瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:小松尾寺

 2 大興寺全景近代
1902年の大興寺伽藍図 小松尾山不動光院大興寺とある
大興寺は、地元では小松尾寺と呼ばれていました。それが今は、大興寺となっています。どうして、小松尾寺から大興寺に名前が変わったのでしょうか。今回は、寺名が近年になって「変更」された背景を探って行きたいと思います。
もともとこの寺は大興寺と呼ばれていたようです。それは、字名として「大興寺」という地名が残っていることから分かります。ところが、大興寺という字名は、現在地ではありません。下の大興寺周辺の字切図を見てください。

6大興寺周辺の字切地図 
大興寺周辺の古地名(字切図)

国道377号沿いに④「大興寺」や⑥「鐘鋳原」の小字名が見えます。ここからは次の事が推察できます
A もともとの大興寺は、国道377号沿いの「大興寺」にあったこと
B 「鐘鋳原」で出張してきた鋳物師集団によって、大興寺の鐘が作られたこと
これを裏付けるように旧大興寺跡推定地からは、白鳳期の十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土しています。旧大興寺は、白鳳時代の古代寺院で、国道377号沿いにあったことを押さえておきます。

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旧大興寺跡から望む三豊平野と七宝山

  古代氏寺はパトロンの氏族が衰退していくと、寺も退転していきます。
旧大興寺も、同じような道を歩んだようです。それを再興していくのが中世の勧進聖たちです。大興寺に関する中世の資料は、ほとんどありません。中世の遺品としては、次のようなものがあります
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれています。京の高官藤原経朝が奉納したものとされます。そうだとすると、鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたことになります。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるので、誇張とばかりは云えません。
 これ以外の中世史料はないのですが、次のような「状況証拠」は得られます。
寺の由来に次のようにあります。

熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここにはこの寺が、熊野三所(本宮・那智・新宮)権現の鎮護のための別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は、熊野権現の本地仏です。

大興寺 四国遍礼霊場記
太興寺(四国遍礼霊場記)
上の四国遍礼霊場記の挿絵では、石段正面に①の薬師堂があって、その両脇に②大師堂と③熊野権現が並んで祀られています。そして、それに奉仕するかのように④大興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が大興寺だったことが裏付けられます。太興寺の社僧たちによって、熊野権現が神仏混淆状態で信仰されていたことがうかがえます。

6大興寺薬師本尊2g
大興寺の本尊・薬師如来 薬師如来は熊野本宮の本地仏

以上から、中世の大興寺は、熊野権現社とその本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたとしておきます。そして、周辺にはいくつもの坊や子院があったのです。
大興寺は、いつ、誰の手によって現在地に移動してきたのでしょうか?
慶長2年(1597)の棟札には、次のように記されています。
「願主 泉上坊 乗林坊 慶長二丁酉歳九月八日」
「諸堂大破而瑕(仮)堂建立」
ここからは「諸堂大破した後に仮堂を建立」されたこと。願主は末寺の「泉上坊」と「乗林坊」だったことが分かります。

6大興寺周辺の字切地図 

先ほどの字切図に残る字名で⑦「泉上坊」を探すと、それは現在の大興寺周辺にあります。つまり、近世初頭に大興寺の復興を担ったのが「泉上坊や乗林坊」で、彼らは退転した旧大興寺を、自分たちの坊の近くに移動させて仮堂を再建したと研究者は考えています。古代中世の大興寺が現在地へ遷ってきたのは、近世初頭の生駒藩時代ということになります。
 「移転再興」を行った「泉上坊」と「乗林坊」とは、どんな性格の宗教者だったのでしょうか?
それを考える材料は、次の2点です。
①「近世の大興寺が萩原寺の末寺に属し、現在は真言宗善通寺派に属していること」
②「雲辺寺との関係の深さ」
ここからは、真言系密教修験者の姿が想像できます。「泉上坊」と「乗林坊」は、修験者のお寺(山伏寺)だったようです。ここからは、大興寺を支える宗教者が、中世の熊野行者から真言系密教修験者へと移り替わったことがうかがえます。ちなみにこの時期の金毘羅大権現では、修験者宥盛によって金光院が勢力を拡大している頃で、高野山系の真言密教修験者たちが活発に動いていた時代です。
移転し、仮堂を建てた所の地名が小松尾でした。
中世や近世では、お寺を呼ぶ際に地名で呼ぶことがよくありました。移転した大興寺も地元では「小松尾寺」と呼ばれるようになります。近世はじめの史料を見てみましょう。
①澄禅『四国辺路日記』に「小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。(以下略)」。
②真念「四国辺路道指南』に「小松尾山、東むき、豊田郡辻村、本尊薬師、坐長二尺五寸、大師御作」
③寂本「四国遍礼霊場記』には、「小松尾山大興寺」
④詠歌には「植置し小松尾寺をながむれば法のおしへの風ぞふきぬる」
など、17世紀後半の案内記はすべて、小松尾寺として登場します。
  しかし、大興寺所蔵の公的文書に「小松尾寺」が使われている例はないようです。確かに江戸時代前期の真念などの案内記「小松尾寺」と表記されていました。しかし、寂本は「豊田郡小松尾の邑に寺あるが故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。」と記しています。小松尾村にある寺だから「小松尾寺」と呼ばれていると云うのです。
 以上から、小松尾寺は通称地名で、古来からの「大興寺」が正式な名称であったと研究者は考えています。近世・近代を通じて「小松尾寺」と「大興寺」という2つの寺名が並立して使用されてきたのです。ここからは私の想像です。

 万博も終わった頃に、国道377号のバイパス工事化が行われ、新たに「小松尾寺」への道標が掲げられた。これに対して大興寺側からクレームが出された。当寺の正式名称は「大興寺」である。勝手に、「小松尾寺」という看板を出すのは如何なものか。今回は甘受するが、次回の改修時には「大興寺」とするように善処していただきたい。これを受けて公官庁の文書では「小松尾寺」に替わって正式名称「大興寺」が用いられるようになった。

これは、あくまで私の創作話です。悪しからず。

以上をまとめておきます。
①この地には白鳳時代の古代寺院として大興寺が建立された。
②中世になると退転した大興寺に、熊野行者達が熊野神社を勧進し、その別当寺として再建した。
③中世の大興寺は神仏混淆下で、熊野行者達が管理・運営を行った。
④大興寺の熊野行者は、熊野詣での先達を務める一方で、山林修行者として雲辺寺や萩原寺(大野原町)・道隆寺(多度津)などの山岳寺院とのネットワークを結び活発な活動を展開した。
⑤しかし、戦乱の中で熊野先達業務が行えなくなり、熊野行者の活動が衰退し、大興寺も衰退する。
⑥退転していた道隆寺を現在地に移転させ、仮堂を建立したのは勧進修験者である。
⑦移転地が「小松尾」と呼ばれる地名だったので、近世には小松尾寺と呼ばれるようになった。
⑧戦後になって、正式名称「大興寺」に「統一」させた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年

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地元では小松尾寺と呼ばれているこの四国霊場。
前後の雲辺寺や観音寺・本山寺・弥谷寺などに比べると、私には、もうひとつこの霊場の性格が見えてこないのです。別の言葉で言うと特色がないというか、印象に残らない札所です。立地条件も由来もよく分からないというのが正直な所でした。そんな中で、正式な調査報告書が近年に出ましたので、読んでみる事にします。お付き合いください。
まずは太興寺の歴史についてです
 このお寺は、四国八十八ヶ所霊場第67番札所の寺院で、真言宗善通寺派に属し、山号は小松尾山、院号は不動光院、坊号は泉上坊とします。本尊は薬師如来で、弘法大師の作とされます。
現在配られている『説明書』には次のように記されています。
「天平14年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1km北西に建立され、延暦11年(792)大師(空海)の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(822)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられています。」
 一方、大興寺所蔵の『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』には
「当山は七堂伽藍の霊跡で、弘仁13年(822)に弘法大師によって草創された」とあります。
どちらも弘仁13年の弘法大師の関与を記します。
 
6太興寺
太興寺周辺の字切図
また、字切図に「大興寺」の小字名や、隣接して「鐘鋳原」の小字名が残り、その周辺から古瓦が出土しています。このことから『説明書』にあるように、元の大興寺は現在地よりも約1km北西にあったことがうかがえます。元の大興寺と推定される周辺からは、十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土していて、時期は白鳳期とされています。
お寺や神社は、古くからその地にあって動かないという意識が私の中にはありました。しかし、いろいろな史料を読んでいく内に、お寺は頻繁に動いていることが分かってきました。
現在の「学校」が町村合併の跡で、頻繁に統合移転を繰り返している姿とダブってきます。
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 このような言い伝えや縁起、出土遺物から研究者は次のように考えているようです。
①現在地よりも、北1キロに古代の大興寺は建立された
②弘法大師の創建か、再興かは別にして弘法大師と係わりのある寺院であること
③「大興寺」の小字名が残る区画白鳳期の古瓦が出土していることから、白鳳期に大興寺が建立されていた。
④これを裏付ける資料としては、平安時代後期(11世紀中後半頃)の作とされている割首としない一木割矧造の本尊薬師如来坐像がある。
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これを読んで初めて知ったのが、この地から白鳳期の瓦が出土していた事です。
まず私の興味は、「その古代寺院を建立したのは何者か? なぜこの地建立したのか?」という点に向かいます。
この地は、阿讃山脈の手前にそびえる菩提山(標高312.0m)から舌状に三豊平野に延びる低い丘陵上にあります。ちなみに菩提山は、条里制の基準線になった古代からの霊山でシンボル的な山だと考えられます。
 この付近の古代豪族として名前が挙がるのは、まずは讃岐忌部氏です。
忌部氏については、以前に述べましたので詳しくは、そちらをご覧ください。ここでは、忌部氏の氏神が粟井神社であること、母神山の群集墳の一部も忌部氏のものと考えられていることです。そして、古代苅田郡の南部は忌部氏によって開発されてきたとされています。その忌部氏の氏寺と考えることができそうです。粟井神社ー母神山ー太興寺というトライアングル地帯が忌部氏のテリトリーではなかったかとも思えてきます。
 そして、そこから見上げる菩提山、さらに上にある雲辺寺は霊山として信仰の対象であったという想像も生まれます。その霊山の行場をやってきた熊野行者が廻り始める。それは、観音寺から七宝山 → 弥谷寺寺 → 我拝師山(五岳) → 善通寺への辺路行道とつながっていく。その四国辺路を行道する若き日の空海の姿があったのかもしれません。想像力が私の中では、生まれ育っていきます。妄想をたくましくして「忌部氏の古代寺院 空海の辺路修行」という言葉をインプットしておくことにします。
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 太興寺の出発点となった古代寺院は、現在地ではなかったようです。
「元の大興寺は現在地よりも約1km北西」ということで、地図で確認しておきましょう。現在の場所で言うと、国道377号の南側の丘陵の突端になります。現在はここに、小さな庵が建っています。ロケーションは最高です。一ノ谷池の向こうに三豊の平野が広がり、その向こうには七宝山の連なりが望めます。
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古代太興寺跡周辺に建つ庵
ここは古代寺院の建立地としては納得のいくロケーションです。
太興寺に関する中世の資料は、あまりありません。  中世の遺品は次の通りです。
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれており、1267年に藤原経朝が奉納したものです。鎌倉時代には京まで、このお寺の名声伝わっていたのかも知れません。『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』や『寺格昇格勧進之序』に「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍を誇った」とあるのも誇張とばかりは思えません。

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これ以外の中世史料はないのですが、前後の時代から次のような「状況証拠」は得られます。
 まず最初に紹介したこの寺の説明書には、次のように記していました。

「熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」

ここからはこの寺が、熊野権現の別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は熊野権現の本地仏でもあります。 さらに『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂と熊野権現並んで祀られています。太興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が太興寺だったことがうかがえます。中世の太興寺は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたようです。どちらにしても、太興寺も神仏習合のお寺で、初期には熊野行者の役割が大きかったのではないでしょうか。
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もうひとつ太興寺で、注目しておきたいのが菩提山です。
粟井村誌(昭和24年)の「粟井村有名地図」によると、菩提山頂上に「無量寺跡」、「佐々木神社跡」があったと次のように記します。
「無量寺跡」については、粟井町竹成にある薬師堂の沿革に「菩提山無量寺は元天台宗であったが天正の乱にかかりお堂をはじめ全部焼けてしまい、本尊と脇立(行基菩薩の作)を寺よりやっと持ち出すことが出来た。その後天和三年竹成薬師堂を建ててここにおまつりした。」とある。
また、廃寺の跡として菩提山無量寺は、「菩提山の上にあり、其の開いたはじめははっきりしない。別荘(土佛庵)の釈迦像、竹成の薬師像(薬師堂)はこの寺にまつってあったものといわれる。徳賢寺由緒の中に合田小三郎、年をとって天台宗の菩提山無量寺に入って僧となり重海という。その子善阿は徳賢寺を開いた人である。その後土佐の長宗我部元親によって焼きはらわれた。」とある。
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現在の菩提山の頂上について、報告書は次のように記します。
東西幅が約142.0m、南北幅約20.0mの東西に長い平坦地があり、やや西寄引こ北方向に東西幅約15.0m、南北幅約10.0mの突出部を持つような、ちょうど凸状を呈する平坦地が確認できる。(中略)
 しかし、礎石や瓦片などの「無量寺跡」と結びつく痕跡は確認できなかった。
 大興寺から菩提山間及び菩提山山頂で明確な遺構を確認していないが、「寺岡」から続く「蓮花」「れんごう」「奥蓮花」「菩提」などの小字名や「無量寺」が天台宗であったことから、大興寺との関係が推測できる。
報告書は、菩提山頂上には、長宗我部元親の侵入によって焼かれたと伝わる天台宗の無量寺の存在を裏付けています。この寺の存在は、太興寺の役割や性格を考える上で重要な意味を持っていると私は思っています。
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    本日はこれまで。中世まで太興寺のまとめです
①太興寺の起源は、白鳳期の古代寺院にまで遡れる可能性がある
②古代寺院の建立地は現在地よりも北西へ1㎞
③中世には天台・真言のふたつの学問寺として「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍」を誇った総合寺といわれるほど隆盛をきわめたとされるが資料的な裏付けはない。
④中世の太興寺は、熊野権現の別当寺であり、修験道の社僧達の拠点でもあった。
次回は、近世の伽藍復興について見ていこうと思います。

小松尾寺は、天台・真言の合同学問所だった?

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『四国領礼霊場記』は、小松尾山大興寺と呼んでいますが、俗称は小松尾寺です。
本尊は薬師如来。
ご詠歌は「うゑおきし小松尾寺を眺むれば 法の教への風ぞ吹きぬる」です。
植えると小松を掛けて、吹く風に法の教えの遺がついたと詠んでいます。小松を弘法大師が植えておいたという意味だとおもいますが、弘法大師お手植えと伝えられる松があります。

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縁起は平凡です。

 弘法大師が弘仁十三年(822)に、嵯峨天皇の勅命によって熊野三所権現鎮護の霊場として建立し、本尊薬師如来を彫刻したという縁起です。熊野三所権現のなかでは、新宮大社が薬師如来を本地としていますが、本末は阿弥陀如来です。しかも、三尊がそろっていないと熊野三所権現とはいえません。
 小松尾寺は熊野三所権現を移したというよりは、むしろ阿須賀神社を移したのだろうとおもいます。ですから薬師如来が本尊としてまつられているのです。
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『四国損礼霊場記』に、「台密二教漢学の練衆、朧のごとく群をなせりとなん」とありますから、盛んなときは鹿のように群れをなして学問をする者がいたわけです。
そして、非常に珍しいことに、このお寺は天台宗寺院と真言宗寺院の両方から成り立っていたことが分かります。大和の当麻寺のように、真言宗と浄土宗が一つになったお寺はよくあります。真言宗が加持祈祷をし、浄土宗が亡くなった方の供養と「分業」している例です。しかし、天台と真言が一寺を形成したというのは、きわめてまれな例です。そこで両宗が教学を競うように、講学練達の学僧がが集まったのだとおもわれます。
 雲辺寺も「四国高野山」と呼ばれる教学の寺だと伝わりますので、山上と里に僧侶達の学問所が並立していたことになります。

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もとは真言宗の寺院が二十四坊、天台宗の寺院が十二坊あって、本堂の左右に並んでいたそうです。『四国損礼霊場記』には、
「天台大師の御影あり。醍醐勝覚の裏書あり」と書いているので、天台大師の像は雨像だとおもわれます。
 弘法大師の遺跡としては、お手植えの樟と称する大木があります。

この寺の歴史は、むしろ鎮守の熊野権現の別当寺が大興寺だったので札所になったのでしょう。

本尊の薬師如来も熊野権現の本地仏です。
『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂があり熊野権現が描かれています。石段の下に大興寺あり。ここからも本来は熊野権現が本尊で、その本地仏が薬師ですから、二にして一なるものです。「小松尾寺図」は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が大興寺であったことを示しています。

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 この寺は鎌倉時代には京都にまでも聞こえていたらしくて、「大興寺」の額は京都の世尊寺家で藤原行成第ハ世の孫の藤原経朝が書いています。額には「従三位藤原朝臣従朝文末四年即成七月計二日 丁末書之」という裏書があります。
 室町時代には三十六坊が並んでいたといいます。しかし、讃岐の神社仏閣の例に漏れず天正年間の長宗我部の兵火に焼かれ、慶長年間にに再建されました。その時に現在地点に移ってきたといわれます。旧寺地は1キロほど北西だったようです。
江戸時代の記録には、次のように記します。
本尊薬師如来、脇士不動、毘沙門立像長四尺、皆大師の御作、十二神将各員三尺三寸、
堪(湛)座作なり。本堂の右に鎮守熊野権現の祠、左に大師の御影堂、大師の像堪座作なり
 こう見てくると村の中のお寺で、熊野権現がなければ札所になるのは考えられないようなお寺です。民家がすぐ前に建っている絵図を見ますと、昔から民家の間にあったようです。
 
 参考文献 五来重:四国遍路の寺

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