前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)
さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。
中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂
中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。
岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。
岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。
岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。
岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。
左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)
看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)
本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる
ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」