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宝憧寺の伽藍は、近世に池となってその底に埋もれていきました。しかし、冬には水が抜かれて池干しされると、いろいろなものが採集されているようです。瓦破片以外に、池から出てきたものを今回は見ていくことにします。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘

まずは、銅製水煙片です。
水煙は五重塔の尖端に付けられた相輪の一部分で火焔状をした装飾です。1977年に塔心礎より約30m東から出てきているようです。
宝憧寺 水煙破片

 心礎に加えて水煙の一部が出てきたことで、ここに塔が建つていたことを補強するものになります。


梵鐘鋳型と同撞座の鋳型も出てきています
 1976年に宝憧寺池の東側にある堤防の内側から発見されました。梵鐘の鋳型片など40数点の破片で、それを復原すると梵鐘の鋳型であることが分かりました。鐘の内径は約53㎝で、この鋳型で鋳た梵鐘の外径は約50㎝余りだったと推定されます。鋳型があるということは、出来上がった鐘が運ばれてきたのではなく、鋳物師が現地になってきて宝憧寺の近くで、梵鐘を造ったということなのでしょうか。
 鐘の鋳型と同時に撞座の鋳型も見つかっています。撞座は八葉複弁蓮華文で、直径9㎝で弁間に間弁がなく、雄蕊帯には莉が略されているようです。研究者によると「十五世紀前半のもの」されています。古代寺院のものではありませんが、15世紀前半まで宝幢寺が活動を行っていたことが分かります。また、讃岐の鋳物師が造った可能性も指摘されています。

 十一面観音木像    今は国分寺町の鷲峰寺に
 金倉寺にある記録「当寺末寺之事」の項目の中に宝撞寺のことを次のように記されています。
 一、此寺は清和天皇貞観年中(859)智証大師開基にて 自作の聖観音を以て安置の精舎也。即大師開基十七檀輪中の其一にて堂塔僧院数多こ校あり候所、永正、天文の争乱に伽藍残らず破壊仕り、其寺跡用水池と相成宝瞳寺池と云う。今池中大塔の礎一つ相二戮古瓦等多御座候バ  

ー、十一面観音木像 右は宝鐘寺池中より掘出し候て、郡家村社内に相納これあり候所、其後御城下 西新通町秋田屋三右衛門彩光を加えヘ 鵜足郡川原村神宮寺へ移し、これを安置す。
前半部については、前回にも紹介しましたの省略します。後半部のみ意訳すると
十一面観音木像は、宝鐘寺の池の中より掘出し、郡家村社内に保管していた。その後、丸亀城下 西新通町秋田屋三右衛門が彩光を加えヘ、鵜足郡川原村神宮寺へ移し、安置した。

ここからは、江戸時代に土手の土中から観音さまが現れたことが記されています。丸亀城下の職人が採色し、丸亀市飯山町坂本の旧川原村の神宮寺へ安置したとあります。しかし、現在はここにはありません。
神宮寺は明治の神仏分離で廃寺となり、本寺である国分寺町の鷲峰寺に移されました。
鷲峰寺 じゅうぶじ 高松市国分寺町 – 静地巡礼
鷲峰寺
 
鷲峰寺は鎌倉時代に、西大寺流律宗の拠点して再興されたお寺のようです。鎌倉時代作とされる四天王像が収蔵庫にいらっしゃいます。興福寺北円堂に安置されている四天王像をモデルにして作られているとされ、像の大きさは1mくらいであまり大きいものではありません。少し穏やかめの四天王という印象です。四天王像とともに安置されているのが十一面観音像です。これが宝憧寺から掘り出された「泥吹観音」のようです。
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  収蔵庫の扉口から拝ませていただくと、左胸前に水瓶を持つ立像姿です。室町時代中期か後期の作とされる等身大の美しい観音さまです。信者の方は「ごみ吹観音」「泥吹観音」と親しみを込めて呼んでいるそうです。それは、池中から掘り出され神宮寺に安置されたときからのニックネームだったようです。

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 なぜ土の中に埋められていたのでしょうか。
滋賀県の渡岸寺の国宝十一面観音も、織田・浅井の兵火の際、信者が地中に埋めて難を逃れたと伝えられます。戦乱の中で仏様をお守りする一つの方法が土中に埋めるという方法だったのかもしれません。
 阿波の三好氏か土佐の長宗我部の侵攻の際に、一時的に埋められたのでしょう。しかし、お寺は廃寺となり、観音さまはそのまま土中に放置されたのが、江戸時代になって掘り出されてということなのでしょうか。この観音さまが室町時代の作ととするなら、それまでは宝幢寺は存続していたことになります。
  薬師如来像
 宝憧寺池築造の時に出土したようで、現在は重元の照光寺に安置されているようです。高さ50㎝の木像の薬師如来で、その後に補修され今では、金箔の美しい像となっていると云います。薬師さまと一緒に現れた子持薬帥の石仏と手洗鉢も昭光寺にあるようです。

  石造観音像と石仏
 明治40年ころに宝憧寺池の北堤にある水門の東方約70mの池中から出てきたと伝えられています。長福寺(現在廃寺)へ安置されたようです。掘り出した石像は、二体の観音座像で、いずれも高さ38㎝です。同時に掘り出した光背のある石仏は、重元にあ墓地の六地蔵の傍らに安置されているようです。

宝幢寺池周辺から出てきた仏達や遺物を見ると、戦国時代に至るまで宝幢寺が宗教活動を行っていたことが分かります。
戦乱で荒廃した宝憧寺が復興されることはありませんでした。そして、江戸時代になり土器川の氾濫原の新田開発が進むにつれて、水不足が深刻化し用水確保が急務となります。そして、荒廃したまま放置されていた寺域がため池化されることになったようです。
  
 神野神社前から真っ直ぐに伸びる参道を東に行くと皇子宮に至ります。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑

ここには「小笠原家顕彰碑」(1968年建立)が建っています。江戸時代に宝憧寺池を築いた時、そこにあった皇子宮をこの地に移すため、土地と移築費および維持費として八反余の田を寄進した小笠原家に感謝の意を表したものです。見てみましょう。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑2
       小笠原家顕彰碑
 小笠原家は、元備前小串乙岡山巾南辺での城主であったが、応永年中(1394)当郡家郷三千石を領し名主として領家に住し、爾来地方文化政治経済の開発に貢献した。殊に宝憧寺廃寺跡に溜池を築造するに当り、宝瞳寺鎮守神皇子神社も亦池中に埋没するにつき、寛文十二年(1672)小笠原与右衛門景吉自費で八代荒神の側に新に社地を卜し、移築費と維持費として下記の土地を永代寄進されたが、大東亜戦争後の農地解放によりすべて解放された。
 惟うに斯くの如く小笠原家の恩恵は永く当代に及び稗益する所実に大である。依って郷土の人々挙って往事の遺徳を追慕し、共に相謀りて碑を建て 茲にその功績を顕彰する。
  昭和四十三年四月 (世話人、建設者略)
 小笠原家は、戦国末期の仙石秀久のころは在野にあったようです。松平初代頼重の時代には、召されて郷侍となり十石を支給されます。その後、周辺荒地の開墾などの功により加増され26石となります。その後、高松領、丸亀領、金刀比羅社領地の境改めの役を申し付けられたり、那珂郡の大政所(大庄屋)を勤めるなど、江戸時代は郡家の名家だったようです。
 明治維新には郡家小里正であったため、明治4年9月の旧藩知事松平頼聡の在国嘆願のため東讃より起こった騒動で家を焼かれます。さらに2年後には三豊郡から起こった血税一揆によって、新築したばかりの家をまた焼かれてしまいます。維新後の目まぐるしく変わる世の中にあって、小笠原家は戸長として村のため力を尽くしたようです。戦後になって顕彰碑が建てられています。

 ここからは、今の皇子神社は宝幢寺池の敷地内にあったのが、池の建設に伴い現在地に移動してきたことが分かります。宝憧寺池建設の中心的な役割を担ったのも小田原家であったようです。

以上をまとめたおくと
①宝幢寺池周辺からは、旧宝幢寺の仏像や遺物が数多く出ていている。
②青銅製の水煙破片は、塔の相輪の一部と考えられ五重塔があったことを補強する
③鐘鋳型は14世紀前後のものであり、宝憧寺の鐘が周辺で作られたことをうかがわせる。
④現在、鷲峰寺に安置される室町時代の十一面観音は宝憧寺にあったもので、この時期の宗教的活動を証明ずける
⑤神野神社の御旅所である皇子神社は、宝憧寺池築造の際に現在地に移転してきたものである。
⑥宝幢寺池築造には、後に大庄屋を勤める小笠原氏の関与がうかがえる

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
丸亀市史
直井武久 丸亀の歴史散歩 1982年