瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:寶光寺

真宗興正派 2024年6月28日講演
安楽寺(美馬市郡里)
吉野川の河岸段丘の上にあるのが安楽寺です。周辺には安楽寺の隠居寺がいくつかあり寺町と呼ばれています。中世には、門徒集団が寺内町を形成していたと研究者は考えています。後が三頭山で、あの山の向こうは美合・勝浦になります。峠越の道を通じて阿讃の交流拠点となった地点です。

 手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。

安楽寺


安楽寺の三門です。赤いので「赤門寺」と呼ばれています。江戸時代には、四国中の100近い末寺から僧侶を目指す若者がやって来て修行にはげんだようです。ここで学び鍛えられた若き僧侶達が讃岐布教のためにやってきたことが考えられます。安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺2
安楽寺境内に立つ親鸞・蓮如像

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。

安楽寺 千葉乗隆
安楽寺の千葉乗隆氏
先々代の住職・千葉乗隆(じょうりゅう)氏です。彼は若いときに自分のお寺にある文書を整理・発行します。その後、龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長を数年務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。整理された史料と研究成果から安楽寺の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。千葉乗隆の明らかにした成果を見ていくことにします。まず安楽寺の由来を見ておきましょう。

安楽寺 開基由緒
安楽寺由来
ここからは次のようなことが分かります。
①真宗改宗者は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護だったこと
②上総の親鸞聖人の高弟の下で出家したこと
③その後、一族を頼って阿波にやってきて、安楽寺をまかされます。
④住職となって天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗します。
その時期は、13世紀後半の鎌倉時代の 非常に早い時期だとします。ここで注意しておきたいのは、前回見た常光寺の由来との食違いです。常光寺の由来には「佛光寺からやってきた門弟が安楽寺と常光寺を開いた」とありました。しかし、安楽寺の由緒の中には常光寺も仏国寺(興正寺)も出てきません。ここからは常光寺由来の信頼性が大きく揺らぐことになります。最近の研究者の中には、常光寺自体が、もともとは安楽寺の末寺であったと考える人もいるようです。そのことは、後にして先に進みます。

 安楽寺の寺史の中で最も大きな事件は、讃岐の財田への「逃散・亡命事件です。

安楽寺財田亡命

 寺の歴史には次のように記されています。永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田に転じて宝光寺を建てた。これを深読みすると、次のような疑問が浮かんできます。ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。その疑問と解く鍵を与えてくれるのが次の文書です。

安楽寺免許状 三好長慶
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)

三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」  宛先は、郡里の安楽寺です。

 興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。

意訳します。

安楽寺免許状2

三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。
 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。

安楽寺免許状3


この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼 
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
 という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。

 三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。

安楽寺免許状の意義

 先ほど見たように興正寺と安楽寺は、三好氏を動かすだけの力があったことがうかがえます。⑥のように「課税・信仰を認めるので、もどってこい」と三好氏に言わしめています。その「力」とは何だったのでしょうか? それは安楽寺が、信徒集団を結集させ社会的な勢力を持つようになっていたからだと私は考えています。具体的には「寺内」の形成です。

寺内町
富田林の寺内町
この時期の真宗寺院は寺内町を形成します。そこには多様な信徒があつまり住み、宗教共同体を形成します。その最初の中核集団は農民達ではなく、「ワタリ」と呼ばれる運輸労働者だったとされます。そういう視点で安楽寺の置かれていた美馬郡里の地を見てみると、次のような立地条件が見えて来ます。
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
 周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
  財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。

安楽寺の財田亡命

安楽寺の讃岐への布教活動の開始は、財田からの帰還後だと私は考えています。つまり1520年代以後のことです。これは永世の錯乱後の讃岐の動乱開始、三好氏の讃岐侵攻、真言勢力の後退とも一致します。

どうして、安楽寺は讃岐にターゲットを絞ったのでしょうか?

安楽寺末寺分布図 四国


江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。

①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。

②伊予については、戦国時代は河野氏が禅宗を保護しますので真宗は伊予や島嶼部には入り込めませんでした。また、島嶼部には三島神社などの密教系勢力の縄張りで入り込めません。真宗王国が築かれたのは安芸になります。
③阿波を見ると吉野川沿岸部を中心に分布していることが分かります。これを見ても安楽寺が吉野川水運に深く関わっていたことがうかがえます。しかし、その南部や海岸地方には安楽寺の末寺は見当たりません。どうしてでしょうか。これは、高越山や箸蔵寺に代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。これを悟った安楽寺は、阿讃の山脈を越えた讃岐に布教地をもとめていくことになります。

讃岐の末寺分布を拡大して見ておきましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐


讃岐の部分を拡大します。

①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。

②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。

この背景には、それぞれのエリアに大きな勢力を持つ修験者・聖集団がいたことが挙げられます。例えば大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。真言密教系の寺院で、多くの修験者や聖を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては以前にお話ししたように、善通寺は16世紀後半に戦乱で焼け落ち一時的に退転していたようです。
 こうして安楽寺の布教対象地は讃岐、その中でも髙松・丸亀・三豊平野に絞り込まれていくことになります。安楽寺で鍛えられた僧侶達は、讃岐山脈を越えて山間の村々での布教活動を展開します。それは、三好氏が讃岐に勢力を伸ばす時期と一致するのは、さきほど見た通りです。安楽寺の讃岐へ教線拡大を裏付けるお寺を見ておきましょう。

東山峠の阿波側の男山にある徳泉寺です。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。


男山の徳泉寺
徳泉寺(男山)


ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?

安楽寺の僧が越えた阿讃の峠
阿讃の峠

安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が東から西に、その北側に讃岐山脈が走ります。大川山がここです。雲辺寺がここになります。赤線が阿讃を結ぶ峠道です。そこにはいくつもの峠があったことが分かります。安楽寺のある郡里がここになります。
 相栗峠⑪を越えると塩江の奥の湯温泉、内場ダムを経て、郷東川沿いに髙松平野に抜けます。
三頭越えが整備されるのは、江戸時代末です。それまでは⑨の立石越や⑧の真鈴越えが利用されていました。真鈴越を超えると勝浦の長善寺があります。⑦石仏越や猪ノ鼻を越えると財田におりてきます。
そこにある寶光寺から見ておきましょう。

寶光寺4

 寶光寺(財田上)

寶光寺は、さきほど見たように安楽寺が逃散して亡命してきた時に設立された寺だと安楽寺文書は記します。しかし、寶光寺では安楽寺が亡命してくる前から寶光寺は開かれていたとします。

寶光寺 財田

開基は「安芸宮島の佐伯を名のる社僧」とします。そのため山号は厳島山です。当時の神仏混淆時代の宮島の社僧(修験者)が廻国し開いたということになります。そうすると寶光寺が安楽寺の亡命を受けいれたということになります。讃岐亡命時代の安楽寺は、僧侶だけがやってきたのではなく、信徒集団もやってきて「寺内町」的なものを形成していたと私は考えています。

先ほども見たように財田への「逃散」時代は、布教のための「下調べと現地実習」の役割を果たしたと云えます。そういう意味では、この財田の寶光寺は、安楽寺の讃岐布教のスタート地点だったといえます。

寶光寺2

寶光寺
寶光寺は今は山の中になりますが、鉄道が開通する近代以前には阿讃交流の拠点地でした。財田川沿いに下れば三豊各地につながります。この寺を拠点に三豊平野に安楽寺の教線は伸びていったというのが私の仮説です。 それを地図で見ておきます。

 

安楽寺末寺 三豊平野


安楽寺の三豊方面への教線拡大ルートをたどってみます。
拠点となるのが①財田駅前の寶光寺 その隠居寺だった正善寺、和光中学校の近くの品福寺などは寶光寺の末寺になります。宝光寺末に品福寺、正善寺、善教寺、最勝寺などがあり、阿讃の交易路の要衝を押さえる位置にあります。三好氏の進出ルートと重なるのかも知れません。②山本や豊中の中流域には末寺はありません。流岡には、善教寺と西蓮寺、坂本には仏証寺・光明寺、柞田には善正寺があります。。注意しておきたいのは、観音寺の市街にはないことです。観音寺の町中の商人層は禅宗や真言信仰が強かったことは以前にお話ししました。そのためこの時期には浄土真宗は入り込むことができなかったようです。

安楽寺の拠点寺院

ここからは寶光寺を拠点に、三豊平野に安楽寺の教線ルートが伸びたことがうかがえます。その方向は山から海へです。

今回はここまでとします。次回は安楽寺の丸亀方面への動きを見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


讃岐には真宗興正寺に属していた末寺が多いこと、その讃岐伝導については、三木の常光寺と阿波郡里の安楽寺が布教センターとして役割を果たしたことを以前にお話ししました。それでは、讃岐に真宗の教線が伸びてくるのはいつ頃のことなのでしょうか。

讃岐の真宗寺院創建年代

 研究者が西讃府志などに記されている真宗各寺の開基時期を区分したものが上図です。これは各寺の由緒書きに基づくもので、開基を裏付ける史料があるわけではないことを最初に押さえておきます。この表を見ると、15世紀に33、16世紀に38の真宗寺院が讃岐にはあったことになります。
 昭和に作られた町村史も各寺の縁起を基にして、讃岐の真宗寺院の開基を早めに設定する傾向がありました。しかし現在では、讃岐の真宗教団が教宣活動を本格化させたのは16世紀後半以後のことで、寺院に格上げされるのは江戸時代になってからというのが定説化しているようです。この変化には、どんな「発見」があったからなのでしょうか。それを、まんのう町の尊光寺を例に見ていきたいと思います。テキストは「大林英雄 尊光寺史 平成15年」です。

    DSC02132     
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺の創建について、1975年版の『満濃町史』1014Pには、次のように記されています。

  尊光寺は、鎌倉時代の中頃、領主大谷氏によって開基され、南北朝時代に中院源少将の崇敬を受けた……。

これを書いた研究者は、創建を鎌倉時代と考えた根拠として、次の4点を挙げます
①まんのう町へは、鎌倉時代の承元元年(1207)に、法然が流罪となり、讃岐国小松庄の生福寺で約9ヵ月間寓居し、その間、各地で専修念仏を広めた。その後、四条の地には、生福、清福、真福の三福寺が栄えていたとあるので、鎌倉時代には真宗が伝わっていたと推察。

②『徳島県史(旧版)』の安楽寺縁起には、鎌倉時代の宝治合戦(1247)に敗れた千葉氏の一族彦太郎が、縁者である阿波国守護の小笠原氏を頼って、北条氏に助命を願い、安楽寺に入って剃髪し、安楽寺は天台宗から浄土真宗に改宗したと書かれている。この記事から、四国へ浄土真宗が伝わったのは鎌倉時代と考えた。

③尊光寺の記録にある開祖少将は、南北朝時代に、西長尾城を拠点にして南朝方の総大将として戦った中院源少将に仮託したものと推察。

④尊光寺の本尊阿弥陀如来の木像は、 一部に古い様式があり鎌倉仏とも考えられること。

以上から尊光寺の開基を鎌倉時代としたようです。ここからは真宗寺院の創建を14世紀に遡って設定するのは、当時は一般的であったことが分かります。
 それが見直されるようになったのはどうしてでしょうか。
⑤中央では真宗史についての研究や、真宗教団の四国への教線拡大過程が明らかになった(『講座蓮如』第五巻)。

⑥『新編香川叢書史料編二』(1979年)が発刊されて、高松藩の最も古い寺院記録である『御領分中寺々由来書』が史料として使用可能となった。

⑦1990年代に『安楽寺文書上下巻』『興正寺年表』など、次々に寺院史の研究書が発刊されたこと。

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最初に、⑤の真宗の讃岐への教線拡大過程の研究成果を見ておきましょう。
讃岐への真宗拡大センターのひとつがの三木の常光寺でした。
その由来書については、何度も取り上げたのでその要点だけを記します。
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。

④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。
ここには、常光寺と安楽寺は四国布教の拠点センターとして建立された「兄弟関係」にある寺院だと主張されています。
興正寺派と本願寺
興正寺・仏光寺と本願寺の関係
まず①②について検討していきます。
①には14世紀後半に仏光寺が門弟2人を教線拡大のために四国に派遣したとあります。しかし、当時の仏光寺にはそのような動きは見られません。合い抗争する状態にあった真宗各派間にあって、そのようなゆとりはなく、乱世に生き延びていくのが精一杯な時期でした。本願寺にも、仏国寺にも、西国布教を14世紀に行う力はありませんでした。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
本願寺も15世紀後半に蓮如が現れるまで、けっして真宗をまとめ切れていたわけではありません。真宗の中のひとつ寺院に過ぎず、指導性を充分に発揮できる立場でもありませんでした。それが蓮如の登場で、本願寺は輝きを取り戻し、大きな引力を持つようになります。その引力に多くの門徒や寺院が吸い寄せられていきます。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
そのひとつが仏光寺の経蒙が、蓮如に帰参し、蓮教と改め興正寺を起こしたことです。経蒙は文明13年(1481)に、自派の布教に行き詰まりを感じ、多数の末寺や門徒を引き連れて、本願寺の門主蓮如に帰参します。経豪は、寺名をもとの興正寺に復して、蓮如から蓮教の法名を与えられます。
この興正寺が四国へ真宗伝播の拠点になります。それが本格化するのは、蓮秀(れんしゅう)以後です。蓮秀は、蓮如の孫娘に当たる慧光尼を妻に持ち、明応元(1492)年に父連教が没した後、蓮如の手で得度して、興正寺を継ぎます。彼は本願寺においては和平派として、戦国大名との和平調停に尽くす一方、西国布教に尽力し、天文21年(1552年)、72歳でなくなっています。
興正寺蓮秀の西国布教方法は、法華宗や禅宗の寺院がやっていた方法と同じです。
末寺の僧侶が、堺の門徒であった商人や航海業者と結んで商業拠点としての寺院を各港に設置していくという方法です。当然、これには交易活動(商売)が伴います。彼らは、仏光寺の光明本尊や絵讃、蓮如の御文章の抄塚などを領布(売却)して、門徒を獲得することになんら違和感はありませんでした。それは、高野聖や念仏聖たちが中世を通じて行ってきたことで、当たり前のことになっていました。
 ここでは興正寺の四国布教が本格的に進められるのは、16世紀前半の蓮秀の時代になってからであることを押さえておきます。これは最初に見た常光寺縁起の次の項目と矛盾することになります。

「足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた」

桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
安楽寺(美馬市郡里)

常光寺から兄弟門弟関係にあると名指しされた阿波の安楽寺(赤門寺)の縁起を見ておきましょう。
安楽寺は、もともとは元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されていることがそれを裏付けます。真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。その縁起によると、1247年(宝治元年)に上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したと記します。そして16世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させていきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の創建由来のまとめ

  安楽寺の縁起には仏光寺の弟子が開いたとは、どこにもでてきません。
安楽寺が真宗になったのは、東国からの落武者の真宗門徒である千葉氏によること、そして、その時には本願寺に属していたと記されています。ここでも常光寺縁起の「浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺」を裏付けることはできません。

安楽寺が興正寺派となった時期については、次のふたつの説があるようです。
①興正寺経豪が蓮如に帰参した文明13年(1481)説
②安楽寺の讃岐財田への逃散亡命から郡里に帰還した永正十七年(1520)説
②の安楽寺の危機的状況を仲介調停したのが興正寺の蓮秀で、彼のおかげで三好長慶から諸公事等免除と帰国を勝ち取ることができました。これを契機に安楽寺は興正寺派となったという説です。私にはこれが説得力があるように思えます。

巌嶋山・宝光寺2013秋 : 四国観光スポットblog
安楽寺の讃岐逃散(亡命)寺院跡の寶光寺(三豊市財田)

安楽寺の讃岐への逃散について、ここでは概略だけ見ておきます。
 郡里にあった寺を周辺勢力から焼き討ちされた安楽寺は、信徒と供に讃岐財田に「逃散」します。財田への「亡命」の背景には「調停書」に「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」とあるので、賦役や課役をめぐる対立があったことがうかがえます。さらに「念仏一向衆」への真言系寺院(山伏寺)からの圧迫があったのかもしれません。
 調停内容は、「事前協議なしの新しい課役などは行わない」ことを約束するので「阿波にもどってこい」と、安楽寺側の言い分が認められたものになっています。この際に、安楽寺のために大きな支援を行ったのが興正寺の蓮秀です。これを契機に、本寺を興正寺に移したという説です。領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後は急速に教線を讃岐に伸ばしていきます。それは、三好氏の讃岐進出とベクトルが重なるようです。三好氏は安楽寺の讃岐への教線拡大に対して「承認・保護」を与えていたような気配がします。
 ちなみに宇多津の西光寺に対しては、三好氏家臣の篠原氏が保護を与えています。
 安楽寺末寺分布図
安楽寺の末寺分布図(寛永3年 讃岐に末寺が多い)
 安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。これらの末寺の形成は、次のような動きと重なります。
①当時の興正寺の掲げていた「四国への真宗教線拡大戦略」
②安楽寺の「財田逃散亡命」から帰還後の讃岐への教線拡大
③三好氏の讃岐中讃への勢力の拡大

尊光寺記録(安政3年)
尊光寺記録
最後にまんのう町の尊光寺の開基を見ておきましょう。
江戸時代末期の安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出したと思われる『尊光寺記録』の控えが、尊光寺文書の最初にとじられています。そこには次のように記されています。
尊光寺開基
尊光寺開基

一向宗京都興正寺末寺
 讃州鵜足郡長炭村 尊光寺
開基 少将
当寺は明応年中、少将と申す僧、炭所東村種子免(たねめん)の内、久保と申す所え開基候。其後享保年中、同種子免の内、雀屋敷之土地更之仕り候と申し伝え候得共、何の記録も御座なく候故、 一向相い知れ申さず候(原漢文)

意訳変換しておくと
尊光寺は明応年間に、少将と申す僧が、炭所東村の種子免(たねめん)の内の久保に開基した。その後、享保年間になって、同じ種子免の内の雀屋敷の現在地に移ってきたと伝えられる。しかし、これについては何の記録もない。詳しくはよく分かりません。

  尊光寺文書には開基の「時代は明応、開基主は少将」と書かれています。この文書に出てくる明応という時代と、開基の少将という人名は、高松藩の『御領分中寺々由来』にも次のように登場します。
阿州安楽寺一向宗宇多郡尊光寺
開基、明応年中、少将と申す僧、諸旦那の助力を以って建立仕り候事、寺の証拠は、本寺の証文所持仕り候(原漢文)。

「少将」という僧名は、各地の一向一揆の戦いに参加した僧名としてよく登場する人物名で、開基者が不明なときに使われる「架空の人名」のようです。寺記の中に出てくる「諸檀那の助力を以って建立仕り候事」も、真宗の寺院縁起の常套語で、由緒書に頻繁に使用されます。つまり、この記述は歴史的な事実を伝えているものではないと私は考えています。
 歴代住持の名前は、その後は「中興開基 玄正」までありません。
「中興開基 玄正」については、次のように記されています。

右は天正年中、女子ばかりにて寺役が相勤め申さざる御、当国西長尾の城主長尾大隅守、土佐長宗我部元親のために落城。息長尾孫七郎と申す者、軍務を逃れ、右尊光寺の女子に要せ、中興仕らせ候申し伝え候得共、住職並びに隠居仰せつけられ候年号月日相知れ申さず候(原漢文)。

  意訳変換しておくと
一 尊光寺の中興開基は、玄正
天正年間に、尊光寺には女子ばかりで跡継ぎがいなかった。西長尾城が土佐長宗我部元親により落城した時に、城主長尾大隅守(高勝)は息子・長尾孫七郎を、尊光寺の女子と婚姻させ、寺の中興を果たしたと伝えられる。住職就任や隠居時の年号月日については分からない(原漢文)。
ここからは次のようなことが分かります。
①中興開基の玄正は、長尾城主の息子・孫七郎であったこと
②長尾氏滅亡の際に、孫次郎が尊光寺を中興したこと。
 尊光寺記録は、これ以外に玄正の業績については、何も触れていません。推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。実質的に尊光寺を開いたのは、この人物と私は考えています。
安楽寺末寺
尊光寺の本末関係

 西長尾城落城後から生駒時代の困難な時代に、長尾一族のとった道を考えて見ます。
彼らの多くは、他国に去ることなく地元で帰農したようです。そして、農民達の中で生きるために真宗に転宗します。ここには、一族の有力者が真宗道場の指導者になり、門徒衆を支配しようとする長尾氏の生き残り戦略がうかがえます。
 長尾一族の開基と伝えられるお寺が西長尾城周辺にはいくつかあります。各寺の縁起に書かれた開基年代は、次のように記されています。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 しかし、ここに書かれた改宗時期については、疑問が残ります。それは、この時期は長尾氏は真言宗を信仰していたからです。それは、つぎのような事実から裏付けられます。

①西長尾城主の弟(甥)とされる宥雅は、善通寺で仏門に入り、真言僧侶として、金毘羅大権現の金光院を開いている。
②長尾氏の菩提寺佐岡寺は真言宗で、長尾氏一族の五輪塔がある。

佐岡寺と長尾大隅守の墓 | kagawa1000seeのブログ
佐岡寺(まんのう町)の長尾氏歴代の墓
以上のような背景から長尾氏の真宗転宗は、西長尾城を失ってから後の16世紀末と私は考えています。

真鈴峠
郡里の安楽寺からの丸亀平野への教線拡大ルート
現在のまんのう町の山間の村々に姿を現していた安楽寺の各道場を、長尾氏は指導力を発揮してまとめて惣道場として、その指導者に収まっていった姿が見えてくるような気がします。それらの道場が江戸時代になって、正式な寺号が付与されていきます。

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尊光寺史
以上をまとめておきます
①15世紀後半に現れた蓮如の下で、本願寺は勢力再拡大を果たす。
②その一つの要因が仏光寺が蓮如傘下に加わり、興正寺と改名したことである
③興正寺は蓮秀(16世紀前半)の時に、四国への真宗教線拡大が本格化させる。
④興正寺が阿波安楽寺を末寺に加えることができたのは、16世紀初頭の讃岐への逃散という安楽寺の危機を興正寺が救ったことに起因する。
⑤以後、安楽寺は讃岐山脈を越えて土器川・金倉川・財田川沿いに里に向かって教線を拡大していく。
⑥こうして丸亀平野の山里に安楽寺からの僧侶が入ってきて各村々に道場を開くようになる。
⑦このような真宗浸透を、この時期の西長尾城主の長尾一族は、警戒感と危機感で見守っていた。
⑧それは城主の弟(甥)の宥雅が善通寺で修行後に、金毘羅神という新たな流行神を創出したのもそのような脅威に対抗しようとしたためともとれる。
⑨長宗我部元親の侵攻で在野に下り、その後の生駒氏支配では登用されなかった長尾氏の多くは帰農の道を選ぶ。
⑩その際に、真宗に転宗し、道場の指導者となり、勢力の温存をはかった。
⑪そのため西長尾城周辺には長尾氏開基を伝える系図を持つ真宗寺院がいくつも現れることになった。

尊光寺真宗伝播

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史 平成15年
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