白峰寺は、智証大師の旧跡だとされています。

 智証大師は弘法大師の甥ですが、天台の密教を始めました。
弘法大師と同じような業績、あるいは思想をもっていた人ですから、辺路修行もしたとおもわれます。讃岐には智証大師の旧跡だという伝承をもった寺として、金倉寺、道隆寺、白峯寺、根香寺があります。一応、弘法大師を立てていても、実際には智証大師がすべてやったという縁起になっています。

 白峯寺は谷を寺地にしています。
山門は非常に高いところにあって階段を下りてから本堂のあるところに上がっていきますから、水の信仰がありました。そこで、大和の室生寺あるいは高野山と同じように弘法大師が如意宝珠を埋めたので、水が湧きだすようになったという伝承が生まれます。白峯寺も弘法大師が宝珠を埋めたということをまずうたっています。

 が、のちに智証大師がこの山の山上の瑞光を見た、山の神に導かれてこの山に寺を開いたと伝えています。したがって、山の上で光が輝いたこと、あるいは火を焚いて海岸から見えるようにしたことがわかります。
 白峯寺には、もう一つ、瀬戸内海の海上に光を放つ流木があったので、それを引き上げて千手観音を刻んで本尊としたという話があります。流木を上げたという伝承の場所が、白峯寺の海の辺路のほうの霊場です。そこが奥の院といわれています。

 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。それが奥の院であることは明らかです。
 相模坊という天狗は山の神様です。
それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが一つになりました。
謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の傍らに建てられた御影堂が建立されます。
以後、白峰寺は御影堂を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。
 崇徳上皇は、没後の早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。
その結果、京都の影響を受けているものが白峰寺の周辺には次のように残ります。
①白峯寺境内と周辺に13世紀の花崗岩製で畿内的な形をした石塔が集中すること。
②白峯寺・青海神社・神谷神社などの高屋・松山郷に13~14世紀の畿内的な舞楽面や木鉾・鼓などの舞台道具が残っていること
①石塔は、西大寺に所属していた伊派の石工が地方で活動を始めるのよりも早い時期の作品です。そこには真言律宗の勧進とは異なる頓証寺=京都貴族による崇徳慰霊という成立事情が反映されていると見てよいでしょう。