瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:小豆島の製塩


前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

小豆島での製塩は、平城宮木簡に「調三斗」の記事があるので、早い時期から塩を上納していたことが分かります。鎌倉時代に入ると「宮寺縁事抄」神事用途雑例の中に「御白塩肥土」と記されています。
舞台】山と田に囲まれた神社 - 小豆島、肥土山離宮八幡神社の写真 - トリップアドバイザー
小豆島肥土荘 肥土八幡神社と歌舞伎小屋
肥土とは、石清水八幡宮の荘園であった肥土荘のことです。
この「御白塩」は肥土荘で、塩が作られ、畿内に送られていたことを教えてくれます。肥土八幡官は、京都石清水八幡宮の別宮で平安末期に肥土荘が置かれた時に、勧請されています。肥土八幡宮の縁起によれば「依以肥上庄可為八幡宮御白地之由」とあり、「白塩地」として位置づけらています。石清水八幡宮の神事用のために「御白塩」の貢納が義務づけられています。石清水八幡宮に必要な塩が、肥土で作られていたことが分かります。
肥土荘の荘域は、土庄町の伝法川に沿ったエリアで、 一部に小豆島町西部が含まれます。この海岸部では、製塩土器が発見されているので、古くから製塩が行われていたことがうかがえます。以後の製塩を裏付ける史料はありませんが、江戸時代にいち早く土庄・淵崎付近で塩田が開かれたことから考えても、中世以来の製塩が行われていたことが推測できます。

製塩 小豆島1内海湾
中世塩浜があった地区
室町期になると内海湾の安田周辺で製塩が行われていたことが史料から分かるようになりました。今回は、16世紀初頭の明応年間の三点の文書を見ていくことにします。テキストは「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」です。 

川野正勝氏が小豆島町安田の旧家赤松家文書から発見したのが次の3つの文書です。
Ⅰ 明応六年(1497)正月日    利貞名等年貢公事算用日記
Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記
Ⅲ 年末詳(Ⅱと同時期)     利貞名等田畠塩浜日記(冊子)
史料Ⅰは、前半が荘園内の諸行事に関する各名の負担を示したものです。後半は各名の荘園領主に対する負担分を記した算用の性格を持ちます。
史料Ⅱは利貞名をはじめとする六名の公田・田畑・塩浜・山の所在地・作人名を記したものです。利貞名は岩吉名を売買によって自分のものとするだけでなく、他名に大きな権益を持っていました。各名でも自分の権益について明確にする必要があり、その実体把握のために作られた文書のようです。
史料ⅢはⅠ・Ⅱと同じ内容のものを何年かにわたって覚書的に綴ったもので、文書中に種々の書き込みがあります。
小豆島 製塩 塩浜史料

Ⅱ 明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

ここには塩浜として「大新開、方城、午き」の地名が出てきます。現在の何処にあたるのでしょうか
①大新開は、早新開
②方城は片城
③「午き」は早馬木
で、現在の小豆島町の草壁や安田で、近世にも塩田があった場所になるようです。

製塩 小豆島1内海湾拡大
史料Ⅱに出てくる①早新開②片城③早馬木

①の大新開は、その地名からして明応以前に開発された塩浜のようです。新開という地名から類推すると②方城、③午き(馬木)などの塩浜は、大新開以前からあったと推察できます。小豆島の塩浜の起原は、15世紀以前に遡れるようです。
製塩 小豆島 塩浜の地積表
        利貞名外五名田の地積表 塩浜があるのは3つ

塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産額を集計します。
利貞名(大新開) 浜数六十五、生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
久未分浜数十七、 十四石四升
   合計  浜数一一六
   生産高  九十四石七斗二升
六名のうち利貞・岩古・久末三名が塩浜を所有しています。.利貞名六五・岩吉名一六・久末名三五 計116の塩浜と3の荒浜があります。また「国友の屋くろ」「末次と久末との屋とこ」と記されています。ここには塩水を煮詰める「釜屋」があったことがうかがえ、塩浜であったことが裏付けられます。

製塩 小豆島 塩浜の地積表2
   明応九年(1500)正月古日 利貞名外五名田畠塩浜等日記

久末名畠坪在所之事の中に、次の記事があります。
①「午き(馬木) 十代 国友ノかまやくろニ在 久末下人太夫二郎作」、
②「午き(馬木) 末次ノかまやくろニ久末ノかまやとこかたとこ在、つほニ在、此つほ一 末次百姓三郎五郎あつかり」

これも塩浜が午き(馬木)付近にあったことを裏付けます。
さらに①の太夫二郎は、久末名塩浜作人にもその名が出てきます。釜屋と製塩の結びつきを示すものです。また、「つほ二在」は製塩用の壺のこと、利貞名出坪在所之事の中に「釜屋敷 十代 入新開在 但下人共作」とあつのは、釜屋敷の名から見て大新開にも塩釜があったことが裏付けられます。

製塩 自然浜
中世の塩浜

「大新開、方城、午き」の塩生産額を集計すると
九十四石七斗二升
になります。これは旧草壁村エリアの利貞名主の勢力範囲だけでの生産高です。これに池田、淵崎、土庄などの塩浜を併せると約700石程度の塩生産が行われていたと研究者は推測します。

15世紀末の明応期の塩浜生産方式については、次のようなことが分かります。
①矢張利貞、岩吉、久未などの有力名主の所有する下地を、下作人として後山の八郎次郎、かわやの衛門太郎などが小作していたこと
②有力名主は「三方の公方」に、生産高の1/3を年貢として収めている
③「三方の公方」は領家である三分二殿、三分一殿、田所殿の三者のことだが、これが誰なのかは分からないこと
④ここからは塩浜の地下中分されていたことが分かる
⑤名主の小作に対する年貢率は、まちまちで名主の勢力関係に依る
⑥68%の年貢を収めさせている岩吉名の利貞名主の圧力が強かったことがうかがえる。

網野善彦氏は、塩の生産者を次の3つに類型化します
①平民百姓による製塩
②職人による製塩
③下人・所従による製塩
この類型を小豆島の場合に適応するとどうなるのでしょうか。
 塩浜作人で田畠を持っているのはわずか4人です。利貞名では兵衛二郎、岩古名では四郎衛門、久末名では助太郎・大夫二郎です。そのうち利貞名に見られる大西兵衛二郎は、大西垣内として屋敷を所有する上層農民です。兵衛二郎以外は少数の田畑を所有するにすぎません。つまり名主が塩浜の権益を有し、作人の多くは名主の支配のもとで、請負による製塩を行っていたと研究者は考えています。小豆島の場合は、3類型の全てが混在した形態だったようですが、おおくは小作であったようです

 塩浜作人は塩山を所有していました。
弓削島荘では、塩浜が御交易島とともに均等に住民に分割保有されるようになります。その時に塩山も分割されました。この結果、塩山・塩浜・塩釜・畠がセット結合した製塩地独特のレイアウトが出来上がり、独自の名主経営が成立します。
 それを見てみると、各名には屋敷の垣内の周辺には畠、前面の海岸地帯に塩浜、後背地には塩山というレイアウトが姿を現すようになります。これは小豆島も同じようです。
 例えば、岩吉名には山が四か所あります。そのうちの一つである西山について「ま尾をさかいにて南ハ武古山也」と記されています。明応七年の岩吉名浜作人に「西山武吉百姓四郎衛門」とあり、西山に四郎衛門所有の塩山があったことが分かります。同じ様に、利貞名山のうちで、
天王山に成末
かいの山に米重・武古
岩古名山竹生に重松と
浜作人として成末百姓大夫郎・武古百姓新衛円・重松八郎二郎
利貞名に、米重百姓孫衛門・助太郎が久末名にあります。
これらは塩山として浜作人が所有していたと研究者は指摘します。
 山のすべてが塩山ではなかったかもしれませんが、製塩に使う燃料として使う木材がここから切り出されていたことは間違いありません。讃岐でも早くから塩山があたことが知られています。小豆島の史料に見られる山も塩山だったと研究者は考えています。
利貞名においても、屋敷の周辺に余田があり、屋敷地とされる場所の前に塩浜が広がります。その後背地に塩山という配置です。これは、弓削島荘と同じです。
研究者が注目するのは史料の中に何度も出てくる「一斗七升ニ延而」という数字です。
「延而」は平均してで、「定」はきめて(規定)の意味です。では「 十七升」とは何なのでしょうか。「一斗七升」は「年貢一反きた中」とあるので、一反当たりの年貢基準を示す数値と研究者は考えます。これは弓削島荘の御交易畠における塩の麦代納と、おなじ性格で、本来畠にかかる年貢を塩で代納していたことが分かります。弓削島荘では、畠一反当たり麦斗代は一斗~一斗五升でした。小豆島では麦斗代が弓削島よりも少し高い一斗七升だったようです。

またⅡの史料には「三方ノ公方」とあります。
名主が「三方ノ公方」へ年貢を上納しています。「三方ノ公方」とは、三分二殿・三分一殿・田所殿の三名です。建治九年(1275)以前に、領家方(東方)と地頭方(西方)とに下地中分されて、領家方は三分二方、三分一方に分かれ、田所も自立した状況であったようです。この三者を「三方ノ公方」と称していと研究者は指摘します。

中世の瀬戸内海の島々では、田畠・塩浜・山が百姓名に編成され、百姓たちにより年貢塩の貢納が請負われるようになります。
東寺領である弓削島荘の場合は、百姓が田畠・塩浜を配分された名を請負って製塩を行い、生産された塩を東寺へと送っています。小豆島では明応九年(1500)の「利貞名外五名円畠塩浜等日記」に、六つの名の円畠・塩浜・山の所在地・作人名が記されていました。塩浜は測量されずに、浜数を単位としています。また作人は百姓・下人・かわやといったいろいろな階層が見られます。これは弓削島も岩城島・生名島、備後国因烏、備後国歌島も同じです。塩を年貢として収めてる場合は、これらの島々と同じようなスタイルがとられていたのです。ここから塩飽も同じ様に百姓による塩浜の経営で、田畠・塩浜・山を百姓が共同で持ち、製塩を行っていたと研究者は推測します。

以上のように15世紀末の小豆島では塩浜での製塩が活発に行われていたことを押さえておきます。
こうして生産された塩が船で大量に畿内に運び込まれていたのです。それが兵庫北関入船納帳(1445年)に登場する小豆島(嶋)船籍の船だったのでしょう。こうして、小豆島には「海の民」から成長した製塩名主と塩廻船の船主や問丸が登場してきます。彼らの中には前回お話ししたように「関立(海賊衆=水軍)」に成長するものも現れていたのでしょう。

瀬戸内海の海浜集落に中世の揚浜塩田があったことを推測できる次のような4条件があることは、以前にお話ししました。
①集落の背後に均等分割された畑地がある
④屋敷地の面積が均等に分割され、人々が集住している
③密集した屋敷地エリアに井戸がない
④○○浜の地名が残る
 最後に瀬戸内海の中世揚浜塩田の動きについて、もう一度確認しておきます。
①瀬戸の島々の揚浜製塩の発達は、海民(人)の定住と製塩開始に始まる。それが商品として貨幣化できるようになり生活も次第に安定してくる
②薪をとるために山地が割り当てられ、そこの木を切っていくうちに木の育成しにくい状態になると、そこを畑にひらいて食料の自給をはかるようになる。
③そういう村は、支配者である庄屋を除いては財産もほとんど平均し、家の大きさも一定して、分家による財産の分割の行なわれない限りは、ほぼ同じような生活をしてきたところが多い。
④小さい島や狭い浦で発達した塩浜の場合は、大きな経営に発展していくことは姫島や小豆島などの少数の例を除いてはあまりなく、揚浜塩田は揚浜で終わっている。
⑤製塩が衰退した後は、畑作農業に転じていったものが多い。
⑥畑作農家への転進を助けたのは近世中期以後の甘藷の流入である。食料確保ができるようになると、段畑をひらいて人口が増加する。
⑦そして、時間の経過と共に海から離れて「岡上がり」していく。
⑧以上から農地や屋敷の地割の見られる所は、海人の陸上がりのあったところの可能性が高い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「川野正勝 中世に於ける瀬戸内小豆島の製塩」
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讃岐の守護代は、讃岐東方守護代が安富氏で、西方守護代が香川氏で二人の守護代が置かれていました。前回は、西方守護代の香川氏とともに守護細川氏に仕えていた西方関立(海賊衆=水軍)の山地(路)氏についてお話ししました。
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書1997)の「海賊と関所」で、次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。「関立」とは海賊のことのようです。西方関立(海賊衆=水軍)があったのなら、東方関立があっても不思議ではありません。
さて讃岐に東方関立はいたのでしょうか?
 史料には、東方関立と記載されたものはないようです。しかし、小豆島にはそれらしき存在がいたようです。東方関立かも知れません。今回は小豆島の海賊衆を見ていきます。テキストは、「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。

小豆島航路
小豆島は瀬戸内海南航路の中継基地として機能
 紀伊から紀伊水道を渡り、讃岐・伊予の沿岸沿いを経て瀬戸内海を西に抜けて行く航路は、古代紀伊氏によって開かれた海のルートです。中世になると、そこに熊野水軍の船が乗り入れてきます。その船には、熊野行者たちが乗り込み、熊野信仰の布教活動や熊野詣・高野山詣のルートとして使用されるようになります。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に形成された修験集団が児島五流です。
 この集団は13世紀になると活発な活動を展開するようになります。彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想」を共有するようになります。

五流 尊瀧院
五流修験道 尊瀧院
五流を拠点に熊野の交易船や熊野行者たちは、次のような所に新たな拠点を開いたことは以前にお話ししました。
①塩飽・本島 
②多度津・堀江  道隆寺
③引田      与田寺
④芸予諸島大三島 大山祇神社
⑤伊予石鎚山   伊予、太龍寺 三角寺
 五流修験道は、熊野信仰の瀬戸内海ネットワークを形成していきます。
五流 備讃瀬戸
五流修験道のネットワーク拠点 
これらの港を熊野海賊衆(水軍)の船が頻繁に出入りするようになります。こうして、児島湾周辺は、熊野信仰が根強い地帯になっていきます。そんな中で南北朝抗争期には、熊野勢力は南朝方を担ぎます。熊野行者たちも、南朝方の支援活動を展開するようになります。

小豆島 佐々木信胤2
佐々本信胤の廟(小豆島町)

そんな中で五流修験の影響を受けた備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動するようになります。信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、東瀬戸内海制海権を掌握しようとしたようです。戦前の皇国史観では、忠君愛国がヒーローとしてもてはやされたので、讃岐では信胤も楠正成とならぶ郷土の英雄として扱われたようです。しかし、佐々本信胤に従ったとされる小豆島の海賊衆が記された史料はありません。

小豆島 佐々木信胤
佐々木信胤廟の説明版

その後の室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下に置かれ、守護代の安富氏が管轄するようになります。『小豆島御用加子旧記』には、小豆島の海賊衆は細川氏の下で加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
 塩飽では、細川氏の下で安富氏が代官「安富左衛門尉」が派遣し管理していてことは前回見ました。その管理形態は緩やかで、塩飽衆を管理しきれず野放し状態になっていました。同じようなことが小豆島
でも云えるようです。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表

兵庫北関入船納帳(1445年)の中に出てくる通行税を納めるために兵庫北関に入港した讃岐船を一覧表にしたものです。
ここで「島」として登場するのが小豆島だとされています。讃岐ベスト3の入港数を小豆島船籍の船は数えます。畿内との活発な交易活動を行っていたことが分かります。その積荷を見ておきましょう。
3 兵庫 
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積荷一覧
   讃岐船の積荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の8割は塩です。塩の下に(塩)の欄があります。例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、児島産の塩という表記です。「地名指示商品」という言い方をしますが、これが塩のことです。塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。これを見ると讃岐船は「塩輸送船団」のようです。塩を運ぶ舟は、大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。小豆島船も塩を大量に運んでいます。
小豆島では、中世に塩は作られていたことが史料から分かります。
明応九(1500)年丁己正月日の赤松家の祖・利貞名家吉によって書かれた地検帳の中に内海の3つの塩浜が記されています。
その浜数と塩生産額は次の通りです。
 利貞名(大新開)浜数65、生産高53石5斗1升
 岩吉名(方城) 浜数16、生産高13石6升
 久未名(午き) 浜数利貞分18、生産高14石1斗1升
    合計  浜数116 生産高94石7斗2升 
「大新開は早新開」「方城は字片城」「午きは早馬木」になるようです。ここに記された塩浜のあった場所は、内海湾に面するエリアで、利貞名家吉の勢力下の塩浜だけに限られています。内海より西の池田、淵崎、土庄地区の塩浜についての記述がないのは、利貞名主家吉が内海湾に面する安田在住の土豪であったからでしょう。彼の力の及ぶ範囲は内海地方に限られていたとしておきましょう。
小豆島 地図
小豆島
そう考えると、小豆島南側の内海湾から土庄にかけては15世紀には塩田がならび、それを畿内に運ぶ塩船団がいたことが分かります。これらを運営していたのは「海の民」たちの子孫でしょう。彼らは、塩生産やその海上運輸・商業活動などに関わるようになり、船主や問丸などに成長して行きます。その富が港には蓄積して、寺社の建立が行われることになります。
本蓮寺 | たびおか-旅岡山・吉備の国-
牛窓の本蓮寺

小豆島の対岸の備中
牛窓の本蓮寺の建立について見ておきましょう。
本蓮寺建立については、石原氏の貢献が大きかったようです。牛窓の石原遷幸は土豪型船持層で、もともとは
荘園の年貢輸送にかかわるた「梶取(かじとり)」だったようです。彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」していました。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、畿内の問丸の手が必要となるのです。
 荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。地方の梶取りや船持ちなどは、この問丸の発注を受けて荷物を運ぶ者も現れます。また兵庫や尼崎の問丸の中には、日蓮宗の日隆の信徒が多くいたようです。そして、「尼崎・兵庫の問丸ネットワーク + 法華信仰」で結ばれた信者たちが牛窓や宇多津で海上交易に活躍します。彼らは、そこに「信仰+情報交換+交易」などの拠点として寺院を建立するようになります。日隆の法華経は、このようにして瀬戸内海に広がって行ったのは以前にお話ししました。宗派は異なりますが小豆島の池田でも同じような関係が摂津との間で行われていたと私は考えています。
 交易がもたらすものは、商売だけにとどまらないのです。服装や宗教などの「文化情報」も含まれています。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、宗教や祭礼などの文化が瀬戸内海に広がって行ったとしておきましょう。

小豆島 明王寺釈迦堂4
小豆島霊場 明王寺
   小豆島島遍路の札所に明王寺があります。
この境内に釈迦堂が建っています。もともとは、この建物は高宝寺の釈迦堂だったようです。高宝寺は明王寺以下、池田庄内11カ寺の諸法事勤仕の会座堂でしたが、江戸時代初め無住となります。そのため釈迦堂は、明王寺が管理するようになり、現在に至っているようです。
小豆島 明王寺釈迦堂
       明王寺の釈迦堂(重文指定 室町時代)

この釈迦堂は室町末期の建築で、戦前は国宝でしたが、今は文字瓦と棟札・厨子とともに重要文化財に指定されています。
 釈迦堂に保管されている文字瓦は、現在23枚あります。
小豆島 明王寺瓦文字3
明王寺釈迦堂の文字瓦
その1枚に「為後生菩提百枚之内」と記されているので、もともとは平・丸・鬼瓦合わせ百枚あったと研究者は考えているようです。瓦の大きさは、
丸瓦が長さ約26cm、径約22,7cm。
平瓦は縦 約29cm、横約23cm、厚さ約20cm
刻印された文字瓦には、年月日・瓦大工名・寄進者・願主と簡単な言葉が箆書きされています。その中で文字の多い瓦を見ておきましょう。
小豆島 明王寺瓦文字2
大永八年と 大工四天王寺藤原朝臣新三郎の名前が見える

「千時大永二年壬子歳此堂立畢 同大永八年二月廿三日より瓦思立候也願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎」

意訳変換しておくと
釈迦堂は大永2(1522)年に着工。大永8(1528)年2月23日から瓦葺開始。願主権律師宥善 大工四天王寺藤原朝臣新三郎

ここからは、建立年代や願主、瓦大工が分かります。注目しておきたいのは、摂津四天王寺から瓦大工の藤原朝臣新一郎がやってきて瓦を葺いていることです。文字瓦の中には「四月廿七日 天王子寺主人永八天」と記されたものもあるので、天王寺主も関係があったようです。どちらにしても、小豆島海賊衆と四天王寺や天王寺などの有力者との日常的な交易関係がうかがえます。
 残された文字瓦の字体は、共通点が多く寄進者がそれぞれ書いたのではないようです。寄進者の思いを受け止めて、本願の池田庄円識坊や権律師宥善らが書いたものと研究者は考えています。こうしてみると、この文字瓦は釈迦堂建立の浄財を集めるための手段でもあったようです。それに応じている人たちは、信仰心とともに小豆島の海賊衆(水軍)とも何らかの関係を持っていたことがうかがえます。
 釈迦堂が大永2年(1522)年に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことを押さえておきます。

小豆島 明王寺釈迦堂 厨子
釈迦堂内の厨子
最も長い文章が書かれている瓦を見てみましょう
  大永八年戊子卯月二思立候節、細川殿様御家大永六年より合戦始テ戊子四月二十三日まて不調候、島中関立翌中堺に在津候て御留守之事にて無人夫、本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年二十七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

意訳変換しておくと
  大永8(1528)年戊子卯月に寄進を思立った。その間、細川晴元殿様が大永六(1526)年から合戦を初めたために戊子4月23日まで、島中(小豆島)の関立(海賊)は動員され、堺にとどまった。そのため島は留守状態となり、人夫も集まらず、本願も瓦大工などへの気遣もできず、工事は思うようにすすめることができていない。阿弥陀も哀れと思し召し、後生の善所と堪忍してただきたい。
このように申し上げるのは池田庄向地の住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年27 このように書き置くも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ、

ここからは次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)に細川晴元が四国の軍勢を率いて堺へ渡り、細川高国と戦ったこと。
②その際に晴元は、小豆島の関立(海賊衆)に兵船動員を命じていること
③小豆島海賊衆は晴元に従い、1年余り堺に在陣して小豆島を留守にしていたこと
④そのため建設中の釈迦堂の工事が停滞していることを河本三郎太郎吉国が瓦に書き残したものです。小豆島の海賊衆が管領細川晴元の支配下におかれていたこと
以上から、讃岐の東方と西方に関立(海賊衆)がいて、下のような関係にあったと云えそうです。
讃岐東方守護代 安富氏 ー 東方関立 ー 小豆島(島田氏)
讃岐西方守護代 香川氏 ー 西方関立 ー 白方 (山路氏)
釈迦堂が建設されていた頃の畿内の情勢を見ておきましょう。
文中の細川殿様とは細川晴元のことです。

細川晴元

大永6(1526)年頃、晴元は四国勢力を背景に、京の細川高国と争っていました。大永7(1527)年に四国の兵を率いて堺へ渡り、和泉を制圧して高国に対抗します。翌年の大永8(1528)年に、和議が成立しています。Bの史料には、「島中関立(海賊)翌中堺に在津」のため「島の兵船も晴元に従い堺に出陣」し「御留守之事にて無人夫」とあります。こうした状況から、釈迦堂は大永2年に棟上したが、細川氏の同族の内紛が続き、瓦の製作など思いもよらない状態になったこと、大永8年になってやっと瓦製作を思い立ち、棟札に「奉新建立上棟高宝寺一宇天文第二癸巳十月十八日」とあるように、天文二(1533)年にやっと完成したことが分かります。。
 この瓦の寄進者は、「池田荘向地住人 河本三郎太郎吉国・吉時と記されています。
池田荘の住人であることが分かります。その文中には「阿弥陀も哀と思食、後生善所に堪忍仕」とあります。瓦大工や本願が寄進した瓦にも「為後生善所……」「諸人泰平 庄内安穏……」「南無阿弥陀仏……」など彼等自身や池田庄内の無事泰平を祈願しています。同時に「極楽ハはるけきほとゝききしかと つとめていたる所なりけり」や「心たに誠の道に叶なは、いのらずとても神やまもらん」など記され、彼らが阿弥陀・浄土信仰の持ち主であったことがうかがえます。ここには池田荘に阿弥陀・浄土信仰が高野聖たちによっても田あされていたことが見えてきます。彼らを通じて、摂津の四天王寺や天王寺・堺と池田はつながっていたのかもしれません。そして秀吉の時代になると、東瀬戸内海の海軍司令長官として小豆島を領有するようになるのが、堺出身の小西行長です。行長は小豆島を神の国にするべく宣教師を呼び寄せています。池田や内海でも布教活動が行われます。そして、秀吉の宣教師追放令以後には行長は高山右近をここに匿うことになることは以前にお話ししました。
小豆島 明王寺釈迦堂3

以上をまとめておきます
①中世の小豆島は備中児島の五流修験(新熊野修験)の修行場として、数多くの行場やお堂が開かれた。
②南北朝抗争期には、備前国児島郡の佐々本信胤は、小豆島の海賊衆を支配下におき、小豆島を南朝勢力の拠点として活動した。
③信胤は、五流修験者を通じて、紀伊国熊野海賊衆と連携し、東瀬戸内海の制海権を支配しようとした。
④小豆島は、引田や志度などの東讃の港の中継港の性格も帯びてくる
⑤15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、小豆島の船が大量に塩を畿内に運んでいたこと。塩が生産されていたことが分かる。
⑥こうして港の経済活動によって池田や内海は、海賊衆(水軍)の拠点として発展していく。
⑦彼らは守護細川氏に従うことを条件に、交易活動の特権を得ていく。
⑧16世紀には、細川晴元の畿内遠征に輸送船を提供している。それだけの船と水夫達がいたことうかがえる。
⑨この畿内遠征と同時進行で建立されていたのが池田荘の明王寺釈迦堂である。
⑩この建立は、池田の海賊衆リーダーによって行われたものであるが、瓦大工は摂津四天王寺からやってきていて、畿内との密接なつながりがうかがえる。
⑪文字瓦には「阿弥陀・浄土信仰」がみられ、高野聖などの活動がうかがえる。この時期に、熊野行者から高野聖へのシフトが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「橋詰茂  海賊衆の存在と転換  瀬戸内海地域社会と織豊権力」
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