瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:宥範

善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
                            善通寺東院の「足利尊氏利生塔」
前回は善通寺東院の「足利尊氏利生塔」について、次のように押さえました。
① 14世紀前半に、足利尊氏・直義によって全国に利生塔建立が命じられたこと
②讃岐の利生塔は、善通寺中興の祖・宥範(ゆうばん)が建立した木造五重塔とされてきたこと
③その五重塔が16世紀に焼失した後に、現在の石塔が形見として跡地に建てられたこと
④しかし、現在の石塔が鎌倉時代のものと考えられていて、時代的な齟齬があること。
つまり、この定説にはいろいろな疑問が出されているようです。今回は、その疑問をさらに深める史料を見ていくことにします。

調査研究報告 第2号|香川県

善通寺文書について 調査研究報告2号(2006年3月川県歴史博物館)

善通寺文書の年末詳二月二十七日付の「細川頼春寄進状」に、善通寺塔婆(とば)領公文職のことが次のように記されています。
細川頼春寄進状                                                       192P
讃州善通寺塔婆(??意味不明??)一基御願内候間(??意味不明??)
名田畠為彼料所可有御知行候、先年当国凶徒退治之時、彼職雖為閥所、行漏之地其子細令注進候了、適依為当国管領御免時分閥所、如此令申候、為天下泰平四海安全御祈南、急速可被申御寄進状候、恐々謹言、
二月十七日    頼春(花押)
善通寺僧都御房
  意訳変換しておくと
讃州善通寺に塔婆(??意味不明??)一基(足利尊氏利生塔)がある。(??意味不明??)
 この料所として、名田畠を(善通寺)知行させる。(場所は)先年、讃岐国で賊軍を退治した時に、没収した土地である。行漏の土地で、たまたま国管領の御免時に持ち主不明の欠所となっていた土地で飛地になっている。利生塔に天下泰平四海安全を祈祷し、早々に寄進のことを伝えるがよろしい。恐々謹言、
二月十七日               頼春(花押)
善通寺僧都御房(宥範)
時期的には、細川頼春が四国大将として讃岐で南朝方と戦っていた頃です。
内容的には敵方の北朝方武士から没収した飯山町法勲寺の土地を、善通寺塔婆領として寄進するということが記されています。
まず年号ですが、2月17日という日付だけで、年号がありません。
 細川頼春が讃岐守護であった時期が分からないので、頼春からは年代を絞ることができません。ただ「贈僧正宥範発心求法縁起」(善通寺文書)に、次のように記されています。

康永三年(1344)12月10日、(善通寺で)日本で三番めに宥範を導師として日本で三番めに利生塔建立供養がなされた」

利生塔建立に合わせて寄進文書も発給されたはずなので、土地支給も康永三年ごろのことと推測できます。法勲寺新土居の土地は、1344年ごろ、善通寺利生塔の料所「善通寺塔婆領公文職」となったとしておきます。

讃岐の郷名
讃岐の郡・郷名(延喜式)
南北朝時代の法勲寺周辺の地域領主は、誰だったのでしょうか。
「細川頼春寄進状」の文言の中に「先年当国の凶徒退治の時、彼の職、閥所たるといえども・・・」とあります。ここからは井上郷公文職である新土居の名田畠を所有していた武士が南朝方に味方したので、細川氏によって「凶徒退治」され没収されたことが分かります。 つまり、南朝方に味方した武士が法勲寺地区にいたのです。この時に法勲寺周辺では、領主勢力が入れ替わったことがうかがえます。南北朝動乱期は、細川氏が讃岐守護となり、領国化していく時代です。

讃岐丸亀平野の郷名の
鵜足郡井上郷
 この寄進状」から約30年後に、関連文書が出されています。(飯山町史191P)。『善通寺文書』(永和4年(1378) 「預所左衛門尉某安堵状」には次のように記します。 
  善通寺領井上郷新土居 ①預所左衛門尉某安堵状
②善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事
在坪富熊三段
一セマチ田壱段
           カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
コウノ池ノ内二反
同下坪壱反小内半
合壱町弐段三百歩者
右、於壱町弐段三百歩者、如元止領家綺、永代不可相違之状如件、
永和四年九月二日
預所左衛門尉(花押) (善通寺文書)
永和四年(1378)9月、預所左衛門尉から善通寺塔婆領宇井上郷公文職新土居事について出された安堵状です。内容は、合計で「一町二段三百歩」土地を、領家の干渉を停止して安堵するものでです。背景ろして考えられるのは、周辺勢力からの「押領」に対して、善通寺側が、その停止を「預所」に訴え出たことに対する安堵状のようです。

①の「預所の左衛門尉」については、よく分かりません。以前見たように法勲寺の悪党として登場した井上氏や法勲寺地頭であった壱岐氏も「左衛門尉」を通称としていました。ひょとしたら彼らのことかも知れませんが、それを裏付ける史料はありません。「預所」という身分でありながら領家を差しおいて、直接の権原者としての安堵状を出しています。在地領主化した存在だったことがうかがえます。
②の「善通寺塔婆領宇(鵜足郡)井上郷公文職新土居事」は、先ほどの文書で見たように。善通寺の塔婆維持のために充てられた所領のことです。
それでは「新土居一町 二反三百歩」の所領は、どこにあったのでしょうか。飯山町史は、さきほどの文書に出てくる古地名を次のように推察します。
富熊三段
一セマチ田壱段
              ②カチサコ三段
フルタウノ前壱反小
シヤウハウ二反
③コウノ池ノ内二反
④同下坪壱反小内半
0綾歌町岡田東に飯山町と接して「下土居」
①富熊に近い長閑に寺田
②南西にかけさこ(カチサコ)、
③その西にある「切池」に池の内(コウノ池ノ内)
④池の下(同下坪)

法勲寺周辺条里制と古名

飯山町法勲寺周辺の条里制と古名(飯山町史)
③④はかつてのため池跡のようです。それが「切池」という地名に残っています。こうしてみると鵜足郡井上郷の善通寺塔婆領は、上法勲寺の東南部にあったことが分かります。しかし、1ヶ所にまとまったものではなく、小さな田畑が散らばった総称だったようです。善通寺寺塔婆領は、1~3反規模の田畠をかき集めた所領だったのです。合計一町二反三〇〇歩の広さですが、内訳は、「富熊三反、カチサコ三反」が一番大きく、せいぜい田一枚か二枚ずつだったことが分かります。ここでは、この時代の「領地」は、散在しているのが一般的で、まとまったものではなかったことを押さえておきます。

 分散する小さな田畑を、管理するのは大変です。そのため善通寺の支配が十分には行き届かなかったことが推察できます。また利生塔が宥範の建てた木造五重塔であったとすれば「一町二反三〇〇歩」の領地で管理運営できたとは思えません。
比較のために、諸国の安国寺や利生塔に寄進された料所を見ておきましょう。
①筑前景福寺に300貫相当として田畑合計55町寄進
②豊前天目寺も300貫相当として田畑合計26町寄進
平均200貫~300貫規模で、田畑は30町を越えることが多いようです。法勲寺以外にも所領があった可能性もありますが、善通寺が「一町二段三百歩」の土地を得るのにこれだけ苦労 しているのを見ると、全体として数十町規模の所領があったとは思えません。
 また仮にこの他に塔婆料所があったとしても、これと同様の飛び地で寄せ集めの状況だったことが予想されます。寺領としての経営は、不安定でやりにくいものだったでしょう。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代 石塔(後の利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
 年表を見ると分かるとおり善通寺の利生塔は、他国に先駆けて早々に造営を終えています。この事実から善通寺利生塔造営は、倒壊していた鎌倉時代の石塔の整備程度のもので、経済的負担の軽いものだったことを裏付けていると研究者は考えています。

以上を整理して、「宥範が再建 した木造五重塔は足利尊氏利生塔ではなかった」説をまとめておきます
①『贈僧正宥範発心求法縁起』 には、伽藍造営工事は観応3(1352)年に行われたと記されている
②しかし、利生塔の落慶供養はそれに先立つ8年前の康永3年(1344)にすでに終わっている。
③善通寺中興の祖とされる宥範は、細川氏支配下の阿波・讃岐両国の利生塔供養を通じて幕府 (細川氏)を後ろ盾にすることに成功した。
④その「出世」で善通寺大勧進職を得て、伽藍復興に本格的に看手し、五重塔を建立した。
⑤そうだとすれば、利生塔供養の段階で木造五重塔はまだ姿を見せていなかった。
⑥康永3年(1344)の利生塔落慶供養は、鎌倉時代の石塔整備という小規模なものであった。
⑦それは飯山町法勲寺の善通寺寺塔婆領が1~3反規模の田畠をかき集めた「1町2反」規模の所領であったことからも裏付けられる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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善通寺の東院と西院

前回までに東院の「見所?」を紹介しました。今回は善通寺の西院にお参りすることにします。
 始めて善通寺を参拝する人が不思議に思うのは、「どうして東院と西院のふたつに分かれているの?」という疑問のようです。それは、西院の成り立ちから説明できます。

善通寺遠景
善通寺誕生院(御影堂)と東院(金堂と五重塔)香色山より
 佐伯直氏の氏寺として建立されたのが善通寺です。
しかし、佐伯直氏の本流が中央貴族として、平城京や平安京・高野山に居を移すと善通寺は保護者を失うことになります。そのため中世の善通寺は「弘法大師生誕地の聖地」を全面に押し出して、中央の天皇や貴族の保護を受けて存続を図るようになります。その際のアイテムとなったのが「弘法大師御影」で、これが都の弘法大師伝説形成の核になります。
弘法大師御影(善通寺様式)
 このような戦略を推し進めたのが「誕生院」です。
誕生院は、建長元年(1249)に流刑中の高野山の学僧・道範(1178~1252)によって弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 そこに「善通寺中興の祖」といわれる宥範(1270~1352)が入り、諸堂の再建・修理に勤め伽藍整備おこないます。誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたと云われるようになり、その権威を高めていきます。こうして、誕生院が諸院の中で大きな力を持つようになります。ここでは、誕生院は中世になって生まれた宗教施設であること、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院であったことを押さえておきます。

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善通寺一円保絵図の東院と西院
中世の善通寺には30人近くの僧侶がそれぞれ院房をもち、彼らの集団指導体制で運営されていたことは以前にお話ししました。一円保絵図を見ると、善通寺周辺には、その僧侶たちの院房が散在していたことが分かります。東院の北側には「いんしょう(院主)」の院房も見えます。
 そのひとつが誕生院で、善通寺の西側に小さな伽藍が描かれています。後に流れているのが弘田川で、前には用水路があります。これらが多度郡の条里制に沿って流れていることを押さえておきます。
 中世以後は、この誕生院の院主が指導権を握ります。近世の善通寺復興をリードしていくのも誕生院院主です。誕生院は丸亀藩の保護を受けながら近世寺院への脱皮を計り、新たな伽藍を作り上げ「西院」と呼ばれるようになります。その他の院主は、善通寺と誕生院の間の空間に「集住」し、寺院を構えるようになります。こうして、善通寺は次のような3構成が出来上がります。
①古代からの善通寺(東院:伽藍)
②誕生院によって近世になって伽藍が形成された西院
③東院と西院の間の院房寺院群
そして近世の間に進行したことは、①の金堂や五重塔のある東院は「儀式のエリア=セレモニーホール化」し、日常的な宗教活動は誕生院で行われるようになったようです。そのためか今では、八十八ヶ寺の霊場巡りの中には、西院裏の駐車場に車を止めて朱印をいただくと東院の金堂にはお参りせずに、次に向かう人達も見かけます。現在の善通寺の宗教活動の中心は誕生院(西院)で、東院は金堂と五重塔のあるセレモニー空間になっている印象を受けます。

善通寺東院と西院2

誕生院が中心になっていったのは、どうしてでしょうか
それは西院の御影堂の変遷を見てみると分かります。近世前半に書かれた上の善通寺の絵図を見てみましょう。東院の東門から一直線に参道が誕生院に延びています。その延長線上に建立されたのが御影堂です。御影堂の本尊は、弘法大師伝説の核となる弘法大師御影です。そして、その延長線上には、佐伯氏を祀る廟が岡の上に建っていました。これらの配置を整えたのも誕生院でしょう。ちなみに佐伯廟のあった岡は、いまは駐車場となっています。

善通寺誕生院(拡大9
誕生院(西院)拡大図

 この絵図で見るように御影堂は、当初は小さな建物でした。それが近世を通じて何回も建て直されて次のように大型化していきます。
1回目は、方三間から方五間(17世紀中頃)
2回目は、方五間から方六間(17世紀後半)
3回目は、方八間規模(19世紀前期)
2回目の時には、御影の安置場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。17世紀の西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げる動きが見えます。18世紀前期になると、広がった御影堂前に拝所と回廊が設けらます。18世紀後期には、西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置され、十王堂(18世紀後期)、親鸞堂(19世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実整備が行われます。

誕生院絵図(19世紀)
善通寺誕生院(19世紀中頃)

 さらに近代になると、護摩堂・客殿が加わり、数多くのお堂が建ち並ぶ伽藍構成になります。つまり、善通寺の宗教活動は誕生院中心に展開され、東院は儀式の場としてのみ活用されることになったようです。現在でも西院は参拝する度に、新たな建物が加わったりして「成長」している感じを受けます。それに比べると東院は時間が止まった感じがするのも、そんな所からきているのかもしれません。このような西院の原型ができたのが17世紀末だったことを押さえておきます。
1 善通寺 仁王門
西院に入る前に、山門を守る仁王さまを見ておきましょう。
1 善通寺 金剛力士阿形
善通寺西院 金剛杵をとる阿形
  向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。

1 善通寺 金剛力士吽形
善通寺西院 金剛力士吽形 

  左の吽形は、口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開きます。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
修理解体時の時に像内から次のような墨書銘が見つかっています。
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日
ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  ここからは、この仁王さんは南北朝時代のものであることが分かります。
それでは、御影堂にお参りして、戒壇廻りを楽しみ、宝物館を参観してきて下さい。後ほどまたお会いしましょう。
4善通寺御影堂3
御影堂の扁額「弘法大師誕生之地」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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南北朝初期の康永元年(1342)ごろの善通寺の寺領目録には、次のような寺領が記されています。
善通寺々領目録
①壱円(善通寺一円保)
②弘田郷領家職善通寺修理料所
③羽床郷萱原村誕生院領
④生野郷内修理免
⑤良田郷領家職
⑥櫛無郷内保地頭職 当将軍家御寄進
己上
この目録によると善通寺領の一つとして⑥に「櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」と記されています。ここからは善通寺が「櫛無郷内保地頭職」を所有し、それが「当将軍=足利尊氏」の寄進によるものだとされていたことが分かります。この寺領の由来や性格について、今回は見ていくことにします。テキストは「 善通寺誕生院の櫛無社地頭職  町史ことひらⅠ 135P」です。

⑥が誕生院に寄進されたときの院主は、宥範になります。
宥範については以前にお話ししましが、櫛無郷で生まれた名僧で、「贈僧正宥範発心求法縁起」によると、彼は善通寺の衆徒たちに寺の再興を懇願されて、次のような業績を残しています。
元徳三年(1321)7月28日に、善通寺東北院に居住
建武年間(1334~38)に誕生院に移り
暦応年中(1338~42)より、五重塔並びに諸堂、四面の大門、四方垣地などをことごとく造営
こうして宥範は善通寺中興の祖といわれます。
その宥範が観応元年(1352)7月1日に亡くなる5日前の6月25日に、法弟宥源にあてて譲状持を作成しています。そのなかに次の一項があります。
一、櫛無社地頭職の事、去る建武3年(1336)2月15日将軍家ならびに岩野御下知にて宥範に成し下されおわんぬ。乃て当院の供僧ならびに修理等支配する者也

  意訳変換しておくと

一、櫛無神社の地頭職については、去る建武3年2月15日将軍家と岩野氏の御下知で宥範に下されたものである。よって誕生院の供僧や修理などに供されるものである。

ここからは誕生院の持つ櫛無保の地頭職は櫛無社地頭職ともいわれ、建武3年(1336)2月15日に、足利尊氏と「岩野」家より宥範に与えられたものであることが分かります。ここで「岩野」家が登場してきます。これが宥範の実家のようです。これについては、後で触れることにして先に進みます。
建武の新政 | 世界の歴史まっぷ

建武三(1336)年2月の讃岐を取り巻く情勢を見ておきましょう。
この年は鎌倉から攻め上った足利尊氏が京都での戦に破れて九州に落ちていく時です。尊氏は後備えのために中国・四国に武将を配置します。この中で四国に配されたのが細川和氏、顕氏で、彼らには味方に加わる武士に恩賞を与える権限が与えられます。和氏、顕氏はこの権限を用いて各地の武士に尊氏の名で恩賞を約し、尊氏方に従うよう誘ったのです。讃岐においても、細川顕氏が高瀬郷の秋山孫次郎泰忠に対して次のように所領を宛行っていたことが秋山文書から分かります。
讃岐国高瀬郷領家職の事、勲功の賞として宛行わる所也、先例を守り沙汰致すべし者、将軍家の仰によって下知件の如し
建武三年二月十五日        兵部少輔在御判
           阿波守在御判(細川顕氏)
秋山孫次郎殿            
日付を見ると、誕生院宥範が櫛無社地頭職を与えられたのも同じ日付です。ここからは、この宛行いも目的は同じで、顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院に所領を寄進して、その支持を取り付けようとしたものであることが分かります。
櫛無郷

ここで疑問に思えてくるのが島津家が持っていた櫛無保の地頭職との関係です。
貞応三年(1324)以来、櫛無保守護職は薩摩守護の島津氏が地頭職を得ていたはずです。これと誕生院が尊氏から得た櫛無保内地頭職(櫛無社地頭職)は、どのような関係にあるのでしょうか
このことについて、別の視点から見ておきましょう。
「善通寺文書」のなかに、建武五年(1328)7月22日に、宥範が櫛無保内の染谷寺の寺務職を遠照上人に譲った譲状があります。
染谷寺とは持宝院のことで、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。この寺伝には、文明年中(1469~86)に奈良備前守元吉が如意山に城を築く時に寺地を移したと伝えられます。もともとは、この寺は、島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中ににあったようです。譲状の内容を要約して見ておきましょう。
染谷寺(持宝院)は宝亀年中(770~80)の創立で、弘法人師御在生の伽藍であるが、年を経て荒廃していたのを、建久年間(1190~98)に、重祐大徳が残っていた礎石の上に仏閣を再建した。さらに嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立した。これより以来「偏に地頭家御寄附の大願所として」、珍慶・快一・尊源・公源・宥範と歴代の住持が御祈躊を重ねてきた。
 宥範も寺務職についてから多年御祈躊の忠勤を励んできたが、老齢になったので、先年門弟民部卿律師に寺務職を申し付け、努めて柴谷寺に住して「地頭家御所願の成就を祈り奉る」よう命じていた。ところが、民部卿律師はこの十数年京都に居住して讃岐の寺を不在にして、宥範の教えに違背した。そこで改めて奈良唐招提寺の門葉で禅行持律の和尚であり密宗練行の明徳である遠照上人を染谷寺寺務職とし、南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与することにした。しからば、長く律院として、また真言密教弘通の寺院として興隆に努め、「天長地久の御願円満、殊に地頭家御息災延命御所願の成就を祈り奉るべき也」

「嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立」とありますが、この年は島津忠義が櫛無保の地頭に任じられてから12年後のことになります。「地頭御寄附の大願所」とあるので、珍慶の伽藍建立には、地頭島津氏の大きな援助があったことがうかがえます。荘園領主や地頭が、荘民の信仰を集めている荘園内の神社や寺院を援助、保護する、あるいはそれがない時には新たに建立することは、領主支配を強化する重要な統治政策です。島津氏も染谷寺に財物や寺領を寄進して再建を援助することで、信仰のあつい農民の支持を取り付け、また自身の家の繁栄を祈らせたのでしょう。  また「南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与」とあるので、持宝院は周囲の谷に広がる田畑や山林を寺領として持っていたようです。
櫛梨
持宝院(現在は廃寺)
こうして見ると「⑥櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」というのは、櫛梨保全体のことではないようです。
善通寺寺領の「⑥櫛無郷内保地頭職」は、櫛梨保の一部であったものが、染谷寺(持宝院)が島津氏によって建立された際に、寺領としてして寄進されたエリアであると云えそうです。そのため櫛無保における誕生院の地頭職と島津氏の地頭職は、互いに排斥し合うものではなく両立していたと研究者は考えています。
 そうだとすると誕生院の「櫛梨社地頭職」というのは、櫛無保の一部を地頭職の名目で所領として与えられたことになります。また「櫛無地頭職」ともあるので、櫛無神社の社領であったところでもあるようです。荘園の一部が荘内の寺院、神社に寄進されて自立した寺社領となることは、よくあることでした。櫛無神社は、神櫛皇子を祭神とし、「延喜式」の神名帳に載る式内神社です。
 この推測が当たっているとすれば、神仏混淆が進んだ南北朝・室町時代には、櫛無神社も誕生院の管領下にあったことになります。つまり櫛無神社の別当寺が善通寺で、その管理は善通寺の社僧が行っていたことになります。櫛無神社の祭礼などのために寄進された田地は、善通寺が管理していたようです。
 讃岐忌部氏の氏寺で式内社の大麻神社が鎮座する大麻神社の南には、称名寺というお寺がありました。
宥範も晩年は、この寺で隠居しようと考えた寺です。この寺も善通寺の末寺であったようです。善通寺で修行し、後に象頭山に金比羅堂を建立した宥雅も、称名寺に最初に入ったとされます。彼は西長尾城主の弟とも伝えられ、長尾一族の支援を受けながら称名寺を拠点に、象頭山の中腹に新たな宗教施設を造営していきます。それが金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の始まりになります。
 私は、称名寺・瀧寺・松尾寺などは、善通寺の「小辺路」ルートをめぐる修験者たちの行場に開かれた宗教施設が始まりと考えています。櫛梨の公文山にある持宝院も、広く見ればその一部であったと思うのです。それらの管理権は、善通寺が握っていたはずです。例えば、江戸時代になって善通寺誕生院が金毘羅大権現の金光院を自分の末寺として藩に訴え出ていることは以前にお話ししました。これも、当寺の善通寺が管理下に置いていた行場と辺路ルートにある宗教施設を考慮に入れないと見えてこないことです。

  最後に宥範と実家の岩野家について見ておきましょう。
  14世紀初期の善通寺の伽藍は荒廃の極みにありました。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように、隠居地の称名寺に嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
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櫛梨城跡から南面してのぞむ櫛無保跡 社叢が大歳神社 

そして、建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
 これは先ほど見たように「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。宥範には有力パトロンとして、実家の岩野一族がいたことを押さえておきます。

 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧が管理運営していたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。

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       琴平町上櫛梨小路の「宥範僧正誕生之地」碑
 別の研究者は、次のような見方を示しています。

  「大歳神社の北に「小路(荘司)」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

櫛梨保の現地管理人として島津氏が派遣した「保司」が居館を構えていた跡に大歳神社が建立されたと云うのです。そして、宥範の生地とされる場所も、この周辺にあります。つまり、岩野氏は島津氏の下で、櫛梨保の保司を務めていた現地の有力武将であったことになります。当寺の有力武将は、一族の中から男子を出家させ、菩提を供来うとともに、氏神・氏寺の寺領(財産)管理にも当たらせるようになります。宥範もそのような意図を持って、岩野家が出家させたことが考えられます。
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    「宥範墓所の由来」碑(琴平町上櫛梨)背後の山は大麻山
 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。
 それを見て、長尾城主もその子を善通寺に出家させます。それが、先ほど見た宥雅で、彼は一族の支援を受けて新たな宗教施設を象頭山中腹に造営していきます。それが現在の金刀比羅宮につながります。

   以上をまとめておくと
①鎌倉時代の承久の変後に櫛無保地頭職を薩摩守護の島津氏が得て「保司」による支配が始まった
②島津氏は櫛梨保の支配円滑化のために式内社の櫛無神社を保護すると共に、新たな信仰拠点として、持宝院を建立し寺領を寄進した。これが「櫛無郷内保地頭職(櫛梨社地頭職)」である。
③その後「櫛無郷内保地頭職」は、南北朝動乱の中で細川顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院宥範のの支持を取り付けようとして、誕生院に寄進された。
④その寄進に対して、宥範の一族である岩野氏も同意している。
以上からは、岩野氏が櫛梨保の「保司」あるいは「荘司」であり、宗教政策として櫛梨保内の寺社などの管理権を一族で掌握し、ひいては善通寺に対する影響力も行使していたことがうかがえます。宥範の善通寺伽藍再興も、このような実家である岩野氏の支援があったからこそできたことかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
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丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
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今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
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大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
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大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
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さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
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薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
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ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

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 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
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しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
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称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
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現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献

金毘羅大権限神事奉物惣帳
金毘羅大権限神事奉物惣帳
金刀比羅宮に「金毘羅大権限神事奉物惣帳」と名付けられた文書が残されています。その表には、次のような目録が付けられています。
 一 諸貴所宿願状  一 八講両頭人入目
 一 御基儀識    一 熊野山道中事
 一 熊野服忌量   一 八幡服忌量
この目録のあとに、次のように記されています。
 右件惣張者、観応元年十月日 於讃州仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢(おわんぬ)とあります。

宥範は、櫛無保出身で、善通寺中興の名僧です。その宥範が、観応元年(1350)十月に、この文書を小松荘松尾寺で写したというのです。そのまま読むと、松尾寺と宥範が関係があったと捉えられる史料です。かつては、これを根拠に金光院は、松尾寺の創建を宥範だとしていた時期がありました。しかし、観応元年の干支は己未ではなく庚寅です。宥範がこのような間違いをするはずはありません。ここからも、この記事は信用できない「作為のある文書」と研究者は考えているようです。そして、冊子の各項目は別々の時期に成立したもので、新設された金毘羅大権現のランクアップを図るために、宥範の名を借りて宥睨が「作為」したものと今では考えられています。

法華八講 ほっけはっこう | 輪王寺
輪王寺の法華八講
 この文書は「金毘羅大権現神事奉物惣帳」と呼ばれています。
中世小松荘史料
町誌ことひらNO1より
「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも適当ではなく『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。内容的には中世に松尾寺で行わていた法華八講の法会の記録のようです。これを宥範が写したことの真偽については、さて置おくとして、書かれた内容は実際に小松庄で行われていた祭礼記録だと研究者は考えているようです。つまり、実態のある文書のようです。
中世小松荘史料

ここに登場してくる人たちは、実際に存在したと考えられるのです。このような認識の上で、町誌ことひらをテキストに「諸貴所宿願状」に登場してくる人たちを探っていきます。
です。まず「宿願状」の記載例を見てみましょう。
 (第一丁表)
  八講大頭人ヨリ
奇(寄)進(朱筆)一指入御福酒弐斗五升 コレハ四ツノタルニ可入候        一折敷餅十五マイ クンモツトノトモニ
地頭同公方指合壱石弐斗五升
         一夏米壱斗 コレモ公方ヨリ可出候
         一加宝経米一斗
同立(朱筆)願所是二注也
         (中略)
(第三丁裏)
 八講大頭人ヨリ指入
 奇進      一奉物道具  一酒五升
         紙二条可出候 一モチ五マイ
         新庄石川方同公方指合弐斗五升
         立願所コレニ注   一夏米
      (下略)

ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前が書かれ、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。この家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えます。ここからは、彼らが小松庄を支配する国人・土豪クラスの領主などであることがうかがえます。家名の順序は、次のようになっています。
地頭方の地頭 → 地頭代官 →領家方の面々

まりこの記録には「実態」があるのです。

記された名前は祭祀の宿を願い出たもので、メンバーの名前の部分だけ列挙すると次のようになります。
  恩地頭同公家指合壱石弐斗五升
  御代官御引物
  御領家
  本庄大庭方同公方指合弐斗五升
  本荘伊賀方同公方指合弐斗五升
  新庄石川方同公方指合弐斗五升
  新荘香川方同公方弐斗五升
  能勢方同公方指合壱斗御家分
  岡部方同公方指合五升
  荒井方同公方指合五升
  滝山方同公方指合五升
  御寺石川方同公方指合弐斗五升
  金武同公方指合弐斗五升
  三井方
  守屋方
  四分一同公方指合壱斗
  石井方
 これは祭祀の興行を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示しているようです。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれています。
小松の荘八講頭人

小松の荘八講頭人4

指入=差し入れ(奉納)」の内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。  以上から、この史料からは16世紀前半ころに小松庄には三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことが証明できます。
  この史料だけでは、分からないので補足史料として、江戸時代にの五条村の庄屋であった石井家の由緒書を見てみましょう。(意訳)
鎌倉時代には、新庄、本庄、安主、田所、田所、公文の5家が神事を執行していた。この五家は小松荘の領主であった九条関白家の侍であった。この五家が退転したあと、観応元(1350)年から、大庭、伊賀、石川、香川、能勢、荒井、滝山、金武、四分一同、石井、三井、守屋、岡部の13軒が五家の法式をもって御頭支配を勤めた。
 その後、能勢は和泉(泉田)に、滝井は山下となり、七家が絶家となって、石井、石川、守屋、岡部、和泉、山下の六家が今も上頭荘官として、先規の通りに上下頭家支配を勤めている
 ふたつの史料からは、次のようなことが分かります。
①「諸貴所宿願状」に登場してくる大庭以下13の家は、法華八講の法会において神霊の宿となり、祭礼奉仕の主役を勤める頭家に当たる家であった
②これが後に上頭と下頭に分かれた時には、上頭となる家筋の源流になる。
③「宿願状」には、何度かの加筆がされている永正十二(1515)から大永八年(1528)に作成された。その時期の小松荘の祭礼実態を伝える史料である
④この時期にはまだ上頭・下頭に分かれていないが、「岡部方同公方指合五升」とあるので、この公方が頭屋の負担を分担する助頭の役で、後に下頭となったことがうかがえる。
⑤「八講両頭人人目」には「上頭ヨリ」、「下頭ヨリ」とあるので、慶長八年(1603)ごろには、各村々に上頭人、下頭人が置かれていた
⑥「指合五升」などとあるのは、十月六日に行われる指合(さしあわせ)神事で、頭屋が負担する米の量である。

また、初期の投役には、「本荘大庭方」・「本荘伊賀方」・「新荘石川方」・「新荘香川方」と記載されています。ここからは小松荘に「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこにいた有力家が2つ投役に就いていたことがうかがえます。

 それでは本荘・新荘は、現在のどの辺りになるのでしょうか。
「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが小松荘の中核で、もともとの立荘地とされています。しかし、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。

小松庄 本荘と新荘
山本祐三 琴平町の山城より

 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。ただ小松荘では、新しく開発や寄進が行われたことを示す史料はありません。
 それに対して、「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。これを領主による荘園支配の過程で、本・新荘が分かれたのではないかと「町誌ことひら」は推測しています。そして小松荘が本荘・新荘に分かれたのは鎌倉末期か、南北朝時代のことではないかとします。
戦国時代のヒエラルキー

 小松荘の地侍の台頭
この八講会には、地頭、代官、領家などの領主層が加わっているから、村人の祭とはいえない、それよりも領主主催の祭礼運営スタイルだと町誌ことひらは指摘します。
「石井家由諸書」によれば、この法会は嵯峨(後嵯峨の誤り)上皇によって定められたとあります。それはともかく、この三十番社の祭礼は小松荘領主九条家の意図によって始められたと研究者は考えています。荘園領主が庄内の信仰を集める寺社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとするのは一般的に行われたことです。その祭礼を行うために「頭役(とうやく)」が設けられたことは、以前にお話ししました。頭役(屋)になると非常に重い負担がかかってきますから、小松荘内の有力者を選んでその役に就けたとのでしょう。
 「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。
それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったというのです。彼らは領主側に立つ荘官とは違って、荘民です。南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘にの惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったようです。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。
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石井家に伝わる古文には、次のように記されています。
 同名(石井)右兵衛尉跡職名田等の事、毘沙右御扶持の由、仰せ出され候、所詮御下知の旨に任せ、全く知行有るべき由に候也、恐々謹言
    享禄四            武部因幡守
      六月一日         重満(花押)
   石井毘沙右殿          
ここには、(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田を石井毘沙右に扶持として与えるという御下知があったから、そのように知行するようにと記された書状です。所領を安堵した武部因幡守については不明です。しかし、彼は上位の人の命令を取り次いでいるようで、有力者の奉行職にある人物のようです。
  石井毘沙右に所領名田を宛行ったのは誰なのでしょうか?
享禄4年(1531)という年は、阿波の細川晴元・三好元長が、京都で政権を握っていた細川高国と戦って、これを敗死させた年になります。この戦に讃岐の武士も動員されています。西讃の武将香川中務丞も、晴元に従って参戦し、閏五月には摂津柴島に布陣しています。小松荘の住人石井右兵衛尉、石井毘沙右も晴元軍の一員として出陣したのかもしれません。その戦闘で右兵衛尉が戦死したので、その所領が子息か一族であった毘沙右に、細川晴元によって宛行われたのではないかと町誌ことひらは推測します。
中世の惣村構造

このように地侍は、次のようなふたつの性格を持つ存在でした。
①村内の有力農民という性格
②守護大名や戦国大名の被官となって戦場にのぞむ武士
彼らは一族や姻戚関係などによって、地域の地侍と結び、小松庄に勢力を張っていたのでしょう。
Vol.440-2/3 人を変える-3。<ことでん駅周辺-45(最終):[琴平線]琴電琴平駅> | akijii(あきジイ)Walking &  Potteringフォト日記

興泉寺というお寺が琴平町内にあります。この寺の系図には次のように記されています。
泉田家の祖先である和田小二郎(兵衛尉)は、もと和泉国の住人であった。文明十五年(1483)、小松荘に下り、荒井信近の娘を妻とした。しかし、男子が生まれなかったので能勢則季の長子則国を養子とした。その後、能勢家の後継ぎがいなかったので、則国は和田、能勢両家を継いで名字を泉田と改めた。また和田、能勢家は、法華八講の法会の頭屋のメンバーであった。

ここからは、法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。前回お話ししたように、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

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 その後、豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。小松荘の地侍たちの多くは、後者を選んだようです。江戸時代になると次の村の庄屋として、記録に出てきます。
石井家は五条村
石川家・泉田家は榎井村
守屋家は苗田

地侍(有力百姓) | mixiコミュニティ
地侍(有力農民)
  彼らによって担われていた祭りは、金毘羅大権現の登場とともに様変わりします。
生駒藩のもとで、金光院が金毘羅山のお山の支配権を握ると、それまでお山で並立・共存していた宗教施設は、金光院に従属させられる形で再編されていきます。それを進めたのが金光院初代院主とされる宥盛です。彼は金光院の支配体制を固めていきますが、その際に行ったひとつが三十番社に伝わる法華八講の法会の祭礼行事を切り取って、金毘羅大権現の大祭に「接木」することでした。修験者として強引な手法が伝えられる宥盛です。頭人達とも、いろいろなやりとりがあった末に、金毘羅大権現のお祭りにすげ替えていったのでしょう。宥盛のこれについては何度もお話ししましたので、省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」
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櫛梨神社が鎮座する櫛梨山
 
  櫛梨神社と宥範の関係については、以前にお話ししました。
今回は、その話しにもとづいて宥範の里を歩いてみようと思います。まずは、その生誕地とお墓を訪れてみましょう。丸亀平野を南北に区切るのが如意山です。その西側の頂が櫛梨山で、ここには麓に櫛梨神社があります。その背後には、毛利方が西讃岐支判の拠点とした櫛梨山城があります。

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 櫛梨山からの眺めは抜群で、南には丸亀平野が拡がり、その向こうに阿讃山脈が東西に低く連なります。目を落とすと眼下に見える鎮守の森が大歳神社です。大歳神社は櫛梨神社の御旅所ともされ、その周辺に宥範の生家岩野家はあったとされます。
 ある研究者は、宥範の生家と大歳神社の関係について、次のように記します。

大歳神社の北に「小路」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

ここからは次のようなことが類推できることが分かります。
①大歳神社の北に「小路」の地字が残ること。
②「小路」から櫛梨保が荘園化して荘司がいたこと
③鎌倉時代以降も、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立されたこと
さっそく「小路」に行ってみましょう。
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  コミュニティーバスの停留所名に「小路(しょうじ)」とあります。「しょうじ」という地名が出てくれば、研究者はすぐに「庄司」と頭の中で変換して、中世の荘園機構の一部があったところと推察します。ちなみに、この集落の背後の鎮守の森が大歳神社です。そして、すぐ後が「小路」集落の墓地になります。中世にはここに寺院もあったようですが、今は墓地だけが残っています。この墓地に宥範の墓はあるようです。

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「宥範墓所の由来」碑

 ここには 大麻山(象頭山)を背景に「宥範墓所の由来」碑があり、次のように記されています
「宥範増上は今から700年ほど前に、この上櫛梨の地に生まれ、若き日に大歳の社に参籠し、心願を念じ、その大願を達せられんことを祈った。」

と宥範縁起を要約した内容です。宥範縁起は、応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源が書いたもので正式には『贈僧正宥範発心求法縁起』と呼ばれるようです。

少し長いですが「宥範縁起」を意訳変換しておきます
宥範僧正は文永七年(1270)に那珂郡櫛梨郷で生まれ、幼い頃に櫛梨郷の北に釜える標高158mの如意山の麓にあった如意谷新善光寺に通って、上人から読み、書き及び経典を教わった。弘安十年(1287)17歳の時に出家して大式坊と名乗り、香河郡坂田郷にあった無量寿院の覚道上人について東密、特に金剛界のことを学んだ。翌年18歳の時に新善光寺の上人の勧めに従い、信濃国の善光寺で浄土教を学んだ。21歳の時帰国して、無量寿院で胎蔵界のことを学んだ。永仁元年(1293)4月24日無量寿院で三宝院実賢から潅頂を受け西三谷(飯山町三谷寺?)で倶舎を学んだ。水仁2年25歳の時に、備前国出身の観蔵坊と連れになり、高野山に修学のために行った。しかし、高野山は南北朝の内乱で荒れていて学問をするような状態ではなく、宥範は高野山を去ったが、観蔵坊は留まった。
 宥範は下野国の鶏足寺に行き、学頭頼尊から事相(実践修法面)教相(教義面)を学び、26歳の時に三宝院成賢方の灌頂を四人の僧と伴に受け、名を了賢坊と改めた。鶏足寺は東・台両密兼学の学問所だつたが、台密は捨てた。
 永仁五年28歳の時鶏足寺を出て衣寺に行き、妙祥上人から大日経の奥疏を学ぼうとしたが、妙祥上人は老齢の隠居の身であるとして宥範の申し出を断わり、奥州ミカキ郡の如法寺の道性房が大日経の奥疏の権威であると教えてくれた。下野国の赤塚寺の衆徒の浄乗坊も一緒に行くことになり、赤塚寺の寂静坊にあいさつに行くと途中で食べるようにといって大きな二連の串柿をくれた。この時天下は大早で、串柿や松の葉などを食べながらやつとの思いで如法寺に着くと道法房という人がいて、大日経の奥疏に詳しくはないというので暫く逗留して、下野国に帰ることにした。
 途中は大飢饉で、野山に自生する蕗をとって食べ、炎天下で肌は黒く焼け、食べるものもなくやせおとろえて鶏足寺に辿り着いた。その姿を見た妙祥上人は鶏足寺で、大日経の奥疏を学ぶことを許可してくれた。正安元年(1299)30歳の時に妙祥上人の伴をして武蔵国の広田寺と伊豆国走湯山の密厳院に行った。妙祥上人の勧めで一「妙印抄』を著すことになり、のちいつしか、三十五巻として完成させた。
 嘉元三年(1305)36歳の時に鎌倉殿に招かれて妙祥上人は鎌倉に行くことになり、宥範に伴をするようにいった。が、生まれ故部に帰って両親にから帰国するようにいった旨を上人に告げると、上人は密厳院の覚典を一人前の僧侶に育ててから帰国するようにと云った。
 覚典が一人前の僧侶に僧侶になったので、徳治死年(1306)36歳の時に、京都を経て西宮で船に乗ると順風に恵まれ、香河郡八輪島(屋島)観音堂前にあっという間に着いた。無量寿院の末寺の野原郷の常福寺にいた師の覚道上人と再会を果たした。徳治2年以後、櫛梨郷の正覚寺にたびたび通って両親に孝行をし、また、善通寺に度々通って終に寂園坊に住んだ。覚道上人に隠遁の志を告げると、常福寺の傍らに草庵をつくつて住むようにいった。この草庵に野原草堂という名前をつけた。
徳治二年に善通寺の末寺で奥の院でもあった称名院(象頭山)の傍らに草庵をつくって住み、この草庵に小松小堂という名前をつけた。延慶二年(1309)から嘉暦三年(1328)迄の十八年の間に数度上洛して、安祥寺に行き、大日経の奥疏を極めることにした。鎌倉から妙祥上人の弟子の是咋房が小松小堂を訪れ、宥範に再び一「妙印抄』を著すように勧めて、元徳2年(1330)に『妙印抄』85巻を完成させた。この年に善通寺の奥の院の称名寺に移った。
 善通寺の衆徒たちがやって来て宥範に善通寺に入って大破した善通寺を復興するよう再三頼んだので、元徳三年七月二十八日に善通寺に入つて東北院に住んだ。元弘年中(1331~33)に誕生院を造営し始めて、建武年中(1334~38)に完成なった誕生院に移り住んだ。暦応年中(1338~1342)には五重の塔・四面大門・四方垣をつくり終えた。観応三年(1352)7月1日誕生院で弟子の宥源にみとられて、遷化した。享年八十三歳であった。

「宥範縁起」は、幼少の頃から弟子として宥範に仕えた宥源僧都が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。
応安四年(1371)三月十五日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。 ここからは以下のようなことがうかがえます
①如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②そのため香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ後に信濃の善光寺で浄土教を学んだこと。
③その後、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだこと
④善通寺を拠点にしながら各地を遊学し大日経の解説書を完成させたこと
⑤現在の金毘羅宮の下の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に担ぎ出されたこと
⑥14世紀中頃に、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。
東国での修行を終えて36歳で帰国した宥範は、両親に孝行するため、善通寺の野原草堂から正覚寺にたびたび通ったと記されています。ここからは、宥範の両親がいる居館(大歳神社?)家と正覚寺は近かつたことがうかがえます。さきほど見た小さな墓地は地元では「宥範三昧」と呼ばれているようです。
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         「宥範三昧」と呼ばれる墓地
この墓地は、もとは正覚寺の墓地であったのが、寺が無くなって墓地だけが残ったのかもしれません。
宥範の両親が亡くなると正覚寺の墓地に葬られ、宥範は宥源に自分が亡くなると両親の墓のそばに葬つてくれるよう頼んだとしておきましょう。墓地の中に小さなお堂があって、この中に宥範の石像が安置されています。
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小路の中
それでは宥範の実家は、どこにあるのでしょうか?
墓地の北側にの集落が「小路」で、集落内にある森氏宅が宥範の生誕地とされています。そこには大きな「宥範僧正誕生之地」と刻された石碑と地蔵が建っています。

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「宥範僧正誕生之地」碑
宥範は、建武三年(1336)誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という経済的保護者が背後にあったことも要因のひとつのようです。

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櫛梨神社に続く参道

 そうだとすれば、櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧の管理にあったことになります。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからも大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。14世紀には上櫛梨や櫛梨神社は、宥範の実家である岩野一族の支配下にあったとすれば、次のような疑問が浮かんできます。
①岩野氏のその後はどうなっていくのか。武士団化するのか
②櫛梨神社の背後の山城・櫛梨城と岩野氏の関係は?
③東隣の公文にあったとされる島津氏の所領との関係は?
④丸亀平野南部で「戦国大名化」する長尾氏との関係は・
それはまた課題と言うことにして・・・

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 羽床雅彦 宥範松尾寺初代別当説は正か否か?   
         ころひら65号 平成22年


   1讃州象頭山別当職歴代之記
上の史料は金毘羅大権現の系譜「讃州象頭山別当職歴代之記」です。一番右に、次のように記されています。
宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 
住職凡   応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄凡三百年余歴代系嗣不詳
ここには、松尾寺の初代別当を宥範としています。それから3百年間の歴代別当の系譜は「不詳」とします。そして、三百年後に2番目に挙げられるのが「法印宥遍」とあります。この宥遍という人物は、金毘羅さんの史料には見えない名前です。いったい何者なのでしょうか。それはおいておくとして、歴代の別当職をならべると
初代 宥範 → 2代 宥遍 → 3代 宥厳 → 4代 宥盛 → 5代 宥睨

となるようです。初代の宥範は、以前にも紹介しましたが「善通寺中興の祖」として、中讃地区では著名な人物でした。その宥範が金毘羅大権現の創始者とされたのでしょうか。それを今回は見ていこうと思います。テキストは「羽床雅彦  宥範松尾寺初代別当説は正か否か?  ことひら65号 平成22年」です

 宥雅と松尾寺創建  
松尾寺は16世紀後半に長尾家一族の宥雅が創建した寺でした。そして、その守護神として創始されたのが金毘羅神です。
長らく金刀比羅宮の学芸員を務められた松原秀明氏は、今から40年ほど前に、その著書「金昆羅信仰と修験道」の中で、次のように指摘しています。
「本宮再営棟札」と言われている元亀四年十一月二十七日の象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿の棟札に、
「当寺別当金光院権 少僧都宥雅」と見えている。その裏には「金毘羅堂建立本座鎮座」ともあって、この時はじめて、金毘羅大権現が松尾寺の一角に勧請されたのでないかと考えられる。」
 松原氏は、それまで「再営」とされてきた元亀四年(1573)の日付が記された棟札は、本宮「再営」ではなく「鎮座」で、金昆羅堂が創始された時のものであると主張したのです。さらに、松原秀明氏は「近世以前の史料は、金毘羅宮にはない」と「宣言」します。
印南敏秀氏もその著書の中で、次のように指摘します。
金毘羅の名が最初に登場するのは、元亀四年(1573)の金昆羅宝殿の棟札である。天文16年(1547)まで140年間続いた遣明船で祈られた航海守護の神仏の名が『戊子入明記』(天与清啓著、応仁二年(1468)には記されているが、そのなかには、金毘羅の名は見えない。ここには、住古大明神、伊勢大神宮、厳島大明、伊勢大神宮、厳島神社、不動明など、当時の神仏が列挙されている。金毘羅神は、それまではなく元亀4年ごろに初めて祀られたのかも知れない。
 住吉信仰から金毘羅信仰へ」(『海と列島文化 9 瀬戸内の海人文化』、 一九九一年、小学館発行)
  これは金毘羅宮の歴史は、古代にまで遡るものではないという立場表明です。金毘羅神は、近世になって宥雅によって新たに生み出されたのだという「金毘羅神=近世流行(はやり)神」説が認められるようになります。同時に、金毘羅大権現の形成も近世に始まると考えられるようになりました。16世紀末に松尾山(後の象頭山)に鎮座した金毘羅大権現が流行(はやり)神として急速に、発展していったことになります。
以後、研究者達が取り組んできた課題は次のようなものでした。
①金毘羅神が、いつ、誰によって創り出されたのか
②金毘羅神は、修験者の天狗信仰とどのような関係があるのか
③金毘羅神は、当初は海の神様とは関係がなかったのではないか
④金毘羅信仰の布教を行ったのは誰なのか
  近年に刊行された琴平町の町誌も、このような課題に答えようとする立場から書かれています。このような中で金毘羅神の創出を、讃岐に伝わる神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治の発展系であることを指摘したのが羽床正明氏です。
羽床氏は金毘羅神の創出、金比羅堂建立過程をどのようにみているのでしょうか
金昆羅堂の創建者は宥雅(俗名は長尾高広)です。これは最初に見たように、元亀四年の象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿の棟札で裏付けられます。宥雅はまんのう町長尾に居館を置き、その背後の西長尾城を拠点に勢力を拡大してきた在地武士の長尾大隅守高家の甥(弟?)でした。彼が悪魚退治伝説の「悪魚 + 大魚マカラ + ワニ神クンピーラ」を一つに融合させ、これに「金昆羅王赤如神」という名前を付けて、金昆羅堂を建てて祀ったと羽床氏は考えています。
長尾高広(宥雅)は、空海誕生地とされる善通寺で修行したようです。
そのため「善通寺中興の祖=宥範」の名前から宥の字のついた「宥雅」と名乗るようになります。
称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺は現在の金毘羅宮神田のある「大西山」にあった寺院

そして、善通寺の奥の院であった称名院を任されるようになります。称名院は現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院で、道範の「南海流浪記」にも登場します。道範が訪れた時には九品僧侶の居住する阿弥陀信仰の念仏寺院だったようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅が入ったのは元亀元年(1570)頃と羽床氏は考えます。
1象頭山 地質

 称名寺の谷の上には、松尾山の霊域がありました。
ここは花崗岩の上に安山岩が乗った境で、花崗岩の上は急傾斜となり、窟なども多数あって修験者たちの行場ともなっていたようです。この霊地に宥雅は、新たな寺院を建立します。それを勢力増大著しい長尾氏一族も支援したようです。羽床氏の説を年表化すると以下のようになります。
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂(松尾寺本堂)建立
1573年  四段坂の下に金比羅堂建立
 松尾寺の中腹にあって荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。有名なものは何でも使おうとする姿勢がうかがえます。
 そして三十番社の祠のそばに観音堂(本堂)を建立します。つまり、松尾寺の本尊は観音さまだったようです。その後に、松尾寺の守護神を祀るお堂として建立されたのが金毘羅堂だったと研究者は考えているようです。
境内変遷図1

それでは金比羅堂は、どこに建てられたのでしょうか?
宥雅は「金毘羅王赤如神」は創造しましたが名前けの存在で、神像はつくられず、実際に本尊として祀られたのは薬師如来であったと羽床氏は考えているようです。
 ワニ神クンピーラの「化身」とされたのが宮毘羅大将です。宮毘羅大将が仕えるのは薬師如来です。こうして、金毘羅堂の本尊は、宮毘羅大将をはじめとする薬師十二神将を支配する薬師如来が安置されたようです。

1金毘羅大権現 創建期伽藍配置
現在の本宮がある所は、かつては松尾寺の本堂である観音堂がありました。
観音堂に続く四段坂という急な階段の下の北側に、最初の金毘羅堂は建てられたようです。それが元和九年(1623)には、現在旭社がある所に新たに新金昆羅堂がつくられます。その本尊が薬師如来だったためにいつの間にか薬師堂という呼び名が定着します。そのため「新金昆羅堂→薬師堂」となってしまいます。 新金毘羅堂ができると、それまでの旧金昆羅堂は役行者堂とされ、修験道の創始者役行者が祀られるようになります。ちなみに幕末になると、薬師堂(新金毘羅堂)をさらに大きく立派なものに建て直してすことになり、文化十年(1813)に二万両という寄進により建立されたのが「金堂(現旭社)」になるようです。落慶法要の際には、金堂には立派な薬師如来と薬師十二神将が安置されていたようです。これも明治の廃仏毀釈で、オークションに掛けられ売り払われてしまいました。金刀比羅宮で一番大きな木造建造物の金堂は、明治以後は旭社と呼ばれ、いまはがらんどうになっています。
「金比羅堂 → 薬師堂 → 金堂 → 旭社」の変遷を追いかけ過ぎたようです。話を宥雅にもどしましょう。
 宥雅の松尾寺建立事業に影響を与えた人物が宥範であると、羽床氏は考えます。
 善通寺で修行した宥雅にとって、宥範は憧れのスーパースターです。宥範は、当時の中讃地域においては空海に次ぐ知名度があった僧侶のようです。宥範の弟子の宥源が著した『宥範縁起』を、宥雅は書写しています。宥範が善通寺復興のために勧進僧として、日本各地の寺を訪れ活躍したことをよく知っていました。宥範のように新たな寺を作り出すというのが彼の夢として膨らんだとしておきましょう。それを実行に移すだけのパトロンが彼にはいました。それが西長尾城の長尾一族です。宥雅の松尾山に新たな寺院を建立し、庶民信仰の流行神を祀るという夢が動き出し始めます。
金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「松尾寺=金比羅寺」の開祖にするための「工作」について見てみましょう。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていて、松尾寺や金毘羅の名は出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
意訳変換しておくと
「善通寺の宥範は、姓は岩野氏で、讃州那賀(仲郡)の人である。…そこで、猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。すると、神が現れて日く、「我は天竺の神である、摩但哩(理)神和尚を加持して、霊山の霊力を贈ろう。…その後、宥範は金毘羅(松尾寺)を開き、禅坐し修学に励んだ。そして寛(観)庶三年(1352)七月初朔、83歳で亡くなった」
ここでは、「宥範が「幼年期に松尾寺のある松尾山に登って金比羅神に祈った」ことが加筆挿入されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせるやり方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、書き留められています。「古い反故にされた紙に書かれていたものを写した」というのです。このように宥雅が、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。
 宥雅は松尾寺本堂には十一面観音立像の古仏(平安時代後期)を安置したと羽床氏は考えます。この観音さまは、道範の『南海流浪記』に出てくる称名寺の本尊を移したものであり、もともとは、麓にあった小滝寺(称名寺)の本尊であったとします。
 尊敬する宥範は、かつては称名寺に住んでいたと『宥範縁起』には記されています。
ここから宥雅は、宥範を松尾寺の初代別当とする系譜をつくりだします。そして、現在書院がある所に宥範の墓をつくり、石工に宥範が初代別当であると彫らせます。こうして宥雅による「金光院初代別当=宥範」工作は完了します。
こうして最初に見た「讃州象頭山別当職歴代之記』には、松尾寺の初代別当の宥範であると記されるようになります。ここまでは宥雅の思い通りだったでしょう。四国霊場の多くの寺が、その縁起を「行基開山 弘法大師 中興」とするように、松尾寺も「宥範開山 宥雅中興」とされる筈でした。
羽床雅彦氏は、宥雅によって進められた松尾寺建立計画を次のように整理します
①松尾寺上の房 現本社周辺で三十番社・本堂(観音堂)・金比羅堂
②松尾寺下の房 図書館の上 称名院周辺
 ①と②の上の坊と下の坊を合わせた松尾寺が、宥雅によって新しく姿を見せたのです。
それでは、宥雅が歴代院主の中に入っていないのは何故でしょうか?
文政二年(1819)に書かれた『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)には、次のように記されています。
宥珂(宥雅)上人様
当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳。高家処々取合之節加勢有し之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持レ之、泉州堺へ御落去。故二御一代之列二不入レ云。
意訳変換しておくと
宥雅様は讃岐の西長尾城主である長尾大隅守高家の甥にあたる。金光院に入ったのは、いつか分からないが、土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入し、長尾高家と争った際に、長尾方に加勢したため、戦が不利になると、当山の旧記や宝物の過半を持って、泉州堺へ亡命した。そのため当山の歴代院主には入れていないと云われる。

 ここからは宥雅が建立したばかりの松尾寺を捨て置いて、堺に亡命を余儀なくされたことが分かります。同時に、金毘羅大権現の旧記や宝物の過半を持ち去ったという汚名も着せられています。そのため歴代院主には入れられなかったというのです。
それでは主がいなくなった松尾寺は、どうなったのでしょうか?
土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」

意訳変換しておくと
大隅南光院の祖は、讃州の金毘羅にいたところ、元親公の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは、慶長年中(1596~)に南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたことが分かります。寺山(延光寺)は現在の四国霊場で、土佐の有力な修験道の拠点でした。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は、無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していたことは以前にお話ししました。こうして松尾寺は、元親に従軍していた土佐足摺の修験者である南光院に与えられます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺を元親の讃岐支配のための宗教センターとして機能させていきます。それに協力したのが高野山から帰ってきた宥盛です。宥雅からすれば、南光坊(宥厳)や宥盛は長宗我部氏の軍事力を後ろ盾にして、松尾寺を乗っ取った張本人ということになります。
 慶長五年(1600)元親から延光寺を賜った宥厳は土佐に帰ります。替わって弟子の宥盛が別当になります。慶長十年(1605)宥厳は亡くなり、宥盛は、先師宥厳の冥福書提を祈って如意輪観音像を作っています。
 これに対して宥雅は松尾寺返還を求めて、領主である生駒家に宥盛の非をあげて訴え出ています。
この経過は以前にお話ししましたので省略します。結果は宥盛は生駒家の家臣であった井上四郎右衛門家知の子であったためか、宥雅の訴えは却下されます。宥雅の完全敗訴だったようです。
松尾寺に帰ることができなくなった宥雅のその後は、どうなったのでしょうか?
 羽床雅彦氏は、野原郷(高松市)に移っていた無量寿院に寄留したと考えているようです。この時宥雅は、56才になっています。このような宥雅に対して宥盛は次のように指弾します。
「宥雅の悪逆は四国中に知れ渡り、讃岐にいたたまれず阿波国に逃げ、そこでも金毘羅の名を編って無道を行う。(中略)(宥雅は)女犯魚鳥を服する身」

と宥雅を「まひすの山伏なり」と断罪します。
 宥雅との訴訟事件に勝利した宥盛は、強引に琴平山を金毘羅大権現のお山にしていくことに邁進していきます。金毘羅大権現の基礎を作った人物にふさわしい働きぶりです。これが後の正史には評価され、金毘羅大権現の実質的な「創始者」として扱われます。宥盛は、今は神として奥社に祀られます。
 一方、金毘羅神を生み出し、金比羅堂を創建した宥雅は、宥盛を訴えた元院主として断罪され、金毘羅大権現の歴史からは抹殺されていくことになるのです。
以上をまとめると、
①松尾寺初代別当とされる宥範僧正は松尾寺初代別当ではなかった
②松尾寺の初代別当は長尾氏出身の宥雅だった。
③宥雅が宥範を松尾寺初代別当にしたのは、新しく創設された松尾寺や金毘羅堂の箔を付けるために宥範という著名人のネームバリューが欲しかったためだった
④松尾寺を創建した宥雅は、土佐の長宗我部元親の侵入時に堺に亡命した
⑤長宗我部撤退後に、院主となっていた宥盛を訴えて裁判を起こしたが全面敗訴となった
⑥宥盛は後の世から実質的な創始者とされ、宥盛に背いた宥雅は正史から抹殺された。
 宥盛が金毘羅神の創始者であり、金比羅堂の創建者であることは事実のようです。歴史的には、金毘羅大権現の創始者は宥雅だと云えるようです。
 正史は、次のように記されています 
初代宥範 → 二代宥遍 → 三代宥厳 → 四代宥盛   

 しかし、本当の院主は
初代宥雅 → 二代宥厳 → 三代宥盛 → 

とするのが正しい系譜であると研究者は考えているようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
       「羽床雅彦  宥範松尾寺初代別当説は正か否か?  ことひら65号 平成22年」です
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1 善通寺伽藍図

善通寺は東院と誕生院の2つのエリアから現在は構成されています。古代に佐伯氏の氏寺として建立されたのは、五重塔や本堂の建つ東院です。それに対して誕生院は、空海の生家があった場所とされ、空海誕生の聖地とされています。こちらは弘法大師伝説が広まった中世に成って生まれた宗教施設です。
1 善通寺 仁王門

誕生院に入口に立つのが仁王門です。この仁王門を真っ直ぐに進んでいくと御影堂に至ります。ここで悪霊や魑魅魍魎たちの侵入を防ぐために立っているのが金剛力士像です。
向かって右は、口を開き、肩まで振り上げた手に金剛杵をとる阿形像です。
1 善通寺 金剛力士阿形

阿像は左足に重心をかけて腰を左に突き出し、顔を右斜め方向へ振っています。
1 善通寺 金剛力士吽形

  一方、左が口を一文字に結び、右手は胸の位置で肘を曲げ、掌を前方に向けて開く吽形像です。こちらは右足に重心をかけて腰を右に突き出して、顔を左斜め方向に振っています。
 小さいときに、この阿吽像の間を通って「お大師さん(おだいっさん)=善通寺」に、お参りするときには、両方の仁王さんから睨まれるようで恐かった思い出があります。そして、鉄人28号のように、もっと大きく感じたものです。実際どのくらいの大きさだったのかとデータを見ると、
「像高(阿形)193、2㎝(吽形)190、5㎝」

とあります。 この数値を見ると意外な感じがします。もと大きいはずと感じてしまいます。このくらいの身長なら今ではスポーツ選手には数多くいます。等身大よりかは、はるかに大きいというイメージでした。確かに阿吽像は、土で築いた壇(高さ約70㎝)上に立っています。そのためいつもは、見上げるように見るため大きく感じていたのかもしれません。
 いつもは仁王門の中にいて、下半身は柵でよく見えないのですが、こうして写真で見て気付くのは、下半身に重量感があるということです。下半身にまとう服は裾が長くボリュームがあります。いったい何をまとっているのかと思います。また、阿吽のふたつを並べてみると、左右対比性をもつてバランスを考えて作られていることに改めて気付かされます。

   さて、この仁王さんたちは、いつからここにいるのでしょうか?
  かつて、この仁王さんたちは江戸時代(十七世紀)の製作と聞いたように記憶していました。ところが現在では、14世紀の南北朝まで遡るとされています。一体何があったのかを、まずは見ておきましょう。
金剛力士像の製作年代の決定に大きな役割を果たしたのは、善通寺の学芸員の方です。平成21年の春ごろに、善通寺の建造物群の修理履歴を調べるため、近年の寺務書類を整理・確認していた時のことです。真言宗善通寺派の機関紙に、この金剛力士像の修理に関する記事が載せられていたというのです。(『宗報』第九号昭和51年1月発行)。そこには、修理後の写真とともに、
「応安三年(1370)に作られたもの」、
その修理は「京都東山の佐川仏師」によって行われた
ことが記されていました。つまり、昭和50(1975)年に、修理が行われた際に体内墨書が発見されていたのです。しかし、当時は注目もされずに、そのまま忘れ去られることになったようです。そのことを再発見したのが学芸員の松原 潔氏です。そこで、彼は修理にあたった仏師・佐川中定氏と連絡を取り、一枚の写真を手に入れます。
それが、この写真のようです。ここには修理解体時の時に見つかった次のような像内墨書銘が写されています。

1 善通寺 金剛力士像内墨書jpg
大願主金剛佛子有覺
右意趣者為営寺繁唱
郷内上下□□泰平諸人快楽
□□法界平等利益故也
應安三(1370)年頗二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①1行目に仁王像製作の発願者が有覺であること
②2~4行目に、寺と地域の繁栄・仏法の興隆を願う文言が記されていること
③5行目に応安三(1370)年の年記があること
  確かに、この墨書の年代は決定的な史料となります。こうしてそれまで江戸時代後半の作品とされていたものが、一気に400年近くも遡り、南北朝時代の仁王さんと評価されるようになったのです。しかし、この墨書銘が阿吽両像のどちらに書かれているのか、また、像内のどこに記されたものかは分からないようです。また、発願者の有覺という僧侶についても、作った仏師についても現在のところは分かりません。そこで、同時代の全国の仁王像と比べてみましょう

全国の鎌倉時代後期から南北朝期の製作年代のはっきりしている金剛力士像は?
①大阪・法道寺像  円慶・慶誉作  弘安六年(1283)
②高知・禅師峰寺像 定明作     正応四年(1291)
③神奈川・称名寺像 大仏師法印院興・法橋院救・法橋長
          賢・法橋快勢作元亨三年 (1323)
④兵庫・満願寺像  南都仏師康俊作 嘉暦年間
                   (1326~28)
⑤奈良・金峯山寺像 康成作     延元四年(1339)
などが挙げられるようです。
同じ四国霊場である②の定明作と比べてみると、様態は似ていますがイメージはまるで違います。
1 金剛力士
 高知・禅師峰寺像 定明作 正応四年(1291)
おなじ系統状のものとは思えません。
③の神奈川・称名寺像はどうでしょうか? 

1 金剛力士称名寺jpg

「ぼってり感が③の称名寺像と共通する感覚をもつ」と、研究者は云いますが、そうですかとしか私には答えられません。

香川県内の中世の金剛力士像を挙げると次の通りです。
  本山寺像・志度寺像・大興寺像・屋島寺像・國分寺像
 吉祥院像・伊舎那院像
  仁王の吉祥院像と財田の伊舎那院以外は、四国霊場のお寺さんになるようです
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伊舎那院の金剛力士像阿形

運慶作の金剛力士像 - 三豊市、大興寺の写真 - トリップアドバイザー
大興寺金剛力士像吽形

ただ、本山寺(三豊市)の二天(持国天・多聞天)像には
「仏師当国内大見下総法橋」
「絵師善通寺正賢法橋」

の製作名と製造年の正和二年(1213)が記されているようです。
ここからは、この時代には善通寺や三豊に、在地の仏師や絵仏師がいて、その工房があったことがうかがえます。善通寺の仁王たちも讃岐の仏師の手によって作られた可能性もあります。

 仁王さんが善通寺に、やってくる背景を見ておきましょう。
仁王門が建つ誕生院(西院)は、空海が誕生した佐伯氏の邸宅跡に建てられたとされてきました。誕生院は、近代になって善通寺として一体となるまでは独立した別院でした。創建は建長元年(1249)で、高野山の学僧・道範(1178~1252)によって行蓮上人造立の弘法大師木像が安置された堂宇が建立されたのがそのはじまりとされます。(『南海流浪記』)。
 この時期の誕生院は、東寺の末寺です。東寺から派遣された別当が住持を務め善通寺全体を監督していました。それが、元亨年間(1321~24)に後宇多天皇の遺告で、善通寺は大覚寺が本寺となります。その結果、本末の争いが起き、暦応四年(1341)に光厳上皇の院宣が出されるまで続きます。そして、善通寺は東寺長者も兼任する随心院門跡の管理下に入ります。
こうしたなか誕生院住持となったのが宥範(1270~1352)です。
宥範が住持になった頃は、善通寺は中世の混乱で衰退期でした。平安中期に大風により五重塔は、倒壊し失われたままでした。このような中で、諸堂の再建・修理に勤め、伽藍整備おこなったのが宥範です。 また、教学上でも真言密教の諸法流のうち三宝院流慈猛方や安祥寺流などを学んで、小野三十六流善通寺方(宥範方)を確立し、独自教学の発展と自立的経営の基礎を築いたとされるようです。そのため彼は「善通寺中興の祖」とされるのです。
 仁王門の金剛力士像が造られた翌年の応安四年(1371)には、宥範から誕生院住持職を譲られた弟子の宥源の上表によって、宥範に僧正位が追贈されています。宥源にとっては、師匠の宥範と共に目指した誕生院整備の締めくくりとして迎えたのが、この阿吽の仁王さまたちだったのかもしれません。
1 善通寺伽藍図.2jpg


善通寺に仁王たちがやってきて約二百年後の永禄元年(1558)に、阿波三好氏配下の讃岐武士団が天霧城の香川氏を攻めます。

その際に、善通寺は三好氏の本陣となります。両者の和議が成立し、三好軍が撤退した後に善通寺は炎上します。この際に、東院の本堂や五重塔は燃え落ちたとされますが、誕生院については次の2つの説があります。
①誕生院も兵火に係り燃え落ちた
②燃え落ちたのは東院のみで、誕生院は残った
 この論争に対して「金剛力士が中世に作られた」という事実は、②の説に有利に作用すると考えられます。「仁王門は、延焼を免れたから仁王さまは生き延びた」と考えるのが自然です。戦国期においても善通寺は壊滅的な打撃を受けたわけではないようです。東院は瓦礫の山になったかもしれませんが、誕生院は寺院のとしての機能を維持していたとしておきましょう。

善通寺には宝永五年(1708)の「金剛力士堂」再建の棟札が残っているようです。
戦国期に兵火にあった東院の五重塔や本堂が再建されるのは、17世紀末のことです。棟札には願主・光胤(1651~1732)と大工竹内十右衛門の名前があります。宮大工の竹内十右衛門は、元禄十二年(1699)上棟の金堂再建にも参加していたことが棟札から分かります。
 東院の再建と一緒に、「金剛力士堂」(仁王門)も、同じ宮大工によって再建されたようです。この棟札の裏面には「力士修補」とあります。このときに修理された力士像が、現在の仁王門に立っている阿吽像になるようです。阿吽像は永禄の兵火をくぐり抜け、660年近くにわたって善通寺を守護し、参拝者を迎え続けてきたようです。

  最後に仁王さまに敬意を表しながら、その姿を紹介する研究者の文章を紹介したいと思います。

善通寺金剛力士像 阿形

阿形像は髻(もとどり)【(頭頂で結った髪の束)を結い、その正面には上辺が三角の飾りをつけ、元結紐の先端を右上方へ翻す。目を怒らせ、開口して上下歯と舌を見せる。下半身には折り返し付のくんを着け、体側を天衣がめぐる。左手には金剛杵を握り肘を屈して振り上げ、右手は全指をのばし掌を外側にむけ体側に垂下する。右斜め下方を向いて、腰を左に強くひねり右足を踏み出して、手斧目の方座上に立つ。

善通寺金剛力士吽形
吽形像は阿形と同様に髻を結うが、その正面の飾りは花弁形にあらわす(元結紐は亡失)。
目を瞑らせて閉口する。左手は肘を張って体側に垂下させてこぶしをつくり、右手は肘を側方に張って全指を立てて掌を正面に向ける。左斜め下方を向いて、腰を右に強くひねり左足を踏み出して立つ。その他はおおむね阿形像のかたちに準じる。
善通寺仁王像 (2)


針葉樹材(ヒノキか)による寄木造。表面の彩色や補修のために構造の詳細は不明だが、頭体は別材製とおもわれる。頭部は耳の前後で矧ぐ三材製で、日には水晶製の玉眼を嵌め込み首下で体幹部に差し込む。体幹部は前後三材製で、腰に着けた祐は前後左右から別材を矧ぎつけるか。このほか、阿形像は両肩・左肘。両足先に、咋形像は両肩。右肘。両足先に矧ぎ目があり、それぞれそれ以下に別材を矧ぎつける。また、天衣も別材を矧ぎつけている。台座は広葉樹材製(ケヤキか)で複数材を矧ぎ合わせている。

善通寺仁王像 (3)

激しい怒りをあらわす面貌や引き締まった肉身にみられる抑揚の強い表現、肩を後方に引き頭部と腹部を前に突き出して創り出す前後の動勢は鎌倉時代初頭に活躍した運慶一派が完成させた写実的な新様式を踏襲するものだが、一方で、体幹部や腕などの角ばった造形や補にみられる厚ぼったい衣の表現などには様式の形骸化が見てとれる。

善通寺仁王像 (4)

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原 潔    善通寺の金剛力士像(仁王)について
                  空海の足音 四国へんろ展 香川県立ミュージアム所収

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善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
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 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
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 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P

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    霊山・如意山(公文山)に鎮座する櫛梨神社 
金毘羅さんの鎮座する象頭山の東を金倉川が北に向かって流れていきます。この金倉川を挟んで小高い峰峰が続きます。これが如意山です。この山の麓には中世には荘園の荘官・公文の館があったようで、公文山とも呼ばれています。この山の周辺は、古代中世からひとつの宗教ゾーンを形成していたと「町誌ことひら」は記します。
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 如意山(公文山)の西に伸びる尾根の下に鎮座するのが櫛梨(くしなし)神社です。ここにも「悪魚退治伝説」が伝わっています。前回、讃留霊王に退治された「悪魚」が、改心して「神魚」となり、金毘羅神(クンピーラ)に変身した。そこには宥範から宥雅という高野山密教系の修験者のつながりがあることを前回は紹介しました。その二人の接点が櫛梨神社になるようなのです。今回は、この神社について見てみることにします。
1櫛梨神社

 この櫛梨神社は、讃岐国延喜式内二十四社の一つです。
高松市の田村神社(讃岐国一宮)、三豊市高瀬町の大水上神社(同二宮)と並び称される古大社だとされてきました。大内郡の大水主神社と三宮、四宮の席次を争った形跡があります。古代には、周辺に有力な勢力がいたようです。目の前の霊山として崇められたであろう大麻山(象頭山)山腹には、数多くの初期古墳がありました。善通寺勢力と連合勢力を組んでいたのが、どこかの時点で「吸収合併」されたと私は考えています。それが野田院古墳の出現時ではないかと思います。それ以後も、如意山周辺は丸亀平野南部の一つの政治的宗教的拠点であったようです。中世は、ここは東国出身の薩摩守護になた島津家の荘園になっています。櫛梨神社は、その櫛梨荘の文化センターであったようです。
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「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」には、この神社の由緒を次のように記します。
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、
 付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、
櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、
城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。
天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
   
ここには次のようなことが書かれています
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた
②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。
③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。
④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。
⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった
⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失
 ここにも讃留霊王(神櫛皇子)の悪魚退治伝説が伝わっています。
それも、皇子の乗った船の漂着地であり、葬ったのが櫛梨山とされています。この伝説が作られた時の人々は、かつてはこのあたりまで海だったのだという意識を持っていたようです。空海生誕伝説の「屏風ヶ浦」の海の近くで空海は生まれたという当時の「地理感覚」と相通じる所がありそうです。
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 この神社の讃留霊王伝説で新味なのは「神櫛(醸酒一カムクシ)王を祭(祖先)神」として、その子孫酒部氏族が奉斎した氏神社としている点です。古くは、櫛梨山上の本台(山頂の平坦地)に社殿を構えていたといいいますが、祭神の性格からすると平地にあってしかるべき神社だと研究者は考えているようです。山上には、祠様があっただけで山そのものが神体であるされ、櫛梨山全体が信仰の対象だったのでしょう。
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 櫛梨神社には悪魚退治伝説は、史料としては伝わっていないようです。伝えられているのは善通寺誕生院の宥範の縁起の中に書かれているのです。
 2つの【悪魚退治伝説】 
 悪魚退治伝説は、南北朝期の作とされ讃岐藤原氏(綾氏)の系図「綾氏系図」に冒頭に付けられているのが知られてきました。綾氏先祖の英雄譚として、氏族の栄光を飾るものと理解されてきました。そしてこの伝説を作ったのは、文中に出てくる寺名から法勲寺の僧侶であるとされてきたのです。つまり、この『綾氏系図』は、綾氏の有力な氏寺の一つである法勲寺の縁起としての性格をもっているとされてきました。
しかし、近年になって「綾氏系図』よりも古いとされる史料が出てきたようです。それが、高松無量寿院所蔵文書の中にある応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源の『贈僧正宥範発心求法縁起』(=宥範縁起」です。

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 宥範は何者?
 宥範は櫛梨の有力豪族出身で、高野山や各地の寺院で修行を積み、晩年は善通寺復興に手腕を見せ「善通寺中興の祖」と呼ばれた名僧です。この中に、讃留霊公の悪魚退治伝説が語られているようです。
16歳で仏門に入り、高野山などに学び、当時の密教仏教界において、その博学と名声は全国に知られていたようです。善通寺復興に尽力し「中興の祖」と称されています。
 宥範は、各地ので修行を終えて翌嘉暦二年(1327)、讃岐国に帰り、
「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
します。そして『妙印抄』三十五巻本の増補を行い3年かかって『妙印抄』八十巻本を完成させ、これを善通寺誕生院に奉じます。念願を果たして、故郷・櫛梨の小堂から象頭山の称明(名)院に移り住んでいます。生まれ故郷の櫛梨の里を、眼下にできる寺に落ち着きたかったのでしょう。こうして、八十巻を越える大著を書き終え、静かに隠退の日々を送ろうとします。しかし、それは周囲が許しませんでした。
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   善通寺中興の祖として 
  当時、善通寺は中世の荒廃の極みにありました。伽藍も荒れ果てていたようです。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、
建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り
建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」と研究者は考えているようです。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。「岩野」は宥範の本家筋の人物と考えられるようです。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。その有力パトロンとして、実家の岩野一族の存在が考えられます。
 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧によって奉じられていたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。
 別の研究者次のような見方も示しています
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。その伝記が弟子たちによって書かれるのは自然です。しかし、この「宥範縁起」の中に、どうして「悪魚退治伝説」が含まれているのでしょうか。悪魚と宥範の関係を、どう考えればいいのでしょうか?
宥範縁起(無量寿院系)と綾氏系図(法勲寺系)を比較してみましょう。
1櫛梨神社3233
それぞれの寺運興隆を目的に、作られたものですから、少しずつアレンジがされています。例えば、悪魚の表記は「神魚」と「悪魚」、凱旋地も「高松」と「坂出」のように相違点があります。どちらが、より原典に近いのか研究者もなかなか分からないようです。しかし、強いて云えば
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』
②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
と、宥範縁起の中にでてくる「悪魚退治伝説」の方が古いのではないかと「町史ことひら」は考えているようです。
  どちらにしても櫛梨神社に伝えられた悪魚退治伝説は、法勲寺系ではなく、高松の無量寿院系のものであることに変わりはありません。
無量寿院は、宥範が若い頃に密教僧侶として修行をスタートさせたたお寺でもあります。そして、このお寺の由来が悪魚退治伝説ならぬ「神魚伝説」であったようです。
宥範から聞いた神魚伝説は善通寺や櫛梨神社の社僧たちに語り伝えられていくようになります。
そして、櫛梨神社の例祭には、修験者の社僧(山伏)の語る縁起を聞きながら「神魚」や「櫛梨神社」への畏怖と尊崇とを新たにし、胸熱くして家路を急いだのかもしれません。この時にまだ金毘羅神は生まれていません。
 高松から琴平にかけての中讃地区の寺社の中には、似たような悪魚退治伝説がいくつか伝わっています。これらは、社寺縁起の流行する近世初頭に『宥範縁起』をテキストに広がったのではないかと研究者は考えているようです。
 このような中で人々がよく知っている「悪魚」を、神として祀ることを考える修験者があらわれるのです。それが前回お話しした宥雅です。彼は
 悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
というストーリーを下敷きにして、金毘羅神を創出し、それを松尾寺の新たな守護神を作りだし、それを祀るための金比羅堂を象頭山に建立したのです。その創出は彼一人のアイデアだったかどうかは分かりません。しかし、金比羅堂建設というのは、支援者や保護者なしではできることではありません。彼は、西長尾城の城主の甥でした。つまり、長尾氏の一族です。当然、背後には長尾氏の支援があったはずです。
 以上、前回の「悪魚が金毘羅神に変身」したお話の補足をまとめておきます。
①中世の公文山周辺は、丸亀平野南部の宗教ゾーンで、そのひとつが櫛梨神社である
②櫛梨神社には「悪魚退治伝説」が伝わるが、これは宥範伝来のものである。
③もともと高松の無量寿院の由来に登場する「神魚」が、そこで修行した宥範によって伝えられレ「宥範縁起」の中に記された
④中世の櫛梨神社では、この悪魚退治伝説が社僧たちによって人々に語られるようになる。
⑤社伝由来の流行で、古い神社ではどこにも社伝が語られるようになり悪魚退治伝説を採用する神社が増える。
⑥これは法勲寺で行われていた「綾氏祖先崇拝」による団結を図る武士団への広がりと同時に、中讃地区での悪魚退治伝説の広がりをうむ
⑦この広がりを下敷きに「悪魚」をモデルに新たな「金毘羅神」が登場してくる
⑧それを進めたのが西長尾城主の甥の修験者宥雅であった。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 第5章 中世の宗教と文化

象頭山にあった松尾寺の守護神は、もともとは三十番社だったとされます。
金毘羅権現の創生期を考える時に、三十番神の存在を避けて通るわけには行かないようです。ということで、今回は三十番神と向き合うことにします。
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江戸時代中期に書かれた「箸片治良太夫日記」という記録があります。
これは「象頭山内五家之神職」、つまり、五人百姓の一つである箸片家の日記です。箸片氏は、御寺方と称し象頭山内で神職の地位にあり、神前において箸一本を得たので箸片氏と改めたと記されています。この中に、つぎのような記事があります。
 御寺方之事 往古依神代古式以神職付山内故云御寺方 
 明応六年秋山土佐守泰忠 三十番神奉勧請使加祭御八講  
ここには明応六年(1497)、秋山泰忠が三十番神を勧請して御八講の神事を始めたと記されています。
秋山泰忠というのは、西遷御家人として東国からやって来た法華経門徒で、三野町に本門寺を建立した秋山氏のことです。讃岐の日蓮宗は正応二年(1289)に、この秋山泰忠が日華を招いて、那珂郡杵原郷(現丸亀市)に本門寺大坊を建立したことに始まります。同寺は焼失した後は、日仙が正中元年(1324)に三野郡高瀬郷(現)に本門寺を建立します。秋山氏は所領など関係をもっていた那珂郡の柞原などの讃岐内の七か所に日蓮宗の三十番神を建立したといいます。その一つが、この史料の象頭山の南嶺の三十番神なのでしょうか。これをそのまま信じることはできませんが、当時の人達は法華経や、それを守護する三十番神は秋山氏がもたらしたものと考えていたことはうかがえます。

法華八講 三十番神

中世の法華経は、日蓮宗に限られものではありませんでした。天台宗のよりどころとなる教典も「法華経」でした。天台宗では法華教八巻を講説する法要を「法華八講」といいます。この法華宗信仰は、祖先や由縁の人々を供養する法事として、平安時代以降広く一般民衆の中に深く根を下ろしていきます。小松荘の墓寺としての機能を果たしていた松尾寺に法華経講会が行われていても不思議ではありません。しかし、鎌倉末期の泰忠と箸方氏の伝える泰忠とは、時代の差に二百年の隔たりがあります。ただ、秋山氏を先祖とする法華経信者集団が小松荘にもいて、信仰行事としておこなっていたことは考えられます。秋山氏の祖先で、讃岐における法華信者の大恩人としての秋山泰忠を担ぎ出したのかもしれません。このあたりはよく分かりません。
 あるいは、明応6年の15世紀末頃に、番神社が再興(創建?)されたことを示す物かもしれません。いずれにしても、この象頭山でも法華信仰の八講法会が、死者への追善供養のために行われ、墓寺や氏寺では、氏人らの回忌ごとに盛んに行われていたとしておきます。

  それでは、守護神である三十番社とは何者なのでしょうか。
古代末から中世には「神が仏を守る」ということが始まります。その先駆けは八幡信仰です。九州の八幡神が東大寺造営の際に守護神として勧進されたのをスタートに、八幡神は寺院の境内の中に守護神として「勧進=移住」してきます。こうして「仏を守る守護神」たちが姿を変えて、寺院の境内に姿を見せるようになります。それは「神は仏の姿を変えたもの インドの仏が日本では神に化身して現れる」と神仏習合へと進むようになります。番神は、最澄が中国の唐から帰り、比叡山に天台宗法華経の道場を開いた時、その山門を守護してもらうため、これまで日本にあった神々を祭ったことに始まるといいます。
 「三十番社」の画像検索結果  
続いて円仁は、法華経の功徳は「授持・読誦・解説・書写」にありといって、法華経の経典を人に授けたり、持っていたり、唱えたり、解説したり、書写したり、そのどれか一つを行っただけでも仏の功徳を受けることができると説きます。円仁自身も法華経八巻約七万字を越える経典を三ヵ年かかって写経し、これを如法経と呼びます。この写経を安置する堂を比叡山横川に造って根本如法堂として、この法華経の守護を神々に願います。


番社神の神像の一部
 そして日本国中から主な神々三十神を勧進して祀り、一ヵ月三十日を一日交替で守護するようにしました。三十の神々が順番に守護するから、三十番神と呼ばれるようになります、現在で比叡山では、根本道場の横川如法堂の隣に鎮座して、法華経を守護しています。
 鎌倉時代に出た日蓮は、法華経を最高の経典と定め、その教えを実践し布教することが真実の道だと説きます。そのためには、まず日本の国の神々に加護を願わねばならぬと考えるようになります。こうして、法華経とともに大小の神々を祭るという思想が発展します。

丸亀市の田村町にある番社を訪ねてみましょう。 
番神宮-パワースポット情報(香川県)<パワスポ.com>

田村町の旧国道沿いの道路の北側に面して鳥居が立っています。これが番神宮です。ここの三十番神は、木像で、五体七段の35体が厨子に祀られています。それぞれ厚畳の上に座る神像で、一体の高さは約七㎝と小さいものです。最も下の段は、両端に一体ずつの衛士、中央の三体は向かって右から、一日の熱田大明神、三日の広田大明神、四日の気比大明神であり、最上段は向かって右から、十日の伊勢大明神の座像、大日天王の立像、中央は大明星天王の立像、大月天王の立像、左端は十一日の八幡大菩薩の僧形座像です。最上段のこの五体を特に五番神と呼ぶようです。

 厨子には「開眼主 慧光山本隆寺日政(花押)」と記されています。

日政は弘化四年から嘉永三年まで本隆寺貫主として四ヵ年在職していますが丸亀を訪れたという記録はありません。この神像は京都の仏師によって作られ、日政によって開眼された後に丸亀へ祭られたものではないかと考えられています。田村の番神さまは、江戸末期の天保から弘化のころまでに作られたもののようです。ちなみに、京極藩は藩主とともに家臣にも番神信仰が厚かったようです。

三十番神の全像(祭壇の中)
 それでは日本中から勧進された三十の神々を見てみましょう
一日 熱田大明神 愛知県名古屋 衣 冠
二日 諏訪大明神 長野県諏訪 狩人姿
二日 広田大服神 兵庫県西宮 黒束帯
四日 気比大明神 福井県敦賀 衣 冠
五日 気多大明神 石川県羽咋 黒束帯
六日 鹿島大明神 茨城県鹿島 神将姿
七日 北野天神  京都府葛野 衣冠
八日 お七大明神 京都府愛宕 唐 服(女神)
九日 貴松大明神 京都府愛宕 鬼神形
十日 伊勢大明神 三重県伊勢 黒束帯
十一日 八幡大菩薩 京都府鳩峰 僧形
十二日 賀茂大明神 ″ 愛宕 黒束帯
十三日 松尾大明神 ″ 葛野 黒衣冠
十四日 大原野明神 乙訓 唐 服(女神)
十五日 春日大明神 奈良県奈良 鹿座
十六日 平野大明神 京都府葛野 黒束帯
十七日 大比叡大明神 滋賀県滋賀 僧形
十八日 小比叡大明神 滋賀県滋賀 大津 白狩衣
十九日 聖真子権現  滋賀県滋賀 僧形
二十日 客人大明神  滋賀県滋賀 唐服(女神)
二十一日 八王子大明神 滋賀県滋賀 黒束帯
二十二日 稲荷大明神 京都府紀伊 唐服(女神)
二十三日 住吉大明神 大阪府住吉 白衣老形
二十四日 祇園大明神 京都市八坂 神将形
二十五日 斜眼大明神 京都府談山西麓 黒束帯
二十六日 建部大明神 滋賀県瀬田  ″
二十七日 三上大明神 滋賀県野洲  ″
二十八日 兵主大明神 滋賀県兵主 随身形
二十九日 苗鹿(のうか)大明神 滋賀 唐 服(女神)
三十日  吉備大明神 岡山県岡山 黒束帯
「日本中から集めた」といわれますが、殆どが畿内で、最も東が鹿島大明神(茨城県鹿島)、もっとも西が「吉備大明神」(岡山県岡山)のようです。東北・九州・四国からは一社も呼ばれていないようです。当時の「世界観」の反映なのかなと思ったりもします。



金毘羅大権限神事奉物惣帳
         「金毘羅大権現神事奉物惣帳」 伝宥範書写の神事記について
この文書は、冠名に「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも、適当ではなく、『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。
また「右件の惣張(帳)者、観慮元年己未十月日於讃屈仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢」とありますが、書き込みや年号などの検討から善通寺中興の祖である宥範が写したものではなく、後世に書き加えられたものと研究者は判断しています。

金毘羅大権現神事奉物惣帳 香川叢書
                   金毘羅大権現神事奉物惣帳
金毘羅大権現神事奉物惣帳2

ここに記載された神事の内容は、「八講大頭人」とあることからも分かるように、法華八講についてのものです。また、江戸時代以降の金毘羅大権現の大祭の儀式も、その頭人名簿のことを「御八講帳」と呼んでいます。さらに、精進屋の祭壇の後ろに掲げられる札にも「奉勧請金毘羅大権現御八講大頭人守護所」と書かれています。以上からも、金毘羅大権現の大祭は中世の法華八講の姿をそのまま踏襲していることが分かります。

金毘羅大権現神事奉物惣帳拡大版

 諸貴所宿願状は第一丁から第八丁までの料紙に記載された事項です。
ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前を書き、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。それらの家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えるなど、当時のこの地域を支配する国人・土豪クラスの領主などと比定することができます。
 家名の順序は、地頭方の地頭、地頭代官、そして、領家方の面々となっています。
つまり中世の惣村の「実態」があるのです。このことから彼らが祭祀を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示していると判断できます。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれていて、その内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。
  以上から、この史料は宥範が写したものというのは疑わしいようですが、16世紀前半ころに小松庄に三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことを示すものです。 その祭事を、戦国末に金比羅堂を建立し、金比羅信仰を創出した初期の指導者である宥雅・宥盛は、三十番社から金比羅大権現の祭事に「接ぎ木」したということです。

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琴平の地元では、こんな話がよく言われます
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。
金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。
そこで三十番神が承知をすると、大権現は、三十番神が横を向いている間に十の上に点を入れて千の字にしてしまった。
そこで千年もの間借りることができるようになった。」
この種の話は、金毘羅特有の話ではなく、広く日本中に分布するものです。ポイントは、この説話が、旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を伝えていることです。つまり、三十番神が、当地の地主神であり、金毘羅神が客神であるということになります。

本社 讃岐国名勝図会
本社の後方にあった三十番社(讃岐国名勝図会)

 かつての三十番神社は、いまは睦魂(むつたま)神社とされています。
                  睦魂神社(旧三十番社)
睦魂神社(旧三十番社)
睦魂神社の説明版

金毘羅会式の祭礼日である十月十日には、今でも頭人が本社に参詣の後、この社に奉幣するようです。小松庄で中世以来の宮座を組織し、祭事を担ってきた人々の後裔たちにとって三十番神社拝礼は、特別の意味をもっていたはずです。そうした過去の伝統に対して畏敬の念を示すものであり、かつての儀礼・作法の残照と言えるのかも知れません。そして、三十番神の祭礼として行われてきた「法華八講」の法式を金毘羅権現の祭礼として取り込んでしまったことへの鎮魂のセレモニーかもしれません。しかし、現在の睦魂神社の説明版からは、三十番社の痕跡をもうかがえません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

                     
金毘羅全図 宝暦5(1755)年
象頭山金比羅神社絵図

金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
それは宝物館に展示されている元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」
裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
 
 元亀四年(1573)には、現在の本社位置には松尾寺本堂がありました。その下の四段坂の階段の行者堂の下の登口に金比羅堂は創建されたと研究者は考えています。
1金毘羅大権現 創建期伽藍配置

正保年間(江戸時代初期)の金毘羅大権現の伽藍図 本宮の左隣の三十番社に注目

幕末の讃岐国名勝図会の四段坂で、元亀四年(1573)に金比羅堂建立位置を示す
しかし、創建時の金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。松尾寺はもともとは、観音信仰の寺で本尊には十一面観音が祀られていました。正保年間の伽藍図を見ると、本殿の横に観音堂が見えます。
 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう

DSC01428三十番社
金刀比羅宮の三十番社
それは「三十番社」だったようです。地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が神祇信仰において旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれています。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたものと研究者は考えています。

三十番神bot (@30banjin_bot) / X
             護国寺・三十番神
三十の神々が法華経を一日交替で守護する三十番神
なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。その拠点が阿弥陀浄土信仰の高野聖が拠点とした称名寺でした。そして現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。こうして見ると、松尾寺は称名寺の流れをくむ墓寺的性格であったことがうかがえます。松尾寺は、小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもあったのでしょう。ところがやがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれません。
 また、丸亀平野には阿波の安楽寺などから浄土真宗興正派の布教団が阿波三好氏の保護を受けて、教線を伸ばし道場を各地に開いていました。宥雅は長尾氏の一族でしたが、領内でも一向門徒が急速に増えていきます。このような状況への危機感から、強力な霊力を持つ新たな守護神を登場させる必要を痛感するようになったと私は考えています。これが金毘羅神の将来と勧請ということになります。これは島田寺の良昌のアイデアかもしれませんが、それは別の機会にお話しするとして話を前に進めます。

讃州象頭山別当歴代之記
     讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
                   宥雅の名前はない
讃州象頭山別当歴代之記2

 正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、地元の有力武士団長尾氏の一族で、善通寺で修行を積んだ法脈を持つ真言密教系の僧侶です。それは宥範以来の「宥」の一文字を持っていることからも分かります。ところが宥雅は金刀比羅宮の正史からは抹殺されてきた人物です。正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」の背景を次のように考えます。

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?
 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)には、次のように記されています。
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
意訳変換しておくと
「宥珂(=宥雅)上人様について
 讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、
 高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
ここには宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に亡命した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
例えば「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。もともとの『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。宥範が松尾寺や金毘羅と関係があったことは出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き

と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、「これは古い記録を書き写したもの」と書き留められています。
このように宥雅は、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心しています。
 もうひとつの工作は、松尾寺の本尊の観音さまです。

十一面観音1
十一面観音立像(金刀比羅宮宝物館)
宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺か称名寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とします。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、次のように指摘します。

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」

「松尾寺観音堂本尊 = (瀧寺本尊 OR 称名寺本尊説)」については、また別の機会にお話しします。先を急ぎます。 

さらに伝来文書をねつ造します
「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
そして神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。

 羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)で次のように記します。

200017999_00178悪魚退治
神櫛王の悪魚退治伝説(讃岐国名勝図会)
①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。

 いままでの流れを整理しておきます。
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。
②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。
③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。
④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
 最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
先ほども見たように、金毘羅神の本地仏は千手観音なのです。新たに迎え入れた本尊は十一面観音です。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。  真言密教僧の宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

          十一面観音立像(重文) 木造平安時代(金刀比羅宮宝物館)

宝物館にある
重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。

それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神の祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
                     観音堂行道巡図
      明治以前の大祭は、金毘羅大権現本殿ではなく観音堂の周りで行われていた

こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

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