
今回は『信貴山縁起絵巻』を見ていくことにします。テキストは「 五来重 信貴山縁起絵巻の世界」です。
信貴山の由来は、次のようなものです。
聖徳太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際、寅の年・寅の日・寅の刻に天空から毘沙門天王が現れて、その加護で勝利した。そこで太子が自ら尊像を彫刻し、「信ずべき、貴ぶべき山」として信貴山と名付け、お寺を建てたのが始まりとされます。
ここからは次のようなことが読みとれます
①もともとは中世の山岳修験の道場として発展した寺院であること
②それが後世に、聖徳太子伝説が接ぎ木されたこと
②それが後世に、聖徳太子伝説が接ぎ木されたこと
②戦勝祈願が寅(とら)にちなんだ時刻で、虎を神聖な動物としてきたこと。
信貴山三像(左より善膩師童子像、毘沙門天王像、吉祥天像)
「信貴山縁起絵巻」は、1150年(久安6年)頃に作られた日本最古の絵画資料とされます。
ここには「命蓮」(みょうれん)にまつわる摩訶不思議な説話が描かれています。命蓮は山岳修験者として山にこもり、長い修行生活に入ります。延喜年間(901~923年)には本堂を改築。その後も僧房、中房などを整備していきます。実質的な創建者と推測できます。信貴山朝護孫子寺の寺宝が、国宝「信貴山縁起絵巻」全3巻です。
上巻が「飛倉の巻」(とびくらのまき)中巻が「延喜加持の巻」(えんぎかじのまき)下巻は「尼公の巻」(あまぎみのまき)。
絵巻の始まりは、命蓮聖が行力によってこの山に毘沙門天を出現させたことからスタートします。そして命蓮の飛鉢の法によって、山崎長者の米俵を入れたまま、そっくり信貴山に飛んでくる奇蹟の話です。話の冒頭部分を見ておきましょう。
やまとにしぎ(信貴)といふところに、おこ(行)なひて、さと(里)へいづることもなきひじり(聖)さぶらふなり。それこそ、いみじくたふと(尊)くしるしありて、はち(鉢)をとばせて、ゐながらよろづのありがたきことどもを、しさぶらふなれ。
意訳変換しておくと
やまとにしぎ(信貴)という所に、修行のために里に下りることがない聖(業者)がいた。彼には優れた法力があって、鉢を飛ばせて、信貴山に居ながらにして、様々な托鉢を行っていた。
信貴山(しぎさん)は聖徳太子の時代に開山されたとされますが、命蓮がやってきたころは荒れ果てて誰もおらず、毘沙門天の像が入った石櫃が転がっていただけでした。そこに山岳修行の道場として庵を建てます。そのうちに里人が「山んなかで、修行に明け暮れる坊主が住みついた」と、遊びにくるようになり、彼らのもめ事の相談や調停をしているうちに、信頼を得るようになります。数年すると「信貴山に住む仙人みたいな法師(修験者)は、すぐれた法力(験)を持っている」という噂が広まって、弟子も増え、堂宇を整っていきます。
信貴山は、山深い所にあるので里へ下りて托鉢するのが面倒だった。そこで命運は托鉢用の鉢を、法力で里まで飛ばすようになった。飛んできた鉢に、里人は米なんかを入れると、鉢が飛んで帰ってきていました。
蔵から転がり出てきた鉢(信貴山縁起絵巻 飛倉の冒頭)
板塀に囲まれ、中庭には瓦屋根の校倉の蔵が建っている富裕な館です。 多くの下女下男が働いており、裕福な地方豪族の館です。ある日、托鉢用の鉢がお布施を求めて山崎の長者の屋敷へ飛んでいきます。ところが長者は「信貴山の、なまくら坊主に施す米などない」と云って、その鉢を蔵の中に放り込んで閉じ込めてしまいます。すると、蔵が地震でもないのにグラグラと揺れだします。長者の家の者達は「なにが起こっておるんじゃぁ」いうて、大騒ぎ。しばらくして蔵の扉が開いて、中から鉢がコロッと転がり出たきました。鉢は蔵の下に潜り込んで浮びはじめます。瓦がずれ落ち軋みの音を立てます。やがて倉は宙に舞い上がり、空の彼方に飛んでいきます。 人びとの姿を見ると
①庇で供養を受けていた赤鼻の僧と小僧が立ち上がって中庭の倉を指してわめきます
②中庭では下女や雑司達が目を見張り、悲鳴を上げ、手をかざして右往左往の大混乱です。
①庇で供養を受けていた赤鼻の僧と小僧が立ち上がって中庭の倉を指してわめきます
②中庭では下女や雑司達が目を見張り、悲鳴を上げ、手をかざして右往左往の大混乱です。
飛び去る蔵を追いかける長者たち(信貴山縁起絵巻 飛倉)
長者や手下は、飛び去る蔵を追いかけようと一斉に裏木戸から飛び出します。赤子をおんぶした女から老女、老僧までも、裸足で衣のはだけるのもかまわず追いかけます。長者は馬に乗り、僧侶は揉み手をしながら追います。蔵を持ち上げて浮かんだ鉢
倉は水辺の上を越え、空の彼方へと消えていった。
倉は返せぬ。 信貴山にこういう校倉がなかったので、是非必要。ただし中の米はお返ししよう。
こうして、蔵は寄進し、米は返してもらうことになりました。しかし、山の上から千俵もの米俵をどのようにて運ぶのでしょうか。
米俵だけを返還する命蓮と、それを運ぶ飛鉢
校倉の前の前にやってきた命蓮は、従者の一人に倉から米一俵を取り出させ、金鉢に乗せさせます。すると、一俵の米を乗せた金鉢が再び空中に舞い上がります。倉の中の米俵も、それに引き続いて飛び出します。群雀の飛びたつように、雁の隊列のように 米俵の列は山々を越え、長者屋敷へ飛んでいきます。 山中の鹿もびっくりして振り向いています。遠く霞んだ彼方へと飛びり、また場面は消えていきます。フェードアウトです。そして次の場面では、長者の屋敷の蔵跡に米俵はドスドスと地響きをたてながら降り立ち、家人たちを驚かせる姿が描かれます。
山崎の長者の蔵跡に舞い戻ってきた米俵。
地面には蔵跡の礎石が直角に置かれています。鉢はきちんと蔵のあった所に米俵を戻しています。そしてあとからあとから次々と俵が飛来します。
立ち働いていた下女達は、恐怖の表情に強ばっています。庭先の瓜を摘む下女も身をすくめています。
ここには油を絞る長木と呼ばれる装置と、大きなゆで釜が描かれています。山崎商人は油売で、全国の商権を独占して裕福な富を蓄えていました。そのためこの屋敷は、近世になると山崎の油売りの長者とされるようになります。ちなみに、山崎という地名は、どこにもでてきません。ここでは近世以降にって山城国(京都府大山崎町)の長者とされるようになったことを押さえておきます。
別の視点で、このストーリを見ておきます。
飛鉢法は、千手観音の秘法です。命蓮が信仰した毘沙門天は、千手観音の同体とされていました。命蓮がこの法を使うのには、それなりの訳があったようです。ここで作者が伝えようとしたのは、何なのでしょうか?それは山岳修行者(山伏)には、飛鉢の術というものがあるということ、その秘法を会得していた命蓮は験の高い修験者であったことを伝えることにあったでしょう。
おなじような飛鉢の話が「元亨釈吉』の「越知山泰澄」伝の中にも出てくるので見ておきましょう。立ち働いていた下女達は、恐怖の表情に強ばっています。庭先の瓜を摘む下女も身をすくめています。
最初の蔵が浮かんだときの家人たちの空を仰ぎ見、 躍るかのように手足をのばして、異様な光景に驚嘆し騒ぎ合っている様子や、 千俵の米俵が空から下りてきたのを見た女房の表情などは、それまでの王朝的な様式美には見られないものだと研究者は指摘します。そして「庶民の個性」「生命力にあふれたかれらの活動」と評します。「様式美」を突き崩し、写実的表現をもって描かれているのが『信貴山縁起』というわけです。
ちなみに、ここには黒いカマドが描かれています。
油取りの長木と大きなゆで釜(信貴山縁起絵巻)ちなみに、ここには黒いカマドが描かれています。
ここには油を絞る長木と呼ばれる装置と、大きなゆで釜が描かれています。山崎商人は油売で、全国の商権を独占して裕福な富を蓄えていました。そのためこの屋敷は、近世になると山崎の油売りの長者とされるようになります。ちなみに、山崎という地名は、どこにもでてきません。ここでは近世以降にって山城国(京都府大山崎町)の長者とされるようになったことを押さえておきます。
別の視点で、このストーリを見ておきます。
飛鉢法は、千手観音の秘法です。命蓮が信仰した毘沙門天は、千手観音の同体とされていました。命蓮がこの法を使うのには、それなりの訳があったようです。ここで作者が伝えようとしたのは、何なのでしょうか?それは山岳修行者(山伏)には、飛鉢の術というものがあるということ、その秘法を会得していた命蓮は験の高い修験者であったことを伝えることにあったでしょう。
白山は古くからの霊山で、天台宗系の神仏習合が行われ、白山寺と白山宮に、僧侶と神主が共存して、明治時代の神仏分離まで宗勢を広めました。白山の開山者が泰澄で、その従者である臥行者(ふせのぎょうじゃ)にも飛鉢の話があります。臥行者は、いつも寝転がって思索に耽(ふけ)っていていました。唯一の仕事は、師の泰澄の食事の世話をすることでした。毎日、臥行者は泰澄から預かった飛鉢を空に飛ばしました。戻ってきた鉢の中には、いつも炊いた飯などが入っていました。あるとき、大量の米俵を運ぶ船が越前沖を進んでいました。臥行者は飛鉢を飛ばして供米(くまい)を乞(こ)いますが、船頭の神部淨定は、政府に納める米だからと断り、鉢を海に投げ捨てました。すると、飛鉢は越知山に飛んで帰り、船に積み上げられた米俵や櫓櫂(ろかい)も、鉢のあとを追ってつぎつぎに越知山へと飛び去ってしまいます。困った浄定は船を下りて山へのぼり、泰澄に非礼を詫びます。すると臥行者は鉢杯分だけの米をのこして、すべての米俵をもとの船まで飛ばせて返します。話の大筋は、『信貴山縁起絵巻』と同じで飛鉢の変化バージョンです。
このような沖ゆく船への飛鉢伝説は、讃岐の屋島寺にも次のように伝わっています。
このような沖ゆく船への飛鉢伝説は、讃岐の屋島寺にも次のように伝わっています。
其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請。
意訳変換しておくと
、その後、鑑眞和上は、南都(奈良)にのぼり、朝廷に参内した。屋島寺には、鑑眞の衣と鉢が残されたいた。この鉢は空に昇って、沖を漕行く船に飛下って、斎料(通行税)を求めた。
屋島の飛鉢も沖ゆく船から通行料を徴収したとあります。航路からよく見える霊山は、沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは以前にお話ししました。それが、飛鉢伝説として、語り継がれるようになったと研究者は考えています。納めなければ災いが襲うのです。後の村上水軍が海に関所を設けて、通行料を徴収していたのと同じ論理かもしれません。どちらにしても、鉢を飛ばして奉納品を集めるという術も神仙術です。
もうひとつ『古事談』(巻三)の「飛鉢、天童取之事」の話を見ておきましょう。
この話は平安時代中ごろの修験者として多くの奇蹟がつたえられる浄蔵のことです。彼は叡山で「鉢法」を身につけ、鉢を飛ばして托鉢するようになります。ところが三日間、鉢が空のままで帰ってきます。そこで四日目に山の頂きに立って、鉢の帰るのを見ていました。鉢は食物をいっぱい入れて帰ってきます。その時に、北のほうから別の鉢が飛んできて、浄蔵の鉢の物を取って飛び去っていくではありませんか。不思議なこともあるものだと、自分の鉢に追いかけさせると、北のほうへ飛んでいきます。それを追いかけて浄蔵は谷をわたり峰をわけていくと、苔むした方丈の庵にたどり着きます。庵家の中には老僧が読経していて、「どなたかの、ここはめったに人のこぬ所だが」と聞きます。そこでわけを話すと、老僧は人を喚ぶと、唐装束の天童が「はい」と言って入ってきました。老仲は「これからあんな悪戯をしてはなりませぬ」と申しわたすと、天童は赤面して立ち去りました。それから老僧はおわびのしるしに菓子を御馳走してくれました。その味は天の甘露のようであったそうです。
ここからは老仲に使える天童も飛鉢法を身につけていたことが分かります。
泰澄や老僧の話の中で、飛鉢の術を行うのは、修行者の従者(山伏:天童)であることを押さえておきます。
山伏というのはもともとは、修行者の従者として水を汲んだり、薪を拾ったり、果物を採ったりして、修行者に奉仕するものでした。空海が修行を行ったとされる室戸岬にも従者が食事の準備などを行ったと伝えられる洞窟は御蔵洞(御厨人窟:みくろど)と呼ばれています。ここに従者達は住んで主人の修行を支えたようです。従者がいなければ、修験者は何年もの山岳修行を行う事はできません。従者(山伏)が、ときどき里に下りて食物などを手に入れていたはずです。その行動は、「飛ぶように」走り、天狗のように飛ぶ超人的な脚力を身につけていたのでしょう。飛鉢の術を合理的に解釈すると、研究者は以上のように考えています。まとめておくと
①山岳修験者の修行期間は何年もの長期間におよぶものであった。
②その修行を支えるために食糧調達や料理提供などの従者(山伏)がいた。
③「飛鉢」の話は、従者(山伏)の存在を暗示する
②その修行を支えるために食糧調達や料理提供などの従者(山伏)がいた。
③「飛鉢」の話は、従者(山伏)の存在を暗示する
「字治拾遺物語』(巻12)の「清滝川聖の事」では、京都の清滝川の修行僧が、水瓶を飛ばして水を汲んでいた次のような話です。
清滝川の奥で修行していた行者は、自分ほどの験力のある山伏はおるまいと自慢していました。すると、別の水瓶が飛んできて同じように水を汲みます。自分以外に水瓶を飛ばす術を会得しているのはだれだろうかと、水瓶の後をつけていきます。すると庵と持仏堂があったのでのぞいてみました。中には80歳ほどの老僧が居睡りしています。そこでこの老僧と「験競べ」をしてみようと、「火界呪」をとなえ部屋中を火で包みます。ところが老僧は眠ったまま、故杖をとって水をまくと、たちまち火はきえます。そればかりか山伏の衣のほうに火が燃え移ります。大声で助けをもとめると、老僧は散杖で水をかけてくれたので、助かった。
ここでは飛鉢が水瓶に代わっていますが、修験者が法力で飛ばしているのは同じです。違うのは、「験競(げんくら)べ」が加わっていることですます。ここに出てくる験力とは、何なのでしょうか。
これを解く鍵を『信貴山縁起絵巻』第二巻の「延喜加持の巻」に次のように出てきます。
延喜の帝が重病になり、いろいろの御修法をおこないますが、何の験(効果)もありません。そこで信貴山の命蓮の評判をきいて、都へ呼んで帝の加持をさせようとして、勅使が信貴山へやってきます。これに対して、命蓮は自分が都へ行かなくとも「剣の護法」を遣わし、帝の御病悩を治しましょうと引き受けます。はたして三日後に帝の夢に「剣の護法」があらわれます。すると、帝の御病気は良くなって気分爽快となった。
ここに登場する「剣の護法」とは何者なのでしょうか?
①数十本の剣を蓑のように体のまわりに垂れて、②手に剣と羂索を持ち、③輪宝を輪廻しのように蹴りながら、雲の上を走つている
これが験の高い修験者が意のままにあやつり、奇蹟をおこなう護法童(使役霊)です。平安時代の陰陽師は式神とか識神を意のままに使っていますが、これも使役霊です。剣を持っているのは、病を起こす病魔を退治して、病を治すという意味と研究者は考えています。これも常人の目に見えない修験者の従者ということになります。飛鉢も、この護法童子の仕業ということになります。
山岳修行者には、つねに金剛童子がついていて、守護するという信仰はこれに由来するようです。
修行で行力が増せば、使役霊を自由自在につかうことができるようになります。これはポケットモンスターのようなものかもしれません。行場で何年も修行を行う修験者を見ていた里人も、次第にこの行者ならば自分の病気を治せるだろう、さまざまな禍を払って商売繁昌させてくれるだろうという信頼が生まれるようになります。
以上をまとめたおきます。
①修験者の法力の中には、千手観音(毘沙門天と同体)の秘法「飛鉢法」があった。
②山岳修験者の命蓮は、信貴山で修行し飛鉢法を会得し、飛鉢で托鉢を行っていた。
③同時に命蓮は、奇蹟をおこなう護法童(使役霊)を自由に操れる法力を会得していた。
④すぐれた法力をもつ修験者は、それを競い合う「験比(げんくら)べ」を行った
⑤これらの法力を身につけたものは天狗とされ、天狗を目指す天狗道が盛んになった。
中世に盛んになる天狗道の原点は、古代の修験道の中の秘法や法力に原形があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
以上をまとめたおきます。
①修験者の法力の中には、千手観音(毘沙門天と同体)の秘法「飛鉢法」があった。
②山岳修験者の命蓮は、信貴山で修行し飛鉢法を会得し、飛鉢で托鉢を行っていた。
③同時に命蓮は、奇蹟をおこなう護法童(使役霊)を自由に操れる法力を会得していた。
④すぐれた法力をもつ修験者は、それを競い合う「験比(げんくら)べ」を行った
⑤これらの法力を身につけたものは天狗とされ、天狗を目指す天狗道が盛んになった。
中世に盛んになる天狗道の原点は、古代の修験道の中の秘法や法力に原形があるようです。
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