瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尊光寺史

地元の小さな会で、「尊光寺史を読む」と題してお話しさせていただく機会がありました。尊光寺のご住職もお見えになっていて、「尊光寺史」が発刊になるまでの経緯や、伽藍整備など興味あるお話も聞けました。そこで私がお話ししたことを載せておきます。

尊光寺 タイトル
 尊光寺(まんのう町炭所東の種子(たね)のバス停から望む)

前回の設定テーマは「讃岐に真宗興正派が多いのどうしてか?」というものでした。その理由として考えられるのが三木の常光寺と、阿波美馬の安楽寺の活発な布教活動でした。

常光寺末寺 円徳寺
常光寺の末寺
東から丸亀平野に教線ラインを伸ばしてくるのが常光寺です。丸亀平野南部のまんのう町にあって、常光寺末寺として布教活動の拠点となったのが照井の円徳寺でした。円徳寺は佐文の法照寺など周辺に末寺を開いていきます。これが真宗興正派の教線ルートの東西方向の流れです。

尊光寺 安楽寺末寺

安楽寺の讃岐布教の拠点となった末寺

もうひとつの流れは、阿讃山脈を越えて教線ラインを伸ばしたきた阿波美馬の安楽寺でした。安楽寺は髙松平野の山里に安養寺。三豊平野の奥の財田に寶光寺、丸亀平野の土器川上流に長善寺や尊光寺を開き、布教拠点とし、山から里へと末寺を増やして行きます。 それでは、この常光寺と安楽寺の教線拡大は、いつごろに行われたものなのでしょうか。

真宗興正派の教線伸張
真宗興正派の教線伸張時期


讃岐への真宗興正派の教線拡大の動きは、3回みられます。

第1派は蓮如の登場と、興正寺の再興です。四国への教宣活動が具体化するのは、堺を舞台に興正寺と阿波三好氏が手を組むようになってから以後のことです。三好氏の手引きを受けて、興正派の四国布教は始まったようです。その拠点となったのが安楽寺や常光寺ということになります。これが文書的に確認できるのが1520年に、三好長慶が讃岐の財田に亡命中の安楽寺に対して出した証文です。その中には「特権と布教の自由と安全を保証するから阿波に帰って来い」という内容でした。ここには、三好氏が安楽寺を保護するようになったことが記されています。以後、安楽寺の讃岐布教が本格化します。こうして阿波軍団の讃岐進出に合わせるかのように、安楽寺の布教ラインは讃岐山脈を越えてのびてきます。三好氏の讃岐進出と安楽寺の教線拡大はセットになっていたことを押さえておきます。

第2派は、本願寺と信長の石山合戦の時です。この時に本願寺は、合戦が長引くようになると全国の門徒の組織化と支援体制整備を行います。讃岐にも本願寺から僧侶が派遣され、道場の立ち上げや連携・組織化が進められます。宇多津の西光寺が本願寺に食料や戦略物資を船で運び込むのもこの時です。これを三好氏は支援します。讃岐を支配下に置いていた三好氏の支援・保護を受けて、安楽寺や常光寺は道場を各地に作っていったことが考えられます。山里の村々に生まれた念仏道場が、いくつか集まって惣道場が姿を見せるのがこの頃です。つまり1570年頃のことです。

第3派は、幕府の進める檀家制度整備です。その受け皿として、初代髙松藩主の松平頼重が支援したのが真宗興正派でした。頼重は、高松城下町の寺町に高松御坊を整備し、藩内の触頭寺として機能させていきます。。 このようにして、16世紀には三好氏の保護。江戸時代になってからは高松藩の保護を受けて真宗興正派は讃岐で教線を伸ばし、根を下ろしていきます。

 今回は、安楽寺の教線がまんのう町にどのように根付いていったのかを見ていくことにします。具体的にとりあげるのが炭所種の尊光寺です。尊光寺の位置を地図で押さえます。

尊光寺地図2
まんのう町炭所東の種子にある尊光寺

尊光寺の位置を地図で確認します。土器川がこれ。長炭小学校の前の県道190号を、真っ直ぐ東に3㎞ほど登っていくと、県道185号とぶつかる三叉路に出ます。ここを左折すると羽床の山越えうどんの前にでます。右に行くと造田方面です。つまりここは、三方への分岐点にあたる交通の起点になるところです。

この当たりが炭所東になります。炭所という地名は、江戸時代には良質の木炭を産出したことから来ているようです。東側の谷には中世寺院の金剛院があって、全国から廻国行者達がやってきて書経をしては、経塚として奉納していたところです。ここが大川山中腹の中寺廃寺や尾野瀬寺院などと中世の廻国行者達のネットワークでつながっていたようです。このあたりももともとは、真言系の修験者たちの地盤だったことがうかがえます。尊光寺は、炭所東の種子のバス停の上にあります。現在の尊光寺の姿を写真で紹介しておきます。

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種子バス停から見上げた尊光寺

石垣の上の白壁。まるで山城のような偉容です。周囲を睥睨する雰囲気。「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」いわれれば、すぐに納得しそうなロケーションです。この寺は西長尾城主の一族が、この寺に入って中興したという寺伝を持ちます。

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尊光寺山門
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山門からの遠景
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眼下に広がる炭所東の棚田 そのむこうに連なる讃岐山脈
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山門と本堂

山を切り開いた広い境内は緑が一杯で、普段見る讃岐のお寺とは雰囲気がちがいます。現在の住職さんの手で、こんな姿に「改修」されてきたようです

尊光寺史あとがき
尊光寺史と、そのあとがき

この寺は立派な寺史を出しています。出版に至る経緯を、尊光寺の住職は次のように語ってくれました。旧書庫の屋根に穴が空いて、雨漏りがひどくなったので撤去することになった。その作業中に、箱に入ったまとまった文書がでてきた。それを檀家でもある大林英雄先生に知らせたら、寺にやって来て縁台に座り込んで、日が暮れるまで読んでいた。そして、「これは本にして残す価値のあるものや」と言われた。そこで住職は門徒総会に諮り、同意をとりつけたようです。大林先生は、この時、74歳。出版までには10年の年月が必要でした。大林先生は、史料を丁寧に読み込んで、史料をしてして語らししめるという堅実な手法で満濃町史や琴南町誌なども書かれています。私にとっての最後のお勤めが自分の檀那寺の本を出すことになりましたと、おっしゃっていたそうです。尊光寺史の最後に載せられている大林先生の写真は闘病中の病院のベッドの上で、上だけをパジャマから背広に着替えて写したもので、下はパジャマ姿のままだったといいます。この本を出されて、すぐに亡くなられたそうです。まさに遺作です。私が興正派の教線拡大に興味を持ちだしたのは、この本との出会いがありました。話がそれてしまいました。この本に載せられた尊光寺文書を見ていくことにします。

尊光寺記録(安政3年)


尊光寺文書の最初に綴じられている文書です。幕末ペリーがやってきた安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出した『尊光寺記録』の控えのようです。最初に伽藍の建物群が記されています。

①一 境内 東西30間 南北18間 

②一 表門(但し袖門付)  東西二間 南北1間 瓦葺き

③一(南向き)長屋門 東西5間 南北2間 

④一(東向き)本堂  東西5間  南北5間

①境内は「山開」とあります。山を切り崩して整備造成したということでしょうか?
③長屋門は(南向き)と小さく補筆してあります。篠葺きの長屋門が幕末にはあったことが分かります。

④本堂は今は南向きですが、当時は東向きだったようです。


以下は次のように記します。

⑤本尊 阿弥陀仏 木像御立像 春日策  長さ一尺4寸(42㎝?) 本山免許

⑥祖師 親鸞聖人 画御坐像 同(本山免許)一幅 

⑦七高僧          同(本山免許)一幅
⑧聖徳太子         同(本山免許)一幅

⑤の本尊は後で見ることにして、⑥⑦⑧を見ておきましょう。

尊光寺親鸞図
⑥の祖師 親鸞聖人 画御坐像(尊光寺)

尊光寺七高僧図
⑦七高僧図と⑧聖徳太子図

「本山免許一幅」とあります。これらの絵図は、すべて本山の西本願寺の工房で作られた物で、中本山の安楽寺を通じて下付されたもののようです。京都土産に買ってきた物ではないようです。

伽藍・本尊などの後に来るのが住職一覧です。

尊光寺開基少将
尊光寺開基 少将について

最初に「一向宗京都興正寺派末寺 長寿山円智院 尊光寺」とあります。そして「開基 少将」とあります。少将とは何者なのでしょうか? 
ここに書かれていることを確認しておきます。

尊光寺開基2
尊光寺の開基少将について

①開基者は少将 一向一揆の指導者などに良く登場する人物名 架空人物 

②開基年代は、明応年間(1492年から1501年)蓮如が亡くなっているのが(1499年5月14日)85歳です。

③創建場所は 最初は炭所種の久保です。久保は「窪み」の意味で、種子神社の近くで、その神宮寺的な寺院があったところで、そこが念仏道場として最初は使われていたのかもしれません。


④それが享保年間(1716年から1736年)に現在地の雀屋敷に移転します。檀家も増加して、新しく寺地を設けて伽藍を建立することになり、現在地に山を開いて新しい伽藍を作ったようです。8代住職亮賢のときのことになりますが、記録は一切残っていません。少将のあとの住職について、尊光寺文書はにはどのようにかかれているのか見ておきましょう。


尊光寺少将以後
開基・少将以後の住職について


少将以後百年間は、住職不明と記します。藩への報告には、住職の就任・隠居の年月日を記入する項目があったようです。それは「相い知れ申さず」と記します。そして百年後の16世紀末に登場するのが中興開祖の玄正(げんしょう)です。この人物について、尊光寺記録は次のように記します。

尊光寺中興開基玄正


内容を整理すると次のようになります。

尊光寺中興開基玄正2

①長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。

②しかし、玄正については、名前だけで在任期間や業績などについては、何も触れていません。実態がないところが気になるところです。

③推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。そうだとすれば実質的に尊光寺を開いたのは、この人物になります。そして秀吉の時代には、長炭の各地域に点在する各道場をまとめる惣道場的な役割を尊光寺が果たすようになっていたことがうかがえます。尊光寺史は、以後の住職を次のように記します。


尊光寺歴代住職
尊光寺歴代住職名(3代以後)

三代 明玄実子 理浄 右は住職井びに隠居申しつけられる候年号月日は相知れずもうされず候。元和5(1619)年3月病死仕り候 
四代 理浄実子「法名相知れもうされず。 


ここに記されているのは「住職任期は分からない」で、業績などは何も書かれていません。以後の歴代住職についても同じ内容です。歴代住職の在任時期や業績をまとめたものは、幕末の尊光寺には伝わっていなかったようです。
以上、尊光寺史に書かれた創建に関する史料を中心に、今回は見ました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史
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  前回に蓮如は、礼拝物を統一して次のような形で門末寺や道場へ下付したことを見ました。
①名号や絵像を「本尊」
②開山絵像(親鸞)を「御影」
③蓮如や門主の影像を「真影」
  このような礼拝物の下付を通じて、蓮如は末寺や道場の間に、次のような教えを広げていきます。
①仏前勤行に「正信偈」を読むことで、七高僧の教えを門末に教え
②御文によって親鸞と門末を結び
③礼拝物の規格を統一して作成・下付し、本山との結びつきを強め
④礼拝物の修繕を本山で行うことで、本末関係を永続化させる。
以上の一連の流れで、門末を統制することに成功したと研究者は考えているようです。
 慶長6年(1603)、本願寺の東西分裂を契機に木仏下付が始まります。
東西分裂を契機に、東と西の本願寺は激しい勢力拡張運動を展開して、しのぎを削るようになります。翌年になると西本願寺は、勢力維持のために地方の念仏道場に寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。こうして、慶長7年から寛永19年までの約40年間に、183カ所の道場に木仏が下付されます。ここで注意しておきたいのは、寺号と木仏下付がセットになっていると云うことです。また、下付された木仏が損傷した時や、寺格が昇進した時には、再度下付しています。
それでは尊光寺にはどのようなものが下付されたのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
尊光寺の安政3年(1856)の書上帳には、本尊阿弥陀仏について次のように記されています。


尊光寺記録(安政3年)
尊光寺の境内・表門・本堂に続いて本尊阿弥陀仏とあり、本山免許と記されている。
本尊阿弥陀仏
木仏御立像 春日作
 長一尺四寸(42、2㎝)
  本山免許
記録によると尊光寺には、本山から2回木仏が下付されています。
興正寺年表には、次の記録があります。

慶長19年(1614)8月17日(興正寺直末)興正寺下鵜足郡尊光寺賢正に木仏を授ける((木仏の留)

 ということは、尊光寺はこの時までは正式の寺号はなかった、認められていなかったということになります。
以前に尊光寺の開基者玄正について、次のようにお話ししました
①尊光寺開基は、実際には中興開基とされている玄正(長尾城主の息子・孫七郎)であること
②それは長尾氏滅亡後の1580年以後のことであること
③玄正が長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物だったこと。
それが1614年に木仏が興正寺より下付され、正式の寺号が認められたことになります。木仏は直接に京都の興正寺から運ばれてきたのではないはずです。興正寺と尊光寺の間には、中本山としての阿波郡里の安楽寺があります。礼拝物の下付は、中本山を経由するのがしきたりでした。当然、尊光寺の木仏も一旦は郡里の安楽寺に運び込まれ、そこから人が担いで阿讃の峠を超えてまんのう町に下りてきたと私は考えています。安楽寺との本末関係とは、そういうもふくまれるのです。
尊光寺への2回目の木仏下付は、宝暦7年(1757)6月15日です。
この時は第九代住職賢随が願い出て「木仏尊像」を下付されています。最初に下付されてから約150年の年月が経って、その間に本尊の痛みがひどくなったので、再下付を願い出たのでしょう。
現在の御本尊は、この二回目に下付されたものです。本山から与えられた御免書はなくなって、今は御免書を入れてあった封書だけが残っているようです。その封筒の表面に次のような文書が書かれています。
釈法如(花押)
賓暦七(1757)丁丑年六月十五日
興正寺門徒安楽寺下
木仏尊像 讃岐国鵜足郡
炭所東村 尊光寺仏
 願主 釈賢随

これは単なる表書でなく、中に入れられていた文書そのもので、掛け軸の御絵像の御裏書にあたるものだと研究者は指摘します。これによって、この本仏尊像が本山から尊光寺へ下付されたものであることを証明できます。本山興正寺は、中堅寺院に成長してきた尊光寺に、免許書を添えて木仏を再下付したと研究者は考えています。
   それでは免許状は、どこにいったのでしょうか?
興正寺の悲願であった西本願寺からの別派独立は、江戸時代には認められることはありませんでした。それは明治9年(1876)9月15日になってからでした。教務省は「教義上明確な差異のない限り独立を認めない」という方針でした。そのため興正寺としては、西本願寺と異なることを示す必要がありました。その一つが、各末寺へ西本願寺から下付されていた御本尊や御絵像を「回収」して、興正寺が新たに下付するという方法です。これは資金難の興正寺の財政救済という目的もあったようです。しかし、これをそのまま行えば、地方の末寺にとっては本尊を本寺興正寺に「回収」され、新しい本尊を迎え入れなければならないことになります。これをすんなりと受けいれることは出来なかったはずです。
 それではどんな手法がとられたのでしょうか。尊光寺の場合を見てみましょう。
①本尊阿弥陀如来立像の本願寺本山からの御免書を「回収(没収)」する。
②しかし尊光寺の財政事情を考慮して、本尊を今まで通り安置することを許可する。
つまり、本願寺から出されていた免許状は没収するが、本尊はそのまま残す。そして御免書の文面を、そのまま御免書の封筒に書き写して残すということです。そのためその封筒が尊光寺に残っていると研究者は推測します。木仏本尊の免許書は全国的にも珍しいもので、もし残っていれば貴重なものなのにと、専門家は残念がります。

尊光寺本尊 本寺からの下付
尊光寺の本尊(18世紀に下付された木仏:阿弥陀仏)
尊光寺の木仏本尊を、研究者は次のように評します。
御本尊は、檜を用いた寄木造りで、像高は42,4㎝。尊光寺の安政三年(1856)の書上帳の記録と一致する。小振りな御尊像は、 一木造りであるかのように頑丈に見受けられる。内陣中央の須弥壇の上の、宮殿の中の蓮の台座の上に安置されているお顔は、瑞々しく張りがある。慈悲の眼差しは、彫眼であるので伏せられているが、美しい目もとは軽く結ばれている。納衣は、両肩を覆う通肩で、その上に袈裟をつけ、上品下生の印を結ばれている。
尊光寺本尊2
尊光寺本尊 阿弥陀如来頭部
 全体に、「安阿弥陀様」と呼ばれる鎌倉時代の仏師快慶作の阿弥陀立像に似せて作られたように考えられる。春日作りとあるのは、鎌倉の仏師集団によって作られた意味であろう。
尊光寺本尊の最も明瞭な特徴は、その頭部の髪型である。
一般に如来の頭髪は、螺髪と呼ばれる小さくカールした巻毛の粒を、別に一個ずつ作って頭に植えつけたり、また頭部の材と共木に刻み出して、頭髪を現わす。尊光寺の御本尊の頭髪は、髪を束ねたものを縄状に巻きつけ、それに刻み目を入れて頭髪を現わしている。
このような頭髪スタイルは、京都の嵯峨の清涼寺の御本尊である釈迦如来像がモデルになっているようです。

釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま | 京都トリビア × Trivia in Kyoto
清涼寺の釈迦如来像

清涼寺の釈迦如来像を持ち帰ったのは、永観元年(983)に宋に渡った東大寺の僧套然です。彼は五台山で修行し、2年後に帰国するときに、宋の宮中で礼拝したインド伝来の釈迦如来像を模刻して日本へ持ち帰ります。一旦、大宰府の蓮台寺に安置されますが、彼の死後に弟子成算が、京都嵯峨に清涼寺を創建し、ここにまつることを朝廷に願い出て許可され、今に至っているようです。
尊光寺本尊のモデル 清涼寺釈迦如来
清涼寺式釈迦如来(奈良国立博物館 重文)
 清涼寺の釈迦像は、その後盛んにコピーされて、仏像の中で「最も多く模刻された釈迦像」ともいわれるようです。その中には、国の重要文化財に指定されているものもあります。
尊光寺本尊3
尊光寺本尊(阿弥陀如来)
尊光寺の釈迦像もこのような流れの中で、京都で作成された阿弥陀様が尊光寺に下付されたようです。 私が疑問に思うのは、それでは最初に下付された木仏はどこにいったのかということです。尊光寺にはないようです。考えられるのは二回目の下付の時に、入れ替わりに本山に返されたということでしょうか。よく分かりません。

尊光寺本尊4
尊光寺本尊
尊光寺の本尊のやって来た道が、江戸時代の真宗の本寺と末寺をたどることにもなるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史

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 図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会いました。手にとって見ると寺に伝わる資料を編纂・解説し出版されたもので読み応えがありました。この本からは、真宗興正寺派がまんのう町へどのように教線を拡大していったのかが垣間見えてきます。尊光寺が真宗を受けいれた戦国時代末期の情勢と、長尾城主の長尾氏の動きを見ておきましょう。

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まんのう町種子のバス停から見える尊光寺

  長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。
そのためか讃岐の大名となった生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入ります。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだのです。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
 まんのう町での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬市郡里の安楽寺です。
この寺は興正寺の末寺で、真宗の四国布教センターの役割を担うことになります。カトリックの神学校がそうであったように、教学ばかりか教育・医学・農業・土木技術等の研修センターとして信仰的情熱に燃える若き僧侶達を育てます。そして、戦国時代になると彼らが阿讃の峠を越えて、まんのうの山里に布教活動に入ってきます。山沿いの集落から信者を増やし、次第に丸亀平野へと真宗興正寺派のお寺が増えます。

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尊光寺
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍が整のっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、今から見ればちっぽけな掘建て小屋のようなものです。そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えます。農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていきます。この点が他の宗派との大きな違いなのです。ですから、山の中であろうと道場はわずかな場所で充分でした。
 縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行します。正信偈を唱え御文書をいただき、安楽寺からやってきた僧侶の法話を聞きます。そして、非時を食し、耕作談義に夜を更かすのが習いでした。
 やがて長尾氏のような名主層が門徒になると安楽寺から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間にしました。それがお寺になっていた場合もあります。
  尊光寺も長尾氏出身の僧侶で、この寺の中興の祖と言われる玄正の時に総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になります。安楽寺の支配に属する寺は、江戸時代には、讃岐50、阿波21、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し四国最大の真宗寺院に発展します。讃岐の末寺の多くは中讃に集中しています。中讃に真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、安楽寺の布教活動の成果なのです。

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尊光寺から見える種子集落と阿讃山脈
 本寺末寺関係にあった寺院は、江戸時代には阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行ます。また、讃岐布教の最前線となった讃岐側の山懐には、勝浦の長善寺や財田の宝光寺などの大きな伽藍を誇る寺院が姿を見せます。
 さらに、お寺の由緒に
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
と伝わるのは、布教の流れが「山から里へ」であったことを物語っています。このため中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は山に近い所に多いようです。
  最後に確認したいことは、この布教活動という文化活動は、瀬戸内海を通じて海からもたらされた物ではないということです。流行・文化は、海側の町からやって来るという現在の既成概念からは捉えられない動きです。 もう一度、阿讃の峠を通じたまんのう町と阿波の交流の実態を見直す必要があることを感じさせてくれました。

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尊光寺史
図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会った。手にとって見ると寺から新たに発見された資料を、丁寧に読み解説もつけて檀家の支援を受けて出版されたものである。この本からは、真宗興正寺派の讃岐の山里への布教の様が垣間見えてくる。早速、本を借り出し尊光寺詣でに行ってみた。

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やって来たのはまんのう町炭所東(すみしょ)の種子(たね)集落。バス停の棚田の上に尊光寺はあった。
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石垣の上に漆喰の塀を載せてまるで城塞のように周囲を睥睨する雰囲気。
「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」
いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。
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この寺の由緒を「尊光寺史」は
「 明応年間 少将と申す僧  炭所東村種子(たね)免の内、久保へ開基」
という資料から建立を戦国時代の15世紀末として、建立の際の「檀那」は誰かを探る。
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①第一候補は炭所東の大谷氏?

開発系領主の国侍で大谷川沿いの小城を拠点に、西長尾城主の中印源少将を助けた。伊予攻めの際に伊予の三島神社の分霊を持ち帰り三島神社を建立もしている。後に、大谷氏は 敗れて野に下り、新たに長尾城主となった長尾氏への潜在勢力として、念仏宗をまとめてこの地区で勢力温存をはかる。
 つまり真宗興正寺派の指導者となることで、勢力の温存を図ったということらしい。

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 ②第2候補は平田氏

 平田氏は、畿内からやってきて、広袖を拠点に平山や片岡南に土着した長百姓であり、金剛院に一族の墓が残っている。

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最初は建物もない念仏道場(坊)からスタートしたであろう

名主層が門徒になると本山から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間とする。縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行。正信偈を唱え御文書をいただき法話を聞く。非時を食し、耕作談義に夜を更かす。この家を内道場、家道場と呼び、有髪の指導者を毛坊主と呼んだという。

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中讃での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬町の安楽寺である。

真宗興正寺は瀬戸内海布教拡大の一環として、四国布教の拠点を吉野川を遡った美馬町郡里に設ける。それが安楽寺である。当時の教育医学神学等の文化センター兼農業・土木技術研修でもあった安楽寺で「教育」を受けた信仰的情熱に燃える僧侶達が阿讃の山を越えて、琴南・仲南・財田・満濃等の讃岐の山里に布教活動に入って来る。

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安楽寺からのオルグを受けて名主や土侍たちが帰依していく。

中讃の農村部には真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、このようなかつての安楽寺の布教活動の成果なのだ。讃岐の真宗の伝播のひとつは、興正寺から安楽寺を経て広がっていったといえる。
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 その布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように話す。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、むしろ道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。
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 中央での信長の天下布武に呼応して、四国統一をめざす長宗我部元親の動きが開始される。1579年に始まる元親の讃岐侵入と5年後の讃岐平定。そのリアクションとしての秀吉軍の侵攻と元親の降伏。この激動は、中讃の地に大きな怒濤として押し寄せ、在来の勢力を押し流してしまう。

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 在地勢力の長尾城主であった長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働いた。そのためか生駒氏等の讃岐の大名となった諸氏から干される結果となる。長尾一族が一名も登用されていない
 このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入る。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを示す。
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 長尾氏出身の僧侶で尊光寺中興の祖と言われる玄正により総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になる。阿波国美馬の安楽寺を中本山に昇格させ阿讃の末寺統制体制が確立したと言える。このため中讃の興正寺派の寺院は、阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行っていた。
 尊光寺が安楽寺より離脱して、興正寺に直属するのは江戸時代中期の1777年になってのことである。

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「尊光寺史」は、浄土真宗の讃岐での教線拡大のありさまを垣間見せてくれる。

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