秋がやって来たので原付ツーリング兼フィールドワークを再開しようと思って、その「調査先」選考のために阿波池田町史を読んでいます。その中に中世の中蓮寺のことが載せられていましたので読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは「池田町史220P 中蓮寺」です。
中蓮寺峰(財田の香川用水記念館より)
ウキには中蓮寺峰について、次のように記されています。香川県と徳島県の県境にある山で、雲辺寺山から猪ノ鼻峠まで若狭峰(787m)と共に延びている峰である。平安時代に雲辺寺の隠居部屋として創営されたと云われている中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置にあった。しかし、戦国時代に長宗我部元親が阿波国に進攻した際に寺は焼撃ちに遭った為、現在は存在しない。中蓮寺峰の山名はこの寺の名前を戴いたものである。
中蓮寺越の道(四国の道説明板)
私の今の関心のひとつが「中世の山林寺院と修験者」です。そういう視点で中蓮寺を見ると、この寺は東の中寺廃寺・尾背山と西の雲辺寺を結ぶ位置にあったことになります。中世の山林寺院は、孤立していたのではなく修験者や熊野業者・高野聖など廻国の宗教者によって結ばれネットーワーク化されていたことは以前にお話ししました。その例が尾背寺と萩原寺・善通寺の関係でした。そのネットワークの拠点の一つが中蓮寺ではないかというのが私の仮説です。
池田町史220Pには、中蓮寺について次のように記します。
この寺には、次のような話が伝わっている。①中蓮寺は雲辺寺の隠居寺で、雲辺寺より格が上であった。②本尊が金の鶏であったので、下野呂内地区では大正の初めごろまでを飼わなかった。廃寺になった原因は、猫を殺した住職がそのたたりで相ついで変死したためである。③七堂伽藍のあった立派な寺院であったが、④長宗我部元親の焼討にあって廃寺となった。⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門であった。
上のような伝承はありますが、それを裏付ける古記録や古文書は残っていないようです。 ここで押さえておきたいのは「中蓮寺は雲辺寺の隠居寺」であったということです。雲辺寺のネットワーク下にあったことがうかがえます。また、「⑤西山地区の洞草に「大門」という屋号が残っているが、これが中蓮寺の第一の門」とあります。相当に広い寺領を有していたことがうかがえます。
現在の三好市は田井の庄という広大な荘園で、その庄司が大西氏でした。この下野呂内も田井の庄に組み込まれ、白地城の大西氏の支配下にあったと研究者は考えています。それは近くに大西神社が鎮座することからも裏付けられます。
ここには中蓮寺の御神体が金の鶏であったので、下野呂内地区では鶏を飼ってはならないことになっていたことが記されています。寺の御神体というのもおかしな話ですが、当時は神仏混淆で社僧たちには何の違和感もなかったのでしょう。そのため明治の末年ごろまで実際に鶏を飼わなかったといいます。
池田町史下巻903Pには、次のような地元の人の回想が載せられています。
かしわも食べん。
昔は時計がないきん一番鶏が鳴いたら一時、二番鶏が鳴いたら二時、バラバラ鶏になったら夜が白んでいて六時ですわ。時を告げ鶏は神さんのお使いのように思とったんでしょうな。卵も食わなんだ。昔は肺結核を労症と言っとったが、労症が家に入ったら三人は死ぬと言われとりました。鶏はその労症のたんをすすっとるから、卵を食うたら労症になると親父からよう聞いた。 牛肉や卵を食わんのは、わしが十七、八になるころ、日露戦争ごろはそうだった。そういう考えのしみ込んでいる人がようけ生きしとりました。
ここからは、「中蓮寺の金の鶏」伝説が深く住民の心に根付いたいたことがうかがえます。下野呂内地区が中蓮寺の強い影響下にあったことが分かります。中蓮寺によって周辺が開発され、そこに人々が住み着いたことも考えられます。
雲辺寺文書の嘉暦三(1305)年「田井ノ荘の荒野を賜う」とあります。この時に雲辺寺に寄進された「荒野」が雲辺寺の東側の上野呂内だとされます。そうすると、下野呂内も中蓮寺の寺領のような形で、その支配を受けていたかも知れません。
それでは中蓮寺はどこにあったのでしょうか?
三好市野呂内 中蓮寺跡(池田町史下巻446P)
ウキには「中蓮寺は、讃岐山脈を徳島県側に少し下った下野呂内の標高600mの位置」とありました。
旧野呂地小学校に、いまはサウナができていますが、そこから開拓地として開かれた小谷にのぼっていくと三所大権現があります。敷地は二段になっていて、上段に小社が建って、下段は相当の広さの広場となっています。鐘楼の跡とされるあたりには礎石らしいもの、前庭には風化した凝灰岩の石仏と五輪塔が残っています。どちらもおそらく中世のものです。地元では、この付近一帯を中蓮寺と呼んでいます。これらの遺品を見ていくことにします。
①神社の庭に凝灰岩の約30㎝の仏像が風化して残されていて、付近には同じ凝灰岩の五輪塔の一部が散乱している。②明治24年寄進の唐獅子一対と、明治41年の銘ある燈籠一対があり神社風である。③約50m下に相撲場と称する地名が残り、ここから幅約5mの参道がつづいている。④参道両側に松の古木の並木が現在23本残っている。約2/3は枯れて株が残っているが、最近枯れた松の木の年輪を数えてみると350まで数えられたという。約四百年の古木であることがわかる。並木は初め約八十本から百本ぐらいあったものと推察される。⑤中蓮寺跡の建物敷地に隣接した地点で、土地造成中に弥生式土器の破片と須恵器及び鎌倉期以後(安土桃山時代)のものと思われる備前焼のスリ鉢の破片を出土した。⑥少し下に、 中蓮寺のお堂があった地点と言われるところがあり、空堂と呼ばれている。
ここからは次のような事がうかがえます。
①の仏像からは、ここが寺院跡であったこと。②の明治時代寄進の唐獅子燈籠からは、明治維新の神仏分離後に神社化が進められ整備されたこと
③の「相撲場」からは祭りには相撲が奉納され、周辺の村々から人々が集まっていたこと
⑤の備前焼スリ臼については「口縁は、内面の線がびっしりつけられてなく、十条ごとに間隔をあけて引かれており、口縁が三重になっている様子などから安土桃山期のもの」と推定しています。弥生土器も出てきているので、弥生時代から阿讃を結ぶ峠越の交易路があり、その中継地の役割を果たす人々がいたことがうかがえます。
以上を総合してみると、次のルートで人とモノが移動していたことが見えて来ます。
池田→西山→洞草→下野呂内→空堂→中蓮寺→ 讃岐財田
中世に中蓮寺越を通じて運ばれたものとして考えられるのは次の通りです。
A 讃岐財田から池田へ 塩・陶器(備前焼)B 池田から讃岐財田へ 木地物・太布・茶・砂金・朱水銀
阿州大西(三好市池田町)から讃岐へのルートとして「南海道記」は次の四つをあげています。
中通越 阿州大西より讃州増須(真鈴)へ六里。増須より西長尾へ三里山脇越 阿州大西より讃州藤目へ六里、藤目より円(丸)亀へ六里財田越 阿州大西貞光より讃州財田石野へ三里、白地より財田へは六里海老救越 阿州大西より讃州和田へ三里、和田より杵田へ四里右の外、山越の道ありと云へども荷馬の通らざる路は事に益なし
この内で中蓮寺越ルートは「財田越」にあたるのでしょう。このルートは縄文人たちが塩を求めて讃岐に下りていった時以来のルートだったのかもしれません。
次に下野呂内の三所大権現に残された棟札を見ておきましょう。


下野呂内の三所神社棟札(池田町史より)
社名 三所大権現導師 箸蔵寺及密厳寺住職年号 文化元年、文政六年、天保一三年、宝永七年
ここからは次のような情報が読み取れます。
①中蓮寺という名はない。江戸時代には寺院としては退転して、三所大権現に姿を変えた。②導師を箸蔵寺の住職が務めているので、神仏混淆下では別当寺は箸蔵寺であったこと
三所大権現は、大きい社ではありませんが、明治初年まで相撲や競馬が行われて栄えていたようです。別当寺が箸蔵寺、権別当に箸蔵寺の末寺である密厳寺が当たっています。小規模神社であるため、神官はなく、氏子の頭屋が雑務を処理し、祭りの進行を取り仕切っていたようです。 中西一宮神社・川崎三所神社の棟札にも、遷宮大導師は雲辺寺と記します。池田町内のほとんどの神社は、雲辺寺か箸蔵寺が別当として管理にあたっていました。小規模の神社については、その末寺が権別当などの名で実際の管理にあたっていたようです。
ここでは寺院が神社を支配し、祭礼にも仏式が取り入れられ、神社で般若心経が称えられていたことを押さえておきます。これは藩の強い支持があったからできたことです。神社側はこれに対して訴訟を起こしていますがすべて寺院側の勝利に終わっています。神社の氏子にこれが無理なく受け入れられた原因は、中世から表われていた仏教の民俗化とそれに伴う神仏混交の思想、さらに、宗門改めなどに見られる寺院の行政的性格の強化があったからでしょう。
善通寺の杣山管理センターの役割を果たしていたこと、ここを拠点に廻国の修験者たちが写経をし、次の行場(目的地)目指して旅立っていったことは以前にお話ししました。その時に書かれた経典類が萩原寺地蔵院には残されています。その尾背山の西に位置したのが中蓮寺です。ここも大西氏出身の僧侶達が住職を務めながら、野呂内の開発や、森林管理、交易路修繕などにあたっていたことが考えられます。
例えば阿波守護として名西郡鳥坂城に入った佐々木経高は、承元二年(1208)頃に雲辺寺を再興しています。
雲辺寺の千手観音坐像
寿永三年(1184)頃に、雲辺寺の千手観音坐像、毘沙門天立像が相ついで奉納されているので、雲辺寺が衰微していたとは思えません。佐々木経高の雲辺寺再興は、それから約30年後のことです。これは自らの守護の役目が十分果たせることを願っての寄進だったと研究者は推測します。
承久の変の後、守護としてやってきた小笠原氏は現在の池田中学校に池田舘(大西城)を築いてここを守護所とします。そして城の東へ、自らの氏神である一ノ宮諏訪大明神を勧請して、諏訪大明神とします。これが城跡の東に残る諏訪神社です。小笠原氏は、その他にも各地の神社を創建したり、再建したと伝えられます。
田井の庄の荘官であった大西氏も菩提寺だけでなく、各地域の祈祷寺を建立し、修験者たちを保護しています。大西氏も、村落の信頼を得るために、それらの寺社へ寄進をすることが有効だと考えていたのでしょう。それが支配の円滑化にもつながるので、「必要経費」であったのかもしれません。大西氏は荘内の多くの社寺へさまざまな寄進をし、荘民の信頼を得べく努めています。その例を挙げて見ると
① 一宮、二宮、三宮神社の再建② 雲辺寺へ鰐口寄進③ 三好町願成寺へ薬師如来座像寄進④ 西山密厳寺へ大般若経20巻寄進⑤ 山城の長福寺、梅宮神社等への寄進
このような寄進をしていることは、「惣」へ強い影響力を保つために、「惣」の信仰する社寺へ寄進をしたと研究者は考えています。こうした寄進を通じて、大西氏の一族は地域に根付いていきます。それを示すかのように、野呂内にも大西神社が鎮座します。
ところが、白地城が落ち大西氏が離散すると、多くの寺々は後援者を失い一挙に廃寺へと追いこまれていきます。
一方、雲辺寺は寺伝によると文禄二年(1593)蜂須賀篷庵(小六)の参拝登山の記事があります。ここからいち早く新しい支配者の支持をとりつけたことがうかがえます。三好町の願成寺は大西覚用の支援を受けて禅宗の寺院として栄えていました。覚用の死後、真言宗に改宗し、庶民の寺として生きかえります。このときに勧進活動を行うのが修験者や聖たちです。ある意味では、修験者や聖の勧進活動なしでは、寺院は生き残れなくなっていたのです。どちらにしても中世後半に多くの寺院が一挙に廃寺に追いこまれたことは確かなようです。
一方、雲辺寺は寺伝によると文禄二年(1593)蜂須賀篷庵(小六)の参拝登山の記事があります。ここからいち早く新しい支配者の支持をとりつけたことがうかがえます。三好町の願成寺は大西覚用の支援を受けて禅宗の寺院として栄えていました。覚用の死後、真言宗に改宗し、庶民の寺として生きかえります。このときに勧進活動を行うのが修験者や聖たちです。ある意味では、修験者や聖の勧進活動なしでは、寺院は生き残れなくなっていたのです。どちらにしても中世後半に多くの寺院が一挙に廃寺に追いこまれたことは確かなようです。
ここでは新たに支配者としてやって来た蜂須賀家の保護を受けることの出来た雲辺寺は存続し、大西家に代わるパトロンを見つけられなかった中蓮寺は廃寺化したことを押さえておきます。
大西氏離散後の下野呂内
長宗我部元親の白地城占領は無血入城だったとされます。その際に大西一族が逃げ込んだ先として考えれるのが野呂内です。野呂内の伝承に、大西石見守 (大利城主)の弟大西角兵衛が隠れ住み、やがて長宗我部の軍に討ち取られる話などが残っていますが、それに似た事件はあったかもしれません。また長宗我部元親は、西讃に兵を送り込んでいく際には中蓮寺越えを利用したことが考えられます。箸蔵街道が主要街道として利用されるようになるのは近世以後のことで、中世には中蓮寺越が利用されていたと私は考えています。その街道の管理センターの役割を中蓮寺は果たしていたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 下野呂内小谷の戦後の開拓のことが「池田町史下巻953P 町民の回想」に載せられていましたので追補しておきます。
(前略)小谷の開拓地には、箸蔵村村長の横野繁太郎さんに勧められて入ったんです。開拓農家の組合長を横野さんがやめてからは、私がやらしてもらっています。入ったころは、まだ松やに採りよった。開墾せないかんのじゃけんど、松をまだ伐っとらんのじゃけん。県からは「開墾いくらした」と催足が来るけに、「何町何歩やりました」と報告して補助をもらう。昭和28年に会計検査があって、だいぶん油をしぼられました。開墾しとらんのに補助金がきとる。今まで出した分の面積を開墾するまでは浦助金出さんということになったんです。それでは困るから、栗畑を作ることにし、全部開墾せんでも、少しずつ開墾して栗植されば良いということで、穴うめをしました。
道つくりに苦労し、ブルドーザが入るようになってから全山の開墾をやった、畑を作ったり、田を造成して、米ができたときは嬉しかったです。食料不足の時代ですから。その後、缶詰用の桃やら、アスパラガスなどやってみましたが成功せなんだ。栗は良くできて、私は栗の主みたいに言われました。郡内で一番早かったですからな。
現在、開拓地の七戸の中四戸が豚を大規模にやっています。自分の資本でないので面白くないと言っています。会社の委託飼育で、月に三〇万くれて、後で精算するんだそうです。飼料が高いですけんねえ。私は、栗と椎茸やっとりますが、このごろは一パック三十円くらいで、ただみたいなもんです。二百円もするときがあったんです。八、九十円もすれば採算が合うんじゃ。自分の木切って原木にしとるのやけど、原木買ってしたんでは引き合わん。
参考文献 池田町史220P 中蓮寺
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