瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尾池薫陵

  尾池薫陵が京都遊学で学んだものは何だったのでしょうか? 今回は、このテーマを「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」をテキストにして見ていくことにします。
薫陵が京都遊学で学んだものを知る手がかりは、彼が残した医学書の写本です。僧侶が経典を写経することが修行のひとつであったように、当時の医学生は、自分の学ぶ医書を書写していました。そのため薫陵がのこした医学書の写本をみれば、彼が興味を持っていた医学分野見えてきます。それらを並べて見ると次のようになります。
①師の後藤一『一隅』・艮山医学の要点をまとめたもので、「医原(養庵先生遺教)」「艾炙」「泉浴」「肉養」「薬療」
②宝暦7年(1757)、加藤暢庵録の後藤艮山の遺著を筆写
5月18日に『師説筆記』136条
10月10日に『病因考』2巻
10月16日に『(先生手定)薬能』『薬能附録』の筆写終了
 ここからは、薫陵が修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学で、古方系処方と灸治を併用した独特な古方医学であったことがうかがえます。
18世紀の医学界の動きを、研究者は次のように考えています。
①京都など西国の医家の多くは、古方派の医学理論と処方学を基盤にしていた。
②それを基盤に、それぞれ専門科目の医術を付け加えていた
③新たに付け加えられて専門科目とは、1800年頃には荻野元凱の腹診術、華岡流外科、池田流治痘術などで、
④1830年頃になると賀川流産科術、小石元俊らの蘭方であった。
⑤古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
⑥こうした学び方が、「漢蘭折衷」と言われる医学の普通に見られるスタイルであった
そのような医学界の動きの中で、讃岐の尾池家はどのような対応をしていたのでしょうか?
それも残された資料からうかがうことができるようです。結論から言うと「漢方から漢蘭折衷へ」の移行が見えてくると研究者は指摘します。
尾池家の場合は、次のような傾向があります。
①医業を創始した立誠が京都で後藤艮山に学んでいること。
②その後継者たちが長く後藤艮山流をベースにした医学・医療を行ていたこと。
③尾池薫陵の養子となった桐陽が後藤艮山の外孫であるともされ、京都の古方派諸家と長年にわたって結びつきが深かったこと。
こうした中で従来の後世方医学に代わって新たに古方医学がどのように京都の医学界で台頭してきたのか、それが瀬戸内地域にどのように伝播していったかを知る貴重な史料だと研究者は考えています。

 この頃の京都医学界では新思潮が勃興していたようです。
そのため薫陵は、5年間で学んだ成果にすぐに満足できなくなります。遊学を終えて帰郷した翌年の宝暦9年(1759)7月に、薫陵は京都に再遊しています。この時の京都滞在は30日程度でしたが、その成果を大野原に戻ってから立誠門の先輩である備中総社の赤木簡に宛てて次のような長文の書簡にしたためています。
②尾池薫陵書簡―宝暦9年(1759)10月12日、赤木要蔵宛―(赤木制二氏所蔵)
赤木要蔵様   常
(前略)
御聞及被下候通、小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京仕、古方家先生方へ相見、疑問仕候而得鴻益、大悦御察可被下候。山脇・吉益・松原三家とも豪傑ノ先生ニ而、各所長御座候。傷風寒治療、山脇ハ承気湯類ニ長シ、松原ハ真附・四逆・附子湯ニ長シ候様ニ相見へ申候。何分、三家中ニ而ハ山脇先生術ニ長シ申候様ニ相見へ申候。専ラ艮山先生称シ、古方ノ今日ニ弘リ候も全ク後藤先生輙被レ藉レ口申候。依之、小生義束脩之力也ト、動仕入門仕候。京都ニも三十日斗留滞仕候。晝夜とも山脇家へ相通イ、其暇ニ吉益・松原へ相通、論説とも承申候。扨々面白敷義ニ御座候。傷寒論讀方とも違イ申候義とも御座候。見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難行ハ、術ノコトニ御座候。(後略)
    意訳変換しておくと
お聞きおよびの通り、小生には大望があます。ついては、私は初秋に上京し、古方医学の先生方をお訪ねして、かねより疑問に思っていたところを問い、それに親しく答えていただきました。山脇・吉益・松原三家とも豪傑の方々で、それぞれに長所をお持ちです。傷風寒の治療に関しても、山脇先生は承気湯類に詳しく、松原先生は真附・四逆・附子湯に長じているように思えました。その三家中では山脇先生に一日の長があるように見えます。山脇先生は後藤艮山先生を尊師として仰ぎ、古方医学の今日の隆盛も後藤先生のお陰手であると云います。これを聞いて、小生もその下で学びたいと思い入門いたしました。
 京都には三十日ばかり滞在しました。昼夜なく山脇家へ通い、その間にも吉益・松原先生方も訪ね、お話しをうかがうことができました。その話の内容は、私にとっては興味深いものでした。傷寒論の読み方(解釈)もそれぞれが異なります。
冒頭の「小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京」という言葉が、薫陵の強い修学意欲を伝えています。
この上京に時には薫陵は、山脇東洋(1706~62)・吉益東洞(1702~73)・松原一閑斎(1689~1765)らの古方派諸名医を歴訪して各人の医説の吸収に努めています。そして東洋・東洞・一閑斎をいずれ劣らぬ豪傑と評価して、各人について論評します。とりわけ山脇東洋が医術に長じ、また艮山流の古方医学に最も忠実である点に敬服して、7月18日に正式に入門します。一か月間、昼夜とも山脇塾に通学し、あいまに東洞と一閑斎にも音信を通じています。『傷寒論』の読み方にも三者三様の相違があることなどに強く興味を惹かれています。この書簡からは薫陵の興奮に満ちた修学状況が伝わってきます。
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山脇東洋

                  山脇東洋の『蔵志』
     この時に師事した山脇東洋は、禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行った人物で、その記録「親試実験」として公表します。彼は日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評され、古方派の五大家(後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞、松原一閑斎)のひとりに挙げられています。薫陵が京都に滞在したこの秋には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な両著が刊行されます。東洋の刑屍解剖による日本初の観臓は、薫陵が初めて京都遊学した同年同月の宝暦4年(1754)閏2月のことになります。その興奮が京都の医学界に拡がっていた中に薫陵はいたことになります。

 帰郷後の薫陵は、古方医学に基づく医術の実践に格闘しています。それを次のように記します。

「見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難キハレ 行ハ術ノコトニ御座候」
「宋後之書一向読ミ不申候様ニと受レ教ヲ申候。然とも先入為レ主候而、後世方用度所存萌シ出テコマリ申候。宋後之書ナキ世トアキラメ、古方書ノミニテ済シ申度コトニ御座候」

意訳変換しておくと
「見識については諸先生の力で見立てができても、帰郷に見立てに応じた治療方法をどうおこなうのかが難しいのです」
「中国の宋以後の医学書を読んで、教えを受けたことを伝えています。しかし、先の教えと、後世の教えに矛盾が出てきて困っています。宋以後の書はないものとしてして、古方書の教えだけを伝えるようになりました。」
   薫陵は大野原では塾生を抱える立場でした。そのために治療だけでなく、門人に医学を教えなければなりません。「教えることは学ぶこと」で、自分も講義用のノートなどを作っておく必要があったかもしれません。そのような中で、何を教え、何を教えないかの取捨選択に悩んでいたことがうかがえます。ここからは古方医学の斬新さと薫陵が置かれていた模索状態をよく伝えています。
 山脇塾では「吐方」という新しい治療法も学んでいましたが、副作用が強くなかなか実行できなかったようです。書簡の追伸に述べられている処方と生薬に関する記述も、薫陵が吸収に努めた新知識の多さを示していると研究者は評します。
 こうした薫陵の研鑚はすぐに近隣の評判となり、この年から薫陵への入門者が増加します。それを次のように記します。
当夏より隣村及ヒ金毘羅より門人両生石川林之介、三木市太郎投塾、御存之通ノ矮屋、恰如有舟中、紛々罷在候。依之小屋相構申候而、屋敷北ノ方へ結構仕候。二間四間余。大方成就仕候。自今以後、御渡海も被成候ハヽ、御投宿被成候ニも可然ヤトハ御噂申事ニ御座候。当秋より門前観音堂ニ而三 八ノ夜、論語開講仕候処、近隣風靡、聴衆も大勢有之、悦申候。何トソ打續ケかしと所祈御座候。傷寒論も不絶讀申候而、此間より金匱要畧讀申候。上京之節、後藤・香川両家へも相尋申候。両家とも無異事、後藤家繁昌之體ニ相見へ、門生も七人投塾罷在候。香川家も不相替候。
 
意訳変換しておくと
この夏から隣村や金毘羅から門人の石川林之介、三木市太郎が塾生となり、通ってくるようになりました。わが家はご存じの通り、小さな家などで手狭で、まるで舟中にいるがような狭さです。そこで、屋敷の北方へ二間四間の離れを増築しました。今後は、わが家に投宿したときには、お使いいただきたいと思います。
 この秋から門前観音堂で、3日と8日の夜に、論語の購読を開講しました。それが近隣の噂となり、多くの人々がやって来るようになり喜んでいます。これが続いていくことを願っています。傷寒論も何度も読み返し、行間からさまざまなことを学んでいます。上京の節には、後藤・香川両家へも伺いました。両家とも繁昌のようすで、門生も七人抱えています。香川家も変わりありません。

ここからは、塾生を迎えて塾舎を新築していたことが分かります。
また門前の観音堂を会場にして3・8日の夜に『論語』の講義を始めたところ、近郷近在から聴衆が詰めかけます。医者が在村知識人として、社会教育的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 記録からは薫陵への入門者は、宝暦9年から明和6年(1759~69)までの間に26人を数えるようです。また明和6~8年(1769~71)には、備中惣社の赤木家7代の浚が大野原に遊学しています。その時に浚が筆写した本に、尾池立誠『傷寒論聴書』、尾池薫陵『経穴摘要』、香川修庵『一本堂行餘医言』等が残っていて、尾池塾における基本的な修学内容がうかがえます。
 薫陵の研鑚の原動力のひとつに、隣村の和田浜の合田求吾の存在があったようです。
 合田求吾(1723~73)は和田浜(観音寺豊浜町)で代々医を業とする家に生れます。
30才のころ京都に遊学し、さらに数年後江戸へ出ます。その際に、参勤交代で長崎から江戸に出て来たオランダ商館長に随行する商館医から和蘭の医療について話を聞く機会を得ます。その話の中に長崎の大通詞で蘭書が解読出来るばかりでなく、医療の経験ももっている吉雄耕牛が彼の家でオランダの医療について講釈してくれることを聞き知ります。これを聞いて、長崎への遊学を決意したようです。
  一旦讃岐に帰った求吾は宝暦12年(1762)になって長崎遊学を実行に移します。そして吉雄耕牛の家塾で毎日時間を決めて、内科を中心にオランダ医療について原書からの和訳を聞きとり、その内容を筆録する日課を続けます。それを二ヶ月半ほどの滞在中に、五冊の冊子にまとめてその第一冊の題目を「紅毛医言」とします。
紅毛医言 合田強

合田 強(通称:求吾  「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図
合田 強(通称:求吾 ) 「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図

 それまでオランダの医療は、外科ばかりと思われていたようです。そんな中で内科も秀でていることを伝えたことは、重要なことでした。しかし、残念ながらこの冊子は幕末に至るまで刊行されることはありませんでした。求吾の周囲、周辺で読まれるだけだったようです。
 オランダ内科の詳細が知られるようになったのは津山藩医の宇田川玄随(1755~94)の「西説内科撰要」(寛政五:1799年刊)以後のことなので、この「紅毛医言」が草稿として纒められたのは、その30年前のことになります。そして昭和初期に呉秀三氏よって、はじめて陽の目を見るようになったようです。合田家に所蔵されていた「紅毛医言」は、今は新設された香川県立歴史博物館(高松市)に寄託保管されているようです。

 「紅毛医言」が著された同時期に、尾池薫陵も古方医学の立場から新著『素霊正語』を著しています。薫陵は、その序文を合田求吾に求めています。求吾は長崎からの帰郷後、名医としてその名が人々の間に知られようになり、遠くからも病人が訪れるようになります。また、自身の知識を伝えようと大勢の弟子も受け入れています。
豊浜墓地公園の合田求吾の墓碑銘には次のように記されています。

和田浜(観音寺市豊浜町)の畏友合田求吾(1723~73)
合田求吾(1723~73)の墓碑(豊浜墓地公園)

「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」

このような合田求吾の姿を追いかけたのが、薫陵だったのかもしれません。ふたりの遊学状況と講学内容(共通点と相違点)からは、互いに切磋琢磨する姿が見えてきます。薫陵編の『諸家文集』には、求吾が諸家から送られた尺牘を多数収録しています。ここからも、両者の交流の深さと薫陵の求吾への関心の高さがうかがえます。
以上をまとめておきます。
①18世紀半ばの京都では、各派は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学ぶ「漢蘭折衷」だった。
②薫陵が5年間の京都遊学で修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学だった
は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
③薫陵が遊学を終えた頃には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な医書が刊行された。
④大野原に帰郷しても豊浜の合田求吾に刺激されて、薫陵の探究心や向上心は衰えなかった。
⑤門下生を受けいれる一方で、地域では論語購読を行うなど社会教育にも貢献した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」

 江戸時代に讃岐三豊で医業を営んだ尾池家は、丸亀藩医となった尾池薫陵やその養嗣子で漢詩人として知られた尾池桐陽などを輩出しています。また独自の尾池流針灸術の一派を形成したことでも知られています。その縁戚の中澤家(香川県三豊市詫間)には、尾池家の蔵書や文書が数多く残されているようです。今回は、その史料を見ていくことにします。テキストは「町泉寿郎(二松学舎大学 文学部)  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)」です。
                                                                                        
  まず『尾池氏系譜』を「年表化」して、尾池家の歴史を見ておくことにします。
①室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変(1565)に没したとき、懐妊中であった烏丸大納言の女が讃岐に難を逃れ、誕生した義輝の遺子義辰は讃岐の土豪尾池氏に身を寄せ、尾池姓を名乗ったところから始まる。
②尾池氏は讃岐領主となった生駒氏に仕えたが、1640年に生駒騒動により生駒氏は城地没収。
③その時に義辰とその子息たちは浪人となり各地に離散。義辰(通称玄蕃:別号道鑑)は88歳(1566~1653)で没した。
④義辰の子孫は、官兵衛義安(法号意安)→ 仁左衛門(1616~88、法号覚窓休意)→森重(1655~1739) → 久米田久馬衛門、法号遊方思誠)と継承
⑤森重の代に、大野原(現観音寺市大野原)に住みついた。
森重の子が医業を興した立誠(1704~71)で、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学び、加藤暢庵・足立栄庵らと並ぶ艮山門の高弟に数えられた
⑦立誠は、讃岐に帰郷して大野原に開業する傍ら、艮山流古方医学を講じ、讃岐だけにとどまらず瀬戸内各地から遊学する者が多く訪れた。
⑧立誠は四男四女をもうけたが、長男・二男が早く亡くなったため、門人谷口氏を養子とし、二女楚美を娶わせた。
⑨立誠の著書には『医方志『耻斎暇録』『恭庵先生口授』『恭庵先生雑記』等がある。
⑩大野原の菩提寺慈雲寺にある墓碑は、大坂の儒者三宅春楼(艮山と交流のあった三宅石庵の男で
懐徳堂の教授)が撰文
⑪薫陵(1733~84)は、祖父を谷口正忠、父は正直で、16歳(1748)で立誠に入門。
⑫才能を見込まれて21歳(1753)で尾池家の養子となり、京都に5年間遊学(1754~59)し、尾池家を継承。
⑭帰讃後は、邸内に医学塾寿世館を営み、学びに来る者が多かった。
⑮49歳(1781)で丸亀藩主京極高中から侍医として召し出され、丸亀城下に移った。
⑯薫陵の著書に『経穴摘要』『古今医変』『素霊正語(素霊八十一難正語)』『試考方』『古今要方』『痘疹証治考』『脚気論』『医方便蒙』『薫陵方録』『薫陵雑記』『薫陵子』『大原雑記』等がある。
⑰丸亀の菩提寺宗泉寺にある薫陵の墓碑は後藤敏(別号慕庵、艮山の二男椿庵の庶子)の撰文
⑱薫陵が丸亀城下に別家を建てたのち、大野原の尾池家は立誠の三男義永(1747~1810)が継承した。
⑲義永の後、義質(?~1837、号思誠) → 平助泰治(?~1863) → 平太郎泰良(1838~94)と代々医業を継承。
⑳義雄(1879~1941、ジャーナリスト、青島新聞主幹)は、義質の長兄允は尾藤二洲に学んで儒者となり、江戸で講学した。
㉑薫陵が立てた丸亀藩医尾池家は、その門人村岡済美(1765~1834)が薫陵の二女を娶って継承した。
㉒済美の父は丸亀藩士村岡宗四郎景福で、母は村岡藤兵衛勅清の長女で、『尾池氏系譜』に済美を後藤艮山の孫とする。ここからは宗四郎景福は、艮山の血縁者とも推定される。
㉓済美は大坂の中井竹山や京都の皆川淇園に学び、菅茶山・頼山陽・篠崎小竹らとも詩文の交流があった。著書に『桐陽詩鈔』等がある。
㉔済美の長男静処(1787~1850)は、丸亀藩医を継承し『傷寒論講義』『静処方函』『治痘筆記』等の医書を残しています。
㉕静処の弟松湾(1790~1867)は、菅茶山に学び、父桐陽の文才を継いで詩文によって知られた。編著書に『梅隠詩稿』『梅隠舎畳韻詩稿』『蠧餘吟巻』『松湾漁唱』『穀似集(巻1桐陽著、巻2静処著、巻3松湾著)』『晩翠社詩稿』、(京極高朗著)『琴峰詩集』等がある。松

最初の①には、室町幕府の将軍義輝の遺子義辰が讃岐の尾池家の姓を名乗ったとあります。
この話は、どこかで聞いたことがあります。以前にお話しした生駒藩重臣の尾池玄蕃の生い立ちについて、「三百藩家臣人名事典 第七巻」には次のように記します。

永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。

この話と一緒です。ここからは、尾池玄蕃につながる系譜を持っていたことが分かります。後で見る史料にも次のように記します。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。
一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
ここでは、尾池家では尾池玄蕃と祖先を同じくするとされていたことを押さえておきます。その後、生駒家にリクルートしますが、生駒騒動で禄を失い一家離散となったようです。その子孫が三豊の大野原に定住するようになるのが⑤⑥にあるように、17世紀後半のことです。大野原の開発が進められていた時期になります。そして、立誠(1704~71)の時に医師として開業します。立誠は、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学んだ後に、讃岐に帰郷して大野原に開業したようです。艮山流古方医学を講じ、他国からの遊学者も数多く受けいれています。その後、⑪⑫にあるように薫陵が谷口家から尾池家の養子となったのは宝暦3年(1753)、21歳の時です。
その経過を白井要の『讃岐医師名鑑』(1938 刊)は次のように記します。

尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。

養子として尾池家を嗣ぐことになった薫陵は京都遊学します。その際のことを『筆記』と題された日記に次のように記します。
①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)
一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)
一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足

  ここまでを意訳変換しておくと
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)
一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。
10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。
11日 岡山で一宿。
12日 三ツ石で一宿。
13日 姫路に一宿。
14日 明石ニ一宿。
15日 西宮一宿
16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。
19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。
27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。
28日 平田氏が江戸へ出発。
私が興味があるのは、瀬戸内海を行き交う船の便で、それを当時の人々がどのように利用していたかです。
尾池家の養子となった9か月後、宝暦4年(1754)閏2月9日に薫陵は京都遊学に出発します。その際の経路が記されているので見ておきましょう。伊予街道を東に向かい金毘羅宮に祈願し、丸亀から乗船しています。船で下津井に渡り、岡山、三石、姫路、明石、西宮で宿泊しながら、16日に大坂に達し、19日に淀川を上る川船で京都に到着しています。どこにも寄り道せずに、一直線に京都を目指しています。京都まで10日の旅程です。ここで注意しておきたいのは、丸亀=大阪の金比羅船の直行便を利用していないことです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々
大坂と丸亀の船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していたことは以前にお話ししました。金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。そのため冬期は丸亀ー下津井ルートが選ばれたようです。海路ではなく陸路・山陽道を利用していることを押さえておきます。
京都到着後、すぐの2月27日に香川修庵に入門しています。
そして、艮山の子孫が運営する中立売室町の後藤塾に寄宿したようです。艮山の四子のうち医者として名前が知られていたのは、二男椿庵(1697~1738、名省、字身之、通称仲介)と四男一(名督、通称季介・左一郎)でした。このうち椿庵はすでに亡くなっていたので、薫陵が師事したのは一でした。薫陵が後藤一のもとでの修学したことを、薫陵は「在京之日、後藤一先生賜焉」と記します。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。
一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。
一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。
一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。
拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。
一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。
一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。
一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。
一亥正月十  紫宸殿拝見
一同十七日  舞御覧拝見
一同廿三日  知恩院方丈拝見
一二月五日  今熊野霊山へ見物
一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。
同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。
十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。
一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
意訳変換しておくと
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。
一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。
一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。
一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。
一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。
一9月25日、南禅寺の方丈拝見。
一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。
  宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見
一同 17日 舞御覧拝見
一同 23日 知恩院方丈拝見
一2月 5日 今熊野霊山へ見物
一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。
同  14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。
   24日 御帰宅、同25葬送。
一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。

 後藤塾での生活が始まって1ヶ月も経たない3月11日に薫陵は病気になります。
一時はかなり重病で、心配した後藤家の家人が国元に手紙を出すほどだったようです。4月末には、病状回復しますが、静養のためか一旦帰郷して再起を期すことになったようです。6月28日に京都を発し7月5日に帰郷しています。この時の経路については何も記しません。最速で、京都・三豊間が一週間前後で往来できたようです。讃岐で2週間ほど静養し、7月18日に、今度は和田浜より乗船し明石に上陸して、23日大坂到着。28日に京都に戻っています。この時期には、和田浜と大阪を結ぶ廻船が頻繁にあったことは以前にお話ししました。
 体調の回復した薫陵は、毎月京都とその近郊の名所見物に出かけるなど、遊学生活を十分に楽しんでいます。そんな中で師事した香川修庵が、宝暦5年(1755)2月7日に播磨国姫路での病気療養に出かけ、逝去します。73歳のことでした。翌日、薫陵は同門の熊谷良次とともに丹波亀山まで師の遺体を出迎え、修庵の遺体と共に京都に戻り、25日に葬儀が営まれます。結局、師を失った修庵への従学期間は、1年に満たずして終わってしまいます。
 3月には尾池の養母が急病という連絡が入り、14日に一旦帰郷します。国元の岐阜から一旦帰国するように義父から命じられたのかも知れません。しかし、4ヶ月の滞在で、7月には3度目の上京を果たしています。その時の上京のようすを見ておきましょう。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。
十四日朝、大坂へ着。
十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。
十八日八幡へ寄、同日晩方京着。
七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷
見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
同廿八日、嵯峨へ先生墓参。
八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨
八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。
同十三日、嵯峨墓参。
同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。
廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。
廿七日、石山遊行而返ル
八月廿二日、要門様御上京。
九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。
同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、
直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。
十月四日、歌中山清眼寺へ行。
同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺
南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢
候。
十月十五日、義空師關東へ下向。
同十九日、菊御能拝見。
同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。
同廿六日、御入内。
同廿八日、御上使御着。
十二月四日、御参内。
同七日、 兵馬子帰郷。
同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。
二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。
四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。
戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音
寺浮田氏へ着、滞留。
同九日、丸亀より乗船、帰郷
意訳変換しておくと
 7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。
翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。
  14日朝、大坂着。
  17日に大坂出立、渚で一宿。
  18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。
7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
  28日、嵯峨へ香川先生の墓参。
8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨
8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。
  13日、嵯峨墓参。(香川先生)
  24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)
  26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。
  27日、石山遊行。
8月22日、要門様御上京。
 9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。
  27日、義空師が上京。
  29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。
10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。
   6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。
10月15日、義空師關東へ下向。
   19日、菊御能拝見。
   21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。
   26日、御入内。
   28日、御上使御着。
12月 4日、御参内。
    7日、兵馬子が帰郷。
    8日、御上使御發足。
  宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。
  2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。
 4月19日、入湯(温泉治療)に出立。
 6月19日、温泉治療から帰宅。
戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。
    9日、丸亀より乗船、帰郷
 ①には、7月6日に三豊を出発して、津田の松原を眺めて白鳥神社に参拝し、同門の香川家門人宅に泊まったと記します。門人が各地に散在していて、その家を訪ねて宿としています。幕末の志士たちが各地の尊皇の有力者を訪ね歩いて、情報交換や人脈作りを行ったように、医者達も「全国漫遊の医学修行」的なことをやっています。小豆島の高名な医者のもとには、全国から医者がやってきて何日も泊まり込んでいます。それを接待するのも「名医」の条件だったようです。江戸時代の医者は「旅する医者」で、名医と云われるほど各地を漫遊していることを押さえておきます。そして、彼らは漢文などの素養が深い知識人でもあり、詩人でもありました。訪れたところで、漢詩などが残しています。若き日の薫陵も「旅する医者」のひとりであったようです。

金毘羅航海図 加太撫養1
「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」
 白鳥神社参拝後は、引田港からの便船に乗ったことが考えられますが、はっきりとは書かれていません。引田港は古代・中世から鳴門海峡の潮待ち港として、戦略的にも重要な拠点でした。秀吉に讃岐を任された生駒親正が最初に城下町を築いたのも引田でした。引田と紀伊や大坂方面は、海路で結ばれていました。その船便を利用したことが考えられます。

『筆記』は、その後も宝暦6年(1756)2月頃まで、京都周辺の名所見物の記事が続きます。
しかし、その後は遊学生活にも慣れたのか記事そのものが少なくなります。そして宝暦8年(1758)2月帰郷したようです。ここで気になるのが「9日、丸亀より乗船、帰郷」とあるこです。その前に、丸亀には帰ってきて「滞留」しています。そうだとすると丸亀から船に乗って、庄内半島めぐりで三豊に帰ってきたことになります。急いでなければ、財布にゆとりのある人は金毘羅街道を歩かずに、船で丸亀と三豊を行き来していたことがうかがえます。
こうして尾池薫陵は、3度の帰郷を挟んで足掛け5年に及ぶ京都遊学を終えることになります。そういえば尾池家で医業を興した立誠の京都遊学も五年間でした。義父との間に、遊学期間についても話し合われていたのかもしれまん。それでは、薫陵が京都遊学で学んだものは、なんだったのでしょうか? それはまたの機会に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 町泉寿郎  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考―讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)
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