瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尾背寺

   
尾瀬神社地図
財田川上流にある尾瀬神社

財田川は塩入(まんのう町)の奥に源流があり、野口ダムを流れ落ちた所で大きく流れを西に変えます。ここがまんのう町久保(窪)です。財田川が河川争奪で、ここから上流の流れを金倉川から奪ったとされる地点です。この西側にあるのが尾瀬(おのせ)山です。

尾ノ背寺跡
尾背寺跡

この山には中世には「尾背寺」と呼ばれた山林修行の寺院がありました。修験者や聖達の「写経センター」的な役割を果たしていたことを前回はお話ししました。今回は、その後の近世・近代の尾瀬山のことを見ていくことにします。
 戦後時代の争乱や、金毘羅大権現・金光院の勢力増大の圧迫を受けて、周辺の山林寺院は衰退したようです。尾背寺も近世初頭には退転します。
「善通寺誌」には、
「善通寺、尊烏有印、宇多深町、聖遠寺と尾の背寺を兼務云々」
「朝倉記」には
「文禄のころ(1592~96)尾の背寺寺僧、三野郡勝間村、寺教院へ隠退せり」
ここからは次のようなことが分かります。
②神社の別当を尾背寺の僧侶(修験者)が務めていたこと
③尾瀬神社は神仏混淆で、社僧の管理下に置かれていたこと

 伝えるところでは、拝殿の塗板には次のように記れていたといいます。
A 文禄元年壬辰四月八日、本殿改築、願主・七ケ村氏子中・大工、七弥、
B 慶長十七年壬子年八月九日、一丈四方の拝殿建立、小池・春日・本目、惣氏子中
C 慶長年間に、朝倉生水義景(朝倉家中興の祖)が神官(修験者?)に就任。
ここからは次のような事が分かります。
①文禄・慶長の生駒藩時代に、戦乱で荒廃した尾背寺跡に、本殿改築と拝殿建立が行われ「尾瀬神社」が姿を現した。
②それを勧進したのが朝倉義景で、麓の小池・春日・本目など七箇村住人を氏子として組織した。
③尾背寺から尾瀬神社へ宗教施設が変化した。
その後、元禄年間に山頂の神社を、現在地に遷宮し南向に建立。それがいつのころか本殿の向きが東向に建て替えられた。
しかし、これらを裏付けるものはありません。事実だとすれば、生駒氏の時代になって、退転した尾背寺が神社として、再建されたことになりますが、この辺りのことはよく分かりません。

 改修記録で残されているのは、幕末の次の2点です。
D 安政三年(1856)増田伝左衛門が多治川の山を払い下げられたときに、6m~4mの遙拝殿を、西星谷に建立」

E 慶応三年(1867)に、本社の拝殿が老朽したので、遙拝傳を本社に移し拝殿として建て替えた。
  ここに登場する増田伝左衛門というのは、春日出身の国会議員・増田穣三の一族のようです。増田家には、名前に伝四郎・伝次郎・伝吾などの名前が付けられています。増田家が春日・塩入の奥の山林の払い下げを受けて、山林地主となっていたことがうかがえます。その増田家の寄進で、幕末に、遙拝殿が建立され、それが11年後に本社横に移築されて、拝殿とされています。尾瀬神社の実際の起源は、このあたりであった可能性もあります。

尾瀬神社4
尾瀬神社拝殿

尾瀬神社が人々の信仰を集めるようになるのは幕末になってからのようです。それは、雨乞の神としてリニューアルされたからです。
18世紀に善女龍王が善通寺などに勧進され、丸亀藩の雨乞祈祷寺に指名されます。すると、庶民の間でも、雨乞い祈祷ブームが起き、さまざまな雨乞いが実施されるようになります。
例えば、大川山(まんのう町)では雨乞講形成が次のように進みます。
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②頂上には修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤修験者たちは雨乞講を組織し、里の百姓達を組織化した。
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧明治の神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進し「ミニ大川神社」を建立した。
⑨それを主導したのは水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。
大川神社は、土器川源流にちかくにあり、その流域の人々を組織していきます。一方、金倉川流域の人々を組織したのが、尾瀬神社の修験者たちだったようです。尾瀬神社にも分社の勧請もあって、明治27年9月には、丸亀市原田町黒島下所に分社が建立されています。

こうして明治になると尾瀬神社の雨乞講が各地に作られて、経済的な基盤が確立して、神社の建物も整備されます。尾瀬信仰の範囲は、西讃一円と徳島県三好郡にも及んだようです。ある意味では、阿波と讃岐の交流の場ともなっていたのです。
尾瀬神社絵図
 明治17年ごろの尾瀬神社大祭日を描いた木版刷絵図

この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①「讃岐国那珂郡尾瀬神社式日」と題され、多くの参拝者で境内が賑わっていること
②本殿・拝殿・大門などが整い、水分社などの摂社がいくつも祀られていたこと
③御盥には柵が設けられ、聖地とされていたこと
④土俵がもうけられ尾瀬相撲が奉納されていたこと。

尾瀬神社 神泉
尾瀬神社 神泉(旧御盥)
尾瀬神社神泉 

この他にも、明治13年9月に「尾瀬神社」と墨筆した掛け軸発行。
明治21年には尾瀬講の木札発行。祭礼もそれまでは、秋一回であったのが、春秋二回行われることになります。祭礼行事としては、
春日、小池、本目の各集落から獅子舞いの奉納
麓の参道登山口の財田川河原では、農具市、植木市開催
などもあり、人々で賑わいます。こうした隆盛は、大正時代から昭和の初めまで続きます。このような隆盛をもたらしたのは、どんな「宗教勢力」だったのでしょうか?
これは讃岐と阿波を結ぶ修験者だったと私は考えています。
①山伏集団の拠点であった箸蔵寺(三好市)の隆盛
②剣山修験集団の円福寺修験者集団
などの動きと連動していたようです。それは、またの機会にするとして・・

隆盛なさまを見せていた尾瀬神社が衰退していくのは、どうしてなのでしょうか。
①雨乞踊りや、行事が「迷信」とされ、行われなくなるのが「合理主義」が農村にも浸透してくる大正・昭和です。
②財田駅から三好に、猪ノ鼻トンネルを抜けて列車が走り始めるのが昭和初めです。
雨乞信仰を支えた尾瀬講が解体し、農民達の組織的な動員力が衰えていきます。同時に、阿讃を結ぶ交易路の要衝にあった尾瀬神社は、鉄道の開通で辺境に「転落」していきます。こうして雨乞祈祷の聖地は、「聖戦」の名の下に進められる日中戦争の泥沼の中で、顧みられなくなり背景に消えていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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尾背寺跡

  昔から気になる廃寺があります。本目の尾背寺です。

尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

この寺の「発掘調査書」を要約すると、次のようになります。

①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で
②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺
③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地
④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
などから寺域はかなり広く、多くの山岳修行者たちが拠点とする寺院だったようです。讃岐で作られたものではない土器や高価な白磁なども出ててくるので、廻国の修験者や聖の流入もあったようです。

尾背寺 白磁四耳壷
白磁四耳壺(尾背寺出土)

 高野山の高僧道範が讃岐流刑中に著した『南海流浪記』(1248)には、次のように記されています。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記の尾背寺の部分

「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」

ここからはこの寺が善通寺の「森林管理センター」であると同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。本尊は善通寺と同じ薬師如来です。薬師如来は熊野行者の信仰する仏でもありました。13世紀半の尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

  近年、尾野寺のことが萩原寺(大野原町)に残る文書に書かれているのが明らかになりました。
尾背寺文書
萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法
例えば萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法は、文保元年(1317)に尾背寺下坊で書写されたと記されています。それが萩原寺の聖教として保管されていました。ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。
②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
こうして見ると尾背寺は山の中に孤立していたわけでなかったようです。大川山の中寺廃寺や炭所の金剛院とも結びついた山岳寺院ネットワークを構成していたことが考えられます。そして、これらの寺は阿波との交易の中継基地的な役割も果たしていたと私は考えています。

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   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
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延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

尾背寺跡

   昔から気になる廃寺があります。まんのう町の尾背寺です。ここには、かつてはキャンプ場があり、若い頃は野外指導のために夏の間に何度も登っていました。そんな中で発掘調査が、1978・79年に行われ、その報告書も出されれています。それを読んでも、「中世山岳寺院のひとつ」ということくらいしか頭には残りませんでした。しかし、大川山中腹の中寺廃寺が発掘され、次のような事が見えてきました。
①讃岐の山岳寺院がネットワークとして結ばれていたこと
②熊野行者をはじめ修験者たちが頻繁に訪れ、辺路修行を行っていたこと、
③里の本寺の奥の院として、行場であり、学問所の機能を果たしていたこと
尾背寺が孤立的に存在していたのではなかったようです。そんな中で、町誌ことひらの史料編を眺めていると、大野原町・萩原寺の文書の中に尾背寺との関係がうかがえる史料があることを知りました。それらの資料で、尾背寺について分かることをまとめておこうと思います。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)

「尾ノ背寺跡の発掘調査書」には、発掘成果について次のようにまとめられています。
①寺の存続期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間と推定。
②その中心は、瓦片が集中出土する現在の尾野瀬神社拝殿周辺である
③拝殿裏には礎石が並んでいることから、ここが本堂跡の最有力地
④神社すぐ下の通称「相撲取場」と呼ばれる平坦地も候補地
⑤残存状態は良好で、礎石が点在する
⑥尾野瀬神社の在る平坦地から、墓ノ丸までの一帯には平坦地や石垣が多数検出され、いくつもの坊があったことを実証づける
⑦尾ノ背寺の寺域は広く、神社からさらに上方にも平坦地があり,「鐘撞堂」などの地名が残っている
調査で出土した遺物多くは、土師質の小四・杯のようです。
その土師器に特徴があるようです。出土した土師器は、地元の讃岐の元吉城ではない、外部から持ち込まれたものがあるようです。それは、底部の切り離しの際には、回転ヘラ切りが行われるのが一般的です。ところが小皿・杯 に各1点 づつ糸切りのものがあるようです。これは、在地のものではなく、讃岐以外の地から持ち込まれたものと研究者は考えているようです。修験者など、国を超えた移動が行われていたことがうかがえます。この時の調査では、仏具が出てきていないので、寺の性格については明らかにすることが出来なかったようです。
尾背寺 白磁四耳壷
尾背寺跡出土 白磁四耳壷 

  次にこの寺の文献資料を見ておくことにします。
まず挙げられるのが『南海流浪記』(宝治二年(1248)十一月)です。これは高野山の学僧道範の讃岐流刑記録です。道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
尾背寺参拝 南海流浪記
南海流浪記 尾背寺・称名寺参拝の部分

 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をして、次のように記しています。
「同年十一月十七日、尾背寺参詣。此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ柚山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影並二七祖又天台大師ノ影有之」
意訳変換しておくと
「尾背寺は、弘法大師が善通寺を建立したときの柚(そま)山であると云われる。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には七祖又天台大師の御影が祀られていた。

 ここからは次のようなことが分かります。
①尾背寺には、善通寺創建の時の柚(そま)山として、建築用材を供給した山と伝えられていた。この時も、宥範の手で進められていた善通寺復興のための木材確保のためにやってきたのかもしれません。この寺が善通寺の柚(そま)山の「森林管理センター」や、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
②本堂には弘法大師作とされる薬師如来が祀られていたようです。善通寺の本尊も薬師如来です。ここからは、熊野行者的な修験者たちによって両者が結びつけられていたことがうかがえます。
③本堂以外にも御影堂があります。その他の坊も存在もうかがえます。何人もの修験者たちが修行や学問に励んでいたことがうかがえます。
尾背寺 出土瓦
 
このように13世紀半ばには、尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。

称名寺 「琴平町の山城」より
 尾背寺で一泊した翌日、道範は帰路に小松荘の称名院を訪ねています。称名院は、現在の金刀比羅宮の神田の上にあったとされる寺院です。それを次のように記しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
     
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。

ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土教の寺。
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。

ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。これは、以前に四国霊場の弥谷寺に庵を構えていた高野の念仏聖の姿とよく似ています。彼らは、「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 修験者」の性格を併せ持った聖達でした。その影が称名院の僧侶達からもうかがえます。そしてこれらの寺院や庵は「善通寺 ー 称名寺 ー 尾背寺」と、修験者や高野聖たち行者のネットワークで結びつけられていたことがうかがえます。
尾背寺跡 地形図
尾背寺跡地形図
江戸時代に金毘羅金光院に仕えた修験寺院多聞院の〔古老伝旧記〕には、次のように記されています。
尾野瀬寺之事 讃州那珂郡七ヶ村之内 本目村上之山 如意山金勝院 尾野瀬寺 右寺領新目村 本目村 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南之尾立に墓所数々有 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
 意訳変換しておくと 
「尾野瀬(尾背)寺について この寺は讃州那珂郡七ヶ村、本目村上之山にあり如意山金勝院と号する。 尾背寺の寺領は新目村 本目村で 
一 本堂 七間四面 
一、諸堂数々 一、仁王門 一、鐘楼堂 一、寺跡数々 一、南の尾根に墓所が多数ある 
一、呑水之由名水二ヶ所有(後略)」

ここには、かつての尾背寺は、新目・本目を寺領としていたこと。本堂が七間四面あったと、山伏らしい法螺(?)が記されます。さらに本堂以外にも、数々の緒堂や山門があり、坊跡も残る寺院があったことが記されています。江戸時代になっても、かつての尾背寺の繁栄ぶりが伝わっていたことがうかがえます。
 ちなみにこの文書を残した多門院は、初代金光院院主とされる宥盛が土佐の修験道の有力な指導者を迎えて、設立した院房です。全国にネットワークを持つ金比羅行者の養成・指導機関として、機能するとともに、金比羅の街の警察・行政機関の役割も果たしていました。多門院には、阿波の箸蔵寺などを拠点とする修験者たちを始め、全国の修験者たち(天狗)が出入りしていたようです。そのために修験道者の交流・情報交換センターでもあったと私は考えています。

大正七年(1918)刊の『仲多度郡史』に「廃寺 尾背寺」として、次のように記されています。
「今の尾瀬神社は、元尾脊蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」

昭和十三年(1938)刊の『香川県神社誌』もそれを受けて
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、両部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興(中略)明治元年 脊を瀬に改め尾瀬神社と奉称」

と記されています。
ここにはもともとは「尾脊蔵王大権現」と称し、神仏混淆の「蔵王大権現」が祀られていたとします。「蔵王権現」は、修験者の信仰対象です。ここにあった尾背寺は「山伏寺」と認識されていたことが分かります。萩原寺所蔵の聖教類では、真言宗本来の教学修法の下にあったとされますが、山伏集団の拠点であったようです。それが長宗我部元親の侵攻で兵火に会い焼失したというのです。

  以上、文献史料や発掘調査から分かることをまとめたおきます
①鎌倉時代から戦国時代にかけて、尾背寺と呼ばれる山岳寺院が存在した。
②現在の尾背神社の拝殿辺りに本堂があったようで、本尊は薬師如来であった。
③尾背蔵王権現と呼ばれ、山岳修験者たちの修行地でもあった。
④善通寺の奥の院として、杣山の管理センター的な役割も果たしていた。
⑤寺域には、多くの院坊跡がみられ多くの修験者たちがいたことがうかがえる

   町誌ことひらは、尾背寺に関する新たな文書を史料編の中で紹介しています。それは、観音寺市大野原町の萩原寺に伝えられる文書です。それを次に見ていきましょう。

萩原寺地蔵院の「地鎮鎮壇法」には、文保元年(1317)尾背寺下坊で書写したと記されます。
御本云、寛喜二(1230)年四月廿二日、於北白川博授了、道範文賓治二年戟四月廿四日、於善通寺相博御本、同三年二月六日書篤畢、賞弘 抑賜御本而同年十月廿日、癸巳、左衛門少尉紀範忠氏寺筑佐堂之鎮壇修之、重験不思議也、是偏御本無誤之故也、不能委注耳、賞弘在判 文保元(1317)年目十一月十二月、於尾背寺下坊書篤了、
(東京大学史料編纂所架蔵「史料蒐/集目録』二五七、香川県萩原寺)
 この聖教は寛喜二年(1230)四月、道範が北白川で受法します。その後、道範は寛元元年(1243)讃岐へ配流されますが、その5年後の宝治二年(1248)四月に、善通寺でこの法を実弘に伝えたようです。翌三年二月に、実弘は自分用に、もう一度書写しています。その転写を行ったのが尾背寺下坊で文保元年(1317)のことです。配流の身の道範が伝えた聖教が、尾背寺下房で書写され、それが大野原の萩原寺の聖教として保管されていたことになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①道範がいくつかの聖教を善通寺に伝えたこと
②その一部は、伝来され尾背寺で書写されていること。
③尾背寺には「下房」があったこと。
④「善通寺 ー 尾背寺 ー 萩原寺」という高野山系僧侶のネットワークがあったこと

   四 〔授法最略作法〕
正平十二年後七月十二日、以相承之
本書加道叡法印了、御判(聖尊)
右、以師主遍智院宮三品親王(聖尊)、御自筆之本書篤之了、 道興右、以此本奉授与照海大徳即以了、
應安四(1371)年十月十八日
道興(花押)

ここには三品親王聖尊自筆の本を、醍醐宸尊院道興が写して応安四年(1237)十月に、尾背寺の照海に与えたことが書かれています。萩原寺の中興真恵も、聖尊・道興から高野山宏範を経てこの法を受けています。尾背寺の照海も、また聖尊と道興の法を受けています。ここからは、萩原寺と尾背寺の院主は「兄弟弟子」の関係にあったことが分かります。法流の面でも、人脈の面でも二つのお寺は親密であったことがうかがえます。

〔真成授真尊印信〕
護摩口決
(中略)
明徳三年正月五日、 令書篤畢、照海
應永九年八月廿二日、於讃州尾背寺遍照院、書篤畢、成紹
應永廿一年八月五日、書篤畢、真成
康正三年二月廿七日、書篤畢、真尊
ここからは〔真成授真尊印信〕の「護摩口決」が先ほど出てきた照海から成紹に伝わり、真成・真尊と書写され受け継がれていることが分かります。そして、成紹の書写は「讃州尾背寺遍照院」で行われたとあります。下房以外にも、「遍照院」もあったようです。
尾背寺文書
成紹授真恵印信 尾背寺金勝院で書写されたことが記されている

「成紹授真恵印信」は、尾背寺の照海の後継者成紹が真恵に授けた印信が七通集められています。 
塔印 口決在之
明  (梵字)
右於讃州尾背寺金勝院道場、授於
大法師真恵畢、
   應永十二年 二月十六日
博授阿閣梨位成紹

ここからは足しかけ3年にわたって、さまざまな法流が成紹から真恵に授けられたことが分かります。それが行われたのが「讃州尾背寺金勝院道場」です。金勝院という院房もあったことがわかります。

以上から次のようなことが分かります。
①中世の尾背寺は萩原寺と同門で、密接な関係があったこと
②尾背寺では、いくつもの院房があり、そこで活発な書写活動が行われていた。

それでは、尾背寺はどうして衰退したのでしょうか。
讃岐の寺院は、土佐の長宗我部元親の侵攻により兵火に会い、衰退したと由緒に書いている所が多いようです。これは、江戸時代後半になって郷土意識が高まるとともに、讃岐を「征服」した長宗我部元親に対する反発が強くなり、いろいろな書物が「反長宗我部元親」を展開するようになったこともあるようです。
 尾背寺の衰退には、当時台頭してきた新興勢力の金毘羅大権現の別当金光院との対立があったようです。
  先ほど見た『古老伝旧記』には、尾背寺と金毘羅金光院の間の争いがあったことが記されています。当時の金光院院主は宥盛でした。宥盛は、新興勢力の金毘羅神が発展していくために旧勢力との抗争を展開していきます。
  金比羅堂を創建した長尾家出身の宥雅は、長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命ていました。その後、元親が院主に据えた宥厳が亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、後を継いだ宥盛を藩主の生駒家藩主に訴えています。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束していた金を送らない
②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、
③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。
④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
 宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾背寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。このようなお山の「権力闘争」を経て、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位を確立させていったのが宥盛です。
宥盛は、すぐれた修験僧(山伏)でもあったようです。
金剛坊と呼ばれて多くの弟子を育てました。その結果、金毘羅山周辺には多くの修験の道場が出来て、その大部分は幕末まで活躍を続けます。彼自身も奥社の断崖や葵の滝、五岳山などをホームゲレンデにして、厳しい行を行っています。同時に「修験道=天狗信仰」を広め、象頭山を一大聖地にしようとした節も見られます。つまり、修験道の先達として、指導力も教育力も持った山伏でもあったのです。
  彼の弟子には、多聞院初代の宥惺・神護院初代宥泉・万福院初代覚盛房・普門院初代寛快房などがいました。これを見ると、当時の琴平のお山は山伏が実権を握っていたことがよく分かります。
 特に、土佐の片岡家出身の熊之助を教育して宥哩の名を与え、新たに多聞院を開かせ院主としたことは、後世に大きな影響を残します。多門院は、金光院の政教両面を補佐する一方、琴平の町衆の支配を担うよう機能を果たすようになって行きます。
 宥盛は、真言密教の学問僧というばかりでなく、山伏の先達としてカリスマ性や闘争心、教育力を併せ持ち、生まれたばかりの金毘羅大権現が成長していける道筋をつけた人物と言えるでしょう。
 同時に、同門の善通寺とは対立し、その末寺的な存在であった称名寺や尾背寺に対して、攻撃を展開したことがうかがえます。その結果、 尾背寺の大師御影は金光院の所有となり、真如親王の御影も金光院御影堂に収められたと『古老伝旧記』には記されます。以前に現在の松尾寺に伝わる弘法大師座像は、「善福寺」にあったものを金光院の宥盛が手にして、金毘羅大権現に祀られていたものであったことは以前にお話ししました。坐像の中から宥盛自筆の祈願文が出てきました。宥盛の山伏としての辣腕ぶりがうかがえます。
  
ちなみに彼は金毘羅神の創建者として、今は神として祀られています。明治になって彼に送られた神号は厳魂彦命(いずたまひこのみこと)です。そして、かれが修行した岩場に「厳魂神社」が造営され、ここに神として祀られたのです。それが現在の奥社です。

近世はじめまで山岳寺院として繁栄してきた尾背寺は、戦国時代に衰退するとともに、江戸時代になると金毘羅大権現との抗争で廃寺となったようです。そして、その跡に明治になって尾野瀬神社が建立さるのです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
町誌ことひら 古代・中世史料編 268P  

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