瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:山下谷次

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      塩入駅前
 塩入駅にやってきました。
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増田穣三像

ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
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これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
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増田穣三像台座碑文左側
 台座には3面にわたってびっしりと碑文が刻まれています。碑文を、最初に見ておきましょう。
  春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 45年 衆議院議員に挙げられ 大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
                東京 梅園良正 撰書
  現代語訳すると
安政元(1854)年8月15日生 昭和14(1939)年2月22日)没
①七箇村春日の生まれで、増田伝次郎の長男。秋峰と号す。
②安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生まれた。母は、近石氏。穣三は、若い頃は喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰は譲三の号である。幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾などに就いて和漢の学を修め、③また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究めた。そして「如松斉流(未生流)」の華道家元を継承し、多くの門下生を育てた。④明治23年に、開設された七箇村の村会議員となり、明治31年には2代村長に推され就任し、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。⑤明治33年には、香川県会議員に挙げられ当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
 明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。⑥明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 
 ⑦増田穣三氏は今年80歳にもかかわらず壮健で、花道を愛し日々風雅を求めている。ここに郷党の有志を募って穣三翁の寿像を造り、不朽の功労に酬いたいと思う。⑧私は翁と姻戚の間にあるので、この碑文選書を書くことになった。
昭和十二年五月 
      東京 梅園良正(註・宮内庁書記官) 撰書
この碑文からは、次のようなことが分かります。
①安政元(1854)年8月15日生で、明治維新を13歳で迎えた。大久保諶之丞より10歳下
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
③宮田の法然堂住職の丹波法橋から華道を学び、「如松斉流」の家元を継承
④村議会開設時からのメンバーで、2代目七箇村村長に就任し、県道4号東山線開通に尽力
⑤村長を兼務しながら県会議員を5期務め、議長も経験
⑥衆議員議員を2期務め、土讃線のルート決定に大きな役割を果たした
⑦この像は1937(昭和12)年、生前の80歳の時に建立された。
⑧揮毫は松園良正(宮内庁書記官)で、明治の著名人の碑文を数多く残している著名な書道家

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増田穣三像台座プレート 「銅像再建 昭和38年3月」

増田穣三の銅像について
1937(昭和12)年5月 等身大像を七箇村役場(現協栄農協七箇支所)に生前に建立。
1939(昭和14)年2月 高松で歿、七箇村村葬(村長・増田一良)で手厚く葬られた。
1943(昭和18)年5月 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
1963(昭和38)年3月 塩入駅前に再建。顕彰碑文は、昭和12年のものを再用。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。

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増田穣三(県議時代)

増田穣三の風貌については、当時の新聞記者は次のように記します。
「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
 
体格は小さいけれどもハンサムで威厳ある風格を示すという所でしょうか。ところがこの銅像はなで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いています。
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扇子をもつ増田穣三像
私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じます。彼は若い頃は、呉服屋の若旦那でもあったようで着物姿が似合っています。
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左は戦後の再建像(原鋳造にて:三豊市山本町辻) 右は代議士時代

この像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。代議士時代の姿を選ばなかったのは、どうしてだろうか。
増田穣三の業績等については、評伝にしるしましたので今回は省略します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 コロナで開かれなかった文化財保護協会の総会が3年ぶりに開催されることになりました。その研修行事として、旧仲南町にある3つの銅像を「巡礼」し、郷土の偉人達のことを知るとともに、顕彰しようということになりました。以前に「増田穣三伝」を書いたことがあるので、案内人に指名されました。そこで、レジメ兼資料的なモノを、アップして事前に見てもらおうと思います。見てまわる銅像は、次の順番で3つです。
山下谷次 
戦前の衆議院議員 実業教育の魁として多くの学校設立。 仲南小学校正門前
増田穣三 
戦前の衆議員議員 県道三好丸亀線整備に尽力・華道家元 塩入駅前
③ 二宮忠八 
模型飛行機の飛行実験・飛行神社の建立 樅木峠道の駅    
山下谷次銅像
山下谷次(仲南小学校正門前)
①の 山下谷次の銅像は、仲南小学校体育館前に、登校する生徒達を見守るように立っています。台座には次のように刻まれています。
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山下谷次銅像の碑文(昭和13年9月時)
昭和11年6月先生逝去ノ後 知友相議リ其偉績ヲ後世二伝へ 英姿ヲ聯仰セントシ追善會経費ノ一部ヲ以テ遺像ヲ鋳造シ寄贈ヲ受ケタリ 依テ村会ノ議決ヲ経テ之レヲ校庭二建設ス
昭和十三年九月  十郷村
意訳変換しておくと
  ①昭和11年6月に山下谷次先生が亡くなり葬儀を終えると、友人や教え子たちが相談して、先生のお姿を後世に伝えようということになった。②そこで集まった資金で遺像を鋳造し十郷村に寄贈した。これを受けて、村会は大口の小学校の校庭に建立することを議決した。
昭和13年9月  十郷村
 裏側面には、1952(昭和27)年に追加された次のような銅板プレートが埋め込まれています。

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正五位勲四等山下谷次先生ハ我郷ノ人傑ナリ資性温粁謙和事ヲ篤スニ堅忍撓マス常二数歩ヲ時流二先ンス十八才笈ヲ洛ニ負ヒ大久保在我堂先生二師事シテ刻苦年アリ最モ算数二長ス平生幣衣短袴湾輩ノ毀誉ヲ顧ミス学成リテ京華郁文等ノ私学ヲ興シ傍ラ著述二従フ明治三十六年東京商工学校ヲ創メ大イニカヲ実業教育ノ振興二致シ措据経営三十余年早生ノ心血フ澱ク教フ受クル者萬フ超工皆悉ク国家有用ノ材タリ大正十三年以降選ハレテ衆議院議員タルコト五期文政ノ府二参典トシテ献替頗ル多ク昭和三年功ヲ以テ帝綬褒草フ賜フ
昭和十一年六月五日先生逝去ノ後知友及卒業生相諮り其偉業ヲ後世二博へ英姿フ謄仰セントシ昭和十三年九月村会ノ議決ヲ経テ此ノ地二遺像ノ建設ヲナシタリ然ルニ大戦ノ篤政府二収納セラレ遺憾二堪ヘザリシガ今日十七回忌二際シ再知友及卒業生ノ醸金フ得テ錢二英像フ建設ス
昭和二十七年六月五日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
「巡礼」を行う6月25日は、銅像の前で、この顕彰文を読み上げて敬意を表そうと思います。意訳変換しておくと
1952(昭和27)年に追加された碑文(現代訳)
正五位勲四等を受けた③山下谷次先生は、十郷村の出身で、性格は温和で、何かを行うときには辛抱強く諦めずに取組み、常に時代の数歩先を考えていた。④十八才で京都の大久保彦三郎(諶之丞の弟)の設立した尽誠舎で苦学し、特に算数に長じた能力を発揮した。いつもは幣衣短袴姿で、服装には無頓着であった。尽誠舎を卒業した後に、再度上京して京華郁文学校などの創建にかかわった。一方では数学関係の教科書の著述も行った。⑤明治36年には東京商工学校を設立し、実業教育の振興や経営に30校以上かかわった。谷次先生の教えを受けた生徒は、ほとんどが国家有用の人材となった。
 大正13年以降は、⑥衆議院議員を五期務め、実業教育振興のための献策を数多く出した。そのため昭和3年に、その功績を認められて、帝綬褒賞を受けている。
 昭和11年6月5日に先生が亡くなって後に、友人や卒業生が協議して、その業績を後世に伝え、英姿を残そうということになり、昭和13年に銅像を十郷村に寄進した。寄進を受けた十郷村は、昭和13年9月に村会の議決を経て、銅像を建立した。⑦ところが先の大戦に際に、政府に収納されてしまった。銅像がなくなったことを、非常に残念に思っていた教え子達は、17回忌に際して知友や卒業生から資金を募り、銅像を再建することになった。
⑧昭和27年6月5日   十郷村
建設委員長  五所野尾基彦
松園清太郎 門脇正助 真鍋清三郎  有志
⑨香川県三豊郡辻村 原鋳造所謹製
原型師  織田朱越
鋳物司  原磯吉正知
このふたつの碑文からは、次のようなことが分かります。
①1936(昭和11)年6月8日 山下谷次が東京で亡くなった後に、銅像建立計画が具体化
②1938(昭和13)年9月 寄進された銅像を十郷村が村会決議を経て旧大口小学校に建立
③山下谷次は明治5年(1872)2月22日に、十郷村帆山で誕生
④18才で大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎に入学、その後教員へ
⑤上京し、東京商工学校(現埼玉工業大学)設立など、30以上の実業学校の設立・経営に関与
⑥増田穣三引退後の地盤から衆議院に出馬し、5期務め実業教育関係の法整備などに尽力
⑦1943(昭和18)年5月29日 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
⑧1952(昭和27)年6月5日  山下谷次像が、17回忌に旧大口小学校に再建 
⑨銅像製作所は、三豊市山本町辻の原鋳造所。増田穣三像も同じ。
  戦前に建立された銅像は、戦中の金属供出で国に持って行かれたこと、現在の銅像は17回忌に、教え子達が再建したもののようです。

台座の礎石には、下のようなプレートが埋め込まれています。

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山下谷次銅像移築記念
ここからは、1983(昭和58)年度の仲南中学校の卒業記念事業として、旧大口小学校からここへ移されたことが分かります。今年が移築40周年になるようです。

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山下谷次銅像台座の石工名

竹林正輝と読めます。地元の追上の石工によって台座は作られています。

山下谷次伝―わが国実業教育の魁 (樹林舎叢書) | 福崎 信行 |本 | 通販 | Amazon

山下谷次については、山脇出身のライターである福崎信行氏が「山下谷次伝 わが国実業教育のさきがけ」を出版していて、まんのう町の図書館にもおさめられています。詳しくは、そちらを御覧下さい。ここでは少年期のことを簡単に記しておきます。

山下谷次の少年時代   「成功は (清香)貧しきにあり 梅の花」
 谷次の立身出世の道を開いた3人の人物に焦点を絞りながら少年時代を見ていくことにします。谷次は帆山の山下重五郎の4男で、6歳の時父を失います。そのため生活に追われ、兄たちは高等小学校にも進めていません。そのような中で、谷次は母の理解で高等小学校に行き、そしてさらに上級学校への進学の道が開けます。
当時、仏教の金毘羅大権現から神道へと様変わりを果たした金毘羅宮は、神道の指導者養成のために明道学校を設立します。旧制中学校に代わるもので、全国から優秀な教師を招いて、鳴り物入りで開学でした。しかも授業料は無料。母が兄たちを説得して、谷次はここに通うことが出来るようになります。もし、この母がいなければ谷次の勉学の道はふさがれ、その後の道は開かれなかったはずです。
 入学することを許された谷次は、帆山から琴平まで毎日歩いて通学します。しかし、設立当初は授業料無料であった授業料が有料化されると、退学を余儀なくされます。そのような中で、明治21年8月に十郷大口の宮西簡易小学校で代用教員として、月給2円で務めることになります。帆山から大口までの通勤の道すがらも本を読み、休日は田んぼの中の藁小屋に入って終日不飲不食で勉強を続けたと自伝には書かれています。しかし、沸き上がる向学心を抑えきれずに蓄えた5ヶ月分の給料10円を懐に入れて、その年の12月31日の朝、家を脱け出します。そして東京で学ぼうと多度津港から神戸を経て上京。しかし、あても伝手もなく支援者もなく、資金はまたたくまに底を突きます。しかし、郷里にも帰れない。神戸まで帰ってきて丁稚として働くことになります。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)の兄弟

 行き詰り状態の中にあった谷次を救うのが、財田出身の大久保彦三郎(諶之丞の弟)でした。
彦三郎は京都に尽誠舎を開いたばかりで、それを聞いた谷次が、その門を叩きます。彦三郎は、谷次の能力を見抜いて、生徒として編入させ1年で卒業させます。そして、翌年には教員として迎えます。こうして、学校経営のノウハウを彦三郎から学んで再度上京。私立学校の教員として東京で働くようになります。そのような中で恩師の大久保彦二郎危篤の電報を受けると、職を辞して京都に帰り尽誠舎の幹事兼教師として尽力。彦三郎の讃岐に帰って静養するために尽誠舎が閉じられると、三度目の上京度目の上京を果たします。大久保彦三郎との出会いがなければ、谷次は神戸で丁稚奉公を続け、商売人になっていたかもしれません。そこから脱出の手を差し伸べたのが大久保彦三郎ということになります。
 教員として実力も経歴もつけた谷次は、郁文館中学校の数学担任教師兼庶務係として採用されます。それでも向学心は止まず、夜は東京理科大夜間部に通って勉学につとめ、実力をつけます。そして明治31年には江東学院を創設。以後、30校を越える学校の設立や運営に関与するようになるのです。
学園創立110周年の歩み | 学校法人 智香寺学園 | 埼玉工業大学
山下谷次の設立した東京商工学校(現埼玉工業大学)
  実業教育に関わる内に、国家の手による法整備などの必要性を痛感した谷次は、妻の実家のある千葉県から衆議員に出馬しますが落選。その後、郷里香川県から再出馬し、当選します。その際には、衆議院議員を引いた増田穣三や、その従兄弟で増田本家の総領で県会議員でもあった増田一良の支援があったようです。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたようです。

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増田一良
 増田一良は、大久保彦三郎に師事し、その崇拝者で京都に尽誠舎を設立した際には、それに付いていって京都で学んでいます。その時に、山下谷次が編入してきて、翌年には教員として教えを受けたようです。つまり、山下谷次と増田一良は、先輩後輩の関係でもあり、師弟の関係でもあったことになります。それが増田一良をして、山下谷次の支援をさせることにつながります。もし、増田一良がいなければ、郷里讃岐からの出馬という機会はなかったかもしれません。

山下谷次
山下谷次
それでは山下谷次Q&A
①豊かでない山下家の4男谷次が、どうして上級の学校に進めたのか?(兄三人は尋常小学校卒) 母の理解と金毘羅宮が設立した明倫学校が授業料無料だったこと。
②勉学のために上京した谷次を支えた郷土の先輩とは?
 大久保彦三郎(諶之丞の弟)が京都に設立した尽誠舎が、谷次を迎え入れた。
③妻方の地盤から出馬し落選した衆議院議員。それを支援した郷土の後輩とは?
 京都の尽誠舎のときの後輩にあたる増田一良(いちろ:増田穣三の従兄弟)が選挙地盤を斡旋。

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山下谷次銅像

これで、仲南小学校にある山下谷次像の「巡礼」は終了。次は、彼の生家を見に行きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      山下谷次(まんのう町)    
山下谷次像 仲南小学校(まんのう町)

まんのう町出身の国会議員・山下谷次(1872年3月30日 - 1936年6月5日)のことを調べていると、彼が金刀比羅宮が設立した明道学校の出身者であることを知りました。山下谷次は仲多度郡十郷村帆山(現在のまんのう町)の中農の四男として生まれています。決して豊かな家ではなく、父も早く亡くなったために、上の三人の兄たちは小学校卒業後は、家の農作業を手伝っていました。谷次の前にあった道は、兄たちと同じように家の仕事を手伝うことでした。ところがその道を変更するものが現れます。それが金刀比羅宮が開校させた明道学校でした。明道学校は開校当初は、特待生は授業料が無料だったのです。谷次の希望を受け止めた母親が、兄たちに説得し明道学校へ通うことになります。谷次が後に国会議員に成長して行く岐路に現れたのが明道学校だと私は考えています。そんなわけで、今回はこの明道学校について見ていくことにします。テキストは西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」です。

ペリー来航の頃には、金毘羅大権現には正風館という塾がありました。それが明治維新期には、旭昇塾と名を換えて引き継がれていったとされます。しかし、旭昇塾についての文献は殆どありません、後の『明治43年 金刀比羅宮沿革取調草稿』の中に、次のように記されているだけです。
旭昇塾
当塾ハ、宝物館西方ノ岡ノ上二当ル場所二存セシモノニシテ、瓦葺二階建ナリキ、後名称ヲ明道学校卜改メタルガ、明治二十九年廃校卜同時二取払ヒタリ、
(『金刀比羅宮史料』第七巻)
意訳変換しておくと
当塾は、宝物館西方の岡の上にあったもので、瓦葺二階の建物であった。後に名称を明道学校と改めたが、明治29年に廃校となり、同時に取払われた。 
ここから分かるのは、旭昇塾が「宝物館西方の岡の上」にあったことだけです。その教育内容なども不明です。旭昇塾は、金刀比羅宮の神職や職員などの子弟の教育機関となっていたと研究者は考えています。
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明道学校跡付近の大楠

金刀比羅宮は1878(明治11)年4月に、明治維新以来の課題であった御本宮正遷座を終えます。これで神仏分離の混乱も一段落して社内も落ち着きを見せるようになります。そのような中で、地域社会の子弟を対象とした教育機関開設の動きが出てきます。
 当時中央では、 明治10年(1877)頃から神道の大教宣布の不振や、これに続く祭神論争に対して、政府内では神道の研究・教育センターとしての学校設立を求める動きが出されていました。これを受けて明治15年(1882)には、明治天皇が有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、飯田町に皇典講究所を開学させます。これが後の國學院です。
  このような中央の動きを受けて、香川県の神道の中心センターであった金刀比羅宮でも、神道の教育機関を立ち上げる構想が出てきます。当時、旭社で行われていた定期的な神道講習会も、思うような成果は挙げられていなかったようです。神道の国民生活へ浸透の担い手となる若き指導者たちの育成が急務とされたのです。そのような中で、金刀比羅宮附属の教育機関の設立構想が膨らんでいきます。その中心となったのがすでに設立されていた「皇典学会」です。「皇典学会」の事業としては三種類(教育、談論、編修)が掲げられていました。その中で学校は「教育部の現場機関」という位置づけでした。
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明道学校跡
「皇典学会教育部規則」と、細則「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ておきましょう。
皇典学会教育部規則
第一条 本部ハ本会規約ノ趣旨二拠り、 私立学校ヲ設立シテ、専ラ国典ヲ講明シ、兼テ支那、欧米ノ学二渉り、子弟ヲ教育スル者トス
第二条 学校ハ、先ツ其本校ヲ讃岐国琴平山二設ケ、漸次会員、生徒増員二従ヒ各地方二設置スヘシ
第三条 琴平山二置クモノヲ単二明道学校卜称シ、其各地方二置クモノヲ明道学校某地方分校卜称ス
第四条 学校諸規則ハ別冊ヲ編シ、之ヲ詳記セリ、就テ見ルヘシ
第五条 図書館、博物館、幼稚園ヲ漸次二開設ス
第六条 図書館ハ古今内外ノ書籍ヲ蒐集シテ庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第七条 博物館ハ古今ノ器物、書画、物理、農エノ器械、動植、金石ノ見本等ヲ蒐集シ、庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ
第八条 幼稚園ハ、幼子女ノ薫陶スル所トス
第九条 図書館、博物館、幼稚園ノ細則ハ、開設二随テ之ヲ編製ス、
(『金刀比羅宮史料』第十九巻、
ここには、琴平に本校を置いて、その後は各地に地方分校を開設していく計画が示されています。また学校だけでなく、附属の、図書館・博物館・幼稚園などの開設計画もあったことが分かります。学校教育と社会教育を総合した教育機関という構想がうかがえます。

「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ると、明道学校の教授内容(教科目)などが分かります。
皇典学会教育部明道学校諸規則
第一編 教  則
第一章 教旨
第一条 本校ハ国典ヲ基礎トシテ普通中学科ヲ授ケ、国体ヲ講明シ事理ヲ研究シ、以テ智識ヲ発育シ道徳ヲ涵養セシムル所トス
第二条 学科ヲ分ツテ本科、予科ノニトス
第二条 本科ハ古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、記簿、書法、図画、体操トス
第四条 予科ハ就学時期ヲ失シテ、本科二入ルヘキ学カヲ有セサルモノヲ養成スルモノトシ、学科ハ之ヲ予定セス
第五条 本科、予科ノ外、別二須知科ヲ設ケ、余カヲ以テ講読セシムルコトアルベシ
第三章修行年限
第六条 終業年限ハ四ヶ年トス
第四章 学     期
第七条 学期ハ一ヶ年ヲニ期二別ケ、二月二十一日ヨリ七月廿日マテヲ前学期トシ、八月二十一日ヨリニ月二十ロマテヲ後学期トス
第八条 学級ヲ八級二別チ、毎級六ヶ月間ノ修業トス
第五章 授業 日
第九条 本校ハ左ノロヲ除クノ外、総テ授業スルモノトス
日曜日      大祭祝日
金刀比羅宮大祭日
夏期休業 七月二十一日より八月二十日まで凡川口‐11‐「「
冬期休業 十二月二十五日より一月五日まで
臨時休業ハ時二掲示スベシ
第十条 授業時数ハ一日六時トス
第二編 校  則
第一章 入  退  学
第一条 生徒ハ品行端正ニシテ、左ノニ項二適合スルモノヲ以テ、入学ヲ許ス
  第一項 小学中等科以上卒業ノ者、及十四年以上ニシテ第十五条ノ試業二合格ノモノ
  第二項 種痘又ハ天然痘ヲ為シタル者
第二条 入学期ハ毎年両度、定期二月七月試業ノ後トス、尤モ校ノ都合ニヨリ、臨時入学ヲ許スコトアルヘシ
第三条 入学期日ハ、之ヲ三十日以内二広告スヘシ
第四条 入学志願ノ者ニハ、第一号書式ノ入学願書及ヒ履歴書ヲ差出サシム
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻、)

本科には古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、簿記、圭[法、図画、体操の二十科目が設けられています。

 明道学校が開校準備を行なっていた頃、明治14年(1881)七月の文部省達『中学校教則大綱』によると、当時中学校は初等中学科四年・高等中学科二年の修業年限で、それぞれ次のような教科目を履修する規定になっていました。
初等中学科(初等科) 修身・和漢文・英語・算術・代数・幾何。地理・歴史・生物・動物・植物・物理・化学・経済・簿記・習字・図画及び唱歌・体操
高等中学科(高等科) 修身・和漢文・英語・簿記・図画及び唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学
つまり、これらの科目を開設しないと中学校とは見なされなかったのです。金刀比羅宮の経営戦略としては、神道専門学校の設立を目指すものではなく、地域に開かれた中学校を目指していましたから、文部省のカリキュラムに準じたものではなりません。そのため英語も当然入ります。
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明道学校跡からの光景
当時は香川県には公立中学校がない時代でした。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
明治十九年四月、中学校令が公布されて、一県一中学校の制に基づき、高松に置かれていた愛媛県第二中学校が廃止された。爾来、明治二十六年、香川県尋常中学校が設置されるまでの数年間、香川県に公立の中学校は全く途絶した。
この間隙を埋め、尋常中学の教育過程にのっとり、中等教育の役割を果たしたのが、私立坂出済々学館である。のち、その閉校に際し、功績を称えて香川県参事官は言う。明治十九年
「公立ノ中学校ヲ廃セシヨリ、我ガ讃ノ一国僅二琴平ノ明道学校卜微々タル一二ノ私塾」がみられる程度で、「仮令資産裕カニシテ有為ノ志ヲ懐クモノト雖モ、遠ク山海数千里ノ地ヲ践ムニアラザレバ、完全ナル小学以上ノ教科ヲ修ムル能ハズ、為メニ俊秀ノ子弟ヲシテ進修ノ念ヲ絶ツニ至ラシメタルモノ砂カラズ」、そこで坂出町の有志十数名が出資して、十九年夏、私立済々学館を設立した。(○中略)
 その後二十六年四月二十一日、
「今ヤ、時来り機熟シ、髪二県立中学校ノ設立ヲ観ル、因テ本日フトシ閉館ノ式ヲ挙ゲ、学生ヲシテ県立中学二入ラシム」
と、二年級以下の生徒六〇余名が香川県尋常中学校に編入を認められた。まさに公立中学校の代役を終えて、私立坂出済々学館は閉館した。教育熱心な有志に支えられて、中等教育の命脈は保たれていたのである。
(『香川県史』第五巻〔通史編 近代I〕、ルビ筆者)
  ここでは、私立坂出済々学館のことが主に書かれていますが、金刀比羅宮の明道学校も同じでした。香川県が愛媛県に合併され、「一県一中学校の制」で讃岐から県立中学校が姿を消した時代でもあったのです。 明道学校のカリキュラムが、当時の中学校の教育内容を意識した科目編成であることには、そんな背景もあったようです。

金刀比羅宮をめぐる動きを年表で見ておきましょう
明治14年 1881 水野秋彦、明道学校教授に任ぜられる。
明治15年 1882 古川躬行着任。
明治17年 1884 明道学校開校。
明治19年 1886 四国新道起工式。
明治20年 1887 電灯点灯。
明治22年 1889 大日本帝国水難救済会設立。琴平、丸亀間に鉄道布設。猪鼻峠新道工事完工。
明治23年 1890 久世光熙、琴陵家の養子となる。
明治25年 1892 宥常没53歳。南光利宮司となる。
明治29年 1896 明道学校廃校。善通寺に第11師団設置。
開講2年前に準備に向けて、水野秋彦を招いています。
彼の履歴書が『明道学校関係書類』の中に残っています。それを見てみましょう
(水野秋彦履歴)
                                       常陸国茨城郡笠間桂町三百五十四番地
茨城県士族
水野秋彦
嘉永二己西年十二月十三日生
当明治十六年八月二十三年九月
一 文久元年ヨリ同三年迄、新発田(しばた)藩浪士小川容斎二従テ漢学ヲ受ケ、慶応二年ヨリ明治三年迄、笠間藩賓礼教師鬼沢大海二従ヒテ皇学ヲ受ク
一 明治三年庚午十一月十五日、笠間藩史生二任シ、同四年辛木九月二日、旧藩主家従二雇ハレ、同五年壬申正月八日、笠間県学助教試補命セラル
一 明治七年二月十日、岩城国国弊中社都々古別神社権宮司に任じ、集中講義ニ補し、同年3月31日、大教院ヨリ、磐前県神道教導取締命セラレ、同八年二月二十日、依願免本官並職
一 明治十四年二月廿七日、琴平山明道教校教授二雇ハル
(『金刀比羅宮史料』第七十九巻)

ここからは、嘉永二年(1849)に常陸国笠間藩医士の家に生まれで、国漢の学を修め和歌にも秀でた人物であること。維新後は笠間県学助教試補や都々古別神社権宮、警視庁四等巡査などを経て、明道学校の前身旭昇塾教授として金刀比羅宮の招きでやってきたことが分かります。明治22年(1889)11月に41歳にて病没するまで、明道学校教長(校長)として神道や国典などを担当しています。
  この他にも明道学校で教鞭を執った人物を見ておきましょう。
金刀比羅宮の禰宜であった松岡調や地元では名の知られていた黒木茂矩(しげのり)らの名前も講師陣として挙げられています。しかし、これらは国学や神学の学者です。数学や理科などの理系科目や、英語など当時求められていた文明開化をリードする科目ではありません。そのような実学の教授たちを招致するのは、大変だったようです。

 英語の教師として埼玉から原猪作という人を招くことに成功しています。
その給料は、当時の校長の俸給の倍額にあたっていたようです。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。

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明道学校跡からの眺め
伊佐庭如矢は、文政11年(1828)に松山城下の医師の三男として生まれています。
幼少の頃より学問を好み、28歳の時に私財を投じて松山城下に「老楳下塾」を開いて子弟教育にあたります。明治になると愛媛県庁吏員として、「城郭廃止令」によって取り壊そうとされていた松山城の保存を訴え、松山公園として開園させた手腕は高く評価されています。
 その後、明治16年(1883)には県立高松中学校長となりますが、さきほど見たように「一県一中学校の制」で高松中学が廃校になりリストラされたようです。それを、金刀比羅宮がスカウトします。明治19年(1886)4月に金刀比羅宮爾宜に就任し、明道学校校長も兼務しています。しかし、わずか半年余の在職の後に退職し、翌年には愛媛県道後町初代町長となっています。
こうしてみると講師陣はあまり長続きしていないようです。地方の私立中学校において、優秀な講師陣を揃えることは至難の業であったようです。

このような事業を行うための経済的な基盤は、どうだったのでしょうか?
 明治になって移動(旅行・参拝)の自由が保証されて、金毘羅参拝客は、明治になって増加したようです。参拝客たちがもたらす寄進物や奉納品はも増加します。そして、何よりの経済基盤となったのが以前にお話しした崇敬講社の全国展開です。このネットワークが張り巡らされいくにつれて、講員が増えると巨大集金マシーンとして働き始めます。
1崇敬講社加入者数 昭和16年
金刀比羅宮 崇敬講社新規加入数(明治16年)
この資金を使って、金刀比羅宮は本殿の遷宮や、明道学校などの新規事業、芸術家たちへの支援育成事業などにも積極的に取り組むことができたようです。お金の心配はしなくていい時代だったようです。鉄道や道路を新たに建設しようとする新規授業者は、資金援助をもとめて金刀比羅宮通いを行ったことが記録に残っています。
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明道学校跡付近の大楠
明治17年(1884)1月6日、旭昇塾は組織替えして、新たに地域の中等教育を担当する学校「明道学校」として開校します。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
松岡調は『年々日記』に次のように記します。
六日 ことにてる、うらヽかにて春のことし、本日ハ学舎の開業の日なれハ、とくより明道館へものセハ、康斐、俊次、生徒をつとひて、教場なる学神を斎き奉るしたくセんとて、帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置、中央に新しき檜のひもろきを置奉る、又昇降口にハ忌竹をさし、注連縄をハリ、日章のふらふを打ちがへてなびかセたるハ、開業式のさま見へたり、やう/\会幹、教師の人々出仕ありしか、 一時すきたりて副会長琴陵宥常ぬしもものセられたり、ほとなく会員もつとひたれハ、御祭式にかヽらんとす、会長深見速雄主の出仕あらねハ、宥常ぬし祭主つかうまつれけり、勝海ハ奉設長たり、まっ宥常ぬし、勝海、準吉等神雛の御前に進ミて一段拝ありて、宥常ぬしハ微音にて学神を招き本る、勝海和琴、準吉警躍つかうまつる、しハしの間に招神式ハてヽ両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒奉れり、此間奏楽あり、次に祭主祝詞を奏セリ、此祝詞ハ水野秋彦かつくりまつれると、

意訳変換しておくと
六日のことについて、うららかな春のような本日は学舎開業の日なので、明道館へ出向いてみると、康斐、俊次など生徒が集って、教場に学神を招く準備を行っていた。帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置き、中央に新しき檜のひもろきを奉る、又昇降口に忌竹をさし、注連縄を張り、日章旗を挙げてなびかせている。開業式の準備が整うと、会幹、教師などの人々が集合してきた。一間空いて副会長の琴陵宥常も現れ、会員が集合した。御祭式が始まった。会長深見速雄主は不参加であるが、宥常が祭主を務め、勝海が奉設長である。宥常、勝海、準吉などが神雛の御前に進んで一段拝して、宥常が微音で学神を招き入れる、勝海和琴、準吉警躍で仕える。しばしの間に招神式は終わり、両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒が奉れた。その間も奏楽が奏でられる。次に祭主祝詞が読み上げられる。この祝詞は水野秋彦か作成したものであり、次のようなものであった。

明道学校開業国祭学神祝詞
琴平山之山上乃。朝日之日向処。夕日之之隠処。聳立在流学校乃高楼ホ。神離起大斎奉。皇神等乃広前。畏々毛白左久。世間乃人道。天地乃物 理。種々乃技芸等波。学ホ依ヽ覚明弁久。学ホ依人修成弁支物奈利斗。皇典学会員乃議計良久波。此会な教育、編韓、談論乃二部有流其中小毛。最重美之先須弁支波。世人ホ真道乎覚良之米。真理乎明米之米。万芸乎修之牟生。教育ホ古曽有祁礼。急速ホ。其学校乎開先物叙斗。議定之事乃隋(小。今姦明治十七年云茂乃歳初乃。今日乃生日之足ロホ。明道云美名負在此学校ホ。皇典 学会 々員。教員。学生。相集大。白三神等乃厳之御前″小。礼代乃物等十。横山―置在流古典。修身通之教訓L経古人申良小。言霊之幸御国乃言語斗。横ホ書成西洋語乎。惟年左太加ホ。歌詩乃詠法1。文洪文乃作則美外。法ホ実乎測量流算術。天地之万物乃理乎。博久知得流術々乎。阿夜ホ苛久。文字書支図画画久手乃芸乎。阿夜ホ愛久。落事無久令教給比。漏事無久令学給比人。此学校乃教育乃光乎。四方ホ偏久令輝。皇典学会乃功乎。大八洲国内体広久令施給開斗。天之八平手拍上人。恐々毛白須。
以下意訳のみ
この学会の主義を見事に言い表しているものである。
祝詞が終わると、最初のように両段拝があり、祭官が北方の座に着くと、御前に進みて一拝して、西北の方に向いた座について、古事記の天地初発の段を解いてた。それが終わると堀翁が進み出て語学の大意を述べる。次に秋彦が万葉集、敏足が中庸、荘三大が日本史、俊次がリードルの始め、沢蔵が算術の主意を述べた。この時に、俊次の英語を聞いて、心なき生徒の中には、初めて聞く英語に何を言っているのか分からず、くすくすと笑ふ者もいた。このように講義も無事に終った。
 私も会長に代って、御前に進み祝文をよんだ。荘三も進み出て、答辞をよむ。これも終わると、伶人発声し、その間に直会の御酒を、祭官を始め、生徒にいたる全員に振る舞われた。(以下略)(『年々日記』明治17年 83

ここで私が気になるのは、開校式典に、会長深見速雄が出席していないことです。これをどう考えればいいのでしょうか。当時の会長深見速雄と琴綾宥常の関係が以前から気になるのです。大事な式典に欠席するのは、ある意味で異常です。名目的存在に留まり、式典などにも参加していなかったのでしょうか。それは置いておいて、式典を見ていきましょう。
①学神を神簾(ひもろぎ)に招神して神崎勝海以下の奉仕で献餃
②斎主は水野秋彦の起草になる「明道学校開業日祭学神祝詞」を奏上
③祭典の後に、明道学校教授代表による講義
 講義は、先ず松岡調が『古事記』天地初発の段を講じ、
 次に堀秀成がわが国の言語学の大意を述べ、
 次に水野秋彦が『万葉集』を講じ
  敏足が『中庸』を講じ
 伊藤荘三が『大日本史』を講じ
 中村俊次がリードル(英文講読)を行ない
 大西沢蔵が算術の主意を講ずる
などです。殊に参列者の中には中村俊次によるリードル(英文講読)の際に、「心なき者ともハ、何吏を云ならんと思へるかくづくづ笑ふあり、」との松岡調は指摘します。初めて聞く外国語の不可思議さは、ある意味ではおかしさでもあったのかもしれません。

どうして明道学校と名付けられたのでしょうか?
明治14年(1881)6月20日に校長の水野秋彦が説教講究会でで、次のように述べています。
「今日し初むる講説の会はしも、皇大御国の本教の神道を明らめ究むる会にして」「わが国の本教たる神道を明らめ究める会」

つまり、「明道」とは「神の道を明らかにする」意であったようです。

 明道学校の廃校について
明道学校の存在意味のひとつは、讃岐から中学校がなくなったことを埋めることでした。明治19年(1886)四月に施行された『中学校令』(明治19年勅令第一五号)の第六条には、次のように規定されています。
尋常中学校ハ各府県二於テ一校ヲ設置スヘキモノトス、但土地ノ状況二依り文部大臣ノ許可ヲ得テ数校ヲ設置シ、又ハ本文ノ一校ヲ設置セサルコトヲ得、(『中学校令』)

 愛媛県と併合された香川県では、県庁所在地の松山にあった「愛媛県第一中学校」のみが残され、高松にあった「愛媛県第二中学校」は、一府県一中学校の原則規定にしたがって廃止されました。そのため讃岐には公立(県立)の中学校がなくなっていたことは、先ほど見たとおりです。
明道学校は、明治19年(1886)から26年(1892)まで讃岐に公立(県立)中学校がなかったために、私立中学校として坂出の済々学館とともに存在意義があったともいえます。しかし、1896年に丸亀に丸亀中学校(分校)が建学されると、ある意味で存在意義をなくしたようです。
 しかし、金刀比羅宮の附属学校、図書館・学芸館(宝物館)は、地方での学芸奨励という面からのアプローチは当時としては注目される試みだったと云えます。最初に紹介したように、まんのう町帆山出身の山下谷次にとっては、この明道学校がなければ世に出ることもなく、国家議員になることもなかったのです。彼にとってはまさに人生のスタートを切るチャンスを与えてくれた学校だったと私は考えています。

以上をまとめておくと
①金刀比羅宮は明治10年代になって、神仏分離への対応が一段落し、崇敬講社が軌道に乗り始めると、教育事業への投資を考えるようになった。
②それは皇典学会の「教育部門の附属機関」という形で、具体的には明道学校の建学という形になった。
③そのため将来の神道指導者の要請と同時に、「一府県一中学校」の原則で讃岐に中学校がなくなったことを受けての受け皿としても機能する学校作りを目指した。
④経済的なゆとりがあったので全国から有能な教師を招こうとしたが、なかなか長く定着してくれる講師陣は少なく、英語や理系科目の教師陣の招聘には苦労したことがうかがえる。
⑤結果、金刀比羅宮の附属学校として、国学や神学には強いが上級学校に進学するための「進学指導」には手薄になり、丸亀中学が出来ると存在意味を失い廃校となった。
⑥しかし、金刀比羅宮の附属機関としての教育機関という発想は、その後にも活かされ、附属図書館や附属学芸館(宝物館)の開設につながることになり、地域文化の拠点として機能していくことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑦

参考文献
         西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」

 
縁あって郷土から出た戦前の衆議院議員との出会いがあった。
何の知識もない中で、銅像や碑文を訪ね、町誌を読み、関係者から話を聞く機会を頂いた。
その中から、おぼろげながらも次第に増田穣三の姿が見えてくるようになった。法然堂の未生流師匠碑文の裏面のトップに増田穣三の名前を見つけた時は驚いた。
農村歌舞伎の太夫として浄瑠璃を詠い、玄人はだしでであった
塩入線誘致を行い「土讃線のルート決定」に大きな影響を与えたという従来の評価については調べれば調べるほど疑念がわいてきた。今までの増田穣三への評価を貶めることになるのではないか。これでいいのかという迷い。
いいのだ、まんのう町の讃岐山脈のふもとで幕末に生まれた男が、明治・大正と云う時代を郷里の課題に向き合いながらどう生きたのか、それをあるがままに記録することがまんのう町の未来への遺産となるのだと、そんな風に思い直し、行きつ戻りつしながら調べたものを書き並べた。
その「成果」がここにあげたものです。
この「出会い」をいただいたことに感謝

山下谷次銅像
山下谷次像(仲南小学校正門)
まんのう町は戦前に、二人の国会議員を輩出している。その一人の像が仲南小学校の正門に立っている。山下谷次である。彼は、まんのう町帆山出身で「実業教育の魁け」として、東京で実業学校の開設にいくつも関わり、その後に代議士となってからは実業学校の法整備等に貢献した人物だ。
小学校卒業後の谷次は、琴平神宮が設立した明道学校へ堀切峠を抜けて通った。裕福でなかった谷次が上級学校へ進学できたのはここが授業料無償であったことが大きい。その後、さらに上京し勉学を志すが経済的に恵まれず、同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰ぐがかなわず、貧困の中にあった。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)  
これを援助したのが財田出身の大久保彦三郎である。
彦三郎は当時、京都に尽誠舎を創設したばかりであった。そこへ転がり込んできた谷次の入学を認めると共に、舎内への寄宿を許す。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると半年で卒業させ、さらに大抜擢して学舎の幹事兼講師として採用している。彦三郎は「四国新道」を開いた大久保幕之丞の実弟である。ちなみに、彦三郎に従って京都に設立されたばかりの尽誠舎に入学していたのが七箇村春日出身の増田一良である。彼は、春日の富農増田家の当主で、増田穣三代議士の従兄弟にもあたり、後には七箇村長や県会議員として活躍する。 一良は、この時に山下谷次の教えを受け、短い期間ではあるが師弟関係を結んでいた。

山下谷次
山下谷次
谷次は、彦三郎の支援を受けて京都で実力を蓄えた後、上京し苦労しながら栄達への道を歩み始めていく。そして、妻の実家のある千葉県から衆議院に出馬するが落選。その後、春日出身の増田穣三代議士引退後の郷里香川県から選挙地盤を引継ぎ再出馬し当選する。その際には、京都で師弟関係にあった増田一良の支援があったようである。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたという。仲南小学校の山下谷次像は、登下校の児童を見守るおじいさんのような風情で絵になる。

参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝
まんのう町誌ふるさと探訪2017年8月分

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