瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尊光寺

真宗興正派の研修会でお話しした内容の3回目です。今回は、美馬・安楽寺の丸亀平野への教線ルートを見ていきたいと思います。最初に安楽寺の丸亀平野の末寺を挙げておきます。

安楽寺末寺 丸亀平野

これをグーグル地図に落とすと次のようになります。

安楽寺末寺分布図 丸亀平野

黄色いポイントが初回に見た三木の常光寺の末寺です。緑ポイントが安楽寺の末寺になります。右隅が勝浦の常光寺です。そこから土器川沿いに下っていくと、長尾氏の居城であった城山周囲のまんのう町・長尾・長炭や丸亀市の岡田・栗熊に末寺が分布します。これらの寺は建立由来を長尾氏の子孫によるものとする所が多いのが特徴です。
 また、土器川左岸では垂水に浄楽寺があります。

垂水の浄楽寺

ここには垂水の浄楽寺は、武士の居館跡へ、塩入にあった寺が移転し再建されたと伝えられます。これは垂水の檀家衆の誘致に応えてのことでしょう。ここからも山にあった真宗興正派の寺が里へ下りてくる動きがうかがえます。別の言葉で言うと、山にあるお寺の方が開基が古く、里にあるお寺の方が新しいといえるようです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
 
讃岐の真宗寺院で本願寺から木仏が付与されているのは寛永18(1641)年前後が最も多いようです。その中で、安楽寺末寺で木仏付与が早いのが上の4ケ寺になります。この4ヶ寺を見ておくことにします。
安楽寺の丸亀平野の拠点は、勝浦の長善寺であったと私は考えています。

イメージ 2
かつての長善寺(まんのう町勝浦)
  「琴南町誌」は、長善寺について次のように記します。
 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を含めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

DSC00797
旧長善寺の鐘楼(鉦の代わりに石が吊されていた)
大川山に登るときには、よくこの寺を訪ねて縁側で、奥さんからいろいろな話を聞かせてもらったことを思い出します。檀家が阿波と讃岐で千軒近いこと、旧本堂は惣ケヤキ造りで、各ソラの集落の檀家から持ち寄られた檜材が使われたこと。阿波にも檀家が多いというのは、阿波にあった道場もふくめて、勝浦に惣道場ができ、寺号を得て寺院となっていたことが考えられます。


DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺(旧勝浦小学校跡)
次に長炭の尊光寺の由来を見ておきましょう。
DSC02132
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺中興開基玄正
上の史料整理すると
尊光寺中興開基玄正2

ここで確認しておきたいことは、安楽寺からやって来た僧侶によって開かれた寺というのはあまりないことです。開基者は、武士から帰農した長尾氏出身者というのが多いようです。

寛永21(1644)年の鵜足郡の「坂本郷切支丹御改帳」(香川県史 資料編第10巻 近世史料Ⅱ)には、宗門改めに参加した坂本郷の28ヶ寺が記されています。その中の24ケ寺は、真宗寺院です。これを分類すると寺号14、坊号9、看房名1になります。坊号9の中から丸亀藩領の2坊を除いた残り七坊と看坊一は次の通りです。
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊
B 宇足郡岡田村  乗正坊
C 南条郡羽床村   乗円坊
D 南条郡羽床村   弐刀
E 北条郡坂出村   源用坊
F 宇足郡岡田村   了正坊
G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊
H 宇足部長尾村   源勝坊

岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
岡田の慈光寺
        琴電岡田駅北側に並ぶ慈光寺と西覚寺
現在、グーグル地図には岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。

西本願寺本末関係
西本願寺の末寺(御領分中寺々由来)
羽床村にもC来円坊、Dの弐刀のふたつの坊が記されています。
ところが「國中諸寺拍」には、西本願寺末の浄覚寺(上図7)しか記されていません。「由来書」では天正年に中式部卿が開基したとされていますが、「寺之證拠」の記事はないようです。ここからはC来円坊とD弐刀という二つの念仏道場が合併して、惣道場となり、浄覚寺を名来るようになったことが推察できます。
この時期の真宗の教線拡大について、私は次のように考えています。
中世の布教シーン
 
世の村です。前面に武士の棟梁の居館が描かれています。秋の取り入れで、いろいろな貢納品が運び込まれています。それを一つずつ領主が目録を見て、チェックしています。武士の舘は堀や柵に囲まれ、物見櫓もあって要塞化されています。堀の外の馬に乗った巡回の武士に、従者が何か報告しています。
「あいつら今日もやってきていますぜ」
指さす方を見ると、大きな農家に大勢の人達が集まっています。拡大して見ましょう

中世の布教シーン2

後に大きな寺院が見えます。その前の家の庭に人々が集まっています。その真ん中にいるのは念仏聖(僧侶)です。聖は、定期市の立つ日に、この家にやって来て説法を行います。それだけでなく、お勤めの終わった後の常会では、病気や怪我の治療から、農作物や農学、さらにさまざまなアドバイを夜が更けるまで与えます。こうして村人の信頼を得ていきます。この家の床の間に、六寺名号が掲げられると、道場になります。主人は毛坊主になり、その息子は正式に得度して僧侶になり、寺院に発展していくという話になります。

蓮如の布教戦略を見ておきましょう。
蓮如は、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。そして
、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。


「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」


意訳変換しておくと

各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ


 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。

   岐阜県大野郡の旧清見村では、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。

①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ

②蓮如から六字名号(後には絵像本尊)を下付され

③それを自分の家の一室の床の間にかけ、

④香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。

⑤これを内道場または家道場という

⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。

⑦長百姓は毛坊主として集会の宗教儀礼を主宰する。

⑧村人の真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。

⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。

⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

この長百姓の役割を果たしたのが、帰農した長尾氏の一族達ではなかったのかと私は考えています。
 長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

安楽寺の丸亀平野への教線ルートをまとめておきます
①勝浦の長善寺が拠点となった
②長尾氏が在野に下り、帰農する時期に安楽寺の教線ラインは伸びてきた
③仕官の道が開けなかった長尾氏は、安楽寺の末寺を開基することで地域での影響力を残そうとした。
④そのため阿野郡の城山周辺には、長尾氏を開基とする安楽寺の末寺が多い。
今回は、このあたりまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

地元の小さな会で、「尊光寺史を読む」と題してお話しさせていただく機会がありました。尊光寺のご住職もお見えになっていて、「尊光寺史」が発刊になるまでの経緯や、伽藍整備など興味あるお話も聞けました。そこで私がお話ししたことを載せておきます。

尊光寺 タイトル
 尊光寺(まんのう町炭所東の種子(たね)のバス停から望む)

前回の設定テーマは「讃岐に真宗興正派が多いのどうしてか?」というものでした。その理由として考えられるのが三木の常光寺と、阿波美馬の安楽寺の活発な布教活動でした。

常光寺末寺 円徳寺
常光寺の末寺
東から丸亀平野に教線ラインを伸ばしてくるのが常光寺です。丸亀平野南部のまんのう町にあって、常光寺末寺として布教活動の拠点となったのが照井の円徳寺でした。円徳寺は佐文の法照寺など周辺に末寺を開いていきます。これが真宗興正派の教線ルートの東西方向の流れです。

尊光寺 安楽寺末寺

安楽寺の讃岐布教の拠点となった末寺

もうひとつの流れは、阿讃山脈を越えて教線ラインを伸ばしたきた阿波美馬の安楽寺でした。安楽寺は髙松平野の山里に安養寺。三豊平野の奥の財田に寶光寺、丸亀平野の土器川上流に長善寺や尊光寺を開き、布教拠点とし、山から里へと末寺を増やして行きます。 それでは、この常光寺と安楽寺の教線拡大は、いつごろに行われたものなのでしょうか。

真宗興正派の教線伸張
真宗興正派の教線伸張時期


讃岐への真宗興正派の教線拡大の動きは、3回みられます。

第1派は蓮如の登場と、興正寺の再興です。四国への教宣活動が具体化するのは、堺を舞台に興正寺と阿波三好氏が手を組むようになってから以後のことです。三好氏の手引きを受けて、興正派の四国布教は始まったようです。その拠点となったのが安楽寺や常光寺ということになります。これが文書的に確認できるのが1520年に、三好長慶が讃岐の財田に亡命中の安楽寺に対して出した証文です。その中には「特権と布教の自由と安全を保証するから阿波に帰って来い」という内容でした。ここには、三好氏が安楽寺を保護するようになったことが記されています。以後、安楽寺の讃岐布教が本格化します。こうして阿波軍団の讃岐進出に合わせるかのように、安楽寺の布教ラインは讃岐山脈を越えてのびてきます。三好氏の讃岐進出と安楽寺の教線拡大はセットになっていたことを押さえておきます。

第2派は、本願寺と信長の石山合戦の時です。この時に本願寺は、合戦が長引くようになると全国の門徒の組織化と支援体制整備を行います。讃岐にも本願寺から僧侶が派遣され、道場の立ち上げや連携・組織化が進められます。宇多津の西光寺が本願寺に食料や戦略物資を船で運び込むのもこの時です。これを三好氏は支援します。讃岐を支配下に置いていた三好氏の支援・保護を受けて、安楽寺や常光寺は道場を各地に作っていったことが考えられます。山里の村々に生まれた念仏道場が、いくつか集まって惣道場が姿を見せるのがこの頃です。つまり1570年頃のことです。

第3派は、幕府の進める檀家制度整備です。その受け皿として、初代髙松藩主の松平頼重が支援したのが真宗興正派でした。頼重は、高松城下町の寺町に高松御坊を整備し、藩内の触頭寺として機能させていきます。。 このようにして、16世紀には三好氏の保護。江戸時代になってからは高松藩の保護を受けて真宗興正派は讃岐で教線を伸ばし、根を下ろしていきます。

 今回は、安楽寺の教線がまんのう町にどのように根付いていったのかを見ていくことにします。具体的にとりあげるのが炭所種の尊光寺です。尊光寺の位置を地図で押さえます。

尊光寺地図2
まんのう町炭所東の種子にある尊光寺

尊光寺の位置を地図で確認します。土器川がこれ。長炭小学校の前の県道190号を、真っ直ぐ東に3㎞ほど登っていくと、県道185号とぶつかる三叉路に出ます。ここを左折すると羽床の山越えうどんの前にでます。右に行くと造田方面です。つまりここは、三方への分岐点にあたる交通の起点になるところです。

この当たりが炭所東になります。炭所という地名は、江戸時代には良質の木炭を産出したことから来ているようです。東側の谷には中世寺院の金剛院があって、全国から廻国行者達がやってきて書経をしては、経塚として奉納していたところです。ここが大川山中腹の中寺廃寺や尾野瀬寺院などと中世の廻国行者達のネットワークでつながっていたようです。このあたりももともとは、真言系の修験者たちの地盤だったことがうかがえます。尊光寺は、炭所東の種子のバス停の上にあります。現在の尊光寺の姿を写真で紹介しておきます。

DSC02132
種子バス停から見上げた尊光寺

石垣の上の白壁。まるで山城のような偉容です。周囲を睥睨する雰囲気。「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」いわれれば、すぐに納得しそうなロケーションです。この寺は西長尾城主の一族が、この寺に入って中興したという寺伝を持ちます。

DSC02138
尊光寺山門
DSC02143
山門からの遠景
DSC02145
眼下に広がる炭所東の棚田 そのむこうに連なる讃岐山脈
DSC02151
山門と本堂

山を切り開いた広い境内は緑が一杯で、普段見る讃岐のお寺とは雰囲気がちがいます。現在の住職さんの手で、こんな姿に「改修」されてきたようです

尊光寺史あとがき
尊光寺史と、そのあとがき

この寺は立派な寺史を出しています。出版に至る経緯を、尊光寺の住職は次のように語ってくれました。旧書庫の屋根に穴が空いて、雨漏りがひどくなったので撤去することになった。その作業中に、箱に入ったまとまった文書がでてきた。それを檀家でもある大林英雄先生に知らせたら、寺にやって来て縁台に座り込んで、日が暮れるまで読んでいた。そして、「これは本にして残す価値のあるものや」と言われた。そこで住職は門徒総会に諮り、同意をとりつけたようです。大林先生は、この時、74歳。出版までには10年の年月が必要でした。大林先生は、史料を丁寧に読み込んで、史料をしてして語らししめるという堅実な手法で満濃町史や琴南町誌なども書かれています。私にとっての最後のお勤めが自分の檀那寺の本を出すことになりましたと、おっしゃっていたそうです。尊光寺史の最後に載せられている大林先生の写真は闘病中の病院のベッドの上で、上だけをパジャマから背広に着替えて写したもので、下はパジャマ姿のままだったといいます。この本を出されて、すぐに亡くなられたそうです。まさに遺作です。私が興正派の教線拡大に興味を持ちだしたのは、この本との出会いがありました。話がそれてしまいました。この本に載せられた尊光寺文書を見ていくことにします。

尊光寺記録(安政3年)


尊光寺文書の最初に綴じられている文書です。幕末ペリーがやってきた安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出した『尊光寺記録』の控えのようです。最初に伽藍の建物群が記されています。

①一 境内 東西30間 南北18間 

②一 表門(但し袖門付)  東西二間 南北1間 瓦葺き

③一(南向き)長屋門 東西5間 南北2間 

④一(東向き)本堂  東西5間  南北5間

①境内は「山開」とあります。山を切り崩して整備造成したということでしょうか?
③長屋門は(南向き)と小さく補筆してあります。篠葺きの長屋門が幕末にはあったことが分かります。

④本堂は今は南向きですが、当時は東向きだったようです。


以下は次のように記します。

⑤本尊 阿弥陀仏 木像御立像 春日策  長さ一尺4寸(42㎝?) 本山免許

⑥祖師 親鸞聖人 画御坐像 同(本山免許)一幅 

⑦七高僧          同(本山免許)一幅
⑧聖徳太子         同(本山免許)一幅

⑤の本尊は後で見ることにして、⑥⑦⑧を見ておきましょう。

尊光寺親鸞図
⑥の祖師 親鸞聖人 画御坐像(尊光寺)

尊光寺七高僧図
⑦七高僧図と⑧聖徳太子図

「本山免許一幅」とあります。これらの絵図は、すべて本山の西本願寺の工房で作られた物で、中本山の安楽寺を通じて下付されたもののようです。京都土産に買ってきた物ではないようです。

伽藍・本尊などの後に来るのが住職一覧です。

尊光寺開基少将
尊光寺開基 少将について

最初に「一向宗京都興正寺派末寺 長寿山円智院 尊光寺」とあります。そして「開基 少将」とあります。少将とは何者なのでしょうか? 
ここに書かれていることを確認しておきます。

尊光寺開基2
尊光寺の開基少将について

①開基者は少将 一向一揆の指導者などに良く登場する人物名 架空人物 

②開基年代は、明応年間(1492年から1501年)蓮如が亡くなっているのが(1499年5月14日)85歳です。

③創建場所は 最初は炭所種の久保です。久保は「窪み」の意味で、種子神社の近くで、その神宮寺的な寺院があったところで、そこが念仏道場として最初は使われていたのかもしれません。


④それが享保年間(1716年から1736年)に現在地の雀屋敷に移転します。檀家も増加して、新しく寺地を設けて伽藍を建立することになり、現在地に山を開いて新しい伽藍を作ったようです。8代住職亮賢のときのことになりますが、記録は一切残っていません。少将のあとの住職について、尊光寺文書はにはどのようにかかれているのか見ておきましょう。


尊光寺少将以後
開基・少将以後の住職について


少将以後百年間は、住職不明と記します。藩への報告には、住職の就任・隠居の年月日を記入する項目があったようです。それは「相い知れ申さず」と記します。そして百年後の16世紀末に登場するのが中興開祖の玄正(げんしょう)です。この人物について、尊光寺記録は次のように記します。

尊光寺中興開基玄正


内容を整理すると次のようになります。

尊光寺中興開基玄正2

①長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

②しかし、玄正については、名前だけで在任期間や業績などについては、何も触れていません。実態がないところが気になるところです。

③推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。そうだとすれば実質的に尊光寺を開いたのは、この人物になります。そして秀吉の時代には、長炭の各地域に点在する各道場をまとめる惣道場的な役割を尊光寺が果たすようになっていたことがうかがえます。尊光寺史は、以後の住職を次のように記します。


尊光寺歴代住職
尊光寺歴代住職名(3代以後)

三代 明玄実子 理浄 右は住職井びに隠居申しつけられる候年号月日は相知れずもうされず候。元和5(1619)年3月病死仕り候 
四代 理浄実子「法名相知れもうされず。 


ここに記されているのは「住職任期は分からない」で、業績などは何も書かれていません。以後の歴代住職についても同じ内容です。歴代住職の在任時期や業績をまとめたものは、幕末の尊光寺には伝わっていなかったようです。
以上、尊光寺史に書かれた創建に関する史料を中心に、今回は見ました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史
関連記事






18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

DSC02132
尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号

  前回に蓮如は、礼拝物を統一して次のような形で門末寺や道場へ下付したことを見ました。
①名号や絵像を「本尊」
②開山絵像(親鸞)を「御影」
③蓮如や門主の影像を「真影」
  このような礼拝物の下付を通じて、蓮如は末寺や道場の間に、次のような教えを広げていきます。
①仏前勤行に「正信偈」を読むことで、七高僧の教えを門末に教え
②御文によって親鸞と門末を結び
③礼拝物の規格を統一して作成・下付し、本山との結びつきを強め
④礼拝物の修繕を本山で行うことで、本末関係を永続化させる。
以上の一連の流れで、門末を統制することに成功したと研究者は考えているようです。
 慶長6年(1603)、本願寺の東西分裂を契機に木仏下付が始まります。
東西分裂を契機に、東と西の本願寺は激しい勢力拡張運動を展開して、しのぎを削るようになります。翌年になると西本願寺は、勢力維持のために地方の念仏道場に寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。こうして、慶長7年から寛永19年までの約40年間に、183カ所の道場に木仏が下付されます。ここで注意しておきたいのは、寺号と木仏下付がセットになっていると云うことです。また、下付された木仏が損傷した時や、寺格が昇進した時には、再度下付しています。
それでは尊光寺にはどのようなものが下付されたのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
尊光寺の安政3年(1856)の書上帳には、本尊阿弥陀仏について次のように記されています。


尊光寺記録(安政3年)
尊光寺の境内・表門・本堂に続いて本尊阿弥陀仏とあり、本山免許と記されている。
本尊阿弥陀仏
木仏御立像 春日作
 長一尺四寸(42、2㎝)
  本山免許
記録によると尊光寺には、本山から2回木仏が下付されています。
興正寺年表には、次の記録があります。

慶長19年(1614)8月17日(興正寺直末)興正寺下鵜足郡尊光寺賢正に木仏を授ける((木仏の留)

 ということは、尊光寺はこの時までは正式の寺号はなかった、認められていなかったということになります。
以前に尊光寺の開基者玄正について、次のようにお話ししました
①尊光寺開基は、実際には中興開基とされている玄正(長尾城主の息子・孫七郎)であること
②それは長尾氏滅亡後の1580年以後のことであること
③玄正が長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物だったこと。
それが1614年に木仏が興正寺より下付され、正式の寺号が認められたことになります。木仏は直接に京都の興正寺から運ばれてきたのではないはずです。興正寺と尊光寺の間には、中本山としての阿波郡里の安楽寺があります。礼拝物の下付は、中本山を経由するのがしきたりでした。当然、尊光寺の木仏も一旦は郡里の安楽寺に運び込まれ、そこから人が担いで阿讃の峠を超えてまんのう町に下りてきたと私は考えています。安楽寺との本末関係とは、そういうもふくまれるのです。
尊光寺への2回目の木仏下付は、宝暦7年(1757)6月15日です。
この時は第九代住職賢随が願い出て「木仏尊像」を下付されています。最初に下付されてから約150年の年月が経って、その間に本尊の痛みがひどくなったので、再下付を願い出たのでしょう。
現在の御本尊は、この二回目に下付されたものです。本山から与えられた御免書はなくなって、今は御免書を入れてあった封書だけが残っているようです。その封筒の表面に次のような文書が書かれています。
釈法如(花押)
賓暦七(1757)丁丑年六月十五日
興正寺門徒安楽寺下
木仏尊像 讃岐国鵜足郡
炭所東村 尊光寺仏
 願主 釈賢随

これは単なる表書でなく、中に入れられていた文書そのもので、掛け軸の御絵像の御裏書にあたるものだと研究者は指摘します。これによって、この本仏尊像が本山から尊光寺へ下付されたものであることを証明できます。本山興正寺は、中堅寺院に成長してきた尊光寺に、免許書を添えて木仏を再下付したと研究者は考えています。
   それでは免許状は、どこにいったのでしょうか?
興正寺の悲願であった西本願寺からの別派独立は、江戸時代には認められることはありませんでした。それは明治9年(1876)9月15日になってからでした。教務省は「教義上明確な差異のない限り独立を認めない」という方針でした。そのため興正寺としては、西本願寺と異なることを示す必要がありました。その一つが、各末寺へ西本願寺から下付されていた御本尊や御絵像を「回収」して、興正寺が新たに下付するという方法です。これは資金難の興正寺の財政救済という目的もあったようです。しかし、これをそのまま行えば、地方の末寺にとっては本尊を本寺興正寺に「回収」され、新しい本尊を迎え入れなければならないことになります。これをすんなりと受けいれることは出来なかったはずです。
 それではどんな手法がとられたのでしょうか。尊光寺の場合を見てみましょう。
①本尊阿弥陀如来立像の本願寺本山からの御免書を「回収(没収)」する。
②しかし尊光寺の財政事情を考慮して、本尊を今まで通り安置することを許可する。
つまり、本願寺から出されていた免許状は没収するが、本尊はそのまま残す。そして御免書の文面を、そのまま御免書の封筒に書き写して残すということです。そのためその封筒が尊光寺に残っていると研究者は推測します。木仏本尊の免許書は全国的にも珍しいもので、もし残っていれば貴重なものなのにと、専門家は残念がります。

尊光寺本尊 本寺からの下付
尊光寺の本尊(18世紀に下付された木仏:阿弥陀仏)
尊光寺の木仏本尊を、研究者は次のように評します。
御本尊は、檜を用いた寄木造りで、像高は42,4㎝。尊光寺の安政三年(1856)の書上帳の記録と一致する。小振りな御尊像は、 一木造りであるかのように頑丈に見受けられる。内陣中央の須弥壇の上の、宮殿の中の蓮の台座の上に安置されているお顔は、瑞々しく張りがある。慈悲の眼差しは、彫眼であるので伏せられているが、美しい目もとは軽く結ばれている。納衣は、両肩を覆う通肩で、その上に袈裟をつけ、上品下生の印を結ばれている。
尊光寺本尊2
尊光寺本尊 阿弥陀如来頭部
 全体に、「安阿弥陀様」と呼ばれる鎌倉時代の仏師快慶作の阿弥陀立像に似せて作られたように考えられる。春日作りとあるのは、鎌倉の仏師集団によって作られた意味であろう。
尊光寺本尊の最も明瞭な特徴は、その頭部の髪型である。
一般に如来の頭髪は、螺髪と呼ばれる小さくカールした巻毛の粒を、別に一個ずつ作って頭に植えつけたり、また頭部の材と共木に刻み出して、頭髪を現わす。尊光寺の御本尊の頭髪は、髪を束ねたものを縄状に巻きつけ、それに刻み目を入れて頭髪を現わしている。
このような頭髪スタイルは、京都の嵯峨の清涼寺の御本尊である釈迦如来像がモデルになっているようです。

釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま | 京都トリビア × Trivia in Kyoto
清涼寺の釈迦如来像

清涼寺の釈迦如来像を持ち帰ったのは、永観元年(983)に宋に渡った東大寺の僧套然です。彼は五台山で修行し、2年後に帰国するときに、宋の宮中で礼拝したインド伝来の釈迦如来像を模刻して日本へ持ち帰ります。一旦、大宰府の蓮台寺に安置されますが、彼の死後に弟子成算が、京都嵯峨に清涼寺を創建し、ここにまつることを朝廷に願い出て許可され、今に至っているようです。
尊光寺本尊のモデル 清涼寺釈迦如来
清涼寺式釈迦如来(奈良国立博物館 重文)
 清涼寺の釈迦像は、その後盛んにコピーされて、仏像の中で「最も多く模刻された釈迦像」ともいわれるようです。その中には、国の重要文化財に指定されているものもあります。
尊光寺本尊3
尊光寺本尊(阿弥陀如来)
尊光寺の釈迦像もこのような流れの中で、京都で作成された阿弥陀様が尊光寺に下付されたようです。 私が疑問に思うのは、それでは最初に下付された木仏はどこにいったのかということです。尊光寺にはないようです。考えられるのは二回目の下付の時に、入れ替わりに本山に返されたということでしょうか。よく分かりません。

尊光寺本尊4
尊光寺本尊
尊光寺の本尊のやって来た道が、江戸時代の真宗の本寺と末寺をたどることにもなるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史


讃岐には真宗興正寺に属していた末寺が多いこと、その讃岐伝導については、三木の常光寺と阿波郡里の安楽寺が布教センターとして役割を果たしたことを以前にお話ししました。それでは、讃岐に真宗の教線が伸びてくるのはいつ頃のことなのでしょうか。

讃岐の真宗寺院創建年代

 研究者が西讃府志などに記されている真宗各寺の開基時期を区分したものが上図です。これは各寺の由緒書きに基づくもので、開基を裏付ける史料があるわけではないことを最初に押さえておきます。この表を見ると、15世紀に33、16世紀に38の真宗寺院が讃岐にはあったことになります。
 昭和に作られた町村史も各寺の縁起を基にして、讃岐の真宗寺院の開基を早めに設定する傾向がありました。しかし現在では、讃岐の真宗教団が教宣活動を本格化させたのは16世紀後半以後のことで、寺院に格上げされるのは江戸時代になってからというのが定説化しているようです。この変化には、どんな「発見」があったからなのでしょうか。それを、まんのう町の尊光寺を例に見ていきたいと思います。テキストは「大林英雄 尊光寺史 平成15年」です。

    DSC02132     
尊光寺(まんのう町種子)

尊光寺の創建について、1975年版の『満濃町史』1014Pには、次のように記されています。

  尊光寺は、鎌倉時代の中頃、領主大谷氏によって開基され、南北朝時代に中院源少将の崇敬を受けた……。

これを書いた研究者は、創建を鎌倉時代と考えた根拠として、次の4点を挙げます
①まんのう町へは、鎌倉時代の承元元年(1207)に、法然が流罪となり、讃岐国小松庄の生福寺で約9ヵ月間寓居し、その間、各地で専修念仏を広めた。その後、四条の地には、生福、清福、真福の三福寺が栄えていたとあるので、鎌倉時代には真宗が伝わっていたと推察。

②『徳島県史(旧版)』の安楽寺縁起には、鎌倉時代の宝治合戦(1247)に敗れた千葉氏の一族彦太郎が、縁者である阿波国守護の小笠原氏を頼って、北条氏に助命を願い、安楽寺に入って剃髪し、安楽寺は天台宗から浄土真宗に改宗したと書かれている。この記事から、四国へ浄土真宗が伝わったのは鎌倉時代と考えた。

③尊光寺の記録にある開祖少将は、南北朝時代に、西長尾城を拠点にして南朝方の総大将として戦った中院源少将に仮託したものと推察。

④尊光寺の本尊阿弥陀如来の木像は、 一部に古い様式があり鎌倉仏とも考えられること。

以上から尊光寺の開基を鎌倉時代としたようです。ここからは真宗寺院の創建を14世紀に遡って設定するのは、当時は一般的であったことが分かります。
 それが見直されるようになったのはどうしてでしょうか。
⑤中央では真宗史についての研究や、真宗教団の四国への教線拡大過程が明らかになった(『講座蓮如』第五巻)。

⑥『新編香川叢書史料編二』(1979年)が発刊されて、高松藩の最も古い寺院記録である『御領分中寺々由来書』が史料として使用可能となった。

⑦1990年代に『安楽寺文書上下巻』『興正寺年表』など、次々に寺院史の研究書が発刊されたこと。

古本 興正寺年表 '91年刊 蓮教上人 興正寺 京都花園 年表刊行会編 永田文昌堂 蓮教上人 宗祖親鸞聖人 興正寺歴代自署 花押  印章付き(仏教)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)

最初に、⑤の真宗の讃岐への教線拡大過程の研究成果を見ておきましょう。
讃岐への真宗拡大センターのひとつがの三木の常光寺でした。
その由来書については、何度も取り上げたのでその要点だけを記します。
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。

④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。
ここには、常光寺と安楽寺は四国布教の拠点センターとして建立された「兄弟関係」にある寺院だと主張されています。
興正寺派と本願寺
興正寺・仏光寺と本願寺の関係
まず①②について検討していきます。
①には14世紀後半に仏光寺が門弟2人を教線拡大のために四国に派遣したとあります。しかし、当時の仏光寺にはそのような動きは見られません。合い抗争する状態にあった真宗各派間にあって、そのようなゆとりはなく、乱世に生き延びていくのが精一杯な時期でした。本願寺にも、仏国寺にも、西国布教を14世紀に行う力はありませんでした。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
本願寺も15世紀後半に蓮如が現れるまで、けっして真宗をまとめ切れていたわけではありません。真宗の中のひとつ寺院に過ぎず、指導性を充分に発揮できる立場でもありませんでした。それが蓮如の登場で、本願寺は輝きを取り戻し、大きな引力を持つようになります。その引力に多くの門徒や寺院が吸い寄せられていきます。

興正寺派と本願寺
本願寺と興正寺の関係
そのひとつが仏光寺の経蒙が、蓮如に帰参し、蓮教と改め興正寺を起こしたことです。経蒙は文明13年(1481)に、自派の布教に行き詰まりを感じ、多数の末寺や門徒を引き連れて、本願寺の門主蓮如に帰参します。経豪は、寺名をもとの興正寺に復して、蓮如から蓮教の法名を与えられます。
この興正寺が四国へ真宗伝播の拠点になります。それが本格化するのは、蓮秀(れんしゅう)以後です。蓮秀は、蓮如の孫娘に当たる慧光尼を妻に持ち、明応元(1492)年に父連教が没した後、蓮如の手で得度して、興正寺を継ぎます。彼は本願寺においては和平派として、戦国大名との和平調停に尽くす一方、西国布教に尽力し、天文21年(1552年)、72歳でなくなっています。
興正寺蓮秀の西国布教方法は、法華宗や禅宗の寺院がやっていた方法と同じです。
末寺の僧侶が、堺の門徒であった商人や航海業者と結んで商業拠点としての寺院を各港に設置していくという方法です。当然、これには交易活動(商売)が伴います。彼らは、仏光寺の光明本尊や絵讃、蓮如の御文章の抄塚などを領布(売却)して、門徒を獲得することになんら違和感はありませんでした。それは、高野聖や念仏聖たちが中世を通じて行ってきたことで、当たり前のことになっていました。
 ここでは興正寺の四国布教が本格的に進められるのは、16世紀前半の蓮秀の時代になってからであることを押さえておきます。これは最初に見た常光寺縁起の次の項目と矛盾することになります。

「足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた」

桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
安楽寺(美馬市郡里)

常光寺から兄弟門弟関係にあると名指しされた阿波の安楽寺(赤門寺)の縁起を見ておきましょう。
安楽寺は、もともとは元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されていることがそれを裏付けます。真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。その縁起によると、1247年(宝治元年)に上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したと記します。そして16世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させていきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の創建由来のまとめ

  安楽寺の縁起には仏光寺の弟子が開いたとは、どこにもでてきません。
安楽寺が真宗になったのは、東国からの落武者の真宗門徒である千葉氏によること、そして、その時には本願寺に属していたと記されています。ここでも常光寺縁起の「浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺」を裏付けることはできません。

安楽寺が興正寺派となった時期については、次のふたつの説があるようです。
①興正寺経豪が蓮如に帰参した文明13年(1481)説
②安楽寺の讃岐財田への逃散亡命から郡里に帰還した永正十七年(1520)説
②の安楽寺の危機的状況を仲介調停したのが興正寺の蓮秀で、彼のおかげで三好長慶から諸公事等免除と帰国を勝ち取ることができました。これを契機に安楽寺は興正寺派となったという説です。私にはこれが説得力があるように思えます。

巌嶋山・宝光寺2013秋 : 四国観光スポットblog
安楽寺の讃岐逃散(亡命)寺院跡の寶光寺(三豊市財田)

安楽寺の讃岐への逃散について、ここでは概略だけ見ておきます。
 郡里にあった寺を周辺勢力から焼き討ちされた安楽寺は、信徒と供に讃岐財田に「逃散」します。財田への「亡命」の背景には「調停書」に「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」とあるので、賦役や課役をめぐる対立があったことがうかがえます。さらに「念仏一向衆」への真言系寺院(山伏寺)からの圧迫があったのかもしれません。
 調停内容は、「事前協議なしの新しい課役などは行わない」ことを約束するので「阿波にもどってこい」と、安楽寺側の言い分が認められたものになっています。この際に、安楽寺のために大きな支援を行ったのが興正寺の蓮秀です。これを契機に、本寺を興正寺に移したという説です。領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後は急速に教線を讃岐に伸ばしていきます。それは、三好氏の讃岐進出とベクトルが重なるようです。三好氏は安楽寺の讃岐への教線拡大に対して「承認・保護」を与えていたような気配がします。
 ちなみに宇多津の西光寺に対しては、三好氏家臣の篠原氏が保護を与えています。
 安楽寺末寺分布図
安楽寺の末寺分布図(寛永3年 讃岐に末寺が多い)
 安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。これらの末寺の形成は、次のような動きと重なります。
①当時の興正寺の掲げていた「四国への真宗教線拡大戦略」
②安楽寺の「財田逃散亡命」から帰還後の讃岐への教線拡大
③三好氏の讃岐中讃への勢力の拡大

尊光寺記録(安政3年)
尊光寺記録
最後にまんのう町の尊光寺の開基を見ておきましょう。
江戸時代末期の安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出したと思われる『尊光寺記録』の控えが、尊光寺文書の最初にとじられています。そこには次のように記されています。
尊光寺開基
尊光寺開基

一向宗京都興正寺末寺
 讃州鵜足郡長炭村 尊光寺
開基 少将
当寺は明応年中、少将と申す僧、炭所東村種子免(たねめん)の内、久保と申す所え開基候。其後享保年中、同種子免の内、雀屋敷之土地更之仕り候と申し伝え候得共、何の記録も御座なく候故、 一向相い知れ申さず候(原漢文)

意訳変換しておくと
尊光寺は明応年間に、少将と申す僧が、炭所東村の種子免(たねめん)の内の久保に開基した。その後、享保年間になって、同じ種子免の内の雀屋敷の現在地に移ってきたと伝えられる。しかし、これについては何の記録もない。詳しくはよく分かりません。

  尊光寺文書には開基の「時代は明応、開基主は少将」と書かれています。この文書に出てくる明応という時代と、開基の少将という人名は、高松藩の『御領分中寺々由来』にも次のように登場します。
阿州安楽寺一向宗宇多郡尊光寺
開基、明応年中、少将と申す僧、諸旦那の助力を以って建立仕り候事、寺の証拠は、本寺の証文所持仕り候(原漢文)。

「少将」という僧名は、各地の一向一揆の戦いに参加した僧名としてよく登場する人物名で、開基者が不明なときに使われる「架空の人名」のようです。寺記の中に出てくる「諸檀那の助力を以って建立仕り候事」も、真宗の寺院縁起の常套語で、由緒書に頻繁に使用されます。つまり、この記述は歴史的な事実を伝えているものではないと私は考えています。
 歴代住持の名前は、その後は「中興開基 玄正」までありません。
「中興開基 玄正」については、次のように記されています。

右は天正年中、女子ばかりにて寺役が相勤め申さざる御、当国西長尾の城主長尾大隅守、土佐長宗我部元親のために落城。息長尾孫七郎と申す者、軍務を逃れ、右尊光寺の女子に要せ、中興仕らせ候申し伝え候得共、住職並びに隠居仰せつけられ候年号月日相知れ申さず候(原漢文)。

  意訳変換しておくと
一 尊光寺の中興開基は、玄正
天正年間に、尊光寺には女子ばかりで跡継ぎがいなかった。西長尾城が土佐長宗我部元親により落城した時に、城主長尾大隅守(高勝)は息子・長尾孫七郎を、尊光寺の女子と婚姻させ、寺の中興を果たしたと伝えられる。住職就任や隠居時の年号月日については分からない(原漢文)。
ここからは次のようなことが分かります。
①中興開基の玄正は、長尾城主の息子・孫七郎であったこと
②長尾氏滅亡の際に、孫次郎が尊光寺を中興したこと。
 尊光寺記録は、これ以外に玄正の業績については、何も触れていません。推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。実質的に尊光寺を開いたのは、この人物と私は考えています。
安楽寺末寺
尊光寺の本末関係

 西長尾城落城後から生駒時代の困難な時代に、長尾一族のとった道を考えて見ます。
彼らの多くは、他国に去ることなく地元で帰農したようです。そして、農民達の中で生きるために真宗に転宗します。ここには、一族の有力者が真宗道場の指導者になり、門徒衆を支配しようとする長尾氏の生き残り戦略がうかがえます。
 長尾一族の開基と伝えられるお寺が西長尾城周辺にはいくつかあります。各寺の縁起に書かれた開基年代は、次のように記されています。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 しかし、ここに書かれた改宗時期については、疑問が残ります。それは、この時期は長尾氏は真言宗を信仰していたからです。それは、つぎのような事実から裏付けられます。

①西長尾城主の弟(甥)とされる宥雅は、善通寺で仏門に入り、真言僧侶として、金毘羅大権現の金光院を開いている。
②長尾氏の菩提寺佐岡寺は真言宗で、長尾氏一族の五輪塔がある。

佐岡寺と長尾大隅守の墓 | kagawa1000seeのブログ
佐岡寺(まんのう町)の長尾氏歴代の墓
以上のような背景から長尾氏の真宗転宗は、西長尾城を失ってから後の16世紀末と私は考えています。

真鈴峠
郡里の安楽寺からの丸亀平野への教線拡大ルート
現在のまんのう町の山間の村々に姿を現していた安楽寺の各道場を、長尾氏は指導力を発揮してまとめて惣道場として、その指導者に収まっていった姿が見えてくるような気がします。それらの道場が江戸時代になって、正式な寺号が付与されていきます。

尊光寺史S__4431880
尊光寺史
以上をまとめておきます
①15世紀後半に現れた蓮如の下で、本願寺は勢力再拡大を果たす。
②その一つの要因が仏光寺が蓮如傘下に加わり、興正寺と改名したことである
③興正寺は蓮秀(16世紀前半)の時に、四国への真宗教線拡大が本格化させる。
④興正寺が阿波安楽寺を末寺に加えることができたのは、16世紀初頭の讃岐への逃散という安楽寺の危機を興正寺が救ったことに起因する。
⑤以後、安楽寺は讃岐山脈を越えて土器川・金倉川・財田川沿いに里に向かって教線を拡大していく。
⑥こうして丸亀平野の山里に安楽寺からの僧侶が入ってきて各村々に道場を開くようになる。
⑦このような真宗浸透を、この時期の西長尾城主の長尾一族は、警戒感と危機感で見守っていた。
⑧それは城主の弟(甥)の宥雅が善通寺で修行後に、金毘羅神という新たな流行神を創出したのもそのような脅威に対抗しようとしたためともとれる。
⑨長宗我部元親の侵攻で在野に下り、その後の生駒氏支配では登用されなかった長尾氏の多くは帰農の道を選ぶ。
⑩その際に、真宗に転宗し、道場の指導者となり、勢力の温存をはかった。
⑪そのため西長尾城周辺には長尾氏開基を伝える系図を持つ真宗寺院がいくつも現れることになった。

尊光寺真宗伝播

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史 平成15年
関連記事

DSC02136

 図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会いました。手にとって見ると寺に伝わる資料を編纂・解説し出版されたもので読み応えがありました。この本からは、真宗興正寺派がまんのう町へどのように教線を拡大していったのかが垣間見えてきます。尊光寺が真宗を受けいれた戦国時代末期の情勢と、長尾城主の長尾氏の動きを見ておきましょう。

DSC02130
まんのう町種子のバス停から見える尊光寺

  長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。
そのためか讃岐の大名となった生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入ります。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだのです。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
 まんのう町での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬市郡里の安楽寺です。
この寺は興正寺の末寺で、真宗の四国布教センターの役割を担うことになります。カトリックの神学校がそうであったように、教学ばかりか教育・医学・農業・土木技術等の研修センターとして信仰的情熱に燃える若き僧侶達を育てます。そして、戦国時代になると彼らが阿讃の峠を越えて、まんのうの山里に布教活動に入ってきます。山沿いの集落から信者を増やし、次第に丸亀平野へと真宗興正寺派のお寺が増えます。

DSC02144
尊光寺
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍が整のっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、今から見ればちっぽけな掘建て小屋のようなものです。そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
六字名号(浄土真宗 お東用 尺五) 無落款! 名号 - 掛け軸(掛軸)販売通販なら掛け軸総本家
六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えます。農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていきます。この点が他の宗派との大きな違いなのです。ですから、山の中であろうと道場はわずかな場所で充分でした。
 縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行します。正信偈を唱え御文書をいただき、安楽寺からやってきた僧侶の法話を聞きます。そして、非時を食し、耕作談義に夜を更かすのが習いでした。
 やがて長尾氏のような名主層が門徒になると安楽寺から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間にしました。それがお寺になっていた場合もあります。
  尊光寺も長尾氏出身の僧侶で、この寺の中興の祖と言われる玄正の時に総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になります。安楽寺の支配に属する寺は、江戸時代には、讃岐50、阿波21、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し四国最大の真宗寺院に発展します。讃岐の末寺の多くは中讃に集中しています。中讃に真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、安楽寺の布教活動の成果なのです。

DSC02145
尊光寺から見える種子集落と阿讃山脈
 本寺末寺関係にあった寺院は、江戸時代には阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行ます。また、讃岐布教の最前線となった讃岐側の山懐には、勝浦の長善寺や財田の宝光寺などの大きな伽藍を誇る寺院が姿を見せます。
 さらに、お寺の由緒に
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
と伝わるのは、布教の流れが「山から里へ」であったことを物語っています。このため中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は山に近い所に多いようです。
  最後に確認したいことは、この布教活動という文化活動は、瀬戸内海を通じて海からもたらされた物ではないということです。流行・文化は、海側の町からやって来るという現在の既成概念からは捉えられない動きです。 もう一度、阿讃の峠を通じたまんのう町と阿波の交流の実態を見直す必要があることを感じさせてくれました。

尊光寺史S__4431880

尊光寺史
図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会った。手にとって見ると寺から新たに発見された資料を、丁寧に読み解説もつけて檀家の支援を受けて出版されたものである。この本からは、真宗興正寺派の讃岐の山里への布教の様が垣間見えてくる。早速、本を借り出し尊光寺詣でに行ってみた。

DSC02130

やって来たのはまんのう町炭所東(すみしょ)の種子(たね)集落。バス停の棚田の上に尊光寺はあった。
DSC02132

石垣の上に漆喰の塀を載せてまるで城塞のように周囲を睥睨する雰囲気。
「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」
いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。
DSC02136

この寺の由緒を「尊光寺史」は
「 明応年間 少将と申す僧  炭所東村種子(たね)免の内、久保へ開基」
という資料から建立を戦国時代の15世紀末として、建立の際の「檀那」は誰かを探る。
DSC02138

①第一候補は炭所東の大谷氏?

開発系領主の国侍で大谷川沿いの小城を拠点に、西長尾城主の中印源少将を助けた。伊予攻めの際に伊予の三島神社の分霊を持ち帰り三島神社を建立もしている。後に、大谷氏は 敗れて野に下り、新たに長尾城主となった長尾氏への潜在勢力として、念仏宗をまとめてこの地区で勢力温存をはかる。
 つまり真宗興正寺派の指導者となることで、勢力の温存を図ったということらしい。

DSC02139

 ②第2候補は平田氏

 平田氏は、畿内からやってきて、広袖を拠点に平山や片岡南に土着した長百姓であり、金剛院に一族の墓が残っている。

DSC02140

最初は建物もない念仏道場(坊)からスタートしたであろう

名主層が門徒になると本山から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間とする。縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行。正信偈を唱え御文書をいただき法話を聞く。非時を食し、耕作談義に夜を更かす。この家を内道場、家道場と呼び、有髪の指導者を毛坊主と呼んだという。

DSC02141

中讃での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬町の安楽寺である。

真宗興正寺は瀬戸内海布教拡大の一環として、四国布教の拠点を吉野川を遡った美馬町郡里に設ける。それが安楽寺である。当時の教育医学神学等の文化センター兼農業・土木技術研修でもあった安楽寺で「教育」を受けた信仰的情熱に燃える僧侶達が阿讃の山を越えて、琴南・仲南・財田・満濃等の讃岐の山里に布教活動に入って来る。

DSC02143

安楽寺からのオルグを受けて名主や土侍たちが帰依していく。

中讃の農村部には真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、このようなかつての安楽寺の布教活動の成果なのだ。讃岐の真宗の伝播のひとつは、興正寺から安楽寺を経て広がっていったといえる。
DSC02145

 その布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように話す。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、むしろ道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。
DSC02149

 中央での信長の天下布武に呼応して、四国統一をめざす長宗我部元親の動きが開始される。1579年に始まる元親の讃岐侵入と5年後の讃岐平定。そのリアクションとしての秀吉軍の侵攻と元親の降伏。この激動は、中讃の地に大きな怒濤として押し寄せ、在来の勢力を押し流してしまう。

DSC02150

 在地勢力の長尾城主であった長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働いた。そのためか生駒氏等の讃岐の大名となった諸氏から干される結果となる。長尾一族が一名も登用されていない
 このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入る。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを示す。
DSC02153

DSC02154

 長尾氏出身の僧侶で尊光寺中興の祖と言われる玄正により総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になる。阿波国美馬の安楽寺を中本山に昇格させ阿讃の末寺統制体制が確立したと言える。このため中讃の興正寺派の寺院は、阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行っていた。
 尊光寺が安楽寺より離脱して、興正寺に直属するのは江戸時代中期の1777年になってのことである。

DSC02160

「尊光寺史」は、浄土真宗の讃岐での教線拡大のありさまを垣間見せてくれる。

このページのトップヘ