瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:小豆島

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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 今回は石山戦争を契機として、織田政権が瀬戸内海の制海権掌握にどう取り組んだのか。同時に信長が四国への勢力伸張を、どのように図ろうとしたのかについて、見ておきます。テキストは 橋詰 茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年でです。
秀吉に天下を獲らせた男 黒田官兵衛 | 本山 一城 |本 | 通販 | Amazon

鳥取城を攻撃していた秀吉は、黒田孝高(官兵衛)に淡路攻略を命じます。 
天正九年(1581)10月23日、秀吉は、岩屋の与一左衛門に対して次のような朱印状を与えています。
淡州岩屋舟五十七艘之事、此方分国中灘目廻船往来儀、不可有別候、猶浅野弥兵衛尉可申候也、
天正九年十月廿三日                            筑前守秀吉(花押)
淡州岩屋舟五十七艘之分、筑前守殿御分国中灘目廻船之儀、不可有御別之旨、被出御判候詑並に与一左衛門舟、諸公事御免許候也、
天正九年十月吉日                     浅野弥兵衛尉長吉(花押)
上の文書が、秀吉が浅野弥兵衛尉長吉に対して、岩屋の船57艘について秀吉分国内の沿岸への回船と往来の自由を認めること命じたものです。下の文書は、それを受けて、浅野弥兵衛尉長吉が与一左衛門の船には諸公事を免除することを伝えています。秀吉分国とは、播磨国沿岸から播磨灘一帯と淡路周辺を含むエリアと研究者は推測します。

 特権を与えられた与一左衛門は石井与次兵衛の一族で、岩屋の船団の統率者です。石井氏は、代々明石に居住していて、与次兵衛は明石沿岸の海賊衆の一人で、秀吉の中国攻略の早い時期からつながりを持ち、この時期には秀吉の配下にありました。与次兵衛の一族である岩屋のボス・与一左衛門を味方につけるために特権を与えたようです。
 秀吉は、自らの水軍を編成するために、与次兵衛を配下に抱え込んだのでしょう。
与次兵衛は、それに応えて明石を拠点として、明石海峡を掌握するために工作活動を行っていました。その成果が、対岸の岩屋の与一左衛門を秀吉陣営に引き込むという成果となって現れたことを示す史料です。与次兵衛はその後も、秀吉の水軍の中核部隊の指揮官の一人として活躍しています。こうして明石海峡の両岸を押さえた秀吉は、この水路の制海権を確実なものにしていきます。この戦略的な成果の上には、毛利水軍は手の出しようがなくなります。本願寺支援ルート回復が、不可能になったと毛利や本願寺に思わせるものでした。
麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

 秀吉は11月中旬、淡路に渡って山良城を攻めて安宅貴康を降し、ついで岩屋城を陥落させて淡路全体を制圧します。
そして、淡路の支配を仙石秀久に、岩屋城を生駒親正に守備を命じています。仙石氏と生駒氏は、讃岐にとっては馴染みの武将です。後の四国遠征の主力として讃岐に進撃し、その軍功から讃岐国守となります。讃岐にやって来る前には、淡路の城持ちであったのです。
四国営業所 (四国方面軍)|織田NOBU株式会社

 こうして秀吉は、四国へとつながる淡路を手に入れます。
次の目標は四国です。淡路を拠点として四国への進出を図ろうとします。この時点で、秀吉は明石・岩屋・淡路を結ぶルートを掌握したことになります。さらに、播磨灘を越えて四国方面に出て行こうとすれば、海上ルートとして重要になるのが、播磨の室津 ー 小豆島 ー 讃岐引田を結ぶラインです。このルートを確保できれば、東瀬戸内海の制海権を掌握したことになると秀吉は考えていたはずです。それは、後に話すように安富氏を支配下におくことによって実現しました。それでは、このエリアの管理・運用を誰に任せるかです。播磨灘周辺をめぐる年表を見てみましょう。
天正 8年(1580)頃 小西行長が父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 小西隆佐・行長が秀吉より播磨室津を所領として与えられる
天正10年(1582)6月本能寺の変で、信長に代わって羽柴秀吉が権力掌握
天正10年(1582) 行長が小豆島の領主となる
天正11年(1583) 行長が舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 行長が紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 行長が四国制圧の後方支援
 播磨灘から備讃瀬戸に至る東瀬戸内海の「海の提督」に任命されたのが若き小西行長でした。
小豆島を手に入れた秀吉は、堺商人出身の小西隆佐とその息子行長に統治を任せ、播磨の室津と併せて、東瀬戸内海支配の拠点としたのです。
近年辛労共候、乃兵糧取二はや小西弥九郎(行長)差返候間、早々室津へ追懸、弥九郎二相談、兵糧請取、舟二つミて早々可帰候、不可由断候也、
卯月十一日                                            秀吉 (花押)
この文書には宛名がありませんが、文中に出てくる小西弥九郎は行長のことです。ここからは、小西行長が兵糧に関しての輸送船を管理・運行していたこと、それを父隆佐が堺から後方支援していたことが分かります。天正九年の岩屋をめぐる抗争の時に出された文書のようですが、小西行長は、室津を拠点に播磨灘で活動していたことが裏付けられます。
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秀吉が播磨・備後での攻略を進めている間に、毛利撤退後の讃岐に侵攻してくるのが長宗我部元親です。
毛利と長宗我部の間には、「不戦協定」があった気配がします。長宗我部元親は、毛利が元吉合戦後に讃岐から撤退するのを見計らうタイミングで、阿波三好から讃岐山脈を越えて侵攻してきます。その後の讃岐をめぐる土佐軍の軍事行動と、秀吉の対応ぶりを年表で見ておきましょう

1578(天正6) 長宗我部元親の讃岐侵攻開始,藤目城・財田城落城  11・16  信長の水軍が毛利水軍を破る(第2次木津川海戦)
1579 4・-  羽床氏,長宗我部元親に降伏する(南海通記)
        香川信景,長宗我部元親と和し,婚姻関係を結ぶ
1580 天正8  長宗我部元親,西長尾山に城を築き,国吉甚左衛門尉を城主とする(南海通記)
   3・5  石山本願寺顕如,織田信長と和し、紀伊雑賀に退却〔石山合戦終わる〕
1582 4・-  塩飽・能島・来島が,秀吉に人質を出し,城を明け渡す 
   9・21 十河存保,阿波国勝瑞城の戦いに敗れ,虎丸城に退く 9・-  仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
   10・-  阿波から長宗我部元親軍到着し,十河城一帯を焼き払う(南海通記)
   5・7  羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する
   6・2  明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1583 天正4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う(仙石家譜)
   4・21  秀吉,柴田勝家の兵を破る「賤ヶ岳の戦〕
1584 6・11  長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16  秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年4・26  仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
   7・25  秀吉と長宗我部元親との和議が成立。土佐軍退却
   7・-  仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.

  年表を見ると、1578(天正6)年に、長宗我部元親が阿讃山脈を越えて、讃岐への侵入を開始しています。その侵攻ルートは、現在の三豊地方から始まり、丸亀平野を経て東讃へと向かいます。阿波三好氏に敵対的な動きを見せていた西讃守護代の天霧城主・香川氏は、戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。そして、元親の次男を養子として迎え後継者にします。こうして香川氏は元親と姻戚関係を結び同盟軍として、以後の長宗我部元親の讃岐平定に協力していくことになります。
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 一方、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
安富氏は小豆島も支配下に置き、大きな力を国元で持っていたようです。しかし、京都での在勤が長くなり、讃岐を留守にすることが多くなると、次第に寒川・香西氏が勢力を伸ばし、安富氏の所領は減少していきます。そのような中で、長宗我部元親の侵攻が始まると耐えきれなくなって、安富氏は対岸の播磨に進出してきた秀吉に救いを求めたようです。
  秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。
書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿
意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。彼表行之儀、何も弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四目                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

ここからは次のようなことが分かります。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑤最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること
讃岐の歴史

 秀吉にしてみれば、安富氏は「利用価値」が高かったようです。

それが何であったのかを研究者は次のように指摘します。
 安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたと研究者は推測します。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたのです。これは秀吉にとっては、大きな戦略的成果です。こうして秀吉は、戦わずして岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を保護し、配下に繰り入れることで東讃の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
   6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
死闘 天正の陣
秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことがうかがえます。
天正10(1582)年に、小豆島の領主に秀吉から任じられていたのは、小西行長でした。翌年には行長は、舟奉行に任命され塩飽も領有します。つまり、秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行として小西行長であったことになります。それだけでは、ありません。さきほど見たように、行長は前線の黒田官兵衛と協議しながら戦略立案を行っていました。行長を四国平定のための影の功績者と秀吉は、評価したのでしょう。そして九州平定後は、加藤清正と同じ石高で九州の大名に若くして抜擢し、朝鮮出兵の立案計画を任せることになることは以前にお話ししました。
讃岐の歴史
  私は、小西行長の拠点となった室津・小豆島・塩飽は、毛利に対する港湾基地とばかり考えてきました。
しかし、秀吉の讃岐平定時の軍事輸送や後方支援体制を見ると、まさに瀬戸内海全域をカバーする戦略基地の役割を果たしていたことが見えてきます。特に、小豆島の持つ戦略的な意味は重要です。研究者たちが「塩飽と小豆島は一体と信長や秀吉・家康は認識していた」という言葉の意味がなんとなく分かってきたような気がします。

以上をまとめておくと
①信長と本能寺の石山戦争の一環として、本願寺支援ルートをめぐって瀬戸内海制海権をめぐる抗争が展開された。
②信長は、第2次木津川海戦で新兵器の鉄張巨大船で木津川河口の制海権を確保した。
③以後は、明石海峡の岩屋をめぐる攻防戦が続いたが秀吉は、岩屋の廻船実力者に特権を与えることで味方に付け、明石海峡の制海権を確実なものとした。
④同時に黒田官兵衛は淡路を攻略し、四国への道を開いた。
⑤秀吉配下の黒田官兵衛のもとには、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けた阿讃の国人たちが保護を求めてやってきた。
⑥秀吉は、東讃守護代の安富氏を保護することで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れた。
⑦秀吉は堺商人出身の小西行長に室津・小豆島・塩飽を領有させ「海の司令官」として、四国・中国・九州制圧の後方支援部隊して運用させた。
⑧長宗我部元親に対する秀吉の讃岐侵攻部隊は小豆島を戦略拠点としてして派遣されており、その輸送には小西行長の輸送船団が関わったことが考えられる。
このように秀吉の讃岐侵攻に小豆島は後方支援の戦略基地として重要な役割を果たしていたことが分かります。そして、小豆島から讃岐に海上輸送をうけ持ったのが小西行長と私は考えています。そうすると小豆島は北岸の屋形崎だけでなく、南岸の内海湾にも「戦略基地」が置かれていたことがうかがえます。それが、以前にお話しした小西行長による小豆島のキリスト布教とも関わってくるし、高山右近の小豆島潜伏にもつながるようです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

小豆島慶長古地図


小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の航海日誌があります。
江戸時代末から明治20年頃にかけてのもので10冊ほどになるようです。
「米1030俵を一度に積み込んだ」

という記事があります。一俵は三斗四升(一石=10斗)というのが基準なので、それから計算すると、この舟は約350石から400石積みぐらいの中型船だったようです。形や大きさは、下図の金毘羅丸と同型だったことが考えられます。
5 小豆島草壁の弁財船

 小豆島草壁田浦の金毘羅丸 380石
慶応元年に金毘羅さんに奉納された模型

 実は、この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟でした。
木下家は屋号が塩屋という名からもわかるように、もともとは苗羽で塩をつくっていましたが、いつごろかに塩から醤油へと「転業」していったようです。この航海日誌からは、この舟が「何を どこで積んで、どこへ運んで売ったのか また、何を買ったのか」が分かります。
文政3(1820)年の交易活動の様子を追ってみましょう。
 まず、船主は小豆島のを買い入れています。小豆島は赤穂からの移住者が製塩技術を持込んでいて、早くから塩の生産地です。自前の特産品を持っていたというのが小豆島の強みとなります。
塩を積み込んだ大進丸が向かうのは、どこでしょうか? 
 すぐに考えつくのは「天下の台所」である大坂を思い浮かべます。ところが航路は、西の九州へ向かうのです。下関と唐津で積荷の塩を売ります。そして、唐津で干鰯を買い入れ、唐津の近くにある呼子へ移動して取粕と小麦を買っています。

6 干鰯3
干鰯
 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。それを唐津周辺で買い入れます。干鰯は小豆島の草壁村で、取粕は尾道と小豆島で売り払っています。

6 干鰯2

それから、呼子で小麦を買っていますが、これはどうするの?
小豆島の特産と云えば「島の光」、つまり素麺です。素麺造りに必用なのは小麦ということで、小豆島の藤若屋という素麺の製造業者に売り払っています。単純化すると大神丸は塩を積んで、北九州に行き、干鰯と素麺の原料の小麦を積んで帰ってきたことになります。

 次に約四二年後の文久二年の航海日誌を見てみましょう。
文久二年(1862)と云えば、ペリー来航から10年近くなり、尊皇の志士たちの動きが不運急を告げる時期です。大神丸という船名は代わりませんが、何代後の舟になっていたでしょう。その取引状況を次の表から見てみましょう。

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大神丸の取引状況表
表の見方は、左から「売買品目・買入港・売払港」で、数字は品目の数量です。たとえば塩については、潟元・下村・土庄で買い入れ、筑後・島原・宇土・筑前で売り払ったということになります。塩買い入れ先の潟元は、屋島の潟元です。中世には、ここから塩専用の大型船が畿内に通っていたことが、兵庫北関入船納帳からは分かることとは以前にお話ししました。ここには塩田がありました。小豆島の対岸で、目の前に見える屋島で塩を買い入れています。下村・土庄は、小豆島ですが小豆島産だけでは不足だったのか、値段が高松藩の屋島の方が安かったからなのかわかりません。
 屋島と小豆島で塩を買い入れて舟に積み込んで、向かうのはやはり九州です。
40年前と違うのは、唐津よりもさらに南下して、筑後と島原、そして熊本の北の宇土まで販路を伸ばしています。
6 kumamoto宇土

島原地方は、天草の乱後に多くのキリシタン達が処刑され、人口減になった所に小豆島からの移住者を入植させた所です。それ以後、小豆島と島原周辺とのつながりが深まったと云われます。ちなみに、この地域は小豆島の素麺「島の光」の有力な販路でもあります。小豆島と九州は瀬戸内海を通じて、舟で直接的に結びついていたようです。
 次の品目の繰綿、これは綿から綿の実をとった白い綿で半原料です。
6 繰綿
これを買い入れたのは、高梁川河口の玉島と福岡(岡山の福岡)でしょう。この地域は、後に倉敷紡績が設立されるように早くから綿花栽培が盛んで、半加工製品も作られていました。

6 繰綿3

ここで仕入れた繰綿は、塩と同じく有明湾の奥の肥前や筑後まで運ばれます。瀬戸内海の港で積み込まれた塩・繰綿・綿などの商品が、有明湾に面する港町に運ばれ、筑後や島原で売り払われたことが分かります。
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さて帰路の積んで帰る品物は何でしょうか? どこの港で積み込まれたのでしょうか?
まず小麦です。小麦は素麺の原料と先ほどいいましたが、仕入れ先は肥前、それから高瀬(熊本近郊)、さらに島原で買い入れています。その半分が多度津で売られています。当時の多度津港は、幕末に整備され西からの金比羅舟の上陸港として、讃岐一の港として繁栄していました。しかし、なぜ多度津にそれだけの小麦の需要があったのか? 
仮説① 金比羅詣客へのうどん提供?? そんなことはないでしょう。今の私にはこんなことくらしか考えられません。悪しからず。
 
DSC04064絵馬・千石船

 残りの小麦の行方は? 兵庫が大口です。
仮説② 揖保川中流のたつの市で作られる素麺「揖保の糸」の原料になった。
 この可能性は、多度津よりはあるかも知れません。残りの小麦は土庄、下村などの小豆島で売られています。「内上け」という記載は、船主の塩屋に荷揚げしたということです。塩屋が周辺の素麺業者に販売する分でしょう。

20111118_094422093牛窓の湊
牛窓湊
次に大豆を見てみましょう。

小豆島では醤油をつくっていますので、その原料になります。大豆と小麦は、仕入れ先も販売先も似ているようです。仕入れ先が川尻、島原、それから肥後、唐津などで、販売先が大坂近くの堺で売られていますが、土庄、下村あるいは、ここにも「内上け」とありますので、地元に荷揚げしています。

干鰯作業4

 干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。だから、九州に向かう途中の港で、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払ったと考えられます。

瀬戸内海航路1

 このように小豆島の苗羽を母港にする大神丸は、小豆島やその近辺の商品を積み込んで、それを九州西北部から有明海の奥の筑後や肥前・島原に持って行って売っています。そして、売り払った代金で小麦、大豆、干鰯などを買い入れて、小豆島で生産される素麺、醤油の原料としていてことが分かります。幕末から明治にかけて、こういう流通網が形成されていたのです。

wasenn 和舟
  こんなことを背景にすると、小豆島霊場のお寺さんの境内にある大きなソテツの由緒に「九州から帰りの廻船が積んで帰った」ということが語られるのが納得できます。
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 さらに私が大好きだった角屋のごま運搬船。
神戸に輸入されたゴマを土庄港の工場まで運ぶ胡麻専用の運搬船です。

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母港は島原の港。なぜ、島原の舟が小豆島で働いているのかは、大きな疑問でした。しかし、大神丸が小豆島と島原を結びつけていたように、かつては島原の舟も小豆島や瀬戸内海の港を往復する船が数多くあったのでしょう。そして、この舟は九州からのごま運搬に関わるようになり、胡麻が国産品から輸入品に代わると、神戸から土庄へその「営業ルート」を変更せざるえないことになったのかもしれません。これが今回の私の仮説③です


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参考文献 木原薄幸 近世瀬戸内海の商品流通と航路 「近世讃岐地域の歴史点描」所収

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