瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:崇徳院御影堂

福江 西庄
坂出市史より

 白峯寺の経済的基盤は、松山荘と西庄にあったことを前回は見てきました。今回は西庄が白峰寺の寺領になるまでを追って見たいと思います。「西庄」という荘園名は、中世には出てきません。出てくるのは「北山本の新荘」で、これがいつの間にか「西庄」と呼ばれるようになりました。
 建長年間に筆写されたという「讃岐国白峯寺勤行次第」(白峯寺所蔵)には、正月修正会という法事興行のための費用料所として「西山本新庄」が充てられています。
 最初からややこしい話になりますが、これは西ノ山本新荘という意味で、より説明的に言うと「西ノ北山本ノ新荘」です。西山本ノ新荘という意味ではありません。この西ノ(北)山本郷内に、新たに設定された荘園が「(北)山本新荘」で、これが京都の崇徳院御影堂に寄進されたもののようです。

西庄の前身である「北の山本の新荘」は、いつ、どこに成立した荘園なのでしょうか?
北山本新荘の荘名は、鎌合時代後期の徳治一(1207)年2月25日の洞院公賢奏事事書に「北山本新庄預所職事」と見えるのが初見のようです。次に建武三(1336)年12月18日の光厳上皇院宣案に、「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄」と出てきます。これだけ見ると、白峰寺の御影堂の寺領のように思えます。しかし、そうではないようです。崇徳院御影堂は、京都にもあったのです。

白峯寺 御影堂の説明文
京都の崇徳院御影堂と粟田社についての記述

京都の崇徳院御影堂を見ておきましょう。
崇徳上皇が神に祀られたのは、元暦元(1184)年4月15日のことです。吉田経房の日記『吉記』(『史料大成』)同日条は、次のように記します。
崇徳院・宇治左府、仁祠を建て遷宮こと
今日、崇徳上皇・宇治左大臣、霊神に崇めんがため、仁祠を建て、遷宮有り、春日河原をもってその所となす、保元合戦の時、かの御所跡なり、当時、上西門院御領たり、今、申請せられこれを建てらる、津々材木を点じ、造営す、遷官の間儀、尋ね注すべし、院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣奉行す、社司僧官等を補せらること、神祗大副卜部兼友宿祢、社司に補せられその事に備う、また僧官を補せらる、
意訳変換しておくと
崇徳院・宇治左府(藤原頼長)の追善のために、仁祠を建て遷宮したことについて
今日、崇徳上皇・藤原頼長の慰霊のために、仁祠(崇徳院御影堂)を建て、遷宮が行われた。場所は春日河原で、保元合戦の時に戦場となった御所跡で、当時の上西門院(鳥羽上皇の第二皇女)の領地にあたるので、用地提供の申請を受けてここに建立された。院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣が建立責任者となり、社司僧官等を選任し、神祗大副卜部兼友宿祢が社司に任じられた。また僧官も置かれた。
  ここからは、保元の乱の時に戦場となった春日河原に、崇徳院と藤原頼長の追善のために社殿が建立されたことが分かります。これが京都の崇徳院御影堂です。崇徳院廟と頼長廟が東西に並んで設けられ、粟田に位置したので、「栗田廟」・「粟田宮」と呼ばれるようになります。祠官には神祗官の卜部兼友が選ばれ、僧官については、頼長の升教長の子である延暦寺の玄長が別当に、西行の子慶縁が権別当に補任されたと「源平盛衰記」にはあります。
 つまり、崇徳院御影堂は京都の春日河原にも建立され、その寺領として寄進されたのが「北山本の新荘(西庄)」ということになります。当時は、讃岐には山本荘と同名の荘園が豊田郡(石清水八幡宮領山本荘)にもありました。そこで混同を避けるために、坂出の山本荘は「北山本新荘」と呼ばれるようになったようです。「北山本新荘=山本荘」だと坂出市史は記します。
白峯寺の史料は、西庄がどのように白峰寺の寺領になったと述べているのでしょうか
 『白峯寺縁起」には、次のように記されています。
「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にて侍るなり」

つまり、文治年間(1185~90)に源頼朝が北山本新庄を白峰寺に寄進したというのです。これに対して坂出市史は次のように指摘します。
「京都の崇徳院御影堂領として荘園を本所である栗田官に頼朝が返付した事を主張したもので、史実とはやや事情が異なる。しかし、この事実を根拠にして、崇徳院御影堂の肩代わりを担った白峯寺が右の荘園支配の裏付けとすべく、鎌倉時代から寺領であったと宣言しているのである。」

ここからは「白峯寺縁起」が書かれた15世紀初頭には、白峰寺は松山荘を本荘と見なし、綾川対岸に広がる北山本新庄を西(の北山本新)庄、あるいは、松山荘の西(方にある)荘園、すなわち、 西庄と呼ぶようになっていたことがうかがえます。他人の物を、自分のものだと主張するようになっていたということです。

次に北山本新庄の広さとエリアを見ておきましょう
 現在の西庄は「坂出市西庄町」ですが、中世の西庄の荘域は現在の倍以上の広さだったようです。
西庄町

寛永十(1633)年幕府へ提出した「寛永の国絵図」の稿本とみられる「讃岐国絵図」は、3つのものが伝来しています。そのどれもが北山本新庄全域を西庄と記しています。そのエリアは「醍醐・原・天皇・江尻・福江・坂出・古御供所」を白い線で括り、肩書きに西庄と注記しています。
 また、それから30年以上経た寛文九(1669)年になっても西庄(当時の表記は西之荘)内には、福江村以外は分村されておらず西之荘村として一括して扱われています。
 その中に「古御供所」とあるのは、生駒時代に、御供所集落が丸ごと丸亀城下の三浦に強制移住させられ一時廃村化したことを記入しているようです。移住先の丸亀市三浦には、現在も御供所町の地名が残っていて、崇徳天上社(白峰宮、西庄町)への神事奉祀の伝統が続いているようです。これは、御供所が崇徳院御影堂領の北山本新庄内の一部であったことを裏付けます。
次に福江について見てみましょう
坂出の復元海岸線2

『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここには「讃岐国北山本ノ新庄福江村」とあるので、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また、その年貢として塩5石や鯛40を納めています。鯛をどうやって運んだのかは気になりますが、生きたまま運んだのではないでしょう。沙弥島周辺で捕れた鯛の内臓等を取り除いて、地元産の大量の塩で包みそのまま塩焼きにした「鯛の浜焼き」を研究者は考えているようです。塩釜焼きよりも高温の焼き塩で処理した方が、日持ちするようです。ここには福江村の半農半漁的な姿がうかがえます。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。
宝徳元(1449)年の史料には阿野郡北山本新荘の年貢輸送の福江丸に、管領細川勝元から次のような下知状が発給されています
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)が登場します。福江丸と名付けているので、福江を母港とする交易船であることがうかがえます。福江には、瀬戸内海交易に携わる交易集団がいたことが浮かび上がります。北山本新庄の年貢など以外にも様々な物産を畿内に向けてはこんでいたことが想定できます。
坂出市史に載せられた北山本新庄の俯瞰図を見てみましょう
 以前にもお話したように、古代の坂出には大束川が流れ込み、深く湾入した海に注いでいました。その河口付近にあったのが福江です。福江は、瀬戸内交易の拠点であると同時に、大束川による川津方面への川船輸送の入口でもありました。古代綾氏の大束川流域への進出拠点とも考えられています。中世には、大束川は流れを変えて宇多津方面へ流れ出るようになりますが、福江は「北山本新庄=西庄」の湊としての地位を保っていたことは先ほどの史料で見たとおりです。
福江 中世
坂出市史より

 この想像図で笠山の麓に製塩の釜屋と民家があり煙が上がっているのが福江です。福江村の上(北側)に深く入り海が湾入しその奥にも釜屋がある辺りが御供所です。そこから右(東)へ外海に面して続く砂州が続きます。旧大束川の堆積物で造られた砂州です。その上に西から順に西洲賀・中洲賀・東洲賀・鳥洲さらに入り江の対岸が江尻となります。また、沖には右に瀬居島、左に沙弥島があります。これら入り海と砂州、そして沖の二島を結ぶまでの外海すべてが北山本新庄だったと坂出市史は考えるのです。海を荘園のエリアに内包する例は、以前に三豊の柞田荘の立荘作業で見たとおりです。

 現在の坂出市西庄町は、この想像図のさらに東側の地域になりますが、「西庄」と「荘」いう小字地名が残るので「北山本新庄」に含まれていたようです。そして、新庄の中心部は「北山本新庄」の東側(現西庄町)にあったのではないかと坂出市史は推測します。

京都の崇徳院御影堂の荘園・北山本新庄が、どのようにして白峯寺の寺領になったのでしょうか?
「文治年中、号山本庄、後年分二、号本庄・新庄、本庄は八幡知行、新庄は御影堂領」

意訳変換しておくと
「文治年間(1185~1190)年には北山本新庄と呼ばれていたものを、後年に本庄と新庄の2つに分けた。本庄は(岩清水)八幡神社の知行で、新庄は(白峰)御影堂領となった。

「後年に二分し」たとあるのは、「山本郷内にある山本庄を後年に二分割し」たということです。そして、新荘は(白峰)御影堂領になったというのです。ここからは、北山本新庄の京都から白峰寺への「所有権転換」があったことがうかがえます。しかし、それがいつかは分かりません。
 
白峯寺の隆盛と地主化への道
   白峯寺の権威と名声を高めたの、もうひとつの原動力となったのが、崇徳院法楽関係文芸作品群の崇徳院御影堂(頓証寺)への奉納であることを坂出市史は指摘します。その最初の奉納物は、今は明治の廃仏毀釈の時に金刀比羅宮に移った「崇徳院御影堂同詠二首和歌」だったようです。成立年は分かりませんが、崇徳院二百年遠忌(貞治四(1365)年)の時に、細川頼之の勧進によるもの(『白峯寺調査報告書』香川県2013年)とされています。
 これに続くのが「頓証寺法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮蔵)で、応永11(1414)年4月17日に讃岐守護細川満元邸で催された和歌会の作品集です。この催しは、崇徳院遠忌250年(応永20(1413年)のことです。
頓証寺額
後小松天皇からの「頓証寺」銘の額(複製)

その翌年の12月には後小松天皇から「頓証寺」銘の額が白峰寺に届けられます。崇徳院法楽文芸作品群にしろ頓証寺額にしても、すべて白峯寺宛に届けられ、社僧等によって崇徳院の霊前に奉納されています。こうした慣行の積み重ねで、頓証寺をトップとする白峯寺の地位は格段に上昇していったようです。これは、江戸時代も続けられます。
以上から北山本新庄が白峯寺に「押領」されていく過程を想像力も交えながら小説風に記してみます。
北山本新荘の本家である京都の崇徳院御影堂は、応仁の乱以降の戦乱で荒廃します。その結果、地方の荘園を維持管理する組織や施設すらも消滅してしまい、荘主のいた京都からは何の音沙汰もなくなります。その隙を狙う在地の武士団(悪党)たちの狼藉・圧迫に歯止めがきかなくなっていきます。その先頭にいたのが白峰寺の門徒勢力です。彼らが崇徳院墓寺という金看板をバックに絶大な支配力を行使していきます。後光厳天皇綸旨案に崇徳院御影堂領北山本新庄の押領を行う「林田入道井高継以下の輩」とは、実は白峯寺と手を組んだ地元の武士団であったのかもしれません。
 白峯寺は、崇徳院山陵の墓寺の地位を確保し、次に山陵に附属して建立された崇徳院御影堂を山内に取り込んで発展していくようになります。崇徳上皇の慰霊・追善の寺という「錦の御旗」を掲げて、周辺の荘園に対する「狼藉・押領」を繰り返すようになっていったのではないでしょうか。そう考えると、「ミニ延暦寺化」した地方の有力寺院は暴力装置としての僧兵集団を持つようになるが常です。それは善通寺でも出現した板ことを見ました。院坊がいくつも並ぶ白峰寺には、僧兵もいたと私は考えています。そして白峰寺は、地元の武士団を配下に入れて、有力な軍事集団を構成していたとしておきます。そのためこの周辺には、有力寺院が白峯寺以外には見られなくなります。それは近世の象頭山金毘羅大権現が、周辺の寺社を取り潰した上に成長して行った姿と重なります。

相模坊
白峰の相模坊権現
 白峰寺の社僧達は天狗たちだったことも金毘羅大権現とよく似ています。
崇徳上皇は「天狗となって恨みをはらさん」と、言い放って亡くなります。崇徳上皇が葬られた白峰寺は、その後は相模坊に代表されるように天狗たちの住処となります。天狗とは修験=山伏たちです。白峯寺は松山荘と西庄という経済基盤を手に入れて、白峰山上には数多くの院房が建ち並ぶミニ高野山の様相を呈するようになります。つまり白峰寺は象頭山と同じ、天狗道の聖地でもあったのです。

白峯 解説文入り拡大図
白峯寺古図 中世の白峯寺には多くの堂舎が見える 

以上をまとめておくと
①北山本新庄(西庄)のエリアは、現在の西庄町よりもはるかに広いもので、綾川から聖通寺山に至るエリアであった。
②北山本新庄(西庄)は、後白河上皇が京都に建立した崇徳院御影堂に寄進されたもので「海の荘園でもあり、長い海岸線を持っていた。
③御供所や福江は、海の特産品の集積地であり加工場でもあり、出荷湊でもあった。
④福江は国料船福江丸の母港で、交易港でもあった。
⑤中世後半になると、京都の寺社の荘園は悪党の狼藉・押領に苦しめられるようになる。北山本新庄もその例に漏れず、次第に白峯寺に「押領」され乗っ取られていった。
⑥白峯寺は北山本新庄を西庄と呼ぶようになり、松山荘とならぶ経済基盤となっていった。
⑦このような経済力を背景に、白峰山上にはミニ高野山のように堂舎が立ち並ぶようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

 P1150760
崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 
白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。

白峰寺明治35年地図
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。
それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。
松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、

意訳変換しておくと
安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
 ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進
②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
  ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」

とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。
御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。
③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。
④崇徳上皇の国忌を定めること。
⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
松山津周辺
古代松山郷の海岸線復元図
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
坂出古代条里制
綾川流域の条里制遺構
そのため古代条里制跡は、松山郷の北部には見られません。中世になって海岸線が後退したあとの青海の湿原を、白峯寺は開拓領主として開発していったことが考えられます。

白峯寺古図
白峯寺古図
それを裏付けるかのように、白峯寺古図には稚児の滝の下の青海にはには深く海が入り込んでいるように描かれています。

「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納
②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである 
山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。
土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。

南海流浪記 - Google Books

 道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」

と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
坂出・宇多津の古代海岸線

  以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。

こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



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