瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:島田寺

丸亀の院主さんたちに「金毘羅神の誕生とその後」と題して、お話ししたものの2回目です。今回は、金比羅神が誰によって、どんなふうに生み出されたのかを、その時代背景から見ていくことにします。
金毘羅神の誕生

今まで今まで日本にいなかった金比羅神が、どのようにして生まれてきたかを見ていくことにします。それは、言い換えれば誰が金比羅神を創造したのかということです。その根本史料が宝物館に保存されている金比羅堂の棟札です。それを見ていくことにします。

金毘羅堂棟札(1573年)
金毘羅堂棟札(1573年:金刀比羅宮宝物館)
金毘羅で最も古い史料とされているのがこの棟札です。

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を別当金光院住職である宥雅が造営した。日付は1573年11月27日


裏は「金比羅堂を建立し、本尊が鎮座したので、法楽のための儀式を行った。その導師を高野山金剛三昧院の権大僧都法印良昌が勤めた。


 この棟札は、かつては「本社
再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」とされてきました。しかし、近世以前の資料が金比羅にないとすると、これが金比羅についての初見史料になります。この時に金比羅堂は建立されたのです。それでは宥雅とは何者なのでしょうか?

宥雅の出自 多聞院日記

金比羅の民政一般を取り仕切ったのが多聞院です。
その歴代院主が日記を残しています。その日記の中に宥雅は次のように記されています。次の4点が分かります。
①宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった
長尾大隅守高家の甥(弟?)であること
②宥雅は、長宗我部元親の侵入に際して、堺への逃走したこと
③宥雅は、その時に記録や宝物を持ち去ったこと 
④宥雅は、そのため歴代院主に含めない。つまり歴代院主として抹殺された存在だった
これ以外は宥雅については分かりませんでした。ところが
高松の無量寿院に、宥雅が残した「控訴史料」が近年見つかりました。ここでは深くは触れませんが、ここから金比羅神を産み出す際に宥雅の果たした役割が分かるようになりました。宥雅の出自である長尾氏の居館を見ておきましょう。
どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)

西長尾城と麓の居館跡とされる超勝(ちょうしょう)寺と慈泉(じせん)寺
まんのう町長尾から西長尾城(城山)を眺めたところです。この麓が長尾無頭(むとう)で、超勝寺や慈泉寺が、長尾氏の館跡とされています。この辺りには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っているので館跡というのはうなづけます。
長尾氏 居館
長尾氏居館跡
西長尾城(城山)からは丸亀平野が一望できます。晴れていると瀬戸内海も望めます。丸亀平野北部が天霧山の香川氏、南を長尾氏が勢力下にしていたと研究者は考えています。さて、宥雅が善通寺や高野山で学んでいた頃の四国をめぐる情勢を見ていくことにします。

安楽寺末寺17世紀

阿波美馬の安楽寺(真宗興正派)の末寺 吉野川沿いと讃岐に集中

以前にお話したように、1520年に阿波美馬の安楽寺は、讃岐の財田に集団亡命してきました。安楽寺は、その際に三好氏から布教活動の自由などの特権を条件に美馬へ帰国しました。以後、安楽寺は吉野川沿いの船頭達(運輸労働者=わたり衆)を中心に、川港を拠点に道場を展開していきます。そして、三好氏が讃岐への進出を本格化させると、それを追うように教線ラインを讃岐山脈の越えて、髙松平野や丸亀平野へと伸ばしていきます。そして、長尾氏や羽床氏・香西氏も三好氏の配下に入ると、土器川沿いの丸亀平野にも道場が形成されるようになります。

 それに拍車がかかるのが石山合戦のはじまりです。

石山戦争と安楽寺・西光寺
1570年に、石山本願寺と信長の間で合戦が始まります。そうすると支援物資調達のために本山からのオルグ団が阿波や讃岐にも派遣されます。そのためにも道場が組織強化され物資が調達されます。それは、宇多津西光寺による銅や米など運び込みという形で西光寺文書に残っています。西光寺から送り込まれたものは、丸亀平野の各道場から集められたものであったかもしれません。また西光寺以外にも多くの道場が支援を展開したことが考えられます。まさに門徒達にとっては「すべてを戦場へ・石山本願寺へ」という戦時体制を求められたと私は考えています。同時に、それは真宗門徒の信仰心を高揚させます。今までにない真宗門徒による活発な活動が丸亀平野でも見られたはずです。長尾氏出身の宥雅が松尾寺や金比羅堂を建立するのは、これと同時代のことになります。こうした真宗の教線伸張に危機感を抱いたのが真言系の僧侶だったのではないでしょうか。その一人が長尾家の一族・宥雅です。

宥雅は長尾氏の一門として善通寺で出家したようです。それは善通寺中興の祖=宥範の一字を持っていることからも分かります。その後は、高野山でも修学をしたようです。そして、讃岐帰国後に拠点とするのが称名寺でした。

称名寺
善通寺中興の祖・宥範の隠居寺とされる称名寺(現在の金刀比羅宮の神田の上)
 あかね幼稚園から入ると金毘羅宮の神田が開かれています。その上に称名寺はあったようです。14世紀前半に、ここを訪れた高野山の高僧は、浄土阿弥陀信仰を持つ念仏聖が住職を務めていたと記します。今は何もありません。その跡も分かりません。 ここに宥雅が住職としてやって来た時に、すでにこの上に松尾寺を建立する計画を持っていたはずです。その構想を後押ししたのが、金比羅堂の導師を勤めた良昌だと私は思っています。それを年表で見ておきましょう。

宥雅の松尾寺・金比羅堂建立
石山合戦が始まった年に、宥雅は称名寺の院主になっています。そして、真宗門徒の活動が活発化する中で、翌年には松尾寺本堂(観音堂)と三十番社、その2年後に金毘羅堂を次々と建立しています。
その導師が良昌でした。
良昌とは何者なのでしょうか?
金比羅堂導師 良昌

  先ほどの棟札をもう一度見ておきます。導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職良昌です。この寺は高野山の数多くある寺の中でも別格的な存在です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建したお寺で、将軍家の菩提寺となります。

②もうひとつの史料からは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の住職も兼務していたこと、そして、天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。導師を勤めた5年後には亡くなっています。研究者が注目するのは、法勲寺と島田寺の住職だったということです。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、古代綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、法勲寺の流れをくむ寺です。この寺で神櫛王の「悪魚退治伝説」が生まれたとされます。

島田寺と綾氏系図 悪魚退治
綾氏系図 冒頭が神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説とは、綾氏系図(讃岐藤原氏・香西・羽床・滝宮氏)の冒頭を飾るお話しです。

悪魚退治伝説の粗筋
手短に言うと景行天皇の子神櫛王が、五色台沖で暴れ回る悪魚を退治し、その業績が認められて、讃岐最初の国造となった。その子孫が古代綾氏で、中世武士団の讃岐藤原氏は、その末裔であるという伝説です。そのためにこの子孫を名乗る家には、このように冒頭に悪魚退治の話、そのあとに景行天皇に始まる系図を持つ家があります。しかし、紀記に記されるのは景行天皇の子として、神櫛王の名前が出てくるだけです。物語は古代には出てきません。それが登場するのは、中世に綾氏系図が作られた時なのです。つまり、この物語は中世になって羽床氏や香西氏などを顕彰するために、島田寺の住職が創作したものと研究者は考えています。その島田寺の住職を良昌が兼帯していたというのです。もちろん良昌は悪魚退治の話をよく知っていたはずです。当時の法勲寺は退転し、島田寺も荒廃していたようです。島田寺には、行き場をなくしたいくつも仏像が寄せ集められていたようです。
悪魚+クンピーラ=金毘羅神

魚に飲み込まれて腹を割いて出てくる神櫛王(金毘羅参詣名所図会)
宥雅と良昌とは、旧知の間柄であったのではないかとおもいます。二人の間ではこんな話がされていたのではないでしょうか?ここからは私の作ったお話しです。

宥雅

「近頃は南無阿弥陀仏ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺はどんどん信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が建立した松尾寺を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

良昌

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、わが島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」


「なるほど、新しい神を登場させるのですか。


「祟り神である悪魚を、神魚にして、そこにインドの番神を接ぎ木するというのはどうじゃ。まあ、ワニの化身とされるクンピーラあたりがいいかもしれん。それは私にまかせておきなさい」


「強力なパワーを持つ誰も知らない異国の番神を勧進するのですか。それを是非松尾寺の守護神として迎え入れたいと思います。その時には、お堂の落慶法要においでください」


「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」


悪魚を神魚に転換して、そこに異国の番神ワニ神クンピーラを接ぎ木・融合させ、これを金昆羅神として登場させたという説です。この神が祀られた金比羅堂は、現在の本社下の四段坂の登り口にありました。しかし、金比羅神の像が奉られることはなく本地仏して薬師如来が安置されていたことは前回にお話しした通りです。

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会

松尾寺の観音堂下に姿を現した金毘羅堂

金毘羅神は宥雅と良昌の合作ですから、それまでいなかった神です。まさに新たな特色ある神です。また、得体が知れないので「神仏混淆」が行われやすい神でした。それが後には、修験者からは役業者の化身とされたり、権現の化身ともされるようになります。

 これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きなセールスポイントになります。讃岐にやって来る藩主への売り込みの際の「決め手」になります。ちなみに松尾寺の観音堂の本尊も、このとき島田寺経由でもたらされた法勲寺の仏のひとつではなかったのかと考える研究者もいます。

以上で第2部修了です。ここでは次のことを押さえておきます。
①金毘羅神は近世に現れた流行神である。
②金比羅神の登場した時代には、石山合戦の時代で、真宗興正派が丸亀平野で教線を急速に拡張する時期でもあった。
③そのような中で長尾氏出身の宥雅は、新たな流行神の勧進を行おうとした。
④相談を受けた良昌は、「島田寺の悪魚伝説 + 蛮神クンピーラ = 金毘羅神」を創りだした。
⑤こうして松尾寺の守護神として金比羅神が松尾山に現れることになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献 町史ことひら 近世編
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          P1240478
牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説


参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂の本尊であった十一面観音像が迎えてくれます。

11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
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長尾城主の弟とされる宥雅(長尾高広)が松尾寺の本堂(観音堂)を、現在の本社の鎮座する場所に建立したのは1571年のことでした。当然、そこにはこの観音様が安置されていたことが考えられます。
宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

 さて、本題に入っていきます。宥雅によって観音堂が創建されたのは戦国時代末です。しかし、宝物館の十一面観音は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会 幕末)

ここからは次のような事が考えられます
A 松尾寺創建の本堂に、どこからか十一面観音が持ち込まれたこと
B その十一観音が、いつの時代からか聖観音に「改装」されたこと。
このことについて、以下のような仮説を羽床正明氏を考えています。

金刀比羅宮十一面観音の由来 仮説1

 Aについて、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で次のように述べています。
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

DSC01220
滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」という説とも矛盾しません。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説は、紙一重で生き残っていることになります。

もうひとつは十一面観音は、象頭山の麓の称名寺からやってきたという説です。

称名寺 「琴平町の山城」より
現在の金刀比羅宮の神田の上にあった称名寺
称名寺の本尊については、南海流浪記に道範は何も記していません。しかし、江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』には次のように書かれています。

「当山の内、正明称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 ここには阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

DSC05446
称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場でもあったようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。観音堂の観音様はどこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について触れておきます。

DSC05439
称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺や金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。

宥雅建立の金比羅堂の棟札
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②金比羅堂本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。

大麻山と象頭山 A
象頭山

次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような神櫛王の悪魚退治伝説が、伝えられてきました。

金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説
            神櫛王の悪魚退治伝説

 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
 その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます。

 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には、守護神として金比羅神が流行神となっていくことなど及びも付かないことでした。観音堂の本尊が十一面観音でも、正観音でも関係はなかったはずです。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。

次に、いつ・どうして十一面観音から正観音への「改装」が行われたかを見ておきましょう。

金刀比羅宮 正保年間境内図
正保年間の金毘羅大権現(松尾寺)の境内配置図

土佐軍の讃岐侵攻で宥雅は堺に亡命し、無人となった松尾寺は、長宗我部元親の配下の修験者宥厳に管理運営を任されます。この時期は土佐の修験者たちによって松尾寺が運営され、多くの院坊が形成されます。そのような中で主導権を握ったのが宥盛です。彼は強い天狗信仰をもち「死しては天狗となって金毘羅大権現を守らん」とも云ったと伝えられます。こうして宥厳・宥盛の時代に、 象頭山は松尾寺から金毘羅大権現をまつる金光院へと主導権が移っていきます。それが目に見える形で伽藍配置に現れます。
具体的には、1623年に松尾寺の本堂である観音堂が移築され、そこに金比羅堂(現本宮)が姿を見せます。こうして金光院は、松尾寺から金毘羅大権現を祀る宗教施設へと立ち位置を移していきます。
そうなると観音堂の本地仏が問題になります。金毘羅大権現の本地仏は、正観音とされていました。それまで観音堂に安置されていたのは十一面観音です。そこで、改装が行われたのではないかと私は考えています。

年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579  長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584 讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。
以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっと古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観音を宥雅に提供した
④ こうして法勲寺の十一面観音は、松尾寺観音堂の本尊として安置された
⑤ その後、天狗道を侵攻する修験者たちの拠点となった金光院は、松尾寺から金毘羅大権現に比重を移した
⑥ その結果、観音堂の本尊も十一面観音から、金毘羅大権現の本地仏とされる正観音に改装された。
最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
改訂版2025/12/06
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


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