どうして綾子踊は、国指定になり、ユネスコ登録されたのか。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
西讃府誌と尾﨑清甫文書
西讃府誌は幕末に丸亀藩が編集したもので、各村の庄屋たちに命じて地誌的な情報をレポートとして提出させたものを藩が編纂したのものです。つまり、当時の佐文村の庄屋のレポートにもとづいて書かれています。その中に綾子踊りのことが次のように取り上げられています。これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
「雨乞踊緒書」というのは、佐文の尾﨑清甫の残した文書です。
尾﨑清甫とその文書箱の裏書き
尾﨑清甫は、代議士でもあった増田穣から未生流家元の座を譲られた華道家でもありました。未生流・尾﨑清甫の荘厳
今から110年前の大正3(1914)年の大旱魃が起こり、途絶えていた綾子踊が踊られます。それを機に、尾﨑清甫は記録を残しはじめ、昭和14年(1939)に集大成しています。尾﨑清甫文書
その中に、踊りの隊形がどのように記されているのかを見ておきましょう。以下が現在のフォーメーションです。①女装した6人の小踊り(小学校下級年)②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。③その後に太鼓と榊持(拍子)④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
綾子踊 小踊りと芸司
ここで押さえておきたいのは、綾子踊りの隊形は円形ではないことです。2つのBOXからなることです。讃岐で踊られる「風流小唄系雨乞い踊」は、先祖供養のための盆踊りが雨乞用に「借用」されたものなので、円形隊形が普通であることは以前にお話ししました。そのため綾子踊りの隊形は「ハイブリッド」だと評する研究者もいます。近世後半になって新たに作り出された可能性があります。尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
尾﨑清甫の綾子踊隊形図
これが西山(にしやま)の山頂直下にあった「りょうもさん(旧三所神社)」に奉納されていたという隊形図です。読み取れることを列挙しておきます①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
綾子踊の入庭 棒と薙刀の問答
今回は、綾子踊の隊形についてお話ししました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。関連記事