瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:山岳信仰

貴族の専有物であった古代寺院が、どのように民衆化していくのかを修験者や聖の視点から見ていこうと思います。空海・最澄の登場によって、平安時代になるとそれまでの都市仏教から、山深い山岳に巨大な寺院を建立されるようになります。
この時期の山岳寺院には、次のような特徴があると云われます。
①規模が比較的大きいこと
②山岳を修行の場とする密教寺院であること
③国家を鎮護し貴族の安穏を祈る国家的または貴族的仏教
役小角 - Wikiwand

11世紀を過ぎるころから、それまでの寺院の枠組みを越えて修行する山岳修行者=修験者・山伏が現れます。彼らは修行集団を形成し、諸国の霊山をめぐるようになります。諸国の名山とはたとえば12世紀に著された『梁塵秘抄』に見える七高山です。

他方、寺院の枠組みを越えて活動するもう一つの僧侶集団が形成されてきます。
高野聖とは - コトバンク

僧侶の中では最下層に属し、半僧半俗的な性格を持つ聖集団です。
彼等は庶民を日常生活の苦難から救済し、仏教を広めるとともに、民衆から生活の糧を得て社会活動を行い、堂塔を建立するための勧進活動を行うようになります。
 つまり、寺院の枠組みを越えた集団である「修験者・山伏と勧進聖」が姿を現すようになったのです。ともすれば寺院のなかに閉じこもり、国家や有力貴族のためだけに活動していた仏教寺院を、民衆救済へ変化させていったのが「修験者・山伏と勧進聖」になるようです。
修験者と勧進聖の役割
修験者は信仰を深めるために厳しい修行を行うとともに、人々を組織して先達となって霊山・寺院へ誘引するようになります。それの一つが四国八十八所や西国三十三所巡礼へとつながっていきます。
 また彼らは民衆救済のひとつの形として、農業技術、土木事業、医療活動などの社会活動も行います。
勧進活動 行基
行基菩薩勧進帳 鶴林寺 文明八年(1486)
鶴林寺の開基は寺伝では聖徳太子ですが「六禅衆供田寄進状」(『鎌倉遺文』)には「当寺本願行基菩薩」とあり、行基菩薩が開いたとされます。中世では行基開創伝承もあったようです。この本勧進帳は行基坐像の胎内から発見されたもので、勧進により行基像が造像されたことがわかります。これによると、文明18年から勧進から始り、多数の人々の勧進により造像されたようです。

彼らがどれだけ大きな勢力を持っていたかは、鎌倉時代初期の重源の狭山池の改修や東大寺再建事業からもうかがえます。
勧進 狭山池勧進碑
狭山池重源改修碑 大阪府立狭山池博物館 建仁二年(1202)
古墳時代に築造された狭山池は、古くは行基も、池の修復を行っています。鎌倉時代初期に東大寺大勧進職であった重源も、彼の業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に狭山池を修復したとの記載があります。平成五年(1993)の改修工事中に、重源の改修工事記念碑が発見されました。重源が勧進活動により修復を行ったことが記されています。

勧進僧の活動の一つは、念仏聖を中心とした民衆の「死後」の恐怖からの救済でした。古代仏教は葬儀とは無縁の存在でした。その意味で民衆信仰としての「葬送」は、新時代の仏教民衆化の要になりました。死者への葬送儀礼に関わった宗派の僧侶が民衆からの信頼と支持を得ることになります。平安時代初期には、死者への葬送儀礼の作法は、道教の影響が大きかったようです。それが次第に仏教儀礼へと代わっていくのは念仏聖たちによる社会活動の結果です。

納骨塔元興寺 鎌含時代
納骨塔 元興寺 鎌含時代・室町時代
納骨は、死者供養の一種で、法華堂や三味堂などに奉納されました。元興寺寺も納骨寺院の一つであり、納骨容器である五輪塔以外に、宝珠医印塔や層塔などのもありますがすべて小型の木製です。中に骨を入れ、堂内の柱などに打ちつけられました。
戦場の陣僧
戦場の陣僧

その例を時宗僧侶の活動から見てみましょう。
時宗僧侶達は、「陣僧」と呼ばれ、戦場にでて人々の救済に尽くすようになります。鎌倉幕府減亡の元弘三年(1333)五月二八日付けの時宗道場・藤沢清浄光寺の他阿の手紙は、時宗僧侶の働きを、次のように記しています。
鎌倉は大騒ぎですが、道場は閑散としています。合戦前、寺に足繁く通ってきた武士たちは戦場にいます。城の中も攻める側も念仏で満ちていて、捕縛されて頸を討たれる武士に念仏を唱えさせ成仏させました。

ここからは、時宗僧が「陣僧」として戦場に残らず出かけたため、寺は閑散としていたことが分かります。合戦前には敵味方なく時宗寺院に通ってきた武士達が、戦場では殺し合いながら念仏を唱えています。首を討たれる武士にも念仏を唱えさせ、浄土に送っています。彼らが敵味方分かつことなく死の際で活動していたことが分かります。
時宗一遍

一遍を開祖とする時衆僧は「南無阿弥陀仏」の名号を唱え遊行したました。
日常を臨終と心得て念仏信仰をつらぬくスタイルは、合戦で死と隣り合わせになる武士と共感を持って受けいれられたようです。聖らは、戦場で傷を負ったものに、息絶える前に念仏を10回唱えさせて極楽浄土にいけると安心させ、往生の姿を看取ります。
時宗陣僧の活動をもう少し見ておきましょう
 河内金剛山の楠木正成討伐軍に加わり捕縛された佐介貞俊は、頸を打たれる前に、十念を勧める聖に腰刀を鎌倉の妻子のもとへ届けるように頼みます。そして十念を高唱して頸を刻ねられます。聖が届けた形見の刀で、妻は自刃します。それが『太平記』で語られています。
 応永七年(1400)の信州川中島での小笠原長秀と村上満信らの合戦を記した『大塔物語』を見てみましょう。
大塔物語

ここには、善光寺などの時衆僧らが切腹などで死の間際にあるものに十念をさずけています。合戦がおわると戦場に散らばる屍をあつめて葬り、卒塔婆をたてて供養し、戦場の様子を一族に報告したと記します。戦いを見届け、絶命するものに念仏を勧め、打たれた頸をもらいうけ、遺言とともに形見の品を遺族に届け、敵味方なく遺体をかたづけて供養し、塔婆をたててこれを悼む。
 ここには、戦場の一部始終を見届ける役回りを果たす陣僧の姿があります。彼らの語りが文字に姿をかえ、『太平記』『大塔物語』をはじめとする軍記物語に詳細に描き込まれることとなったと研究者は考えているようです。
  同時に、このような活動を行い死者を供養する姿に、武士達は共感と支持を持つようになります死者の魂と、どのように関わっていくのかが鎌倉新宗教のひとつの課題でもあったようです。

中世寺院の民衆化
中世になり律令体制が解体すると、国家や貴族に寄生していた中世寺院は、経営困難に陥ります。つまり国衛領や荘国による維持が困難になったのです。そのような中で、武士・土豪さらには一般民衆へと支持母体をシフトしていく道が探られます。それは結果として、中世寺院自体の武士化や民衆化を招くことになります。

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一遍絵図

 寺院の周辺に民衆が居住し様々な奉仕を行っていたことは、一遍絵図を見ているとよく分かります。
時代が下がるにつれて寺院内へ僧侶または俗人として民衆自身が入り込むようになります。それまで寺院の上層僧侶が行っていた法会も、一部民衆が担うようになります。例えば、兵庫県東播地方の天台宗寺院に見られる追灘会(鬼追い式)が、戦国期には付近の民衆が経済的に負担し、行事にも参加するようになっていきます。これは「中世寺院の民衆化」現象なのでしょう。
追儺会(鬼追い式)|興福寺|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|奈良市|奈良エリア|イベント

「民衆化」現象は、最初は寺院と民衆をつなぐ修験者山伏や念仏僧などの勧進聖から始まり、次第に中世寺院自体が民衆化していくという形をとります。
それが最も象徴的に現れたのが戦国時代末の戦乱期でした。
 戦国時代末になると、中世寺院では修行者山伏・聖集団が寺内で大きな地位を占めるようになります。そして、彼らは寺院周辺に生活する武士や民衆と寺院との間にも密接な関係を作り上げていきます。戦乱で寺領を失い、兵火で伽藍が焼かれた場合も、立ち直って行く原動力は、寺院内部では下層とされた修験者や勧進聖たちでした。彼らによる勧進活動が行われない寺院は、再建されることなく姿を消して行ったのです。まさに修験者や勧進僧が活躍しなければ、寺が再建されることはなかったのです。彼らの存在意義は否応なく高まります。
そういう意味では戦国時代末期は、中世寺院が最も民衆化した時期でもあったようです。
ところがこのように民衆化した寺院を一変させたのが、信長・秀吉・家康によつて進められた寺社政策です。
信長に寺領を奪われた中世寺院は、秀吉からそれまでの寺領のうち数分一の朱印地を返されたのに過ぎません。また中世寺院は、寺院周辺の民衆との関係を断ち切られます。さらに寺院内での修験者山伏や勧進聖の地位が低められたり排除されたり、また彼等の社会的な活動も大きく制限されます。これは中世前期の「本来」の寺院の姿に戻させるという意図があったかもしれませんが、修験者たちは経済的には困難な状態が続き、近世の間ずっと長期衰退状態が続きます。
他方、民衆と寺院との関係では巡礼・参詣などという信仰上の関係はそのまま続き、寺院経済の重要な支えとなっていきます。このように近世の中世寺院は戦国時代末期の姿で近世化したのではなく、かなり大きく変化させた形で近世化したとものであると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世寺院の姿とくらし 国立歴史民俗博物館
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まんのう町中寺廃寺跡を江畑道より歩く

教育委員会のTさんに「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」と言われて、翌日、天候も良かったので原付バイクで江畑道の登山口を目指す。

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春日と内田を結ぶ中讃南部大規模農道を走って行くと江畑に「中寺廃寺」の道標が上がっている。この道を金倉川源流に沿って登っていく。 すると塩入から伸びてきている林道と合流する。これを左に曲がり砂防ダムに架かる橋を越えて奥へ入って行く。

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しばらくすると20台は駐車できそうな駐車場が左手に見えてくる。そこから尾根にとりついていく。
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しばらくは急勾配が続くが、もともとは江畑からの大山参拝道であり、南斜面の大平集落を経て阿波との交易路であった道で、旧満濃町と仲南町の町境でもあったためしっかりとした道で歩きやすい。迷い込み易いところには標識がある。
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 高度が上がると大きな松の木が多くなるが、この辺りはかつては松茸の本場であった所。この時期にこの付近の山に入って、「誰何」されたことがある。苦い思い出だ。
しかし、今は下草が刈られない松林に松茸は生えない。松茸狩りの地元の人にも出会わない。出会う確率が高いのは猪かもしれない。
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 傾きが緩やかになると標高700㍍付近。
展望はきかないが気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れる。私の使っている地形図は何十年も前のものだから高圧線が書き込まれていて、現在地確認の際のランドマークタワーの役割を果たしてくれる。しかし、最近の地形図には「安全保障」上のため政府からの要請で記入されなくなったと聞く。何か釈然としない。
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そんなことを考えながら歩いていると柞野から道の合流点と出会う。
柞野にも立派な広い駐車場が作られ、ここまでの道も整備された。流石「国指定史跡」になっただけはある。
そして、すぐに分岐点。まずは、展望台を目指す。
最後の急登の階段を登ると・・
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 ここからの展望は素晴らしい。

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燧灘の伊吹島から象頭山の向こうの荘内半島、
そして眼下に横たわる満濃池、讃岐平野の神なびく山である飯野山

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さらに、東は屋島から高松空港。
「讃岐山脈随一の展望を誇る」と説明板に書かれていたが、そうかもしれない。展望台も新築されたばかりで気持ちいい。ここにシュラフとコッフェルを持ってきて「野宿」したら気持ちいいだろうなと思ってしまう。
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展望を楽しんだ後は、中寺廃寺の遺構めぐり。
その前に準備してきたペーパーと説明板で復習。
 この辺りは、「中寺」「信が原」「鐘が窪」「松地(=末寺)谷」という寺院関係の地名が残るなど、大川七坊といわれる寺院が山中にあったと地元では言い伝えられてきた。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、中寺廃寺跡は長らく幻の寺院であった。
昭和56年以後の調査で、その存在が明らかとなってきた。
  中寺廃寺跡とは、展望台の周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっている平場群の総称で、東南東に開いた谷を囲む「仏」「祈り」「願」の3つのゾーンからなる。
創建時期は山岳仏教草創期である9世紀にまでさかのぼるとされている。
まずは遺跡の中で一番最初に開かれたとされる「祈り」ゾーンへと向かう。
やって来たのは展望台から東に張り出した尾根の平坦部。土盛り部分が見えてきた。

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ここから出てきた礎石建物跡は5×3間(10.3×6.0m)で、その中央方1間にも礎石がある点が珍しい。このため、仏堂ではなく、礎石配列から割拝殿と考えられる。ここから見上げる大川山の姿は美しい。
割拝殿とは???
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こんな風に真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようだ。
この建物の東西には平場があるが、一方の平場は本殿の跡であり、一方の平場は参詣場所と考えられる。
 その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡とされている。
僧侶達は、ここに寝起きして大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げられたのだろうか。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中には重なってきた。
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僧の住居跡とされる掘立柱建物跡2棟部分だ。
遺構跡は、埋め戻されて保護されている。松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かう。
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ここには南面して、仏堂と塔があった。
標高高723m地点で、3間(5.4m)×3間(5.4m)の礎石建物跡で、強固に盛土された上に礎石が置かれていた。心礎の真下からは、長胴甕が置かれ、周囲が赤く焼かれた壺5個が出土している。この塔を建てる際に行われた地鎮・鎮檀具鎮のためのものであろうとされている。塔跡礎石は和泉砂岩製で、成形されていない不定形なままの自然石である。同じような石が付近の谷にごろごろしているため山中の自然石を礎石として用いられたようだ。遺構保護のため、遺構には盛土を行い礎石建物については元の礎石によく似た石で礎石の位置を表す方法で保存されているという。
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礎石に腰掛けて、想像力を最大限に羽ばたかせてみるが、千年前のこの山中にこんな塔が立っていたとは、なかなか想像できない。
どんな勢力が背景にいたのか。
僧侶はどんな生活を送っていたのか。
地元勢力との関係は? 
金剛院や尾瀬寺との関係は?
分からないことが多く、????が頭の中を飛び交う。
ヒントは、この塔跡と仏堂跡の配置が讃岐国分寺と相似関係にあり、国分寺勢力との関係が考えられているようだ。西国の国分寺を再興した大和西大寺の律宗の影の影響下にあったのだろうか。出土品も西播磨産の須恵器多口瓶や中国の越州青磁椀などの高級品も出土しており、平安期においてはこの地域では有力な山岳寺院であったようだ。
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そしてやって来たのがお手洗い。
なんとバイオトイレです。高い山の山小屋ではよく見るが、まんのう町で経験するのは初めて。一時的な避難所の役割も兼ねているようだ。
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ここまでは稜線上の中寺駐車場からコンクリート道が続いており、非常時には車両も入って来れる。
しかし、落葉の今は、この通り。
落葉の絨毯だ。
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手洗い場から中寺道を南へ少し歩くと「願いゾーン」への道標と看板がある。ここから急な斜面をジクザクに5分ほど下りていくと・・
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落葉の積もった説明板が見えてきた。
石積遺構は、この猪柵の向こう側のようだが・・・
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なんとか柵を乗り越えて入れた平坦地には、至る所に石積遺構が見える。古代山岳寺院では、寺域内に祭祀的な場所があったそうです。
当時は、ここから谷を隔てて、谷向かいの拝殿や塔を見渡せた。そのため寺院の一部である石塔でだとされる。
平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。民衆が大川山への参拝の折に訪れ、ここに石を積んで石塔を作り、祈った場所ということになるのだろうか。
どちらにしても、後の時代の人たちが立ち入ることなく時代を経た場所で、平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所なのかもしれない。霊力のない私には難しいが・・
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近隣の尾瀬寺廃寺の遺構よりも、山岳寺院の姿がより鮮やかにイメージできる場所だった。
なお、中寺廃寺を起源とする寺院として『琴南町誌』198には、次の寺院が紹介されている。
 浄楽寺:丸亀市垂水町
藤田山城守頼雄、天台宗に属し塩入に開く。その子西園が永禄年中(1559-)に浄土真宗に改宗。9代日正円の時に現位置に移転。塩入地区の伝承によると浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも塩入には浄楽寺の門徒が二十数件ある。
 願誓寺:丸亀市垂水町
天文年間(1532-)沙門連海が江畑に浄土真宗の庵をむすぶ。江畑 地区の伝承によると願成寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも江 畑には願成寺の門徒が十数件ある。
 永覚寺:綾歌郡綾川町東分甲
「永覚寺縁起」によると永覚寺の開基空円(大和の法蔵寺)が天禄2年(971)に大川宮の別当職をしたと伝えている。まんのう町中通に 所在したが、天正年間に火災にあい現在の土地に移る。現在でも琴南地区には永覚寺の門徒が多い。
 称名寺:まんのう町内田
大川中寺の一坊で杵野の松地にあったが造田に移ったとされる。長禄年間(1457-)に浄土真宗に改宗し 内田に移転する。琴南地区の伝 承によると 浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。
 教法寺:徳島県三好郡東みよし市足代
大平地区の伝承によると、もともと中寺にあったが、大平の庵に移り、その後現在の場所に移ったとされる。
紅葉のいい季節に登れたことに感謝しつつ山を下りた。

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