瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:屋島寺縁起

前回までは、古代の山林寺院として中寺廃寺(まんのう町)を見てきました。讃岐には、もうひとつ古代の山林寺院跡が発掘されています。それが屋島寺の前身とされる千間堂跡です。今回は、この千間堂跡を見ていくことにします。

屋島寺 北嶺地図
屋島北嶺にある千間堂跡

屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
 先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)
其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
  意訳変換しておくと
 屋島寺の開基は鑑真和上である。①鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)
その後、②退転していたのを弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。
ここに書かれていることを要約しておくと
①屋島寺の開基は鑑眞で、日本で最初の律宗寺院を屋島北嶺に建立した
②退転して屋島寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を本尊として安置した
ここには、屋島寺は勧進和尚が屋島北嶺に建立した寺院で、それを空海が南嶺に移したと記されています。つまり、屋島寺のスタートは北嶺にあったというのです。そして、北嶺には「千間堂」という地名が残り、ここに本堂が建立されたとされてきました。しかし、千間堂についての詳しいことはよく分かっていませんでした。近年になって、千間堂跡が発掘されて調査報告書が出されています。発掘から分かったこと、新たに生まれた謎について見ていくことにします。

千間堂周辺の発掘調査からは、次のような土壇をもつ礎石建物跡が出てきました。

屋島寺千間堂跡1
屋島北嶺 千間堂跡
①2間×3間の南面する東西建物で土壇を持つ
②周辺部には目立った遺構がないこと
③土壇中からは多口瓶が3点出土したこと
北嶺から出てきた建物が2間×3間の規模でした。この規模は、古代の大寺院では鐘楼や経蔵規模の建物か付属雑舎程度です。しかし、周辺調査からは、これ以上の規模の建物跡はでてきませんでした。この規模のものが、本当に本堂だったのかという疑問が湧いてきます。その際に参考になるのが前回お話しした山林寺院・中寺廃寺(まんのう町)の仏堂跡です。
まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔(復元想像図)

中寺廃寺 A遺構仏塔2

中寺廃寺の仏堂跡と塔跡(仏堂は三間×二間 塔は三間×三間)
中寺の仏堂跡も本尊を安置すれば、空間がなくなる「お堂」的な存在でした。また下図のように、この規模の建物を本堂とする山林寺院は、他にもあります。
中寺廃寺と同じ規模の金堂

初期の山林寺院の仏堂としては、この規模のものが普通だったようです。この建物が千間堂の仏堂と研究者は考えています。寺伝をそのまま信用するならば、ここに普賢菩薩が安置されていたことになります。
 調査前には、金堂や僧房・塔などの大規模な伽藍跡が出てくるのではないかという期待もあったようです。しかし、それは期待外れに終わって、出てきたのは建物遺構は2棟だけでした。ここからは、北嶺千間堂の伽藍配置は、土壇をもつ礎石建物跡(千間堂)を中心に、小規模な掘立柱の建物遺構が点在する伽藍配置だったと研究者は判断します。それが当時の地方の山林寺院の姿であったとしておきます。

 千間堂跡の土壇からは、須恵器多口瓶が3点出土しています。

屋島寺千間堂跡 多口瓶2
屋島寺千間堂跡出土の多口瓶

 多口瓶は仏具とされるので、この建物が寺跡であることが裏付けられます。全体像が復元できたのは3点です。径の大きさからすると、綾歌郡飯山町法勲寺から出てきた多口瓶の大きさと似ていると研究者は指摘します。屋島寺の周辺から出てきた多口瓶は次の通りです。ちなみに、中寺廃寺では西播磨産の多口瓶が出てきていることは以前にお話ししました。

屋島寺千間堂跡 多口瓶

屋島寺周辺の多口瓶
この中で法勲寺(香川県綾歌郡飯山町)のものと共有点が多いと研究者は次のように指摘します。その特徴をまとめておくと
① 古代豪族綾氏の氏寺:法勲寺跡の大窪谷川の南側護岸から出土
② 白鳳期~室町時代の瓦に混じって出土したもので、注口部から胴部上半の破片。
③ 胎土に砂粒を多く含み、内面には接合痕があること
④ 突帯の接合方法も上部は撫でられているが、下部は接合痕が認められること
⑤ 以上から、千間堂のものと同じ工人・窯跡産のものである可能性が極めて高い。
それでは、千間堂跡と法勲寺跡から出土した多口瓶は、どこで作られたのでしょうか

以前にお話したように、十瓶山窯跡群は綾氏によって作られた最新鋭の窯業地帯で、そこには国衙が管理する官営工場もありました。研究者は、陶の官営工場でこの多口瓶は焼成されたと推察します。しかし、十瓶山窯跡群からは、多口瓶は出てきていません。特殊な器種であることから生産数が限られ、窯場に残らなかったとしておきます。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺の多口瓶出土状況
多口瓶は何のために、どのような役割のために用いられたのでしょうか?
それを知る手がかりを見ていくことにします。
①倉吉市大御堂廃寺では講堂基壇から多口瓶が出土していますが、ひとつの多口瓶の破片が周辺に広がっていたこと
②姫路市播磨国分寺から出土した多口瓶も金堂の再堆積土から破片で出土していること。
以上から基壇を造る際に、地鎮として仏具である多口瓶を破砕し、基壇造成土に埋め込んだことが推測できます。
③明日香村の川原寺の塔の場合は、無文銀銭と金銅円板が版築土中から発見されていること。
④西大寺東塔では、基壇完成までに銭播地鎮が少なくとも三回にわたって行われたこと
以上からは、作壇の際には、仏具である多口瓶を破砕し、土壇に破片を埋納する地鎮を行いながら、作壇作業が行われたことがうかがえます。

屋島寺縁起には、鑑真が日本にやってきた754年前後に北嶺千間堂は創建されたとされていました。しかし、8世紀にまで遡れる遺物は、千間堂跡からは出てきませんでした。北嶺で遺物が出てくるのは9世紀になってからです。そして出土量は10~ 11世紀にかけて多くなります。この時期は、中寺廃寺と比べると、開始は少し遅れますが、ほぼ活動時期が重なることを押さえておきます。

 多口瓶や本尊について研究者が注目するのは次の点です。
①平底をもつ多口瓶の製作年代は10世紀前半
②他の2つは、寺に伝世していたものを10世紀の前半に土壇をもつ礎石建物を構築するために破砕したもの
③北嶺に「本堂(千間堂)」が建てられた時期に先行して本尊の千手観音坐像が制作
④寺の記録には空海自らが彫り千光院に安置したとあるが、空海時代のものではない。
⑤屋島寺は鑑真が北嶺に開基した時の本尊は普賢菩薩だった。
⑥それは1391年(明徳21年)の西大寺末寺帳に「屋島普賢寺」という寺名が見え、寺名は普賢菩薩に由来するとある。
北嶺で出土する遺物が11世紀代を境に減少します。一方、南嶺ではこの時期から遺物が増加します。ここからは、11世紀末から12世紀初頭には寺が南嶺に移ったと研究者は判断します。この移動の大きな原因を報告書は次のように記します。

この頃から四国霊場八十八箇所巡りが始まったことにより、参拝に不便な北嶺(修験の場)から、平野に近い南嶺(世俗化)に移した結果である。

これには次のような異議が出されます。プロの修験者による辺路修行からアマチュア信者による四国遍路へと、姿を変えるのは近世になってからです。変遷理由を四国霊場の成立に求めるには無理があるように私には思えます。
どちらにしても南嶺に移って以後、寺域は急速に拡張されていきます。それは次のような史料で裏付けられます。
①梵鐘に記載された銘文から1223年((貞応二年)讃岐国住人蓮阿弥陀仏の勧進によって梵鐘鋳造
②血の池とは一連の池であったと想定される貯水池推定地の調査で、堆積土の中から炭・焼土とともに多くの瓦が出土
③第6層からは焼土・炭や火を受けた木材などが多く出土する
④ここからは、この時期(13世紀の中頃)に、寺の一部が焼失し、その廃品・廃材を血の池の南に投棄した
⑤その後、本堂は鎌倉時代末頃に再建された。

また寺名については、次のような変化が見られます。
A 明徳21年 (1391年)の西大寺末寺帳には「屋島普賢寺
B 永享 8年 (1436年)の 「西大寺坊坊寄宿諸末寺帳」には「讃岐國屋嶋寺
この末寺帳の記述からは、次のような事が分かります。
①屋島寺が、14世紀末には西大寺真言律宗の寺になっていたこと
②Aでは寺名が本尊に由来する普賢寺 それまでの本尊は普賢菩薩
③Aから50年ののBでは、屋嶋寺に変化
かつては、屋島寺は奈良西大寺の律宗集団の影響下に置かれていたことが裏付けられます。それが屋島寺縁起の中に「鑑眞が、日本で最初の律宗寺院を屋島北嶺に建立」と記される背景のようです。

P1120107 屋島寺 千手観音
屋島寺本尊の十一面観音

 ここで西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立や再興が進められます。このような中で西大寺律宗の叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷から諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道の浄土寺を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19ケ寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで押さえておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、屋島寺普賢寺から屋島寺への寺名変更や、普賢菩薩から千手観音への本尊変更もこの時期と重なります。つまり、寺名や本尊変更には、末寺化した西大寺の布教方針があったと私は考えています。

 これとリンクするのが以前にお話した「髙松七観音ルート」の形成です。
髙松七観音の形成と熊野行者

高松周辺の次の四国霊場の七ヶ寺は観音様を本尊としています。
国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺
髙松七観音の観音たち
千手観音や十一面観音を本尊とする髙松周辺の四国霊場

この「髙松七観音巡礼」を進めた宗教勢力があったはずです。

熊野行者による観音信仰の広がり

それが熊野行者たちの活動です。例えば那智の補陀洛山寺の本尊は十三面千手観音です。熊野行者の活動拠点として新たに拓かれるのが、東讃の水主神社や吉備児島の新熊野(五流修験)とされます。そして、水主神社の別当寺でもあった与田寺を拠点に活動するのが増吽です。彼は備讃瀬戸の讃岐・吉備の両方に大きな痕跡を残していて、ひとつの教団のリーダーの様相を見せていることは以前にお話ししました。そのような中で、髙松平野周辺の熊野信仰の広がりと、熊野神社の勧進が行われるようになると私は考えています。
 もうひとつ見逃せないのが、西大寺律宗の讃岐国分寺を拠点とする活動です。
 屋島寺が西大寺律宗の末寺となった15世紀初めには、土塀を北側につくり寺域を拡張していることが調査で分かっています。寺勢の拡張が見られます。しかし、その後のことよく分かりませんが、永世の錯乱後に讃岐が他国に先駆けて戦国時代に突入した大永4年(1524年)に屋島寺の梵鐘が金倉寺に一時的に移されています。この頃には屋島寺が退転して力を失っていたことが推測できます。

 江戸時代になると龍厳の勧進に始まり、歴代の藩主の加護を受け、屋島寺は急速に復興します。
屋島寺の末寺は、四天門前にあった南泉寺の他、一乗坊・善賢院・宝積坊・霊厳坊・比之坊・元久坊・東景坊・長崎坊の八坊が山上や近くにあったようです。ここからは、屋島寺が弥谷寺や白峰寺と同じく、廻国の修験者や聖たちの共同運営に拠っていたことがうかがえます。しかし、これらも江戸時代の中期までに退転します。
 これを中寺廃寺と比較すると、中寺廃寺は古代から中世への移行期に退転し、姿を消して行きました。それに対して屋島寺は、西大寺律宗の西国への強勢拡大の拠点として、南嶺に復興され存続する道が開けたということにしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
屋島北嶺 千間堂跡発掘調査報告書
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前回は「高松七観音巡礼」をしながら次のような事を見てきました。
①近世初頭の高松周辺には、国分寺・白峰寺・根来寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺が観音信仰の拠点となり、人々が「高松七観音巡礼」を行っていたこと。
②これらの寺院が、後の四国霊場札所と重なること
③ここからは中世の山林修行者や念仏たちが行っていた中辺路修行ルートが、近世に四国遍路道になっていったことがうかがえること。
④高松西部の五色台周辺の国分寺・白峰寺・根来寺については、本尊が同じ巨木から作られた千手観音という伝えがのこり、山林修行者の拠点として相互に結ばれていたこと。
今回は、高松七観音巡りの後半部の寺院をめぐっていくことにします。
  まずは、屋島寺の千手観音です。
千手観音が、中世に普及するのは補陀落渡海信仰の影響があるとされています。その背景には、那智の補陀落渡海山寺の千手観音が、熊野行者達によって補陀落信仰と共に勧進されたことにあると研究者は考えているようです。
それでは屋島寺の観音さまを研究者は、どんな風に見ているのでしょうか?

屋島寺千手観音
 屋島寺 十一面千手観世音菩薩
仏教において、衆生を救うため、観世音菩薩はあらゆる姿に変化します。十一面千手観世音菩薩もそのひとつで、頭上には表情を変化させた11の顔、11面をおき、42本の手で千本の手を表現しています。本像は、頭と身体の主要な部分をひとかたまりのカヤ材から彫刻し、像の内部は刳(く)り抜いていません。

屋島寺千手観音3

太い首にハリのある胸、バランス良く構成された脇手、安定感のある脚部と、その造形は見応えがあります。顔立ちは、ふくよかな頬と鼻、厚い唇などが特徴的で、個性的な造形は讃岐における造仏を思わせます。着衣のうち、膝下の部分などには、大小の波を交互にくりかえすようなひだ(翻波式衣文:ほんぱしきえもん)があらわされています。

P1120107 屋島寺 千手観音
       屋島寺 十一面千手観世音菩薩

制作時期は平安時代前期の10世紀の初め頃とみられ、香川県内でもとくに優れた平安彫刻といえます。頭上面およびすべての手は制作当初のものであり、さらに観音像の光を表現した光背がともにのこされていることも大変めずらしく貴重です。屋島寺の本尊として本堂に安置されていましたが、現在は同寺宝物館で公開されています。
 この千手観音の造作時期が平安時代前期で、「県内屈指の古像」とされていることを押さえておきます。

屋島寺縁起絵
屋島寺縁起の屋島寺
屋島寺の縁起について、『四国辺路日記』は次のように記します。
 先ツ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在トテ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。(中略)
其後、大師(弘法大師)当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。
  意訳変換しておくと
 屋島寺の開基は鑑真和上である。鑑眞が唐からやって来たときに、屋島沖を通過した。その際に、南に異常な気配を察して、屋島に船を着けて見てみると、寺院建立に最適の霊地だったので、屋島北峯に寺を立て、南面山と号した。つまり、屋島寺は、日本における最初の律宗寺院である。(中略)
その後退転していたのを、弘法大師が再興する際に、北峯は人里遠く布教には適していないとして、南峯に移した。そして、嵯峨天皇の勅願寺とし、南面山屋島尾千光院と号した。千手観音を造り、本堂に安置した。大門の額には、「遍照金剛三密行所当都率天内院管門」と書いた。

ここに書かれていることを要約しておくと
①開基は鑑眞で、屋島北峯に建立した寺は、日本で最初の律宗寺院であること
②退転して寺を弘法大師が復興し、南嶺に移し、自作の千手観音を安置したこと
③大門の額には、遍照金剛三密行所当都率天内院管門と書いた
①からは、屋島寺の歴史の中で、奈良西大寺の律宗集団が何らかの貢献をしていたことがうかがえます。②からは、その上に弘法大師伝説が接木されます。空海は門の額に、「遍照金剛は三密を行ずるところに当たり、しかも都率天(とそつてん)の内院の入口である」と記したとあります。遍照金剛は大日如来の別名です。大日如来の浄土は都率天よりもはるかに格の高いところです。当時の屋島寺には弥勒菩薩信仰もあったようで、都卒天の内院に入る関門だと書いています。ちなみに縁起で空海作とされる千手観音の造立は、空海入定後の数十年後のものになります。空海作とはできません。

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信貴山絵巻の飛鉢
  縁起には、屋島の飛鉢伝説が次のように記されています。

  其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。

意訳変換しておくと
  鑑真は、(瀬戸内海を航行し)奈良に入る時に、屋島寺を建立し、鑑真和尚の衣や鉄鉢を残した。この鉢は空を飛んで、沖ゆく船に下りたって、斎料(海関料・寄進)を集めた。

鉢が空を飛ぶことを飛鉢といって、その伝承がいろいろなお寺に残っています。例えば、越後には米山の沖を通る船に米を請うて、船頭が断わると鉄鉢が船のお米が全部山に運んできた。それで米山という地名になったという話があります。また修験者が修行をしていたときに、鉄鉢を飛ばして船から米を全部奪ってしまった話も伝えられています。沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは、以前に庄内半島の三崎神社で話ししました。納めなければ災いが襲うのです。屋島寺も沖ゆく船から多く奉納品を受けていたことがうかがえます。
 鉢を飛ばして奉納品を集めるというのは神仙術です。
山岳宗教は、もとをただせば仙人(道教)の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。それが「原始修験道」です。役行者以前は、そういうことができるのが修験者の理想だったことを押さえておきます。
 以上から屋島寺には「山林修行者 + 弘法大師伝説 + 西大寺律宗(鑑眞)」などの痕跡があることを押さえておきます。

屋島寺
屋島寺
屋島寺の地理環境を見ておきましょう。
①屋島山上に位置し、西には大きく広がる瀬戸内海があり、沖ゆく船の監視などにも最適
②海に突き出した地形で、補堕落渡海の行場としても適している
③周囲には多くの岩場があり、山岳修行の場として修験者が好みそうな要素あり。
  屋島が戦略的な要衝で、地形的にも山岳信仰の濃厚な寺であったことが分かります。そこに開かれた寺院の本尊が、平安時代前期(9世紀末期~)の「県内屈指の古像」である千手観音なのです。そういえば前回見た高松七観音の国分寺・白峰寺・根来寺もみな千手観音でした。
屋島寺に残る熊野権現の痕跡を挙げておきます。 

屋島寺に残る熊野信仰痕跡

A 屋島寺は熊野神社を鎮守社としていること。
B 寛文十年頃に高松藩が作成したとされる『御領分中寺々由来』の屋島寺の項には、次のように記されています。

当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法大師之勧進之也

ここには熊野権現を弘法大師が勧進したと書かれています。ここにも「熊野信仰 + 弘法大師信仰」の合体が見られます。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりませんが、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあると研究者は考えています。
C 応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。これは大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時期と重なります。
D さらに屋島寺は近世初期の「熊野本地絵巻」を所蔵しています。この種の絵巻は、熊野比丘尼が絵解きした時に使用されたといわれます。ここからは、屋島寺にも熊野比丘尼がいたことがうかがえます。
E 境内に残る「血の池」は、熊野比丘尼が屋島寺にいたことを裏付けます。

五剣山と壇ノ浦
五剣山と壇ノ浦の塩田
  屋島から東を望むと見えるのが五剣山です。ここには八栗寺があります。
天を指すような岩稜は海から見ても目立つ山です。次に五剣山山中の八栗寺を巡っていきます。五剣山はその姿から備讃瀬戸を行く海人たちの目印となったことでしょう。そこへ熊野水軍とともに熊野行者がやってきます。彼らがまず探したのは、行場です。行場として五剣山は最適の条件を備えています。彼らが五剣山の行場を見逃すはずはありません。しかし、五剣山には屋島のように古い記録や仏像は残っていません。
 もともと八栗寺は、六万寺の奥院だったようです。
六万寺は源平合戦以前には、屋島を水軍拠点とした平家の保護を受けて、大いに栄えていたようです。その行場が五剣山で、そこに建立された奥の院が八栗寺という関係になります。中世には両寺は深い関係にありました。平家というパトロンを失った六万寺は衰退しますが、修験者や山林修行者の行場としての八栗寺は、その後も生き残っていきます。
 五剣山と八栗寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
 空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。21日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
 この地も空海が虚空蔵聞持法を修した聖地として、伝わっていたようです。そして空海は千手観音を残したとされています。空海修行の地とされた五剣山には多くの行者達がやってきて、行をおこなったようです。そこに現れたのが八栗寺ということになるようです。八栗寺は蔵王権現を祀り、山岳修行の行場に建立された山伏寺です。

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五剣山と壇ノ浦(讃岐国名勝図会)
中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。

五剣山2
八栗寺と五剣山(四国遍礼霊場記)
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や五智如来が安置されていたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系密教修験者の影響下の行場だったようです。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。いまでも五剣山は、修行の山として機能している霊地です。

八栗五剣山
デフォルメされた五剣山

 澄禅の『四国遍路日記』に、八栗寺の住職から聞いた話として、次のように記します。

昔、義経が阿波の国へ上陸して屋島を目ざす途中、2月18日牟礼高松に来て、八栗寺へ押しかけてきた。その時にこの寺では僧侶が集まって観音講をしていた。ときの声が聞えたので、観音講に集っていた者はみんな後の山へ逃げたが、源氏の雑兵たちは寺へおし入って、観音講のためにつくっておいた釜二つに入っていた飯をよい兵糧があるといって配分して食べてしまった。そうして弁慶は鎧を着たままたわむれにお経を上げたので、皆の者がお互いに笑いあった

この話は、八栗寺独自のものでなく阿波の国の3番金泉寺や大山寺の話のコピー版です。もともとは『平家物語』に出ているもので、説経師や聖たちの「説話運搬者」によって、八栗寺にもたらされたものでしょう。ここで私が注目したいのは「僧侶が集まって観音講」を開いていたという所です。中世には、八栗寺でも観音信仰が強く、観音講が組織されていたことがうかがえます。これらの講に集まる人々が、聖や山伏を先達として、高松周辺の七観音霊場を「ミニ巡礼」していた姿が想像できます。ここでは中世には、千手観音を信仰する観音講が開かれていたことを押さえておきます。

支度寺(しどじ) | 今を大事に! - 楽天ブログ
 志度寺の扁額「補陀落山」
志度寺の扁額には「補陀落山」と書かれています。
 さぬき市文化財保護協会発行「さぬき市の文化財」は、この寺の本尊十一面観音立像について、次のように記します。

  志度寺本尊の十一面観音立像は像高146cmで桧材の一木造りである。十一面観音は頭上に十一面の仏面をいただき、衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる。広大な功徳を形に表した尊像であり、
頭上の仏面の正面3面は慈悲の相、
左方3面は慎怒相(しんぬそう)、
右方3面は白牙上出(はくげじょうしゅつ)の相、
後方1面は大笑(だいしょう)の相で、
頭頂1面は阿弥陀仏面を表している。
今まで見てきた高松七観音の本尊は、すべて千手観音でしたが、志度寺は十一面観音です。
この本尊の由来について、「志度道場縁起文」7巻の1編目の『御衣本縁起』は、次のように記します。

 近江の国に白蓮華という非常に大きな木があった。雷が落ちて琵琶湖に流れ出したが、その木の行さきざきで災いが起こるので、瀬田から宇治に、宇治から大坂に、そして瀬戸内海にまで流された。着岸したところで疫病がはやる、また突き出されて次の浦に流れつく。とうとう志度の浦に流れ寄って、それで十一面観音を刻んだ。

 これはどこかで聞いたことがあると思ったら、「長谷寺縁起」のSTORYとおなじです。長谷寺で観音さまになったはずの木が、禍を引き起こすので流され、流され、讃岐の志度までやってきて流れ着いた話になっています。そういえば白峯寺縁起も、補陀落から流れ着いた巨木で、国分寺・白峰寺・根来寺の千手観音は作られたと書かれていました。文保二年(1218)という年号があるので、鎌倉時代末にはできあがっていことが分かります。今まで見てきた寺の観音さまに比べると、少し遅れて現れたことになります。薗の尼という比丘尼が発願し「一幅二図シテ」絵図化したのが「御衣木之縁起」になります。
志度寺縁起 御衣木縁起部分
「御衣木之縁起」(霊木が志度に流れ着いた部分)
  この話の下敷きは、長谷寺縁起です。それを「流用」「改変」したのも説経師や高野聖などの「説話運搬者」だったのでしょう。志度寺の7つの縁起からは、寄進・勧進を進めた下級の聖たちが垣間見えてきます。
 志度寺の縁起は、どんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えてます。囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促します。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善を果たせと説きます。作善とは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などでした。
高野聖は、志度寺をどのように運営・プロデユースしたのか?

中世の飢饉・疫病・戦争に、聖たちはどう対応したのか

 聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進のために知識(信仰集団)を組織することです。講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。唱導の第1歩は、次の通りです
①縁起や諸仏誓願や功徳を説き
②釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
③高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、信仰と作善の大切さを説きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 
 4343286-40志度寺
志度寺(讃岐国名勝図会)
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。こうして盆には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて15日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。

十一面観音 志度寺
志度寺 十一面観音図
これを演出・プロデュースしたのが高野聖です。彼らは先達と鳴ってなって富裕層を、高野山へと誘引する役割も果たしました。そして、志度寺の周りには、聖たちの坊や庵・子院が並ぶことになります。

高野聖が果たした役割

  最後に長尾寺を見ていくことにします。
  長尾寺は、もともとは志度寺の末寺だったと研究者は考えているようです。調査書に載せられている長尾寺の仏達を見ていくことにします。伽藍の建物の建立順番について調査報告書は、次のように推察しています。
A 観音堂(本堂)→ B 阿弥陀堂 →C 護摩堂 → D 大師堂
2 長尾寺 境内図寂然
長尾寺(四国遍礼霊場記)
それぞれの建物の成り立ちを考えると、次のようになります。
A「観音堂」(本堂)とその鎮守・天照大神(若宮)は、熊野行者が最初にもたらしたもの
B「阿弥陀堂」は、高野聖たちがもたらしたもの。
C「護摩堂」は、真言(改宗後は天台)密教の修験行者の拠点
D「大師堂」は四国巡礼の隆盛とともに大師信仰の広がりの中で建立。
 ここからは長尾寺を開いたのが熊野行者たちだったことがうかがえます。
長尾寺は江戸時代前半までは「観音寺」と呼ばれ、観音信仰の拠点センターでした。
残念ながら長尾寺の観音さまは、秘仏とされお目にかかることはできないようです。しかし、過去に調査されたことがあるようで、『文化財地区別総合調査報告 第1集 香川県教育委員会、1972年)には、次のように記されています。

右手を屈腎して胸前におき、左手も胸前で蓮華を持つ立像である。檜材寄木造、平安時代の作

  秘仏本尊の前立像として安置されているのがこの観音様です。

長尾寺 聖観音立像
長尾寺 本尊の前立仏の聖観音
一見すると顔立ちや雰囲気が鎌倉時代風の聖観音です。志度寺も聖観音でした。長尾寺は、志度寺の末寺からスタートしたとすると、それは当然のことかもしれません。
 この観音さまは、初代高松藩主・松平頼重が寄進したもので、台座裏に元禄6年(1693)正月の墨書銘があるので、17世紀後半の観音さまでです。しかし、本尊を模して作られた可能性はあります。

長尾寺 聖観音台座墨書
前立ちの聖観音台座の墨書 源英(松平頼重)の名が見える

以上、「高松七観音巡礼」をおこなってきました。その中で、千手観音が本尊として安置されている所が多かったようです。それはどうしてなのでしょうか? これを解く鍵は、熊野信仰との関わりです。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀洛山寺の三面千手観音

 補陀落信仰の中心となった熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)の本尊は、三面千手観音です。ここからは、熊野行者によって四国に補陀落信仰が持ち込まれ、その本尊として千手観音が作られたことがうかがえます。別の言葉で言い換えると、熊野信仰は観音信仰に姿を変えて受けいれられたとも云えます。
 熊野行者たちは承久の乱以後になると公家たちから武士へと、信者ターゲットを変化させざる得なくなります。それが軌道に乗ると髙松平野でも武士団による熊野権現(神社)の建立が始まります。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

熊野行者の中には、増吽のように「熊野信仰 + 観音信仰 + 弘法大師信仰」などのいくつもの信仰をもつ神仏混淆者でもありました。権現(神社)建立とともに本地仏を安置する寺院も建立・再興します。それらが、「高松七観音」に成長して行くことになります。ここでは、髙松七観音の開基に熊野行者が大きな役割を果たしたことを押さえておきます。
 そこに遅れてやって来るのが高野聖です。彼らは阿弥陀信仰と弘法大師信仰をもたらします。

高野聖が果たした役割

こうして、近世になると観音信仰から弘法大師信仰へと、信仰主体を交代させ四国霊場札所が姿を見せるようになるとしておきましょう。
 以上を整理しておきます。

熊野信仰の讃岐への浸透
①古墳時代以来、大和勢力の朝鮮との交易活動をになったのが紀伊勢力(後の紀伊水軍)であった。
②彼らは熊野信仰を持ち、熊野業者を航海の安全祈祷の祈祷師として乗船させて、瀬戸内海を行き来した。
③こうして熊野行者は熊野水軍の先達として、各地に拠点を構え、その地で行場を開くようになった。
④その代表例が、吉備の新熊野(五流修験)や、大三島神社の社僧集団であった。
⑤こうして、讃岐でも高松周辺の五色台や屋島・五剣山などには、早くから熊野行者が入り込み、行場を開き、そこに寺院を建立した。
⑥その際に本尊として安置したのが、熊野那智の補陀洛山寺(ふだらくせんじ)と同じ、千手観音であった。
つまり、高松七観音は熊野信仰で結ばれていたと私は考えています。そのため対岸の吉備の五流修験とも密接な関係があったように思います。
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 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。  改訂 2025/12/17
参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音  四国へんろの歴史15P」
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屋島寺の縁起では、鑑真和尚が開いたとことになっています。

世代のどこかに律憎がいたから、そういうことになったのでしょう。しかし、鑑真がこの寺の下の瀬戸内海を通って奈良に入っていったことは間違いありません。

『四国辺路日記』によりますと、
 先ツ当寺ノ開基鑑真相尚也。和尚来朝ノ時、此沖ヲ通り玉フカ、此南二異気在ト テ、 此嶋二船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ、当嶋ノ北ノ峯二寺ヲ立テ、則南面山ト号玉フ。是本朝律寺ノ最初也。

 律僧の場合は和尚を「ワジョウ」と読みます。したがって、鑑真和上と書いた文章がたくさんあります。沖を通ると屋島は南です。屋島寺の山号は南西山となっています。
 そして屋島の北嶺に寺を建てたとあります。この寺は北嶺に北面し、つまり海に向かっていたことがわかります。遍路の寺は海を向いているのが原則なので、北を向いているのはあたりまえです。
 まだ唐招提寺を造っていないときですから、戒律を学ぶ寺としては最初の寺だといっています。

この寺にも飛鉢の伝承が伝わっていたようです

其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。
 鑑真は南都奈良に入ります。しかし、鑑真和尚の衣や鉄鉢が残されていたようです。鉢が空に昇ることを飛鉢といって、飛鉢の伝承がほうぼうのお寺にあります。
越後には米山の沖を通る船に米を請うて、船頭に断わられると鉄鉢と一緒に船のお米が全部山に飛んできた、それで米山という地名になったという話があります。
 また修行をしていたときに、鉄鉢を飛ぱして船から米を全部奪ってしまったと伝えられています。沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことが分かります。納めなければ災いが襲うのです。後の村上水軍の論理と似ているところがあります。
 鉢を飛ばして奉納品を集めるという術も神仙術です。
山岳宗教は、もとをただせば仙人の行から始まったもので、仙人の修行をしていると、不老不死の術を得る、からだが軽くなって飛べると考えられていました。そのあたりの時代を「原始修験道」と呼ばれています。役行者以前は、そういうことが修験者の理想だったのです。

 弘法大師が再興し、北峯から現在地に移しました

其後、大師当山ヲ再興シ玉フ時、北ノ峯ハ余り人里遠シテ、還テ化益難成トテ、 南ノ峯二引玉テ、嵯峨ノ天皇ノ勅願寺トシ玉フ、 山号ハ如元南面山尾嶋寺千光院ト号、千手観音ヲ造、本堂二安置シ玉フ、大門ノ額ヲハ、遍照金昭三密行所当都率天内院管門ト書玉フ。

その後、この寺が衰えたのを弘法大師が再興したと書いています。
そのため真言の山になりす。屋島の先端では、人里が違くて人々を教化できないというので、南に来て山号は、元の如く南面山となりました。遍照金剛は大曰如来の別名です。

 弘法大師は中国で胎蔵界・金剛界の潅頂を受けて阿開架という密教の先生の資格を授かります。そのとき目隠しをして投げた花が二度とも大曰如来の像に落ちたそうです。「投華得仏(とうけとくぶつ)」といって、その人に縁のある仏の上に花が落ちると考えられていたので、潅頂の導師の恵果和尚が「遍照金剛と名乗れ。大曰如来という名前を名乗れ」といったと伝わります。

 弘法大師は門の額に、遍照金剛は三密を行ずるところに当たり、しかも都率天(とそつてん)の内院の入口であると書きました。大曰如来の浄土は都率天よりもはるかに格の高いところです。しかし、ここには弥勒菩薩の信仰があったとみえて、都卒天の内院に入る関門だと書いています。
然ニ此額ヲ毎夜、龍神上テ窺故ニ、此額ヲ掛置タラハ、
末代ニ寺ノ為ニ悪カルベシトテ、当山智ノ池ノ中島ニ埋セ玉フトナリ。 金来無退転、仏法相続シテ在。

しかし、この学が毎夜、龍神が窺うために、この額を掛けておくと、末代までこの寺のためにはならないと考え、池の中島に埋めさせた。それからは災いもなく仏法が続いた。と、額のないいきさつが書かれています。

 ここから遍路道を海へ下りていくと八栗との間に、壇ノ浦が広がります。ここには洲崎堂の跡があって、江戸時代までたいへん繁昌したようです。ここは辺路の修行場だと考えられます。東に行くと屏風を立てたような坂があって、その下に平家の城郭がありました。

平家の繁栄は、瀬戸内海の海上支配と日宋貿易と表裏一体の関係にありました。
鞆や尾道・宮島の神社仏閣を保護したように、この寺も平家の保護を受けていた時代があるのでしょう。瀬戸内海を行く交易船からは、ライン川の古城のように通行税を徴収するモニュメントに写ったのかもしれません。

 現在は陸地になっていますが、屋島は昔はその名の通り島でした。昔は水が引いたときだけ徒歩で渡れたようです。二つに分かれているけれども、潮がさしてくるときは一緒にさしてくる、潮が引くときも一緒に引くから相引と呼ばれたのです。


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