瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尾池官兵衛

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が大川神社(権現)に寄進した雨乞用の鉦
1626(寛永3)年  旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春   浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年 8月   西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月   西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
      尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月  生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
1620年代後半に讃岐生駒藩は長年の旱魃で飢饉となり、多くの農民が土地を捨てて逃散していきます。まさに存亡の危機に追い込まれます。これに対して当時、生駒藩の後見人だった藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えます。

「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることが肝要である。ついては目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

  藤堂高虎の指示に従って、生駒藩は目付として送り込まれていた西嶋八兵衛のもとに団結し、危機を乗り越えようとします。当時30歳だった西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられ、「ため池 + 大型河川の治水灌漑 + 用水路網整備 + 農地開墾・開拓」などがセットになった「丸亀平野総合開発事業」がスタートします。
 西嶋八兵衛は藤堂高虎から英才教育をうけていて、天下普請の京都二条城、大阪城などにも参加し、設計や現場監督も務めた経験をもった当代一流の土木技術者でもありました、その彼に持てる力を発揮する場所が与えられたことになります。別の視点から見ると、城づくりなどの軍用技術が、天下泰平の世の中になって、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。ながくなりましたがここまでは前振り導入です。ここからが本題です。
 当時の西嶋八兵衛の動きを追いかけていると、本当にこれをひとりでやったの?と思えてきます。
 彼は「目付」の「レンタル客臣」で家老並みの石高2000石待遇です。今の県庁で云うと、総務部長・土木建築部長・東京出張所所長というポストかもしれません。そして残された文書には、3人の奉行の一人として彼の花押(サイン)があります。つまり目を通していたことになります。現場監督をやっている暇はなかったのではないかと思えるのです。もともと西嶋八兵衛は満濃池を造りに派遣されたのでありません。後見人の藤堂高虎の目付(全権委任責任者)として、讃岐にやってきているのです。
 そんな疑問の中で、私が注目したのが尾池玄蕃です。
彼については、以前に次のようにまとめました。

尾池玄蕃2

こうしてみると、尾池玄蕃は「丸亀平野開発プロジェクト」を担った能吏のひとりであったことが見えてきます。ところが生駒騒動前に尾池玄蕃は、熊本藩細川家に招かれ、百人扶持でトラバーユしていくのです。さらに後には二人の子供も、熊本藩に就職し、それぞれ千石拝領されています。形としては生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようにも見えます。尾池玄蕃の肥後藩への再就職には、どんな背景があったのか気になっていました。それに応えてくれる論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」です。

まず、尾池玄蕃の息子の 西山至之(にしやまのりゆき)を、ウキで見ておきます。
室町幕府13代将軍足利義輝の遺児といわれる尾池義辰(玄蕃)の子。初め尾池伝右衛門(諱:唯高)と称し、後に姓名を改めて西山左京(至之)を名乗った。父を招いた熊本藩主細川忠利から細川綱利の代まで仕える。石高は1000石。家格は比着座同列定席。子に西山重辰、西山之氏。経歴『全讃史』によれば、父の義辰は讃岐高松藩主生駒家より2000石を授けられており、至之と弟の尾池藤左衛門が各1000石を相続したという。 寛永14年(1637年)の生駒家改易(生駒騒動)や島原の乱の頃に肥後熊本藩主細川氏から熊本城下に召し寄せらる。高松藩時代同様に知行1000石・無役・客分に遇され、左右着座の上座にあたる比着座同列定席の家格に編入される(弟の藤左衛門も1000石を知行した)。
新たに称した西山姓は室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣ったものかと思われる。綱利の参勤交代に従って江戸に滞在する間に病没した(後略)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①尾池玄蕃には、3人の子どもがいて、長男が西山至之(伝右衛門)、次男が尾池藤左衛門が供に、細川藩に仕えることになった。ちなみに末子:官兵衛は生駒藩に残り、後にその子孫は大野原開発に関わることになる。
②尾池玄蕃は、室町幕府の足利義輝の嫡男であることを宣言するために「足利道艦」と改名した。
③長男の尾池伝右衛門も、室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣って「西山」に改姓した。
ここからは、尾池玄蕃が「足利義輝の直系子孫」であることを強く印象づけようとしていることがうかがえます。どうして、そのような必要があったのでしょうか?
研究者が新たに発掘した書状を見ていくことにします。
発給者の曾我古祐・包助は、足利将軍家の直臣で、この時点では徳川将軍家に召し抱えられた曽我氏の子孫になるようです。兄の古祐は大坂町奉行、弟の包助は館林松平氏(徳川一門)の家老をつとめつ立場で、徳川将軍家に重用されていたことがうかがえます。

武家家伝_曽我氏
曽我氏系図 「曾我兄弟」の子孫

一方、受取人は西山左京・八郎兵衛で、尾池玄蕃の長男で、彼らは足利義輝(室町幕府十三代将軍)の落胤を称していたことは先ほど見た通りです。つまり、足利幕府にかつて使えていた者同士の書簡のやりとりということになります。それでは見ていくことにします。

尾池玄蕃 旗本家からの書状
 意訳変換しておくと
 なお(西山左京の息子)勘十郎様や山三郎様へ書簡を先に差し出しておくべきところですが、長年音信不通で連絡がとれなく返信が困難な可能性もあり見合わせていました。道閑(尾池玄蕃)様は、このとをご存じないと存じて書状も差し上げませんでした。
 尾池伝右衛門尉殿が江戸へお上りになることについてご連絡頂き、それを見て、勘十郎様・山三殿にもお伝えしました。伝右衛門尉殿については(細川家への就職が内定し)、おめでとうございます。細川殿は肥後在国中だそうですがで、そろそろ江戸に出立するころと察せられます。なお将軍(家光)にも若君様(長男竹千代:後の徳川家綱)が御誕生したとの情報が内々ではひろがっています。これは肥後殿にとっても大慶で、下々に至るまで恐悦なことです。また私儀のことになりますが、急な用向きで、先月21日朝に、大坂へ帰任しましたが、いろいろなことで書簡を出すのが遅れてしまいました。心配しておりましたが、藤左衛門尉殿が京都にいらっしゃるようですが、日程が合えばお会いしたいとも思います。猶期後音之時度候、恐惶謹言、
曽我丹波守八月十(寛永十八年)
 八月十七日 (曽我)古祐(花押)
 西山左京様参御報(尾池)

この文書からは次のような情報が読み取れます。
①大坂町奉行在任中の曾我古祐が、西山左京に宛てた書状であること
②時期は「若君様の御誕生」から、将軍徳川家光の子息で八月出生は、寛永十八年(1641)の長男竹千代(後の徳川家綱)だけなので、この書簡は1641年のもので、生駒騒動発生前年のことになること
③内容は、尾池玄蕃の次男伝右衛門が江戸に下向することを伝えたことへの左京の書状の返書
④追伸部分に登場する勘十郎と山三郎は、西山左京の子息にあたる。
⑤江戸下向が話題にのぼっている尾池伝右衛門・藤左衛門も西山左京と同じく、足利道鑑(尾池玄蕃)の子息になる。
この中の伝右衛門については、従来は西山左京と同一人物とされていました、しかし、この書簡からは別人であったことが確認できます。以上から、尾池玄蕃は三人(西山左京と尾池伝右衛門・藤左衛門)息子と行動をともにしていたとしておきます。
ここで研究者が注目するのは②のこの書簡が、生駒騒動発生の前年にあたることです。
それでは、沈み行く生駒藩から尾池玄蕃とその息子たちが肥後の細川藩へと乗り換えたのはいつなのでしょうか。最初に肥後藩に仕えたのは、次男の西山左京だったようです。そして肥後藩の大阪事務所に勤務するようになります。それがいつなのかはよく分かりません。ただ、寛永15年(1638)には左京は熊本に移り、細川氏の家中に加わていたことが確認できます。その3年後(1641年)正月二日に、熊本で藩主細川忠利は、尾池玄蕃と西山左京勘十郎・山三郎をはじめとする家中の客分たちを熊本城の奥書院で引見しています。ここからは、1641年には尾池玄蕃と次男の西山左京は、細川藩の客分として正式に迎え入れられていたことが分かります。
 研究者が注目するのは、この時の藩主引見には、尾池伝右衛門・藤左衛門の二人の息子の名前がないことです。
尾池玄蕃や左京とちがって、伝右衛門・藤左衛門はまだ細川氏に召し抱えられていなかったと研究者は判断します。 この書簡がやりとりされた1641年の時点では、息子の尾池伝右衛門・藤左衛門のリクルートはまだ進行中で、実現はしていなかったことを押さえておきます。
 そんななかで藩主忠利が寛永18年3月に熊本で死去します。これにより伝右衛門・藤左衛門のリクルート対象は、忠利から嫡子の光尚に替わります。父が亡くなったときに光尚は江戸にいて、将軍家(家光)から家督相続と帰国を許され、熊本に下向ています。そして、用向きを終えると9月末頃に再び江戸に向かって出立しています。その途中の伏見で尾池藤左衛門と対面しています。この「殿様面接」を経て、藤左衛門も細川氏への仕官が正式決定となります。そして12月17日に、妻子を連れて熊本に到着します。
 以上から書簡に出てくる尾池伝右衛門・藤左衛門の江戸下向とは、伏見で江戸に向かう藩主細川光尚と合流し、その江戸参府に随行して上京する計画だったと研究者は考えています。書簡からは、藤左衛門が京都にいたことが分かります。それは藩主光尚の熊本出立を京都で待っていたいたようです。分からないのは、藤左衛門のみが藩主と対面していることです。伝右衛門の名前がないのです。
こうしてみると、細川家は生駒家に仕えていた尾池玄蕃と2人の息子を、客分待遇1000石で迎え入れたことになります。それも生駒騒動勃発の直前です。
尾池玄蕃の家族を客分として迎えた細川藩には、どんな思惑があったのでしょうか?
 近世に生き残った将軍足利氏の子孫としては、次の2氏が知られているようです。
A 鎌倉公方・古河公方の系譜を引く喜連川氏
B 足利義稙(十代将軍)の系譜を引き、足利義栄(十四代将軍)を輩出した平島氏
Aの喜連川氏については徳川将軍家、 Bの平島氏は阿波蜂須賀氏によって扶助されました。
しかし、喜連川氏や平島氏がと違い、尾池氏(西山氏)は、真正の足利氏後裔とはいえません。自称「足利義輝の子孫」なのです。
細川家には近世大名にのし上がるまでに数々の栄光がありました。その中にただひとつ汚点があります。それが家祖・藤孝(幽斎)が将軍足利義昭(義輝弟)の側近でありながら、織田信長に通じて義昭を裏切ったことです。これは、細川氏が自分の系譜を誇るうえで、マイナスポイントとして作用するようにもなります。そこで、細川氏は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の真偽を度外視して、尾池玄蕃と西山左京父子を家中に迎え入れたと研究者は考えています。これは「弟(義昭)は裏切ったが、兄(義輝)の子弟は客分として迎えている」という「旧主を庇護する忠臣の演出」ということになるのでしょうか。
 足利道鑑(尾池玄蕃)や西山氏・尾池氏を足利将軍家の後胤とするのは、肥後細川氏の家中の中だけで通用する虚構でした。ところが、足利家の末裔で徳川幕府の有力旗本となっていた曾我古祐・包助兄弟も、西山氏と交際するようになります。足利義昭を見捨てて、後の戦乱の世を生き延びたという経緯は、熊本の細川家と同じです。そのため、旗本の曾我兄弟は細川氏の「尾池玄蕃=足利将軍の落し子」というフィクションを受入て、西山父子を尊重する態度をとっていたのは、先ほど見た書簡の通りです。これについて研究者は次のように記します。

その裏には、今は徳川将軍家の旗本であるが、かつての旧主(尾池・西山家)にも礼を尽くしているというポーズを演出しつつ、足利将軍家旧臣としての自意識を満たそうとしたのだろう。

以上をまとめておきます。

①伊勢藩の藤堂高虎が目付として生駒藩に派遣した西嶋八兵衛は、大旱魃への対応策として「ため池 + 治水工事 + 用水路整備」がセットになったで大規模な「総合開発事業」を各地で同時に進行させた。
②丸亀平野地域の責任者が尾池玄蕃で、青野山に代官所をもうけて指揮にあたった。
③それが残された大川山の鐘や、多度津念仏踊りの史料からうかがえる。
④尾池玄蕃は自分の出自を、室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児と称した。
⑤そして讃岐香川郡の横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)の養子となったとした。
⑥後に生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。
⑦二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
⑧熊本藩細川家は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の虚構をあえて信じて「旧主を庇護する忠臣」という立場を演出した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」
関連記事

尾池平兵衛覚え書

尾池平兵衛覚書 四国新聞
 
図書館の新刊書コーナで、「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」という冊子を見つけました。手に取ると久保道生氏が「観音寺市古文書研究会」のメンバーとの読み込み活動の成果として「大野原開基380年」に出版されたものです。原本史料の下に印字文が書かれていて、古文書を読むテキストにも最適です。
1大野原地形

  大野原は雲辺寺の五郷から流れ下る柞田川の扇状地で、砂礫の洪積台地で地下水が深く中世までは水田化が進まなかったことは以前にお話ししました。そのため近世初頭までは「大きな野原=おおのはら」のままの状態だったようです。「大野原総合開発事業」が開始されるのは、生駒騒動後に讃岐が2つに分割され、山崎家が丸亀城主としてやって来るのと同時期のことで、寛永20(1643)年のことになります。昨年が380周年になるようです。
 開発の主役は京都の商人・平田与一左衛門で、巨費を投じて新田開発に着手します。そのことを書き留めたのが、平田家の手代・尾池平兵衛です。彼は開墾10年目にの11歳で丸亀から大野原新田にやってきて享保元年(1716)まで60年に渡って、新田開発に関わった人物です。その彼が残した史料を採録し、解説したものがこの書になります。
最初に尾池家について記した部分をまとめておきます。
①尾池平兵衛(1654~1720)の祖父・尾池官兵衛は、生駒家に仕える武士。
②『西讃府志』の「生駒家分限帳」に、生駒将監の組内に、高二百石の尾池官兵衛の名あり。
③生駒騒動(1640)年で、官兵衛は領主について改易地の矢島へ行くが、すぐに丸亀へ帰郷。
④その息子が平兵衛の父・尾池仁左衛門(1666~88)で、「仁左衛門 町年寄相勤申」とあり町年寄を務めていた。
「町年寄」とは、町奉行の下で町の令達・収税を統括役する役割です。町人ですが公儀向の勤めを立場であったことが分かります。ここからは、生駒騒動後の身の振り方として、祖父は主君に従って一旦は改易地にいきますが、すぐに状況を見て帰讃して、武士を捨てたようです。父は山崎藩の下で塩飽町の町年寄りを務めるようになっています。塩飽町の町年寄とあるので、旅籠的なものを営んでいたのではないと思います。それは、京都の平田家が丸亀来訪時の常宿に尾池家をしているからです。

ちなみにウキには「尾池官兵衛は尾池玄蕃(義辰:よしたつ)の末子」と次のように記します。
尾池玄蕃は、高松藩主生駒氏の下にあったが、熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。
中略
 横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)の養子となった玄蕃は、讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①尾池玄蕃は、生駒騒動の直前に息子二人と熊本藩細川家にトラバーユした
②尾池玄蕃の末子官兵衛は西讃に残ったが生駒騒動で禄を失った。
③官兵衛の子・仁左衛門(1666~88)は、在野に下り、丸亀福島町の旅籠経営し町年寄を務めた
④その旅籠を定宿としていたのが、京都の平田家であった。
⑤そのため平田屋の大野原開発事業に対して協力的であった。
⑥そのような中で生まれてくるのが仁左衛門の子・平兵衛であった。
こうしてみると平兵衛の祖祖父は、尾池玄蕃であったことになるようです。

このくらいの予備知識を持って「尾池平兵衛覚書」を最初から読んでいくことにします。

尾池平兵衛覚書
                  尾池平兵衛覚書
01 大野原開墾と仲間のこと
尾池家と大野原新田開発との関わりを、「覚書」は次のように記します。 
尾池平兵衛覚書1
         尾池平兵衛覚書01ー1「大野原開墾と仲間の事」
  平兵衛大野原江被曜申由緒ハ、山崎甲斐守様丸亀御拝知被為成、御居城御取立入札被仰付候。依之京都平田与市左衛門様銀本ニテ、手代木屋庄二郎、大坂備中屋藤左衛門殿、同所米屋九郎兵衛子息半兵衛、同所三嶋屋亦左衛門右四人連ニテ下り、塩飽町同苗仁左衛門宅ヲ借り逗留候。御城入札ハ何茂下り無之内二埒明申二付、折角遠方ヲ下り此分ニテハ難登候。相應之義ハ有之間鋪哉卜仁左衛門へ被尋候。仁左衛門答ハ自是三里西二高瀬村卜申所二余程之入海在之候。是ヲ築立候ハヽ新田二可成と望手も有之候得共、未熟談無之と申候ヘハ、ゐと不案内二候。乍大義同道頼度との義二付、仁左衛門同道彼地一覧被仕、成程新田ニモ可成候得共、連望申上ハ此場所ヨリ廣キ所ハ有之間鋪哉と評判申候処へ、何方トモナク出家壱人被参、各々ハ何国方被参候哉と被申候ヘハ、右之子細申聴候。
意訳変換しておくと
尾池平兵衛が大野原開発に関わるようになった由縁は次の通りである。
①山崎甲斐守様が天草から藩主としてやってきて、丸亀城の改修工事の入札を行うことになった。②入札に参加するために京都の平田与一左衛門様を元締にして、平田家手代の木屋庄三郎、大坂の備中屋藤左衛門、同所米屋九郎兵衛の子の半兵衛、同じく大坂の三島屋亦左衛門の四人が連れ立って丸亀にやって来た。③そして丸亀塩飽町の尾池仁左衛門宅を借りて逗留し、入札への参加を企てたがすでに終わってしまっていた。④そこで四人は『せっかく遠方からやって来たのに、このままでは帰れない。どこか相応の物件はないものか』と仁左衛門に尋ねた。これに対して『ここから三里西へ行ったところに高瀬村という所があります。そこに広い入海(三野湾?)があります。そこに堤を築き立てれば新田になる』と答えます。
 四人は地理に不案内なので仁左衛門に案内を乞い、高瀬村へやって来た。しかし三野湾は確かに新田にはなるが余りにも狭い。もっと広い所は無いものかと、あれこれ話していた。そこへどこからともなく一人のお坊さんがやって来た。そのお坊さんに、どこからやってきた客人か?などと聞かれるままに事の次第を話した。
これらを関連年表の中に落とし込んでおきます。
1628年 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
1641年 幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を、出羽国矢島1万石に移す.
   同年 肥後天草の山崎家治に西讃5万石を与えられ、城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年 ①幕府より丸亀の廃城を修築し居城にすることを許され、入札開始(小規模改修)
   同年 ②入札参加のために平田与一左衛門の手代等が丸亀にやってきたが入札はすでに終了。
      ③その際に宿したのが塩飽町の町役人の尾池家
1643年 ④尾池家の案内で大野原視察し、開発開始。井関池着工
1645年 大野原開墾古図作成。
1663年 二代目平田源助(与左衛門正澄)が京都から大野原へ本拠地移動
1665年 尾池平兵衛が11歳で大野原へやってくる。
私がここで気になったのは、ここでは丸亀城の改修工事の入札のために、京都の平田氏を中心とする大商人の手代達がやってきたとあることです。そうだとすると、山崎藩はお城の普請工事を大商人に請け負いさせていたことになります。
続いて尾池平兵衛覚書を見ていきます。
 
尾池平兵衛覚書2
 尾池平兵衛覚書01ー2「大野原開墾と仲間の事」
彼僧被申ハ、是ヨリ三里西二壱里四方之野原在之候。此場所生駒様御時代二、新田二被仰付トテ谷川ヲ池二築掛在之候。御落去以後、打捨り居申候。今日被参候テ見分可然と申、兎哉角評判申内彼僧行衛不知候。末々二至テ考申ハ、平田家筋ハ法花(華)宗高瀬二法花寺在之候。芳以祖師之御告ニテ可在之と申博候。

 右教ノ□其日中姫村迄参庄屋ヲ尋候ヘハ、四郎右衛門ト申此宅二何茂一宿仕、四郎右衛門案内ニテ及見有、荒給固二書丸亀へ帰宅申、新田ニモ望候ハヽ請所二可被仰付哉と宿仁左衛門ヲ頼、甲斐守様御役人衆へ内窺仕候。其働甲斐様御一家二山崎主馬様卜申テ、此御方ョリ仁左衛門内方ヲ筆娘二被成候由緒と申、仁左衛門町年寄相勤申二付御公儀向勤、亦則右之旨内窺申上候ヘハ、成程請所二願候様二
と被仰二付、
京都へ相達候得ハ重畳ノ義二候、御城普請ハ営分縦利潤在之テも末々難斗候。新田卜申ハ地一期子孫二相博候得ハ、万物二勝タル田地ノコト、随分御公儀向宿仁左衛門ヲ頼願叶次第、瑞左右可申越と申末候。然故新田願書指上ケ、首尾能相叶候新田成就之時ハ、六ツニ〆三ハ与市左衛門様、残三ヲ右二人卜〆取申極。然共始終ノ銀子入目ヲ元利与市左衛門様へ返済無之候テハ、右之配分無之極之書物二候。
意訳変換しておくと
するとお坊さんは次のように云った。①『ここから三里西に、一里四方の野原がある。ここは生駒様の時代に新田にしようと、谷川をせき止め池を築こうとしていたのだが、生駒様御落去で打ち捨てられ今日に至っている』とのことであった。それを聞いてとにかく行ってみようと相談しているうち、ふと気がつくと、お坊さんはいなくなっていた。後々になって思い至ったのは、②『平田家は法華宗であり、高瀬には大きな法華寺院(本門寺)があるので、これは日蓮祖師のお導き違いない』と申し伝えられている。」

 教えの通りにその日のうちに五人は中姫村へ行き、庄屋の四郎右衛門の家に一泊し、翌日には四郎右衛門の案内で原野を視察した。③それを直ぐに「荒絵図」に描き記し、仁左衛門を通じて新田開発願いを藩の役人に提出した。なお仁左衛門の奥方は藩主・山崎甲斐守の一族・山崎主馬の娘を、頼まれて筆娘にした懇ろな関係にあったことや、仁左衛門が町年寄を務めるなど公儀の役目にあったこともプラスに働いたようだ。

 この視察報告を受けた京都の平田与一左衛門は、「大変結構な事である。御城普請は一時の利益に過ぎないが、新田開発は末々まで価値を生む田地を子孫に残す万事に勝る」との快諾の返事を寄した。こうして、新田開発が首尾良く成就した際には、3/6は平田与市左衛門様、残りを備中屋・米屋・三嶋屋で分与すること。但し備中屋・米屋・三嶋屋は平田が立替えた費用の自己負担分を元利合わせて返済した場合のみ、6分の1の配分に関わる権利を有すること約した。但し、最初に平田家が立替えた銀子費用の返済がなければ、これは適用されないという契約内容を文書で交わした。

ここには次のような事が記されています。
①僧侶は生駒藩時代の新田開発候補地として「大野原」を勧めた。
平田家は法華宗なので、法華衆の高瀬本門寺の宗祖日蓮の導きにちがいないとした。
③大野原を新田開発の適地として、山崎藩に申し出ると問題なく認可が下りた。
④着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間」を形成した。
⑤そして開墾にかかる費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと、そこから上がる利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ることが約された。


尾池平兵衛覚書02
 02尾池仁左衛門長男に庄大郎と命名したこと

右之由緒ニ付、仁左衛門子共之内壱人ハ大野原江囃当国之支配ヲモ頼可然と、新田取立前後評判在之候処二、幼少二付大野原へ可預ケ様無之と打捨置候。併讃岐新田鍬初之時分ヨリ宿と言、御公儀然願ハ仁左衛門被致候ヘハ、子共ノ内責テ為由緒名成共付置候得と、与市左衛門様ヨリ手代庄二郎へ被仰越、則仁左衛門惣領男子ヲ庄三郎ョリ庄太郎卜名ヲ付被申候。其時分仁左衛門ヨリ庄二郎然へ頼申手筋ニテ無之候得共、与市左衛門様御名代二庄二郎と従御公儀御證文ニも書載申程ノ庄三郎二候ヘハ、右之首尾二仕候処ニ庄太郎死去申候。右之由緒二付大野原開発ヨリ今二至迄宿卜成候。

意訳変換しておくと
この関係について、尾池仁左衛門の子供の内の一人は平田家へ奉公に出して、後々には大野原新田の経営に当たらせるという話が当初からあった。しかし、仁左衛門の子供はまだ幼少だったので、打ち捨てられて具体的な話は進まなかった。これと併せて、新田開発当初から尾池仁左衛門宅は平田家の定宿となり、讃岐支社の様相を呈し、丸亀藩へとの連絡業務は仁左衛門を通じて行われていて、両者の関係はますます深くなった。そこで京都の平田与一左衛門は、手代の庄三郎に対して「両家の深い付き合いの手始めに、仁左衛門の惣領男子の名付け親になるように」と命じた。(この時(与一左衛門の子・与左衛門(大野原平田家の祖)は、まだ大野原へは来ていなかった)。そこで庄三郎は、自らの「庄」の字を取って仁左衛門の長男に庄太郎と名付けた。こうして将来は庄太郎が大野原へ来るものと皆思っていた。ところが庄太郎が病死してしまった。そこで寛文年間(1661~73)に、庄太郎の代わりに平兵衛が大野原へ来ることになった。

ここからは次のような事が読み取れます。
①当初から尾池仁左衛門の子供の一人を平田家へ奉公にだすことが約されていたこと
②尾池仁左衛門が新田開発について藩とのとの仲介を果し、京都の平田家との関係が深まったこと
③尾池仁左衛門の長男が死去したため、次男の平兵衛(14歳)が大野原に送り込まれたこと

尾池平兵衛覚書03・04

03 尾池平兵衛が大野原に参りたる次第
平兵衛義、家ノ惣領二候得共、庄太郎替リニ大野原開発指越旨、山中親五郎右衛門殿ヲ以平田源助様ヨリ被仰聞何分可任仰と答、則御公儀へも惣領之義二付町年寄ヲ頼御願申上候ヘハ、聞停候処古キ馴染之手筋二候間、勝手次第二仕候得と被仰渡候。

意訳変換しておくと
   平兵衛は、尾池家ノ惣領ではないが、長男の庄太郎に替って大野原開発に関わっていくこととなった。これについては、山中親五郎右衛門殿に対して平田源助様から事前に相談すると、丸亀藩としては、惣領として塩飽町の町年寄を継いで欲しいが、大野原開発に携わるのなら、古い馴染の手筋でもあるので、勝手次第にせよと許可が出た。


NO4 平田与左衛門が源助と改名した次第
平兵衛十一才ノニ月十一日ニ大野原へ罷越申候。其時分ハ源助様ヲ平田与左衛門様と申候へ共、御郡奉行二山路与左衛門様之御名指相申ニ付、源助と御改被成候。

意訳変換しておくと
こうして尾池平兵衛は11才の2月11日に大野原へやってきた。その時分は平田家の源助様は与左衛門と名乗っていた。ところが郡奉行が山路与左衛門様という御名の方になったために、源助と改名した。以後、平田与左衛門は平田源助となった。

尾池平兵衛覚書5・6・7

NO5  平田源助様(与左衛門正澄)と尾池平兵衛が大野原に参る

一、寛文三卯年二源助様ハ京都ヨリ御引越御下り被成候。平兵衛ハ寛文五巳年二参候。

意訳変換しておくと
寛文3年(1663)に平田源助様(与左衛門正澄)は京都から大野原へ移住してきた。平兵衛が大野原へ来たのは、その2年後の寛文5年のことである。

NO6 当時の手代のこと
其時分、手代ニハ山中五郎右衛門殿御公義被勤候。内證手代ハ多右衛門と申仁、夫婦台所賄方勤ル。廣瀬茂右衛門二も内證手代二候得共、五郎右衛門殿指合之砌ハ公用被勤候。
意訳変換しておくと
「その時分、手代は3人いた。一人は、御公儀向きの勤めをする山中五郎右衛門(備中屋藤左衛門の二男)、もう一人は、奥向きの台所賄いなどの仕事をする多右衛門夫婦、も一人は、広瀬茂右衛門で、台所賄い方や財政に関する仕事をしながら時には五郎右衛門が多忙な時には、公儀向きの仕事も助けた。

そこへ11歳の平兵衛がやって来ます。最初は見習いでしたが次第にめきめきと力を発揮し、やがて公儀向きの重要な仕事を任されるようになります。

  07 平田源助 吉田浄庵老の娘と結婚のこと
  先源助様之奥さま、嵯峨吉田浄庵老申御仁之御娘子、弐十四才二て寛文六午年四月二御下リ御婚礼。今之源助様御惣領奥様ハ、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿御親類先。角蔵与市殿ハニ子宛出生。以上廿四人在之由。十七人目ノ孫子ヲ吉田浄庵老御内室二被成候。其御内室様二も当地へ御下り二年御滞留、御名ハ寿清さまト申候。
  意訳変換しておくと
先の平田源助様の奥さまは、嵯峨吉田浄庵老と申す御仁の御娘子で、寛文六年(1666年4月2に大野原にお輿入れになった。今の源助様の惣領の奥様は、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿の親類から輿入れた方で、角蔵与市殿は子沢山で、24人に子どもが居たがその17人目ノ孫子が吉田浄庵老御内室になられた。その御内室様も当地へ御下りになり2年滞留された。名前は御名ハ寿清さまと申す。

尾池平兵衛覚書8JPG

NO8 仲間解散し、大野原を平田家が片づけることになった次第
 寛文之頃、先年之大野原請所中間(仲間)備中屋藤左衛門、米屋九郎兵衛、前方与市左衛門 取替申銀子指引も被致候。大野原も如何様各々評判被致候様二と催促申候ヘハ、右両人取替銀之返弁撫と申ハ不寄存候。然上ハ大野原ハ与左衛門殿へ片付候間、向後可為御進退と大野原不残与左衛門様へ片付候故、寛文頃方百姓方諸事之證文二平田与左衛門同市右衛門と為仕候。三嶋屋亦左衛門ハ、先年大野原ヲ欠落九州へ参候様二風間仕候。市右衛門様京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ御商賣二御下リ
 意訳変換しておくと
  寛文年間頃に、大野原開発の「中間(仲間)=開発組合」であった備中屋藤左衛門・米屋九郎兵衛・前方与市左衛門に対して、平田家が立て替えている費用の納期期限が近づいているので、支払いの用意があるかどうかの意向確認を行った。これに対して三者は、支払いは行わないとの返事であった。こうして三者が「仲間」から手を引いたので、今後の大野原開発は平田与左衛門殿が単独で行うことになった。寛文年間頃には百姓方諸事の證文には平田与左衛門と市右衛門の名前が見える。三嶋屋亦左衛門は、先年に大野原を欠落して九州へ云ったと風の噂に聞いた。市右衛門様
京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ商売のために下った。

「大野原総合開発事業」は平田家・備中屋・米屋・前方の四者が「中間(仲間)=商人連合体」を形成してスタートしました。その初期費用は、平田家が単独で支払うという内容でした。ちなみにこの事業に平田家がつぎ込んだが負担した費用は、借銀だけで約二百貫目に達します。最初の契約では、平田家が立替えた諸費用の半分を、備中屋たち3者が後に支払うことになっていました。
これについて『西讃府志』(667~668P)には、次のように記します。

「明暦三年十二月に至リテ、彼ノ三人ノ者与一左衛門ヨリ借レル銀、七百二十一貫ロニナレリ、是二於テ終二償フコトヲ得ズ、開地悉ク与一左衛門二譲り、翌ル年ヨリ与一左衛門ノ子与左衛門一人ノ引請トナリシカバ、与左衛門京師ヨリ家ヲ挙テ移り来り、遂二其功ヲトゲテ、世々此地ノ引受トナレリ」

意訳変換しておくと
「明暦三年(1657)12月になって、「仲間=開発組合」の借入銀は、721貫に達した。ここに至って、三者は借入金の1/6を支払うことができずに開発地の総てを平田与一左衛門に譲渡することになった。そうして翌年には与一左衛門の子である与左衛門が引請者として京都から一家で大野原にやってきた。こうして大野原は平田家の単独引受地となった。

ここから開墾開始から14年後の明暦3(1657)年には、「仲間三者」が手を引いて、大野原は平田一人の請所となり、仲間は解散してしまったことが分かります。

11歳で大野原へやって来た平兵衛(幼名:文四郎)の果たした役割は大きいと研究者は評します。
そのことについて「NO40 平兵衛功労のこと」で、自分の労苦を次のように記します。
14歳で年貢の請払という仕事の手伝いを始めた。17歳で元服し「平兵衛」を名乗るようになってからは、山中五郎右衛門の補佐をしながら丸亀勘定方との交渉役を勤めるようになった。平田家手代の中心であった五郎右衛門が亡くなると、もう一人の手代である広瀬茂右衛門とともに、大野原開発の全ての仕事を担うようになった。
 開発が軌道に乗るのは、延宝時代になってからで、大方の田畑が姿を見せ、新しく来た百姓たちも居付きはじめた。その頃、藩による検地が行われたが、私(平兵衛)はずっと一人で検地役人の相手を勤めた。そのうえ夜になると測量した野帳の間数や畝数、坪数を改めて清書し、検算した。それを私一人で行った。当時は19歳だった」
「今、考えてみるに、14歳から年貢方の請払いで大庄屋所の寄合に出席したり、知行新田の興賃の取り引きや稲の作付に関することの交渉をやってきた。17歳からは御公儀向きの仕事にのみ従事するようになった。私は相手が年長の旦那方であっても、何とか百姓たちが大野原に居付いてくれるように、一人で交渉し話し合ってきた。今になっては、我ながらよく勤めたものだと思っている」

若くして重要な仕事を任され、大人たちに交じって夢中で勤めを果し、一定の成果をあげてきたという平兵衛の自負が強く感じられると研究者は評します。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」

このページのトップヘ