡船で乗り降りしています。中世の港湾施設は質素なモノであったことは以前にお話ししました。大型船が着岸できるような岸壁はありません。
Aの明船に乗りこむために、禅宗の留学僧が小舟に乗っています。それを多くの人達が見送っています。この時期には禅宗僧侶が数多く中国に留学しています。彼らは禅宗を学ぶとともに、中国語を学び、商売のやり方まで学んで帰ります。そして、日明貿易が大きな富をもたらすことを支配者たちに教えます。武士集団の多くが禅宗に帰依していくのは、信仰心だけでなく、富をもたらす交易に参画したいという経済的な背景もあったようです。それは、イエズス会修道士に布教の自由を認める代わりに、交易権を得ようとした大名達と同じです。
Bの船の小舟から下船した人達の服装は、朝鮮スタイルです。朝鮮半島とも活発な交易活動が行われていたことは以前にお話ししました。

当時の博多が国際都市であったことを、もう一度押さえておきます。
史料からも16世紀の博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えて、日本の女を妻にしている者がいたことが分かります。そして倭人も貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたのです。そして彼らの中には軍事集団として、沿岸周辺を襲う倭寇にも姿を変えました。この港に描かれている軍事集団は、そのような性格をもっていたと考えられます。
 博多を舞台に国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶たちです。
例えば禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)がいます。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
 そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景があったからできたことです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。このように博多は、東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
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  老松堂日本行録 【ろうしょうどうにほんこうろく】を読む
 
1 日本行禄
         
江戸時代の朝鮮通信使のことはよく知られるようになりましたが、それに先立つ室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。そして、その団長が詳しい記録を残しています。宋希璟(老松堂はその号)の紀行詩文集「老松堂日本行録」です。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。見ていくことにします
当時の日朝関係と使節団団長の宋希璟を調べておきましょう
1419年(応永二十六)、朝鮮は倭寇の根拠地をたたく目的で対馬を攻撃します(応永の外寇)。

1応永(おうえい)の外寇img_0-9

朝鮮水軍の対馬攻撃は室町幕府に強烈な衝撃を与えたようです。
倭寇鎮圧は理解できるがどうしてこの時期なのか。
朝鮮側の真の目的は何か、何を意図しているのか。
さらに「朝鮮が攻めてくる」
「対馬が取られた」
「九州で合戦が始まった」
「婦女子が拉致された」
などの謀略まがいの怪情報、不安、不信や恐怖をあおる悪質なデマ、中傷が京都の町に渦巻きます。足利幕府は朝鮮の真意を探らせるため、大蔵経を求めるという口実で使節団を派遣し、内実を探らせます。これに対して李朝は、宋希璟を日本回礼使として日本使節団の帰国に同行させます。その時の見聞を団長の宋希璟が記録したものです。
1
世宗
漢陽(ソウル)を出発する際に、世宗から
「他国へいくに、詩は以って作らざるべからず」
と教えられ、
「出城の日より復命の時に至るまで、浅酬を揆らず、凡そ耳目に接するものあらば、皆記してこれを詩とすると云うのみ耳」
という覚悟で記録したのが、この「老松堂日本行録」です。行程は次の通りで9ヵ月余りの日本出張です。
1月15日 ソウル出発
3月 4日   博多着
4月21日 京都に到着
6月16日 将軍足利義持に謁見
6月27日   京都出発
10月25日 ソウル帰着
それでは「瀬戸内海」に絞って見ていきましょう。
 3月4日、博多に入った一行は大歓迎を受けています。宋希璟は、正式使節団の団長として身分を示す玉の飾りと冠をつけて、法螺貝を吹く螺匠4名をはじめ供の者を率いてパレードを行っています。日本側の警備兵が左右を守り、しずしずと進む行列は、当時の博多の人々にとっては大変めずらしいもので、老若男女から僧尼にいたるまで、路をうずめてこれを見たと記します。現在のエンターテイメント的イヴェントの側面があります
 江戸時代の朝鮮通信使の先駆けにもなるようです。後の通信使がそうであったように、僧を中心に多くの文人と交わり詩文を交わしています。とくに対外貿易や外交に携わっていた宗金や陳外郎の息子である平方吉久とは、頻繁に会い、情報を交換したようです。
 当時の博多は国際都市で、中国・朝鮮をはじめ異国人が数多く住んでいたようです。百年ほど後の記録には、次のように記されます。
博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えている、日本の女を妻にしている者もいる
異国人が渡来し、倭人とともに貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたことがうかがえます。
国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶です
以前に禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)の活動ぶりを紹介しました。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
 そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。
彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。
 こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景にあるのではないかと研究者は考えているようです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。
ここでは博多が当時の東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
 宋希璟が博多に滞在したのは20日あまりです。京都に使者が上り、将軍義持から折り返し上京の許しが出るのを待っていたのです。博多ー京都の往復が早船で20日ということになります。3月24日に、志賀島から出発しています。
  瀬戸内海で一番怖れていたのは?
 船は、赤間関を経て春の瀬戸内海に入っていきます。京都に到着したのが4月21日ですから、1ヶ月近い瀬戸内海の船旅の始まりです。穏やかな瀬戸内海は、時として悪天候や強風も襲いかかってきます。しかし、宋希璟が一番怖れているのは海賊だったようです。将軍・義持は、多くの護送船をおくって使節団一行の警護を固めていますが、不安でならなかったようです。
 赤間関を発するとすぐに海賊の偵察船らしい小船がやってきます。源平の合戦で有名な壇ノ浦に停泊しますが、夜中に怪しい声がして眠れません。朝になって、その正体をしるとただの雉(きじ)の声です。知らない海ををゆく者の気持ちは、不安でいっぱいです。
 室積を過ぎて、遠くに村の火をみたときも
「海辺にすむ人たちは皆海賊である。だから村の火をみても心は安らかではない」
と書いていま。                        
 当時の「海賊」たちは、足利幕府のゆるやかな支配の網のなかで活動していますから外国使節団を襲うほどの「無法者」ではなかったと私は考えていました。
 しかし、これ以前の1395年の回礼使は、安芸国高崎(広島県竹原市)あたりで海賊に襲われ、携えてきた贈り物や食糧、衣服にいたるまで一切を奪われたと云います。護衛の船がついていても、当時の航海技術では風向き次第で船団がばらばらになり、孤立することもあったようです。警護の隙があれば、襲いかかってくる海賊達はいたようです。
そんな時に、危険水域近くで、一艘の小船が矢のように近づいてきます。一行は鼓をうち、旗をふり角笛をふき、鐸をならして精一杯応戦します。甲をかぶり、弓を手にして船上に立ちます。海賊の船にも、人が麻のように立ち並んだと記します。この時は幸い亮況と宗金の船2艘が、すぐに駆けつけて事なきをえたようです。
 その後は、大きな騒動もなく尾道、日比、牛窓、室津をすぎ、各地の寺を訪れながら、4月16日兵庫港(神戸)に入ります。博多を出たのが3月14日でしたから、ここまでが約1ヶ月です。春が深まっていきます。
   京都の室町幕府の外交・交易担当者は?
 4月21日、京都に入った宋希璟は、魏通事天の家に宿泊します。
魏通事天は、実に数奇な運命をたどった人でした。
彼は、1350年頃(元末)の生まれの中国人ですが、子どもの頃、倭冦によって日本に連れさられてきたようです。しかし、なにかの事情で朝鮮にわたり高麗末の大貴族李子安の奴となります。李子安は、中国にも聞こえた優れた文人で、『陶隠集』という文集があるようです。この人に仕えて才能を見込まれたのでしょう。回礼使に従って日本にむかいます。そこで、たまたま中国からの使節に見出され、中国人であることが分かると、中国に連れて帰られます。時代は、すでに明となっていましたが洪武帝に謁見し、帝の命令によって再び日本に送還されて、室町幕府の通事として活躍することとなります。
 時の将軍義満は、永楽帝に親書をおくり、対明貿易の道をひらくことに大いに心をくだいた人でしたから、魏天は働き場所を得て、水を得た魚のように大活躍します。日本人の妻をめとり、娘をふたりまでもうけます。時は移り、この当時は対明政策に消極的な義持の天下となっていました。彼にとっては困難な外交交渉が続いたに違いありません。魏天もすでに70歳をすぎていました。
 彼は、宋希瑳の一行が宿舎の冬至寺についたと知ると酒を持って迎えに来て自宅に招待します。魏天は若いころ身につけた朝鮮の言葉をわすれず、宋希璟と旧い友達のようこに自由に話し、昔を懐かしがったそうです。
その日、もう一人やってきたのが陳外郎です。
彼は博多商人の平方古久の父です。彼の父陳延祐は帰化中国人でした。元朝が滅びた時、礼部員外郎であった延祐は、日本に亡命し博多に住んだようです。延祐は、多才な人で特に薬学にくわしかったので、足科義満に再三上洛をもとめられますが、応じることはなかったようです。
 しかし延祐の子宗希が、父に代わって上洛し、父の中国での官職名「外郎」を名乗り、医学・薬学の専門家として、室町幕府に重く持ち抱えられました。陳外郎は、さらに遣明使に同行して、中国の薬学を学び、秘薬霊宝丹を持ち帰ったとされます。その後の外郎家は代々医を業とし、さまざまの薬を生み出し。毎年1月7日、12月27日には将軍に謁し、薬を献上することが慣わしとなっていました。
   宋希璟の訪れたころの初代外郎は、すでに五十をすぎていたかもしれませんが、魏天とともに、中国通として、足利幕府の外交の上でも大きな役割を果たしていました。外郎が父延祐の医業を、平方吉久が祖父の博多商人としての貿易業を受け継ぎ、京・博多という当時の政治・ 経済の中心にあって、父子連携して、日本の外交を担っていたことが分かります。    
 このように、博多や京都の室町幕府周辺には中国や朝鮮のことを深く知る帰化人やハーフがいて、重用されていたことが分かります。そして、彼らが朝鮮からの国王使節団に接近して関係を持とうとしていたこともうかがえます。
 さて京都での外交交渉については省略して、返りの瀬戸内海航路に目をやります。
 6月27日深夜、宋希璟の一行は、将軍義持の書簡を持って淀川を下ります。瀬戸内海をゆっくりと、むかって船をすすめますが
7月8日、尾道まで進んで「風に阻まれ、賊に阻まれて」、
7月22日まで停滞です。この間、尾道の天寧寺の住職と役僧・梵道と親しく交わります。この時、希環がは次のような詩の序文を二人に送っています。意訳するとだいたい次の通りです。
  大抵の僧侶には2つの問題がある、
ひとつは行いを偽って人を惑わすことであり、もう一つはその言葉を偽って自らを利することである。このことは中華世界にも見られる。しかしたとえ中華世界ではなく、外国であっても、その言動に誤りがなく道に近ければ、ともに語り合うに足りる。日本の仏教は町でも村でも信奉されており、あちこちに寺があり僧侶の数が一般人の倍もいる。いま旅の途上で語り合うと、その優しい言葉は実に行き届いている。言葉は違うけれども、その理は私だちと共通する。まして朝鮮と日本は、古くから隣り付きあいをしてきた。今、朝鮮国王の命を受けて、平和と友好の旅をして、二師と会うと。、旧知の友と会うようだ。いま、ともに寺を訪れ、また船上に会って、行き来をして美しい松や竹、海や山を目にし、香をたいで茶をいれて、詩を交わし。秋を楽しんでいる。とても楽しい。
 一方に、海賊あり、嵐がありますが長閑な交流の風景です。異国人であり、儒者でもある宋希璟が、懐の深い、広い視野をもって禅僧たちと交わっているのがわかります。
 瀬戸内航行のハイライトとなるのは、翌日の蒲刈での体験です。
同行した博多商人の宋金から次のように教えられます。
蒲刈島を境に海賊の縄張りは東西に分かれる。そこで、あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはない。蒲刈のあたりが瀬戸内の東西を分かつ関所だ
 あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはないというのです。この金は、一種の通行料であり、警護料なのでしょう。そこで、宋金のはからいで銭7貫文(7000枚・現在の相場で約60万円)を払い、一人の海賊が乗りこんできます。その賊は「私がいるから安心しなさい」といって海賊の家に向かいます。そして交渉が成立すると、しばらくして海賊たちが小舟に乗ってやってきて、宋希璟の船が見たいというのです。
 その時の海賊のリーダーを次のように記します
魁首の一僧は甚だ奇異で、起居言変りて吾人と異なるなし
つまり僧侶の姿をして、朝鮮語を流暢に操ることができ、宋希璟も彼と「欣然として酬答」したというのです。そして「家に来て一緒に茶を飲もう」と誘います。普段は海賊に対する警戒心の強い宋希璟が、これに応じようとして、周囲に制止されるほど、僧(首領)の振る舞いが洗練されていたようです。それほど朝鮮の文化・教養を身につけていたのです。
海賊の魁首は、その素養をどこで身につけたのでしょうか?
 瀬戸内海の海上勢力と朝鮮半島との密接な交流があったことがうかがえます。当時、蒲刈の領主は多賀谷氏です。多賀谷氏は守護大名・大内氏に属していて、蒲刈船も大内氏の物資を積載して運行してたことが『兵庫北関入船納帳』から分かります。大内氏は赤間関などを拠点に朝鮮貿易も行っていて、海賊衆である多賀谷氏や蒲刈の「海賊」たちも朝鮮貿易に関わっていたと考えられます。その中で朝鮮語や挑戦的な文化素養を身につけたのではないでしょうか。
 どちらにしても、当時の海賊(海の民)のもうひとつの顔が見えてきます。彼らは海の武士で有り貿易業者であり、「海の関所」の管理人であったようです。
 彼らには国境に囲まれた陸の国家とは別に、玄界灘や東シナ海によって結ばれた海の世界があったことがうかがえます。「倭寇」と呼ばれる人々には、陸に住む人々とは違った掟とネットワークがあったと研究者は考えているようです。
 彼らは、多国籍集団で、日本語のみならず朝鮮語や中国語をあやつり、民族の梓を越えて行動していたのでしょう。その本拠となっだのが、済州島であり対馬であり、北九州であり瀬戸内海であったのでしょう。彼らにとって海に国境はなかったのです。そして、言葉や民族は関係ないのです。同じ船に乗って活動すれば「みな兄弟」だったのかもしれません。宋希璟は、まさにそんな倭冦の縄張りを旅していたのです。
 宋希璟がさらに船を進めると、赤間関で三甫羅(サブロウ)という日本名をもった朝鮮人に出会います。当時の瀬戸内には朝鮮語を解する日本人や、日本の名前をもう朝鮮人が、ごく普通に暮らしていたようです。
 讃岐の舟が塩や米・赤米・薪を積んで兵庫湊や神崎・堺を往復していた時代、そして、西大寺律宗や日蓮宗・弁円の臨済宗僧侶の弁円が聖一派などが瀬戸内海に交易ネットワークを形成し、拠点港に寺院を建立していた瀬戸内海世界の背後には、こんな国際的な環境があったようです。
参考文献  樋口淳 老松堂の見た日本 
          

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