場面 鯵坂(あじさか)入道の富士川の渡しで入水往生場所:東海道の富士川河畔時節:弘安五年(1282)の夏
富士川の渡し(一遍上人絵伝巻6)
この場面は、詞書には次のように記されています。
武蔵国に鯵坂(あじ)入道という武士がいた。遁世して時衆に入ることを望んだが、一遍は許さなかった。そこで往生の用心をよくよく問いただそうとして、一遍一行を待ち受けた。その途中で、富士川にさしかかった時に、入道は入水を決意し、馬にくくりつけてあった縄を自分の腰に縛りつけた。そして、一方を下人に持たせて私は今から入水自殺する。せめて引接(念仏する人の臨終に阿弥陀仏が来迎し、極楽に導くこと)を頼む。と言い残すやいなや川に飛び込んだ。下人たちはあっけにとられ、為す術もなかった。急いで、縄を引き上げようとしたが、急流でそれも適わず引き上げたときには、すでに事切れて、めでたく往上の本懐を遂げた。
武蔵国にあじさか(鰺坂)の人道と申もの、遁世して、時衆にいるべきまし申けれども、ゆるされなかりけれは、住生の用によくよく、たつねうけ給て、浦原にてまちたてまつらんとていてけるが、富士川のはたにたちより、馬にさしたる縄をときて腰につけて「なんちらつゐに引接の讃をい‐‐□べし ソ」とひければ、下人「こはいかなる事ぞ・・・」
ここまでやってきて鯵坂入道は、突然に入水往生します。
①船橋の上流で、富士川に沈み、合掌して横顔を見せているのが墨染姿の鯵坂入道②その上流で、河畔に坐り、綱を握っている二人が供人。③沈んだ鯵坂入道の腰には、綱が付けられ、供人の一人がしっかりと握っています。
しばらくして供人が綱を引き上げると、鯵坂入道の姿は「合掌少しも乱れず」と詞書には記されています。鯵坂入道の極楽往生が暗示されています。
富士川は急流で、細かい波紋が段々に描かれて、流れの速さを表現しています。そのためすぐには引き上げられなかったのでしょう。また、死体回収のために腰綱をつけたのでしょう。
ここで研究者が注目するのは、その下流に架かっている橋です。
普通の橋とは、様子がちがいます。
①画面左側に、二本の杭②画面右側に、円筒形に編まれた竹籠に石を詰めた蛇籠が二つ
その間が二本の太い綱で結ばれています。その綱で舟を繋ぎ舟橋にしています。舟は5艘描かれています。実際は水量によって川幅は変化するので、増水で川幅が拡がったときには何十艘もつながれていたこともあるようです。
舟は上流に舳先(へさき)を向け、舟の向きと直交させるように大きな板を敷いて固定しています。その上に舟と同じ向きに狭い板が敷き並べられているようです。
よく見ると、綱は右側の蛇籠まで長くなっています。これは水害対策だと研究者は指摘します。
水嵩が増して流れが速くなると、固定されたままでは引きちぎられてしまします。それを防ぐために、大水の際には蛇籠に巻いた綱がほどけ、舟橋は吹流しのように川に流される状態になります。杭で綱が固定されているので、流れ去ることはありません。水が引けば、長い綱を何人かで引っ張って元に戻します。こんな船橋が中世の東海道には出現していたことを押さえておきます。
舟橋より下流には渡舟が描かれています。
船頭が二人で、船の前後で流れに棹をさしています。乗舟客は三人で、いずれも折烏帽子を被っているので、一遍一行ではないようです。小ぶりな舟で、舳先は左岸に向いていて、その方向の岸に坐る男がいます。この男も渡舟従事者と研究者は推測します。
どうして入水往生の場面に、ここが選ばれたのでしょうか
橋や舟は、こちらの岸から彼岸に渡されます。こちら側はこの世、彼岸はあの世になります。橋や舟を描くことで、鯵坂入道のあの世への往生、極楽往生を暗示していると研究者は推測します。
上図の構図はまさに現世と彼岸の間を隔てる池や川です。そこにかけられた橋は浄土への道と言うことになるようです。
最後に、ここに書かれた富士山を見ておきましょう。
最後に、ここに書かれた富士山を見ておきましょう。
裾野や富士川流域、周辺の山々が、霞の技法を使って描かれています。「古代中世の絵巻のなかで、もっとも雄大な富士山の風景」と研究者は評します。そして、こうした構図が採用されたことに、大きな意味があると指摘します。入水往生という視点に縛られずに、舟橋や渡舟に目を遣るとその時代の風俗がしっかりと描かれていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」
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参考文献「 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」
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