財田川上流にある尾瀬神社
財田川は塩入(まんのう町)の奥に源流があり、野口ダムを流れ落ちた所で大きく流れを西に変えます。ここがまんのう町久保(窪)です。財田川が河川争奪で、ここから上流の流れを金倉川から奪ったとされる地点です。この西側にあるのが尾瀬(おのせ)山です。
尾背寺跡
この山には中世には「尾背寺」と呼ばれた山林修行の寺院がありました。修験者や聖達の「写経センター」的な役割を果たしていたことを前回はお話ししました。今回は、その後の近世・近代の尾瀬山のことを見ていくことにします。
戦後時代の争乱や、金毘羅大権現・金光院の勢力増大の圧迫を受けて、周辺の山林寺院は衰退したようです。尾背寺も近世初頭には退転します。
「善通寺誌」には、
「善通寺、尊烏有印、宇多深町、聖遠寺と尾の背寺を兼務云々」「朝倉記」には
「文禄のころ(1592~96)尾の背寺寺僧、三野郡勝間村、寺教院へ隠退せり」
ここからは次のようなことが分かります。
②神社の別当を尾背寺の僧侶(修験者)が務めていたこと
③尾瀬神社は神仏混淆で、社僧の管理下に置かれていたこと
伝えるところでは、拝殿の塗板には次のように記れていたといいます。
A 文禄元年壬辰四月八日、本殿改築、願主・七ケ村氏子中・大工、七弥、B 慶長十七年壬子年八月九日、一丈四方の拝殿建立、小池・春日・本目、惣氏子中C 慶長年間に、朝倉生水義景(朝倉家中興の祖)が神官(修験者?)に就任。
ここからは次のような事が分かります。
①文禄・慶長の生駒藩時代に、戦乱で荒廃した尾背寺跡に、本殿改築と拝殿建立が行われ「尾瀬神社」が姿を現した。
②それを勧進したのが朝倉義景で、麓の小池・春日・本目など七箇村住人を氏子として組織した。
③尾背寺から尾瀬神社へ宗教施設が変化した。
その後、元禄年間に山頂の神社を、現在地に遷宮し南向に建立。それがいつのころか本殿の向きが東向に建て替えられた。
しかし、これらを裏付けるものはありません。事実だとすれば、生駒氏の時代になって、退転した尾背寺が神社として、再建されたことになりますが、この辺りのことはよく分かりません。
改修記録で残されているのは、幕末の次の2点です。
D 安政三年(1856)増田伝左衛門が多治川の山を払い下げられたときに、6m~4mの遙拝殿を、西星谷に建立」E 慶応三年(1867)に、本社の拝殿が老朽したので、遙拝傳を本社に移し拝殿として建て替えた。
ここに登場する増田伝左衛門というのは、春日出身の国会議員・増田穣三の一族のようです。増田家には、名前に伝四郎・伝次郎・伝吾などの名前が付けられています。増田家が春日・塩入の奥の山林の払い下げを受けて、山林地主となっていたことがうかがえます。その増田家の寄進で、幕末に、遙拝殿が建立され、それが11年後に本社横に移築されて、拝殿とされています。尾瀬神社の実際の起源は、このあたりであった可能性もあります。
尾瀬神社拝殿
尾瀬神社が人々の信仰を集めるようになるのは幕末になってからのようです。それは、雨乞の神としてリニューアルされたからです。
18世紀に善女龍王が善通寺などに勧進され、丸亀藩の雨乞祈祷寺に指名されます。すると、庶民の間でも、雨乞い祈祷ブームが起き、さまざまな雨乞いが実施されるようになります。
例えば、大川山(まんのう町)では雨乞講形成が次のように進みます。
例えば、大川山(まんのう町)では雨乞講形成が次のように進みます。
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる②頂上には修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる⑤修験者たちは雨乞講を組織し、里の百姓達を組織化した。⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。⑧明治の神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進し「ミニ大川神社」を建立した。⑨それを主導したのは水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。
大川神社は、土器川源流にちかくにあり、その流域の人々を組織していきます。一方、金倉川流域の人々を組織したのが、尾瀬神社の修験者たちだったようです。尾瀬神社にも分社の勧請もあって、明治27年9月には、丸亀市原田町黒島下所に分社が建立されています。
こうして明治になると尾瀬神社の雨乞講が各地に作られて、経済的な基盤が確立して、神社の建物も整備されます。尾瀬信仰の範囲は、西讃一円と徳島県三好郡にも及んだようです。ある意味では、阿波と讃岐の交流の場ともなっていたのです。
明治17年ごろの尾瀬神社大祭日を描いた木版刷絵図
この絵図からは、次のようなことが読み取れます。
①「讃岐国那珂郡尾瀬神社式日」と題され、多くの参拝者で境内が賑わっていること
②本殿・拝殿・大門などが整い、水分社などの摂社がいくつも祀られていたこと
③御盥には柵が設けられ、聖地とされていたこと
明治21年には尾瀬講の木札発行。祭礼もそれまでは、秋一回であったのが、春秋二回行われることになります。祭礼行事としては、
春日、小池、本目の各集落から獅子舞いの奉納
麓の参道登山口の財田川河原では、農具市、植木市開催
などもあり、人々で賑わいます。こうした隆盛は、大正時代から昭和の初めまで続きます。このような隆盛をもたらしたのは、どんな「宗教勢力」だったのでしょうか?
春日、小池、本目の各集落から獅子舞いの奉納
麓の参道登山口の財田川河原では、農具市、植木市開催
などもあり、人々で賑わいます。こうした隆盛は、大正時代から昭和の初めまで続きます。このような隆盛をもたらしたのは、どんな「宗教勢力」だったのでしょうか?
これは讃岐と阿波を結ぶ修験者だったと私は考えています。
①山伏集団の拠点であった箸蔵寺(三好市)の隆盛②剣山修験集団の円福寺修験者集団
などの動きと連動していたようです。それは、またの機会にするとして・・
隆盛なさまを見せていた尾瀬神社が衰退していくのは、どうしてなのでしょうか。
①雨乞踊りや、行事が「迷信」とされ、行われなくなるのが「合理主義」が農村にも浸透してくる大正・昭和です。
②財田駅から三好に、猪ノ鼻トンネルを抜けて列車が走り始めるのが昭和初めです。
雨乞信仰を支えた尾瀬講が解体し、農民達の組織的な動員力が衰えていきます。同時に、阿讃を結ぶ交易路の要衝にあった尾瀬神社は、鉄道の開通で辺境に「転落」していきます。こうして雨乞祈祷の聖地は、「聖戦」の名の下に進められる日中戦争の泥沼の中で、顧みられなくなり背景に消えていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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