瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:宮座

 中世後半になると新しい社会秩序形成の動きが出てきます。そのひとつが農村における「惣型秩序の形成」だと研究者は考えているようです。南北時代以後になると、いままでの支配者であった荘園領領主や国司の権力や権威が地に落ちます。それに代わって土地に居ついた地頭や下司・郷司などが、そのまま国人に成長して、地域の支配者になっていこうとします。しかし、それは一筋縄でいくものではなかったようです。守護も、村の中に自分の勢力を植えつけるため、自分の子飼いの家来を現地に駐留させます。新しく成長した国人も、力を蓄えれば、その隣の荘園に侵入してゆくというような動きを見せます。まさにひとつの荘園をめぐって、いくつも武力集団が抗争一歩手間の緊張関係をつくりだしていたのです。ヤクザ映画の「仁義亡き戦い」の世界のように私には思えます。そういう意味では当時の農村は、非常に不安な状況にあったことを押さえておきます。

宮座構成員の資格
惣村構成員の資格

 そんな社会で生きていくために村人たちは、自分たちで生活を守るしかありません。隣村との農業用水や入会地などをめぐる争いもあります。また、よそからの侵人者や、年貞を何度もとろうとする領主たちに対しても、不当なものは拒否する態勢をつくらなければ生きていけません。        
自検断(じけんだん)と地徳政                          
そこで村の秩序を守るために、自分たち自身で警察行為を行うようになります。犯罪人逮捕や、その裁判まで村で行うようになります。これを検断といいます。農民が自分たちで検断権(裁判権)を行使するのです。検断権は、中世では荘園・公領ごとに地頭が持っていました。鎌倉時代以降では重大犯罪の検断権は守護がもち、それ以外は地頭がもっていました。そのような支配者の権限を、農民たちが自分たちで行使するようになってきたわけです。それを自検断と呼んだようです。
徳政も自分たちでやるようになります。
当時の農民は守護の臨時賦課などいろいろな負担に苦しめられていました。貨幣が使われる世の中になると、借金がたまりがちです。そういうときに徳政一揆を起こして負債の帳消しを要求したわけです。しかし、これを幕府に要求しても解決できるような力は、幕府にはもうありません。室町幕府の権限は、山城と摂津、河内、近江にしか及ばない状況です。そうなると、もともとは公権力のやるべき徳政令を自分たちでやり出します。それを地徳政(じとくせい)と呼びます。この「地」は「地下」という意味です。地徳政とは、自分たちの生活エリアだけで、私的な徳政を自分たちでやることです。ここには村の生活秩序を共同体として自治的にきめてゆくという姿勢が強く見えます。

徳政一揆の背景2
徳政一揆の背景

 また村の共同利用になっている山野の利用秩序、山の木を切るとか、あるいは肥料用の下草刈りに入る、いわゆる入会山を保護するために、いつ山の口開けや口止めをやるかというようなことから始まって、次のようなことも惣村内での取り決められるようになります。
①かんがい用水路の建設・管理をどのように進めるか
②祭りなどの行事をどのようにしておこなうか、
③盗みなどの秩序をみだす行為をどう防ぐか、
④荘園領主や守護などがかけてくる年貢や夫役にどう対応するか
⑤周辺の村と境界をめぐって揉めたときはどうするか、
惣村の構造図
       惣村の構成・運営・機能について
①惣村は名主層や小農民によって構成され、おとな・沙汰人などが指導者
②祭祀集団の宮座が結合の中心で、その運営は寄合の決定に従って行われた。
③惣掟を定めたり、入会地の管理にあたるなどした。
④地下検断(裁判権)の治安維持や地下請けなど年貢納入をも担う地縁的自治組織
⑤結合は連歌や能、一向宗の浸透を促す
⑥年貢減免を要求する強訴・逃散や土一揆など土民が支配勢力に抵抗する基盤としても機能
惣村の掟を伊勢の国の小倭郷(おやまごう)で見ていくことにします。
1493(明応3)年の9月15日付で、小倭郷の百姓たち321人が署名誓約しています。小倭郷には幾つもの村がありましたが、当時の村は一村が数軒から大きくても20軒ぐらいの小さなものでした。それが集まって小倭郷321人になったようです。一戸前の百姓は、ひとり残らず署名したようです。

伊勢成願寺
小倭郷の成願寺(津市白山町)
その誓約書が小倭郷の成願寺に残っています
 農民などが申し合わせをするときは、神に誓った文書を神社に納めました。ここでは天台真盛宗の成願寺が倭郷の開発に大きな役割を果たしたので、村人の信仰の中心になっていて、そこに納められたようです。「成願寺文書」には、惣掟や小倭一揆関係の史料が県有形文化財に指定されています。ここでは、その一部を見ていくことにします。
第一条 田畑山林などの境界をごまかして、他人の土地を取ったり、自分の土地だと言って、他人の作物を刈り取ってしまうというようなことは絶対に許されない。
第二条 大道を損じ、「むめ上(埋め土)」を自分の私有地で使ってしまうのはいけない。つまり公共の道路の土を取って自分のところので使うのはいけないということです。
第三条と四条では、盗人、悪党の禁止(一種の腕力的行為禁止)
第五条 「当たり質」を取ることの禁正。
  「当たり質」というのは、抵当品(質草)のようです。今では抵当品は債務者のものしか対象にはなりません。ところが当時は、当人の債権物が取れない場合は、その人と同じ村人のものなら誰のものでも取ってもよいとされていたようです。これを郷質(ごうじち)とか所質(ところじち)とか呼んでいました。つまり本人が属している集団の者は、みんな同一責任を負わなければならないという考え方です。ここからは当時の人達は、郷や村などの共同体に所属していれば、その共同体全体が連帯の責任を負わなければならないと考えていたことが分かります。そうだとすると共同体から独立した個人というものはあり得なかったことになります。同じ村の人なら別の人のものでもいいという話が、当然として行なわれていたことを押さえておきます。日本人の連帯責任の取り方をめぐる問題の起源は、この辺りまで遡れそうです。 しかし、それでは困るので、今後は次のようにしようと決めています。
「本主か、然るべき在所の人のものだけ収れ」、
意訳すると「本人かその郷の者ならいいけれど、もっと広く隣村、隣村まで拡げられてはかなわないから、限定しておく」ということになるのでしょうか。そういうことを、すべて自分たちで取り決めて、村人321人全部で盟約しています。
この盟約を守っていく組織として、地侍クラスの人々四十数人が、別に盟約を結んでいます。
これを衆中(しゅうちゅう)と呼んだようです。小倭郷では、そのメンバーは、地侍クラス、村の重立ちの人々だけです。そして、次のような事を申し合わせています。
①公事出来(しゅったい:紛争が起こった場合)に身内の者だからといって決して身びいきなどはしない。
②公平にひいきや偏頗なく衆中としてきちんと裁判する
③衆中の間に不心得の者がでてきた場合には、仲間からから迫放する
ここからは、倭郷の惣村全体の盟約とは別に、それを遵守させていくために地侍グループだけで誓約を行なっています。こうして百姓たち321人全員暑名の誓約文書と、同時に指導グループの申し合わせ文書の両方が小倭郷の成願寺には残されました。
こうして小倭郷で何か紛争が起こったときには、指導グループの衆中の人々が調停者になります。例えば次のような調停案が出されています
①飢饉などで、負債に苦しむ人が出てくると、これこれの条件・範囲で地徳政をやろうということを自分たちで決定している。そのイニシアチブをとっているのは、地侍クラスの指導グループです。
②犯罪などのときに検断(調査・裁判)
③徳政実施に際しての調整

③については、金を貸しているほうは徳政に当然反対します。そこで個別に交渉して、自分は幾ら払うから、自分の債権は認めてくれ、つまり徳政はそれで免除してくれ、といった取引をやっています。
 こうした紛争の調停を「異見(いけん)」と呼んだようです。これが仲裁意見です。
例えば地徳政の場合には、次のように進められています。
①徳政調停者が「異見(原案)」を出す。
②債権者は債権を認めてもらうかわりに、銭を十貫文出す。
③債務者のほうも、十貫文もらったのだから、今後はふたたびこの郷で地徳政が実施されても、もうこの件については債務破棄を要求しませんという誓約書を出させる。
このような手打ちのことを「徳政落居(らつきょ)」と呼んでいます。その証文が落居状で、成願寺に残っています。
こんな形で村人たちが自分たちで経済問題や紛争、土地争い、障害事件など、民事的な紛争から刑事的な紛争まで解決しています。これが行えるためには、村人全員の合意が必要です。その郷村全体で申し合わせた規約が「惣掟(そうおきて)」です。惣というのはすべてという意味ですから、村の全体にかかわるおきてという意味になります。
 惣掟を持ったような村人集団を「惣」の衆中などと呼ぶようになります。惣掟にもとづいて、村人たちは紛争を自分たちで解決するという問題題解決の仕方がひろまります。ここで見た「惣」は、伊勢の小倭郷の一郷321人程度の範囲でした。ところが、もっと広い地域で自検断をやったり、地徳政をやったりする「広域の自治的な結合」も生まれていたようです。それを次回は見ていくことにします。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法  

古代三野郡郷名
古代の三野郡詫間郷
 前回は三野郡詫間郷の浪打八幡社が郷社として、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名主座という宮座によって祭礼が行われていたことを見ました。その中で浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていました。
 ここで私が気にかかるのが仁尾浦の賀茂神社との関係です。
仁尾浦の「名」たちは、詫間の浪打八幡社の宮座のメンバーでありながら、仁尾の賀茂神社にも奉仕する神人でもあったことになります。この関係は、どうなっているのでしょうか? 両神社の関係を、今回は見ていくことにします。テキストは、「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。

賀茂神社の注連石 --- 巨石巡礼 |||
仁尾賀茂神社

【史料E】仁保浦鴨大明神御前之まつり覚之事
文禄弐(1593)年閏菊月拾五日
但前々のかたきのまつりなり、右後日如件
                仁保(仁尾)年寄中
この文書からは、中世の仁保浦鴨大明(仁尾賀茂神社)では「仁保年寄中」による祭祀が行われていたことが分かります。それでは、この年寄中というのは、どのような人達なのでしょうかに。
【史料F】寛永10年2月鴨大明神祠官仁尾大夫詫状『新編香川叢書』覚城院文書二五号)
(前略)
一 御宮さいかうなとの御時、万事年寄衆被仰次第二可仕事
一 祭礼御まつり、如先例□、供祭人衆被仰次第二可仕事
一 まつり之時、神子、大夫分、日之儀、如先例之、可仕事、付り、重而何にてもいつわり申間敷事右之通、少も相背申候ハヽ、何時二ても、御奉行様へ被仰上テ、我等越度二相極候ハヽ、大夫被召上ケ候様二可被成候、為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日      二保(仁尾)ノ大夫 印
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
意訳変換しておくと
一 御宮再興などの際には、万事について年寄衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、先例通りに、供祭人衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、神子、大夫分、日之儀なども先例の通り行う事、また重ねて何事についても嘘偽りを云わないことを誓います。少しでもこれに背いた場合には、何時でも御奉行様へ申し上げること。その結果、大夫の役割を召し上がれることも承知しました。為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日           二保(仁尾)ノ大夫
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
内容は1633年春に、仁尾の大夫が嶋大明神(賀茂神社)の氏子衆・年寄衆・覚城院にたいして提出した詫状です。今後は指示に従わずに勝手な行動をとることはしないことを誓う内容です。逆に言えば「二保(仁尾)大夫」が先例に従わず、年寄衆や覚城院の指示にも従わずに、勝手な振る舞いが目に付いたので「詫び状(誓約書)」をとられたようです。
 史料Fからは、仁尾年寄衆が宮年寄であることが分かります。
宮年寄とは、祭祀集団において年長が上位で、祭祀を主導する立場にある者のことです。史料Fで仁尾賀茂神社の宮年寄が祭祀を主導しています。ここからは次のような事が分かります。
①仁尾賀茂神社の祭祀組織が宮座であこと
②覚城院に対しても誓約しているので、覚城院が鴨大明神(賀茂神社)の神宮寺であったこと

覚城院】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仁尾の覚城院

【史料G】文政十二年加茂社御頭心得惣記録(仁尾賀茂神社文書)
加茂社御頭心得惣記録
一 八月朔日御閥戴キ承人々社頭ヨリ呼二参候間、早速袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より御閣戴候趣承り罷帰り可申事
(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
意訳変換しておくと
加茂社御頭の心得全記録
一 旧暦の八月朔日(ほずみ=8月1日で新暦の九月中旬頃)、社頭からすぐに来るようにとの連絡があり、早速に袴羽織に着替えて、宮座へ出席した。年寄衆より協議議題について聞いて帰ってきた。(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
ここには、「・・袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より・・・」とあり、仁尾賀茂神社の祭祀組織が「宮座」と表現されています。さらに研究者は注目するのは、頭人が年寄衆の集会で差配されていることです。
 名主座では頭文が作成され、頭文順番で名主座の名頭は奉仕します。第二次大戦前の仁尾賀茂神社宮座は、塩田・鴨田・河田・倉本の四苗(みよう)だけの家で頭屋が運営されていたようです。この四苗の家が300軒あり、そこから5人の頭屋を鬮(くじ)引きで選びます。履脱八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
履脱八幡神社(仁尾)

 仁尾の履脱八幡宮の宮座も十二苗の輪番制で運営されています。
苗はオヤ(本家筋)を中心にまとまっていたようです。この苗が「名」の名残である可能性もありますが、仁尾の場合はそのようには解釈できないと研究者は考えています。それは仁尾賀茂神社宮座の五苗は、名主座の名の数が少ないこと。また履脱八幡宮宮座の十二苗は、オヤを中心とする同族的集団です。仁尾賀茂神社の苗も塩田・鴨田・河田・倉本・吉田という苗字に固定されています。そこから、仁尾賀茂神社・仁尾八幡宮のどちらの苗も、もともとは名ではなく同族を意味するものと研究者は考えています。したがって、両社の宮座は鬮次成功制宮座が変質して、近世以降に家単位の宮座になったようです。

 仁尾賀茂神社の宮座は以下の点から、鬮次成功制宮座であると研究者は判断します。
①宮年寄があること
②宮座という史料表現
③「御鬮(くじ)」による頭人差定
 史料Eの記載から宮座は、中世後期に遡ることができるようです。
中世讃岐の仁尾港 守護細川氏は、香西氏を仁尾の浦代官に任じて支配しようとした : 瀬戸の島から
仁尾賀茂神社

どうして、浪打八幡社という惣荘名主座がある詫間荘内に、もうひとつ別の宮座があるのでしょうか。
 その解決のためには、詫間荘の仁尾浦と仁尾賀茂神社の歴史を見る必要があるようです。まず研究者が注目するのは、以下のように仁尾賀茂神社に免田があったことです。

延文二年二月御代官三郎次郎免田安堵状
(『香川県史』仁尾賀茂神社文書一六号)、延文三年九月詫間荘領家某免田寄進状(同一七号)                         

これは、仁尾賀茂神社が仁尾浦(村)の神社でありながら、詫間荘全体にとっても重要な神社であったことを意味しています。浪打八幡宮は詫間荘の全荘的名主座です。しかし、詫間荘のすべての名を網羅したものではありませでした。仁尾浦(村)には、浪打八幡宮名主座に入っていない名として、金武名・武延名・延包名の三つの名がありました。ここでは浪打八幡宮名主座に編成されていない名が仁尾浦(村)にあったことを押さえておきます。

仁尾浦(村)の他にない特色は、京都の鴨社との関係です。
1090(寛治四)年に鴨社供祭所として「讃岐国内海」が指定されます。この讃岐国内海とは、仁尾浦の津多(蔦)島のことです。その関係から仁尾に賀茂神社が勧請されます。この仁尾の浦人が仁尾賀茂神社の供祭人(神人)へと成長して行きます。
仁尾 初見史料
仁尾浦が史料で最初に確認できる文書 仁尾浦鴨大明神とある

 京都鴨社の仁尾浦支配は、土地支配ではなく、供祭人を通しての支配でした。そのため詫間荘の荘園支配と併存することが可能でした。仁尾賀茂神社の宮座成員は、鴨社供祭人であり、詫間荘荘民でもあるという関係です。仁尾賀茂神社の鴨社供祭人は、京都の鴨社に供物をおくる義務とひき替えに、保護を得て仁尾浦漁携や海運特権を独占するようになります。
 それが1415(応永22)年になると、讃岐国守護の細川頼之から海上諸役や兵船の供出を命じられています。ここからは15世紀初頭になると、仁尾浦供祭人は京都の鴨神社から細川京兆家へと保護者を替えたことが分かります。そうすることで、仁尾浦供祭人は伊予や安芸方面と燧灘を通じての交易活動を活発に展開します。仁尾賀茂神社の鬮次成功制宮座が成立したのは、京都鴨社との関係を持つ賀茂供祭人(神人)がいたからのようです。そして、浪打八幡宮の惣荘名主座とは異なる祭祀スタイルを、仁尾浦の供祭人(神人)は生み出していったと研究者は考えています。

7仁尾3
 中世の仁尾浦の海岸線と寺社分布(点線が海岸線)

仁尾浦と鴨社供祭人は、瀬戸内海を舞台にしして広範囲の経済活動を行っていました。燧灘に面する伊予や安芸の拠点港として機能していたことが考えられます。
 その結果、仁尾賀茂神社は単なる村の鎮守社にとどまらない神社に成長して行きます。ここでは次の事を押さえておきます。
①仁尾賀茂神社が「準惣荘鎮守社的な存在」だったこと
②詫間荘内には異なるタイプの宮座が併存してたこと。それは、一つの荘園に二つのタイプの宮座が併存する珍しい例だったこと。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

ソラのお堂

阿波の「ソラの村」と呼ばれる村々には、小集落毎にお堂が今も祀られています。そして、そこでは祭礼と芸能が行われています。端山88ヶ所廻りをしていて、出会ったお堂は魅力的でした。どうして、このお堂は作られたのだろうか。また、そこで踊られる「盆踊り」は、どこからやってきたのだろうか、疑問はつきません。その都度、思うところや考えたことを載せてきましたが、地元の史料や研究だけでは、なかなか分かりません。もう少し大局的な「見取り図」が必要なようです。今回もテキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です

唐招提寺の舞楽

唐招提寺の舞楽 
奈良時代には東大寺を中心に国家鎮護を目的に仏教の法会が行われるようになります。それが国分寺建立などによって、地方にも拡大していきます。これは「国家的規模の意図的伝播」です。
 平安時代になると真言宗などの密教寺院の地方進出が進みます。これには仏教以前のわが国古来の山岳宗教が大な役割を演じ、その拠点ともいえる山岳寺院を足がかりに勢力を伸ばしていきます。四国では、この中から焼山寺や太龍寺のように、四国辺路の寺へと成長して行く寺院が現れます。密教系寺院の中には、地方豪族の信仰を背景に、多くの寺僧・社僧をかかえて繁栄し、地方の大寺院に成長して行く寺も現れます。このような寺社では、善通寺のように中世後半のある時期までは、経済的裏付けを確保して、規模にあった専業の宗教者を抱え、年中の法会を行うようになります。
1年中法会

一方、中央の大社寺勢力や貴族達も荘園支配という形での地方進出を進めます。それにともなって、荘園鎮守社やその神宮寺が創建されるようになります。そこでは、荘園領主は「イデオロギー的荘園掌握の方法」として寺社は活用されます。これは、中世ヨーロッパの修道院と荘園と同じです。鎮守社の祭礼では、領主が中央で行っていた祭祀や芸能構成が、そのまま地方の荘園にもちこまれます。祭礼準備を行うのは荘民の役目として義務づけられるようになります。そのため荘園内に仏神田や祭祀田が確保され経済的な裏付けがされた上で、専門の宗教者などが祭祀にあたるようになります。
 このような祭礼・芸能の地方進出には、山岳密教系の寺社や荘園鎮守社寺によってそれぞれ独自のスタイルがあったようです。その系統の宗教者によって、祭祀構成や法会、芸能などに共通した特色が残されています。その特徴は、正月三ヵ日の祭祀である元三や、修正会、修二会など新春に行なう行事に重点を置いた祭祀です。ほかに毎月一日ごとの朔幣の奉幣、三月三日・五月五日・七月七日・九月九日の節供ごとの奉御供、仏事に重きを置く所では仁王会・法華八講・車厳会・蓮幸会・維摩会など、加えて年一度の正祭になります。これらを地方の大寺と呼ばれる寺は、整備していくことに苦心するようになります。
旅探(たびたん)】参加できる日本の祭り「醍醐寺の五大力尊仁王会」

 その中で、時代が下るにつれて地方独自のものも盛り込まれ、地域に根付いていくことになります。特に新春にあたっての修正会には、村落生活の中で伝えられた祖霊祭や、豊穣予祝の切実な願いが、前面に押し出されてきます。
惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
 中世社会が進むにつれて、人為的な空間エリアであった荘園や行政単位としての郷とは別に、地縁的集落結合が大きな意味をもつようになります。それが惣郷や惣村と呼ばれる地縁結合体です。ここでは精神的拠り所として、自分たちの信仰する神仏を選び、自分たちの手で祭祀を行なう寺社を勧請するようになります。つまり、一宮や善通寺のように専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、新たに登場してきた惣郷は、自分たちの手で寺や神社を建立し、運営するようになるのです。そして、それまでの専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、惣郷(集落)ごとに祀られた小祠・小堂が村落生活の中心として定着していくことになります。この時点では、まだ鎮守の森には建造物はなかったかもしれません。
それでは、新たに登場した惣郷の社で行われるようになった祭祀と芸能とは、どんなものだったのでしょうか。また、どんな宗教者が関わったのでしょうか
大千度行者(だいせんどぎょうじゃ),日光山伏(にっこうやまぶし) ,里山伏(さとやまぶし)

 この時期の郷村の社寺経営に関わったのは、高野山系系(山岳密教系)の下級宗教者たちだったと研究者は考えているようです。それは、里山伏・里修験、聖などに分類された宗教者です。彼らは、修行遍歴の中で縁があって定着し、次第に村の有力者として祭祀や郷村内での相応の位置を確保していった者がいるようです。その際に、修行で得た胆力や実践力は集団を動かすのに大きな力となったかもしれません。
 三河の田楽(みかわのでんがく)
三河の田楽
しかし、郷村の社で行われた祭祀や芸能スタイルに、新しい工夫があったわけではないようです。それまで地方の有力社寺が、中世前期を通じて徐々に育ててきた年中行事の中から民衆の求める行事を選択して持ち込んだようです。地域の人々が求めるスタイルに変化アレンジさせることが彼らの手腕で、工夫の見せ所だったようです。これを民族化・土着化と呼ぶのかも知れません。
 次に今まで述べてきたことを、具体的に「フィルドワーク」で見ていくことにしましょう。
1修正会 東大寺

 
研究者がここで紹介するのは、三河・信濃・遠江の国境一帯の山深い山村の小祠・小堂に伝承された修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)を中心とした祭祀と芸能です。「田遊び」とか「田楽」「おこない」などの名で呼ばれる行事は、天竜川沿いだけでも、現在十三カ所に伝承されているようです。「田遊び」とか「田楽」という言葉だけを見ると、田植えと関係あるように思って今しますが、そうではありません。その年の豊作豊穣を願う新年の儀式です。

高松神社 (浜岡)---御前崎市観光ガイド『駿河湾☆百景』

この地区の祭祀と芸能が、いつ頃に定着したのかを知る史料はないようです。しかし、遠江国小笠郡浜岡町門屋の高松神明社(高松神社)の社家中山家文書(元弘3年(1333)八月)に次のように記されています。
「遠江笠原庄一宮長日仏性並色々御供料米拾六石下行之時納量十御宝蔵随千其当役令配分注文」
ここには年間一六石の仏神事料の配分先が次のように記されています。
元三十三ヶ日御供料一石八斗
元三十三ヶ日参籠のため一石七斗
正月七日歩射料二斗
一石 同十五修正導師・同供僧井参籠神人等御神楽井田遊井得元・秋貞両御百姓社参祝新陶
 笠原荘の鎮守社として一宮を称したこの社は、熊野権現社の名でも呼ばれたことからうかがえるように山岳密教系の信仰が入りこんだ神社です。正月行事を中心に、毎月一日の朔幣、二月一日・七月七日の祭祀に対する御供料、毎月四斗五升宛の長日仏性料などが配分されていることが分かります。
 祭祀の中心は社僧・神人など専業宗教者です。その中に荘域内の得元や秋貞名の百姓も参加して、その年の豊穣を祈る「神楽」「田遊び」が正月の修正会の中で行われています。14世紀前半には、このような行事が地方の神社にも定着していたことが分かります。
  東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教系の大寺院には、鎌倉期から南北朝にかけて修正会が行なわれています。その際に注意したいのは、開催目的です。その内容は東大寺や国分寺で行われていた国家的祈願の法会という古代的な発想ではありません。新春にあたっての祈願である五穀豊穣と延命忠災で、芸能内容も民俗化されアレンジされたものに変化しています。これを土着化と云うのかも知れません。
田楽踊りとのぼうの城
のぼうの城に登場する田楽踊り

どうして修正会に田楽踊りが演じられるようになったのでしょうか
田楽踊りは平安時代中期頃から鎌倉時代にかけての流行芸能でした。それが一種の延年の芸能として取入れられるようになったようです。醍醐寺三宝院の『賢俊僧正具註暦』貞和二年(1146)正月一日条には次のように記されています。
御神供以下如例、修正如例、(中略)田楽新座社頭役如例了

この他にも日光山輪王寺修正会の顕夜や、多武峯、毛越寺、秋田県鹿角郡(現鹿角市)八幡平大日堂の修正会に田楽踊りは演じられています。ここからは平安末期から中世にかけて、密教系を中心とする寺院の修正会・修二会に、本来の呪師芸だけでなく翁猿楽を含む猿楽芸、田楽踊り・田遊びなどの諸芸能が取り入れられるようになっていたことが分かります。
のぼうの城』つづき - ジョルジュの窓

これらの芸能が山間の村々に浸透して定着するのには、どのようなプロセスがあったのでしょうか
①まず地方の大社寺の行事として定着
②その後、村々に活躍した里修験者などの手によって伝播
という過程が考えられます。修正会・修二会が民俗化していく過程では、その行事をこの地方ではオコナイの名で呼ぶようになります。三河の猿投神社文書の延慶一年(1309)三月九日付「中条景長寄進文書」に「行(オコナイ)」という字で記されています。三・信・遠の山間部の小祠・小堂のオコナイの場合は、系譜的には中央寺社の修正会などと同一線上にあると研究者は考えているようです。

 それが早くから開発の進んだ東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教の地方拠点とされた寺院に持ちこまれ定着、民俗化して中世村落民の民俗行事として受け入れられます。これが第一段階です。さらに開発の進められた山間村に、開発領主の手で持ち込まれるというのが第2段階のようです。
第16回日本史講座まとめ③(院政期の文化) : 山武の世界史


それでは、具体的なお堂や祠を訪ねてみましょう。
伊豆神社(長野県下伊那郡阿南町新野) - Yahoo!ロコ

長野県阿南町新野の二善寺観青堂(伊豆神社)は、御神事(雪まつり)を伝えます。新野には伊豆権現の信仰を持って、この地に定着した伊東氏の伝承があります。伊東氏は伊豆権現の神主を務めると同時に、この地域の開発領主として大きな力を持っていたようです。修正会の祭事も、この伊東氏とその下に属する内輪衆と呼ぶ神人組織によって執り行われ、神事も彼等によって行なわれていたようです。その費用も、伊東氏の負担でした。芸能は上手衆と呼ぶ東西に分けられた組織があり、その世襲によって奉納されていました。二善寺観音もこの伊豆権現に「本地壱本分神成はとて」(『熊谷家伝記』)勧請されたと伝えられます。
新野の雪祭
伊豆神社の御神事(雪まつり)

新野の場合は、二善寺観音を習合した伊豆権現、則ち伊東家の影が強く、新野平野開拓時には、伊豆国の走湯権現の信仰を持った宗教人の活動が見えてきます。伊豆の走湯権現は、今ではその伝統をなくしてしまっていますが、中世期には修験系の信仰を集めた大きな集団として勢力を持っていたようです。奥州平泉や日光山と同じくらいの規模で、天台系信仰が伝えられ、常行堂では修正会が行われ、磨多羅神を祀ったことも知られています。この宗教人の影は、遠州側のオコナイを残す地帯と重なり合います。たとえば静岡県浜松市北区引佐町寺野では、その地帯の開発が伊豆の伊東氏の手によって行われたと伝えます。そしてオコナイの伝わる観音堂も、その開発主によって建てられたと云います。
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 オコナイを残す小堂のうち、峰神沢(現浜松市大竜区)の大日堂には、延徳一年(1491)正月四日の再建棟札が残ります。正月四日が、この堂のオコナイが行われる日です。川名葉師堂(引佐町)は、応永二十二年の再建記録があり、文安四年(1447)二月十六日の年号のある鰐口が保管されています。これらの祭祀はいずれも村の開発者と思われる家が担当したらしく、堂の近くに鍵取の屋敷や屋敷跡が残る所が多いようです。
西浦田楽(にしうれでんがく) - 水窪情報サイト|水窪観光協会
西浦観音堂の田楽踊り

静岡県浜松市天竜区水窪町西浦観音堂はその典型で、観青堂のすぐ下に別当の家があります。祭祀はこの別当を中心に、公文衆・能衆と呼ばれる村の草分け二十数軒の家が世襲で行なってきました。西浦には中世の史料はありません。延宝九年(1681)の年号がある翁猿楽の詞章が最も古いものです。しかし、祭祀形態や芸能から見て、中世には確実に遡ることが出来ると研究者は考えているようです。研究者の調査によると、西浦だけでなく、近辺各所の集落に、観音堂・大日堂・薬師堂などの小堂が祀られ、近世末まではオコナイを修していた痕跡が見られるようです。そしていずれも別当・鍵取りなどの名で小堂の祭祀を司る家筋があり、それらの家が土地の開拓者か、それに近い伝承を持ちます。それがこの地域の一つの特色となっているようです。つまり開発者達が持ち込んだ信仰と芸能が、そのまま残っていると考えられるようです。
2021年 鳳来寺 [ほうらいじ] はどんなところ?周辺のみどころ・人気スポットも紹介します!
鳳来寺
もうひとつの特色は、三河側の修正会には、田楽踊りが加わることです。この背景については、次の2点を研究者は考えているようです。
①近くに鳳来寺という大きな密教系の山岳寺院があったこと
②戦国時代を通じて菅沼氏等の有力豪族が、祭礼に影響を与えたこと
古刹である鳳来寺と、村々で祀る小堂とが、どのような関係にあったかを明らかにする史料はないようです。しかし、近世には鳳来寺領である浅畑・下平・寺林・人峠・引地・橋平・湯谷(以上、東郷と称す)、吉村・岡・大草・黒谷・峯・田代・塩谷・塩平・為・栃下(以上、西郷と称す)の村々が、五人の鳥帽子役、大峠・引地・大草・峯の四人と新加の玖老勢の統率のもとに鳳来寺の諸行事を勤めています。鳳来寺の修正会は、正月三日の本堂(薬師堂)庭において行なわれるのが最も盛大で、田楽踊りは常行堂と本堂庭の行事として行われました。これが、各集落でも舞われるようになったようです。寺林の大日堂では、東郷の人のみによって修正会が行なわれています。これは、周辺の村々が、鳳来寺からの影響を受けて各地域に田楽踊りを取り入れたものと研究者は考えているようです。
 鳳来寺での田楽踊りは早くに行われなくなります。しかし、戦国時代の各集落では、有力土豪たちの助力によって、村人たちによる宮座が組織され続けられます。本家の踊りは消えても、それを取り入れた周辺集落のものは、村人に根付いて生き残ったことになります。
田峯観音浄水 (愛知県設楽町) - ちょこっと日帰り旅行~伊豆の田舎より~
田峯観音堂

 愛知県北設楽郡設楽町田峯観音堂の修正会の芸能は、戦国武将との関係を伝えます。『遣銘書』は比較的信頼のおける小野川家の伝書で、次のように記されています。
永禄二末年、田峯村大般若経御調中候、田楽大輪村道津具薬師堂ョリ、高勝寺へ御引取中候
ここからは、有力土豪菅沼氏が、自分の信仰する田峯観音堂高勝寺の大般若経を揃えた時に、祭祀芸能として大輪村道津共葉師堂の田楽を引きとったとあります。菅沼氏はもともと津具城に居た土豪で、文明二年(1470)菅沼三郎有衛門尉貞吉の時に田峯城に移っています。
設楽町】 田峯城|歴史を感じる|したらん♪トレイル
菅沼氏は本願の地の祭祀と芸能を、のちに田峰に移して演じさせたことになるようです。ここからは道津具薬師堂と菅沼氏の関係は、単なる信仰者という関係を超えていたことがうかがえます。本来は新野伊豆権現における伊東氏や、西浦の高木氏のなど深いつながりをもった土豪が、のちに有力武将となって、本願の地を離れて田峰にやってきたと研究者は考えているようです。この菅沼氏は田峯観音ばかりでなく、鳳来寺の祭礼も庇護しています。また長篠に城を築いた別流の菅沼氏は、設楽町長江観音堂の修正会に力を貸しているようです。ここには、三河山間部の諸堂の祭祀と芸能には、集落を越えて勢力を伸ばした地元の有力豪族の力が働いて、他の地域とは異なる歴史をたどったことがうかがえます。
三河の田楽(田峯田楽)【みかわのでんがく(だみねでんがく)】

 なお田峯観音堂の祭祀には、近世までそれぞれの役に扶持が付いていたようです。これも戦国時代の土豪によって保護された名残だったのでしょう。
1田峰田楽

以上をまとめておきます
①天竜川流域の山村の小祠・小堂でも中世に成ると修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)が行われていた。
②その際の芸能は、神降し・王の舞、呪師系の呪術舞、田遊び、田楽踊り、翁猿楽、猿楽系芸能、巫女神楽系の舞が演じられていた。
③その特徴は、村の開拓者と思われる一族が、鍵取・禰宜・別当などを名乗って祭祀の中心となり、堂字を守ってきた。芸能も、それらの人々か中心となって伝承されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、播磨の住吉神社に伝わる中世前期の祭礼芸能を見てきました。今回は若狭国三方郡地方の延暦寺や奈良春日社領の荘園を見ていこうと思います。テキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です。

若狭では、かつての荘園の範囲を氏子圏とした神社に芸能が伝承されているようです。これは荘園領主が本家から勧進した鎮守社に、祭礼芸能も同時に持ち込んだためです。その際には、経済的裏付けとしての荘園内に神田や芸能田を確保したうえで、荘民に所役を割り当てています。それが若狭には、今も残っているようです。
日本秘湯を守る会 虹岳島温泉の粋なオッチャンブログ 春祭り 宇波西神社にお参りを

福井県三方郡三方町気山の宇波西(うわせ)神社は、
鎌倉時代には耳西郷と呼ばれる国衛領に鎮座する古社でした。耳西郷は鎌倉末期には領家職が東二条女院によって奈良春日社に寄進され、南北朝期には地頭職が天龍寺領と移っていきます。その後幾たびかの変遷を経て、字波西神社の祭祀は、耳西郷の村々によって担われるようになります。四月八日の祭礼は、旧耳西郷の気山(中山・市・中村・寺谷・切追)、牧口、大藪、金山、郷市、久々子、松原、笹田、日向、海山、北庄の村々が奉仕しています。宇波西神社の祭礼の特色は、これらの村々が定められた神餞と御幣を持って参詣することです。神社境内には各村の仮屋があって、献般を済ませた後は村ごとにそこに座を占めて饗宴を開き、当番村が繰り広げる上の舞・獅子舞・田楽などの芸能を楽しむのです
詩情あふれる神事☆宇波西神社(4月8日)『王の舞』/若狭美浜温泉 悠久乃碧 ホテル湾彩のブログ - 宿泊予約は<じゃらん>
宇波西(うわせ)神社の王の舞
祭礼で芸能を演じる村は、次のように決まっているようです。
①王の舞が海山・大藪・金山の三村が1年宛ての交替分担
②獅子舞が郷市・松原・久々子の交替制
③田楽は日向が2年、牧口が一年の交替
これは神社にある大永二年(1522)の「上瀬宮毎年祭礼御神事次第」に記された、当時の神事に献供を寄せた村と一致します。約五百年の歴史があるようです。
王の舞とは - コトバンク

 祭礼では、今では前日から当日の朝にかけて、それぞれの村で宮座が行なわれ、それを済ませてから総鎮守の宇波西神社に舟でやって来るという段取りになっています。しかし、これは宮座が開放されて以降の形式で、古くは耳西郷内の各村浦に住んいた選ばれた上層農漁民たちによる惣宮座があったと研究者は考えているようです。神社の鎮座する気山には、「気山モロト」と呼ばれる特定の家のみで継承する宮座が今も残されています。彼らは、謡の間に若狭鰈や桜の一枝を馳走にして献を重ねていきます。ここからは、春未だ浅い早朝の上方五湖を、舟で渡って神餞を運ぶ素襖・烏帽子の村人たちの姿と、中世期の若狭に生きた人々の姿がダブって見えてくると研究者は云います。
国津神社の神事[県指定] 若狭町観光情報 Discover Wakasa
 三方町には、伊勢神宮の所領向笠(むかさ)の範囲を氏子圏とする向笠国津神社の四月二日の祭祀もあります。これも
①興の村(王の舞と獅子舞を担当)、
②流鏑馬村(流鏑馬は廃絶)、
③大村(田植舞を担当)、
④田楽村(田楽を押当)
の四つの宮座によって行われています。
また、大炊寮の所領であった田井保の範囲を氏子に持つ多由比神社では、四月十八日の祭礼に、宮座によって田楽・上の舞・獅子舞・細男舞が演じられます。このように若狭の特徴は、保や荘園などの中世前期の氏子範囲を宮座とする神社の祭祀が、現在まで残されていることだと研究者は指摘します。

猿楽と面

南山城の宮座
若狭の勧進された鎮守社では、荘園単位の宮座によって演目が演じられていました。それに対して畿内の惣村の宮座では、専業猿楽者を祭礼に招聘する方式がとられます。権門勢家という後ろ盾を失った猿楽者が、その生き残り策として、力を付け始めた惣村を芸能市場に選んで、積極的に売り込みを図ったようです。惣郷の鎮守社の祭礼に、神を出現させるという役割で、猿楽者が登場するようになるのです。そのスタイルを具体的に見てみましょう。
 猿楽者は、社の遷宮に際し「方堅」という呪術を行なうことで惣村に進出していました。それがさらに進んで、春秋の祭礼にも登場するようになります。神格を持った「翁面」をご神体として本殿に祀らせ、それを春秋の祭礼に取り出して猿楽者自身が舞い、神の姿として見せるというスタイルです。
MMDアクセサリ配布】翁面3種+父尉配布 / キツネツキ さんのイラスト - ニコニコ静画 (イラスト)

現在でも各地の神社には、南北朝期から室町時代の翁・二番艘・父尉(ちちのじょう)の三面がご神体に準じて祀られていることがありますが、それはこの時に使われていたようです。
 惣村の自治活動の先進地と云われ、15世紀末には、一揆によって八年間の自治支配を実現した南山城地方では、宮座をこの方式によって運営する所が多かったようです。
岡田国神社(京都府木津川市木津/神社(増強用)) - Yahoo!ロコ
岡田国神社

京都府木津市の岡田国神社には、境内中央に建つ拝殿を利用した能舞台を中心に、両側に見物の桟敷となる仮屋(長床)が残されています。祭礼には長床でおける宮座行事が終了した後、この拝殿に橋掛かりを設け、郷が楽頭職を与えた猿楽者が能を演じていたようです。特別なときには、いくつもの猿楽座が呼ばれて競演することもあったようです。
伏見経済新聞 - 広域伏見圏のビジネス&カルチャーニュース

 見物する座席は、惣郷の勢力関係によって、細かく決められていました。ハレの場における村のステイタス確認儀式の場でもあったようです。桟敷には上層農民である殿原桟敷と、その家族たちの女房桟敷、そして一般農民の地下桟敷の別があります。ここからは当時の惣村の内部構造などもある程度うかがえます。同時に中世農民がハレの日の興奮を、自治組織の運営にうまく組み込んでいった知恵も知ることができます。
中世 田植絵図1


 いつの時代でも、農民にとっては米の不出来が大問題であったはずです。残された絵図を見ると、中世の農民は、祭りを神祭りの場としてハレの行事に組み込み、一日を楽しんだ様子が伝わってきます。
それを研究者は次のように描きます
田を植える役の早乙女たちは、この日ばかりはこざっばりとした労働着に、新しい笠に身を固め、凛々しい姿で田植を囃す早男(立人)たちの目を意識しています。
大川田植 牛耕 

 また田植が田の神を迎えての神事であった時代には、美しく飾った自慢の牛たちを、何十頭も田んぼに入れて、熟練の牛使いがそれを見事に歩かせて田を鋤くのが、どこの地方でも見られたようです。
田植え 田楽踊り


 指揮者との掛け合いで歌われる早乙女たちの田植歌は、豊穣を祈る呪歌でした。それは時間の推移によって歌詞が決まっていて、時には笑いを誘うバレ歌を交えて、労働の疲れを忘れさせます。それを囃す男たちの楽も、腰太鼓・摺りささら・鼓などが用いられ、賑やかに撥が五月晴れの空に舞います。全員の意気が揃うと、早乙女の笠の端が一斉に揺れて、歌声が卯の花を散らす。
この日ばかりは無礼講で、田主の裁量で酒がふんだんに振る舞われ、その女房は田の神の嫁たる「オナリ」に扮して、昼の食事を運ぶ。この夕ばかりは性の解放さえされたのは、そのいずれもが秋の菫一穣を願う儀式の一部であったからにはかならない。
月次風俗図屏風(一) - 続 壺 齋 閑 話
 平安時代の貴族たちは、この田植えさえも一大イベントとして鑑賞対象として記録に残しています。(栄華物語)。現在でも広島県の山間部や島根県の一部には「囃子田」とか「花田植」とか呼ばれて、地主の大きな田んぼを、太鼓を囃しなから植え行事が残されていました。
塩原の大山供養田植、庄原に伝わる4年に1度の牛馬安全祈願行事

そこで歌われた田植え歌の歌詞が「田植草子」と呼ばれる中世の庶民が育てた文芸の代表として、国文学の研究対象になってきたようです。この他にも正月行事には「田遊び」と称して、一年の稲作過程を神の前で模擬的に演じてみせたりすることもあったようです。それが近世には、絵図として描かれ、都市の裕福な階層の人気を集めたりもします。ある意味、農作業の「啓蒙書」の役割も果たしたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山路興造 中世芸能の底流 
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

 いつの時代も農民にとって、実りの秋は何よりうれしい季節です。古代以来、彼らは自分たちの精神的依り処を、先祖の神や自然神を祀ることに求め、里から見上げる甘南備山を霊山として崇めてきました。そこに、国家や領主によって鎮守社が勧請されると、その氏子の一員に組織されるようになります。中世になり、国衙や荘園の力が衰えるようになると、上層農民たちは、この社を精神的紐帯として、血縁や地縁による地域集団を形成するようになります。そして、結束を固めるために祭祀組織を再構成するようになります。これが宮座の誕生につながるようです。
今回は、宮座の果たした役割について見ていこうと思います。
    テキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です
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 国衛や荘園領主などが、所領に鎮守社を勧請して祭祀するのは、神に豊穣を祈るという精神的「勧農」が目的だったようです。その場合には、荘園領主によって「神田」などが設定されて、祭礼のための経済的裏付けがなされていました。つまり、古代の祭礼は、荘園領主たちの経費で賄われ、そこで行われる伎楽や舞楽も専門演技者が雇われてやってきました。つまり古代の地方寺院の祭礼運営には、農民たちが関わるものはなかったようです。しかし、中世後半になると古代システムが崩壊しはじめます。新たなる神祭りの方策が必要に成ってきます。そこで登場してくるのが宮座のようです。
京都府京都市西京区 松尾大社
松尾神社(京都市西京区)

宮座の一番古い記録は、山城国葛野郡の松尾神社(京都市西京区)とされています。
渡来系の氏族秦氏の氏神を祀った松尾社は、古代末には葛野郡一郡の神社に成長していました。朝廷から奉幣のある四月祭をはじめ、六月の御田代神事(御川植祭り)や九月の九日会などは、平安京の右京西七条に、在家や田畠を持つ富裕な者を座衆とする祭祀集団のなかから経費が集められています。そして、その年の一切の祭祀の責任を持つ頭人が差配するというスタイルが出来上がっていたことが史料から分かります。(元久元年(1204)3月5日付「官宣旨」松尾大社文書)
 神社祭祀や寺院法会を、頭人を定めて行ういう制度は早くからみられます。それを社寺周辺の有力住民に座を組織させ、その中から頭人を選んで行わせるというスタイルは新システムです。これは都周辺の農村部が早かったようです。
 宮座に関して残る松尾寺文書の最初の記録は、神社側が座衆の運営上の問題点を指摘した内容です。ここからは、農民側がこの組織を自分たちの結束に利用しようとする気配は、まだうかがえません。上層農民側が自らの土地を自らの手で守るという自治意識が生まれるには、もう少し時間がかかるようです。
松尾大社 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
         松尾神社(京都市西京区)

 中世農民は、生きるために仕事に追いまくられる生活でした。そういう意味では彼らの日々の生活は単純です。一年を単位とする自然の巡りを相手に、一日中労働に追いまくられる以外の生活は考えられなかったはずです。秋の収穫しても、神を頼りの一喜一憂を繰り返すので、これといった手立てを講じる術もありません。また、襲いかかってくる戦乱や収奪に対しても、天災と同じように諦めと、生活の知恵でしたたかに対抗するのが精一杯だったのかもしれません。
 それだけに、ケの日々とは正反対の異次元世界である「ハレ」の日に、思い切り精神を開放させる知恵を彼らは生み出していました。ケの日々が苦しければ苦しいほど、また単調であれば単調であるほど、ハレの目を待ちわびる思いは大きく、その爆発力も大きかったようです。
 一年の巡りを区切る最大のハレの日は、鎮守の祭礼です。もともとは領主の側で一切の準備をしたこの行事が、その設営・運営が有力農民の力に委ねられるようになります。そうなると農民の側は、神の出現する異次元世界を、地域住民の結束の場として積極的に取り込み、惣村の精神的紐帯を生み出し、強めていくイヴェントして活用するようになります。なにかしら現在の「町興し行事」と重なる部分があるような気がしてきます。
 ここに新しい宮座が誕生し、中世から近世ににかけて機能していくことになるようです。それでは、いろいろな郷村を尋ねて、宮座の運営方法などを覗いてみましょう。  
上鴨川住吉神社 - 加東市/兵庫県 | Omairi(おまいり)
上鴨川の住吉神社 茅葺きの割拝殿の向こうに朱塗りの本殿
最初に訪れるのは兵庫県加東市)社町上鴨川の住吉神社です
この神社を研究者は次のように紹介します。
黄金色の稲穂がなびく谷田の外れ、集落からはやや離れた小高い杜に、住吉神社は鎮座している。その境内に続く石段を登りきって振り返ると、そこには何世紀も変わらないなつかしい村の風景がある。幾百年も前から、村人が祭りのたびに営々と踏み固めた境内に入ると、正面の一段高い石積みの上に、萱葺きの割拝殿が建つのが目に人る。その奥に鎮まる朱塗りの本殿は、明応二年(1493)の造営で、重要文化財の指定を受けるが、近年の解体修理ですっかり新しく甦っている。石段の脇、拝殿と対峙して建つ舞台は、風雪にやや傾きかけてはいるが、萱葺きの屋根に曼珠沙車がぼつんと咲いているのが印象的である。境内の奥に大きく場所を占める吹き抜けの長床。本殿や境内を囲むようにひっそりと並ぶ小宮。どの一つをとっても、時間を超越した物のみが持つ存在感を宿して、しっかりとそこに在る。
住吉神社 (加東市上鴨川) - Wikiwand
朱塗りの本殿
 この神社は中世の研究者にとっては、一度は訪れてみたい神社のようです。10月4日・5日の祭礼になると、研究社たちが全国から大勢集まってくるようです。その目的は、この神社の祭礼に残る宮座行事と、それにともなう芸能です。そこには鎌倉時代末期から南北朝期にかけての惣村の姿が、垣間見られるからのようです。
加東遺産巡礼コース | 加東市観光協会

 この地は、今では高速道路の中国道がすぐ南を通るようになって便利になりましたが、近世には播磨の丹波国境に近い辺境の村でした。しかし中世は、村の東にある清水寺が西国三十三所の札所の一つで、京都からほぼ真西にルートをとって、亀山(現亀岡市)から丹波篠山を通り、南西に丹波古市―小野原を経て播磨海岸部で山陽道と結ぶ裏街道が、この上鴨川を抜けていました。源義経が平家を追って、一ノ谷に向かったコースなるようです。つまり、中世は交通の要衝にあったことになります。

この地は、名前の通り古代以来、摂津住吉大社の荘園でした。
住吉大社の『住吉大社神代記』には、播磨国賀茂郡の椅鹿山(はしかやま)を杣山(森林資源)として領有していたとあります。椅鹿杣山は播磨から有馬・丹波に亘る広大な地域で、この杣山の一部がのちの多紀郡小野原荘となったとされます。『住吉大社神代記』には奈良時代に「播磨国賀茂郡椅鹿領地田畠九万八千余町」を神領としたと記します。「椅鹿領」の一部が上鴨川になるようです。

播磨・丹波の住吉神社
    丹波・播磨の境の住吉神社の分布図 朱○が住吉神社

 これは播磨と丹波の両国に跨がる広いエリアになります。
このエリアには、住吉神社が村ごとに鎮座しています。住吉神社の密集地帯です。これは、この地域が摂津住吉大社の荘園「小野原荘」であったからのようです。鎌倉時代の文保年間(1317~19)に、小野原荘の氏神として 住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建されます。その後、13世紀半ばの『続左丞抄』所収の注進状によると、椅鹿領は「大河荘・久米荘・古井荘・比延荘・小野原」などの荘園に分割されています。すると、分割された荘園にも、住吉神社は分社・勧進されていきます。こうしてこのエリアには住吉神社が広まったようです。
⛩上鴨川住吉神社|兵庫県加東市 - 八百万の神
上鴨川住吉神社

 上鴨川は、付近の下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内とともに、大河荘を形成していました。上鴨川の住吉神社は、大河荘の鎮守社として領主の摂津住吉入社を勧請した社になります。現在の社殿が明応2年(1493)の造立ですが、その棟札からはそれ以前の正和五年(1316)、永享六年(1434)にも造立されていることが分かります。現在は重要文化財に指定されています
 中世末期には、荘園の細分化が進みます。そして大河荘は、上鴨川・下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内と小村に分化して近世を迎えます。同時に、神社もそれぞれの近世村にさらに分社されます、そのため、上鴨川に鎮座した大河荘の荘鎮守住吉神社も、上鴨川一村の村鎮守となって今日に至ったようです。
 そういう意味では、現在の宮座の形態は、必ずしも中世宮座そのものではないようです。細分化され小型化した宮座なのです。上鴨川の宮座は、古くは「二十四軒株」と呼ばれた宮座株の家のみが、左座・右座に分かれて運営してきたようです。宮座を開放してからは、二十四軒株の者が左座、それ以外の者が右座に付くようになっています。この二十四軒株も、近世初頭に村宮座に変化した時に固定された可能性が高いと研究者は考えているようです。

篠山市の今田住吉神社(篠山市今田町)は、は虚空蔵山麓に鎮座し、兵庫陶芸美術館がすぐ南にあります。本殿は葺春日造に唐破風付き、垂木は二軒、斗供は三手先組、精緻な彫り物が木鼻・蛙股・妻飾などに施されています。今は覆屋根に囲まれていますが、野晒しの期間が長かったためか傷みが目立つようです。
 この神社は今でも小野原荘の荘官であった公文・下司・田所の後裔という「三職」が宮座の祭祀権を持っています。宮座に残る「三職党書」には、康永二年(1343)に荘官が私領を付近の和田寺に寄進して摂津に引き揚げた時、その祭祀権を在地の有力武士であった三軒の家に託したとあります。この三職を核に、荘域内各村の有力農民がそれを補佐する形で、北座・中座・南座の三座を構成されています。

大河荘の中世宮座も、荘官などを中心とした荘域有力農民層によって構成されていたはずです。その時代の宮座の形を知る史料は残されていません。しかし、祭礼の際に繰り広げられる芸能には、年齢階梯によって決められた宮座運営の方式が残り、中世宮座の面影がうかがえると研究者は考えているようです。その宮座をみていくことにしましょう。

上鴨川住吉神社の宮座

 上鴨川の住吉神社の宮座は、長男のみで構成されいます。
7、8歳で「若い衆の座」に入って、12、3歳前で与えられた役目を勤めあげると、それからの八年間を「清座」に在籍します。それを済ませてはじめて「年寄」として、村政などを決定する正式の座に加人することが認められます。「若い衆の座」は、村落共同体の運営に直接関わることはないようですが、祭りに関する権限の一切は彼ら「若い衆」に委ねられています。入座以降、若い衆の座の総責任者である「横座」として、祭りの一切を指揮して「清座」に入るまで、それぞれに年齢序列によって多くの役々が綿密に決められています。その過程の一つずつに責任を持たすことで、共同体の必要とする人材育成と教育の意味を兼ねていると研究者は指摘します。座の先輩が先生であり、卒業者たる清座がそれを監督する役目のようです。 若い衆に任せた祭礼については、「年寄」衆は一切口出しをすることはありません。
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる=加東市上鴨川
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる

 よそ者が調査研究と称して、重要文化財に指定されている猿楽能の面を調べに来ても、その年の「オンソク番」(祭りの衣装や道具を1年間管理する役)を勤める二人の少年の立合いなしには、それを収める箱の蓋をあけることさえできなかったようです。この2人の「オンソク番」のうち上位の少年は、その年の祭りで直会の宿を受け持ち、翌年は頭屋の控え、その翌年には頭屋として一家を挙げて神儀など祭礼の準備を担当します。そして、三年目には禰宜控え、四年目に禰宜 (副横座)を勤め、五年目に横座として祭りの総指揮にあたるという運びになります。この役がまわってくるのは、二十歳を過ぎてからになります。この大役を無事果たし、祭りの終了後に横座の象徴である太刀が副横座に渡され、年寄衆の座での報告が済むと、はじめて清座入りを果たすことになります。清座の初年度には一年間を通じて神社のお守りをする「神主」の役があり、それを勤めあげねば一人前にはなれません。ここには詳細でしっかりとした役割分担があります。このような行事を担う中で、村落を担う次の世代の人材が養成されていったようです。「祭りの準備」は、人作りの一環であったともいえます。
そして、研究者が注目するのは、この中で彼らの一生の評価が決まる晴舞台でもあったことです。先輩達の評価が将来の共同体での役割を決定し、嫁の世話にまで影響があったと云います。

上鴨川住吉神社の宮座行事
宮座「若い衆」の祭礼行事一覧

上鴨川住吉神社の祭礼に伝わる芸能も中世色が濃いと、研究者は次のように指摘します。
①副横座が鳥甲(とりかぶと)に太刀を帯び、鼻高面を付けて舞う「リョンサン」と呼ぶ舞は、平安時代末期から鎌倉期にかけての祭礼芸能である「上の舞」
②ビンザサラ四人・締太鼓三人・鼓一人・銅拍子(チョボ)一人の計九人の少年が躍る田楽躍りや、曲芸をみせる高足、獅子舞、御神楽(神主役が宵宮で鳳女舞を舞う)など、いずれも中世期に中央の大社の祭礼に演じられた芸能
であるぐ
③「いど・万歳楽・六ぶん。翁・宝物・冠者・父尉」と呼ぶ「翁猿楽」が、市北朝頃の作品である面とともに伝承されている。
③については、南北朝期に大和猿楽の観阿弥・世阿弥が能の様式を大成した頃の翁舞とは別の、その原型ともいえるもので、語りを主とした芸態を残しているようです。「いど」は現在の露払、「万歳楽」は三番聖、「六ぶん」「翁」「宝物」は翁舞に相当します。冠者・父尉は中央の翁舞ではすでに演じなくなっています。これらの芸能は、その一つずつが中世期の流行芸能です。そして、ただ伝承されているだけでなく神楽(巫女舞)・王の舞・獅子舞・田楽という芸能群とセットで残っているのは非常に珍しく貴重だと研究者は指摘します。
兵庫県加東市 上鴨川住吉神社 神事舞 on 2015-10-4 その5 田楽 - YouTube

たとえば後白河法皇が勧請したと伝える京都新日吉神社の小五月会の祭礼には、「神楽・王舞・師子・田楽・流鏑馬」が演じられています。(『経俊卿記』建長八年(1256)五月九日条)、同じく後白河法阜が描かせたという『年中行事絵巻』の祗園御霊会の行列には「王舞・巫女・田楽・師子・細男」などの姿がみえます。いまは、他では見ることの出来ない舞楽がここでは、今も村の若者達によって受け継がれているのです。
上鴨川住吉神社の神事舞、厳かに奉納 : KOTOコレ2017

 ここからは古代には中央の大寺院や神社で奉納されていた伎楽や舞楽が、地方に分社された神社にもたらされて、演目も変わりない形で演じられていたことが分かります。同時にそれを演じるのは、かつてのように旅芸人たちによるものではないのです。祭りの準備は「若い衆」と呼ばれる地元の若者達の手によって担われるようになります。    若者達は祭りを担当するだけでなく、その準備・運営を行う事によって将来の「村落共同体」の指導者を育成する役割も果たしていました。
上鴨川住吉神社の神事舞

 このようにして祭礼を通じて、惣郷のメンバー達は村落共同体への帰属心を高め、団結心を育んだのです。まさに祭りは「人を育て、村をまとめる」ためのイベントして機能していたことが分かります。
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 参考文献             山路興造 中世芸能の底流
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力

中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
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 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
宮座は、もともと寺社の祭祀の負担すべきことを、地域共同体や商工業者に担わせるために、支配者の側が率先して作らせたものでした。その宮座組織を拠り所にして、民衆側は逆に自分たちの精神的紐帯として活用するようになります。そして郷村自治の拠点としていきます。鎮守社の祭礼を行う中で共同体意識を培い、結束力を高める場と宮座はなります。鎮守社の祭礼は、惣郷民の結束の確認の機会としても機能するようになるのです。
中世の「宮座」の面影を伝える行事~久井稲生神社の御当~ - 祭り歳時記 - 文化庁広報誌 ぶんかる

 宮座の組織が早くから発達する近畿地方の郷村では、春秋の一期に、定期的祭礼を行なうのが通例でした。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、共同体の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

同時に、あらかじめ契約を結んでいた猿楽者などの芸能者がやって来ます。彼らは翁姿に変じた先祖の神として現れ、翁舞(翁猿楽)を舞うことで、郷民を祝福します。余興として、当時の流行芸能であった狂言や猿楽能も演じられたようです。
ルーツの伝来(源流)|歴史|ユネスコ無形文化遺産 能楽への誘い
田楽と猿楽

また正月の祭りでは、その年の秋の豊穣を正月の神(先相神)に祈る様々な行事が行なわれました。それらの費用は、古くは領主の側の負担でした。そのため領主の居館跡からは、酒を酌み交わしたかわらけの破片が数多く出土するようです。郷民達は、領主居館でただ酒を飲んでいたようです。しかし、時代が下るに従いこの習慣はなくなります。自治とは自腹でもあります。郷民自身が順番に負担する「頭屋」の制度などによって賄うようになります。
 これら恒例の祭りとは別に、旱魃の時に行なわれたのが雨乞祈願です。郷村の祈雨祈願のスタイルは、竜神に祈るという点では、古代と変わりません。寺院僧による読経であり、牛馬を殺して竜神の池に投げ込み、怒らせるという方式です。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

 和泉国日根野荘の郷民による雨乞踊りは
公家の九条政基が和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)で見た雨乞いの様子が彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条には、次のように記されています。
 この付近の村々は、葛城山系の灯明岳から流れ出す大鳴川の水を水源として耕地を拓いていて、その源流には修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。
犬鳴山七宝瀧寺 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘
犬鳴山七宝滝寺
この寺は天長年間(824~)に、淳和天皇がこの地域の源流にある7つの滝に雨を祈って霊験があったという伝承のある霊山で、祈雨の寺院です。中世後期にここで行われていた雨乞は、九条政基の日記を要約すると次のようになります。
①最初に入山田村の郷社である滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②験のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で沙汰する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
という手はずになっていたようです。
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「雨乞いして雨が降らなかったためしはない。なぜなら綾子踊りは、雨が降るまで踊る」というのが、私の住む地域に伝わる雨乞い綾子踊りの鉄則です。ここでも雨が降るまで、いろいろな手段が講じられていたようです。しかし、やることは、古代の雨乞いと変化はないようです。ところが、大きく違っているのは、雨が降った後のお礼です。
文亀元年夏の時には、雨乞いをすると直ぐに霊験があり、一日後の22日条には「未刻に及び滝宮の嶺に陰雲強く鮮興り、雷鳴一声霜ち聞き入る」と記されています。この降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。雨乞いのために行なうヲドリを、私たちは「雨乞踊り」と呼んでいます。しかし、ここでは「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。このような風流やヲドリを、雨乞に演じるということは、律令制の時代や、中世前期の荘園にはありませんでした。中世後期に始めて登場するイベントです。
  「勝尾寺請雨勤行日録」には、次のように記されています。
請雨、嘉吉三年七月十九日、外院庄ヨリ付之、同日末刻開向在之、丁丑日別院衆モ大般若読了、(中略)同時ヨリ庭ニテ大コヲ打、ツヽミ、ヤツハチ、フエ、サヽラニテ、ヰキヤウ(異形)無尽ノク

ここからは、雨乞いが成就した後に、大鼓・鼓・八撥・笛・摺リササラなどの囃子が使われて、踊りが奉納されています。
鷺宮囃子 | 中野区公式観光サイト まるっと中野

このようなヲドリは、「風流の囃子物」とも呼ばれていたようで、民衆が自ら演じる芸能として、京都・奈良の近郊農村部を中心に、近畿一円に登場していました。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。その背景として考えられる要因を、挙げておきましょう。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために民衆の間に流布させた、「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う、「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために工夫されたものではありません。先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られていたものです。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
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「政基公旅引付」には雨乞い以外の風流の様子も、記されています。
雨乞祈願が成功した同じ年の孟蘭盆会、入山田郷の郷民は念仏風流を行なっています。同日記の七月十三日条に、次のように記されています。
「今夜船淵村之衆風流念仏、又堂の庭に来る、念仏以後種々の風流を尽す

この風流を観た政基は、その趣向の風情や使われている言葉が、都のものにも劣らないと感嘆しています。
翌日14日には土丸村の風流があり、
翌々日15日は高蒲村の衆による念仏風流と、大木村の衆による風流が、政基の居る堂の庭にやってきて踊っています。
16日の夜には四ヵ村がともに滝宮社に赴いており、土丸と入木、菖蒲と船淵というそれぞれ二村の立合で芸が披露されています。
風流の本流は囃子物だったようですが、社頭では猿楽能の式三番と能「鵜羽」が郷民の手で演じられています。その能を観た政基は、「誠に柴人之所行希有之能立を作る也」と驚いています。ここからは16世紀初頭には、畿内では郷民による祭礼芸能が、相当に浸透していたことがうかがえます。
この年は神社の秋の祭礼でも風流が演じられています。  
演じられたのは入山田村の神社である滝宮の祭礼ではなく、式内社であった大井関神社(現日根神社)の祭礼です。
日根神社
大井関神社(現日根神社)
この神社は、古代には日根神社として呼ばれていましたが、日根庄が成立すると、その荘園鎮守社となり、日根野荘一帯の田畑を潤す水を、樫井川から取水する大堰に近かったこともあり、大井関神社と名を替えて祀られるようになります。日根野荘が解体しても、住民にとつての信仰は続き、八月十五日の祭礼には、入山田からも参加していたようです。
 政基はこの祭礼の様子を、次のように記しています。
「当国五社宮祭礼也、大井関社第四之社也、抑も高蒲・船淵之衆一昨夜不参之条、今日十六日態卜風流企て推参、事の外人儀之風流也」

風流以外にもその後には船淵の百姓である左近太郎という者が、猿楽能の式三番を演じており、その演技の確かさにも驚いた様子が記されています。郷民の中には、玄人はだしで演じる者がこの時代には現れていたのです。
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 参考文献
 山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌  

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