瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:尾﨑清甫

                 
綾子踊は、雨乞い踊りとされてきました。それでは、そこで歌われている地唄は、雨乞いに関係ある歌詞なのでしょうか。実は、歌われている内容は、雨乞いとは関係ない恋の歌が多いようです。
綾子踊りには、どんな地唄が歌われているのかを見ていくことにします。 綾子踊りには、12の地唄があります。その中で「綾子踊」と題された歌を見ておきましょう。

綾子踊り地唄 昭和9年
綾子踊地唄(尾﨑清甫文書 1934年版) 

尾﨑清甫が1934(昭和9)年に、残した「綾子踊」の地唄です。
歌詞の上に踊りの動作が書き込まれています。例えば、最初の「恋をして、恋をして」の所には、「この時に、うちわを高く上げて、真っ直ぐに立て捧げ、左右に振る」。「わんわする」で「ここでうちわを逆手に持ち替えて、腰について左に回る」、その後で「小踊入替」とあります。踊りの所作が細かく書き込まれています。一番を、意訳変換しておくと次のようになります。

綾子踊り地唄
綾子踊の1番
「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。「恋をして 恋をして ヤア わんわする。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。それを親は、夏やせだと思っています。「あじ(ぢ)きなや」です。「アヂキナイ」 とは情けないこと 、あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことです。恋やせなのに、夏やせとはあじけない。人の気持ちが分かっていない、情けないというところでしょうか。2番を見ておきましょう。

綾子踊り地唄2
綾子踊の地唄 2番

2番は①我が恋は夕陽の向こうの海の底の沖の石と歌います。これだけでは意味が取れないので、他の類例を見ておきます。備後地方の田植え歌には「沖の石は、引き潮でも海の底にあって濡れたままで乾く間もない」、千載和歌集には「沖の石は姿を現すことのなく、誰にも見えない秘めた恋」とあります。「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。これを参考に次のように意訳しておきます。

「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

綾子踊りの3番を見ておきましょう。
綾子踊り地唄3番

綾子踊り3番は、我が恋を細谷川の丸木橋に例えます。
これだけでは意味が分からないので、また類例を見ておきましょう。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。

次に花籠を見ておくことにします。
綾子踊り 花籠2
              綾子踊地唄 花籠(尾﨑清甫文書 1934年版)
綾子踊り 鳥籠
花籠の意訳

この歌は、閑吟集(16世紀半ば)の一番最後に出てくる歌のようです。
綾子踊り 花籠 閑吟集

ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した歌詞が、地唄として踊られているというのが「無形文化財」だと研究者は考えています。


私の綾子踊りに対する疑問の一つが「雨乞い踊りなのに、どうして恋歌が歌われるのか」でした。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
雨乞いなのに恋の歌

 つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。

どうして綾子踊りに、風流歌が踊られるのか?


 まんのう町出身の戦前の衆議院議員増田穣三(じようぞう)の華道師匠の顕彰碑が宮田の西光寺(法然堂)にあると聞いて行ってみた。

増田穣三法然堂碑文.J2PG
園田翁顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)

碑文は、本堂の正面に忘れられたかのようにあった。そこには園田氏実(法号 丹波法橋、流号 如松斉(によしようさい)の業績が次のように刻まれている。(意訳要約)
「幕末から明治にかけて、丹波からやってきた如松斉が縁あって法然堂の住職務めた。堂塔修繕などに功績を残したが、明治になり時代が変わると隠居し、生間の豊島家の持庵に移り活花三昧の生活を送り未生(みしよう)流師範を名乗った。自庵で教授するばかりか各地に招かれて出張指導し、広く仲多度南部から阿波にかけて門弟は六百余名を数えるほどにもなった。」
未生流は陰陽五行説・老荘思想・仏教を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りをめざすもので、明治という新しい時代にマッチした活花として受け入れられたという。この流派を、最初にこの地に持ち込んだのが如松斉であり、多くの問弟を抱える華道集団に成長していた。如松斉は、明治16年に76歳で死去する。没後7回忌に当たる明治22年に、彼の高弟達が法然堂境内に、この顕彰碑を建てた。

碑文裏には、建立発起人の名前が数多く刻まれている。

増田穣三法然堂碑文
    園田翁顕彰碑の発起人たち 先頭は増田(秋峰)穣三
その筆頭に、増田穣三(秋峰)の名がある。後の衆議院議員で、銅像が塩入駅前に立っている人物だ。しかし、この碑文建立時には26歳の若者である。それがなぜ筆頭に?
 死を目前にして起き上がれない如松斉は、腹の上に花台を置いて、臨終の際まで穣三に指導を行い皆伝を許可したという。晩年の如松斉の穣三に対する思い入れが伝わってくる。経験豊富な兄弟子や高弟は、何人もいたと思われるが、彼が後継者に選ばれる。若き穣三の中に多くの門下生をまとめ上げ指導していく寛容力や人間的魅力があると、如松斉は見抜いたからではないか。その後、穣三は師匠の名を冠した「如松流2代目家元」を名乗る。この顕彰碑は、増田穣三の後継者継承を示すと同時に「流派独立宣言碑」とも読み取れる。
 穣三が家元として伝えた「如松流」の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
旧伊予街道の旧街道沿いにある尾崎家の玄関には、3代にわたる華道の看板が掲げられている。そこには「如松流」の文字が黒々と書き込まれていた。 一番古いものが穣三の高弟で如松流3代目と目されていた尾﨑清甫(博次)のものである。

尾﨑清甫華道免許状
尾﨑清甫の免許状 秋峰の名前が見える
尾﨑清甫は手書きの「立華覚書き」を残している。孫に当たる尾崎クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。如松斉により上方からもたらされた活花が、増田穣三やその高弟・尾﨑清甫の三代を経てまんのうの地に根付いて行った痕跡を見る思いがした。

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尾﨑家に残る花伝書と雨乞踊諸書類の箱
 なお、尾﨑清甫は綾子踊り文書を書残した人物でもある。

増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ

(2017年12月分原稿)
参考文献 仲南町史 尾崎家に残る諸資料
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中讃TV 歴史のみ方

中讃ケーブルTVに「歴史のみ方」という番組があります。10分ほどの短いものですが、よく練られた構成だなと思って見ていると、出演依頼がありました。綾踊りの踊りではなく、残された記録について焦点をあてることにして、引き受けることになりました。事前に渡されていた質問と、私が準備していた「回答」をアップしておきます。

尾﨑清甫2
尾﨑清甫と綾子踊りの文書の木箱

Q1尾﨑清甫の残した記録について

DSC02150
綾子踊り関係の尾﨑清甫文書
 ここにあるのは尾﨑清甫が書残した綾子踊りの記録です。これらは3つの時期に書かれたことが年紀から分かります。一番古いのが110年前の1914年(大正3)、そして90年前の1934(昭和9年)、1939年(昭和14)年に書かれています。面白いのは、書かれた年に共に厳しい旱魃に襲われて、綾子踊りが踊られた年にあたります。綾子踊りを踊った年にこれらの記録は書かれています。

Q2 どのような記録が書かれていますか?

綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来由来

最初にの大正9年に①綾子踊由来記などが書かれ、次に1934年に②踊りの構成メンバーや立ち位置(隊列図)などが書かれています。そして最後に1939年に、それらがまとめられ、花笠や団扇の色や寸法などの記録が追加されています。
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊りの各役割ごとの花笠寸法
ちなみにいまもこの寸法や色指定に従って、花笠や団扇・衣装は作られています。

Q3 記録の情報源は、何だったのですか?

西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と綾子踊文書
 地唄の歌詞と薙刀問答については、丸亀藩が幕末に編集した西讃府誌に載せられています。その他の由来などについては、古書を写したり、古老からの話とされています。

Q4 一番古く踊られた記録は、いつですか?
 綾子踊り控え記録では、約210年前の1814(文化11)が一番古い記録になります。その後は、幕末の日照りの年に2回ほど踊られたと記されています。この頃に編集された西讃府誌に綾子踊りのことが記されているので、それまでには踊られるようになっていたことは確かです。
Q5 意外と踊られていないのはどうしてっですか?
雨乞い踊りなので、旱魃に成らないと踊られません。昔は総勢で200人近い人数で踊られたとされます。準備も大変な踊りです。そのため、それまでに祈祷などのいろいろな雨乞いを行って、それでも雨が降らないときに最後の手段として綾子踊りは踊られたようです。毎年、祭礼に踊られる踊りではなかったのです。

Q6 この絵はなんですか
綾子踊り 奉納図佐文誌3
綾子踊り隊形図

綾子踊りの隊形図になります。この絵は、龍王山の山腹に祀られていた「ゴリョウさん」あるいは「リョウモ」さんで、綾子踊りが踊られています。「ゴリョウさん」は「善女龍王」のことで、空海が雨乞いの際に祈った龍王とされています。姿は「龍やへび」の姿で現れます。そのため背景の曲がりくねった松は蛇松と書かれています。そこに龍王社が祀られ、その前で、子踊りや芸司を中心に大勢の踊り手達が踊っています。注意して欲しいのは、その周りを警固の棒持ち達が結界を作って、その外側に多くの人達が取り囲んでいる様子が描かれていることです。基本的には、この隊形や人数を今も受け継いでいます。
1934年)大干魃に付之を写す


Q7 尾﨑清甫が記録を残したのはどうしてか
 
1934年 大干魃付写之 尾﨑清甫
    1934(昭和9)年に綾子踊りが踊られた経緯

彼の文書の一節には次のように記されています。

 「明治以来、世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、綾子踊りを踊ることにも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは今、記録に残しておかないと忘れ去られてしまう危機感があったことがうかがえます。

Q8 1934年に、すでに危機感を持っていたのはどうして?
近代化が進んで昭和になると着物から洋服に着るものが替わりました。同じように迷信的なモノは顧みられなくなり、合理的な見方をする人達が田舎でも増えます。人の心も変わっていったのです。そうすると雨乞いして雨が降ると思う人もだんだん少なくなります。佐文でも旱魃がやってきても、みんながまとまっておどることはできなくなります。このままでは、綾子踊りが消えてしまうと云う危機感があったようです。
綾子踊行列略式(村踊り)

Q 9 尾﨑清甫が記録を残そうとおもったのは?
1934(昭和9)年と、その五年後の1939年の大旱魃の時には、知事が各町村に伝わる雨乞い行事を行うように通達しています。これに従って、佐文村でも新しく団扇や花笠などが整えられ、綾子踊りが踊られます。その結果、雨が降ったようです。その成就祝いとして、村民一同で綾子踊りが踊られます。この時の感動が尾﨑清甫に、記録を残させる原動力になったのではないかと私は思っています。彼は記録を残す理由として、次のような点を記しています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
     綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

病魔に冒される中で、危機感を持って記録を残そうとした尾﨑清甫の願いが伝わってきます。

以上のようなやりとりを想定していたのですが、取材当日は支離滅裂になってしまいました。それをプロデューサーがどうまとめてくれるのか不安と期待で見守っています。放送は6月中の土日に流されるようです。
追伸
中讃ケーブルの歴史番組「歴史のみ方」で綾子踊りを紹介しました。6月中の日曜日に放送されてています。以下のYouTubeからも御覧になれます。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。https://youtu.be/2jnnJV3pfE0

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佐文綾子踊 小踊りの花笠
昨年11月末にまんのう町のある小学校で綾子踊りのお話しする機会がありました。小学校4年生の郷土学習で、綾子踊りがどのように取り上げられているかを報告しておきたいと思います。
 教室に入っておどろいたのは、後ろの棚に並べられた花笠です。

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教室の花笠
子ども達は花笠を自分たちで造って持っているのです。この制作のために、時間も確保しています。ちなみに、このキットはまんのう町教育委員会が作成して、各小学校に配布しているようです。

P1260582 先生
ぼくの「マイ・花笠」

こんな「しかけ」を考えてくれている教育委員会の人達に感謝です。綾子踊りについて町内の人達に、どんな風に伝えて行くかを考える時に、こんな取組は本当にありがたいと思います。

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子ども達が自分が作った花笠を大切にしていることが分かります。
これを自分の手で作ったら子ども達の「興味関心」は、ぐーんと高まるはずです。今回、教室を訪ねて知ったことのもうひとつが4年生の「社会科の郷土学習読本」に、大きく綾子踊りが取り上げられていることです。
 
郷土学習 わたしたちの香川県

綾子踊りの部分を少し見ておきましょう。
綾子踊りとは、どんなおどりか調べよう。
綾子踊 郷土学習読本1

調べたことが、教室の背面掲示板に次のように掲示されています。

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教室の背面掲示板
綾子踊りは、どのようにはじまったのだろう?
綾子踊 郷土学習読本3

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私が思っていた以上に、詳しく深く書かれています。これまでに「花笠作り」の含めて、綾子踊りのことを学習してきているようです。

今日のテーマ 綾子踊りがどうして変わらずに残ったのか考えよう。

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4年生の教室
「綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?」という発問に生徒達が考えます。

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綾子踊 郷土学習読本5

先生が生徒の意見を引き出して板書していきます。
綾子踊板書2

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アクティブラーニングで生徒同士が情報交換
ここで私の登場です。ここでは尾﨑清甫が残した文書に何が書かれているのかを中心に話しました。詳しくは以前にお話ししましたので、ここでは省略します。

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    尾﨑清甫が残した「雨乞踊請書類」の花笠寸法帳
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫

私の話を、先生は次のように板書にまとめられました。

綾子踊板書3

そして読本には、佐文綾子踊保存会の取組みが次のように書かれています。
綾子踊 郷土学習読本6

綾子踊 郷土学習読本8

小学校の授業に招いていただいて、綾子踊りの保存と継承に向けて、周囲の人達からの支援を改めて感じる機会となりました。長い目で見ると、こうしたとりくみを経て「佐文の綾子踊」から「まんのう町の綾子踊」へと成長していけるののかなとも思えてきました。感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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「綾子踊りがどうして変わらずに残ったのか考えよう。」全体板書
参考文献
香川大学教育学部社会科教育研究会 「香川県小学校社会科郷土学習読本 わたしたちの香川県



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オリンピック青少年センター
明治神宮に隣接するオリンピックセンターからバスで移動してきたのは
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日本青年館
全国民俗芸能大会にお呼ばれしてやってきました。この大会には、第40回大会にも参加しています。今回が第70回と云うことなので、約30年ぶりの参加になります。前回には、小学生の小踊りで参加していた子ども達が、いまは保存会の中心として担っていく存在になっています。

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午前中の10:30からリハーサルなので、9時に楽屋入りして着付けや化粧を開始します。

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日本青年館の楽屋での着付け
今年は4回目のお呼ばれ公演なので、着付けなどの準備もなれてきて、スムーズに進みます。


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後部客席からの入場
今回も入庭(いりは:入場)は、客席側からです。リハーサルなのでお客さんは入っていません。
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露払いを先頭に、ステージを一周して後方に一列に並びます。全国民俗芸能大会1
佐文綾子踊由来口上(保存会長)
この大会では、公演だけでなく「記録に残す」ということも目的のひとつになっているようです。そのため保存会長の口上などもリハーサルでは省略なしで、全部読み上げられました。できるだけ本番に近い形で、記録にのこしておきたいそうです。

綾子踊り由来昭和14年版
       雨乞踊由来(尾﨑清甫書:昭和14年版)
これを全部読み上げると、6分少々かかるので、短縮バージョンで対応することになりました。次は、棒と薙刀が踊る場所を演舞で確保します。そして、問答がはじまります。これも修験者たちの流儀を受け継いでいることは以前にお話ししました。民俗芸能を媒介した修験者や聖の存在が垣間見えます。

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棒と薙刀の問答
棒薙刀問答 尾﨑清甫まとめ版
棒薙刀問答(尾﨑清甫筆:昭和14年)
 いよいよ踊りのはじまりです。

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芸司(げいじ)の次の口上とともに踊りが始まります。
薙刀問答4 芸司口上1
芸司口上(尾﨑清甫筆:昭和14年)

普段は小踊りの子ども達は6人なのですが、直前にインフルエンザ感染などで、3人で踊ることになりました。

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「善女龍王」などの幟も2本、総勢34名でいつもの半分程度の編成になっています。
民俗芸能大会2
芸司の周囲に左から太鼓・鉦(僧服)・拍子(大団扇)・一番右が姫姿の大踊りが配されます。

民俗芸能大会4
芸司の左側

民俗芸能大会5
下手で待機する薙刀・露払い・幟持ち・法螺貝吹


民俗芸能大会6

本番の時間は50分です。最後に本番に向けての入場・立ち位置の確認が行われました。

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花笠を脱いで、最後の踊りの確認

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地唄の音量調整も行われます。
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余裕の笑顔です。準備完了

控室に帰って弁当を食べていると、記録のための係員がやってきて、用具や楽器を見せて下さいとのこと。廊下の床に団扇などを並べて寸法をはかり、イラストに書き上げていきます。

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団扇の寸法をはかり、イラストを仕上げていく記録員
研究者に聞くと、写真よりもイラストの方が特徴がよく掴めるそうで、図版に残しておくのも大切な作業のようです。

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質問を受ける太鼓
一方で、太鼓や笛・地唄などは、いろいろな質問を受けていました。
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質問を受ける笛
昼食後13:00開演。そのトップが佐文綾子踊りでした。残念ながら本番の写真は撮れていません。50分の公演後に、別室で文化庁や青年館などから表彰を受けました。

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いただいたペナントや感謝状
ペナントには第70回とあります。

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帰ってきて前回の平成2年にいただいたものを見てみると「第40回」とあります。佐文綾子踊りが、踊り継がれていることを実感できる記念品でもあります。30年間の間に、継承関わった人たちに感謝しながら青年館を後にしました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

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尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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  県ミュージアムの学芸員の方をお誘いして、綾子踊史料の残されている尾﨑家を訪問しました。

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尾﨑清甫(傳次)の残した文書類
尾﨑家には尾﨑清甫(傳次)の残した文書が2つの箱に入れて保管されています。この内の「挿花伝書箱」については、華道家としての書類が残されていることは以前に紹介しました。今回は、右側の「雨乞踊諸書類」の方を見せてもらい、写真に収めさせていただきました。その報告になります。
 以前にもお話ししたように、丹波からやって来た廻国の僧侶が宮田の法然堂に住み着き、未生流という華道を教えるようになります。そこに通った高弟が、後に村長や県会議員を経て衆議院議員となる増田穣三です。彼は、これを如松流と称し、一派を興し家元となります。その後継者となったのが尾﨑清甫でした。

尾﨑清甫
尾﨑清甫(傳次)と妻
清甫の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されていて、 明治24年12月、21歳での入門だったことが分かります。師匠の信頼を得て、清甫は精進を続け次のように成長して行きます。
大正9(19200)華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任
大正15年3月 師範免許(59歳)
昭和 6年7月 准目代(64歳)
昭和12年6月 会頭指南役免状を「家元如松斉秋峰」(穣三)から授与。(3代目就任?)
昭和14年 佐文大干魃 綾子踊文書のまとめ
昭和18年8月9日 没(73歳)
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  箱から書類を出します。毛筆で手書きされた文書が何冊か入っています。
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  書類を出して、箱をひっくり返して裏側を見ると、上のように書かれていました。
  尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊関係の史料

  何冊かの綴りがあります。これらの末尾に記された年紀から次のようなことが分かります。
A ⑩の白表紙がもっとも古くて、大正3年のものであること
B その後、①「棒・薙刀問答」・⑤綾子踊由来記・⑥第一図如位置心得・⑧・雨乞地唄・⑨雨乞踊地唄が書き足されていること
C 最終的に昭和14年に、それまでに書かれたものが③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられていること
D 同時に⑪「花笠寸法和」⑫「花笠寸法」が書き足されたこと
  今回は⑩の白表紙で、大正3年8月の一番古い年紀のある文書を見ていくことにします。
T3年文書の年紀
        綾子踊り文書(大正3年8月版)
最初に出てくるのは「 村雨乞位置ノ心得」です。

T3 村雨乞い
 「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
一、龍王宮を祭り、其の左右露払い、杖突き居て守護の任務なり。
二、棒、薙刀は龍王の正面の両側に置き、龍王宮並びに地歌の守護が任務なり。

T3
    「村雨乞位置ノ心得」(大正3年8月版)
三、地歌の位置、厳重に置く。
四、小踊六人、縦向かい合わせに置く。
五、芸司、その次に置く。
六、太鼓二人、芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人、太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
八、鼓二人、鉦の後に置く。
九、大踊六人、鼓の後に置く。
十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。

 この「村雨乞位置ノ心得」で、現在と大きく異なるのは「十、外(側)踊五十人、大踊の後に置く。」の記述です。  五人の誤りかと思いましたが、何度見ても五十人と記されています。また、現在の表記は「側踊(がわおどり)」ですが「外踊」とあります。これについては、雨乞成就の後に、自由に飛び込み参加できたためとされています。
「村雨乞位置ノ心得」に続いて「御郡雨乞位置ノ心得」と「御国雨乞位置ノ心得」が続きます。ここでは「御国雨乞位置ノ心得」だけを紹介しておきます。

T3 国雨乞い

T3 国雨乞2
御国雨乞位置ノ心得(大正3年版)
一 龍王宮を祀り、その両側で、露払い、杖突きは守護が任務。
二 棒、薙刀が、その正面に置いてある龍王宮、地歌の守護が任務。
三 地歌は、棒、薙刀の前に横一列に置く。
四、小踊三十六人は、縦四列、向かい合わせ  干鳥に置く。(村踊りは6人)
五、芸司は、その次に置く。
六、太鼓二人は芸司の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
七、鉦二人は太鼓の後におき、その両側に笛二人を置く。
八、太鼓二人は、鉦の後に置く。
九、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十、鉦二人は大鼓の後に置き、その両側に笛二人を置く。
十一、鼓二人は、鉦の後に置く。
十二、太鼓二人は鼓の後に置き、その両側に拍子二人を置く。
十三、鉦は太鼓の後に置き、その両側に笛二人を置き、その両側に大踊二人を置く。
十四、鼓二人は鉦の後に置き、その両側に大踊四人を置く。
十五、大踊三十六人は、鼓の後に置く。
十六、側踊は、大踊の後に置く。

同じ事が書かれていると思っていると、「四 小踊三十六人」とでてきます。その他の構成員も大幅に増やされています。これは「村 → 郡 → 国」に準じて、隊編成を大きくなっていたことを示そうとしているようです。これを図示したものが、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には添えられています。それを見ておきましょう。

綾子踊り 国踊り配置図
    昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置
これをすべて合わせると二百人を越える大部隊となります。これは、佐文だけで編成できるものではなく「非現実的」で「夢物語的」な記述です。また、綾子踊りが佐文以外で踊られたことも、「郡・国」の編成で踊られたことも記録にもありません。どうして、こんな記述を入れたのでしょうか。これは綾子踊りが踊られるようになる以前に、佐文が参加していた「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の隊編成をそのまま借用したために、こんな記述が書かれたと私は考えています。
綾子踊り 国踊り配置図下部
昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」の御国雨乞位置

同時に尾﨑清甫は、「滝宮念仏踊 那珂郡南(七箇村)組」の編成などについて、正確な史料や情報はなく、伝聞だけしか持っていなかったことがうかがえます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3
佐文誌(昭和54年)の御国雨乞位置
「一 龍王宮を祭り・・」とありますが、この踊りが行われた場所は、現在の賀茂神社ではなかったようです。
大正3年版にはなかった踊隊形図が、昭和14年版の③「雨乞踊悉皆写」には、添えられています。この絵図からは、綾子踊が「ゴリョウさん」で踊られていたことが分かります。「ゴリョウさん」は、かつての「三所神社」(現上の宮)のことで、御盥池から山道を小一時間登った尾根の窪みに祭られていて、山伏たちが拠点とした所です。そこに綾子踊りは奉納されていたとします。
 「三所神社」は、明治末の神社統合で山を下り、賀茂神社境内に移され、今は「上の宮」と呼ばれています。その際に、本殿・拝殿なども移築されたと伝えられます。とすると当時は、祠的なものではなくある程度の規模を持った建物があったことになります。しかし、この絵図には、建物らしきものは何も描かれていません。絵図には、「蛇松」という枝振りの変わった松だけが描かれいます。その下で、綾子踊りが奉納されています。

綾子踊り 国踊り配置図上部

 また注意しておきたいのは、「位置心得」の記述順が、次のように変化しています。
A 大正3年の「位置心得」では「村 → 郡 → 国」
B 昭和14年の「位置心得」では「国 → 郡 → 村」
先に見たとおり、大正3年頃から書き付けられた地唄・由来・口上・立ち位置などの部品が、昭和14年に③「雨乞踊悉皆写」としてまとめられています。注意したいのは、その経過の中で、推敲の形跡が見られ、表現や記述順などに異同が各所にあることです。また、新たに付け加えられた絵図などもあります。
 綾子踊の文書については、もともと「原本」があって、それを尾﨑清甫が書写したもの、その後に原本は焼失したとされています。しかし、残された文書の時代的変遷を見ると、表現が変化し、付け足される形で分量が増えていきます。つまり、原本を書き写したものではないことがうかがえます。幕末の「西讃府誌」に書かれていた綾子踊の記事を核にして、尾﨑清甫によって「創作」された部分が数多くあることがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊りの里 佐文誌 176P

まんのう町佐文に伝わる如松流華道

増田穣三法然堂碑文.J2PG
園田翁顕彰碑(西光寺)
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
尾﨑清甫2
尾﨑清甫(傳次)
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」

と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。

増田穣三法然堂碑文
三好霊順の名前が発起人のなかにある
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
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 尾﨑清甫も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。

尾﨑清甫華道免許状

 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、清甫が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。

尾﨑清甫 華道作品

 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。

 尾﨑清甫はその後も精進を続け、大正9(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
さらに大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。
増田穣三・尾﨑清甫

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

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