金光院別当「宥雅」の「業績」について 房号「洞雲」
①金比羅堂を建立しながら正史からは「抹殺された存在」②西長尾城主の甥(弟)で、金光院別当職を宥盛と争う。
③三十番神にかわる金比羅大権現を新しい守護神に据え、金比羅堂建立。背景に仏法興隆の三十番神だけでは、「現世利益」に対応できず。強力な霊力の新たな神の勧進が必要。
⑤滝寺からの伝来する十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神を草創。
⑥金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作
⑦「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合。
⑧三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用
⑨金比羅大権現は、松尾寺金光院を別当寺として出発
⑩長宗我部の侵入で長尾方に属した宥雅は、宝物を持って堺逃亡。
⑪仙石秀久の讃岐支配で帰国できると思ったが・・
生駒家に訴え出るも許されず「宥巌」に松尾寺を譲った?
⑫宥巌が没して宥盛が別当になると非を並び立て、生駒家に提訴
⑬生駒家での裁判。その時の記録が「洞雲目安申」。
「宥巌」なきあと別当を継承した「宥盛」への断罪するも失敗
⑭16世紀末には、松尾寺別当金光院から、金比羅大権現(社)別当金光院への衣替えを勧めた?
「洞雲目安申」には、次のように非難されている
「宥雅の悪逆、四国に隠れなき候、・・女犯魚鳥を服する身として、まひすの山伏と罷成」
本来の松尾寺の性格は?
①鎌倉前期 小松庄の琴平山の谷筋の墓所墓寺的な存在②鎌倉末期 宥範の時代には、松尾寺・称名院や三十番神の混在。③1585(天正13)年の仙石秀久からの禁制はあるが寄進状はなし。別当の金比羅大権現には寄進あり。④金比羅大権現の勢力が松尾寺全体を席巻する状態?⑤本地仏十一面観音。
本社前脇に海に向かって建っていた観音堂。この本尊は大麻山の滝寺の本尊を移したもの。
前立十一面観音も、麓の小滝寺の本尊。
「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合は?
①中世の法勲寺の僧侶によって広められていた悪魚退治の物語。
松尾寺の僧侶は、その上に悪魚を神として祭る金比羅信仰の創設と流布。
②「宥範縁起」の中で悪魚が「神魚」に変身伝説、
それをインド仏教のクンピーラに宛てた。クンピーラはガンジスのワニの神格化。 中国で千手観音菩薩の守護神化し日本伝来。
③しかし、松尾寺の本地仏は十一面観音で千手観音ではなかったので改造工作?
④それまでの松尾寺の守護神は三十番神
古くから象頭山に鎮座していたのは三十番神。
⑤言い伝えは?
外来の金比羅大権現が後からやってきて、この地を「十年」ばかり貸してくれ。三十番神が承知すると、金比羅大権現は三十番神が横を向いている隙に、「千」に書き換えてしまった。
「古来の三十番神はひさしを貸して母屋を金比羅神に乗っ取られてしまった」というのが地元の言い伝え。
⑥この説話は旧来の地主神と後世に勧進された新参の神との関係を示すもの。
長宗我部元親の関与と宥巌
① 1583(天正11)年 長宗我部元親寄進 松尾寺仁王堂の棟札
②三十番神を修復し、仁王堂新築。後の二天門「こんぴらのさかき門」だが、こんぴらの名前は見えない。
後に松平頼重が新築して寄進したときには金比羅の二天門。
③同年に三十番神も建立
当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
④元親は「四国の総鎮守」として金比羅大権現を創建?
⑤土佐軍占領下の金比羅。
金比羅大権現が松尾寺に取って代わる「変革」が起こった?
⑥第3代「別当宥巌」は元親の陣中にいた南光という修験者。
彼は土佐の当山派修験道のリーダーで、元親により金光院別当に任命
彼は土佐の当山派修験道のリーダーで、元親により金光院別当に任命
1600(慶長5)年死亡。後の金比羅大権現にとって、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことを隠す意図が生まれてきたのでは?
⑦後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年まで以後は隠居としている。 実際は1600(慶長5)年まで在職 江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られる。
金比羅大権現の基礎確立した金光院別当宥盛について
①生駒藩家臣・井上家(400石)の嫡男で高野山で13年の修行
宥雅の法弟で、宥目見の兄弟子
②弟は助兵衛は生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命
宥雅の法弟で、宥目見の兄弟子
②弟は助兵衛は生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命
③1586(天正14)年 長宗我部ひきあげ後に帰国。
後援者をなくした別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
④1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍
堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける
⑤金比羅神の神格化「由来書」の作成。
「金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。
善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
⑥修験僧「金剛坊」として多くの弟子を育て、道場を形成。
⑦土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首に。
⑧真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る。高野山南谷浄菩提院の院主を兼任
⑨三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと「接木」工作
⑦1606(慶長11)年自らの姿を木像に刻み。「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり修験姿の木像。自らを「入天狗道沙門」
この時期までの別当職は山伏・修験道の色彩が強い。
⑧1613(慶長18)年1月6日 死亡
観音堂の横に祭られ「金剛坊」と呼ばれる。
⑨1857(安政4)年 大僧正位追贈、金比羅の守護神「金光院」へ
⑩1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」創設。
⑪1905(明治38)年神殿完成、現在の奥社は、山伏であった有盛を祀る神社。行場であった磐の上には天狗面が掲げられている。
関連記事(上の内容を「権力闘争」面に焦点を当てたものが下の記事です)