塩入駅にやってきました。
ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
増田穣三像
ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
増田穣三像台座碑文左側
台座には3面にわたってびっしりと碑文が刻まれています。碑文を、最初に見ておきましょう。春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり明治23年 村会議員と為り 31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 45年 衆議院議員に挙げられ 大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾昭和十二年五月東京 梅園良正 撰書
現代語訳すると
安政元(1854)年8月15日生 昭和14(1939)年2月22日)没①七箇村春日の生まれで、増田伝次郎の長男。秋峰と号す。②安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生まれた。母は、近石氏。穣三は、若い頃は喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰は譲三の号である。幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾などに就いて和漢の学を修め、③また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究めた。そして「如松斉流(未生流)」の華道家元を継承し、多くの門下生を育てた。④明治23年に、開設された七箇村の村会議員となり、明治31年には2代村長に推され就任し、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。⑤明治33年には、香川県会議員に挙げられ当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。⑥明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。⑦増田穣三氏は今年80歳にもかかわらず壮健で、花道を愛し日々風雅を求めている。ここに郷党の有志を募って穣三翁の寿像を造り、不朽の功労に酬いたいと思う。⑧私は翁と姻戚の間にあるので、この碑文選書を書くことになった。昭和十二年五月
東京 梅園良正(註・宮内庁書記官) 撰書
この碑文からは、次のようなことが分かります。
①安政元(1854)年8月15日生で、明治維新を13歳で迎えた。大久保諶之丞より10歳下
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
③宮田の法然堂住職の丹波法橋から華道を学び、「如松斉流」の家元を継承
④村議会開設時からのメンバーで、2代目七箇村村長に就任し、県道4号東山線開通に尽力
⑤村長を兼務しながら県会議員を5期務め、議長も経験
⑥衆議員議員を2期務め、土讃線のルート決定に大きな役割を果たした
⑦この像は1937(昭和12)年、生前の80歳の時に建立された。
⑧揮毫は松園良正(宮内庁書記官)で、明治の著名人の碑文を数多く残している著名な書道家
増田穣三の銅像について
1937(昭和12)年5月 等身大像を七箇村役場(現協栄農協七箇支所)に生前に建立。
1939(昭和14)年2月 高松で歿、七箇村村葬(村長・増田一良)で手厚く葬られた。
1943(昭和18)年5月 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
1963(昭和38)年3月 塩入駅前に再建。顕彰碑文は、昭和12年のものを再用。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。

増田穣三(県議時代)
増田穣三の風貌については、当時の新聞記者は次のように記します。
「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
体格は小さいけれどもハンサムで威厳ある風格を示すという所でしょうか。ところがこの銅像はなで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いています。
扇子をもつ増田穣三像
私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じます。彼は若い頃は、呉服屋の若旦那でもあったようで着物姿が似合っています。左は戦後の再建像(原鋳造にて:三豊市山本町辻) 右は代議士時代
この像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。代議士時代の姿を選ばなかったのは、どうしてだろうか。
増田穣三の業績等については、評伝にしるしましたので今回は省略します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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