前回は箸蔵寺が近世半ば以後に、金毘羅大権現の奥の院という由来を持つことで、急速に成長して行った過程を上記のようにまとめました。それでは中世から近世初めまでの箸蔵寺は、どんな状態だったのでしょうか? これについては、本尊の薬師如来信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が阿波藩から安堵されていたこと以外には、よく分からないようです。それを史料で分かる範囲で見ていこうと思います。
箸蔵寺調査報告書の年表は、「箸蔵寺寺記(1976年)」を元に次のように記します。
828 天長五年項 空海が箸蔵山で金毘羅神将から、この山に道場を建てよとの誓願。七堂伽藍を建て薬師如来像を刻んで安置したという。901 延喜年間 阿闍梨宥範のとき、十二院の塔頭、五十有余の堂宇。平安末期~鎌倉末期 記録がない。1460~66寛正年間 傑僧相次ぎ、盛観を徐々に取り戻す。1532~55天文年間 六十八の堂塔の旧観を複する。1582 天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
この内容を検討すると、金毘羅大権現の請願を受けて空海が創建したという記事は、弘法大師伝説としては受け止められ信仰の基盤にはなりますが、歴史的には事実とすることはできません。また、延喜年間の宥範による中興については次のように記されています。
延喜年間 (909~13) 宥範阿闍梨の時、 醍醐天皇の第三皇子(法三宮親王)の登嶺を迎え、 近国の僧侶集して、五日三時の秘法を修せられた。この前後は一山隆昌のを究め、十二院の塔頭と五〇有余の堂宇が並び、その霊城は遠近の頭を接する大さを見せた。
しかし、ここに登場する宥範は、中世の善通寺再興の祖であり、金毘羅大権現の金光院の創建者ともされ
ていることは以前にお話ししました。善通寺や金毘羅金光院では、知らないひとがいないほど有名な人物です。その名前が
登場すること自体、事実であるとは思われません。そして平安末期~鎌倉末期については、「記録なし」と記します。この時代のものとしては、絹本著色不動明王一幅があるだけです。不道明王は修験者の守護神ですから、この地が修験者の行場や霊山となっていたことはうかがえるのかも知れません。ただ、経済力のある有力寺院には後世になると仏像や聖典が集まってきます。そういう意味では箸蔵寺の歴史を古代や中世初頭まで遡ることはできません。
次いで中世後半については次のように記します。
室町中期の寛正年間(1460~68) から傑僧相つぎ、だんだんと盛観を取り戻す。室町末期の天文年間(1532~55)に、六十八字の塔の旧観を復して、それに帰した
つまり中世末期には、多くの塔頭が建ち並び盛行を極めたとします。しかし、それを裏付ける塔頭跡や五輪塔などの石造物・瓦類などもでてきません。そして土佐勢の侵攻について、次のように記します。
天正十年(1582)、 土佐長曽我部元親の侵攻によって兵火に遭遇した。 住職宥典阿闇梨は身を捨てて防火にあたり、金堂および本殿の医王仏を守ったが、間もなく遷化した。
明治14年(1881)の「阿波国三好郡村誌」 州津村の項には次のように記します。
「寺 箸蔵寺 東西五町南北五町面積九千坪 本村北方蔵谷ニアリ 真言宗古義派西京仁和寺末 土人伝 天長五年戊申空海開基創立 天正十年壬午兵災二罹リ伽藍ヲ始一山灰燼スト 其後四五年経僧宥観(寛?)一宇ヲ建シ復テシ後 文化十三年丙午僧龍岳諸堂建築セシニ 文政九年丁戌再ヒ灰燼トナレリ 嘉永五年壬子僧仙岳又再建ス 阿波志日(以下「阿波志』本文と同。)」
意訳変換しておくと
「箸蔵寺は、寺域が東西五町南北五町、面積九千坪あり、州津村北方の蔵谷にある。真言宗古義派の仁和寺の末寺で、地元民が伝えるところによると、天長五年戊申に空海が開基創立と伝えられる。天正十年の長宗我部元親の侵攻の際に兵災に遭い、灰燼と帰した。その後45年を経て宥観(寛)によって一宇が再建され、文化13(1816)年になって僧龍岳によって諸堂整備を終えた。ところが文政九(1826)年に、再び灰燼に帰し、嘉永五(1852)年に僧仙岳によって再建された。 阿波志日(以下「阿波志』本文と同。)」
これを年表化しておきます。
①天長五(828)年に空海に金毘羅大権現の請願を受けて開基創立
②天正十(1582)年の長宗我部元親の侵攻の際に兵災に遭い、灰燼と帰した。
③1620年代に 宥観(寛)によって一宇が再建
④文化13(1816)年になって僧龍岳によって諸堂整備
⑤文政九(1826)年に、再び灰燼に帰し、
⑥嘉永五(1852)年に僧仙岳によって再建
⑦長宗我部元親の土佐撤退した後、天正16年(1588) 宥観阿闖利によって、四散した信徒を集め、東奔西走してし復興に努めた。
この宥観については、「地福寺旧記」には宥寛として登場します。この史料は箸蔵寺と地福寺の末寺をめぐる争論への訴えでが、その中に箸蔵寺の再興に尽くしたのは地福寺の宥伝と、真光寺の宥寛だったと次のように主張されています。
長曽我部元親当国乱入之節に箸蔵寺焼払申趣に而退転仕居中に付 地福寺宥伝と申僧取建申趣申伝候 地福寺末寺真光寺住持宥寛と申僧宥伝弟子に御座候 故箸蔵寺宥寛に被讓申 宥伝寛二代箸蔵寺取建申由申候 宥寛儀永禄八年箸蔵寺宥伝遷宮棟札 真光寺住寺宥寛と相付申候 宥寛儀元来何某と申土州浪人世枠に而御座候 宥伝弟子に仕候 故宥寛近親の者共地福寺介抱に被成居申を右宥寛箸蔵へ引取 則只今箸蔵家頼に成り下り申候事
意訳変換しておくと
①長宗我部元親の侵攻で箸蔵寺は延焼し退転した。そのため箸蔵寺の管理権は地福寺(井川町)の僧宥伝が引き取った。宥伝には、弟子として末寺の真光寺住職宥寛がいた。退転していた箸蔵寺は、この二人によって復興が始まった。宥伝と宥寛の二代で、箸蔵寺は再建されたといえる。それを裏付けるのが永禄八(1565)年の「箸蔵寺宥伝遷宮棟札」に、「真光寺住寺宥寛」とあることだ。宥寛はもともとは土州浪人の倅であったのが、宥伝の弟子となったものである。その後、宥寛の近親の者が地福寺に住み、宥寛が箸蔵で暮らすようになると、地福寺はいつの間にか、箸蔵の家来のように成り下がってしまった。
以上を要約しておきます。
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②それは箸蔵寺の再建時の棟札に宥寛の名前があることから裏付けられる
③その後、土佐浪人の宥寛は箸蔵寺を拠点して、一族が地福寺の管理をするようになった
④すると本末が転倒し、箸蔵寺が本寺のようになり、地福寺は末寺のような形になってしまった。
しかし、「箸蔵寺宥伝遷宮棟札」は永禄八(1565)年のものです。長宗我部元親の阿波三好への侵攻は、天正三年(1575年)の土佐統一後のことです。そうすると宥寛は長宗我部元親の侵攻前にこれを建立したことになります。それが事実とすると箸蔵寺は兵火にあっていない可能性が出てきます。そして、土佐出身の宥寛は長宗我部元親も保護を受けながら箸蔵寺を経営していたことになります。このあたりのことが今の私にはよく分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の侵攻時に住職として対応した人物して宥寛(観)がいることを押さえておきます。続きを見ていきます
一 右申上候通り箸蔵寺中興開基者宥伝法印に而御座候 永禄八年当谷氏神遷宮棟札に箸蔵寺宥伝と御座候 是箸蔵寺氏宮初而之棟札に而御座候 永禄拾壱年当寺本尊開眼に者 阿州三好郡田井之庄井之内之郷四ヶ寺と御座候 然者右宮得八師弟之好に招待仕者哉と奉存候 地福寺宥慶儀茂弟子之様に申伝候御事
意訳変換しておくと
一 今申しあげたように、箸蔵寺の中興開基者は宥伝法印である。永禄8(1565)年の井内谷の氏神遷宮棟札に、箸蔵寺宥伝とあるのは、箸蔵寺の氏宮最初の棟札になる。永禄11年 箸蔵寺の本尊開眼に阿波三好郡田井之庄井之内之郷四ヶ寺と記されているのは、箸蔵寺と子弟関係にあったために招待されたものである。ここに出てくる地福寺の宥慶は宥伝の弟子にあたると申し伝えられている(後略)
(後略)
別紙半紙断片には次のように記します。
別紙半紙断片には次のように記します。
一 地福寺儀者往古者 讃州多度郡善通寺末寺二而御座候 尤井内谷二而三ヶ寺之門首二而御座候 右之段則地福寺絵像本尊に書記御座候 年号左に書上申候一 康応弐年(1390) 又再興 応永弐年(一三九五) 文明七年(一四七五) 又永禄十一年右永禄十一年は当谷四ヶ寺開眼と相見へ申候事一 先年出入之節 箸蔵寺六ケ寺之末寺四ヶ寺弐寺と相分候 上者弐ケ寺におて慥成証拠茂無之哉と御被為遊山右証跡本尊の軸籠り有之故先師其段
意訳変換しておくと
地福寺は、もともとは讃岐多度郡善通寺の末寺であった。同時に井内谷に三ヶ寺の門首がいた。このことについては地福寺像本尊にも次のように書き記されている。一 康応弐年(1390) に再興。応永弐年(1395)、 文明七年(1475)、永禄十一年右永禄十一年に、井内谷四ヶ寺が開眼された。一 先年の争論の祭には、著蔵寺六ヶ寺の末寺を四ヶ寺と二ヶ寺に相分けた。その上で、確かな証拠がない二ヶ寺拠茂之載と被為由右証跡本尊の軸り有之故先師其段
ここでは、井内にある寺院の末寺の所有権をめぐる地福寺と箸蔵寺の争論の顛末が記されています。
もともとは本寺であった地福寺が、教勢拡大を続ける箸蔵寺に末寺を奪われていく様子がうかがえます。地福寺川からすれば、「もともとはこちらが本寺で、箸蔵寺はその末寺だったのに・・悔しい」という思いが伝わってきます。
地福寺の主張が本当だったとすれば、箸蔵寺側からすればこのことについては触れたくはないことです。地福寺や真光寺出身の住職たちは、寺歴から消されていったことが考えられます。どちらにしても、近世初頭に姿を現した箸蔵寺は、今のような大きな伽藍ではなく一堂程度の小規模だったことが分かります。
箸蔵寺の実質的な再建者の宥寛(観)を見ておきましょう。
もともとは本寺であった地福寺が、教勢拡大を続ける箸蔵寺に末寺を奪われていく様子がうかがえます。地福寺川からすれば、「もともとはこちらが本寺で、箸蔵寺はその末寺だったのに・・悔しい」という思いが伝わってきます。
地福寺の主張が本当だったとすれば、箸蔵寺側からすればこのことについては触れたくはないことです。地福寺や真光寺出身の住職たちは、寺歴から消されていったことが考えられます。どちらにしても、近世初頭に姿を現した箸蔵寺は、今のような大きな伽藍ではなく一堂程度の小規模だったことが分かります。
箸蔵寺の実質的な再建者の宥寛(観)を見ておきましょう。
①長宗我部元親に金毘羅大権現の松尾寺を任されたのは土佐出身の修験者である宥厳であった。
②宥寛も「土佐浪人の倅」であり、土佐出身の修験者であった可能性が高い。
②宥寛も「土佐浪人の倅」であり、土佐出身の修験者であった可能性が高い。
③宥厳ー宥盛(松尾寺) 宥伝ー宥寛(地福寺)の法名からは、真言系修験者に共通する法脈があったことがかがえる。
④箸蔵寺の院号「真光院」というのも、創建者の宥寛の真光寺に由来する
宥伝や宥寛が後の箸蔵寺の系譜の中にどのように位置づけられているのかを見ておきましょう。
宥伝や宥寛が後の箸蔵寺の系譜の中にどのように位置づけられているのかを見ておきましょう。
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而箸蔵寺 元禄六酉二月八日病死宥保 この僧は享保20年十月二日に病死運智 この僧は元文3年七月廿三日病死寬悟 宝暦七 隠居 同八年寅戌再住勝應 此僧宝暦八年 正月廿一日病死寬悟 此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死見光 此僧宝暦12年三月廿一日病死雲龍 此僧寬政二年二月七日病死俊珍 此僧文化 正月十一日病死箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。当然、地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前もありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。住職の系譜が代わって、それ前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが考えられます。
次に、箸蔵寺を再興したとされる地福寺や真光寺のあった井内谷を見ておきましょう。

地福寺は、祖谷への物資集積センターの役割も果たしていた

地福寺の本堂


地福寺は、祖谷への物資集積センターの役割も果たしていた

地福寺の本堂

この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。②南北朝時代の大般若経があること③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
この寺院は、明治の神仏分離前には対岸の旧郷社・馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②の南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。
②の南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち、祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷を信仰エリアに取り込んでいたお寺なのです。

地福寺境内の護摩壇(中央円形)
境内にある護摩壇からは、ここが修験者の拠点であったことが分かります。

地福寺本堂前の看板
この看板からは地福寺が剣山円福寺の別院であり、剣山信仰の拠点であること分かります。つまり、井内谷の地福寺は中世以来、祖谷までを信仰圏とする修験者の拠点で、近世には剣信仰の拠点であった寺院なのです。その地福寺の住職が箸蔵寺の住職でもあったことになります。その系譜上に作られた箸蔵寺が修験者の拠点として成長して行くのは当然だったことになります。
「地福寺旧記」を含む地福寺の古文書については「 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」に次のように記されています。

地福寺境内の護摩壇(中央円形)
境内にある護摩壇からは、ここが修験者の拠点であったことが分かります。

地福寺本堂前の看板
この看板からは地福寺が剣山円福寺の別院であり、剣山信仰の拠点であること分かります。つまり、井内谷の地福寺は中世以来、祖谷までを信仰圏とする修験者の拠点で、近世には剣信仰の拠点であった寺院なのです。その地福寺の住職が箸蔵寺の住職でもあったことになります。その系譜上に作られた箸蔵寺が修験者の拠点として成長して行くのは当然だったことになります。
「地福寺旧記」を含む地福寺の古文書については「 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」に次のように記されています。
天保3年(1832)の記載のある「諸証文函」に納められており、Aの函(証文箱上段)51点、Bの函(証文函下段)97点までがリストアップされている。作成年代記載のある最古の文書は、近世初期の寛文4年(1664)地福寺から御室御所へ寺の概況を報告した願文で、永禄年間(1558~1570)に箸蔵寺の末寺になったことの記載。
あとは18世紀初頭から明治初年に至るまで、2世紀にわたるもので、次のようなグループに分けることができる。
1 御室御所の末寺である地福寺が、寺の様子を知らせる文書。
2 近隣周辺の諸神社の別当である地福寺が、監督下三社の修理や管理について郡代への申請文書
3 地福寺や諸社の修理のための御林材木の伐採許可の申請文書
4 村内・谷内の人々の出入り(紛争・トラブル)の仲裁や調停に関する文書
5 地福寺が地域住民の監督者としての行政機能を持つことを示す文書
6 寺の別当と、神社の禰宜(ねぎ)との出入りや仲直りに関する文書
7 地福寺の寺院経営に関する文書
8 一向宗(真宗)から真言宗への改宗文書。文政9年(1826)年。(B41文書)9 文政13年(1830)御室御所への報告書。(檀家(だんか)800戸、社65社、諸庵(あん)21)
最後に長宗我部元親も侵攻前に三好地方を支配していた大西氏の勢力範囲を見ておきましょう。
大西頼武が阿波の勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは以前にお話ししました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それに伴って留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
こうしてみると井之内や井川は、大西氏の勢力下に置かれていたことが分かります。井之内の地福寺も
大西氏の一族が入り込み、その保護を受けていた寺院であったこと。そして、祖谷への入口の一つとして戦略的な要衝でもあったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
「 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」
大西頼武が阿波の勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは以前にお話ししました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それに伴って留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。

大西氏の一族が入り込み、その保護を受けていた寺院であったこと。そして、祖谷への入口の一つとして戦略的な要衝でもあったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
「 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」



