瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:家船漁民

俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

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河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   
3 家船jpg
 前回は、安芸からやって来た家船漁民が、丸亀の福島町や宇多津などの港町に定住していくプロセスを見ました。今回は、彼らを送り出し側の広島の忠海周辺の能地・二窓を見ていきたいと思います。
  家船漁民は、家族ごとに家船で生活し、盆と正月に出身地(本村)に帰る外は、新たな漁場を求めて移動していきます。そして、漁獲物の販売・食料品の確保のための停泊地に寄港します。それが讃岐では、丸亀や宇多津であったことは前回に見た通りです。しかし、漁場と販路に恵まれ、地元の受け入れ条件が整えば、海の上で生活する必要もなくなります。陸に上がり新たな浦(漁村)を開きます。瀬戸内の沿岸や島には、近世中期以降に、家島漁民によって開かれた漁村が各地にあります。
家船漁民の親漁港(本村)は?
能地(三原市幸崎町)、
二窓(竹原市忠海町)
瀬戸田(豊田郡瀬戸田町)
豊浜(同郡豊浜村)
阿賀(呉市)
吉和(尾道市)
岩城(愛媛県)
3 家船4
などが母港(本村)になるようです。家船漁民は「海の漂泊民」と云われ記録を残していませんから謎が多く近年までよく分かっていなかったようです。それが見えてくるようになったのはお寺の過去帳からでした。そのお寺をまずは見てみましょう。 
 能地は忠海にある小さな港町です。
今では能地港には漁船の姿はほとんどありません。海には大きな造船所が張り出しています。海のすぐそばまで山裾が広がり、かつての海を埋め立てた所にJR呉線の安芸神崎駅があります。ここから北に開ける谷沿いに上がっていくと、小高い山の上に立派な臨済宗のお寺があります。
 この寺が家船漁民達の菩提寺である善行寺のようです
3 家船 見晴らし能地の善行寺
家船漁民の人別帳が残る善行寺
この寺は臨済宗で、15世紀後半に、豪族浦氏によって建立されたと伝えられています。浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川勢の有力な一族でした。「浦」を名乗った姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなった一族のようです。特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝です。

3 浦氏
浦宗勝
彼は、1576(天正四)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめて、大活躍しています。かつてベストセラーになった『村上海賊の娘』でも、木津川海戦での戦いぶりは華々しく描かれています。
 能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、
浦氏の直属水軍として働いたからだと研究者は考えているようです。安芸門徒と云われるように、広島は海のルートを伝わってきた浄土真宗の信者が多く、海に関わる人たちのほとんどが熱心な浄土真宗の門徒でした。ところが、この地では漁民も臨済宗の檀家だったようです。小早川の一族には臨済宗の熱心な信者が多く、その水軍の傘下にあった水夫たちも自然に善行寺の檀家になったようです。
小早川氏→浦氏→能地・二窓の水軍衆というながれです。
 関ヶ原の戦いで敗北し、浦氏直下の水軍も離散します。彼らの多くも家船漁民として、瀬戸内海にでていくことになります。その際にも彼らは臨済宗の善行光の門徒であり続けたようです。
 善行寺の『過去帳』には、死亡した場所が『直島行』とか地名が記録されています。
ここからその人物がどこで亡くなったが分かり、彼らの活動範囲を知ることができます。その地名を分布図に落とし、彼らの近世から明治にかけての展開の様相を明らかにした研究者がいます。それによると、 ふたつの浦の漁師の活動範囲は、東は小豆島から西は小倉の平松浦までに広がっているようです。
二窓の家船漁民の「出稼ぎ先」死亡地がわかる初見は、次の通りです
備前が1719(享保4)年に『備前行』
讃岐が1721(享保6)年 讃岐
備後が1724(享保9)年 備後『草深行』、
安芸 が1724(享保9)年 安芸『御手洗行』『大長行』
で、18世紀初頭の享保年間から、他国での死亡事例が出てきます。この時期に、家船漁民の他国での操業・定着が始まったと研究者は考えているようです。しかし、その数は多い年で8件、平均すると各年2件ほどです。この時期の「移住者」は少ないようです。
 それが百年後の19世紀代になると激増します。
1800-24年の間に222件、うち出職者85件、
1825-49年の間に423件、うち出職者266件
1850-74年の間に552件、うち出職者275件
となっており、幕末期における他国への「出稼ぎ」数が急増していることが分かります。
移住者が急増する要因や背景は何だったのでしょうか?
 よその海に出かけ操業したり、定着する場合は、先方の漁民の障害にならない配慮が必要でした。そのため初期には、芸予諸島の大三島や高縄半島の波方・菊間浜村・浅海・和気浜・高浜・興居島・中島などの地元漁民があまりいないところに「進出」したようです。「入植」を許した村々では、家船漁民を定着させることによって、目の前の地先漁場を確保しようとする思惑もありました。しかし、18世紀初頭までの陸上がりして定住した例は限られていました。それまでは、遠慮しながら陸上がりして定着していた状況が一変するのは18世紀後半になってからです。
変化をもたらしたのは海の向こうの中国清朝のグルメブームです
①中国清朝の長崎俵物の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計4500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
 
3 iesima 5
海鼠なまこの腸を取り去り、ゆでて干した保存食「いりこ」(煎海鼠・熬海鼠)を製造しているところ。ここでは津島国の産業として紹介されている。いりこは、調理の際に再び水煮して軟らかくして食した。古来より珍重されていた食物であり、特に江戸時代中期以降は、対清(当時の中国)輸出の主要品目であった。人参のように強壮の効果があるとされていた。

一方、忠海の近くの能地・二窓は、煎海鼠(いりこ)生産の先進地域だったようです。
製造業者は堀井直二郎、生海鼠の買い集めは二窓東役所。輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
各浦は、先進地域から技術者・労働者として家船漁民をユニットで大量に喜んで迎え入れるようになります。大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。現在のアジアからの実習生の受入制度のを見ているような気が私にはしてきます。
迎え入れる浦は定住に際しては、地元責任者(抱主)を選ばなければなりません。抱主が、住む場所を準備します。舵主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人(農民)が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主(農民)に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
 直島の庄屋と二窓庄屋のやりとり文書から見えてくることは?
 直島の庄屋三宅家に残る文書には、家島漁民の所属をめぐる対立が記されています。二窓の庄屋から
「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に帰して欲しい」
と帰国日時を指定した文書が届きます。家船漁民は移住しても年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりだったことは先ほど述べました。
 なぜ一年に一度帰らなければならなかったのでしょうか?
最大の理由は「帳はずれの無宿」と見なされないためです。1664(寛文四)年に各藩に宗門奉行の設置が命じられ、その7年後には、宗旨人別改帳制度が実施されるようになりました。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりするようになりました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式が必要でした。
 もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったのでしょう。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていたようです。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。親族の家にも泊まれない漁民は、港に係留した船に寝泊まりしようです。漁民が出稼先で死亡した場合も、むくろは船に乗せて持ち帰られて、能地で埋葬されたようです。遠いところから帰ってくる場合は、防腐剤としてオシロイをぬり、その上で塩詰めにして帰ってきたといいます。そして、葬式や追善供養も檀那寺の善行寺で行われました。貧しい家船漁民の遺体は寺の墓地ではなく、浜辺に埋められたとも云われます。本村を出て何世代目にもなっている漁民もいます。人別帳作成のためだけには帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように幕府の天領である直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送ります。
数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴 之者共に有り之』
御公儀半御支配之者共』
ここには「能地からの出稼ぎ者は長年にわたり、直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを半ば支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」というものです。
 そして二窓漁民たちは
『年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
と、御用の煎海鼠の生産者であり、2月から7月までは繁忙期であり
『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
として人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。
 そして家船漁民は生国の元村へ帰えらなくなります。
直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。
家船漁民は、正式な定着を選んだ経済的な背景は?
①年貢を二重に納めなくても済むという経済的理由です。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。それは、移住先に檀家として受けいれる寺が現れたということになるのでしょう。
このような「本村離れ」の動きが能地の善行寺の人別帳からもみることができるようです。
 1833(天保4)年の『宗旨宗法宗門改人別帳』の記述からは、地元の能地・二窓東組の浜浦役人に厳しく申し付けられていた
『年々宗門人別改并増減之改』
 『一艘も不残諸方出職之者呼戻シ、寺へ宗門届等に参詣』
という義務、つまり「年に一回は生地に帰り宗門改を受けよ」という義務が守られなくなっていることがうかがえます。そのため藩は
『諸方出職(出稼ぎ)之者共 宗旨宗法勤等乱ニ付』
と判断し、能地の割庄屋、二窓の庄屋、 組頭と善行寺住職に対して「廻船による『見届』実施」を命じています。つまり、宗門改監視船を仕立て出稼ぎ現場まで行って、確認させると云うことです。
 期日は、1833年2月-7月6日。実際に「見届」に行くのは、能地では組頭を、二窓では役代のものをそれぞれ付添として同伴させ、住職自らが「廻船=巡回」しています。そして「出稼ぎ先」を訪れた住職は、次のような『条目』を申し付けています。
①漁師に対しては、本尊を常に信心せよ。
②死亡者は、たとえその年に生まれた子であれ連れ帰れ
③正月・盆の宗門届は固く勤めよ
④先祖の法事、それが赤子であれ、決してうやむやにするな。
⑤寺の建立・修復の時ならず、心付けを行うこと。
⑥年に一度は、五人組を通じて人別帳を提出すること。
⑦往来手形を持たない者は出職先に召置くことはできない。
⑧宗旨宗法を違乱なく守れ。
その後で、全ての船からも『請印』をとり、『条目』に違反する『不埒之方角』の者からは『誤証文』を差し出させ、以後の規則遵守を確約させています。こうして実施された「迴船」の記録が、次のように3冊分にまとめられて残っています。
一巻『当村地方・浜方、二窓地方 渡瀬、忠海、小坂』
二巻『能地浜浦諸方出職之者』
三巻 『二窓浦諸方出職之者』
この巻末には、『人別帳』の由緒や作成経緯とともに、船頭数つまり筆数と、成員数の総計が記されます。それによると
『能地浜浦』  在住者142筆、646人
『二窓地方』 在住者54筆、246人
『能地浜方諸方出職者』420筆、2053人
『二窓浦諸方出職者』192筆、 1013人
となっています。ふたつの浜浦をあわせた『諸方出職(出稼ぎ)者』の人数は、在地者(地元で生活する人)の三、四倍になります。
(小川徹太郎『越境と抵抗』 P194~201)
以上を私の視点でまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②小早川ー浦志ー忠海周辺の水夫は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となる
④優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成する
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになる。
⑥次第に彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになる。
少し簡略すぎるかもしれませんがお許しください。

最後に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の一覧表が載せられています。讃岐分のみを紹介します。河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名   移住    出漁(寄留) 初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733) 32
  〃   小部            天保2(1831)  2
  〃  小入部?           天保元(1830)  1
  〃   大部            嘉永5(1852)  1
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  4
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  7
  〃   見目            天保6(1835)  2
  〃   滝宮            文政5(1822)  1
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  3
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745) 15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828) 31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  1
  〃   内海            文政9(1826)  5
讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745) 25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833) 11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  3
  〃   宇田津           文化3(1806)  2
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)  1
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  3
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833) 34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  4
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  2
      鮹 崎           文政6(1823) 11
      後々セ           文政6(1823)  1
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721) 34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①小豆島・塩飽の島嶼部が多い。特に小豆島の「辺境」部の漁村は、ほとんどが家船漁船によって作られた
②塩飽は、豊島の多さが目につく。
この当たりはまた追々に、見ていくことにしましょう。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 愛媛県史 民俗編
シー



3 家船3

村上海賊衆の水夫達の行方については、史料がないのではっきりしたことは研究者にも分からないようです。しかし、想像を巡らせるなら「海賊の末裔」「水軍の敗残兵」としてひどい目にあわされたのではないかと思います。周辺の島々で住み着いて暮らしていくとしても、農耕する土地もなければ、船に乗る以外にこれといった技術もありません。そこで、小さな舟に乗り漁民として生計を立てる者が多かったようです。しかし、好漁場には古くから漁場権があります。新たに漁を始めた新参者が入って行くことはできません。そこで船に寝泊まりしながら漁場を求めて遠くの海まででかけます。船に乗って生活しているので、家船(えぶね)漁民とよばれるようになります。

3 家船6
 広島県因島の家船(昭和25年頃)
村上水軍の水夫達の末裔とも云われる家船の漁師動きを 物語風に再現してみましょう。
 漁業権がないため目の前の海で操業できない新参漁師達は、新たな漁場を探して、一家で船に乗って出かけて行きます。漁場に出会うと水や薪を補給し、網を干したりするキャンプ地を開きます。それは、先住者との対立を招かないために、目の届きにくい岬の磯などに小屋掛けされました。時と共にそのキャンプ地を拠点に陸上がりして、仲間達を呼び寄せ、次第に小さな集落をあちこちの浦浜に作るようになります。新参者の零細漁民としてさげすみの目で見られることが多かったので、陸上がりしてもあまり「本村」の村人とは交わらずにひっそりと住んでいました。また農民は、漁民と混在することを嫌がって土地を提供しません。そのために。海沿いの条件の悪い狭い所に密集して住むことになります。当初は、このように本浦と「棲み分け」て、関係もほとんど持たなかったようです。
  浦にも幕藩体制が力が及ぶようになると・・・
鎖国体制が進むと幕府は造船・海上運送・廻船難破などについて統制を強化します。各地の浦浜には、浦方取締りを箇条書きにした「浦高札」が立てられるようになります。そして、毎年のように「船改め」を行い、漁業権についても法的規制を強めていきます。農村支配だけでなく「浦方」と呼ばれた海村にも浦庄屋が置かれるようになり、加子(水夫)役や、海高と呼ばれる漁業租税が漁民に担わせるようになります。
 課税できるのは定住し、戸籍が作られてからです。しかし、家船漁民は定住しないので、どこの海にいるか分かりません。そのため水夫役米は納めていませんでした。藩としては、いつも海上にいる彼らの所在を掴むことが出来ないし、全体から見ると少数・少額なので放置していたというのが実情かも知れません。家船漁民の姿が讃岐の史料にも出てくるようになります。
200年ほど前の『金毘羅山名所図絵』には、次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる。
意訳すると
①塩飽の漁師は、丸亀沖の船を住み家としていること
②夫は漁師、妻は夫の獲った魚を頭上の籠に載せて丸亀城下を行商して売り歩くこと
③その代金で、米酒や薪などから絹まで買って船に帰る
とあります。
 補足すると、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民はいませんでした。人名達は漁民を格下として見下していたようです。この文章の中で「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船漁民のことをさしています。

3 家船4
 「船をすみかとし」て漁を行い、妻は丸亀城下で頭上の籠に魚を入れて行商を行っていたようです。最大の現金収入は、一本釣りのタイ漁で、釣った鯛は海上で仲買船に売って大坂に運ばれました。彼らの中には塩飽周辺で操業し、次第に近くの港の民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。更に進んで、讃岐の港町に密かに家を持つ者も出てきます。丸亀駅の北側の福島町には、家船漁民の家がたくさんあったと云われています。
3 家船5

家船漁民の讃岐への定住 
家船漁民の中には、讃岐への移住を正式に願い出る者も出てきます。
宝暦九年(1759)に、宇多津村庄屋豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎あてに出された「願い上げ奉る口上書」の内容は、次のような「移住申請」です
 宇多津ニて住宅仕り猟業仕り良く願い上げ奉り候、猟場の儀は右塩飽四ヵ所、島は申すに及ばず、御領分ノウ崎俵石より大槌鳥を見通し、西は丸亀詫間村馬の足目まで猟業仕り来たり候二付き、外漁師衆の障りは相成し申さざる様仕り来たり申し候、尤も生国へも一ヵ年の内一度づつは託り戻り申し候得共、大方年中船住居ニて暮し居り申し候ゆえ、寺用の事典御座候原は御当地南隆寺様へ御願い申し上げ来たり候、右住宅の義は御影ニて租叶ひ下され候はば、御当浦の御作法仰せ付けられ候通り少しも違背仕る間敷候、並びに御用等御座奴原は、何ニても相勤め申し度く存じ奉り候、生国の義胡乱が間敷思召し候弓ば、目.部厚―びニ付
 守旧九年卯二月計四日 芸州広島手繰り九右衛門
                    長作
                     徳兵衛
   意訳すると
①私は宇多津に住宅を持ち、漁業を行うことを許可していただけるよう願い出ました。
②猟場は塩飽諸島をはじめ、東は大槌島から西は庄内半島で、讃岐の漁師の邪魔にならないように行っています。
生国に1年に一度は戻りますが、ほとんどは船の中を住居にして暮らしていますので、葬儀などで寺に用事が出来たときには、南隆寺様でお世話になっています。
④宇多津に住宅を持つことがかないましたら、ご当地の作法を守り、破ることはしませんし、御用はきちんと勤めさせていただきます。なにゆえ許可願えますようお願い申し上げます。
    以上のように広島領の手繰り漁師九右衛門ら三名が宇多津浦への定住を願ったものです。
    この願いに対して、次のような許可認定が行われています。
   一筆申し達し御座候、其の浦辺ニて船住居致し罷り在り候芸州二窓浦の漁父九右衛門・長作・侭兵衛、右三人の者其の浦へ住居致し良く侯二付き、先達てより度々願い出候処、此の度国元の送り状持参致し、願い出侯趣余義無く相聞き申し候、願書の通り承り届け申し候二付き、其の浦蛸崎へ住宅指し免し申し候、其の段右漁夫共へ申し渡さるべく候、尚又、御帰城御参勤の御用は申すに及ばず、小間立て水夫御用等の節は差し支え無く罷り出、相勤め申すべく候、尚又、其の浦方作法の義違背無く相守らせ申すべく、此の段申し達し候、以上
日付けは  宝暦九年三月十五日、
差出し人は 御船蔵会所
宛先は   宇多津浦豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎です。
 この文書のやりとりからは次のような事が分かります。
①家船漁民が宇多津を拠点に「手繰り」漁を行なっていた
②彼らは一年に一度は生国に帰るが、ほとんどを船で生活していた
③生国は広島領の二窓浦であること
④定住願いは前々から度々出されていてやっと認められたこと
⑤宇多津の漁民が参勤交替の御用船の水夫として、使われていたこと
こうして、正式の手続きを経て市民権を得て、殿様の参勤交替の水夫の役目も担うようになったようです。海賊禁止令で村上衆が離散してから約200年の歳月を経て、新たな新天地の正式のメンバーになる者もでてきたようです。
 しかし、このような例は少なかったようです。『検地帳』や『差出帳』には、家船漁師が定住した後でも一般漁民より格下に位置づけられいます。百姓株を持った村仲間としては扱われることはなく、村の氏神の祭礼にも参加できませんでした。
 結婚相手も家船漁民同士に限られました。
本浦の娘と家船漁民の若者のロマンスが生まれることはなかったようです。そのために金毘羅大権現の大祭の夜が、家船漁民の大婚活行事になっていました。こんぴらさんで出会った男女が、契りを交わし夫婦になるのです。これは面白い話ですが、以前にお話ししましたのでここでは省略します。
  家船漁民の浦は、「かわた」として特定の地域に囲い込まれ、それがあちこちの島々に点在している被差別部落の起源となったと考える研究者もいます。
   以上をまとめてみると、次のようになります
①村上海賊衆の水夫達は、家船漁師として海に生きようとする者もいた。
②漁業権のない彼らは、船に寝泊まりしながら遠くの新しい漁場を開拓した
③初期につっくられて遠征先の小屋掛け集落は、先住者の「本浦」とは没交渉であった。
④しかし、高い技術力を活かし出稼ぎ先にいろいろな形で定住するものが現れた。
しかし17世紀半ばまで移住は、細々としていたようです。それが大きく変化し、大勢の人間が移住をはじめるようになります。次回は、その動きを追ってみます。
以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。

  

家船漁民の金比羅信仰       家船と一本釣り漁民の参拝

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金毘羅山の秋の大祭は毎年10月10日に開かれるので「おとうかさん」と、呼ばれて親しまれてきました。今から200年ほど前に表された『金毘羅山名所図絵』には春と秋(大祭)への漁民の参拝が次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 
意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

塩飽は金毘羅沖合いの塩飽諸島をさし、近世には西廻り航路、東廻り航路などで船主や船乗りとして活躍し、金比羅信仰を広める原動力となりました。しかし、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民は家船の人びとが定住する江戸時代末までいませんでした。ここで作者が「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは当時、塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船の人びとをさします。
 彼らが「船をすみかとし」て漁を行い、丸亀城下で行商を行っていたのです。

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江戸時代の瀬戸内漁民にとって、商品価値の高い魚はタイ

扨毎年三月、金山の桜鯛を初漁すれは、船ことにこれを金毘羅山へ初穂とて献す。其日は漁師も大勢打つとひて御山にのぼり、神前に參りて後、いつこにもあれ卸神領の内の上を掘りつつみて帰る。これを御贅の鯛といふ。
意訳すると
毎年3月になりあ、初物の桜鯛があがると船毎に金毘羅さんへの初穂として献上した。その日は漁師達が大勢揃ってお山に参拝し、神前にお参りした後に、神域の山で掘った土を包んで持ち帰った。これを御贅の鯛と呼んだ
備後の沼名前神社の祇園祭りが、鞆沖での鯛網漁の終了直後にあたっていたのも偶然ではありません。塩飽諸島周辺にも桜が咲くころ、タイが紀伊水道を通って産卵に集まりました。第二次世界大戦前までタイの一本釣り漁師は、ウオジマイキといって瀬戸内各地から塩飽諸島周辺に集まってきました。彼らが金毘羅さんに奉納したの桜鯛は「御贅の鯛」と呼ばれました。
 芸予からやってきた漁民は船住まいしながらタイを釣り、海上で仲買船にタイを売ります。そして次第に、近くの民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。

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10月10日の大祭は、男女の出会いの場

又十月十日には、此多くの漁船の男女ことぐく陸にのほり、金毘羅大権現へ参詣をし、さて夜に入ってかえるとて、つねに相おもふ男女たかひに相ひきて、丸亀の城下福嶋と云る所の小路軒の下なとに新枕し、夫婦と成て後おのれおのれか船につれてかえる。
意訳すると
 10月10日の大祭の日には、多くの漁船の男女が金毘羅大権現にお参りした。夜になって帰る時には、それぞれ惹かれあった男女が一緒になって、丸亀城下の福島町の旅籠で一夜を過ごし、夫婦となって、自分たちの船に帰っていく。

金毘羅大権現の秋の大祭は「漁船の男女がことごとく陸に上がり」金毘羅山へおまいりしたとあります。金毘羅さんは、彼らの「婚活パーティー」の場でもあったようです。夜になって帰るときには、それぞれパートナーを見つけて丸亀城下の福島の小宿屋で「新枕し、夫婦」となり、翌朝にはそれぞれの船に帰りました。そして鯛の漁期が終わると、故郷に連れて帰り新婦として紹介したのです。

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 金毘羅山は基盤をもたない家船に乗る若い男女の出会いの場でもありました。
瀬戸内地域では農民と漁民の婚姻は難しく、家船漁民は社会的基盤が弱かったのです。その中で金毘羅さんの大祭は家船漁民の社会生活を支え、交流をはかる機会だったのです。金比羅信仰にはこんな側面もあったようです。
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