瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:崇徳天皇社

 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。
    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や拝殿が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

崇徳天皇(すとくてんのう)とは - コトバンク

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 
           われても末に あわむとぞ思ふ
 この歌は「小倉百人一首」の一首で、今は渓谷の瀬が大きな岩によって分け隔てられている。しかし、引き裂かれた二人も未来には会えるときがきっと来ると歌った恋歌と言われます。この歌の作者こそが、後に大魔王と称されるようになる崇徳院なのです。
この落差はどうして生まれたのでしょうか?
 中世になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれて来ます。
仏教の悪魔的存在の魔縁も、怨霊の化した天狗と見なされるようになります。『保元物語』(鎌倉初期)によると、崇徳院は怨念の為に、経文に血で呪文を記し、生きながら天狗となったといいます。日本の怨霊を語る際に、トップバッター的な存在が崇徳上皇なのです。彼は
「日本内乱を司る荒ぶるる禍御魂」
「天下大乱を画する天狗評定の主催者」
「本邦の魔を統べる大魔王」
というキャッチフレーズで語り継がれていくことになります
E2 天狗になった天皇. - 日本の伝説 異界展
 いったい彼に何が起きたというのでしょう。
 崇徳院は、父の鳥羽上皇から疎まれ不遇の時を過ごします。というのも母は鳥羽院の皇后璋子ですが、伝説では実は崇徳院は鳥羽院の子ではなく、待賢門院と白河院との子で、そのため鳥羽院は彼を「叔父子」と呼んだとされます。
鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき
このようなことから崇徳院は、異母弟である後白河天皇との対立し、保元の乱を起こします。そして敗北し、讃岐に流されるのです。せめて、自らが写した経典だけでも都へ帰して欲しいと大乗経を都へと送るのですが、後白河方によって突き返されてしまうのです。
 それもそのはず、崇徳院は、五部大乗経を血書で写経していたのです。
 崇徳院からすれば心底からのお詫びをしめしたものだったのかもしれませんが、宮廷では恐れ怪しみます。五部大乗経の写経は絶大な功力があるとされ、本職の僧侶でさえ一部でも読破すれば、満貫の難解長大な経典といわれ、五部全て写経すれば願うこと適わざることなきとされる霊験現かなお経だったようです。
 これは何かの呪いではないかと疑われたのは当然といえば当然でしょう。
「後世のためにと書きたてまつる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益なり」
と絶望した崇徳院は髪も爪も切らず、生きながら凄まじき姿へと変貌します。そして、崇徳上皇は
「日本国の大魔縁となり、皇(すめらぎ)を取って民となし、民を皇となさん」

と、舌の先を食いちぎり、その血を以て大乗経に呪詛の誓文を記して海に沈めたたのです。
 その様子を『源平盛衰記』は
柿の御衣の煤けたるに、長頭巾を巻きて、大乗経の奥に御誓状を遊ばして、千尋の底に沈め給う。 その後は御爪をも切らせ給わず、御髪も剃らせたまわで、御姿を窶し悪念に沈み給いけるこそおそろしけれ」
と記し、『保元物語』は
「生きながら天狗の姿にならせたもうをあさましき」
と表現します。
悲劇の崇徳上皇 - さわやか易(別館)
天狗になった崇徳上皇

ちなみに、後には後白河院の病気や平清盛の死についても、崇徳院の祟りのせいだと京の人々には信じられるようになります。祟りを怖れた後白河院や平氏は、讃岐院と呼んでいた崇徳上皇に「崇徳院」の名を贈ったり、慰霊のための寺(頓証寺、後白河上皇)を建立したり、陵へ参拝するなど、崇徳院の御霊を鎮めるために様々な行為を行っています。これも菅原道真の御怨霊対策の時と同じです。
崇徳院のTwitterイラスト検索結果。
崇徳上皇

 長寛2年(1164年)崇徳院は九年の流亡の後に崩じます。
 『源平盛衰記』によればその葬儀の際に、柩から血が溢れ出し、柩が置かれた石を真赤に染めたといいます。その場所には「血の宮」の地名が残されます。朝廷側の検視を受けるため御遺体を八十場の泉に約20日間にわたって浸したともいいます。上皇の死因は軍記物語にも『白峯寺縁起』にも記されていません
これに対して「上皇暗殺説」がいつの時代からか語られるようになります。崇徳上皇の死の原因を暗殺とするものです。
まず、崇徳上皇と関連のある坂出市の松山地域の歴史を編んだ『綾・松山史』を見てみましょう。そこには次のように記されています。
「暗殺説は『讃州府誌』という書物にあり、上皇の悲運の最後を綴った数少ない史伝とし、人間的な悲劇性から生まれた庶民伝承
としています。
しかし、本当に庶民の間で伝え受け継がれてきた話なのでしょうか。
出典とする『讃州府誌』は、大正四年(1915)に刊行された史書で、暗殺場面を次のように記します。
『讃州府志』 御崩御   
院ノ御崩御ニ付テハ記スダニモ恐レ多キ事ドモナルガ、本書原本ノ記スル所二依バ長寛二年八月二十六日二條帝陰ニ讃ノ士人三木近安(保)ナル者ニ命シ戕(しょう)セシム 時ニ近安驄馬(そうば=青馬)ニ乗リ紫手綱ヲ取テ鼓ヲ襲フ 院知リ玉ヒ急ニ之ヲ避ケ路ノ傍ノ大柳樹ノ穴ニ匿レ玉フ 近安之ヲ探シ索メ執テ之ヲ害シ奉リ遂ニ崩ス 御年四十六 是ニ因テ三木姓ノ者、驄馬紫衣ノ者、白峯ヘ上ルヲ得スト云フ
暗殺については「本書原本ノ記スル所二依バ」と前書きがあります。つまり讃州府志は江戸時代の『夜話』の内容を、ほぼそのまま書き写したもので、フィルドワークなどを行って伝承を採録したものではないようです。その「原書」とは「翁のう夜話」(以下夜話)という江戸時代の延享2年(1745)に出された讃岐の地誌・史書です。これを高松松平家の伝来本で、該当箇所を読み下すと次のようになります。
長寛二年八月二十六日帝二条院陰に讃之士人三木某者に勅して讃岐院を栽せしむ。三木氏騎馬に騎りて鼓岡を襲う。讃岐院急に之を避く。その路の傍に柳樹あり。大きさ合抱にしてその後ろは朽ちて孔をなし僅かに以って身を容れるべし。廼ちその中に匿れ気をふさぎ息もせず。三木氏これを索むに甚だ務め遂に執らえてこれを害す

 讃州府誌の内容と、ほとんど変わりません。
確かに暗殺説の「原典」は夜話のようです。内容を見てみると、暗殺者の名前や日時などが非常に具体的に記述されています。上皇が逃げた先が大きな柳のむくろであったことも記されています。しかし、あまりにもリアルで具体的すぎるのです。戦記物のノリで脚色されたことがうかがえる史料です。また、その根拠とした史料も示されていません。語り伝えられてきた事とも書かれていません。仮に口承なり、伝承なりの史料が伝わっていたら『夜話』以前の史書・地誌等で触れられておかしくないのですが、それも見当たりません。
夜話を書いたのは?
 『夜話』の著者は菊池武賢で、父の増田正宅の見聞録を武賢の兄である増田休意が増補し、その記録をもとに武賢がまとめ直したものです。兄の休意が別にまとめた『三代物語』にも、これとほぼ同じ文章が載せられています。そして両書から約百年後の『全讃史』にも同じ内容が掲載されますが、その内容には全くといっていいほど差がないのです。これは「伝承」としては不自然です。
 また、菊池兄弟の著した『夜話』や『三代物語』には、それ以前の讃岐の地誌・歴史書に見られない事項が、根拠なく史実かのように記述されていることが多々あるようです。そのため崇徳上皇の暗殺話も、両書で形が整えられたと推測されます。このように「暗殺説」は、江戸時代中期の憶説で「創作」されたものと研究者は指摘します。
ところが江戸中期に創作された「暗殺説」が世間に広がる時がやってきます。
 日清日露戦争後、日本は皇国史観による忠君愛国にもとづく歴史教育が本格化する一方、王政に関係するものを顕彰するようになります。そのような中で大正2年(1913)の「名蹟名勝天然紀念物保存法」が制定されます。
 崇徳上皇の顕彰運動と讃州府誌発行や柳田碑文建立の前後を年表にしてみましょう。
大正2年 崇徳上皇750年忌祭。近隣市町村長が出席し盛大に開催
大正4年「讃州府誌」刊行 「夜話」を引用し「上皇暗殺説」を記載
大正8年 史蹟名勝天然紀念物保存法制定。崇徳上皇関連地が指定候補になる
大正8年 八十場の泉の横に県社白峰宮碑
大正9年 白峰寺参道入口に白峰宮殯殿遺蹟碑建立
大正9年 高屋神社に御棺基石碑建立
大正10年「柳田」碑建立
大正11年 昭和天皇が摂政として讃岐を訪れ、白峯陵を参拝
このように大正時代には、崇徳上皇への崇敬や顕彰の動きが高揚して行くのです。例えば、上皇の行在所は江戸末期までは、八十場の崇徳天皇社とされていました。
白峰宮(明ノ宮) (香川県坂出市西庄町 神社 / 神社・寺) - グルコミ
八十場の崇徳天皇社
しかし、崇徳上皇の顕彰運動が高まる府中村では、鼓岡神社を上皇行在所の場所として社、鳥居などを整えていきます。

「府中は讃岐国府があった雄所ある地だ。加えて「崇徳さん」が住まわれていたとなれば、恐れ多くも有難いことだ」

という願い共に「地域興し」の狙いもあったようです。
有力者も行政も支援する官民一体の運動の結果、いつの間にか「鼓岡」行在所説が世間に認知されていくようになります。そして江戸末期まで広く認識されていた「明の宮」天皇社=行在所の伝承は「変化」していくことになります。
鼓岡神社 - 香川県坂出市 - 八百万のかみのやしろ巡り
  さて、年表の最後に出てきた「柳田」碑とは何でしょうか。
この碑はJR予讃線の線路脇にあります。私が最初にこの碑と出会ったのは国府周辺を散策していたときでした。説明板がないために、最初は何の碑なのかは分かりませんでした。ネットで検索する内に坂出市の観光パンフレットに、写真入で「上皇の暗殺場所」と説明されているのに出会いました。「夜話」の中に、上皇が危険を察して逃げ出した際に柳の大木があった所で、この中に隠れていたところ見つかったとされる所です。つまり「暗殺現場」ということになるのでしょうか。それを記すために建立された碑文が「柳田」碑なのです。
  
 高揚する顕彰運動の中で、高松高等女学校教官などを務めた赤松景福は、
大正五年に次のように言っています。
(香川新報「鼓岡霊蹟顕彰誌」・「府中史蹟」)。
讃岐の史跡を語るならばまず府中村の史跡を探討すべきである。将来学生が修学旅行でここを訪れるのは学問に大いに資するところがあるが、施設がなくては益がない。まずは石標・石碑などの置き、訪問者によくわかるように便利を図ることが差し当たりのことである」

と暗殺場所への石碑設置の必要性について力説します。こうして5年後に「柳田」碑は設置されます。
 石碑などは、それが設置されるとそれにまつわる話が視覚化され、場所の固定化が進みます。そしてそれが「遺跡」と混同されてしまう恐れも出てきます。それは百年後の我々が郷土の歴史像を形作っていく際の「反面教師」にはなるかも知れませんがプラスとはなりません。石碑の設置やその後の利用に際しては充分な配慮が必要な所以です。
最後に、現在の史書は「上皇暗殺説」に対して、どのように向き合い、どんな記述をしているのかを見ておくことにしましょう。
戦後に出された『府中村史』では、暗殺については
「推測想像した話で、根本史料に出ていない」とさらりと退け、柳田という地名については「崇徳天皇が身を隠し遊ばれた大きな柳があったというので柳田と称する」

と記すのみです。『香川県史2 中世』では、

「崇徳上皇の讃岐配流についてはほとんど伝承あるいは伝説に類するものであって、正しい史実を確定するのは難しい」

として、暗殺説はもとより多くを記述していません。
 「歴史は事実に即して叙述される」のは当然です。しかし、史料がなくて史実が分からない部分については語れないことになり「空白」ばかりとなります。その結果、謎の3世紀、空白の世紀、邪馬台国の卑弥呼探しのように、いくつも「憶説」が生まれ飛び交うことになります。そして、年月が経つと「上皇暗殺説」ように伝承や伝説として安易に処理されることにもなります。

 「地域史の叙述に当たっては、空白をそのままにしておくのではなく、諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢も必要」

と研究者は振り返っています。上皇暗殺説は、江戸時代に仕込まれた種が、大正時代に無批判に取り上げられ、石碑となりました。「諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢」がなかった結果、現代にまた「再生」されつつある説なのかもしれません

参考文献 大山真充 伝説と地方研究 香川歴史学会編香川歴史紀行所収

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