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 金毘羅大権現の別当である金剛院院主を世襲化し、金毘羅領の封建的領主となる山下氏。
その菩提寺として山下氏が建立したのが宋運寺です。
私はこのお寺が金毘羅信仰を三豊の地に根付かせていく際に、大きな働きをしたのではないかと思っています。山下氏と宋運寺の関係を見ていきましょう。
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山下氏の菩提寺宋運寺の境内
 山下氏は長宗我部元親の讃岐侵攻時に従軍してきた一族といわれます。
長宗我部元親の讃岐進駐と土佐人の入植活動をみて見ましょう。
長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』という史料があります。
この中には三豊市にある地名がいくつか記されています。天正九年八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の讃岐占領ともなって土佐からきた人物のようです。彼に与えられているのは、
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」
の地域にある土地で、それまで式内社の大水上神社の領地であった土地です。つまり、大水上神社が所有していた土地が、没収されて従軍していた土佐の人々に論功行賞として与えられたと考えられます。
この他にも、天正9年3月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
天正10年5月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が、土佐の従軍者に与えられています。
土佐軍が最も早く占領下に置いたのが三豊地方でした。
三豊の地は論功行賞により分配が行われ、土佐の「一領具足」たちの「入植」と「移住」が進められた地域なのです。そこには、近代の北海道の屯田兵や満蒙開拓団的な意味合いもあったのかもしれません。これを裏付けるかのように、高瀬町の矢大地区には土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、ここにある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
 北海道や満州への開拓団が地域のシンボルとして創建したのが神社でした。
移住者の精神的な紐帯を作り上げるために、元親は土佐から神社を勧進し新たな神社を建立します。その例が高瀬町上勝間にある日吉神社の元摂社、土佐神社です。この神社は長宗我部元親が矢ノ岡に創祀したと伝えられていて、新たな入植地での精神的支柱とするために創設したと考えられます。この神社は延宝三年(1676)に日枝神社境内に遷座されたようです。
 また、長尾氏出身の宥雅によって建立された琴平の金毘羅堂は、従軍修験者たちによって讃岐支配のための宗教的センターとして整備され、権力者を補佐する機能を持つようになります。後に入ってくる生駒氏や松平氏が金毘羅さんに注目し、保護した理由のひとつは長宗我部時代に作られた領主権力との関係に求めることができるのではないかと私は考えています。
このように、土佐からの入植者により原野が開発され、新たな村落が形成されていく姿が戦国末期の三豊の地には見られたのです

 しかし、土佐軍の占領支配は長くは続きませんでした。5年後に秀吉軍の「四国平定」で、長宗我部元親は讃岐を放棄・退却し、土佐一国のみの支配を許されます。この時に、三豊に「入植定住」していた土佐の武士団はどのような動きを見せたのでしょうか?
ここが面白い所だと私は思います。讃岐では、ここのところが軽く扱われています。讃岐にいた土佐武士団のとるべき道としては
①元親とともに、土佐に帰る
②讃岐で、入植した土地で「百姓」として生きる道をとる
①は、帰るべき土地と領土がある武士達はこの道を選ぶこともできたでしょう。しかし、四国平定の過程で論功行賞であらたな土地を手に入れた新参者達にとっては、入植地に残って生きる以外に道はなかったのではないでしょうか。新たな領主の生駒氏のもとで、いったんは刀や槍を隠し、武士から百姓へと姿を変えながら讃岐で生きることを選んだ「土佐一領具足」の人々もいたはずです。そして、残った土佐の領主層は、三豊の地に多く見られるようです。山下一族もこのような「土佐武士残留組」の一員であったと私は考えています。
  讃岐の地に「陸封」され、この地で生きることを選んだ山下氏の動きを見てみましょう。史料は山下家が建立した宋運寺と、琴平の山下家にあります。
元禄十一年(1698)山下本家五代目船江(山下)盛継の由緒書に記された山下家の出自を要約すると次のようになります
①藤原姓宇都宮流で、筑後国山下郡を知行したため山下姓を名乗るようになった。
②後に大友家に仕え、さらに土佐中村の一条家に仕えたが、長宗我部元親に主家が滅ぼされて、天正元年(一五七三)ごろ讃岐にやってきた
③財田西ノ村と河内村の境にある三王山を居城にして財田西ノ村を支配した。
 しかし、この記事には疑問点がいくつもあり、事実を伝えているとは言いがたいと「町史ことひら」は指摘しています。私は、先述した通り「長宗我部軍に従軍」してきた一領具足の一員とみています。17世紀後半になると、山下家は長宗我部との関係には触れられたくなかった訳があったようです。山下家とついては、別の機会で述べましたので、詳細は別校をご覧ください。要約すると・・
① 「占領軍たる長宗我部軍の在地化」した勢力のひとつが財田の山下氏
②財田の山下盛郷が讃岐山下氏の始祖
③二代目が盛勝で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になる。
④三代目が盛久で、父と同様に西ノ村郷司として、周辺の開発を積極的に行う。
この三代目盛久が晩年に出家して宗運と号します。これが現在の宋運寺(三豊市山本町)です。つまり、宋運寺は山下家の菩提寺として創建されたお寺なのです。
ちなみに盛久にはオナツという妹と盛光という弟がいました。
妹のオナツは生駒家2代目の一正の側室に上がり、左門という男子を産みます。左門は成長して殿様の息子として禄高5000石を支給される身になります。これは当時の生駒家では2番目高いサラリーでした。こうして、オナツとその子左門を中心に、閥族が形成されて行き、山下家は「外戚」として藩政に大きな影響力を持つようになります。それが後の生駒事件につながると考える研究者もいます。
 一方、オナツの弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この時期の山下家は、周辺の開発を積極的に行い、分家を増やし、勢力を拡大していったことがうかがえます。さて、河内村に分家した盛光の息子が宥睨が、金毘羅金光院の院主となるのです。つまり、生駒藩の殿様の寵愛を受けるオナツと、金光院院主・宥睨は「甥と叔母」という関係にあったわけです。こうして「生駒家(妹・オナツ)ー 山下家・宋運寺(盛久)ー 金毘羅大権現(甥・宥睨)」というオナツの系譜ができあがります。このような中で山下家の菩提寺として建立された宋運寺は、藩主の保護を受けながら寺勢を伸ばしていくことになります。

  山本町辻の背後には小高い丘があります。
そこに宋運寺と天満神社があり、神仏分離以前は一体でした。
天神神社から見ていきましょう。
天神とあるからには「天満」で、菅原道真を祭神と今はしています。
『生駒記』には「財田大野村天満宮は菅公の曽遊の地なり」
『西讃府志』にも「大野という名称は菅公の名付けたり、当時下大野は一九軒ばかりにて…」
とあり、菅原道真との関連を記します。
しかし、もともとこの神社が御神体としていたのは財田西字前山下の「岩神社」の磐座=巨石信仰でした。そのため「山の神」と呼ばれ、次第に豊作を祈願して農業神を祀る信仰を集めるようになっていったようです。
『西讃府志』には、それを裏付けるように
「岩神祠、上村にあり、石あり菅公影向の石とて上に駒の蹄あり」
とあります。この「岩神」に道真が国内巡行の際に参詣し、人々は巨大な石を「駒の石」と呼んでいると記しています。天満神社は、もともとはこの「岩神」が前身で、天神思想が「流行神」として広がるとともに天神社を併せ祀るようになり、現在地に移ってきたようです。中世に関する史料はないのですが、近世については正確な資料が残っています。
隣接する宗運寺を建立した山下家の文書や由来が残っているのです。
先にも述べた通り、山下家は江戸時代には金毘羅さんの金光院を世襲化することになります。その由来記よると、次のように記されています。
藤原氏の後裔、山下盛久が隠居して宗運と称し、土佐より財田に居宅を移し、寺院を建立すると同時にその守護神として慶長十一年、当天満宮を建立した
と記されています。長宗我部に従い征服者としてやって来た山下家が建立したお寺と神社なのです。その後、山下家は生駒家藩主の側室(オナツ)を出し、手厚い保護を受けるようになり、元和年間には、オナツが男の子を産んだ褒美として、藩主によって社殿が再建されます。その時の建造物としては本殿・拝殿・神輿庫・社務所があり、宝物は書(元和六年、生駒熊丸筆)棟札二点、扁額(承応四年)と記されています。
 また『西讃府志』には
「天満宮祭祀八月二十五日、社林二町余、神田三反九畝(三九町)或郡内ノ総社卜称シテ三十三年毎二開扉アリ」
とあり、三豊地域の国内の人々の深い信仰を集め、聖廟として尊敬されていたことが分かります。
 こうして、この天神神社はこの地区の氏神様という性格を越えて、三豊各地から信仰をい集める神社であったようです。その神社を別当として管理していたのが宋運寺で、山下家ということになります。

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 天神神社の奉納競馬について
  最初にこの神社の境内に入っていく時に違和感を抱いたことを覚えています。南側から長い長い参道が拝殿に向けて伸びているのです。何のために?と疑問に思いました。
 調べてみると、この神社の祭りの行事には奉納競馬が行われていたようです。
江戸時代初期には、専門的な馬術士が数多く参加して、この馬場で互いに馬や騎術を競ったのです。『西讃府志』によると
「西の村(財田西)の畜産、牛六〇馬三〇
とあります。財田村に30頭の馬がいたというのです。財田上の村の34頭についで丸亀以西の第2位です。
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天神神社 拝殿

なぜ、この村には馬が多くいたのでしょうか。
 地図を見ると分かるのですが、ここは財田側川の屈曲点に当たり、阿波からの道が財田を抜けて平野部への出口となる交通の要衝にあたります。伊予土佐からの金毘羅街道と財田猪の鼻を経て箸蔵・池田を結ぶ街道との分岐点にもなります。そのため、人やモノの集積地点として駄賃馬・駄賃車など馬借・車借が多かったようです。生駒家の保護以外にも、地理的な要因も奉納競馬を盛んにする原因と考えられます。
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 古老の伝えるところでは、昔は遠く徳島県からも専門馬や騎手が集まり、またこの行事を見物するために数千人の参拝者が集まり、祭日は郡内屈指の盛況であったといいます。
江戸時代にこの祭りに参加した人々は、天神神社の別当が山下氏であり、金毘羅大権現の金光院と深いつながりにあることは知っていたはずです。ある意味、宋運寺と金毘羅大権現は一体として捉えられていたかもしれません。
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それを物語るかのように宗運寺と金光院の住職の交流は頻繁に行われています。例えば、山下家出身の金光院宥常が寄進した本尊厨子・須弥壇がこの寺には残っています。そして生駒・京極両家ともに西讃の大寺院としての格付けを許したと、山下家宝録に記されています。
 しかし、明治の神仏分離政策で天神神社の別当寺として役割を奪われた後は、苦しい境遇に襲われたようです。古記録・什宝・什器も散逸したといいます。わずかに残った帝釈天の木像だけが、藤原時代の名作として寺歴を物語っています。また、本尊の聖観音像は応現変化したのでしょうか、帝釈天の姿を示しています。製作年代は、十一世紀ごろの藤原時代と推定され、香川県にある天部像の中では優れた仏像とされ、県の文化財に指定されています。
 寺の本堂の南側の一画に鳥居を建て不動明王の石造を祀っています。ここからは、もともとはこの寺はかつての「岩神社」の巨石信仰を行場とする修験者達の痕跡ではないかという気がします。
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このように藩政下の神仏混交の下では、天神神社と宋運寺は一体として別当職の山下家にあり、金毘羅神をまつる金毘羅大権現とも深い関係にあったことを述べてきました。これを背景にして、宋運寺は三豊地区の各地区で金毘羅信仰の伝播のための「こんぴらさん」設置を進めたのではないでしょうか。そして、その実働部隊は江戸時代は象頭山の修験者で、明治後は箸蔵の修験者達だったと私は考えています。
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 「こんぴらさん」札入は、、中讃には見られない信仰施設です。それが三豊の旧山本町や旧大野原町周辺のみに見られるのはどうしたかと考えるときに、三豊にあって中讃地区にないものは「宋運寺」の存在です。「宋運寺 + 山下家 + 修験者(山伏)」という関係が「こんぴらさん」札入設置の推進力になったと、今は推測しています。
 そして、中讃では設置運動が進まなかったのは、浄土宗興正寺派の「講」を通じた信仰集団の結びつきの強さがあったために、それが阻害要因としてして働き、設置が進まなかったと考えています。しかし、資料的な裏付けはありません。