空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、伝わっています。
その内の「①延喜18(918)年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」については、寛平法皇(宇多天皇)が上表したとされるものですが、後世の偽書的な要素が強いことを前回は見てきました。今回は、空海への大師号下賜の決め手となった観賢の上奏文を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

残されている
観賢の上奏文は、次の3通です。

②延喜18(918)年10月16日 観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。
③同 21(921)年10月 2日 観賢、重ねて空海に諡号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
④同年        10月 5日 観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す。
④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、観賢僧正による2回(②③)の上奏をへて、下賜されたことになります。
空海に大師号が下賜されたとき、中心的な役割を果たしたのは誰か。
研究者は次の3人の名を挙げます。
①二度上表した観賢
②偽作ではあるが上奏文の残る寛平法皇(宇多天皇)
③大師号を下賜された醍醐天皇
①の観賢僧正について見ておきましょう。
854年 空海と同郷の讃岐・鶴尾(旧鷺田村)の豪族伴氏(秦氏?)の家に生まれる。
8歳の時に巡錫中の聖宝(理源大師)が掠うように連れ帰った。
18歳の時に、真雅(空海の弟)について出家・受戒し、聖宝より三論・真言密教の教学を学ぶ
895年(寛平7年) 灌頂(41歳)
900年(昌泰3年) 仁和寺別当となり、般若寺を再興し、その後は弘福寺別当・権律師となる。
909年には第9代東寺長者となり
919年に第2代醍醐寺座主、そして第4代金剛峯寺座主を歴任し
923年(延長元年)には権僧正に任じられた。
以上から、観賢が讃岐出身で理源大師の直弟子であったこと、理源大師の後、醍醐寺の第二代座主についた人物であること、修験者的要素を持つ人物であったことなどを押さえておきます。


観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。
中央が聖宝(理源大師)・右が役行者・左が
観賢 (醍醐寺)
観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。聖宝尊師の没後、醍醐寺の第一世の座主となった。
                    観賢
最初に上奏された918年から921年に下賜されるまでの間、醍醐天皇・寛平法皇・観賢の3名を結びつけたのが『三十帖策子』の回収作業だったと研究者は指摘します。

東京古典会>出品目録:三十帖策子
                 三十帖策子

『三十帖策子』とは、在唐中の空海が経典・儀軌など150部を筆録した枡形の小冊子です。
東寺経蔵に秘蔵されていたものを、真然が持ち出し、弟子の寿長・無空へと伝えました。無空が山城圍提寺で亡くなったあと、『策子』はその弟子たちが分散所持していました。空海の根本法文が散逸していることを藤原忠平が醍醐天皇に奏上します。それを受けて天皇はその回収を観賢に命じます。すべてを回収できなかった観賢は、920年2月、寛平法皇の力をかりてすべてを回収して目録を作成し、天覧します。
天覧の場には、天皇だけでなく寛平法皇も臨席されていたでしょう。『策子』を目にした人達は、空海の入唐の労苦を偲ぶとともに、その大いなる恩恵を語ったなかで、大師号のことが話題に登ったという物語を研究者は考えています。
 この『三十帖策子』改修作業と並行して、919年10月、観賢は空海への大師号の下賜を上表していたことになります。この時は、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかったとされます。そして、『三十帖策子』が改修され東寺に秘蔵された後の920年10月の2度目の上表に応えて勅書が下されます。「三十帖策子」の回収と天覧が、大師号の下賜に大きな役割を果たしたことになります。
観賢僧正による1回目「延喜18年(918)10月16日付」の上奏文を見ておきましょう。
『追懐文藻』『弘法大師全集』第五輯、410P)
観賢(式部少輔大江千古、観賢に代りて文を作る)
諡号を真所根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に追贈せられんことを請うの事
       右、空海、
ア 智慧鏡を懸け、戒定珠(たま)を護る。法水の方流を酌み、禅門の偉器為(いきた)り。
イ 爰に命を魏欠(ぎけつ)に衛んで、週に聡明を渉り、道を唐家に問って、遂に玄妙を窮む。如末秘密の旨、伝印相承し、恵果甚深の詞、写瓶して漏らさず。
ウ 其の帰日に臨んで請来の法文、都慮二百十六部四百六十一巻、皆な足れ護国の城郭、済世の舟柑たる者なり。
エ 閣梨、其の道至って優れ、其の徳弥広し。
オ 公私共に帰依の意を寄せ、紺素争って欽仰の誠を凝らす。
カ 況んや復、門徒業を受くる者、肩を比べて相い連なれり。弟子風に染む者、跡を継いで絶えず
キ 其の大阿閣梨為ること、世を歴ると雖も知るべし。
ク 只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し
ケ 茲に因って真言を習うの侶、卓書を学ぶの流、其の称揚に当つて、動もすれば忌講に触れん。
コ 方に今、当時の恩朽株に被り、仁枯骨を霧すこと、既に千年の運に遇う。何ぞ万代の名を埋めん。
サ 望み請うらくは、殊に天の恩裁を蒙り、将に諡号を追賜せられんことを。懇切の至りに任えず。仍って事の状を録して、謹んで処分を請う。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
乃ち允許の天気を蒙ると雖も、米だ施行の明詔有らず。
〔現代語訳〕
諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位の空海に追贈せられんことをお願いする事
右、空海は、
ア 智慧をよりどころとして掲げ、戒定慧の三学を宝珠のように護って、仏法の最高の教えである密教を学び、禅定門の偉人な師となられました。
イ ここに朝廷から命をうけ、留学僧として大海をわたり、仏道を唐の長安に求め、ついに奥深い教えを余すところなく体得されました。正統なる如来秘密の教えを誤りなく相承し、恵果和尚の甚深なる教えを一滴たりとも漏らすことなく伝えられました。
ウ その帰朝に際してわが国に請来した法文は、全部で二百十六部四百六十一巻に及びます。これらはみな国を護る城に等しい教えであり、世の人びとを彼岸に渡す舟であります。
エ 大阿閣梨たる空海が求めえた教えはこの上なく優れ、またその徳は広大無辺であります。
オ 天子様をはじめ多くのひとが親しく帰依し、僧も俗人もきそって欽仰の誠をささげました。
カ その法を受け一門に人ったものは数多くあり、今に相続いています。空海の教えを慕い信奉するものも跡を絶たず、しっかり受け継がれています。
ク これまではただ、贈位を下賜されただけでありまして、いまだ諡号の栄誉には預かっておりません。
ケ よってここに真言密教を習っている僧侶、また草書を学んでいる文人が、空海を称揚するあまり、どうかすると天子様のお怒りにふれないかと恐れています。
コ 今まさにご恩を賜りますならば、その仁徳によって生命がよみがえり、まぎれもなくその誉れは千年におよび、万代にもその名は伝わるでありましょう。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号を追賜せられんことであります。本心からの真のお願いでございます。そのため、お願いにいたった経維を記しまして、謹んでご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
〇かくて允許するとのご意向をこうむったけれども、実際に詔勅を下されるまでにいたらなかった。

この上奏文で、研究者が注目するの次の2点です。
第1は、巻首に、「式部少輔であった大江千古、観賢に代りて文を作る」とあります。ここからはこの上奏文が、観賢から依頼を受けて、式部少輔大江千古(ちふる)が代作したものであることが分かります。千古は、「本朝秀才のはじめ」といわれた大江音人の子で、従四位上式部少輔で、兄が三十六歌仙のひとり大江千里です。千古は学問の家、学者の家系に生まれ育った名文家であったようです。

第2の注目点は、上表文の最後に、「乃ち允許の天気を家ると雖、未だ施行の明詔有らず」です。「允許する」との朝廷の内意はあったけれども、具体的な勅許の沙汰はなかつたと、最後に註記します。
この「未だ施行の明詔有らず」をうけて、3年後の921年10月2日、再度の上奏がおこなわれることになります。
【史料8】『迫懐文藻』(『弘法大師令集」第5、410P)
観賢(大学の頭三善文江(みよしふみえ)、観賢に代りて文を作る)
 重ねて処分を被り、諡号を真言根本阿間梨贈大僧正法印大和尚位空海に追賜せられんことを請う事
右、空海、
ア 戒行倶に足りて、人天皆な敬う。虚鳥の翅自ら軽く、水鮫の眼溺れず。
イ 昔王言を聖朝に奉りて、遠く仏語を震旦に求め、葦を萬里の外に浮べ、 三密を寸心の中に請う。
ウ 是に於いて波を踏んで津を問い、岸に帰って道を伝う。
エ 二百十六部、之を習う者は、不空の前に対するが如く、四百六十一巻、之を受くる者は、自ら如来の室に入る。
オ 世を済い物を済う、其の務め深し。惑を断じ機を断ず、其の情至れり
カ 故に前年、誠を抽んでて 諡号を賜わらんことを請う。而るに卑聴、猶隔てあり。懇志披かず。
キ 空く机檀を改め、多く冷焼を過ぎん。阿闍梨深く定水の心を凝らし、兼ねて臨池の妙を究む
ク 締素皆な脩頼を成し、倭漢推して借模と為す。
ケ  夫れ以みれば、諡は其れ功を顕わし、徳を施すの称、古を引き後を誠めるの法なり゛
コ  若し斯の人をして其の名を埋め令めなば、則ち美玉山巌の下に潜み、黄金沙石の中に免れ不るなり。
サ  望み請うらくは、殊に天裁を蒙り、本覚大師と号し、将に溢号を追贈せ被れんことをことを。猥りに軽毛の心に任せ、偏に逆鱗の畏れ忘る。仍って事の様を注して重ねて重ねて処分を請う
延喜二十一年十月二日                          権大僧都法眼和尚位観賢上表す
〔現代語訳〕
重ねてご聖断をたまわりまして、諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位・空海に追賜せられますことをお願いする事
        右、空海は、
ア 戒律を守り徳行を十分に備えた方であって、人間界だけでなく天上界からも敬慕されています。大鳥の翅といえども軽く、水中にすむ龍は決して溺れることはございません。
イ かつて天子の勅命により、仏の真実のことばをはるか唐に求めて、小舟をもって万里の波濤をわたり、心から三密の教えを請い求められました。
ウ このように大海を越えて教えをもとめ、帰り来たって真実の道を伝えられました。
エ その請来された仏典は二百十六部、これを学習するものは、あたかも不空三蔵の面前にいるかと想い、四百六十一巻の経巻によって受法するものは、おのずと大日如来の曼茶羅世界に入っていきました。
オ 世の悩み苦しむ人びとに救いの手を差しのべ、また生きとし生けるものすべてを救わんとなさる、その活動は極めて意義深いことです。
カ それゆえ、先年、真心を尽して、読号を賜わりたき旨をお願いいたしました。しかるに、浅はかなお願いであったのか、朝廷とのあいだに開きがあり、真心からのお願いにもかかわらず受け入れられませんでした。
キ 世の無常にめざめて大学をやめ(役人となる道を)改めてから、幾星霜が過ぎたでありましょう。阿閣梨はひたすら深き禅定に心を集中なさり、一方で書の妙境を究められました。
ク 僧も俗人もみな心から信頼をよせ、わが国でも唐でもすすんで手本としています。
ケ よくよく考えてなると、諡号はその人の功績を顕彰し、功徳をたたえる呼称であって、先の性の人を引きたて後の世の人びとの誡めとする法であります。
コ もし空海の名を(いま顕彰しないで)埋没させるならば、それは美玉を山の巌のもとに隠し、責金を沙石のなかに埋めるに等しきことであります。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号「本覚大師」を追贈せられんことであります。思慮もなく安易な心に任せてのお願いではございますが、(真心からのお願いでありますから)天子様のお怒りをかうなどと言うことを忘れるほどでございます。そのため、お願いにいたった経緯を記しまして、重ねてご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜二十一年十月二日         権大僧都法眼和尚位観賢上表す

この上奏文で研究者が注目するのは、サの部分です。
殊に天裁を蒙り、本覚大師とし、将に諡号を追贈せ被れんことを。

ここでは観賢は空海に「本覚大師」の諡号をたまわりたいと、具体的な名前を挙げてお願いしていることです。「本覚思想」は、空海が最終的にたどりついた密教世界のこととされます。したがって、観賢としては、「本覚大師」こそが、空海にもっともふさわしい諡号とと考えていたことが分かります。

観賢僧正の2度目の上奏に対して、その25日後に、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜します。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と日う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

    もう1つの根本史料が、延喜21年10月27日付の「勅書」です。
この「勅書」の本文は、あまり紹介されていないようです。そこで研究者は、この「勅書」を読み下し、現代語訳しているので見ていくことにします。
【史料10】『迫懐文藻』(『弘法大師全集』第五、412P    
 琴絃己絶、遺青更清、
 蘭叢雖凋、余芳猶播。
故贈大僧正法印大和尚位空海
 消疲煩悩、
 地却晰貪
 全三十七品之修行、
 断九十六種之邪見。
既而
 仏日西没、渡冥海而仰余輝、
 市法水東流、通陵谷而導清浪,
 受密語者、多満山林、
 習真趣者、自成淵叢。
況太上法皇
 既味其道、
 宙迫憶其人。
 誠雖浮天之波涛、
 前何忘積石之源本。
宜加崇訪之典、諡号弘法大師
       延喜二十一年十月十七日  勅使 少納言平惟扶
〔読み下し文〕
勅す
 琴絃已に絶えて、遺音(いいん)更に清く、
 蘭叢凋めりと雖も、余芳猶お播(ほどこ)す。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
 煩悩を消疲し、
 驕貪を地却す。
 三十七品の修行を全し、
 九十六種の邪見を断つ。
既にして
 仏日西に没し、冥海を渡って余輝を仰ぎ、
 法水東に流れ、陵谷に通じて清波を導く
 密語を受くる者、多く山林に満ち、
 真趣を習う者、自ら淵叢を成す。
況や太上法皇、
 既に其の道を味わい、
 宙追って其の人を憶う。
 誠に浮人の波涛と雖も、
 何ぞ積石の源本を忘れんら
宜しく崇訪の典を加へ、諡して弘法大師と号すべし。
延喜十1年十月十七日   勅使

〔現代語訳〕
天皇のおことばを伝えます。
少納言平惟扶
琴のいとが切れてしまったように、すでに身まかられたけれども、その名声は清く高く、
蘭がしぼんでしまったように、生命は天地にかえったけれども、残された教えは今なお広まる。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
煩悩を消し去り、
おごりとむさぼりとを脱却し、
三十七種の涅槃にいたる修行を先令におさめられ、
九十六種の外道の説く邪見を断ちきられた。
すでに、
釈尊は西方のインドにて洋槃に入られ(たけれども)、大海を渡ってその遺風を仰ぎ受け、
これにより仏法は東国に伝えられ、あらゆる山野の凡夫を導くこととなった。
密教を受法する者多く山林に満ち、
真言の教えを習う者これまた多く群がる。
まして太上法皇は、
 すでに真言密教に精通され、
 宙空海への想いしきりであられる。
 じつに大空にうかぶ大波であっても、
 どうして石積みの本源を忘れることがあろうか。
よってここに、常しく崇め尊ぶよりどころとして、諡号弘法大師を贈る
延喜二十一 年十月二日  勅使 少納言平惟扶

この「勅書」で、研究者が注目するのは、諡号に弘法大師が贈られていることです。
先ほど見たように延喜21年10月2日付で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、下賜されたのは「弘法大師」です。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更されたのでしょうか。誰が何を根拠に「弘法大師」と命名したのかが分かりません。 この「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。それは次回にするとして、今回はここまでです。
以上を整理・要約しておきます。
919年10月、観賢は1回目の空海への大師号の下賜を上表したが、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかった。
②920年の
『三十帖策子』の回収作業と天覧を通じて、醍醐天皇・寛平法皇・観賢は同士的な結びつきを深めた。
③921年
年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた
④その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」