瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尾池玄蕃

 江戸時代に讃岐三豊で医業を営んだ尾池家は、丸亀藩医となった尾池薫陵やその養嗣子で漢詩人として知られた尾池桐陽などを輩出しています。また独自の尾池流針灸術の一派を形成したことでも知られています。その縁戚の中澤家(香川県三豊市詫間)には、尾池家の蔵書や文書が数多く残されているようです。今回は、その史料を見ていくことにします。テキストは「町泉寿郎(二松学舎大学 文学部)  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)」です。
                                                                                        
  まず『尾池氏系譜』を「年表化」して、尾池家の歴史を見ておくことにします。
①室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変(1565)に没したとき、懐妊中であった烏丸大納言の女が讃岐に難を逃れ、誕生した義輝の遺子義辰は讃岐の土豪尾池氏に身を寄せ、尾池姓を名乗ったところから始まる。
②尾池氏は讃岐領主となった生駒氏に仕えたが、1640年に生駒騒動により生駒氏は城地没収。
③その時に義辰とその子息たちは浪人となり各地に離散。義辰(通称玄蕃:別号道鑑)は88歳(1566~1653)で没した。
④義辰の子孫は、官兵衛義安(法号意安)→ 仁左衛門(1616~88、法号覚窓休意)→森重(1655~1739) → 久米田久馬衛門、法号遊方思誠)と継承
⑤森重の代に、大野原(現観音寺市大野原)に住みついた。
森重の子が医業を興した立誠(1704~71)で、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学び、加藤暢庵・足立栄庵らと並ぶ艮山門の高弟に数えられた
⑦立誠は、讃岐に帰郷して大野原に開業する傍ら、艮山流古方医学を講じ、讃岐だけにとどまらず瀬戸内各地から遊学する者が多く訪れた。
⑧立誠は四男四女をもうけたが、長男・二男が早く亡くなったため、門人谷口氏を養子とし、二女楚美を娶わせた。
⑨立誠の著書には『医方志『耻斎暇録』『恭庵先生口授』『恭庵先生雑記』等がある。
⑩大野原の菩提寺慈雲寺にある墓碑は、大坂の儒者三宅春楼(艮山と交流のあった三宅石庵の男で
懐徳堂の教授)が撰文
⑪薫陵(1733~84)は、祖父を谷口正忠、父は正直で、16歳(1748)で立誠に入門。
⑫才能を見込まれて21歳(1753)で尾池家の養子となり、京都に5年間遊学(1754~59)し、尾池家を継承。
⑭帰讃後は、邸内に医学塾寿世館を営み、学びに来る者が多かった。
⑮49歳(1781)で丸亀藩主京極高中から侍医として召し出され、丸亀城下に移った。
⑯薫陵の著書に『経穴摘要』『古今医変』『素霊正語(素霊八十一難正語)』『試考方』『古今要方』『痘疹証治考』『脚気論』『医方便蒙』『薫陵方録』『薫陵雑記』『薫陵子』『大原雑記』等がある。
⑰丸亀の菩提寺宗泉寺にある薫陵の墓碑は後藤敏(別号慕庵、艮山の二男椿庵の庶子)の撰文
⑱薫陵が丸亀城下に別家を建てたのち、大野原の尾池家は立誠の三男義永(1747~1810)が継承した。
⑲義永の後、義質(?~1837、号思誠) → 平助泰治(?~1863) → 平太郎泰良(1838~94)と代々医業を継承。
⑳義雄(1879~1941、ジャーナリスト、青島新聞主幹)は、義質の長兄允は尾藤二洲に学んで儒者となり、江戸で講学した。
㉑薫陵が立てた丸亀藩医尾池家は、その門人村岡済美(1765~1834)が薫陵の二女を娶って継承した。
㉒済美の父は丸亀藩士村岡宗四郎景福で、母は村岡藤兵衛勅清の長女で、『尾池氏系譜』に済美を後藤艮山の孫とする。ここからは宗四郎景福は、艮山の血縁者とも推定される。
㉓済美は大坂の中井竹山や京都の皆川淇園に学び、菅茶山・頼山陽・篠崎小竹らとも詩文の交流があった。著書に『桐陽詩鈔』等がある。
㉔済美の長男静処(1787~1850)は、丸亀藩医を継承し『傷寒論講義』『静処方函』『治痘筆記』等の医書を残しています。
㉕静処の弟松湾(1790~1867)は、菅茶山に学び、父桐陽の文才を継いで詩文によって知られた。編著書に『梅隠詩稿』『梅隠舎畳韻詩稿』『蠧餘吟巻』『松湾漁唱』『穀似集(巻1桐陽著、巻2静処著、巻3松湾著)』『晩翠社詩稿』、(京極高朗著)『琴峰詩集』等がある。松

最初の①には、室町幕府の将軍義輝の遺子義辰が讃岐の尾池家の姓を名乗ったとあります。
この話は、どこかで聞いたことがあります。以前にお話しした生駒藩重臣の尾池玄蕃の生い立ちについて、「三百藩家臣人名事典 第七巻」には次のように記します。

永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。

この話と一緒です。ここからは、尾池玄蕃につながる系譜を持っていたことが分かります。後で見る史料にも次のように記します。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。
一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
ここでは、尾池家では尾池玄蕃と祖先を同じくするとされていたことを押さえておきます。その後、生駒家にリクルートしますが、生駒騒動で禄を失い一家離散となったようです。その子孫が三豊の大野原に定住するようになるのが⑤⑥にあるように、17世紀後半のことです。大野原の開発が進められていた時期になります。そして、立誠(1704~71)の時に医師として開業します。立誠は、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学んだ後に、讃岐に帰郷して大野原に開業したようです。艮山流古方医学を講じ、他国からの遊学者も数多く受けいれています。その後、⑪⑫にあるように薫陵が谷口家から尾池家の養子となったのは宝暦3年(1753)、21歳の時です。
その経過を白井要の『讃岐医師名鑑』(1938 刊)は次のように記します。

尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。

養子として尾池家を嗣ぐことになった薫陵は京都遊学します。その際のことを『筆記』と題された日記に次のように記します。
①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)
一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)
一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足

  ここまでを意訳変換しておくと
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)
一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。
10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。
11日 岡山で一宿。
12日 三ツ石で一宿。
13日 姫路に一宿。
14日 明石ニ一宿。
15日 西宮一宿
16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。
19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。
27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。
28日 平田氏が江戸へ出発。
私が興味があるのは、瀬戸内海を行き交う船の便で、それを当時の人々がどのように利用していたかです。
尾池家の養子となった9か月後、宝暦4年(1754)閏2月9日に薫陵は京都遊学に出発します。その際の経路が記されているので見ておきましょう。伊予街道を東に向かい金毘羅宮に祈願し、丸亀から乗船しています。船で下津井に渡り、岡山、三石、姫路、明石、西宮で宿泊しながら、16日に大坂に達し、19日に淀川を上る川船で京都に到着しています。どこにも寄り道せずに、一直線に京都を目指しています。京都まで10日の旅程です。ここで注意しておきたいのは、丸亀=大阪の金比羅船の直行便を利用していないことです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々
大坂と丸亀の船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していたことは以前にお話ししました。金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。そのため冬期は丸亀ー下津井ルートが選ばれたようです。海路ではなく陸路・山陽道を利用していることを押さえておきます。
京都到着後、すぐの2月27日に香川修庵に入門しています。
そして、艮山の子孫が運営する中立売室町の後藤塾に寄宿したようです。艮山の四子のうち医者として名前が知られていたのは、二男椿庵(1697~1738、名省、字身之、通称仲介)と四男一(名督、通称季介・左一郎)でした。このうち椿庵はすでに亡くなっていたので、薫陵が師事したのは一でした。薫陵が後藤一のもとでの修学したことを、薫陵は「在京之日、後藤一先生賜焉」と記します。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。
一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。
一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。
一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。
拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。
一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。
一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。
一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。
一亥正月十  紫宸殿拝見
一同十七日  舞御覧拝見
一同廿三日  知恩院方丈拝見
一二月五日  今熊野霊山へ見物
一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。
同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。
十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。
一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
意訳変換しておくと
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。
一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。
一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。
一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。
一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。
一9月25日、南禅寺の方丈拝見。
一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。
  宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見
一同 17日 舞御覧拝見
一同 23日 知恩院方丈拝見
一2月 5日 今熊野霊山へ見物
一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。
同  14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。
   24日 御帰宅、同25葬送。
一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。

 後藤塾での生活が始まって1ヶ月も経たない3月11日に薫陵は病気になります。
一時はかなり重病で、心配した後藤家の家人が国元に手紙を出すほどだったようです。4月末には、病状回復しますが、静養のためか一旦帰郷して再起を期すことになったようです。6月28日に京都を発し7月5日に帰郷しています。この時の経路については何も記しません。最速で、京都・三豊間が一週間前後で往来できたようです。讃岐で2週間ほど静養し、7月18日に、今度は和田浜より乗船し明石に上陸して、23日大坂到着。28日に京都に戻っています。この時期には、和田浜と大阪を結ぶ廻船が頻繁にあったことは以前にお話ししました。
 体調の回復した薫陵は、毎月京都とその近郊の名所見物に出かけるなど、遊学生活を十分に楽しんでいます。そんな中で師事した香川修庵が、宝暦5年(1755)2月7日に播磨国姫路での病気療養に出かけ、逝去します。73歳のことでした。翌日、薫陵は同門の熊谷良次とともに丹波亀山まで師の遺体を出迎え、修庵の遺体と共に京都に戻り、25日に葬儀が営まれます。結局、師を失った修庵への従学期間は、1年に満たずして終わってしまいます。
 3月には尾池の養母が急病という連絡が入り、14日に一旦帰郷します。国元の岐阜から一旦帰国するように義父から命じられたのかも知れません。しかし、4ヶ月の滞在で、7月には3度目の上京を果たしています。その時の上京のようすを見ておきましょう。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。
十四日朝、大坂へ着。
十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。
十八日八幡へ寄、同日晩方京着。
七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷
見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
同廿八日、嵯峨へ先生墓参。
八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨
八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。
同十三日、嵯峨墓参。
同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。
廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。
廿七日、石山遊行而返ル
八月廿二日、要門様御上京。
九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。
同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、
直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。
十月四日、歌中山清眼寺へ行。
同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺
南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢
候。
十月十五日、義空師關東へ下向。
同十九日、菊御能拝見。
同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。
同廿六日、御入内。
同廿八日、御上使御着。
十二月四日、御参内。
同七日、 兵馬子帰郷。
同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。
二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。
四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。
戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音
寺浮田氏へ着、滞留。
同九日、丸亀より乗船、帰郷
意訳変換しておくと
 7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。
翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。
  14日朝、大坂着。
  17日に大坂出立、渚で一宿。
  18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。
7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
  28日、嵯峨へ香川先生の墓参。
8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨
8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。
  13日、嵯峨墓参。(香川先生)
  24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)
  26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。
  27日、石山遊行。
8月22日、要門様御上京。
 9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。
  27日、義空師が上京。
  29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。
10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。
   6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。
10月15日、義空師關東へ下向。
   19日、菊御能拝見。
   21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。
   26日、御入内。
   28日、御上使御着。
12月 4日、御参内。
    7日、兵馬子が帰郷。
    8日、御上使御發足。
  宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。
  2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。
 4月19日、入湯(温泉治療)に出立。
 6月19日、温泉治療から帰宅。
戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。
    9日、丸亀より乗船、帰郷
 ①には、7月6日に三豊を出発して、津田の松原を眺めて白鳥神社に参拝し、同門の香川家門人宅に泊まったと記します。門人が各地に散在していて、その家を訪ねて宿としています。幕末の志士たちが各地の尊皇の有力者を訪ね歩いて、情報交換や人脈作りを行ったように、医者達も「全国漫遊の医学修行」的なことをやっています。小豆島の高名な医者のもとには、全国から医者がやってきて何日も泊まり込んでいます。それを接待するのも「名医」の条件だったようです。江戸時代の医者は「旅する医者」で、名医と云われるほど各地を漫遊していることを押さえておきます。そして、彼らは漢文などの素養が深い知識人でもあり、詩人でもありました。訪れたところで、漢詩などが残しています。若き日の薫陵も「旅する医者」のひとりであったようです。

金毘羅航海図 加太撫養1
「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」
 白鳥神社参拝後は、引田港からの便船に乗ったことが考えられますが、はっきりとは書かれていません。引田港は古代・中世から鳴門海峡の潮待ち港として、戦略的にも重要な拠点でした。秀吉に讃岐を任された生駒親正が最初に城下町を築いたのも引田でした。引田と紀伊や大坂方面は、海路で結ばれていました。その船便を利用したことが考えられます。

『筆記』は、その後も宝暦6年(1756)2月頃まで、京都周辺の名所見物の記事が続きます。
しかし、その後は遊学生活にも慣れたのか記事そのものが少なくなります。そして宝暦8年(1758)2月帰郷したようです。ここで気になるのが「9日、丸亀より乗船、帰郷」とあるこです。その前に、丸亀には帰ってきて「滞留」しています。そうだとすると丸亀から船に乗って、庄内半島めぐりで三豊に帰ってきたことになります。急いでなければ、財布にゆとりのある人は金毘羅街道を歩かずに、船で丸亀と三豊を行き来していたことがうかがえます。
こうして尾池薫陵は、3度の帰郷を挟んで足掛け5年に及ぶ京都遊学を終えることになります。そういえば尾池家で医業を興した立誠の京都遊学も五年間でした。義父との間に、遊学期間についても話し合われていたのかもしれまん。それでは、薫陵が京都遊学で学んだものは、なんだったのでしょうか? それはまたの機会に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 町泉寿郎  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考―讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)
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前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
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以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

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テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。同時に尾池玄蕃が彼の管理エリアである丸亀平野について、七箇村(まんのう町)や南鴨組のことについて熟知している様子がうかがえます。彼が「能吏」であったことが分かります。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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