瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:小島峠

 祖谷紀行 表紙

 寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。前回は、高松の由佐発して、次のようなコースで一宇の西(最)福寺までやってきたのを見ました。今回は、3日目の一宇から小島峠を越えて、東祖谷山の久保までの行程を見ていくことにします。これまでの行程を振り返っておきます。
4月25日 
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 →西福寺
祖谷紀行 小島峠へ1
祖谷紀行 西福寺を出発し、小島峠へ
意訳変換しておくと
 4月27日、昨日に案内を頼んだ「辺路」が、早朝に西福寺まで迎えに来てくれた。住持へ厚意を謝して、辰の刻(午前八時)には出立した。谷川を渡って行くと、一里ほどで大きな橡の木が現れた。幹周りが三抱えもあって、枝葉が良く茂っている。この辺りでは「志ほて」と呼ばれる草があって、蕨に似て美しい。その味は、淡いという。
祖谷紀行 小島峠へ2

ひらの木や草杉苔などが多く茂る。橡の巨樹の木陰で休息し、その後は、葛籠折れの羊腸のような山道を捩り登り、をしま(小島)峠に着いた。
小島峠が一宇と祖谷との境である。ここで今までの道を振り返って見ると、讃岐の由佐から相栗峠までは、地勢は南が低く、川は北に流れる。一方、相栗から芳(吉)野川にまでは、川は南に流れる。これは、阿讃山脈が阿波と讃岐の界を分けるためである。吉野川から一宇までは、地勢はますます高くなり、川は北に流れる。そのため、この峠はことさらに高く険しい。これは一宇と祖谷の分岐点界となっているためだ。
東祖谷山地図2
一宇から小島(おじま)峠
①小島峠への道は、西福寺から谷川沿いの道を辿っている。
②道沿いには橡などの巨樹が茂っていた。
現在の小島峠へのルートは、貞光から国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号を車で行くのが一般的です。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2
旧小島峠のお地蔵さん

旧小島峠には、
天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれます。ここには氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。ということは、一行がこの小島峠を訪れた時には、この地蔵はあったはずなのですが、何も触れられていません。作者の興味は、詩作やその題材となる樹木・山野草に、より強く向けられていたようです。
剣・丸笹・見ノ越
剣山と丸笹山と鞍部の見ノ越(祖谷山絵巻)

小島峠から見える剣山を、「祖谷紀行」は次のように記します。
剣山は、昔は立石山と呼ばれていたが、安徳天皇の御剣を納めたことから、剣の峯と呼ばれるようになったという。美馬郡記には「この山上に剣権現の御鎮座あり、又小篠権現とも云う。谷より高さ三十間計、四角なる柱のごとき巖(神石)が立つ。これを神体とするが、その前に社はない。ここにに剣を納めたが、風雨にも錆ない、神宝の霊剣である。六月七日多くの人々が参詣する。木屋平村よりの道があり、多くの人は、木屋平ルートで参詣し、夜になって帰る」

大剣石 祖谷山絵図
剣の峰と大剣神社(祖谷絵巻)
 天皇の御剣を納めた所は、ミツエという所で、剣の峯ではないという説もある。ミツエは久保の南三里ばかりの所で、その上に、長い戟のような石がある。時に白く、時に黒くなるので、住民はこの石の色で、雨が降るか降らないかを占うという。
モシホ坂・菅生・塔の丸から 
小島峠からのぞむ菅生・久保方面(祖谷山絵図) 

小島峠から東祖谷の菅生への下り道について、次のように記します。
 小島峠で昼食をとり、しばらく休んでから坂を下ると岩休場という所に至る。①ここには二抱えもある楓樹がある。これほどの巨樹は珍しい。半田の山には、七抱えもある「かハけ」の巨樹があるという。いよいよ深山幽谷に入ってきた思いを深くする。
 西湖が云うには、祖谷の西の栗か峯とい所で商人が休んでいると、空からほろほろと降ってくるものがある。衣についたのを見ると血である。空は、晴れて何も見えない。しかし、次のような声が聞こえてきた。「それ追かけよ、土佐のいらす(不入)山へ赴たり」 これは今より三、四年前のことである。これは②天狗たちの相戦う姿だと、人々は噂したという。
 この辺りには③升麻(しょうま)・独活(うど)が多く生えている。ウドは長さ二尺余、これを折れば匂ひが辺りに漂う。柳茸の大きなものもある。士穀とって懐に入れた。
 峠を下り、谷川を渡ると、老翁が蓑笠を着て、岩に腰掛けて④魚を釣る姿が見えた。それは中国の渭水で釣をする雙のように思え、一幅の絵を見るようであった。この釣翁にかわりて「南山節々鳥刷々、青簡空差白髪年、誰識渭濱垂釣者、不語三暑六朝篇」と詠った。
 一の小坂を上ると、地がなだらかになり人家五・六軒が見えて来た。この中に、菅生四郎兵衛の家がある。そのさまは雌雄の南八蔵と同じように、祖谷八士の一人という。 
ここからは以上のことがうかがえます。
①旧一宇村は「巨樹」が多いことで有名。この時期から大きな木が切らずに残されていたこと
②天狗が空中で争うことがエピソードとして語られている。「天狗=修験者」で、修験者たちの活発な動きがうかがえる。
③草木や薬草などや④釣りなどの知識が深い。中国の漢詩などの素養もある。
④菅生には、祖谷八士の菅生四郎兵衛の家があった。
 

祖谷
「菅生の滝」は、現在の「に虹の滝」
そこから百歩程行くと谷川があり、川を右に見て山の半腹を半里いく。さらに谷を下り、山を越え、谷川を渡れば、 一の瀑布が現れる。千筋の白糸が空から連なり流れ下るかのように見える。先に見た鳴瀧に比べれれば、児孫程度だが、郷里讃岐の小蓑瀧に比べれば父母のようである。この滝の名を聞くと、名はないという。山深中で、誰に聞けというのか。
 とや白糸の瀧の波音打志らふらん、
と一首詠んで、白糸の瀧の名と仮にしておく。
   菊地武矩が「白糸の瀧」と詠んだ瀧は、斜めに日がさしこむと、みごとな虹が一面にかかります。そのため「虹の瀧」と呼ばれるようになって、今は公園になっています。

祖谷の虹の谷公園
祖谷菅生の虹の谷公園
祖谷山 虹の滝
虹の滝の説明版
ここから小坂を下って、山のほらをめぐりめぐって、黄昏に久保という所に着いた。
雌雄より久保までは約五里。久保には、久保二十郎盛延という祖谷八士の一人がいる。私は西湖に託して大和うた(短歌)を久保氏に送った。久保氏は門脇宰相平國盛の子孫で、敷島の道にさとく、巧みであると聞ている。そこで、私の今の気持ちを歌に託して詠み送った。
雲の上にありし昔の月かけを 世々にうつせるわかの浦波、
志き島の道を通ハん友千島いや山川の霧へたつとも、
南天千嶺合、望断白雲中、借間秦時客、柳花幾責紅一
かえし
歌のやりとり末に、久保氏の家に泊まることになります。そこで、祖谷の平家伝説が語られることになります。それは、また次回に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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            東祖谷の峠一覧
旧東祖谷村の峠一覧
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」 阿波学会紀要 第53号より引用
前回は中世の祖谷地方の峠と交通路を、次のようにまとめました。
①南北朝時代には祖谷地方の峠を越えてつながる山岳道が割拠する「山岳武士」たちを結んでいたこと、
②そして、南朝吉野側の情報・指令を伝えたのが熊野行者に代表される修験者や聖達であったこと
③このような山岳道と道路・通信網があったからこそ、紀伊・阿波・伊予の南朝方は半世紀にわたる抵抗活動がおこなえたこと
こうして、中世の峠や交通路は近世にも引き継がれて行くことになります。今回は近世の祖谷の峠と交通路を最初に見ていきたいと思います。そして、それが近代に道路整備が行われることによって、どう変化したかを押さえたいと思います。テキストは「福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷」です。

東祖谷の峠とお堂2

 私には祖谷地方は、剣山西北方面の山脈に囲まれたすりばちのように見えます。ここに入っていくには、どこかで摺鉢のふちを越えるために峠を越えなければなりません。祖谷地方に入るための峠を見ておきましょう。まずは落合峠からです。

2018.8.14 落合峠から落禿と前烏帽子 * 徳島県三好市東祖谷 - Do you climb?
落 合 峠(1520m) 
   三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合
安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。

 「加茂山三庄と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。

  昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っています。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換したようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
  阿波西部の三好郡は、古くから讃岐から運び込まれる塩を使っていました。
塩の踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。ここでは、讃岐の塩の道を次のように。押さえておきます。

丸亀・坂出の塩田 → 塩入(まんのう町) → 東山峠・ → 昼間 → 貞光・辻の塩問屋史→ 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム尻) → 落合峠 → 名頃

   落合峠地蔵
落合峠の地蔵尊(大歩危橋東詰めの墓地に移転
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰  阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7は、落合峠の石造物のことについて次のように記します。

深渕,桟敷峠を経て加茂に通じる落合峠は,落合集落から峠までの道に,地蔵尊4基,大師像と不動明王各1基の石造物があった。現在3基の地蔵尊が残っているが,大歩危橋東詰めの墓地に移転された「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊(図2)は,「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれている。これは道標を兼ねたもので,200年前は落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことを示す貴重な資料である。峠道は県道開通によって廃道となり,石造物も半数が移転された。

  ここでは落合峠が「里谷峠」と呼ばれていて、祖谷への「塩の道」であったことを押さえておきます。

風呂塔-石堂山 稜線歩き
風呂塔から石堂山は、修験者の行道でもあった
私が気になるのは、桟敷峠から落合峠に至るルートの東の山々です
ここには修験者の霊山とされた石堂山があります。そして、多くの信者達が「聖地巡礼」をおこなっていた山であることは、以前にお話ししました。落合峠越えのルートは、修験者が行道に使っていた「風呂塔~石堂山」の行道ルートと併行して伸びています。この両者は、何らかの関係があったのではないかと思えてきます。熊野行者が熊野参拝のために、山岳連絡道を大切に守ってきたことは知られています。そして修験者たちも祖谷と周辺をつなぐ峠道を管理・保護する役割を果たしていたのではないかという「仮説」が湧いてきます。

次に井川町からの水口峠です。
水の口峠地図
井川から水の口峠へのルート
桟敷峠の西の「水ノロ峠」は、西祖谷の「小祖谷」の人々が利用した道筋でした。
辻 → 井内 → 地福寺 → 水ノ口峠(1116m) → 小祖谷 → 寒峰峠 → 東祖谷大枝

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍を負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

  小祖谷というのは、聞き慣れない地名ですが、松尾ダムの下流になるエリアです。小祖谷に運び込まれた塩は、ここで仕分けされて祖谷各地に運ばれました。「東祖谷にいも1升と弁当で、煙草をと取りに行った(輸送した)」と話していますので、小祖谷は物資の集積拠点の機能を果たしていたことが分かります。

四国百名山 阿波の石堂山に山伏たちの痕跡を探す : 瀬戸の島から
地福寺

 井内の地福寺から水の口峠には2つの道がありました。
一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていくルートです。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、このルートを通じて交流があったようです。
 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、讃岐からの米や塩が運び込まれたり、祖谷の煙草の搬出路として重要な道で、多くの人々が行き来したようです。この峠のすぐ下には豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)までは、凍り豆腐の製造場があったようで、知行の老人は次のように懐古しています。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」

水の口峠 新聞記事jpg


 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。

寒峰峠.2JPG
寒峰峠から大枝・奥の井へ(「阿波の峠歩きより」)
水の口峠からは、寒峰(かんぽう)峠を経て東祖谷の大枝への道もありました。 
平国盛の後裔と云う阿佐名の阿佐家系図には、元暦2年に讃岐屋島の壇ノ浦の闘いで敗れた後に、次のように記します。

「井川の庄から水ノロ峠を城え寒峰の嶮を打越えて大枝の窟で越年した」

ここからは、「井川 → 水ノ口峠 → 寒峰(かんぽう) → 大枝」というルートが古くから使われていたことがうかがえます。

     寒峰峠(1495m)は、寒峰の南西約400mにある峠です。
『峠の石造民俗』には、昔は大師堂が建っていたとありますが、今はありません。草付きの広場と囲炉裏の石組二基が残っているだけです。水の口峠とこの峠が井川町の辻と東祖谷山村の大枝を結んでいました。そして、栃ノ瀬を経て土佐へと抜ける交通路でした。
大師堂にあった手水鉢が、お堂を管理していた奥の井の谷家に残っています。楕円の青石製で、正面に「奉水」と刻まれ、辻や大枝の地名が刻まれているので、この街道の出発地と終点の有力者達が寄進したものでしょう。険しい峠道を往来した人々が、手水鉢で手を浄め、旅の無事を析っていた姿が見えて来ます。

まーくつうの登山アルバム 寒峰 登山
福寿草の里 寒峰
 峠から寒峰頂上へは、わずかの距離です。ミヤマクマザサにおおわれた寒峰の山頂からは、剣山、三嶺、天狗塚、牛の背、矢筈山等の360度の大パノラマが楽しめます。今は福寿草の里として、登山者に大人気の山となり、花と展望と伝説に人気コースとなっています。

東祖谷の東北方面には、見の越(1,403m)と小島(おじま)峠(1,380m)があります。

剣・丸笹・見ノ越
見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

「見の越」は、近世に剣山参拝拠点として修験者たちによって開かれたことは以前にお話ししました。現在では、登山ケーブルがあり、剣山登山の表玄関になっています。ここを東に越えると麻植郡木屋平に出ます。見ノ越は、もっとも古く開かれた峠で、古くから多くの人々に使われていたと研究者は考えています。ちなみに、見ノ越に円福寺が開かれ、剣への参拝拠点になるのは近世後半になってからです。

剣山(1955m) ・見ノ越駐車場より | Bodhisvaha
剣山見ノ越の円福寺

小島峠
小島峠(「阿波の峠歩きより」)

小島峠を利用したのは菅生・名頃の人々たちでした。
落合よりも東の人々は、小島峠で半田・貞光地方と結ばれていました。菅生から池田へは約60㎞ですが、貞光へは28㎞で、距離的に半分以下の上に、峠が低くて雪も少ないようです。そのため日常的に児島峠が使われたようです。

文政八年に祖谷に人った阿波藩士太田章三郎信上の『祖谷山日記』には、次のように記します。
「小島峠にいたる。 一宇山といえる所のさかひ也。」

ここからは、この峠が近世には祖谷に入る主要路であったことがうかがえます。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」にも、「郡里・吉野川を渡つて、一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」の道順で廻ったことが記されています。祖谷へは、小島峠が使われています。

この峠に行くには、貞光より国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号をひたすら登っていきます。
黒笠山が見えてくるようになると、現在の小島峠に着きます。この峠は1981年に県道菅生伊良原線の開通で出来た「新」小島峠です。ここにも地蔵尊が祭られていますが、その裏の山道を西へ登って行くと、20分ほどで旧峠に着きます。ここにも小さなお堂があります。中には天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれ,氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。円福寺は、先ほど見た見ノ越の剣参拝登山をになっていた修験者の寺でもありました。峠の管理などに、修験者の姿が見え隠れします。
小島峠の地蔵
旧小島峠の地蔵尊
 研究者がもうひとつ注目するのは、地蔵尊は右手に錫杖を持つ姿が普通です。しかし、この像は右手に大師が持つ五鈷杵を握っていることです。珍しい地蔵尊です。この地蔵尊にはお参りに来る人があるようで、お酒やお菓子、花などが供えられています。
 お堂横のスギの古本は、風格があります。この峠を行き交った人達を見守っていたのかもしれません。静かに耳を傾ければ、いろいろな話をしてくれそうな気にもなります。
   お堂の前には広場になっていています。峠に着いた人々が腰を下し、ひと息入れた場所だったのでしょう。お堂の脇から、黒笠山への縦走路が伸びています。峠から黒笠山山頂まで4時間ほどです。かつては、修験者の霊山であった石堂山をめぐる修験者の行道ルートであったことは以前にお話ししました。
 新小島峠が開通した時に、コンクリートの新しいお堂と造ったそうです。そして、旧峠のお地蔵さんを下す予定でした。ところが旧峠のお地蔵さんが、新しい峠に下りにるのはどうしても嫌だと言うので、話し合った結果、新しい地蔵尊を下に造ることになったようです。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2

 新小島峠では、毎年6月第4日曜日に、 一宇、東祖谷両村の地元の人々により、地蔵祭りが行われ柴灯護摩が焚かれます。いつもは訪れる人の少ない峠が、大勢の人で賑い、カラオケと歌声が響き、手作りの料理が振舞われ、新・旧のお地蔵さんの前にも沢山のお供物がまつられます。
 
祖谷街道 開通後 百年。1920年(大正9年)開通 - 趣深山のJimdoページ
祖谷街道
東祖谷山に「輸送革命」をもたらしたのが、大正9(1920)年に完成した祖谷街道でした。

約百年前のことになります。祖谷川の「白地の渡し」から久保までの51kmを巾3mの「大道」が完成したのです。これが祖谷川沿いに村内を東西に走る幹線道路の役割を果たすようになります。バスとトラックが輸送の主役になり、輸送量も増えます。そして、峠道を越える人やモノは激減します。人ともモノの動きが一変したのです。これは大正3年の徳島ー池田間の鉄道開通や、大正9年の讃岐土佐間を往復する自動車の新設とリンクして、祖谷に「輸送革命」をもたらしたのです。
 この道路建設は、祖谷川沿いの電源開発計画を呼び込む起爆剤ともなります。若林には大正9(1920)年7月発電所建設が始まります。そして、大正12年から380kWの電力が讃岐に向けて送電されるようになります。大正14年には、下瀬に煙草収納所が設けられ、煙草栽培が広がり、農村の換金作物となり「貨幣流通市場」の中に入っていきますた。
明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。

徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。

これが祖谷街道が伸びてくると、大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞もその日の午後には読めるようになります。
 昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。

明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。
これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
 祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
これとともに祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります
 戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると、
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫
祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は「脇町」中心の美宮郡から、三好郡の池田へと比重を移し、昭和25年1月1日をもって、美馬郡から三好郡へと編入するのです。そして、平成の合併では三好市の一部となりました。
ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
阿波の峠歩き : ふるさとの峠50選
参考文献
  福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷
徳島民俗学会 民俗班 橘 禎男・坂本 憲一「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」    阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
阿波の峠を歩く会 阿波の峠歩き 平成13年
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                   東祖谷の峠とお堂2
阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」より引用 
旧東祖谷村の峠
阿波の剣山西方に拡がる祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきました。今回は中世の祖谷地方が、どんなルートで外界とつながっていたか見ていこうと思います。それは、熊野修験者たちの活動ルートとおもわれるからです。

Yahoo!オークション - 鴨c113 東祖谷山村誌 昭和53年 徳島県 新芳社
テキストは「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」です。

阿波の剣山の東南に拡がる祖谷地方には、平家の落人伝説が残っています。まずは、源平の屋島合戦に敗れた平國盛は、どんなルートを使って祖谷渓に落ちのびたかを見ていくことにします。
平家伝説 | 祖谷の温泉|いやしの温泉郷
平国盛は清盛の甥にあたる
手東愛次郎は「阿波史」で、次のように記します。

寿永二年讃州八島(屋島)の軍破れしかば門脇宰相平國盛兵百人計り語ひて(安徳))皇を供奉す、同國志度の浦に走り遂に大内郡水主村に移り、数日あって阿州大山を打越え十二月晦日祖谷の谷に到り大枝の荘巖の内にて越年し云々。

意訳変換しておくと
寿永二(1183)年讃岐屋島の壇ノ浦の戦いで敗れた平氏の門脇宰相平國盛は兵百人ばかりで(安徳)天皇を供奉し、志度浦に逃れ、そこから大内郡水主村に移り、数日後には大坂峠を越えて、阿波に入り、12月晦日に祖谷に到り、大枝で越年した。

「阿州大山(大坂峠)を打越え 十二月晦日祖谷の谷に到り」とあります。古代の南海道は、阿波と讃岐を往復するのには大坂越が使われていました。阿波に上陸した源義経も、屋島侵攻時には、この峠を越えています。
 「平國盛兵百人計り語ひて(安徳)天皇を供奉」
とありますが兵百人が軍団姿のままで落ちのびたとは思えません。東讃は、すでに義経配下に入った武士団の支配下です。「勧進帳」に描かれた弁慶・義経一行のように修験者姿にでも変装しておちのびたのかもしれません。平國盛は阿波に入ると、吉野川を東に遡ります。

水の口峠 新聞記事jpg
井ノ内ー水の口峠の祖谷古道の復活記事
研究者は、以下のような祖谷への4つのルートを挙げます。
①三好郡井川町辻から、井ノ内谷を南に越え、水の口峠を経て、寒峰を横切って東祖谷山大枝へ
②吉野川上流の三名方面から、国見山を経て後山へ
③池田から漆川(しつかわ)を経て、中津山を越えて田ノ内へ
④三好郡三加茂から桟敷峠を越えて、深渕・落合峠を越えて落合へ
これらが当時の吉野川方流域からの祖谷地方への交通路と考えられます。④の落合峠越は後世の人々が、生活必需品として讃岐の塩と山の物産を交換した「塩の道」であったことは以前にお話ししました。

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文化十二(1815)年の「阿波志」は、「祖谷に到る経路几そ五」と祖谷への5つのルートを挙げています。
①小島(おじま)峠
②水ノ口峠
③栗ヶ峰経由
④榎の渡しから吉野川を横切って下名に出るもの
⑤有瀬(あるせ)から土佐への街道ヘ出るもの
これらのコースを見るとどれも、必ず千mを越える峠を越えなければなりません。それが永い間、秘境として古い文化を今に伝えることができた要因のひとつかもしれません。

源平合戦から約50年後の元弘二年(1332)、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が土佐に流されます。
翌年に鎌倉が新田義貞によって陥落したので京に召還されます。これを知らずに、皇妃唐歌姫(からうたひめ)は親王を慕って追いかけ、西祖谷山を経て土佐に入ります。そして親王が京に帰られたことを聞き、京に戻ろうとしますが、帰途に西祖谷山の吾橋で亡くなったという物語があります。ここからは土佐への往還は、古代の紀貫之が京への帰還時に使った阿波沖を伝っての海路とともに、吉野川東側の山路のルートがあったことがうかがえます。
 このとき皇妃唐歌姫の土佐ルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
讃州引田より大山(大麻峠)を越え、吉野川に沿ひ、三好郡松尾村の山峯より中津山に登り、峯伝いに西祖谷の田の内名に下り、一宇名を経て更に吾橋名の南山を越え、有瀬名に出て土佐の杖立山に入る。

ルートを確認すると次のようになります。
讃岐引田港 → 大麻峠 → 松尾村 → 中津山 → 西祖谷田の内 → 一宇 → 吾橋の南山 → 有瀬 → 土佐杖立山」

吉野川沿いの道ではなく、人家のない峰を伝って、いくつもの峠を越えて土佐をめざしています。この辺りの吉野川は大歩危・小歩危に代表されように切り立った断崖が続きます。そのため川沿いのルートは開けていなかったようです。吉野川の東側の山峰の稜線を歩いて渡っていく「縦走」形式だったことがうかがえます。それが時代の進むにつれて、山腹を横切るトラバース道や、河の断崖などを開撃して道が通じるようになります。ここでは、古代・中世は、山嶺の尾根を使っていたのが、時代がたつと山腹の利用や川沿いルートが登場するようになることを押さえておきます。
 これらの山岳道を開いたのは、熊野行者のような人達だったのかもしれません。熊野詣でに檀那達を先達していた熊野行者達の存在が浮かんできます。山岳交通路が大いに利用されるようになるのが、南北朝の時代です。山岳武士達は、この交通路通じて情報連絡を取り合うようになります。
2018.12.2 中津山~マドの天狗へ * 徳島県池田町山風呂より - Do you climb?
祖谷の中津山(松尾川と祖谷川に挟まれた山)

祖谷と土佐を結ぶルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
祖谷の中津山を越え、土佐に入らんと心ざし、中津峯へ登り玉ふ、昔は中津の峯ばいに往末せしとて、今に古道と言ふ其形ち残れり。

ここからは、中津山の山腹八合目に祖谷から土佐への古い古道があったことが分かります。私が気になるのは、これらの「土佐古道」が阿波エリアでは吉野川を渡っている気配がないのです。これは、中世においては、吉野川沿いの道が整備されていなかったので、その東の中津山や国見山を越えて行くしかなかったことが考えられます。


古い時代には東祖谷山から土佐に出るには、これとは別に「と越」と「躄(いざり)峠」が使われていました。
躄り峠
天狗峠(躄峠)
四国で最も高位置にある躄峠は、現在は天狗峠と地図には表記されています。「躄(イザリ)峠」という表記は、峠名は適切でないとして、国土地理院は平成11年発行の地図から「天狗峠」に変更しました。私の持っている地図は、もちろん躄峠と書かれています。古い山中間は今でも、昔の名前で呼んでいます。この峠は、生活道よりも煙草や焼酎の闇ル-トとして,地元の人々の記憶に残っているようです。
天狗峠の地蔵
天狗(躄)峠の地蔵尊
 この峠には「奉納地蔵」と刻まれた無年紀の地蔵尊が京柱峠の方角に向いて立つとされます。一揆の首謀者の一人である円之助を供養するために立てられたと地元ではされているようですが、残念ながら私は、この地蔵には記憶がありません。
 躄峠からは稜線沿いに西に進むと矢筈峠を越えて、上板山へと続きます。上板山は、いざなぎ流物部修験の拠点であったことは以前にお話ししました。物部と祖谷は、通婚圏内で、いろいろな交流が行われていたことがうかがえます。さらに物部川を下れば、土佐へつながります。

 後には、新居屋(にいや)から小川・樫尾を通って、京柱峠を越えて大豊へ出る道が利用されるようになります。
これが現在のR439(酷道よさく)の原型になる交通路です。吉野川の支流・南小川を京橋峠の源流部から下って行くと、大歩危小歩危から延びてきた吉野川本流と交わるところが、大豊や豊永です。そこには熊野行者の拠点として機能していた定福寺や、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺などがあります。これらの熊野信仰の拠点の寺社は、戦国時代に土佐の長宗我部元親が西阿波に侵攻するときには、その手助けを務め、保護を受けていることは以前にお話ししました。
 ちなみに戦後直後の京柱峠・谷道峠・蹙峠について徳島大学の教授だった福井好行氏は「東祖谷山村に於ける交通路の變遷」で次のように記します。

(これらの高知とを結ぶ峠は)荒廃し,僅かに闇商入が「ドブロク」を仕入れ、煙草を出す闇道となり、比較的低い京柱峠も仙人が通る位のものとなつた。

ここでは祖谷地方は、中世には躄峠や京橋峠を通じて、土佐と通じていて、熊野詣での修験者たちが利用する交通路であったこと、それを長宗我部元親は利用し、阿波・讃岐への侵攻を行ったこと。戦後には、これらの峠は人が利用することもなく荒れ果てていたことを押さえておきます。

東祖谷山の久保名・菅生名の人々が、最も利用したのは次の2ルートでした。
A 小島(おじま)峠から貞光へ出る11里の道
B 見ノ越峠 名頃ヘ出て、現在の剣山への登山基地となっている見の越を越えて麻植郡木屋平に向う道
この二つの道は南北朝時代の阿波山岳武士の連絡路でもあったようです。特にAの小島峠経由は、平坦地が広く開け、人々も多く住み、生産物も多くて物産の交換も盛んに行われます。人々の往来が多く、最も利用度が高かったのもこの峠のようです。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」には、その道順が次のように記されています。
「郡里・吉野川を渡つて一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」

ここからは菊池武矩も、小島峠経由で祖谷の菅生に入ったことが分かります。
小島峠
祖谷の小島峠

源平合戦後の四国には、それぞれ守護が任命されます。
阿波では承久の乱後に、小笠原長清が阿波国の守護となります。小笠原氏は三好郡池田を拠点にして、後には「三好」氏を名乗り、土着して阿波一国を支配するようになります。三好氏は、南北朝の争いのときには南朝に味方して戦い、阿波山岳武士の一方の旗頭として戦います。しかし、足利方の細川頼之が四国探題として阿波に来ると、これに従うようになります。その後は、戦国時代の終りごろまで阿波・淡路を実質的に支配することになります。
  細川氏は守護といっても完全に支配したのは讃岐だけだったようです。
阿波では三好氏(小笠原氏)が自由に切り廻していたようです。そういう中で祖谷山は、深い山々に閉ざされたエリアで三好氏(前小笠原氏)の命なども及ばなかったようです。

祖谷地方の有力者は、どのように勢力を固めたのでしょうか?
そのヒントは、隠居制度にあると研究者は考えています。隠居というのは長子に嫁をもらうと、老人が別に家を建てて別居するものです。親は長男に嫁をもらうと跡を譲り、自分は二・三男をひきいて他所へ入植し、新しく開墾して、二男のために耕地を作る。二男を独立させ、その生活を安定させやがて老いて死んでゆく、そのため死場所はたいてい末子の家でした。これを隠居分家といっています。後には開墾できる場所が少くなって、老人は隠居するだけで、二男・三男を率いて開墾することはなくなりますが、祖谷山地方ではこのようにして、新しい「村」は生まれたようです。

 東祖谷の菅生(すげおい)・久保・西山・落合・奥ノ井・栗枝渡・大枝・阿佐・釣井(つるい)・今井・小祖谷の十二名は、小さいながら村落共同体を形成していました。そこには各名と同じ姓をもつ中心的な家がありました。今になっては、地名が先だったのか、氏名が土地につけられたのか、あるいは、最初の開発者と、後の名主が血統の上でつながっているのかどうかも分かりません。

これらの中世の名主は、山岳武士として南朝に就きました。
そして、次のように平家の落人伝説と絡み合って伝えられるようになります。
①阿佐氏は平敦盛の次男國盛が屋島から逃れて此処に来て住みついたという系図をもち、大小二つのの赤旗を伝えている
②久保氏も國盛の子孫と名のるので、阿佐氏の分家
③西山氏は俵藤太の子孫、
④奥ノ井も俵氏が名主、
⑤菅生氏は新羅二郎の子孫
「山岳武士」という言葉が最初に出てくるのは、明治44年の手東愛次郎の「阿波史」145Pで次のように記されています。(意訳)

足利尊氏に従った細川氏の頼春は、諸所で戦ったが延元元年に兄の和氏と共に、阿波に下って阿波の国衆を従えた。しかし。美馬・三好の山岳武士たちの中には、なかなか従わない者がいて抵抗と続けた。延元四年に新田義助が伊予にやってきて活動を始めると、これに呼応して阿波の山岳武士たちの動きも活発化した。しかし、義助が急病で亡くなってからは、細川頼春は体制を整えて反攻に移り、山岳武士のリーダー的な存在であった池田の大西氏を調略し、更に兵を西に進めて伊予に入り、伊予軍を大いに破った。こうして、阿波の山岳武士の勢いも衰へてしまった。

   これが以後の郷土研究書の定番フレーズになって、「山岳武士」という言葉が一人歩きするようになります。しかし、このストーリー由来は、史料的には裏付けられておらず、よく分かりません。つまり、裏付けのない「物語」なのです。

南北朝期の阿波武士の動向について「阿府志」巻17は、次のように記します。 
初めて細川律師定騨、讃州に攻め来るについて阿波國板東・板西などは細川に来従せり、大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の末までも後醍醐天皇御方也、時に頼春初めて阿波郡秋月の縣立の家にありて国政を行ふ、従うもあり不従もあり、不従は攻めけり、

意訳変換しておくと
細川律師定騨(頼春)が讃州に侵攻し、さらに阿波國板東・板西を勢力下におさめた。大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の後醍醐天皇方であった。そこで頼春は、阿波郡秋月に拠点をおいて国政を行ふ。従うもいたが、従わない者もいて、従わないものに対しては、攻めた。

「従うもあり不従もあり、不従は攻めけり」とあるので、細川氏の阿波国経営が決して容易に実現したものではないことがうかがえます。また「阿波史」には、反細川氏の「山岳武士」として、次のような勢力が登場します。
①三好郡池田の大西城を根拠に、守護小笠原義盛
②祖谷山には源平両氏の残党
③麻植郡木屋平村の木屋平氏
④三好郡佐馬地村白地には大西氏
⑤名東郡一宮城には小笠原宮内大輔
⑥麻植郡一宇には、「木地屋」よ呼ばれ、轆轤(ろくろ))使って漆器の材料を作った部族(木地師)
⑦木屋平の三木氏は、阿波忌部の系統で祖神天日鷲命の神裔とされます。
⑧東西祖谷山には、菅生左兵衛尉・渡辺宮内丞で、菅生家は池田の小笠原の一族で、祖谷山におけるリーダー的な役割を果たしたとされます。
正平年間阿波の南朝の中心人物は、小笠原頼清でした。頼清は父義盛が興國元(1340)年、細川方に従ったことが不満で、 一族より離れて南朝吉野方に従って、田井庄を拠点としていました。田井庄は山城谷にあって阿波と伊予南軍の重要な連絡点で、やがて吉野から九州へ至る連絡ポイントの役割も果たすようになります。
 阿波の南朝方と熊野吉野との連絡を担当したのが、熊野の修験者達でした。彼らの拠点として機能したの次のような熊野系の寺社だったということは以前にお話ししました。
 高越山 → 伊予新宮の熊野神社 → 伊予の三角寺
                 → 土佐の豊楽寺
伊予方面への熊野信仰の伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(四国霊場六十五番札所)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達は、新宮の熊野社を拠点に川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた

 南朝方が吉野の山奥を拠点として、57年間も存続できたのはどうしてでしょうか?
その要因のひとつが、淡路、阿波、伊予、土佐の熊野行者を勢力下においたことだと研究者は考えています。
正平11年の栗野三位中将の袖判のある綸旨には、次のように記します
灘目椿泊は那賀、海部の境也、海深くして舟繋りよし、何風にも能泊也、椿水崎(蒲田岬)は海部の内也、紀州白井の水崎へ十里也(南海治乱記)

意訳変換しておくと
阿波の椿泊は、那賀、海部郡の境にあたる。港は海深く、船が多く停泊できる上に、どんな方向からの風が吹いていても入港可能でである。向こう岸の蒲田岬は海部郡になる。ここからは紀州白井の水崎へは十里ほどである(南海治乱記)

 淡路の沼島は、阿波小笠原一族の小笠原刑部、小笠原美濃守が、紀伊吉野と四国を結ぶ海上輸送の拠点としていたことはよく知られています。阿波側の海上拠点だったのが、ここに登場する蒲生田岬の椿泊です。椿泊の湾外の野々島、加島(舞子島)には防備のため広大堅固な城があったようです。阿波小松島も阿波水軍の重要な根拠地でした。阿波東部の宮方総帥・一宮成宗は、この椿泊水軍と小松島水軍を味方とした事で、紀伊を後背地として持久戦に堪えれたと研究者は考えています。また、椿泊に上陸した熊野行者たちは、吉野方の諜報・連絡要員として、阿波の山岳ルートを使って伊予に向かいます。
「史料綜覧」巻六751Pの南朝・正平22年(1367) 北朝貞治六年十二月十七日の条には、
征西府、阿波人菅生大炊助ノ忠節ヲ賞ス

とあり、阿波の菅生大炊助が瀬戸内海にまで進出して活躍しことが記されています。これも阿波、淡路や熊野の水軍の力が背後にあったからこそでしょう。
  以前に見たように、熊野水軍の船団は熊野行者を水先案内人として、瀬戸内海を行き来していました。熊野行者達は、そのような瀬戸内海交易活動や対外貿易を通じる中で、拠点地を開いて行きます。それが吉備児島の五流修験(新熊野修験)であり、芸予諸島の大三島神社の社僧集団でした。このようなネットワークの一部として、阿波の山岳武士達も活動を行っていたと私は考えています。

豊永の小笠原氏は、先祖が阿波の小笠原氏と同族の甲斐源氏出身の小笠原氏であるとします。
それが、地名にちなんて豊永と姓をかえます。豊永小笠原氏が下土居城の麓にたてた居館の趾に、氏神松尾神社が鎮座します。ここで豊永小笠原氏が、阿波の小笠原氏を始め山岳武士と共にその防備を固めたと東祖谷山村史は記します。豊永氏が南朝吉野方の背後を押さえていたので、国境を接した祖谷山でも阿波山岳武士が三十有余年の間、勢力を保持できたというのです。同時に、ここには熊野信仰の拠点施設の豊楽寺があったことは以前にお話ししました。
以上をまとめておきます。
①祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきた。
②それは、周囲の高い山々に囲まれたすり鉢状の地形に起因する。
③それが有利に働いたのが南北朝時代で、祖谷地方の国侍たちは南朝吉野方に与して、半世紀あまり抵抗を続けた。
④それが可能だったのは、西阿波の山岳地帯を結ぶ峠越えの交通路であった。
⑤これは熊野行者たちが熊野詣でのためにも使用した山岳道で、拠点には熊野神社などが勧進され、サービスを提供していた。
⑥南朝吉野方は、熊野神社系の修験者を味方にして、彼らによって情報・命令を伝え、一体的な軍事行動を取ろうとした。
⑦こうして南朝吉野方は、紀伊・淡路・阿波・伊予・九州を結ぶ山岳連絡網(道)を形成するようになり、そこを熊野行者達が活発に生きするようになった。
⑧このようにして結びつけられた土豪集を、近代になって阿波では「山岳武士」とよび、皇国史観の中で神聖化されるようになった。
⑨南海治乱記などでは「山岳武士=修験道的僧兵」と捉えている節もある。祖谷の土豪勢力と修験道が切っても切り離せない関係にあったことがうかがえる。
⑩近世の土佐の長宗我部元親がブレーン(書紀・連絡)集団として、修験者たちを厚遇していたことにつながる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」
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