小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
![舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー](https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/01/88/cf/27/caption.jpg)
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白塩地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日 利貞名等年貢公事算用日記Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期) 利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開②方城は片城③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。
![製塩 小豆島1内海湾拡大](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/3/f/3f07af60.jpg)
![製塩 小豆島1内海湾拡大](https://livedoor.blogimg.jp/tono202/imgs/3/f/3f07af60.jpg)
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木
①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ
塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升久未分浜数十七、 十四石四升合計 浜数一一六生産高 九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の釜屋くろ」「末次と久末との釜屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。
明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」
これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。
中世の塩浜
「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると 九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。
15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。
網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩②職人による製塩③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです
塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。
またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。
中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。
以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。
瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない④○○浜の地名が残る
最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
関連記事