瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:室津の遊女

 瀬戸の港 室津
    室津は古代以来の重要な停泊地でした。
1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。
 室津には、多くの船頭がいたことが史料から分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。当時の瀬戸内海には、港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことを以前にお話ししましたが、室津も塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったようです。 そして、室津は多くの遊女達がいることで有名だったようです。法然上人絵伝の室津での出来事は、遊女が主役です。その段を見ておきます。

室津の浜
室津の浜辺と社(法然上人絵伝34巻第5段)

室津の最初に描かれるシーンです。浜に丘に松林、その中に赤い鳥居と小さな祠が見えます。中世の地方の神社とは、拝殿もなく本殿もこの程度の小さなものだったようです。今の神社を思う浮かべると、いろいろなものが見えなくなります。
室津の浜と社(拡大)
神社と浜部分の拡大

 神社の下が浜辺のようですが、そこには何艘もの船が舫われています。ここも砂浜で、港湾施設はないようです。
 浜辺の苫屋から女房が手をかざして、沖合を眺めています。
「見慣れない船が入ってきたよ、だれが乗っているのかね」。
見慣れない輸送船や客船が入ってくると真っ先に動き出す船がありました。それが遊女船です。

第5段    室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。
室津
       室津(法然上人絵伝34巻第5段)
室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。これが遊女が船なり。遊女申しさく「上人の御船の由承りて推参し侍るなり。世を渡る道区々(まちまち)なり。如何なる罪ありてか、斯かる身となり侍らむ。この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と申しければ、上人哀れみての給はく、「実にも左様にて世を渡り給ふらん罪障(ざいしょく)真に軽からざれば、酬報又計り難し。若し斯からずして、世を渡り給はぬべき計り事あらば、速やかにその業を捨て給ふべし。若し余の計り事もなく、又、身命を顧みざる程の道心未だ起こり給はずば、唯、その儘にて、専ら念仏すべし。弥陀如来は、左様なる罪人の為にこそ、弘誓をも立て給へる事にて侍れ。唯、深く本願を馬みて、敢へて卑する事なかれ。本願を馬みて念仏せば、往生疑ひあるまじき」由、懇ろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙を流しけり。
後に上人の宣ひけるは、「この遊女、信心堅同なり。定めて往生を遂ぐべし」と。帰洛の時、こゝにて尋ね給ひければ、「上人の御教訓を承りて後は、この辺り近き山里に住みて、 一途に念仏し侍りしが、幾程なくて臨終正念にして往生を遂げ侍りき」と人申しければ、「為つらん /」とぞ仰せられける。
意訳変換しておくと
室の泊(室津)に船が着こうとすると、小舟が一艘近づいてきた。これは遊女の船だった。遊女は次のように云った。「上人の御船と知って、やって来ました。世を渡る道はさまざまですが、どんな罪からか遊女に身を落としてしまいました。この罪業重い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
上人は哀れみながら「まったくそのような身で渡世するのはm罪障軽しとは云えず、その酬報は測りがたい。できるなら速やかに他職へ転職し、今の職業を捨てることだ。もし、それが出来きず、転職に至る決心がつかないのであれば、その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ、誓願も立ててくださる。ただただ、深く本願を顧みて、卑しむことのないように。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」ち、懇ろに教へた。遊女は、随喜の涙を流した。
後に上人がおっしゃるには、「この遊女は、信心堅くきっと往生を遂げるであろう」と。
流刑を許されて讃岐からの帰路に、再び室津に立ち寄った際に、この遊女のことを尋ねると、「上人の御教訓を承りて後は、この辺りの山里に住みて、一途に念仏し臨終正念にして往生を遂げた」と聞いた。「そうであろう」とぞ仰せられける。
室津の遊女
        室津(法然上人絵伝34巻第5段)

この場面は、遊女が法然に往生への道を尋ねに小舟でこぎ寄せたシーンと説明されます。

⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取り? 船の前では船乗りや従者達が近づいてくる遊女船を興味深そうに眺めています。
この場面を、私は出港していく船に追いすがって、遊女が小舟で追いかけてきたものと早合点していました。なんらかの事情で法然の話を聞けなかった遊女が、救いの道を求めて、去っていく法然の船に振りすがるというシーンと思っていたのです。しかし、入港シーンだと記します。すると疑問が湧いてきます。わざわざ小舟で、こぎ寄せる必要があるのか?
 兵庫浦のシーンでは、法話の場に遊女の姿も見えていました。室津でも法話は行われたはずです。小舟でこぎ寄せる「必然性」がないように思えます。しかも海上の船の上ですので、大声で話さなければなりません。「往生の道」を問い、それに応えるのは、あまり相応しくないように思えます。
法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
室津船上の法然(一番左 弟子たちには困惑の表情も・・) 
そんな疑問に答えてくれたのが、風流踊りの「綾子踊り」の「塩飽船」の次の歌詞です。
①しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ  津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
②さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ  津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
③多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

ここには瀬戸の港で繰り広げられていた、入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われているというのです。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりが「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。

室津の遊女拡大
      室津の遊女船(法然上人絵伝34巻第5段)
  当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このように入港してくる船を、遊女船が出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。

ここで兵庫湊(神戸)の場面に現れた遊女達の場面をもう一度見ておきましょう。

兵庫湊2
      兵庫湊の遊女船(法然上人絵伝34巻第3段)

左手の艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、若い二人の女が飛び移りました。傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、小堤を叩きながら「たまさか」の歌を歌いかけています。「 綾子踊り」の「たまさか(邂逅)」の歌詞を見ていくことにします。
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露 ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番を「解釈」しておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でした。私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っているようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。
兵庫湊の遊女
兵庫湊の遊女船(拡大図)
「たまさかに」は、港や入江の馴染みの遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面を謡った風流歌だと研究者は考えています。

なじみの男に、再会したときに真っ先に話しかけたことばが「たまさかに」なのです。そういう意味では、恋人や遊女達の常套句表現だったようです。こんな風にも使われています。

○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば  わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)

この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、その内容は「たまさか(久々ぶり)にやって来た愛人と、若宮に籠もって・・・」となり、ポルノチックなことが、さらりと謡われています。研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評します。当時の「たまさかに」という言葉は、女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
こういうやりとりが入港してきた船の男達と交わされていたのです。その後に、遊女達は旅籠へと導いていくのです。
      
ここで押さえておきたいのは、次の通りです。
①遊女船が入港する船を迎えに出向くという作法は、どこの湊でも行われていたこと。
②その際に、遊女は3人1組で行動していたこと
③出迎えに行った遊女は、相手の船に乗り移って、「塩飽船」などの風流歌をやりとりし、遊郭に誘ったこと。
④そのシーンが法然上人絵伝にも登場すること

遊女達を代弁すると、決して、船の上から大きな声でやりとりをするという下品なまねを彼女らはしません。相手の船に移ってから、歌を互いに謡い合い、小堤をたたい優雅に誘うのです。
 以上から、船上から遊女に往生の道を説いたという話には、私は疑問を持ちます。事情をしらない後世の創作エピソードのようにも思えます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

     綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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