瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:宥盛

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
経筒とは - コトバンク
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
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讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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天狗の羽団扇
狂言で使われる天狗の羽団扇

近世の金比羅は、天狗信仰の中心でもあったようです。金毘羅大権現の別当金光院院主自体が、その教祖でもありました。というわけで、今回は近世の天狗信仰と金毘羅さんの関係を、団扇に着目して見ていきます。テキストは  羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像     ことひら56号(平成13年)です

天狗観は時代によって変化しています。
天狗1

平安時代は烏天狗や小天狗と呼ばれたもので、羽があり、嘴を持つ烏のようなイメージで描かれ、何かと悪さをする存在でした。そして、小物のイメージがあります。

天狗 烏天狗
烏天狗達(小天狗)と仏たち

中世には崇徳上皇のように怨霊が天狗になるとされるようになります。近世には、その中から鞍馬山で義経の守護神となったような大天狗が作り出されます。これが、結果的には天狗の社会的地位の上昇につながったようです。山伏(修験者)たちの中からも、大天狗になることを目指して修行に励む者も現れます。こうして中世初頭には天狗信仰が高まり、各地の霊山で天狗達が活動するようになります。
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金刀比羅宮奥社の断崖に懸けられた大天狗と烏天狗

 整理しておくと、天狗には2つの種類があったようです。
ひとつは最初からいた烏天狗で、背中に翼があり、これを使って空を飛びました。近世になって現れるのが大天狗で、こちらは恰幅もよく人間的に描かれるようになります。そして、帯刀し錫杖を持ち、身なりも立派です。大天狗が誕生したのは、戦国時代のことのようです。
狩野永納の「本朝画史』には、鞍馬寺所蔵の鞍馬大僧正坊図について、次のように述べています。
「(大)天狗の形は元信始めてかき出せる故、さる記もあんなるにや。(中略)太平記に、天狗の事を金の鳶などいへる事も見えたれば、古は多く天狗の顔を、鳥の如く嘴を大きく画きしなるべし、今俗人が小天拘といへる形これなり。仮面には胡徳楽のおもて、鼻大なり。また王の鼻とて神社にあるは、猿田彦の面にて、此の面、今の作りざまは天狗の仮面なり」
意訳変換しておくと
「(大)天狗の姿は(狩野)元信が始めて描き出したものである。(中略)
太平記に、天狗のことを「金の鳶」と記したものもあるので、古くは多く天狗の顔を、烏のように嘴を大きく描いていたようである。世間で「小天拘」と呼ばれているのがこれにあたる。大天狗の仮面では胡人の顔立ちのように、鼻が大きい。また「王の鼻」と呼ばれた面が神社にあるは、猿田彦のことである。この今の猿田彦の面は、天狗の仮面と同じ姿になっている」
ここからは次のようなことが分かります。
①大天狗像は狩野元信(1476~1559)が考え出した新タイプの天狗であること
②古くは烏のように嘴が大きく描かれていて、これが「小天狗」だったこと
③大天狗の姿は、猿田彦と混淆していること
狩野元信の描いた僧正坊を見てみましょう

天狗 鞍馬大僧正坊図

左に立つ少年が義経になります。義経の守護神のように描かれています。これが最初に登場した大天狗になるようです。頭巾をつけ、金剛杖を持ち、白髪をたくわえた鼻高の天狗です。何より目立つのは背中の立派な翼です。それでは、団扇はとみると・・・・ありません。確かに羽根があるのなら団扇はなくとも飛べますので、不用と云えばその方が合理的です。羽根のある大天狗に団扇はいらないはずです。ところが「大天狗像」と入れてネット検索すると出てくる写真のほとんどは「羽根 + 団扇」の両方を持っています。これをどう考えればいいのでしょうか?
天狗 大天狗

  これは、後ほど考えることにして、ここでは大天狗の登場の意味を確認しておきます。
 小天狗は、『今昔物語集』では「馬糞鳶」と呼ばれて軽視されていました。中世に能楽とともに発達した狂言の『天狗のよめどり』や『聟入天狗』等では本葉天狗や溝越天狗として登場しますが、こちらも鳶と結び付けられ下等の天狗とされていたようです。飯綱権現の信仰は各地に広まります。その中に登場する烏天狗は、火焔を背負い手には剣と索を持っていますが、狐の上に乗る姿をしていて、「下等の鳶型天狗」の姿から脱け出してはいない感じです。
その中で狩野元信が新たに大天狗を登場させることで、大天狗は鳶や烏の姿を脱して羽団扇で飛行するようになります。これは天狗信仰に「大天狗・小天狗」の併存状態を生み出し、新たな新風を巻き起こすことになります。
狩野元信が登場させたこの大天狗は、滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』に日本の天狗のモデルとして紹介されています。
馬琴は、浮世絵師の勝川春亭に指図をして、「天狗七態」を描かせています。そのうちの「国俗天狗」として紹介された姿を見てみましょう。

天狗 滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』

 ここでも鼻高で頭巾をつけ、金剛杖持ち、刀をさし、背中には立派な翼を持っています。そして、左手は見ると・・・団扇を持っています。つまり、16世紀の狩野元信から滝沢馬琴(1767~1848)の間の時代に、大天狗は団扇を持つようになったことが推察できます。この間になにがあったのでしょうか。江戸後期になると、天狗の羽団扇をめぐて天狗界では論争がおきていたようです。

天狗 平田篤胤

その頃に平田篤胤(1776~1843)は、『幽境聞書』を書いています。
これは天狗小僧寅吉を自宅に滞在させて、寅吉から直接に聞いた話をまとめたものです。その中で篤胤は、羽団扇のことについても次のようなことをあれこれと聞いています
大天狗は皆羽団扇を持っているか
羽団扇には飛行以外に使い道はあるか
羽団扇はどういう鳥の羽根でできているか
この質問に答えて天狗小僧寅吉は、大天狗は翼を捨てた代りに、手にした羽団扇を振って飛び回るようになったとその飛行術を実しやかに言い立てています。ここからはこの時期に天狗界の大天狗は、翼を捨てて団扇で飛ぶという方法に代わったことが分かります。
そんな天狗をめぐる争論が論争が起きていた頃のことです。
平賀源内(1726~79年)が、天狗の髑髏(どくろ)について鑑定を依頼されます。
天狗 『天狗髑髏鑑定縁起

  源内は、その経験を『天狗髑髏鑑定縁起』としてまとめて、次のように述べています。
夫れ和俗の天狗と称するものは、全く魑魅魍魎を指すなれども、定まれる形あるべきもあらず。然るに今世に天狗を描くに、鼻高きは心の高慢鼻にあらはるるを標して大天狗の形とし、又、嘴の長きは、駄口を利きて差出たがる木の葉天狗、溝飛天狗の形状なり。翅ありて草軽をはくは、飛びもしつ歩行もする自由にかたどる。杉の梢に住居すれども、店賃を出さざるは横着者なり。
羽団扇は物いりをいとふ吝薔(りんしょく)に壁す。これ皆画工の思ひ付きにて、実に此の如き物あるにはあらず。
意訳変換しておくと
 天狗と称するものは、すべての魑魅魍魎を指すもので、決まった姿があるはずもない。ところが、昨今の天狗を描く絵には、鼻が高いのは心の高慢が鼻に出ているのだと称して、大天狗の姿とを描く。また嘴の長いのは、無駄口をきいて出しゃばりたがる木の葉天狗や溝飛天狗の姿だという。羽根があって草軽を履くのは、飛びも出来るし、歩行もすることもできることを示している。杉の梢に住居を構えても、家賃を出さないのは横着者だ。羽団扇は物いりを嫌う吝薔(りんしょく)から来ているなど、あげればきりがない。こんなことは全部画家の思ひ付きで、空言で信じるに値しない。彼らのとっては商売のタネにしかすぎない。

源内らしい天下無法ぶりで、羽団扇も含めて天狗に関するものを茶化して、明快に否定しています。この時に持ち込まれた天狗の髑髏は、源内の門人の大場豊水が芝愛宕山の門前を流れる桜川の河原でひろって持ってきたものでした。その顛末を明かすと共に、天狗の髑髏を否定しています。
  天狗についての考察というよりも、天狗に関する諸説を題材にして、本草学・医学のあり方を寓話化した批評文でしょうか。「天狗髑髏圖」はクジラ類の頭骨・上顎を下から見たもの。「ぼうごる すとろいす」はダチョウ(vogel struis、struisvogel、vogelは鳥)、「うにかうる」はユニコーンのことだそうです。
  合理主義者でありながら「天狗などいない」の一言で、「あっしにはかかわりのないことで」とシニカルに済ませられないところが源内らしいところなのでしょう。しかし、一方では大天狗の羽根団扇をめぐっては、各宗派で争論があり、それぞれ独自の道を歩むところも出てきたようです。
天狗 鞍馬

そのひとつが鞍馬寺です。ここは「鞍馬の天狗」で当時から有名でした。
この寺の「鞍馬山曼茶羅」には、中央に昆沙門天を大きく描かれ、その下に配偶神の吉祥天とその子善弐子(ぜんにし)を配します。毘沙門天の両脇には毘沙門天の使わしめとされる百足(むかで)を描かれます。そして毘沙門天の上方に描かれているのが僧正坊と春族の鳥天狗です。僧正坊は頭に小さな頭巾をいただき、袈裟を着けた僧侶の身なりで、手には小さな棕櫚葉団扇を持っています。しかし、背中に翼はありません。「鞍馬山曼茶羅」は、翼を持たない大天狗が羽団扇を使って飛行するという「新思想」から生まれたニュータイプの天狗姿と云えます。つまり、大天狗に翼は要らないという流派になります。
 しかし、多くの天狗信仰集団は「羽団扇 + 翼」を選択したようです。つまり翼を持った上に団扇ももつという姿です。鞍馬派は少数派だったようです。
以上をまとめておくと、鼻高の大天狗は、戦国時代の頃に狩野元信が考え出したものである。これ以降は大天狗と小天狗が並存するようになった。そして、江戸後半になると大天狗は羽団扇をもつようになる。
それでは、羽根団扇をも大天狗はどこから現れてくるのでしょうか?
 天狗経
天狗経
『天狗経』は密教系の俗書『万徳集』に出てくる偽経です。
その冒頭に「南無大天狗小天狗十二八天狗宇摩那天狗数万騎天狩先づ大天狩」と述べた後で、名が知られていた大天狗48の名を挙げています。この中には「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」の名前も見えます。この「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」で、羽団扇をもつ大天狗が最初に姿を表したのではないかという仮説を羽床氏は出します。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現

金毘羅大権現と天狗達(別当金光院)

それは金毘羅大権現の初代院主・金剛坊宥盛の木像に始まったとします。
  江戸時代に金昆羅大権現は天狗信仰で栄えたことは以前にお話ししました。金毘羅大権現として祀られたのは、黒眷族金毘羅坊・象頭山金剛坊の二天狗であったことも天狗経にあった通りです。当時の人々は金毘羅大権現を天狗の山として見ていました。天狗面を背負った行者や信者が面を納めに金毘羅大権現を目指している姿がいくつかの浮世絵には描かれています。
天狗面を背負う行者
金毘羅行者 天狗面の貢納に参拝する姿

近世初頭の小松庄の松尾寺周辺の状況をコンパクトに記して起きます。
 松尾寺は金毘羅大権現の別当寺となつて、金毘羅大権現や三十番神社を祀っていました。三十番神社は暦応年中(1338~)に、甲斐出身の日蓮宗信徒、秋山家が建てたものでした。これについては、秋山家文書の中から寄進の記録が近年報告されています。
 一方、松尾寺は1570年頃に長尾大隅守の一族出身の宥雅が、一族の支援を受けて建立したお寺です。善通寺で修行した宥雅は、師から宥の字をもらつて宥雅と名乗り、善通寺の末寺の大麻山の称名院に入ります。松尾山の山麓に、称明院はありました。松尾山の山頂近くにある屏風岩の下には、滝寺もありましたが、この頃にはすでに廃絶していました。称名院に入った宥雅はここを拠点として、山腹にあつた三十番神社の近くに、廃絶していた滝寺の復興も込めて、新たに松尾寺を創建します。松尾寺の中心は観音堂で、現在の本堂付近に建立されます。

天狗面2カラー
金毘羅大権現に奉納された天狗面

 さらに宥雅は、元亀四年(1573)に、観音堂へ登る石段のかたわらに、金比羅堂を立てます。
この堂に安置されたのは金昆羅王赤如神を祭神とする薬師如来でした。しかし、長宗我部氏の侵攻で、宥雅は寺を捨てて堺に亡命を余儀なくされます。松尾寺には長宗我部元親の信頼の厚かった修験者の南光院が入って、宥厳と名乗り、讃岐平定の鎮守社の役割を担うことになります。宥厳のあとを、高野山から帰ってきた宥盛が継ぎます。宥厳・宥盛によつて、松尾寺は修験道化されていきます。こうして金毘羅信仰の中心である金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、修験道化によって黒眷族金毘羅坊という天狗におきかえられます。
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 初代金光院院主とされている宥盛の業績には大きい物があります。
その一つが松尾寺を修験道の拠点としたことです。彼は天狗信仰に凝り、死後は天狗として転生できるよう願って、次のような文字を自らに模した木像に掘り込んでいます。
「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月」
という文言を彫り込みます。ここには慶長十一年(1606)10月と記されています。そして翌々年に亡くなっています。
 天狗になりたいと願ったのは、天狗が不老不死の生死を超越した存在とされていたからだと研究者は考えているようです。

天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
金毘羅大権現と天狗達

『源平盛衰記』巻八には、次のように記されています。
「諸の智者学匠の、無道心にして騎慢の甚だしきなりこ其の無道心の智者の死すれば、必ず天魔と中す鬼に成り候。其の頭は天狗、身体は人にて左右の堂(生ひたり。前後百歳の事を悟つて通力あり。虚空を飛ぶこと隼の如し、仏法者なるが故に地獄には堕ちず。無道心なる故往生もせず゛必ず死ぬれば天狗道に堕すといへり。末世の僧皆無道心にして胎慢あるが故に、十が八九は必ず天魔にて、八宗の智者は皆天魔となるが故に、これをば天狗と申すなり」
象頭山天狗 飯綱

天狗は地獄にも堕ちず、往生もしない、生死を超越した不老不死の存在であると説かれています。天狗が生死を超えた不老不死の存在であったから宥盛は死後も天狗となって、松尾寺を永代にわたって守護しようと考えたのでしょう。この宥盛木像が、象頭山金剛坊という天狗として祀られることになります。
松尾寺の金毘羅大権現像
金毘羅大権現像(松尾寺)
木像はどんな姿をしていたのでしょうか?
木像を見た江戸中期の国学者、天野信景は『塩尻』に次のように記します。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや

意訳変換しておくと
讃州象頭山は金毘羅を祀る山である。その像は座しいて三尺余で僧形である。すさまじき面貌で、修験者のような頭巾をかぶり、手には羽団扇を持っている。薬師十二将の金毘羅像とは、まったく異なるものであった

「金毘羅山は海の神様で、クンピーラを祀る」というのが、当時の金毘羅大権現の藩に提出した公式見解でした。しかし、実際に祀られていたのは、初代院主宥盛(修験名金剛院)が天狗となった姿だったようです。当時の金毘羅大権現は天狗信仰が中心だったことがうかがえます。

 この木像はどんな霊験があるとされていたのでしょうか?
江戸時代中期の百科辞書である『和漢三才図会』(1715年に、浪華の吉林堂より刊行)には、次のように記されています。
相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

ここからは江戸時代中期には金毘羅大権現は天狗信仰で栄えていたことが分かります。その中心は宥盛木像であって、これを天狗として祀っていたのです。天狗として祀られた宥盛木像の手には、羽団扇がにぎられていました。これは「羽団扇をもつ天狗」としては、一番古いものになるようです。ここから羽床氏は「宥盛のもつ羽団扇が、天狗が羽団扇を使って空を飛ぶという伝説のルーツ」という仮説を提示するのです。
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「丸金」の丸亀団扇

羽団扇をもつ天狗姿が全国にどのように広がっていったのでしょうか?

天明年間(1781~9)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷がとなり合っていました。そのため江戸の留守居役瀬山重嘉は、中津藩の家中より団扇づくりを習って、藩士の副業として奨励します。以来、丸亀の団扇づくりは盛んとなったと伝えられます。丸亀―大阪間を「金毘羅羅舟」が結び、丸亀はその寄港地として繁栄するようになると、丸亀団扇は金毘羅参詣のみやげとして引っ張りだこになります。
 金毘羅大権現の天狗の手には、羽団扇がにぎられトレードマークになっていました。それが金昆羅参詣のみやげとして「丸金」団扇が全国に知られるようになります。それと、同じ時期に。天狗は羽団扇で飛行するという新しい「思想」が広まったのではないかと云うのです。
金毘羅大権現2
金毘羅大権現の足下に仕える天狗達
 
天狗が羽団扇で飛行するという「新思想」は、宥盛の象頭山金剛坊木像がもとになり、金昆羅参詣みやげの丸亀団扇とともに全国に広められたという説です。それを受けいれた富士宮本宮浅間神社の社紋は棕櫚(しゅろ)葉でした。そのためもともとは天狗の団扇は鷹羽団扇だったのが、棕櫚葉団扇が天狗の持物とされるようになったとも推測します。

  富士山を誉めるな。 - オセンタルカの太陽帝国
富士宮本宮浅間神社の社紋

  以上をまとめておくと
①古代の天狗は小天狗(烏天狗)だけで、羽根があって空を飛ぶ悪さ物というイメージであった。
②近世になると大天狗が登場し、天狗の「社会的地位の向上」がもたらされる
③大天狗が羽団扇を持って登場する姿は、金毘羅大権現の金剛坊(宥盛)の木像に由来するのではないか
④金毘羅土産の丸亀団扇と金剛木像が結びつけられて大天狗姿として全国に広がったのではないかい。
天狗の団扇

少し想像力が羽ばたきすぎているような気もしますが、魅力的な説です。特に、天狗信仰の拠点とされている金毘羅と、当時の金剛坊(宥盛)を関連づけて説明した文章には出会ったことがなかったので興味深く読ませてもらいました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像    ことひら56号(平成13年)

金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

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 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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   1讃州象頭山別当職歴代之記
上の史料は金毘羅大権現の系譜「讃州象頭山別当職歴代之記」です。一番右に、次のように記されています。
宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 
住職凡   応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄凡三百年余歴代系嗣不詳
ここには、松尾寺の初代別当を宥範としています。それから3百年間の歴代別当の系譜は「不詳」とします。そして、三百年後に2番目に挙げられるのが「法印宥遍」とあります。この宥遍という人物は、金毘羅さんの史料には見えない名前です。いったい何者なのでしょうか。それはおいておくとして、歴代の別当職をならべると
初代 宥範 → 2代 宥遍 → 3代 宥厳 → 4代 宥盛 → 5代 宥睨

となるようです。初代の宥範は、以前にも紹介しましたが「善通寺中興の祖」として、中讃地区では著名な人物でした。その宥範が金毘羅大権現の創始者とされたのでしょうか。それを今回は見ていこうと思います。テキストは「羽床雅彦  宥範松尾寺初代別当説は正か否か?  ことひら65号 平成22年」です

 宥雅と松尾寺創建  
松尾寺は16世紀後半に長尾家一族の宥雅が創建した寺でした。そして、その守護神として創始されたのが金毘羅神です。
長らく金刀比羅宮の学芸員を務められた松原秀明氏は、今から40年ほど前に、その著書「金昆羅信仰と修験道」の中で、次のように指摘しています。
「本宮再営棟札」と言われている元亀四年十一月二十七日の象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿の棟札に、
「当寺別当金光院権 少僧都宥雅」と見えている。その裏には「金毘羅堂建立本座鎮座」ともあって、この時はじめて、金毘羅大権現が松尾寺の一角に勧請されたのでないかと考えられる。」
 松原氏は、それまで「再営」とされてきた元亀四年(1573)の日付が記された棟札は、本宮「再営」ではなく「鎮座」で、金昆羅堂が創始された時のものであると主張したのです。さらに、松原秀明氏は「近世以前の史料は、金毘羅宮にはない」と「宣言」します。
印南敏秀氏もその著書の中で、次のように指摘します。
金毘羅の名が最初に登場するのは、元亀四年(1573)の金昆羅宝殿の棟札である。天文16年(1547)まで140年間続いた遣明船で祈られた航海守護の神仏の名が『戊子入明記』(天与清啓著、応仁二年(1468)には記されているが、そのなかには、金毘羅の名は見えない。ここには、住古大明神、伊勢大神宮、厳島大明、伊勢大神宮、厳島神社、不動明など、当時の神仏が列挙されている。金毘羅神は、それまではなく元亀4年ごろに初めて祀られたのかも知れない。
 住吉信仰から金毘羅信仰へ」(『海と列島文化 9 瀬戸内の海人文化』、 一九九一年、小学館発行)
  これは金毘羅宮の歴史は、古代にまで遡るものではないという立場表明です。金毘羅神は、近世になって宥雅によって新たに生み出されたのだという「金毘羅神=近世流行(はやり)神」説が認められるようになります。同時に、金毘羅大権現の形成も近世に始まると考えられるようになりました。16世紀末に松尾山(後の象頭山)に鎮座した金毘羅大権現が流行(はやり)神として急速に、発展していったことになります。
以後、研究者達が取り組んできた課題は次のようなものでした。
①金毘羅神が、いつ、誰によって創り出されたのか
②金毘羅神は、修験者の天狗信仰とどのような関係があるのか
③金毘羅神は、当初は海の神様とは関係がなかったのではないか
④金毘羅信仰の布教を行ったのは誰なのか
  近年に刊行された琴平町の町誌も、このような課題に答えようとする立場から書かれています。このような中で金毘羅神の創出を、讃岐に伝わる神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治の発展系であることを指摘したのが羽床正明氏です。
羽床氏は金毘羅神の創出、金比羅堂建立過程をどのようにみているのでしょうか
金昆羅堂の創建者は宥雅(俗名は長尾高広)です。これは最初に見たように、元亀四年の象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿の棟札で裏付けられます。宥雅はまんのう町長尾に居館を置き、その背後の西長尾城を拠点に勢力を拡大してきた在地武士の長尾大隅守高家の甥(弟?)でした。彼が悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったと羽床氏は考えています。
長尾高広(宥雅)は、空海誕生地とされる善通寺で修行したようです。
そのため「善通寺中興の祖=宥範」の名前から宥の字のついた「宥雅」と名乗るようになります。
称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺は現在の金毘羅宮神田のある「大西山」にあった寺院

そして、善通寺の奥の院であった称名院を任されるようになります。称名院は現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院で、道範の「南海流浪記」にも登場します。道範が訪れた時には九品僧侶の居住する阿弥陀信仰の念仏寺院だったようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅が入ったのは元亀元年(1570)頃と羽床氏は考えます。
1象頭山 地質

 称名寺の谷の上には、松尾山の霊域がありました。
ここは花崗岩の上に安山岩が乗った境で、花崗岩の上は急傾斜となり、窟なども多数あって修験者たちの行場ともなっていたようです。この霊地に宥雅は、新たな寺院を建立します。それを勢力増大著しい長尾氏一族も支援したようです。羽床氏の説を年表化すると以下のようになります。
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立
1573年  四段坂の下に金比羅堂建立
 松尾寺の中腹にあって荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。有名なものは何でも使おうとする姿勢がうかがえます。
 そして三十番社の祠のそばに観音堂(本堂)を建立します。つまり、松尾寺の本尊は観音さまだったようです。その後に、松尾寺の守護神を祀るお堂として建立されたのが金毘羅堂だったと研究者は考えているようです。
境内変遷図1

それでは金比羅堂は、どこに建てられたのでしょうか?
宥雅は「金毘羅王赤如神」は創造しましたが名前けの存在で、神像はつくられず、実際に本尊として祀られたのは薬師如来であったと羽床氏は考えているようです。
 ワニ神クンピーラの「化身」とされたのが宮毘羅大将です。宮毘羅大将が仕えるのは薬師如来です。こうして、金毘羅堂の本尊は、宮毘羅大将をはじめとする薬師十二神将を支配する薬師如来が安置されたようです。

1金毘羅大権現 創建期伽藍配置
現在の本宮がある所は、かつては松尾寺の本堂である観音堂がありました。
観音堂に続く四段坂という急な階段の下の北側に、最初の金毘羅堂は建てられたようです。それが元和九年(1623)には、現在旭社がある所に新たに新金昆羅堂がつくられます。その本尊が薬師如来だったためにいつの間にか薬師堂という呼び名が定着します。そのため「新金昆羅堂→薬師堂」となってしまいます。 新金毘羅堂ができると、それまでの旧金昆羅堂は役行者堂とされ、修験道の創始者役行者が祀られるようになります。ちなみに幕末になると、薬師堂(新金毘羅堂)をさらに大きく立派なものに建て直してすことになり、文化十年(1813)に二万両という寄進により建立されたのが「金堂(現旭社)」になるようです。落慶法要の際には、金堂には立派な薬師如来と薬師十二神将が安置されていたようです。これも明治の廃仏毀釈で、オークションに掛けられ売り払われてしまいました。金刀比羅宮で一番大きな木造建造物の金堂は、明治以後は旭社と呼ばれ、いまはがらんどうになっています。
「金比羅堂 → 薬師堂 → 金堂 → 旭社」の変遷を追いかけ過ぎたようです。話を宥雅にもどしましょう。
 宥雅の松尾寺建立事業に影響を与えた人物が宥範であると、羽床氏は考えます。
 善通寺で修行した宥雅にとって、宥範は憧れのスーパースターです。宥範は、当時の中讃地域においては空海に次ぐ知名度があった僧侶のようです。宥範の弟子の宥源が著した『宥範縁起』を、宥雅は書写しています。宥範が善通寺復興のために勧進僧として、日本各地の寺を訪れ活躍したことをよく知っていました。宥範のように新たな寺を作り出すというのが彼の夢として膨らんだとしておきましょう。それを実行に移すだけのパトロンが彼にはいました。それが西長尾城の長尾一族です。宥雅の松尾山に新たな寺院を建立し、庶民信仰の流行神を祀るという夢が動き出し始めます。
金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「松尾寺=金比羅寺」の開祖にするための「工作」について見てみましょう。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていて、松尾寺や金毘羅の名は出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
意訳変換しておくと
「善通寺の宥範は、姓は岩野氏で、讃州那賀(仲郡)の人である。…そこで、猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。すると、神が現れて日く、「我は天竺の神である、摩但哩(理)神和尚を加持して、霊山の霊力を贈ろう。…その後、宥範は金毘羅(松尾寺)を開き、禅坐し修学に励んだ。そして寛(観)庶三年(1352)七月初朔、83歳で亡くなった」
ここでは、「宥範が「幼年期に松尾寺のある松尾山に登って金比羅神に祈った」ことが加筆挿入されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせるやり方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、書き留められています。「古い反故にされた紙に書かれていたものを写した」というのです。このように宥雅が、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。
 宥雅は松尾寺本堂には十一面観音立像の古仏(平安時代後期)を安置したと羽床氏は考えます。この観音さまは、道範の『南海流浪記』に出てくる称名寺の本尊を移したものであり、もともとは、麓にあった小滝寺(称名寺)の本尊であったとします。
 尊敬する宥範は、かつては称名寺に住んでいたと『宥範縁起』には記されています。
ここから宥雅は、宥範を松尾寺の初代別当とする系譜をつくりだします。そして、現在書院がある所に宥範の墓をつくり、石工に宥範が初代別当であると彫らせます。こうして宥雅による「金光院初代別当=宥範」工作は完了します。
こうして最初に見た「讃州象頭山別当職歴代之記』には、松尾寺の初代別当の宥範であると記されるようになります。ここまでは宥雅の思い通りだったでしょう。四国霊場の多くの寺が、その縁起を「行基開山 弘法大師 中興」とするように、松尾寺も「宥範開山 宥雅中興」とされる筈でした。
羽床雅彦氏は、宥雅によって進められた松尾寺建立計画を次のように整理します
①松尾寺上の房 現本社周辺で三十番社・本堂(観音堂)・金比羅堂
②松尾寺下の房 図書館の上 称名院周辺
 ①と②の上の坊と下の坊を合わせた松尾寺が、宥雅によって新しく姿を見せたのです。
それでは、宥雅が歴代院主の中に入っていないのは何故でしょうか?
文政二年(1819)に書かれた『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)には、次のように記されています。
宥珂(宥雅)上人様
当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳。高家処々取合之節加勢有し之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持レ之、泉州堺へ御落去。故二御一代之列二不入レ云。
意訳変換しておくと
宥雅様は讃岐の西長尾城主である長尾大隅守高家の甥にあたる。金光院に入ったのは、いつか分からないが、土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入し、長尾高家と争った際に、長尾方に加勢したため、戦が不利になると、当山の旧記や宝物の過半を持って、泉州堺へ亡命した。そのため当山の歴代院主には入れていないと云われる。

 ここからは宥雅が建立したばかりの松尾寺を捨て置いて、堺に亡命を余儀なくされたことが分かります。同時に、金毘羅大権現の旧記や宝物の過半を持ち去ったという汚名も着せられています。そのため歴代院主には入れられなかったというのです。
それでは主がいなくなった松尾寺は、どうなったのでしょうか?
土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」

意訳変換しておくと
大隅南光院の祖は、讃州の金毘羅にいたところ、元親公の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは、慶長年中(1596~)に南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたことが分かります。寺山(延光寺)は現在の四国霊場で、土佐の有力な修験道の拠点でした。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は、無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していたことは以前にお話ししました。こうして松尾寺は、元親に従軍していた土佐足摺の修験者である南光院に与えられます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺を元親の讃岐支配のための宗教センターとして機能させていきます。それに協力したのが高野山から帰ってきた宥盛です。宥雅からすれば、南光坊(宥厳)や宥盛は長宗我部氏の軍事力を後ろ盾にして、松尾寺を乗っ取った張本人ということになります。
 慶長五年(1600)元親から延光寺を賜った宥厳は土佐に帰ります。替わって弟子の宥盛が別当になります。慶長十年(1605)宥厳は亡くなり、宥盛は、先師宥厳の冥福書提を祈って如意輪観音像を作っています。
 これに対して宥雅は松尾寺返還を求めて、領主である生駒家に宥盛の非をあげて訴え出ています。
この経過は以前にお話ししましたので省略します。結果は宥盛は生駒家の家臣であった井上四郎右衛門家知の子であったためか、宥雅の訴えは却下されます。宥雅の完全敗訴だったようです。
松尾寺に帰ることができなくなった宥雅のその後は、どうなったのでしょうか?
 羽床雅彦氏は、野原郷(高松市)に移っていた無量寿院に寄留したと考えているようです。この時宥雅は、56才になっています。このような宥雅に対して宥盛は次のように指弾します。
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」

と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしい働きぶりです。これが後の正史には評価され、金毘羅大権現の実質的な「創始者」として扱われます。宥盛は、今は神として奥社に祀られます。
 一方、金毘羅神を生み出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
以上をまとめると、
①松尾寺初代別当とされる宥範僧正は松尾寺初代別当ではなかった
②松尾寺の初代別当は長尾氏出身の宥雅だった。
③宥雅が宥範を松尾寺初代別当にしたのは、新しく創設された松尾寺や金毘羅堂の箔を付けるために宥範という著名人のネームバリューが欲しかったためだった
④松尾寺を創建した宥雅は、土佐の長宗我部元親の侵入時に堺に亡命した
⑤長宗我部撤退後に、院主となっていた宥盛を訴えて裁判を起こしたが全面敗訴となった
⑥宥盛は後の世から実質的な創始者とされ、宥盛に背いた宥雅は正史から抹殺された。
 宥盛が金毘羅神の創始者であり、金比羅堂の創建者であることは事実のようです。歴史的には、金毘羅大権現の創始者は宥雅だと云えるようです。
 正史は、次のように記されています 
初代宥範 → 二代宥遍 → 三代宥厳 → 四代宥盛   

 しかし、本当の院主は
初代宥雅 → 二代宥厳 → 三代宥盛 → 

とするのが正しい系譜であると研究者は考えているようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
       「羽床雅彦  宥範松尾寺初代別当説は正か否か?  ことひら65号 平成22年」です
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 江戸時代も半ば以後になって、金毘羅の名が世間に広がると、各地で金毘羅の贋開帳が行なわれるようになります。紛らわしい本尊を祀り、札守や縁起の刷物などを売り出す者が次々と現れます。別当金光院は、高松藩を通じてその地の領主にかけ合って、すぐ中止させるように働きかけています。しかし、焼け石に水状態だったようです。そこで宝暦十年(1763)には「日本一社」の綸旨をいただきますが、それでも決定的な防止策にはならず贋開帳は止まなかったようです。

DSC01156日本一社綸旨
金毘羅大権現「日本一社」の綸旨

 贋開帳を行っていたのは、どんな人たちなのでしょうか。
多くは修験系統の寺院や行者だったようです。
「金刀比羅宮史料」から贋開帳を年代順に見てみましょう。
①明暦2年、讃岐丸亀の長寿院という山伏が、長門(現山口県)で象頭山の名を馳ったので、吟味のうえ、以後こういうことはしないという神文を納めさせた。
②享保6年4月、江戸谷中の修験長久院で、金毘羅飯綱不動と云って開帳したので、高松藩江戸屋敷へ願い出、御添使者から寺社奉行へ願い出て停止させた。
③寛保2年11月、伊予温泉郡吉田村の修験大谷山不動院で、金毘羅の贋開帳。
④天保6年10月、阿波州津村箸蔵寺が、金毘羅のすぐ隣りの苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現並びに金毘羅大権現といって開帳。11月には、箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現奥の院といって開帳した。翌7年6月、箸蔵に出向いて調べた使者の報告では、神体は岩屋で、別に神像はなかったとのこと。
⑤同15年、箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
弘化2年4月、贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。嘉永4年、箸蔵寺、再度贋開帳。
⑥安政4年、備後尾道の修験仙良院、浮御堂において開帳、札守を出したので、同所役人に掛合い、金毘羅の神号の付いたもの一切を受取り、以前の通り神変大菩薩と改めさせた。
⑦安政5年4月、京都湛町大宮修験妙蔵院、京都丸亀屋敷の金毘羅へ毎月十日、諸人が参詣の節、開帳札のよりなものを指出す由の注進があった。
⑧同年十月。泉州堺の修験清寿院で開帳、同所役に掛合い、神体、札守の版木など、早速に引渡される。
贋開帳事件の中でも、箸蔵寺は執拗で事件が長期にわたったようです。
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箸蔵寺山門
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。
「箸蔵寺縁起」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「当山は弘法大師金毘羅権現と御契約の地にして」
「吾は此巌窟に跡を垂る宮毘羅大将にして北東象頭の山へ日夜春属と共に往来せり」
 ここでは、空海が金毘羅さんの奥社として箸蔵山を開いたとします。そして、金比羅神は箸蔵寺から象頭山へ毎日通っていると縁起では説くのです。
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箸蔵寺山門
  箸蔵寺については、本尊薬師如来の信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が安堵されていたことより外、ほとんど分かっていないようです。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺のようです。成長戦略に、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったようです。箸蔵寺は、次のような広報戦略を展開します。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
 そして、10月10日の金毘羅祭に使われた膳部の箸が、その晩のうちに箸蔵寺へ運ばれて行くという話などを広げていきます。それに伴って人々の間に「箸蔵寺は金毘羅奥の院」という俗信仰は拡大します。

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 箸蔵寺山門の大草鞋
 そして先に見た通り箸蔵寺は、金毘羅大権現の贋開帳を行うようになります。そのため何度も本家のこんぴらさんに訴えられます。その都度、藩からの指導を受けています。記録に残っているだけでも贋開帳事件の責任をとって、院主が二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。嘉永二年には、箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行っていた所を多度津藩によって、召捕えられています。
 このような「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説を広げたのも箸蔵寺の修験者たちだったようです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことがうかがえます。

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箸蔵寺参道に現れた天狗(山伏)
財田町史には、箸蔵の修験者たちが山伏寺を財田各地に開き布教活動を行っていたことが報告されています。彼らは財田から二軒茶屋を越えての箸蔵街道の整備や丁石設置も行っていたようです。
讃岐の信徒を箸蔵寺に先達として信者を連れてくるばかりでなく、地域に定着して里寺(山伏寺)の住職になっていく山伏もいたようです。このような修験者(山伏)は、金毘羅さん周辺にもたくさんいたのでしょう。彼らは象頭山で修行し、金比羅行者として全国に散らばり金毘羅信仰を広げる役割を果たしたのではないかと私は考えています。 
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箸蔵寺本堂
贋開帳を行う人たちに、なぜ修験者が多かったのでしょうか?
まず考えられることは、金毘羅神が異国から飛来した神と伝えられたことにあるようです。
金比羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座し、その形儀は修験者であり、権現の化身であると説かれました。金比羅神が、どのような姿で祀られていたのかを、3つの記録で比べてみましょう
 ①天和二年の岡西惟中「一時軒随筆」
金毘羅は.もと天竺の神 飛来して此山に住給ふ 釈迦説法の守護神也。形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也 巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也 本地は不動明王也とぞ 二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也
意訳すると
金比羅神は、もとは天竺インドの神である。飛来して、この山に住むようになった。釈迦説法の守護神で、形は頭に頭巾をつけ、左手に数珠、右手に檜扇を持つ。頭巾は五智宝冠と同じで、数珠は羂索、扇は剣を意味し、本地物は不動明王とされる。伎楽、伎芸という二人の脇士を従える。これは金比羅と勢陀伽権現の化身である。
 
「一時軒随筆」の作者である岡西惟中は、談林派の俳人として名高い人物です。彼は、この記事を当時の別当金光院住職宥栄から直接聞いた話であると断っています。それから150年経った時期に、金光院の当局者が残した「金毘羅一山御規則書」にも、まったく同じことが記されていることが分かります。
②延享年間成立の増田休意「翁躯夜話」
 象頭山(中略)此山奉二金毘羅神(中略)
此神自二摩詞陀国一飛来、降二臨此山釈尊出世之時為レ守二護仏法‘同出二現于天竺(中略)
而釈尊入涅槃之後分二取仏舎利 以来ニ此土 現在二此山霊窟矣 頭上戴勝、五智宝冠也(中略)
左手持二念珠縛索也、右手執一笏子利剣也 本地不動明王之応化、金剛手菩薩之工堡 左右廼名一及楽伎芸 金伽羅制哩迦也
②の「翁躯夜話」は、高松藩主松平頼恭によって「讃州府志」の名を与えられたほどですから、信用は高い書物とされます。これらの2つの資料が一致して
「生身は岩窟に鎮座ましまし、御神鉢は頭巾を頂き、珠数と檜扇を持ち、脇士に伎楽・伎芸がいる」
と記します。
  ③「金毘羅一山御規則書」

抑当山金毘羅大権現者、往古月支国より飛来したまひて
(中略)
釈迦如来説法の時は西天に出現して於王舎城仏法を守護し給ふ(中略)其後仏舎利を持して本朝に来臨し給ふ 生身は山の岫石窟の中に御座まし(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 優婆塞形也 但今時之山伏のことく 持物者 左之手二念珠 右之手二檜扇を持し給ふ 左手之念珠ハ索 右之手之檜扇ハ剣卜中習し侯権現御本地ハ 不動明王
 権現之左右二両児有伎楽伎芸と云也伎楽 今伽羅童子伎芸制吐迦童子と申伝侯也 権現自木像を彫み給ふと云々今内陣の神鉢是也
 意訳変換しておくと
そもそも当山の金毘羅大権現は、往古に月支国より飛来したもので(中略)釈迦如来説法の時には西天に出現して、王舎城で仏法を守護していた。(中略)
その後に仏舎利を持って、本朝にやってきて生身は山の石窟の中に鎮座した。(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 その姿は優婆塞の形である。今の山伏のように、持物は左手に念珠、右手に檜扇を持っている。左手の念珠は索、右手の檜扇は剣と伝えられ、権現の御本地は不動明王である。
 権現の左右には、両児がいて伎楽と伎芸と云う。伎楽は伽羅童子、伎芸は吐迦童子と伝えられる。権現は自から木像を彫み作られた云われ、今は内陣の神鉢として安置されている。

3つの史料からは、金毘羅大権現に祀られていた金毘羅神は、役行者像や蔵王権現とよく似た修験の神の姿をしていたことが分かります。また「飛来した神」ということからも、飛行する天狗が連想されます
 各地の修験者たちにとって、このような金毘羅神の姿は「親近感」のある「習合」しやすい神であったようです。それが、数多くの贋開帳を招く原因となったと研究者は考えています。
 どちらにしても、金比羅神を新たに創り出した象頭山の修験者たちは、孤立した存在ではありませんでした。当時の修験者ネットワークの讃岐の拠点のひとつが象頭山で、そこにインドから飛来してきたという流行神である金比羅神を「創造」し、宥盛の手彫りの像と「習合」したようです。

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箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬
 その成功を見た山伏ネットワーク上の同業者たちが、それを金毘羅さんの「奥社」とか「両参り」を広告戦略として、その一端に連なろうとします。当然のように、贋開帳もおきます。また別の形としては讃岐の金比羅神を地元に勧進し、金毘羅大権現の分社を作り出していく動きとなったようです。全国に広がる金比羅神が海に関係のない山の中まで広がっているのは、山伏ネットワークを通じての金比羅行者の布教活動の成果のようです。「海の守り神 こんぴらさん」というイメージが定着するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅山は全国の修験道者からは、山伏の運営する天狗信仰の山という目で見られていたと研究者は考えています。
参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道



4 松尾寺

 琴平町の金丸座の下にある真言宗松尾寺は、現在でも「金毘羅大権現を祀る寺」という看板を掲げています。
松尾寺
明治の神仏分離の際に、象頭山金毘羅大権現の別当寺の金光院や塔頭の僧侶が還俗し、神社化するなかで、松尾寺(普門院)は時流に従わずに金毘羅大権現を仏式で祀り続けようとします。そのため松尾寺と金毘羅宮の間では、明治末に裁判にもなっています。
 神仏分離の廃仏毀釈の際には、山内の諸堂宇にあった仏さんのいくつかが難を逃れて「避難」してきています。その中に、弘法大師坐像があります。調査の結果、この像の内側には造立銘記が発見されました。そこから文保三年(1319)正月に二人の仏師によって作られたことも分かってきました。今回は、この弘法大師座像をみていくことにします。
テキストは 「三好 賢子  松尾寺木造弘法大師坐像について 県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年」です。この報告書を片手に見ていくことにします。 
予備知識として、次の4点を抑えておきます。
①銘がある弘法大師像としては、県内最古のもの
②後世に表面を彩色され、本来の風貌からやや遠のいている
③しかし、まなざしが穏やかで、他の像にはない温和な親しみやすい顔立ちである
④平成21年3月に、県指定有形文化財の指定を受けた。
4 松尾寺弘法大師座像

まずは全体像について、テキストには次のように記されています。
 椅子式の林座に践坐する通例の弘法大師像で、胸をはって上体を起こし、顔は正面を向き、視線をやや下方に落とす。頭部は円頂、後頭部下位はわずかに隆起し、首元はなだらかにつくる。鼻は鼻先の丸みが強く、鼻孔をあらわし、口は小さめで唇も薄く、一文字に結ぶ。
右手は強い角度で屈腎して胸前で五鈷杵をとり、左手は膝上におろして数珠をとる。
着衣は、内から覆肩衣、措、袈裟をまとう。覆肩衣は領を重ね合わし、ゆるくつきあわせて胸元を大きくひらく。腹部中央に祖を結びとめる紐をのぞかせる。左肩にはまわしかけた袈裟をとめる鈎紐をあらわす。
体幹部の正中線からみて頭部はやや左に傾いている。眉はわずかな稜線でうっすらとあらわされ、彩色が落ちた現状では眉の存在を捉えにくい。鼻はそれほど高くなく、鼻先が肉づさのよい団子鼻であり、目が上瞼線をゆるやかに下げ、耳や眉とともに左右非対称であることなどもあって、理想的に整えられた顔というよりは、現実的に存在するかのような人間味をもった顔貌である。 
【品質構造】
 ヒノキ材 寄木造 玉眼嵌入 本堅地彩色仕上げ
 空海の統合性(一)|高橋憲吾のページ -エンサイクロメディア空海-

 空海の肖像(御影)は、「真如親王様」と呼ばれる形式が多いようです。真如親王が書いたと云われる高野山御影堂の根本像のスタイルです。それは、やや右を向いて(画面では向かって左へ顔をむける)椅子式の鉢座に座って、左手に五鈷杵、右手に数珠をとる姿です。
 彫像も真如親王様のスタイルが多いようですが、向きが横ではなく正面を向くものがほとんどです。しかし、彫刻は、生きて永久の瞑想に入ったとする入定信仰を、具体的に意識させるために正面に向けた姿となっていることが多いようです。

4 松尾寺弘法大師座像2
 この像も、着衣方法などは真如親王様と同じで、テキストは次のように解説します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。
 胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。

 研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれないと云うのです。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」

このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。

  さて、この像の面白いのはここからです。  像の底です。
一木造りではなく、いろいろな木が寄せられて作られている寄木造りあることが、板から見るとよく分かります。内部は空洞で、底が半月型の底板がはめられていたようです。これは、後世にはめられたします。
4 松尾寺弘法大師座像3

その底板を外して中を見ると・・・・
4 松尾寺弘法大師座像4

びっしと文字が書かれています。墨書銘です。そして、この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が記されていました。
 まず、体内に書かれた墨書名は見てみましょう。
4 松尾寺弘法大師座像t体内銘4
    
 文字は、像の背面部を、平らに彫り整えたところへ墨書されています。筆は一貫していて、制作当初の造像記とみて間違いないと研究者は判断します。一番右側の一行が「讃岐国 仲郡善福寺 御木願主」と見えます。
ここには次のように記されていました。
 讃岐国 仲郡善福寺 御木願主
     弘法大師御形像壹鉢
右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白 
大願主夏衆 偕行慶 偕宗円
文保三年己未正月十四日造立始之
大佛師唐橋法印門弟           
    法眼定祐
   小佛師兵部公定弁
 像の内部の造立銘記を見ていきましょう。
先ほど見たように「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。最初にあれ?と思うのは。願主が「善寺」でなく「善寺」なのです。この寺は、角川地名辞典やグーグル検索でも出てきません。史料にも出てこない、私の知らない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
 研究者は「讃岐国仲郡善福寺御本願主」は「弘法大師」にかかる修辞句で「善福寺本願主の弘法大師」となるとします。善福寺という寺は弘法大師を本願主とする由緒をもっていたことになります。ここからは、願主は善福寺までは分かりますが、作られた本像がどこへ安置されたのかは分かりません。どうして、善福寺が大師本願寺だという由緒だけを書く必要があるのでしょうか。安置先が書かれないのは不自然です。
 研究者は、銘記の書き振りを再度確認し「讃岐国仲郡」「善福寺」「御本願主」の語句それぞれは間をやや離して記されていることに注目します。そして「讃岐国仲郡善福寺」「善福寺御本願主」と二つの語句を記すところを、「善福寺」の語が重なるのを避けたのではないかという「仮説」を出しています。そして「讃岐国仲郡善福寺、当寺御本願主」と理解し、弘法大師本願の善福寺が、自分の寺に安置したとします。しかし、この善福寺についてはこれ以上は分かりません。

造られた年については「文保三年(1319)己未正月十四日造立始之」とあります。
当時の仲郡や多度郡の宗教界の様子を年表で見ておきましょう。
1300 正安2 3・7 本山寺(現,豊中町)本堂(国宝),造営される.
1307 徳治2 11・- 善通寺の百姓ら,寺領一円保の絵図を携え,本寺随心院へ列参する
1308 延慶1 3・1 金蔵寺,火災にあい,金堂・新御影堂・講堂以下の堂舎が焼失する
   この年 僧宥範,善通寺東北院に入る(贈僧正宥範発心求法縁起)
1310 延慶3 3・- 善通寺蔵銅造阿弥陀如来立像,鋳造される.
1312 正和1 10・8 三野郡本山寺二天像,造り始める.130日で完成
1324 正中1 この年 白峯寺十三重塔.建立される.
1326 嘉暦1 この年 熊手八幡宮(現,多度津町)五輪塔,建立される.
1330 元徳2 4・8 僧隆憲,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院本堂の再建
1336 建武3 2・15 足利尊氏,那珂郡櫛無社地頭職を善通寺誕生院宥範に寄進
1341 暦応4 7・20 守護細川顕氏,宥範に善通寺誕生院住持職を安堵
1338~42      善通寺誕生院宥範,善通寺五重塔などの諸堂を再興

すぐに気がつくのは、現在の四国霊場の本山寺の本堂が建てられ、二天像が造られるなど活発な造営活動を展開しています。それ以上に目立つのが善通寺です。14世紀の前半は、宥範が登場し、善通寺の復興を進めている時です。この弘法大師像が造られたのも、中世の善通寺ルネサンス運動の流れの中でのことのようです。

願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。
これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、夏安居の修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。
②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、体内に造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたと研究者は考えているようです。

4 松尾寺弘法大師座像5

 次にこの像を作った仏師について見てみましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分かりません。

体内からは,木製の五輪塔が出てきました。
4 松尾寺弘法大師座像体内五輪塔4
四本出てきたのではありません。それぞれ別の角度から写しています。一番右側の正面に書かれた文字を見てみましょう。
まず上から梵字五字でキャ、カ、ラ、バ、ア)で、五輪法界真言で。東方のことのようです。
その下に
権大僧都宥盛逆修 善根 

とあります。宥盛と云えば、金毘羅さんの正史が金毘羅大権現の開祖とする人物です。現在の金毘羅宮でも、その功績をたたえて彼を神として、奥社に祀っています。奥社に祀られているのは、宥盛です。
  これが入れられたのは、いつなのでしょうか?
「右側面」には、梵字五字で北方と記され、その下に
慶長九(1604)年甲辰三月廿一日敬白

と記されています。宥盛の活躍した年代とぴったりとあいます。
 これはいったいどういうこと? どうして宥盛の名前が入った五輪塔がでてくるのでしょうか。
五輪塔と一緒に二つ折りにして収められていたのが次の文書です。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4

  これも分かりやすい字体で、私にも読めそうな気がするくらいです。花押と重なっていますが、その上の二文字は宥盛と読めます。研究者は、先ほど見た五輪塔とこの文書の筆跡は同一人物だと判断しています。つまり、宥盛自筆の文書であり、宥盛の花押ということになります。ふたつは、慶長九年(1604)、空海忌日の3月21日に、金光院住職宥盛が書いたものにまちがいないようです。

木製五輪塔の納入文書にの内容を見てみましょう
 敬白真言教主大日如来両部界会一切三宝境界而
 奉採造弘法大師一鉢並三間四面御影堂一宇常山中古開山沙門権大
 僧都法印宥盛令法久住志深而偏咸端権現御前カタメ祈諸佛
 加被権現御前ヒレフス或時権現有御納受神変奇特顕ワル
 誠照不思儀一天是故一拝暫所望起叶悉地壹不崇哉不可仰
 々々々文爰貴賤上下投金銀弥財事春雨之閏似草木
 爰以僧都宥盛無比誓願ヲマシテ堂社佛閣建寺塔
 造佛像常山一カ建立畢如斯留授縁待慈尊成
 道春而已
   于時慶長九甲辰三月廿一口]常山中古開山沙門法印宥盛
                      (花押)
  奉供養佛舎利全粒二世安全所
これを入れたのは、先ほど見たように、象頭山金光院の宥盛です。
弘法大師像に奉採造(彩色)し、併せて三間四間の御影堂を山内に再建したとあります。その際に、宥盛自らが金毘羅大権現の御前で諸仏に祈ったようです。ここからは、弘法大師像が再興(本当は新建立?)された御影堂本尊として開眼されたことが分かります。「奉採造」とあるので、今の表面彩色は、この時に施されたようです。 

この像の足取りを整理しておきましょう
①弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置
②慶長九年(1604)、金光院住職宥盛によって新しく建立された御影堂の本尊として再デビューした。その時にお色直しされた。
ということでしょうか。
次の疑問は、どうして、金毘羅大権現にやってきたのかということです
  「仏像は栄えるお寺に自然と集まる。それは財力のあるお寺なので、集まってきた仏さんたちのお堂をつくることもできる。いまの四国霊場のお寺が良い例ですわ」

というのが私の師匠の言葉です。この大師さんは、善福寺が廃寺となり、勢いの出てきた金光院に移ってきたようです。それが宥盛の時代であったという所が私には引っかかります。
 金光院の宥盛について「復習」し、ひとつのストーリーを考えます。
流行神としての金比羅神を造りだし、金比羅堂を建立したのは、長尾城主の弟と云われる宥雅でした。しかし、宥雅は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命を余儀なくされます。変わって金光院院主の座についたのは、元親に従っていた土佐出身の修験者宥厳でした。土佐勢が引き上げ、宥厳も亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、堺に亡命していた宥雅は、後を継いでいた宥盛を生駒藩に訴えます。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた金比羅堂のお金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。新興勢力の金光院が成り上がっていくためには、山内における「権力闘争」を避けることができなかったことは以前お話ししました。
 このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのです。宥盛の金光院を発展させるための闘争心を感じます。当時に「無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った」という宥雅の指弾からは、追放したり、廃寺に追い込んだ寺から仏像・仏具類の「財宝」を「収奪」したことがうかがえます。善福寺から奪ってきた弘法大師像を本尊として、新たな信仰施設を「増設」したのではないかとも思えてきます。
 当時の宥盛の布教活動は、非常に活発なものであったようです。金比羅神は何にでも権化する神なのです。それは、時として弘法大師にも権化したのかもしれません。

  大師堂は明治維新まで境内にあったようです。
志度の多和神社社人で高松藩皇学寮の教授であった松岡調が、金刀比羅宮に参詣したおりのことを『年々日記』に記しています。明治二年(1869)四月十二日条によると、神仏分離で神社化の進む境内を見て
「護摩堂・大師堂なと行見に内に檀一つさへなけれ

と記しています。ここからは大師堂はあったことが分かります。しかし、その中に安置されていた弘法大師像は、この時すでに外へ移されていたようです。「内に檀一つさへなけれ」と堂内は空っぽだったと伝えます。
 松岡調は、翌年には金刀比羅宮の禰宜に就任し、実質的な運営を彼が行うようになります。
明治5年5月になると、県にお伺いを立てて「入札競売を行い、売れ残った仏像・仏具は焼却処分にして宜しいか」と、問い合わせています。そして、県からの許可を得た6月末から仏像仏具などの競売が行われます。
松岡調の『年々日記』の明治5年6月から7月にかけては、次のような記述があります。(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕
6月5日 今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり
7月10日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ   
7月11日 御守所へものセり、十字(時)のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、

7月19日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、
7月21日 御守処へものセり、今日又商人つとひ来て、とかく云のヽしれハ、入札と云事をものして、刀、槍、鎧の類を金三十両にてうり、昨日庁へ書出セしを残置て、其余のか百幅にもあまれるを百八十両にてうり、又大般若経(大箱六百巻)を三十五両にて売りたり、今日にてワか神庫の冗物ハ、大かたに売ハてたり  
    
7月23日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり

 ここには具体的に買手がついたものとして、次のようなものが挙げられています。
①梵鐘が、榎井村の行(法)泉寺へ227円50銭で
②両界曼荼羅が善通寺へ金20両で
③刀、槍、鎧の類が金三十両で落札され
④万燈堂にあった大日入来の銅像は金六百両で
 そして買い手のなかった仏像・仏具類は焼却されます。この中に、松尾寺の弘法大師像は入っていなかったのです。
どのようにして松尾寺にもたらされたのでしょうか?
①松尾寺が入札し、買い受けた
②混乱の中で密かに、松尾寺に運び入れた。
先ほどの入札売買リストの中に弘法大師像はありませんでした。それ以前に、すでに松尾寺に運び込まれていたのかもしれません。
最後に、この座像のたどった道をまとめておきます。
①14世紀に善福寺
②17世紀初頭に金毘羅大権現の金光院へ 
③明治の神仏分離で松尾寺へ
という変遷になるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 三好賢子 松尾寺木造造弘法大師坐像について
    県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

C-23-1 (1)
 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
20157817542
つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

戦国時代末期の金毘羅山内は?
 そこには観音堂・釈迦堂・金比羅堂・三十番社・松尾寺などの諸堂が建ち並び並立する状態でした。その中心は観音さまを本尊とする観音堂=松尾寺でした。そして、この観音堂を守る守護神が三十番社だったようです。
正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保年間 江戸時代初期の金毘羅大権現の宗教空間
そのような中で地元の有力武将である長尾氏出身の修験僧・宥雅が一族の支援を受けて、観音堂の下に金比羅堂を建立します。そこには、讃留霊王の悪魚退治伝説から作り出された守護神・金毘羅神が祀つられるようになります。そして、宥雅はこの金比羅堂の別当として、金光院を開きます。これが金毘羅大権現のスタートです。
 ところで「別当」(べっとう)は、なんなのでしょうか?
 平安末期からの神仏習合では「神が仏を守る」「神が仏に仕える」という「仏が主で、神が従」という考えが広がります。具体的な例としては、東大寺を守るために宇佐から勧進された八幡神が挙げられます。そして、神社を管理するために寺が置かれるようになり、神前読経など神社の祭祀を仏式で行うようになります。その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだのです。ここから別当の居る寺を、別当寺と呼ぶようになります。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同じです。
 別当とは、すなわち「別に当たる」であり
「仏に仕えるのが本職である僧侶が、神職の仕事も兼務する」
という意味になるのでしょうか。
 次第に「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて、僧侶が入り込み渾然一体となっていきます。こうして神社で最も権力をもつのは別当(僧侶)であり、宮司はその下に置かれるようになっていきます。
 神道においては、祭神は偶像崇拝ではありません。
つまり目に見えないのです。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝します。別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝できることになります。神社側にもメリットが多かったのです。
別当が置かれたからといって、その神社が仏式になったということではありません。
宮司は神式に則った祭祀を行い、別当は本地仏に対して仏式で勤行する「分業」が行われたのです。信者は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行ったのです。つまり、お経を唱えながら、神事祭礼が行われたのです。こんなことは神仏分離以前は、普通の信仰形態だったのです。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなります。
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金比羅堂の別当であった金光院住職・宥盛の戦略は?
   関ヶ原の戦いが終わって、幕藩体制が整えられていくころに金比羅堂の別当となったのは金光院住職の宥盛でした。彼は、仙石権兵衛・生駒親正・一正・正俊の歴代領主から社領の寄進を受け、金毘羅さんの経済的基盤を確立します。
宥盛が背負った課題のひとつが金比羅堂の祭礼を創出することでした。
金比羅堂は宥雅によって建てられたもので、招来したインドの蕃神金比羅神を祀った新来の神でしたので、信者集団が組織されていませんでした。そこで、宥盛が行ったのが三十番社の祭祀を、金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」して祭礼儀式を整えることです。三十番社からすれば、御八講の神事・祭礼を金比羅堂に奪われていくことになります。これに対して、三十番社の社人たちの金光院に対する不満は、次第に高まっていきますい。

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宥盛を鉄砲で殺そうとした三十番社の社人・才太夫  
 金毘羅宮の縁起によると
「金毘羅大権現が入定した廓窟の中に仏舎利と金写の法華経が龍め置かれている」

と伝えられます。この法華経の守り神として三十番神が祀られ、その神殿が観音堂の近くに建てられていました。才太夫は、この三十番神社の社人を勤めていました。生駒家のバックアップを受けた金光院の宥盛の勢いが強くなり、祭祀の改変整備などで三十番社の立場は弱くなり、その収入も減少していきます。つまり、台頭する金毘羅堂、衰退する三十番社という構図です。
 こうした不満が爆発したのが慶長年間、生駒一正が藩主であった頃(1610頃)のことです。
才太夫は、金光院から大権現社に参詣しようとして参道を進んでいた宥盛に鉄砲を射ちかけたのです。が、暗殺未遂に終わり、宥盛を倒すことはできませんでした。才太夫は宥盛の手の者によって捕えられ、一族や関係者の人々と共に高松へ送られて生駒家の手で斬罪に処せられます。今風に言うと
「神に仕える社人による仏に仕える僧侶への殺人未遂事件」
です。
なぜ、殺意を抱くほどに才太夫は、宥盛を憎んでいたのでしょう。ここには、三十番社と金光院との対立が背景にあったようです。

正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保時代の宗教的空間 ①大夫屋敷が神職王尾家

新たに三十番社の社人となった王尾氏について 

この事件で、三十番神の神事を勤める社人がいなくなってしまいました。そこで宥盛は、五條村の大井八幡神社の社人であった王尾市良太夫を、三十番神の神役を兼帯させることにします。
 市良太夫は、長男の松太夫が十四歳の時に妻を失いましたが、数人の子供があったので後妻を迎えます。やがてこの後妻に権太夫・吉左衛門などの子供が生まれるのです。市良太夫は病いのために亡くなる直前に、複雑な家庭の将来を考えてこまごまとした遺言状をしたため、遺産の分配についても指示します。しかし、後妻の子である権太夫が成人すると、遺産の相続について先妻の子である松太夫との間に争いが起きてしまいます。

弟に訴えられた兄・松太郎
 才太夫事件から約40年近く経った1646(正保三)年6月29日、成人した権太夫は目安(訴状)に起請文を添えて兄松太夫を金光院に訴え出ます。この訴訟関係の資料が残っているので、その詳細がある程度分かります。それを見ていくことにしましょう。
 争いの第一は、三十番神の神役の相続問題です。
 松太夫の訴状は、父市良太夫の譲状の内容を詳細に書いてます。そして、幼少であった権太夫のことについては市良太夫が、次のように遺言した記します。
「権太夫の義は、太夫と成るか坊主となるかもわからないから、若し太夫となったならば、三十番神様の神楽(かぐら)を勤めさせるようにしてほしい」

これに対して、弟権太夫は「宥睨様へ継目の御礼を申上候 跡職にて相違御座無く候」と、当時の金光院住職の宥睨に対して「自分が三十番社の正統な後継者である」と反論しています。
争いの第二は、大井八幡神社の神主職など、小松荘の各神社の社頭の神楽と市立の権利と、その収入の分配です。
争いの第三は、父・市良太夫の遺産の分配をめぐるものです。
 この訴状と口答書からは、三十番社の神職である松太夫や権太夫が山内において次第に勢力を失って、生活が苦しくなっていっている様子がうかがえます。訴状の文面からは、兄弟が仇敵のように憎しみ合って、相手を非難攻撃し、妥協のできなくなっていく姿がうかがえます。二人は、互いに相手を攻撃することによって金光院の宥睨に取り入ろうという卑屈な態度をとり続け、兄弟争いで三十番社の神人としての立場を失うことに気付いていないようです。
 この争いは、4年間の和解調定作業を経て、慶安2年6月21日に次のような和解案が成立します。
①松太夫と権太夫が共に三十番神の神役を勤めること
②大井八幡神社の神主職や、市良太夫の遺産相続の解決。
しかし、松太夫と権太夫など王尾一族が骨肉の争いを続けている4年間の内に、彼らの立場は根底的なところ変化していたのです。それは生駒藩から高松松平藩・松平頼重に主導権が移り替わっていたのです。
 当時の高松藩の宗教政策を見てみましょう。
1642年(寛永十九)年に初代高松藩主として讃岐にやってきた松平頼重は、金毘羅さんのために社領の朱印状を幕府から貰い受けることに尽力します。当時の幕府は、各地の寺院や神社が保存している大名からの社領や寺領の寄進状に基づいて朱印状を与え、将軍の代替りごとに書き改めてこれを確認する方法をとるようになっていました。
 そこで1646(正保三)年、金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を願い出ます。当時は、神仏習合の中で時代で社領と寺領の区別が明らかでなく、また多くの塔頭が並ぶ大きな寺院では、どの院が朱印状を受け取るのかなどをめぐって全国各地で紛争になることがありました。そこで幕府は松平頼重に対して次のように指示しています。
金毘羅の寺家・俗家・領内の者に異議のないことを確かめて、更に願い出るよう

これを受けて高松藩は、藩の寺社奉行間宮九郎左衛門を金毘羅に派遣して、御朱印状を受けることについての異議の有無を確認させます。
 その時期は、松太夫と権太夫が骨肉の争いを繰り返していた時に当たります。
正保3年 1646 金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を提出。
正保3年 1646 王尾松太夫、権太夫の三十番社等の相続争いの提訴
慶安元年 1648 幕府より330石の朱印状を受け取る。
慶安2年 1649 松太夫と権太夫の訴訟事件が和解成立
寛文10年1670 王尾松太夫、権太夫が江戸に出て訴状を提出
冷静に考えれば、彼らが主張すべきことは次の2点でした。
①松尾寺の本来の守護神は三十番社であること、
②金毘羅神は新参の神であること
この2点を主張し、神人の立場を守ることが賢明な策だったと云えます。例えそこまでは望めなくても、ある程度の留保条件をつけて朱印状を金光院が受けとることを認めることだったのかもしれません。しかし、それは一族が骨肉の争いを繰り広げる中では、神職集団として一致団結して金光院に対応することは望むべくもありませんでした。松太夫と権太夫は、調停者の金光院の歓心をかうために連判状に調印します。こうして三十番社は、金毘羅大権現の別当である金光院の家来であることを誓約します。これは結果的に、今まで金毘羅堂(金光院)と共有していた松尾寺の守護神の座を奪われたことになります。

DSC01366
金光院が金毘羅山のお山の大将に
 この作業を受けて、頼重は金毘羅山の一門が金光院の家来であることを認めさせ、主要な人々の連判状をとって、正保四年に幕府の寺社奉行に提出します。翌年の1648(慶安元)年に宥典が金光院別当となり、その継目の挨拶に江戸に出府することになります。この時、頼重は家老彦坂繊謬を同行させ、寺社奉行に働きかけ「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状を受け取らせています。これは、金光院が封建君主として金毘羅山の全山を支配する権力であることが幕府に認められたことを意味します。 
 和解した松太夫と権太夫の兄弟は、揃って三十番神の神役を勤めることになります。
しかし、その地位は金光院の完全な支配下に置かれ、いろいろな圧迫を受けて三十番社の衰退と共に収入も次第に減少します。20年後に  松太夫の長男徳(内記太夫)は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなりますが、金光院の圧迫にと横暴に腹を据えかねて幕府を訴えるのです。しかし「それは主君を訴えた従者」として「逆賊」あつかにされ獄門貼付の厳罰に処せられる結果となります。それはまた次回に・・・

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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち              満濃町誌1173P

   
琴平 本庄・新庄2
中世末期の琴平

 戦国時代末期・天正年間の象頭山のお山では、松尾寺を中心に三十番神社などの諸社が建ち並び、そこに新参者の金毘羅堂が割り込んでくるという神仏・諸堂の雑居状態でした。人々は金倉川の東側に広がる中世以来の小松庄に生活していて、金毘羅山の麓には「門前町」は、まだ姿を見せていませんでした。

 豊臣秀吉の天下統一の動きが進む中で、讃岐の領主は、仙石氏から尾藤氏、そして生駒氏へと目まぐるしく変っていきます。この中で、金毘羅山内では新参者の金毘羅神・金光院がその中心的地位につくといった大変革が進んで行きます。その変革の中心にいたのが金光院院主の宥盛や宥睨であったことを、前回までに見てきました。
 宥睨は、実家の叔母オナツが生駒家二代目の一正の側室に入り、左門という男子を出産するという「運と縁」を授かります。甥と叔母という縁を活かし、生駒家からの寄進を幾度も重ねて得ることに成功します。それは最終的には330石という石高になります。これは、他の神社仏閣への寄進高と比べるとダントツです。

詳しくは「http://tono202.livedoor.blog/archives/1684460.htmlを参照


生駒正俊の家紋「生駒車」とは?香川の丸亀城を守りたかった戦国武将 | | お役立ち!季節の耳より情報局

生駒正俊
 このような中で、第三代藩主になった生駒正俊は、金毘羅支配の方針にといえる「条々」を慶長十八年に出します。
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事
一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事
一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
  住宅仕り候様二申し付けらるべき事
一 神役前々の如く申し付けらるべき事
一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
意訳変換しておくと

 金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。
一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。
一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事      
  住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事
一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
 以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
ここからは、生駒正俊が寺高・諸役の免除、城山勝名寺領の寄進、金毘羅への商人などの移住奨励、神役負課、金光院の院領内の裁量権を従来通りに認めたことが分かります。
 ある意味では、金毘羅山域に対してある種の「治外法権」が認められていたといえます。特に研究者が注目するのは、、金毘羅門前への「他国よりの移住奨励策」が認められている点です。これが金毘羅領が門前街として発達していく重要な条件になります。

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   35年もの間、金光院住職を勤めてきた宥睨に、最後の荒波が押し寄せます。
それは生駒騒動の結果、生駒家が矢島へ転封になってしまうのです。宥睨は理解ある大切なパトロンを失います。そして、新たな領主との関係を作ることが求められることになります。その交渉相手が初代高松藩として水戸からやって来た松平頼重だったのです。これは、宥睨にとっては幸いなことでした。

讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか : 瀬戸の島から
松平頼重
 頼重は、生駒家の宗教政策を基本的に継承し、金毘羅山の既得権を認めます。

そして、当時幕府が行っていた全国の神社仏閣の朱印地認定作業に、金毘羅山の登録申請を行うのです。頼重の配慮、努力によって、慶安元年(1648))三月十七日に幕府からの朱印状を得ます。 
『徳川実紀』に
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二

とあるように、このとき朱印状を与えられたのは金光院だけでなく、全国の寺社領が対象でした。その182の寺社の中のひとつに、金毘羅山も登録されたと言うことです。

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朱印状の内容はは次の通りです。
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領
同郡五条村内百三拾四石八斗余、
榎内村の内四拾八石壱斗余、
苗田村の内五拾石、
木徳村内弐拾三石五斗、
社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、
先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如く
いよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。
    慶安元年二月廿四日
  御朱印  別当金光院

決壊中の満濃池
明治維新時の天領池御料と金毘羅寺領
朱印料として認められ他のは、金毘羅領と、その金倉川の東岸の3つの村に飛び地としてある土地です。三つの村が寺領となったのでは、ありません。これらは生駒藩時代に寄進された物です。これらを総て併せた330石が朱印地として認められたことになります。

金毘羅山を代表して朱印状を受けたのは金光院でした。
朱印状が渡される前年には、これを金光院が受け取ることについての賛否が山内で問われたようです。後に金光院を訴え獄門にされる三十番社の神職が起こした訴訟資料には、次のように記されています。
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、
一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。
門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江  府へ持参仕り、(後略)
意訳変換しておくと
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。

ここからは次のようなことが分かります。
①正保三年(1646)12月に、金光院宥睨が亡くなり宥典が継ぎいだこと、
②正保四年に朱印状を金光院が受け取ることについての賛否が問われたこと
③その結果、「一山の者」全員が金光院が金毘羅山の主人として受け取ることに賛成したこと
④それを「連判の手形」として署名したこと
これは、中世以来の松尾寺・三十番社・金比羅堂等の諸寺諸堂の並立状態が終わったことを意味する者です。ここに正式に、金光院が金比羅領の「お山の大将」としての地位が確認され、金光院の権勢が確立したことを示します。
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  同時に金光院院主が、330石の寄進地を含む「お山の領主」になったことを意味します。
それは、讃岐国は松平家と京極家、塩飽の「人名」に加えて、金毘羅山という新しい「領主」の誕生と言えるかもしれません。金光院院主は、宗教的な存在としてだけでなく、金比羅領の「殿様」として政治的な存在として、この地に形成されていく金比羅門前町を治めていくことにもなるのです。
この時すでに宥睨は亡く、院主は宥典に交代していました。
 宥睨は生駒家から得た寄進地を、幕府の朱印地に格上することに成功したわけです。そういう意味では、宥睨が金毘羅山に果たした役割は大きく「金毘羅山の大恩人」として、江戸時代に書かれた書物では大きく評価されることになります。それが宥睨の実家である
山下家が金光院住職の地位を世襲化することにつながるようです。

以上をまとめておきます。
①近世初頭の 象頭山は、さまざまな宗教施設の混淆状態にあった。
②そこに長尾家出身の僧宥雅が、守護神として金毘羅神を造りだし、そのお堂を建立した。
③長宗我部元親はこの地を占領すると、土佐から有力な修験者を招き、松尾寺の管理運営を任せた。
④こうして、金毘羅は丸亀平野の拠点宗教センターに改装された。
⑤当時の松尾寺は、天狗信仰の修験者たちの拠点で、彼らがいくつもの院坊をもち管理するようになった。
⑥その中で最も有力になったのが宥盛の金光院であった。
⑦金光院は、生駒家に姻戚関係をもつ院主の元で寄進地を次々と増やして行った。
⑧生駒家転封後の高松藩初代藩主・松平頼重は、金光院への保護を継続した。
⑨松平頼重によって、金光院の寺領は朱印地となり、その領主として金光院が認められた。

こうして見ると、近世初頭に流行神としてして登場した金毘羅神が急速な成長を遂げるのは、長宗我部元親・生駒藩・松平頼重という支配者達の保護を受けてきたことが大きな要因であることが分かります。
ここからは金毘羅信仰を「庶民信仰」として捉える従来の考えに対する疑問が生まれてきます。時の支配者の寄進・保護を受けて経済基盤を調え、伽藍整備を行い、その後に庶民達がやってくるようになったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最終改訂2024/01/12
町史ことひら

参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~
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 土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入する直前に、金刀比羅のお山に新たに金毘羅神を招き金刀比羅堂を建立したのは宥雅でした。とすれば、彼が金毘羅大権現の「創始者」とされてもいいはずです。しかし、彼は正史から「抹殺」され、忘れ去られた存在になっていました。
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宥雅の出自や業績については、下記で紹介しました。詳しくはこちらをご覧ください
金比羅信仰 宥雅はどのようにして金毘羅神を登場させたか
 
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宥雅の業績を「まとめ」ると
 ①西長尾城主の甥(弟)で、一族の支援の元に金比羅大権現を松尾寺の新しい守護神に据え、金比羅堂建立したこと。
 ②滝寺の十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神の創出
 ③金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作したこと
 ④「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神(クンピーラ)を結合工作したこと。
 ⑤三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用したこと
 ⑥金光院を松尾寺から金比羅大権現の別当に付け替えたこと
 ⑦以上の大改革の推進中に、長宗我部元親が丸亀平野に侵入。長尾氏の一族であった宥雅は難を避けて、宝物を持って泉州堺に「亡命」したこと。
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どうして宥雅は、弟弟子の宥盛を訴えたのか?

1600年 関ヶ原の戦いの年に、長宗我部元親が院主に据えた宥厳が亡くなり、宥盛が新しい院主になります。これに対して、堺に亡命中だった元住職の宥雅は、自分が正統な院主であると訴訟を起こします。土佐の長宗我部の勢力も消滅し、自ら築き上げた金毘羅堂を取り戻すための反撃を開始したのです。その矛先は、金光院住職を継承した弟弟子の宥盛に向けられます。
 慶長十二年(1607)5月吉日、宥雅が、生駒藩の奉行に訴状を提出し、宥盛の非法を訴えました。その訴状の内容は
第一は、宥盛は金光院の「代僧」で、正式の住職ではない。
第二は、宥盛が金光院下坊を相続したとき、その時の合力の報酬として(毎年)百貫文ずつ宥雅に支払することの約束を履行しない。
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第一の争点については、宥雅は金光院前住の立場から、宥盛の不適格性を指弾します
そして、自分こそが金比羅の主としてふさわしいとするのです。
これに対して、宥盛は生駒藩奉行へ申し開きの書状「洞雲(宥盛)目安申披書」を提出して反撃します。
 「洞雲(宥雅)拙者を代僧と申す儀 毛頭其の筋目これ無く候。(中略)
土佐長宗我部入国の節 おひいだされ落墜仕り、
其の後仙石権兵衛殿当国御拝領の刻、落墜の質をかくし、
寺をもち候はんとは候へとも、当山はむかしより、
清僧居り候へば、叶はざる寺の儀二候ヘ、
落墜にて居り候儀其の旧例無く候故、堪忍罷り成らず候二付き、拙者師匠宥厳二寺を譲り
 まず冒頭に、宥雅が「拙者を代僧と申儀」、末尾に「拙者師匠宥厳二寺を譲り」とあります。ここからは宥雅は、長宗我部元親さえいなくなればいつでも帰山できると考えていたことがうかがえます。だから、宥厳の後嗣である宥盛を「代僧」ともいったのでしょう。長宗我部退却後の生駒藩になっても帰山が許されないとわかってはじめて、宥雅は宥厳に松尾寺を「譲った」と思われます。
 これに対して宥盛は「代僧」については、その筋目(根拠)のないこと、洞雲(宥雅)は金毘羅下の「そくしやう」の者、つまり俗姓の者でもなく、少しの間金光院住であったものの長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転するなどの悪行を重ねたことを挙げて、反論します。
また、長宗我部退却後の仙石氏入国の際には、寺を捨て「亡命」したことを隠して、金比羅に還ろうとしたが許されなかったこと、その結果、宥雅は松尾寺・金比羅堂の二寺を宥盛の師である宥厳に譲ったこと。その上で、宥盛自身が、生駒雅楽頭親正から承認された正統な住職であることを主張します。
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 ここには、宥雅が金比羅神創出に係わったことは、一言も触れられません。
これが、後の金比羅側の宥雅像になり、後世の記録から抹殺されることにつながっていくようです。別の面から注目しておきたいのは
長宗我部侵入の際には、寺物を武具に代えたり、寺を捨てて退転

とあり、宥雅が一族の長尾氏とともに反長宗我部勢力側に立って金比羅のお山を「武装化」していたこともうかがえます。
  第二の件は、下坊(=金毘羅堂)をめぐる契約不履行の問題です。
「中正院宥雅証文」で宥雅は次のように記します
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。然れ共今程は前々の如く、神銭も御座なき由候間、拾貫ツツニ相定め候間、此の上相違有る間敷く候」
宥雅が下之坊(金比羅堂)を譲ったときに毎年銭百貫ずつもらう約束をしていた。が、下之坊が別当する神殿の寞銭が、その後は前ほどでなくなったので十貫ずつで辛抱することになった。ところがこれも宥盛は守らない」とあります。
「下之坊御請け取り候時、合力百貫ツツ給うべき旨申し定め候。」

ここからは宥雅は、長宗我部元親撤退後の仙石氏の統治下においても、金毘羅への帰還が認められなかったために、宥厳に下の坊を譲ったことがうかがえます。下之坊が別当する神殿といえば「金毘羅 下之坊」ですから、宥雅が建立した金毘羅神殿のことと考えられます。
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宥雅はこの訴訟に先立つ16年前の天正十八年(1590)に、宥盛に督促状を送っています
そこには「下坊=金比羅堂」の管理権のことが触れられています。もともと金比羅堂は長尾一族の支援を受けて宥雅が新たに建立したものです。そこで「所有者」の宥雅が亡命した後の管理が問題になります。宥雅との交渉を行ったのが、弟弟子にあたる宥盛だったのではないでしょうか。
 宥盛は、長宗我部元親が土佐に退いて、後見人を失った別当の宥厳の権勢が衰えかけた頃に、高野山から讃岐に帰り、宥厳を補佐するようになります。仙石氏や生駒氏との信頼関係を築き、寄進石高を増やす中で、宥雅との交渉を進めたと私は考えています。
 そして、「合力」として毎年百貫ずつを宥雅に送るという「契約」を結んだようです。宥雅は「神銭不足の折から十貫に値下げ」されたのに、その約束さえも守らずらないと宥盛を責めています。
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 これは、推察すると宥雅と宥盛の間には、「密約」があったと研究者は考えているようです。
つまり毎年百貫の銭を送る以外に秘密協定として
宥厳の後は、宥雅が院主の座に返り咲く。

といううものではなかったのでしょうか。
 ところが、宥盛はこれを守らなかった。宥盛自らが院主の座につき、約束の銭も送らなかった。つまり宥雅からすれば、弟弟子に裏切られ、金毘羅の山を乗っ取られたということになります。
 宥雅は、コネをつかって自らの主張、すなわち金光院へ帰還を遂げようと工作します。
年未詳八月八日の生駒讃岐守一正書状によると、宥雅は、豊臣秀吉の時代にも大谷刑部少輔吉継や幸蔵主など秀吉の側近・奥向き筋を利用して、その旨を陳情しています。しかし、その結果は「役銭の出入りばかり」色々いってきたが一正の父親正は承引しなかったと記されています。

 
さらに、宥雅は、宥盛の「かき物」(その旨の契約状)を堺から取り寄せ、証拠書類として提出することも書き加えています。
そして、この証文通りにしないのなら
「愛宕・白山の神を始め、「殊二者」金毘羅三十番神の罰を蒙であろう」
と脅しています。修験者らしい台詞です。ちなみにこの時に宥雅が集めた「証拠資料」が、後世に残りこの時代の金毘羅山の内部闘争を知る貴重な資料となっていることは先述したとおりです
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   訴訟の結果は、どうだったのでしょうか?
宥雅の完全敗訴だったようです。しかも、宥盛の言い分によれば
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。
(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」
と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
これらの内容は、後世の金毘羅史諸本の説く「金比羅堂建立者」としての宥雅の所業とは、かなり違っています。ちなみに宥雅の宥盛を非難しての物言いは「彼のしゅうこん(秀厳=宥盛の房号)いたつら物」、すなわち、悪賢い者といっている程度です。
 それに比べて宥盛の宥雅に対する反駁の形容詞は猛烈なまでに辛辣な表現です。ここには、以前にも述べた宥盛の「闘争心」が遺憾なく発揮されているように思えます。
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 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。まさに金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしいとされ、後の正史には「創始者」として扱われ、彼は神として現在の奥社に祀られます。
 一方、金毘羅神を創出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
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参考文献
唐木 裕志   讃岐国中世金毘羅研究拾 
 

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金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」というのです。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたのではないだろうか」と
 
 この元亀四年(1573)には、現在の本社に松尾寺本堂がありました。その四段坂の階段の下に金比羅堂が建てられ、そこに新たな金比羅堂が創建されたようです。しかし、金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。
 松尾寺には、十一面観音が祀られています。松尾寺は、近世初頭には観音信仰の寺でもあったようです。それが、現在の金刀比羅宮本社前脇に建っていた観音堂になるようです。
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 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう
それは「三十番社」だったようです。
地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が、神祇信仰において旧来の地主神と、飛来してきたり、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。
 これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。
しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれているようです。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたもののようです。
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なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」で、古くから墓所の山でもあったようです。そこに、墓寺的性格の松尾寺はあったようです。そのため小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもありました。やがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。
 そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれない。そこで、強力な霊力を有する新たな守護神の飛来が必要になったのではないでしょうか。ここに、金毘羅神の将来と勧請の意味があったと研究者は推測します。

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  正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、松尾寺別当金光院の院主です。ところが金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物です。現存する史料(元亀四年の棟札以下)には、彼の名前が院主として残されています。しかし、正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」は、次のように考えます
宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?

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 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は、『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)によれば、
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
とあって、当時、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。
そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

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金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
このように宥雅が、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。
 また、宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とするのです。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、
「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」と指摘します。
 
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さらに伝来文書をねつ造します

「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。
 「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。
 ある研究者は
「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号) より
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宥雅の最後の「課題は」は、金比羅神を松尾寺に伝来する十一面観音とどう結びつけるかです。
 いままでの流れを整理すると
金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」に求めました。つまり、インド仏教の守護神クンビーラです。クンビーラとは、ガンジス川の鰐の神格化したものです。それらインドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来されていました。大きく見ると、それらの守護神たちが二十八部衆に収斂されていたのです。
 ここで最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
しかし、金毘羅神の本地仏は、千手観音なのです。新たに迎え入れた金比羅神と本尊の十一面観音がリンクできなのです。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。
  真言密教の高僧でもある宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

 金刀比羅神社蔵 十一面観音立像(重文)=木造平安時代
 ちなみに宝物館にある重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。
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それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神で行っていた祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。
 こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

          
 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗侵攻の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

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天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
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それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

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 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

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金刀比羅宮大門
金比羅大芝居が始まる頃が、金毘羅さんの櫻の見頃になります。
いつものように原付バイクで、牛屋口経由の近道ルートでアクセスするとここに出てきます。ここは五人百姓のひとつ笹屋さんのお店。
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振り返ると石段が続きます。
そしてお目当ての桜も満開。
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金刀比羅宮大門
すぐ大門が迎えてくれます。
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金刀比羅宮大門
大門をくぐると・・・

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金刀比羅宮 五人百姓
大きな朱色の傘 の下で「こんぴら飴」を売るのが見えてきます。
これが金毘羅の「五人百姓」です。「五人百姓」は、金刀比羅宮から大門(二王門)内の飴売りについて独占的営業権を持っていてます。金毘羅大権現の神事祭礼に関与し、神役を勤めてきた特定の家筋(山百姓)であるとされています。
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金刀比羅宮 五人百姓と桜の馬場
しかし、近年新しい考えが出されています。「五人百姓」は、金比羅さん成立以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与をしていたのではないかという説です。

金毘羅名所図会 五人百姓
山門内の五人百姓の飴売り図(金毘羅山名所図会)
「金比羅神」は近世に創り出された流行神です。
もともと、真言宗松尾寺があり、松尾寺の守護神(鎮守)の一つとして金毘羅神が祀られるようになります。その金毘羅神が近世に流行神となり、金毘羅大権現として大いに繁栄したというのが歴史的事実のようです。金毘羅・金毘羅神(クンピーラ)とは本来はインドの土着神で仏教とともに伝来し、仏法の守護神の仏として祀られ、金比羅大権現に成長していきます。日本の所謂「神」とは何の関係もありません。
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金刀比羅宮 桜の馬場

桜の馬場はまさに「桜のトンネル」状態になっています。
聞こえてくるのは、中国語が多いようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金毘羅大権現に奉納された天狗面

金比羅神登場以前のこの山は、どうだったのでしょうか?
鎌倉期には西山山麓に称明院、山腹に滝寺があり、もともとは観音信仰の霊場であったようです。そして、これらの霊場は修験道者の行場センターでもありました。初期の金比羅信仰の指導者となった僧侶達も多くが修験道者です。その一人は、神として奥社に祀られています。奥社にはその行場の岸壁に天狗の面がかけられています。これが何よりの証拠です。天狗は修験者の象徴です。

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奥社の岩場に架かる天狗面
それでは古代から中世に、この山に修験者が入ってくる前はどうであったのでしょうか?

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修験者の宥盛が厳魂彦命(いずたまひこのみこと)として祀られる「厳魂神社」=奥社

 行場を求めて山に入る修験者と在地の「百姓」(中世的意味での)との間には、最初は軋轢があったようです。それが空海伝説にも数多く伝えられています。対立を越えて、両者が共存していく術が創り出されていったのでしょう。修験者と「在地百姓」の関係が「五人百姓」の起源だという説です。

金毘羅神
金毘羅大権現(松尾寺)まさに天狗

「五人百姓」も、もともとは象頭山(琴平山を含む大麻山塊周辺部)一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったのではないかというのです。
 従来は「百姓」は農業従事者と理解されてきました。しかし、中世では、単なる農民ではなく「百の姓」つまり、農業者、漁業者、技術者(職人・芸人)など広く一般の民衆を指す言葉でした。そうすると「山百姓」とは、象頭山(金毘羅大権現)の山の百姓であるとも考えられます。
 また、飴売りについても「五人百姓」が近世以来、独占販売権をもっていたようではないようです。
独占販売権について書かれた史料は次の1点だけです
①天保四年(1833)12月1日付けの山百姓嘆願書に「従来御当山御神役」を勤めていることと「先年より御門内にて飴商売後(御)免」(琴陵光重『金毘羅信仰』S24)

 ここからは、独占的飴売りと「五人百姓」とをストレートに結びつけるのは気が早いと研究者は指摘します。むしろ、五人百姓は金毘羅大権現の神役を勤めてきたことから得た利権であると見た方が自然だと云うのです。

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「五人百姓」が持つの神役の役割を探ることが必要です
五人百姓は金毘羅神事において重要な役割を果たしてきました。
なかでも金毘羅大祭会式の10月11日の夜に本殿で行われる秘密神事は注目されます。現在でも神官が蝶(ゆかけ=生乾きの獣皮で作った革手袋)で頭人の頭を撫でる所作があります。この秘儀は、古老の伝として、次のように伝えられます。
「・・・この行事は、以前三十番神を祀ったおかり堂(三十番神社)で、五人百姓の関与のもとに行われ、頭人のクライオトシといっていた。また、ここでの行事が、最も重要なものであった」という。さらに、「・・・頭人たちは、血生ぐさい牛革を頭につけられるのをきらった」ともいう。
土井久義氏(「金刀比羅宮の宮座について」『日本民俗学』31号)
最後にもうひとつ絵図を見ておきます。これは10月10日の祭礼の際に、観音堂のまわりを神官や五人百姓たちが「行堂=行道=行進(パレード」する姿が描かれています。
金毘羅名所絵図 大祭観音堂の儀式
金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
金毘羅大権現の本堂ではなく観音堂の周りを行道することからも、金比羅の大祭がもともとは観音堂に対する祭りであったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのは、側面の何かを担いでいる人達です。これが五人百姓だといいます。何を担いでいるのかは、よく分からないのですが「奉納品」だと研究者は考えています。つまり、金毘羅大権現がこの地にやって来る以前から、五人百姓と修験者たちは信仰によって結ばれていたことになります。
この辺りに「五人百姓」の意味が隠されているようです。
このように「五人百姓」は金毘羅信仰の導入以前からあった御八講(法華八講)の神事の時から関与しています。彼らは中世後期まで象頭山一帯で狩猟を業とする「百姓」を先祖にもつ人々でなかったかと研究者は考えています。そうだとすれば、琴平山の先住者であり、祭祀権を含む中世「こんひら」地域の在地領主であった可能性が高いことになります。

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大門からの遠景

そんなことを考えながら五人百姓の今の姿をみまもっていました。
参考史料  唐木裕志  讃岐国中世金毘羅研究拾

金光院別当「宥雅」の「業績」について       房号「洞雲」
①金比羅堂を建立しながら正史からは「抹殺された存在
②西長尾城主の甥(弟)で、金光院別当職を宥盛と争う。
③三十番神にかわる金比羅大権現を新しい守護神に据え、金比羅堂建立。背景に仏法興隆の三十番神だけでは、「現世利益」に対応できず。強力な霊力の新たな神の勧進が必要。
⑤滝寺からの伝来する十一面観音を本地仏として、その垂迹として金比羅神を草創。
⑥金比羅神の創始を鎌倉末期以前のことと改作
⑦「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合。
⑧三十番神の祭礼(法華8講)を金比羅大権現の祭礼として転用
⑨金比羅大権現は、松尾寺金光院を別当寺として出発
⑩長宗我部の侵入で長尾方に属した宥雅は、宝物を持って堺逃亡
⑪仙石秀久の讃岐支配で帰国できると思ったが・・
    生駒家に訴え出るも許されず「宥巌」に松尾寺を譲った
⑫宥巌が没して宥盛が別当になると非を並び立て、生駒家に提訴
⑬生駒家での裁判。その時の記録が「洞雲目安申」。
    「宥巌」なきあと別当を継承した「宥盛」への断罪するも失敗
⑭16世紀末には、松尾寺別当金光院から、金比羅大権現(社)別当金光院への衣替えを勧めた?
「洞雲目安申」には、次のように非難されている
   「宥雅の悪逆、四国に隠れなき候、・・女犯魚鳥を服する身として、まひすの山伏と罷成」

本来の松尾寺の性格は?
①鎌倉前期 小松庄の琴平山の谷筋の墓所墓寺的な存在
②鎌倉末期 宥範の時代には、松尾寺・称名院や三十番神の混在。
③1585(天正13)年の仙石秀久からの禁制はあるが寄進状はなし。別当の金比羅大権現には寄進あり。
④金比羅大権現の勢力が松尾寺全体を席巻する状態?
本地仏十一面観音。
本社前脇に海に向かって建っていた観音堂。
この本尊は大麻山の滝寺の本尊を移したもの。
前立十一面観音も、麓の小滝寺の本尊。
 
 「大魚退治伝説」の神魚と金比羅神との結合は?

①中世の法勲寺の僧侶によって広められていた悪魚退治の物語。
 松尾寺の僧侶は、その上に悪魚を神として祭る金比羅信仰の創設と流布。
②「宥範縁起」の中で悪魚が「神魚」に変身伝説、
 それをインド仏教のクンピーラに宛てた。クンピーラはガンジスのワニの神格化。 中国で千手観音菩薩の守護神化し日本伝来。
③しかし、松尾寺の本地仏は十一面観音で千手観音ではなかったので改造工作?
④それまでの松尾寺の守護神は三十番神
 古くから象頭山に鎮座していたのは三十番神。
⑤言い伝えは?
 外来の金比羅大権現が後からやってきて、この地を「十年」ばかり貸してくれ。三十番神が承知すると、金比羅大権現は三十番神が横を向いている隙に、「千」に書き換えてしまった。
「古来の三十番神はひさしを貸して母屋を金比羅神に乗っ取られてしまった」というのが地元の言い伝え。
⑥この説話は旧来の地主神と後世に勧進された新参の神との関係を示すもの。

    長宗我部元親の関与と宥巌 
① 1583(天正11)年 長宗我部元親寄進 松尾寺仁王堂の棟札
②三十番神を修復し、仁王堂新築。後の二天門「こんぴらのさかき門」だが、こんぴらの名前は見えない。 
 後に松平頼重が新築して寄進したときには金比羅の二天門。
③同年に三十番神も建立 
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
④元親は「四国の総鎮守」として金比羅大権現を創建?
⑤土佐軍占領下の金比羅。
 金比羅大権現が松尾寺に取って代わる「変革」が起こった?
⑥第3代「別当宥巌」は元親の陣中にいた南光という修験者。
彼は土佐の当山派修験道のリーダーで、元親により金光院別当に任命
 1600(慶長5)年死亡。後の金比羅大権現にとって、長宗我部に支配され、その家来の修験道者に治められていたことを隠す意図が生まれてきたのでは?
⑦後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585(天正一三)年まで以後は隠居としている。 実際は1600(慶長5)年まで在職 江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られる。

金比羅大権現の基礎確立した金光院別当宥盛について 
①生駒藩家臣・井上家(400石)の嫡男で高野山で13年の修行
 宥雅の法弟で、宥目見の兄弟子   
②弟は助兵衛は生駒藩に仕え、大坂夏の陣で落命 
③1586(天正14)年 長宗我部ひきあげ後に帰国。
 後援者をなくした別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
④1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
   堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける
⑤金比羅神の神格化「由来書」の作成。
「金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。
 善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
⑥修験僧「金剛坊」として多くの弟子を育て、道場を形成。
⑦土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首に。
⑧真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る。高野山南谷浄菩提院の院主を兼任
⑨三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと「接木」工作
⑦1606(慶長11)年自らの姿を木像に刻み。「長さ3尺5寸 山伏の姿 岩に腰を掛け給う所を作る」とあり修験姿の木像。自らを「入天狗道沙門」
 この時期までの別当職は山伏・修験道の色彩が強い。
⑧1613(慶長18)年1月6日 死亡
 観音堂の横に祭られ「金剛坊」と呼ばれる。
⑨1857(安政4)年 大僧正位追贈、金比羅の守護神「金光院」へ
⑩1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」創設。
⑪1905(明治38)年神殿完成、現在の奥社は、山伏であった有盛を祀る神社。行場であった磐の上には天狗面が掲げられている。
関連記事(上の内容を「権力闘争」面に焦点を当てたものが下の記事です)


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