瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:室津

 瀬戸の港 室津
    室津は古代以来の重要な停泊地でした。
1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。
 室津には、多くの船頭がいたことが史料から分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。当時の瀬戸内海には、港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことを以前にお話ししましたが、室津も塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったようです。 そして、室津は多くの遊女達がいることで有名だったようです。法然上人絵伝の室津での出来事は、遊女が主役です。その段を見ておきます。

室津の浜
室津の浜辺と社(法然上人絵伝34巻第5段)

室津の最初に描かれるシーンです。浜に丘に松林、その中に赤い鳥居と小さな祠が見えます。中世の地方の神社とは、拝殿もなく本殿もこの程度の小さなものだったようです。今の神社を思う浮かべると、いろいろなものが見えなくなります。
室津の浜と社(拡大)
神社と浜部分の拡大

 神社の下が浜辺のようですが、そこには何艘もの船が舫われています。ここも砂浜で、港湾施設はないようです。
 浜辺の苫屋から女房が手をかざして、沖合を眺めています。
「見慣れない船が入ってきたよ、だれが乗っているのかね」。
見慣れない輸送船や客船が入ってくると真っ先に動き出す船がありました。それが遊女船です。

第5段    室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。
室津
       室津(法然上人絵伝34巻第5段)
室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。これが遊女が船なり。遊女申しさく「上人の御船の由承りて推参し侍るなり。世を渡る道区々(まちまち)なり。如何なる罪ありてか、斯かる身となり侍らむ。この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と申しければ、上人哀れみての給はく、「実にも左様にて世を渡り給ふらん罪障(ざいしょく)真に軽からざれば、酬報又計り難し。若し斯からずして、世を渡り給はぬべき計り事あらば、速やかにその業を捨て給ふべし。若し余の計り事もなく、又、身命を顧みざる程の道心未だ起こり給はずば、唯、その儘にて、専ら念仏すべし。弥陀如来は、左様なる罪人の為にこそ、弘誓をも立て給へる事にて侍れ。唯、深く本願を馬みて、敢へて卑する事なかれ。本願を馬みて念仏せば、往生疑ひあるまじき」由、懇ろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙を流しけり。
後に上人の宣ひけるは、「この遊女、信心堅同なり。定めて往生を遂ぐべし」と。帰洛の時、こゝにて尋ね給ひければ、「上人の御教訓を承りて後は、この辺り近き山里に住みて、 一途に念仏し侍りしが、幾程なくて臨終正念にして往生を遂げ侍りき」と人申しければ、「為つらん /」とぞ仰せられける。
意訳変換しておくと
室の泊(室津)に船が着こうとすると、小舟が一艘近づいてきた。これは遊女の船だった。遊女は次のように云った。「上人の御船と知って、やって来ました。世を渡る道はさまざまですが、どんな罪からか遊女に身を落としてしまいました。この罪業重い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
上人は哀れみながら「まったくそのような身で渡世するのはm罪障軽しとは云えず、その酬報は測りがたい。できるなら速やかに他職へ転職し、今の職業を捨てることだ。もし、それが出来きず、転職に至る決心がつかないのであれば、その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ、誓願も立ててくださる。ただただ、深く本願を顧みて、卑しむことのないように。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」ち、懇ろに教へた。遊女は、随喜の涙を流した。
後に上人がおっしゃるには、「この遊女は、信心堅くきっと往生を遂げるであろう」と。
流刑を許されて讃岐からの帰路に、再び室津に立ち寄った際に、この遊女のことを尋ねると、「上人の御教訓を承りて後は、この辺りの山里に住みて、一途に念仏し臨終正念にして往生を遂げた」と聞いた。「そうであろう」とぞ仰せられける。
室津の遊女
        室津(法然上人絵伝34巻第5段)

この場面は、遊女が法然に往生への道を尋ねに小舟でこぎ寄せたシーンと説明されます。

⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取り? 船の前では船乗りや従者達が近づいてくる遊女船を興味深そうに眺めています。
この場面を、私は出港していく船に追いすがって、遊女が小舟で追いかけてきたものと早合点していました。なんらかの事情で法然の話を聞けなかった遊女が、救いの道を求めて、去っていく法然の船に振りすがるというシーンと思っていたのです。しかし、入港シーンだと記します。すると疑問が湧いてきます。わざわざ小舟で、こぎ寄せる必要があるのか?
 兵庫浦のシーンでは、法話の場に遊女の姿も見えていました。室津でも法話は行われたはずです。小舟でこぎ寄せる「必然性」がないように思えます。しかも海上の船の上ですので、大声で話さなければなりません。「往生の道」を問い、それに応えるのは、あまり相応しくないように思えます。
法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
室津船上の法然(一番左 弟子たちには困惑の表情も・・) 
そんな疑問に答えてくれたのが、風流踊りの「綾子踊り」の「塩飽船」の次の歌詞です。
①しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ  津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
②さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ  津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
③多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

ここには瀬戸の港で繰り広げられていた、入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われているというのです。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりが「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。

室津の遊女拡大
      室津の遊女船(法然上人絵伝34巻第5段)
  当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このように入港してくる船を、遊女船が出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。

ここで兵庫湊(神戸)の場面に現れた遊女達の場面をもう一度見ておきましょう。

兵庫湊2
      兵庫湊の遊女船(法然上人絵伝34巻第3段)

左手の艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、若い二人の女が飛び移りました。傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、小堤を叩きながら「たまさか」の歌を歌いかけています。「 綾子踊り」の「たまさか(邂逅)」の歌詞を見ていくことにします。
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露 ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番を「解釈」しておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でした。私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っているようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。
兵庫湊の遊女
兵庫湊の遊女船(拡大図)
「たまさかに」は、港や入江の馴染みの遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面を謡った風流歌だと研究者は考えています。

なじみの男に、再会したときに真っ先に話しかけたことばが「たまさかに」なのです。そういう意味では、恋人や遊女達の常套句表現だったようです。こんな風にも使われています。

○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば  わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)

この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、その内容は「たまさか(久々ぶり)にやって来た愛人と、若宮に籠もって・・・」となり、ポルノチックなことが、さらりと謡われています。研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評します。当時の「たまさかに」という言葉は、女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
こういうやりとりが入港してきた船の男達と交わされていたのです。その後に、遊女達は旅籠へと導いていくのです。
      
ここで押さえておきたいのは、次の通りです。
①遊女船が入港する船を迎えに出向くという作法は、どこの湊でも行われていたこと。
②その際に、遊女は3人1組で行動していたこと
③出迎えに行った遊女は、相手の船に乗り移って、「塩飽船」などの風流歌をやりとりし、遊郭に誘ったこと。
④そのシーンが法然上人絵伝にも登場すること

遊女達を代弁すると、決して、船の上から大きな声でやりとりをするという下品なまねを彼女らはしません。相手の船に移ってから、歌を互いに謡い合い、小堤をたたい優雅に誘うのです。
 以上から、船上から遊女に往生の道を説いたという話には、私は疑問を持ちます。事情をしらない後世の創作エピソードのようにも思えます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

     綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

1550(天文19)年9月、一人の禅僧が和泉国堺の港を船で、瀬戸内海を西に向かいました。禅僧の名は守龍(しゅりゅう)。京都東福寺の僧です。守龍の旅の記録(『梅一林守龍周防下向日記』)を、手がかりにして、当時の瀬戸内海の港や海賊たちを見ていくことにします。  テキストは「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」です。
守龍の人物像についてはよく分からないようです。
ただ、1527(大永7)年の年末、1529(享禄2)年の立冬、翌30年の夏に、東福寺に参禅して修行したことが記録から確認できます。1550年の堺港からの出港も、寺領の年貢収取について、周防国に行って大内氏をはじめとする周防国の有力者と交渉するためだったようです。得地保は東福寺領の有力荘園で、その年貢収入は東福寺にとって欠かせないものでした。しかし、戦国時代になると以前にも増して、年貢収取が困難になっていたのでしょう。

守龍は1550年9月2日に京都を発ち、14日に堺津から出船しています。
乗船したのは、塩飽・源三の二端帆の船です。当時は舟の大きさは排水量や総重量でなく帆の大きさで表現したようです。そこに3百余人の乗客が乗り込み、「船中は寸土なき」状態であったと記されています。常客を満載した状態での航海です。

讃岐国絵図 正保国絵図.2jpg

塩飽本島 上が南

船頭である塩飽の源三について見ておきましょう。
 この船の船籍地である塩飽(丸亀市本島)は、備讃諸島海域の重要な港であり、同時に水運の基地でした。1445(文安2)年に兵庫北関に入関した上り船の記録である「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積み込んだ塩飽船が37回に入関していることが記録されています。これは宇多津に続いて、讃岐の湊では2番目に多い数です。ここからは塩飽を船籍地とする船が、備讃諸島から畿内方面に向けて活発な海上輸送活動を行っていたことが分かります。

兵庫北関1
 塩飽の水運力は、のちに豊臣秀吉・徳川家康らの目を付けられ、御用船方に指名され統一権力の成立にも貢献するようになります。それは、この時代からの活動実績があったことが背景にあるようです。後に、江戸幕府の保護を受けた塩飽の船方衆は、出羽・酒田地方の幕領の年貢米の海上輸送に携わり莫大な富をこの島にもたらします。その塩飽の船方衆の先祖の姿が、船頭の源三なのかもしれません。

DSC03651
兵庫沖をいく廻船 一遍上人図

 塩飽船は、瀬戸内の塩や米のような物資輸送に従事したことで知られています。
しかし、ここでの源三は、旅客を運ぶ人船=「客船」の船頭です。彼の船は、三百人を載せることができる二端帆の船でした。当時は、筵をつなぎ合わせた帆が一般的でした。幅三尺(約90㎝)、長さ六尺ほどの筵を何枚かつないで、それを一端(反)と呼びます。二端帆の船とは、幅10mほどの筵帆を備えていた船ということになります。『図説和船史話』には、九端帆が百石積、十三端帆が二百石積とあるので、源三船は百~二百石積の船だったことになります。

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇 : In the pontoon bridge
     中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。
(石井謙治「図説和船史話」)


 室町から戦国にかけての時期は、日本の造船史上の大きな画期で、遣明船などには千石石積前後の船も登場します。それらと比べると、源三船は従来型の中規模船ということになるようです。乗組員が何人かなのは記されていません。
和船とは - コトバンク
         遣明船 当時の最大客船

 堺津を出港した守龍の船に、話を戻しましょう。
9月14日の辰の刻(午前八時)に堺を出港した船は、順風を得て酉の刻(午後六時)には兵庫津に着きます。翌日には「迫坂浦」に舟はたどり着きます。「迫坂浦」には、守龍は「シャクシ」と読み仮名をつけているので現在の赤穂市坂越のことのようです。ここで風雨が激しくなって、天候の回復を待つために三日間逗留しています。18日に「迫坂」を発って、その日は牛窓に停泊です。ここまでは順調な船旅でした。

瀬戸の港 坂越

ところが翌19日の午の刻(正午)、「備前比々島」の沖にさしかかったころに、海賊船が一艘接近してきます。
守龍は、その時も様子を次のように記します。
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
意訳変換しておくと
接近してきた賊船は、本船と「問答」をした。「問答」の内容は分かりません。おそらく通行料の金額についての交渉だろうと研究者は考えているようです。海賊が接近したときに、交渉することは船頭の重要な役目だったようです。この時には、交渉不成立で賊船は矢を放って攻撃してきました。これに対して鉄砲で応戦しています。賊船は多くの負傷者を出して撤退していきました。船は、そのまま航行を続けて申の刻(午後4時頃)に塩飽に入港します。塩飽は船頭源三の本拠港です。海賊との遭遇記事は短いものですが、ここからは瀬戸内の船旅や海賊についての重要な情報が得られるようです。

瀬戸の港 日比1
日比港 明治の国土地理院地図

まず守龍が「比々島」と表現している日比(岡山県王野市)の港です。
日比は、備前国児島の南端東寄りにある港で、半島状に突出してた先端部の小さな入江です。東北西の三方を山に囲まれ、南だけが備讃瀬戸に向かって開けています。人江の北半分が近世に塩田化され、それが現在では埋め立てられて住宅地や工場敷地となっています。本来は瓢箪型の入江であったことが地形図や絵図からうかがえます。人江の西側にはかつては遊郭もあったという古い町並みが残り、東側の丘陵上には中世城郭の跡も見られます。城主の名をとって四宮城と呼ばれるこの山城は、標高八五メートルの通称城山を本丸とし、南に向かって細長く遺構を残している。もちろん日比の港を選んで立地した城であるが、同時に城跡からは、直島諸島や備讃瀬戸を一望のもとにおさめることができる。日比の港の景観は、中世の港の姿をよく伝えています。
同じような地形的条件を持った港としては、室の五郎大夫の本拠室津、守龍や、がこのあと立ち寄ることになる備後国鞆(広島県福山市)などがあります。
瀬戸の港 室津

室津は、播磨国東部の、播磨灘に向かって突き出した小さな半島の一角に開けた港でです。三方を山に囲まれ、西側だけが海に向かって開かれています。この港について、『播磨国風上記』は、次のように記します。
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」

室というのは、穴ぐらのような部屋、あるいは山腹などを掘って作った岩屋などを指します。室津の港はまさに播磨灘に面したが穴ぐらのように小さな円弧状に湾入してできた港です。室津や日比のようなタイプの港は、他のどのタイプの港よりも波静かな海面を確保できます。周囲を山に囲まれているので、どの方向からの風も防ぐことができるし、狭い出口で外海と通じているだけなので、荒い波が港に入ってくることもありません。自然条件としては、最も優れた条件を持っています。
 室津や日比の港を見て不思議に思うのは、その規模の小ささです。
今の港を見慣れた目からすると、とても小さなスペースしか確保されていないように思えます。しかし、規模の小ささがポイントだった研究者は指摘します。小さい「室」であることと、小さな半島の先端に位置していることが重要な意味を持っているというのです。それは、すぐ港の外を通っている幹線航路へのアプローチの問題です。
中世の航海者たちは、風待ち、潮待ちのために日比や室津に入港しました。逆にいえば、風や潮の状況がよくなれば、すぐに港を出て幹線航路に乗ろうと待ち構えていたわけです。「月待てば潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」の歌がぴったりときます。奥深い入江からゆっくりと出てきて幹線航路に向かうのでは間に合いません。すばやく幹線航路に出て、待っていた潮や風に乗る必要があります。そのためには、少々手狭でも、あまり奥の深くない入江のほうが都合がよかったと研究者は考えているようです。半島の先端で、すぐ目の前に航路がある方が、潮を利用して沖に出やすいということになります。
 それを裏付ける例を探してみましょう。
牛窓や室津の近くには大規模で、ゆったりと停泊できそうな入江や湾が他にあります。例えば山陽道沿いの相生です。

相生湾と室津

ここには奥深い入江があり、東寺領でのちに南禅寺領になった矢野荘那波浦のあったところで、矢野荘の倉敷地(年貢の積出港)の役割を果たしていました。ところが瀬戸内海の幹線航路を行き来する船が立ち寄った形跡はありません。また、鞆の港の東隣は、現在は埋め立てられていますが、かつては広大な入江がありました。そこには草戸千軒などの港町がありましたが、やはり幹線航路を行き来する船舶が停泊することはなかったようです。
 ここからは中世の瀬戸内海では、奥深い湾や入江よりも小さい″室″が船頭たちの求める港の条件だったことがうかがえます。そしてそのような港には、日比のように、港を見下ろす近くの丘陵上に港に、出入りする船を監視するための山城が築かれていました。波静かな小さな入江とそれを見下ろす山城はセットになって、中世の港は構成されていたようです。

 海賊との遭遇場面に戻ります
日比の沖で塩飽の船頭守龍の舟に接近してきた海賊は、日比の四宮城の城主で、この海域の領主であった四宮氏だったと研究者は推測します。四宮氏は、戦国期には児島南部の小領主、海賊として活動し、その姿は軍記物語などに登場します。
たとえば『南海通記』には、1571(元亀二)年に日比の住人四宮隠岐守が讃岐の香西駿河守宗心を誘って児島西岸の本太城(倉敷市児島塩生)を攻めて敗れたことが記されています。この記事は、記事に混同があり、そのまま事実とうけとるわけにはいかないようですが、このころの四宮氏の姿を知る一つの手がかりにはなります。
 また、 1568年には、伊予国能島の村上武吉が家臣にあてた書状のなかに、「日比表」での軍事行動について指示しています。この年、四宮氏は海賊能島村上氏の拠点本太城を攻めて失敗し、逆に能島村上氏に逆襲を受けたようです。

守龍の船に接近してきた海賊について、もう一つ重要な点はその勢力範囲です。
海賊船が船頭たちの反撃で引き上げていった後に、守龍たちの船は塩飽に入港しています。ここで不思議に思えるのは、塩飽と日比は、それほど離れていないのです。
瀬戸の港 日比と塩飽

本島が瀬戸大橋のすぐ西側にあり、日比は直島の西側で、直線距離だと20㎞足らずです。塩飽と日比とは同じ備讃瀬戸エリアの「お隣さん」的な存在の思えます。その日比の海賊が塩飽の舟に手を出しているのです。私は村上水軍のように、塩飽衆が備讃瀬戸エリアの制海権を持ち、敵対勢力もなく安全に航行をできる環境を作っていたものと思い込んでいましたが、この史料を見る限りではそうではなかったようです。また、日比の海賊のナワバリ(支配エリア)も狭い範囲だったことがうかがえます。四宮氏と思える日比海賊は、限られた範囲の中で活動する小規模な海賊だったようです。
 以上を整理しておくと瀬戸内海には、村上氏のように広範囲で活動する有力海賊がいる一方、日比の海賊のように限られたナワバリの中で活動する、浦々の海賊とでも呼ぶべき小規模な海賊が各地にいたとしておきましょう。
海賊撃退に塩飽客船は、「鉄胞」を使用しています。
鉄胞の伝来については、1543(天文12)年に種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたとするのが通説です。それから7年しか経っていません。高価な鉄砲を塩飽の船頭たちは所有し、それを自在に使いこなしていたことになります。本当なのでしょうか?
  宇田川武久の『鉄胞伝来』には、鉄砲伝来について次のように記されています。
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である
②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である
③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
として、鉄砲は次のように西国の戦国大名から次第に合戦に利用されるようになったとします。
①1549年 最初に使用したのは島津氏
②1557年頃に、毛利氏が使い始め
③1565年の合戦に大友氏が使用
1550年(天文19)年に、塩飽の源三の船が「鉄胞」を使ったとすると、これらの大名用と同時か、少し早いことになります。種子島に最も近い南九州の島津氏が、やっと合戦に鉄胞を使い始めたばかりの時に、備讃瀬戸の船頭が鉄胞を入手して船に装備していたというのは、小説としては面白い話ですが、私にはすぐには信じられません。
しかし、その「鉄胞」が火縄銃ではないとしても、海賊船の乗組員に打撃を与える強力な武器であったことは確かなようです。村上水軍のように海賊たちは「秘密兵器」を持っていたとしておきましょう。
 少し視点を変えれば、塩飽の源三は、ここでは船頭として300人を載せた客船を運行していますが、場合によっては、自ら用意した武器で海賊にもなりうる存在だったことがうかがえます。
 このような二面性というか多面性が海に生きる「海民」たちの特性だったようです。

源三の舟は、9月19日、その母港である塩飽本島に停泊しました。それが本島のどこの港だったのかは何も記していません。笠島が最有力ですがそれを確かめることはできません。
 9月14日に堺を出ていますから順調な船旅です。しかし、塩飽がゴールではありません。常客は乗り降りを繰り返しながら翌日には出港し、20日には鞆に入港しています。そして23日には安芸国厳島に着きました。源三の船は、停泊地に少しちがいはありますが、航路は、次の場合とほとんど同じことが分かります。
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路
②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路
③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行
守龍は、このあと厳島で小船に乗り換えて安芸の「尾方」(小方、広島県大竹市)に渡り、そこからは陸路をとっています。そして周防国柱野(山口県岩国市)、同富田(周南市)をへて28日に山口に着いています。半月ばかりの旅路だったことになります。
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 守龍は山口では、彼に課せられた課題である東福寺領得地保の年貢確保のために精力的に活動します。要人である陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来しています。時あたかも、陶晴賢が主君大内義隆に対してクーデターをおこす直前でした。そのようなきな臭い空気を感じ取っていたかも知れません。
 大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。帰路の航海については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年
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  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

伴天連追放令
1587(天正15)7月24日(旧暦6月19日) 九州平定後に秀吉は、伴天連追放令を出します。
 秀吉から棄教を迫られた高山右近は、それに従わず追放されます。そして、九州の教会はことごとく閉鎖され破壊され、イエズス会が所領としていた長崎、茂木、浦上も没収されます。九州の宣教師達は、平戸に逃れて緊急会議を開き、当面の対応策を協議し、可能な限り日本滞在を引きのばすことを決定します。
 秀吉の命令は、畿内にも及びます。京都の南蛮寺をはじめ、畿内の教会は次々と破壊されます。右近の淡路の領土も没収され、多くの吉利支丹が路頭に迷います。

1室津 俯瞰図
    播磨室津 当時は小西行長の支配する軍港でもあった

このようななかで近畿の宣教師達は、室津に避難して今後の対応策を有力信者たちと協議します。
ここにやってきた宣教師達は、前日本副管区長のオルガンテイーノ、大坂のセスペデス神父、プレネスティーノ神父、コスメ神父、堺のパシオ神父たちでした。
 右近が追放された今となっては、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、若き「海の青年司令官」の小西行長でした。行長の保護がなんとしても欲しかったのでしょう。しかし、頼りとする行長は九州から帰った後、宣教師からの呼びかけに応じようとしません。堺から動かないのです。それは、なぜだったのでしょうか。

室津で何が話し合われ、どんなことが決定されたのかの手がかりは、オルガンチーノの報告書にあります。
 オルガンチーノはイタリア人で1570年来日。1603年まで30年余の間ミヤコ地区の伝道に係わり、1577年からはルイス・フロイス神父に替って長らく同地の布教長を勤めています。1580年に信長の許可を得て安土に創立されたミヤコのセミナリヨの院長も兼務しています。彼は「ウルガン伴天連」の名で上方の日本人によく知られていたようです。1603年晩年を長崎で過ごし、1609年76歳で他界しています。
 オルガンチーノが潜伏地から1587年11月25日付で、平戸のイエズス会宛てに送った経過報告書をみましょう。
 秀吉の伴天連追放令でイエズス会の宣教師やイルマン達は平戸に集合させられた。しかし、私は決死の覚悟でミヤコ地区(近畿以東)で、唯一人留まる決心を固め、室津(むろつ)に残った。
しかし、追放令のことを知った室津の人達の私への対応は非常に冷たく、私がこの地に留まることを拒んだ。アゴスチニヨAgostinho小西行長の兄弟が、私の室津退去を促す行長からの通知を伝えてきた。港の重立った人達も、私の室津残留を不可とし追放するよう主張した。
   私は、日比屋了珪の息子ビセンテを堺へ赴かせ、行長を連れてくるように命じた。しかし、行長は、神父に好意を寄せると秀吉ににらまれて自身やキリシタン宗団に不幸が降りかかるかも知れないと恐れ、室津へ来ようとしなかった。私は、再度ビセンテを堺に遣わし、
「もし室に来ないのなら、こちらから大坂か堺の貴殿または父君(小西隆佐)の所へ行って告白を聴かなければならない。」
と伝えさせた。恐れた行長はやっと室に来たが、罪の告白のためではなく、私を室津から去らせようとして来たのであった。行長の心中は、室津到着早々に受けた室の人達や都にいる兄弟からの影響もあって、絶望的な状態に陥っていた。それを察した私は行長に述べた。
「私が室に残留することにしたのは、貴殿やミヤコのキリシタン達の信仰を守り抜く為である。しかるに、貴殿が告白もせず、私をどこかにかくまって助けることをしないのなら、私は都または大坂に行き、泊めてくれる人がいない時は街路に立つつもりである。平戸は遠過ぎてミヤコ地区の信徒の援助に来られないから、私は平戸へ行くべきではない。」と。
これを聞いた行長は泣き出した。こうして私の覚悟を知った行長は、信仰のために命を賭して私を隠す決心をしたのである。
ここからは次のような事が分かります
①オルガンチーノが平戸に退避せずに、この地に残ることを主張したこと。
②それに対して小西行長や室津の有力者達は、室津からの退去・追放をもとめたこと
③オルガンチーノの「脅迫」で、行長は室津にやって来るがそれは室津からの退去を求めるためであった。
ここからは行長が怯えていたことがうかがえます。行長だけではありません。室津の信徒たちまでが行長の意向を受けて、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫っていたようです。そして、堺から行長の弟がやってきて、「これ以上の助力は自分に不可能だから、すぐにも立ち去るように」と行長の命令を伝えるのです。
 九州平定を終えた秀吉が、まもなく大坂に凱旋するような時期に、室津に宣教師を匿っていることを秀吉が知ればどうなるでしょうか。秀吉の怒りをかうのが怖かったのです。信仰よりも、高山右近の二の舞になるのはゴメンだという気持ちの方が、この時点では強かったのでしょう。行長の胸の内を、もう少し覗いてみましょう。
 怯えた行長は、了珪が持参した手紙さえも受けとりません。了珪はふたたび室津に戻り、その旨を神父に報告します。オルガンティーノは再度、了珪を堺に送り、行長が室津に来ないのなら自分が堺に赴き、隆佐(行長の父)とお前とに会おう。そして切支丹として告白の秘蹟を受けぬ限りは堺を立ち去らぬつもりだと言伝ます。
 この言伝てを聞いた行長は、迷い悩みます。オルガンティーノが堺にくれば事態は一層、悪化し、自分や一族に累が及ぶだろう。それは避けなければならない。そこで、ジョルジ弥平次(河内岡山の領主・結城ジョアンの伯父)を伴って、重い心で自ら室津にやってきます。それは。オルガンティーノに九州に去るよう説得するためでした。

1室津 絵図
室津
 神父と行長との間には激論がかわされたようです。
オルガンティーノは秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長に、信仰の決意を促したのでしょう。にもかかわらず行長の動揺は消えません。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言し、自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと宣言します。オルガンティーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのかもしれません。   
1 イエズス会年次報告
                     
   オルガンチーノ神父書簡の和訳は、2つ出版されています。
「新異国叢書」村上直次郎氏訳も「十六・七世紀イエズス会日本報告集」松田毅一氏監訳も、「泣き」「泣き出し」と訳されています。
 しかし、ルイス・フロイス著「日本史」中央公論社版1の松田毅一・川崎桃太両氏共訳では、「ほとんど泣き出さんばかりになりました」とあり、和訳の表現に微妙な違いがあようです。どちらにしても行長は、信仰と現実の間で苦しみ悩んでいたようです。 オルガンチーノは、自分の決意と説得が思い悩む行長の気持ちを変えたと報告しています。
 しかし、自らもキリスト教徒であった作家の遠藤周作は、小説「鉄のくびき 小西行長伝」の中で、それよりも大きな人物の存在があったと云います。行長の迷える心を支えたのは、高山右近の登場だったと云うのです。

高山右近とは?高槻城やマニラ、子孫や細川ガラシャとの関係について解説!

オルガンチーノの報告書の続きを読んでみましょう
この日、うれしいことにジュストlusto高山右近と三箇マンショManclo及び小豆島を管理している作右衛門(?)が私に会いにきた。また、都からは数人のキリシタンが、私の潜伏に適した家を近江に準備してあるからと、駕籠と馬を伴い迎えに来たのである。一同は、室津付近に行長からジョルジorge結城弥平次(河内出身のキリシタン武将)に隠れ家兼臨時宿泊所として与えられた家に集まって聖体拝領した。
   次の日、互いに決意を述べ合い、私と高山右近が当地方に隠れることについて協議した。
私は、行長領たる室津に隠れて発見された時は行長一家に迷惑を掛けるから、都のキリシタンの設けた隠れ家へ行くのが何かにつけ最良だ、と言ったところ、行長がきっぱりした言葉で私の都行きに反対し、自分が他の誰よりも巧妙に神父・右近やその父ダリヨと妻子を隠すことができる、と決死の思いを述べた。皆賛成して非常に喜んだ。
バテレン追放令後に、大名の地位を捨て姿を消していた高山右近は、行長の手引きで淡路島に帰っていたようです。
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右近は、明石船揚城の城下町に宣教師を招き、最盛期には2000名を超える信者がいたという。明石の町は堺などへ海上ルートの中継港町として大いに栄えた。

室津の状況を聞いて、父ダリオ・弟太郎右衛門や行長の家臣の三箇マンショと室津にやってきます。
右近は、行長たちに向って我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語ります。それは「地上の軍人から神の軍人」に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えないことを誓います。
 また父ダリオ・弟太郎右衛門も宣教師たちを励まし、慰め、生涯、信仰を棄てぬことを誓います。このような右近一族と、行長の態度は対照的です。フロイスも「行長は宣教師たちに冷たかった」と書いています。右近一族の登場が、その後の展開に大きな影響をもたらすことになったと遠藤周作氏は考えているようです。

フィリピン マニラ 高山右近 禁令 キリシタン大名 パコ Manila Takayama
マニラの高山右近像

 この後の対応策は、いかに秀吉をだますかということです。秀吉への裏切工作が話し合われます。
秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、切支丹信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを、日本人信徒達は夜を徹して話し合い、その結果を、翌朝に宣教師達に伝えたようです。
 こうして行長と右近たちは協議の結果、次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を、小豆島に隠すこと。(史料には小豆島の地名は出てきません)
②二人の住居は秘密して、誰も近づかぬようにすること。
③神父と右近とは離れて別々に住む。万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の知行地に逃げること。
小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンショが代官でした。前年には、セレペデスによって布教活動も行われ「1400人」の信者もいます。二人を隠すには最適です。

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小西行長

 国外退去命令の出た宣教師をかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする反逆です。
これは自らを危険にさらすことです。バテレン追放令が出された時には、自分や一族のことを守ることだけを考え、卑怯で、怯えた行長が、このような危険に身を曝すようになったのです。そこには、試練と向き合い成長し、強くなっていく姿が見えてきます。
 あるいは、秀吉の野心実現のための駒には、なりたくないという気持がうまれていたのかもしれません。権力者の人形として、動くことへの反発心かもしれません。
 あるいはまた「堺商人の処世術」かもしれません。
表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという生き方です。その商人の生き方を、関白にたいして行おうとする決意ができたのかもしれません。
 切支丹禁制に屈服したように装いながら、宣教師をかくまうことは秀吉を「だます」ことです。それはある意味で裏切りであり、反逆でした。その「生き方」が、朝鮮侵略においても秀吉を「だまし」和平工作を行うようになるのかもしれません。

 資料には出てきませんが、室津では今後の「秀吉対策」も協議されたたのでないかと研究者は考えているようです。
行長と宣教師の間では南蛮貿易が、宣教師の介入なくしては成り立たないことが分かっています。南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは、日本通の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きを行っていました。そして、イエズス会は南蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなってきました。バテレン追放令の目的の中には、宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして秀吉が南蛮貿易の利益を独占しようとする意図もあったようです。
 これに対してイエズス会からすれば、それを許してはならず

「宣教師がおればこそ、ポルトガル商人との貿易も円滑に成立するのだ」

ということを秀吉に知らしめる必要があるという共通認識に立ったはずです。そうすれば、やがて関白は嫌々ながらも、一時は追放しかかった宣教師の滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノが、このような方策を協議したことは考えられます。

 「イエズス会の対秀吉戦略」の成果は? 
バテレン追放令の翌年天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行おうとします。秀吉は二十万クルザードという大金をだして生糸のすべてを買いとろうとします。この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐でした。彼はこの交渉を成立させています。しかし、後にこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を得たからであることを、秀吉はしらされます。
 更に、天正十九年(1591)には、鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船から直接に金の買占めをしようとします。しかし、ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲介を主張してこれを拒否し買い占めは成立しません。秀吉は、ここでも宣教師達の力を見せつけられてのです。

ヨーロッパから伝来した「南蛮文化」とは? | 戦国ヒストリー

 これらの経験から南蛮貿易で儲けるためには、宣教師の力が必要だということを、秀吉は学ばされたのかもしれません。
これ以後、秀吉は少しずつ折れはじめます。当初は教会の破壊やイエズス会所領の没収を命じていた関白は、宣教師の哀願を入れ、その強制退去を引き延ばし、最後には有耶無耶になってしまいます。
 秀吉はマニラやマカオとの貿易では、宣教師の協力がなくては儲けにならないことが分かってきたのでしょう。秀吉は、現実主義者です。宣教師たちの残留を公然とは認めませんが、黙認という形をとりはじめます。実質的には、行長たちは勝ったと云えるようです。
 
一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび五島、豊後に秘密裡に散っていきます。
彼等はこの潜伏期間を日本語の習得にあて次の飛躍に備えたようです。小豆島にかくれたオルガンティーノも変装して扉をとじた駕寵にのり、信徒たちを励ましに歩きまわるようになります。

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秀吉のバテレン追放令後の天正十五年(1587)の陰暦六月下旬から七月上旬に、室津で開かれた吉利支丹会議は、イエズス会の日本布教にとっては大きな試金石であったように思えてきます。
 小西行長にとっては、彼の生涯の転機となった場所だったと研究者は考えているようです。彼の受洗は幼少の時のことで、動機も父親の商売上の都合という功利的なものだったかもしれません。しかし、彼はこの時、室津から真剣に神のことを考えはじめるようになります。そのためには、追放令という試練と高山右近という存在と、その犠牲とが必要だったのかもしれません。
  今日、グーグルで検索しても室津には、行長や右近をしのぶものはないようです。ここが行長の魂の転機となった場所だとは、知るひとはいないようです。
参考文献 遠藤周作 鉄のくびき 小西行長伝



  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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