瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:川津遺跡

稲作が行われた弥生中期の讃岐では、サヌカイト制の石包丁や石斧が使われています。
この「製品(商品)」が、どこで採石され、どのように加工され、どんなルートで流通していたのでしょうか。今回は弥生時代中期のサヌカイト制石器の加工・流通を見ていくことにします。テキストは、「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
です。  
 
金山サヌカイト露頭
3万年前から1万年前までの旧石器時代には、サヌカイト製の石器が備讃瀬戸で盛んに使われていました。それは瀬戸大橋建設に伴って、島々の頂上が多数発掘調査され、そこから大量の石器や破片が出てきたことから分かります。与島西方遺跡では約13万点,羽佐島遺跡では約35万点を数える膨大な数に及び、全体の98%近くがサヌカイトを材料にするものでした。サヌカイトの供給地のひとつが坂出市の金山です。

金山遺跡発掘

金山北麓にはいまでも大量の金山型剥片が散らばっているようです。

金山遺跡発掘風景
                 香川大学経済学部 丹羽祐一研究室
金山遺跡北1地点の発掘調査には、金山型剥片の堆積が報告されています。他の遺跡から金山型剥片が出てくるようになるのは弥生時代中期前葉になってからで、それが見られなくなるのが中期後葉です。石器から鉄への転換期になります。

石器制作工程2

石器生産工程

この時期の石器生産の特徴は、石核、そして石核から剥片の製作で石器生産が終わっていることです。

この剥片から打製石包丁が作られたと考えられますが、金山では石器成品までは生産していないことになります。搬出された剥片は、別の「加工地」で成品に仕上げられたようです。ここから研究者は次のように推測します。
①当時の金山での石器生産の中で、石材、石核は流通対象でなかった
②弥生時代中期には、金山の石器石材(サヌカイト)が特定の集団に独占・専業化されるようになったことを示す
これは、サヌカイトを産出する奈良県・二上山でも、同じような状況だったことが報告されています。二上山では石剣の生産が盛んでしたが、その素材となるサヌカイト石材、石核が搬出されることはほとんどありません。石剣は武器であり、石材はもちろん、石剣完成までの生産過程そのものが特定集団によって厳重に管理されていたと研究者は考えています。サヌカイトが当時の戦略素材のひとつだったことを押さえておきます。

金山サヌカイトの分割打撃点
                      金山産サヌカイト

金山産サヌカイトの石斧G
金山産サヌカイトの石核
金山産サヌカイトの石斧転用ハンマーG

しかし、採石場ちかくには建物跡は見つかっていません。それでは彼らの生活拠点はどこにあったのでしょうか?
 
金山サヌカイトの採石場と加工場JPG

 金山南側斜面の長者原遺跡からは、中期後葉の竪穴建物1棟が発掘されていて、これ以外にも数棟あったことが推測できます。ここが生活拠点だったようです。同時に長者原遺跡からは、金山型剥片剥離技術で作られた素材と石庖丁の完成品が出土しています。ここからは、次のような事が見えて来ます。
① 金山遺跡北1地点がサヌカイト素材の採石地
②長者原遺跡が加工生産地であり、生活拠点
 旧石器時代は、石材を手に入れると、自分たちで石器を制作し、それを自分で使う社会でした。石器を使う人達が、自分の石器を作っていたのです。ところが、弥生時代中期の金山では製品を作っていないのです。素材を提供しているのです。ここからは金山の役割は、採石と一次加工と、素材を流通ルートに載せることだったようです。それが弥生時代の中期以後には、「剥片」まで作りだすようになります。
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 それで、この剥片とは何なのでしょうか?
ここに石器の製作過程を示したものがあります。これは原石、石核、剥片、石器で、原石から石核というものを作り、石核から薄い破片を打ち剥きます。これが剥片です。この剥片の形を整えて石器にします。
剥片石器

 ところが、弥生時代の中期になると、金山でも剥片までを作るようになります。しかもその剥片が、金山独自の技術で作られます。弥生時代中頃になると、石器を作る専業集団が生まれたと研究者は考えているようです。
それでは、金山で採集されたサヌカイト素材や一次加工品・完成品は、どこに運ばれたのでしょうか?
周囲で弥生時代中期の金山サヌカイト製石器がでてくる遺跡(集落)を地図上に示したものが次の地図です。
金山製サヌカイト出土の川津遺跡集落
              金山産サヌカイト石器出土の川津・坂本集落

川津遺跡は金山西方にあり、瀬戸大橋架橋の際の坂出IC工事のために、広範囲にわたって発掘が行われ、弥生から中世にかけて連続的に大集落跡があったことが分かりました。この中の弥生中期の居住地とサヌカイトの関係を研究者は次のように記します。
①の一ノ又遺跡からは、低地に囲まれた微高地上に弥生中期中葉の竪穴建物2棟と掘立柱建物1棟とともに、多量のサヌカイト製剥片と石器が出土
②の東坂元北岡遺跡からも、中期中葉の土器と一緒に多量のサヌカイト製剥片を中心とした石器が出土
③の川津東山田遺跡からも、中期中葉とみられる土器と一緒に、サヌカイト製石庖丁などの石器が出土
④の東坂元三ノ池遺跡は、中期様式の土器とともにサヌカイト製石庖丁などが少量出土
ここからは飯野山の東山麓・大束川沿いの川津や坂本には、石工加工集団がいたことがうかがえます。これらのサヌカイトの石器工房は、金山からの素材提供を受けて

「小規模のグループが集落を形成して、板状剥片から石庖丁の完成品までの生産をおこない、他集落に搬出していた」

と研究者は考えています。川津・坂本は、サヌカイトの2次加工工房であり、流通中継地であったとしておきます。 それでは川津・坂本で再加工された石包丁や石器は、どこに運ばれたのでしょうか。
その候補地のひとつである善通寺の旧練兵場遺跡を見ていくことにします。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
                   善通寺の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡は、善通寺の「おとなとこどもの病院 + 農事試験場」の範囲で吉野ヶ里遺跡よりも広い「都市型遺跡」です。丸亀平野西部の弘田川や金倉川の扇状地に位置し湧き水が豊富なエリアです。幾筋にも分かれて流れる川筋の中の微高地に弥生時代の遺構が広がります。旧練兵場遺跡で集住化が始まるのは弥生時代中期中葉で、以後、古墳時代前期前半まで集住は続きます。その中で、もっとも集落が大規模化、密集化するのは弥生時代後期前葉です。

旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
漢書地理志野中に

「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」

とありますが、百余国のひとつが旧練兵場遺跡を中心とする「善通寺王国」だと研究者は考えています。
旧練兵場遺跡 復元図2
旧練兵場遺跡の想像図
調査報告書からは、次のように記されています。
①中期中葉~後葉にはいくつかに居住域が分かれていること、
②特に西部の一画(現病院エリア)では居住域が集中していること
③この時期の旧練兵場遺跡は通常の集落とは異なり、大規模集落であったこと
大規模集落で「都市型遺跡」でもあった旧練兵場遺跡は、吉備や北九州などから持ち込まれた土器が数多くみつかっています。これらの土器は、九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られるもので、作られた時期は、弥生時代後期前半(2世紀頃)頃のものです。

1善通寺王国 持ち込まれた土器
吉備や北九州から旧練兵場遺跡に持ち込まれた土器
旧練兵場遺跡について、「讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった特別な集落」と研究者は考えています。だとすれば金山産サヌカイトが石器や土器の「大消費地」でもあり、第2的な通センターでもあったことが予想できます。
石器製造法

旧練兵場遺跡から出土する石器の特徴は、素材はサヌカイトで、製法はすべて両極打法剥片で作られていることです。例えば、中期中葉~後葉の自然河川からはサヌカイト製の大型スクレイパーが出土しています。
旧練兵場遺跡の大型剥片
             サヌカイト製の大型スクレイパー(旧練兵場遺跡)
この大型スクレイパーは、剥離面末端に微細な剥離とはっきりと摩耗痕が残っているので、イネ科植物に対して実際に「石包丁」として使用されたことがうかがえます。これは20cmを超えるサヌカイトの大型剥が旧練兵場遺跡に「製品=商品」として持ち込まれていたことを示します。 つまり、旧練兵場遺跡は金山産サヌカイト製石庖丁などの「消費地」だったことになります。
 木材を伐採するための石斧は、旧練兵場遺跡からは3本出てきています。ところが、天霧山東麓斜面から採集された石斧は、20本を超えています。ここからは、弘田川水系エリアでは、木材の伐採や粗製材が特定の場所や集団によって、比較的まとまった場所で行われ、交換・保管されていたことがうかがえます。同時に、旧練兵場遺跡周辺は、石斧の有力な「消費地」であったことを示しています。
 イメージを広げると、弘田川河口の多度津白方には海民集団が定住し、瀬戸内海を通じての海上交易を行う。それが弘田川の川船を使って旧練兵場遺跡へ、さらにその奥の櫛梨山方面の集落やまんのう町の買田山下の集落などの周辺集落へも送られていく。つまり、周辺村落との間には、生産物や物資の補完関係があったのでしょう。

金山サヌカイトの分割打撃点

 大型スクレイパーなどは欠損後には、分割されて両極打法の石核に再利用された可能性はあります。しかし、「剥片のほとんどが両極打法剥片であること」 + 「5cm未満の石核に両極打法に伴う石核が目立つこと」から「旧練兵場遺跡は石器消費地」と研究者は考えています。旧練兵場遺跡では、サヌカイトの大型剥片を再分割して周辺集落に提供している可能性はあるものの、直接打法などを駆使して石庖丁やその素材となる剥片の生産を行って周囲に提供していた様子は見えてきません。以上からは、「旧練兵場遺跡は、サヌカイトの生産地となり得ていない」と研究者は評します。あくまで消費地だったようです。 
瀬戸内地方の弥生時代中期中葉~後葉の石器の生産、流通と集落について研究者は次のような概念図を提示します。

弥生中期の石器流通概念図

ここには次のようなことが示されています
①金山産サヌカイト製石器には、生産地のほかに加工地や流通中継地があったこと
②いろいろな集団・集落が石器の流通に関与していること
③旧練兵場遺跡など大規模集落は、特殊大型石器などの流通センターの役割を果たしていた

 弥生中期の金山産サヌカイトで作られた石器の生産・加工・流通をまとめておきます。
①金山北斜面では、弥生初期になっても活発なサヌカイトが採取された
②採取されたサヌカイトは金山南斜面の長者原遺跡に集められ、一次加工がおこなわれた。
③採取・一次加工に関わった集団は、独占的に金山での採石権を持っていた。その背後には、有力者の管理・保護がうかがえる。
④その後、金山産サヌカイトは飯野山東麓の川津や坂本の小集落に運ばれ、2次加工が行われた。
⑤川津・坂本で再加工され製品となった石器は、周辺に提供されると同時に瀬戸内海交易ルートに乗って各地に提供された。
⑥同時に、丸亀平野の善通寺王国(旧練兵場遺跡)の交易センターにも提供された。
⑦流通における専業集団の存在が、金山産サヌカイト製石器・石材分布の広域性の要因と研究者は考えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「乗松真也 石器の生産と流通にかかわる集落 愛媛県埋蔵文化財センター紀要 2023年」
「丹羽祐一 サヌカイト原産地香川県金山調査と広域流通の検討」
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DSC08058
土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
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讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


   
丸亀平野や髙松平野の高速道路やバイパスの事前発掘調査では、「溝」が数多く出ていることを前回は見ました。「溝」からは、条里制が7世紀末~8世紀初頭に工事が行われたことが分かってきました。今回は、条里制に先立つ弥生時代の「大溝」を見てみることにします。テキストは、「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」です。

弥生時代 林・坊遺跡 灌漑水路
弥生時代前期初頭の灌漑水路網   高松市の林・坊城遺跡の場合

高松市の林・坊城遺跡では、弥生時代前期初頭(板付Ⅰ式併行期)の灌漑水路網が発掘されています。
南西部を流れる幹線的水路の10・11号溝に堰が作られ、小規模な分水路の25号溝が北西の水田エリアに伸びていきます。10・11号溝は、幅約1,5m前後、深さ約0,3~0,5mで、分水点には自然礫を積んで簡易な堰が作られています。取水源は、遺跡南方の旧河道と見られますがよく分かりません。これが、この遺跡でもっとも古い灌漑水路網になるようです。10・11号溝は、水田稲作の開始期のもので、小規模で改修痕跡もなく、短期間で破棄されています。何かの理由で、耕地が放棄され別の地点に移動しようです。ここからは、初期の稲作は水田も不安定で、「定住」というよりも移動を繰り返していたことがうかがえます。

弥生時代 多肥遺跡 灌漑水路
弥生時代中期の灌漑水路網(図2)   高松市の多肥遺跡群

多肥遺跡群(高松市)では、弥生時代中期中葉までに掘られた基幹的な灌漑用水路が出てきています。
そのひとつが日暮松林遺跡(済世会地区)SDl等です。用水路は幅約4,2m・深さ約1mで、上流側の多肥宮尻遺跡SR02では、埋没旧河道の凹地に開削されています。微高地に導水され、日暮松林遺跡では微高地上面を通過して行く大掛かりなものです。その途中に、支線と見られる複数の小溝が分岐しています。加えて、南西方向から延びる別の灌漑水路(日暮松林フィットネスクラブ建設地区SD01ほか)と合流し、広範囲な灌漑水路網を形成します。
 また、開かれた後も浚渫などの維持管理による改修痕跡が確認できるようです。時期的には、弥生時代中期中葉までに開削された後、古墳時代後期まで機能していたと研究者は考えています。
 水田があった所は、溝の流下方向から見て微髙地上面だったと推測できます。調査で確認された総延長は約500mですが、取水源は更にその南側にあり、実際の灌漑水路の延長距離は約2kmはあったと研究者は考えています。以上から次のようなことが分かります。
①2㎞上流から灌漑用水による導水で微髙地も水田化が行われていたこと、
②定期的な管理が行われ長期間によって使用されていること
③この時代には稲作農耕が安定化したこと
これは弥生時代早期の用水路が短期間で廃棄されていたのとは対照的です。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡群の灌漑水路網(弥生時代後期)


弥生時代後期の灌漑水路網(上図) の例としては、坂出市の川津遺跡が挙げられます
 川津二代取遺跡、川津下樋遺跡からは復数の水路網が見つかっています。SD001は①旧河道(SR 101)が取水地で、微髙地にある川津中塚遺跡や下川津遺跡の中を貫通していきます。その間に、SR 1 03、SD57、SD30などの溝と合流し、複数の小溝で分水しながら下川津遺跡の第4微高地西側へ導水されています。最終的には。第3低地帯と呼ばれる凹地上にあった水田へつながっていたようで、総延長は約500mになります。
 途中に支線的な水路と見られる小溝が分岐しているので、下川津遺跡の第3低地帯の水田だけに用水を供給していたのではなく、微高地上面やその縁辺部にあった水田にも灌漑していたようです。遺物の出上状況からは、この用水路が弥生時代後期後半から古墳時代後期に埋没するまでの長期間に渡って機能していたことが分かります。
以上から次のようなことが分かります。
①取水口から2㎞近く離れた水田まで、微髙地を越えて導水されていたこと、
②その間にも小溝を分岐して、用水沿いの水田に供給したこと
③弥生時代中期には、灌漑用水網が丸亀・髙松平野には姿を見せていたこと。
③前回見たように、このような灌漑用水網の技術は技術革新がないまま条里制施行(7世紀末)まで使用されていること
⑤さらに大きな溝(用水路)が掘られる技術革新が行われたのは平安末期であること

ここで問題になるのが取水源です。
多肥遺跡群や川津遺跡群は、灌漑水路は沖積低地上を流れる旧河道を取水源としていたようです。取水限となる旧河道は、そこに作られる井堰の構造等などから川幅数mから20m、深さ1~2m程度の中規模の川が、弥生時代の一般的な取水源とされてきました。しかし、近年の発掘調査からは、より規模の大きい河川からの取水が行われていた可能性がでてきたようです。それを見ておきましょう。

弥生時代 末則遺跡
末則遺跡(綾川町)
末則遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主であったのだろうと私は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図
現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。綾川の「神水」地区の対岸(綾川町羽床上字田中浦)に「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設です。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる川石を50cmほど積み上げて、その間に野草を詰めた簡単なものです。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なるとこのようなものを造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で、中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたという説です。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。同時に馬の生産も行っていたことが考えられます。

中規模河川からの取水に加えて、補助的な水源を活用する事例も見られます。

弥生時代 空港跡地1
空港跡地遺跡群の灌漑用水網 その1

扇状地に立地する空港跡地遺跡群では、弥生時代中期から灌漑水路網が現れます。その中で基幹的灌漑水路と見られるのは、次のふたつです。
①基幹的灌漑水路A 上林遺跡から空港跡地遺跡I地区へ流れ下すSRi01・SRi02
②基幹的灌漑水路B 空港跡地遺跡D地区からE地区へ流下するSDd00・SDe115、SDe138。
微高地にある住居群が散在するH地区からG地区、A地区からG地区へ抜けるSDh016、SDg86、SDg42、SDg17などは、基幹的滞漑水路Aから分岐する支線的な灌漑水路群と考えられます。更に支線的な灌漑水路のSDh016、SDg03には、井戸状に掘開された大型土坑に、通水のための小溝を付設した「出水」と呼ばれる補助的な灌漑施設が複数設けられています。 SDh016、SDg03が流下する地点は微高地上で、水が流れにくい所なので、灌漑水路に補助的な水源を複数組み合わせていると研究者は考えています。

  ここから研究者の見解が私にとっては興味深いものでした。
 これまで灌漑システムの発展については、遺跡立地の変化や遺跡数の増加を材料として、農業生産の拡大や人口増加が起こるという説明がされてきました。これが「治水灌漑を制するものが、天下を制する」説になっていきます。
弥生時代 遺跡数

例えば上のグラフからは、弥生時代後期V頃に遺跡総数が激増していることが見えます。従来は、灌漑整備による生産力増大が社会的発展をもたらし、次の古墳の出現を生み出す原動力となるという説明がされていました。社会経済史を基礎に、社会発展を説く説明です。
 しかし、実線で示された住居数は見ると、あまり増えていません。つまり人口は、それほどの増加はなかったことになります。ここから遺跡総数の増加は、人口の増加をもたらしたものではなく、当時の灌漑水路網の再整備や拡充を反映しているだけであると研究者は捉えます。国家形成の「原材料」は「治水灌漑」だけでは捉えられないというのです。
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灌漑農業と国家権力の発生について、最近の研究史を見ておきましょう。
 ヴィットフォーグルは、灌漑作業の協業化によって、「労働力の組織化」を行うリーダが現れ、社会の階層化が起こり、これが国家形成要因のひとつとなるとしました。ここからは灌漑農業の発展は、統一的な政治権力の形成など社会の階層化につながるとされ、古代の国家形成を捉えるひとつの視点を示しました。分かりやすい説明で取っつきやすいのですが「単線的なモデル」で、融通性がなく地域差の多い日本の古代を説明するには無理があるとされ、現在では否定的な意見が多いようです。
 これに対して近藤義郎氏は、灌漑農業の発展に伴う余剰生産物の発生を通じて、単位集団と生産集団との階級間の衝突が調停者としての首長の出現を求めます。そこから社会の階層化を説明します。
 都出比呂志氏は、耕地開発や水利灌漑に伴う協業の基礎的単位である世帯共同体と、水系単位でそれが結合した農業共同体を想定します。その領域と前期古墳首長墓の分布が重複することから、首長権力の発生の基盤を農業共同体に求めました。
 広瀬和雄氏は、耕地開発や水利権の調整などを素材として、灌漑水田そのものが首長を生み出す構造を持っていたとします。そして、水田稲作を開始した弥生時代の初期の段階から社会の階層化が始まったと考えます。また、首長の統率する領域を、都出氏の農業共同体よりも小規模エリアとします。こうした首長は、自給できない貴重物資の入手や耕地開発を通じて、他の首長とネットワークを形成していくとします。この首長間のネットワークは、弥生後期から古墳前期により「高度化」していきますが、その関係は近畿を中心にして最初から階層的であったことと指摘します。
 大久保徹也氏は、灌漑水路と微地形との関係から、灌漑による協業によって結ばれる共同体のエリアを広瀬と同じく小規模なものとします。そして弥生時代に見られる様々な物資流通に注目し、共同体間の結び付きについて灌漑作業以外に必需物資の生産と流通を重視します。
 押さえておきたいのは、現在の研究者たちは「治水灌漑=国家権力発生」と単純に考えていないことです。国家権力の形成には、それ以外にも、「首長間のネットワーク + 必需物資の流通確保 + α」などの要素も加味する必要がある考えていることです。それでは、弥生時代の灌漑水路網にもう一度帰って、その整備の意味を研究者はどう考えているのかを見ておきましょう。

本当に灌漑水路網は、弥生時代後期になって急激に整備されたのでしょうか。
 弥生時代後期には、基幹的灌漑水路を中心に多くの灌漑水路が開削されたことが発掘調査からは分かっています。しかし、弥生時代後期の基幹的灌漑水路の多くは、新たな地点に開削されるのでなく、埋没などの老朽化が進んだ灌漑水路に近接して見られることが多いようです。つまり、灌漑網の基本的なプランは、弥生時代前期に完成され、弥生時代後期になって基幹的灌漑水路を再整備することや、支線となる小規模な水路が多く作ることで、灌漑域の拡大が行われたと研究者は考えています。
.基幹的灌漑水路と他の生産部門との関係

弥生時代 灌漑用水網と流通関係図

基礎的灌漑水路の多くは、初期遠賀川式上器出現後の弥生時代前期後半期から開削され始めます。
Koji on Twitter:  "石斧をつくる。凝灰岩製一部磨製石斧、伐木用(上)。凝灰岩製打製石斧、戦闘用(中)。黒曜石製一部磨製石斧、試験用(下)。  https://t.co/PdYzYxlitE https://t.co/xVjwgjVA3B https://t.co/3B821Pff5I" /  Twitter

この時期は、鋤・鍬などの木製農具が増加するとともに、片岩製の両刃石斧・片刃石斧・石庖、サヌカイト製打製石包丁の流通が始まります。木製農具は、灌漑水路の開削や水田稲作に不可欠な道具で、両刃石斧・片刃石斧は、木製農具の加工に使用されたようです。また、伐採用の両刃石斧は、水田を開くための伐採など耕地開発にはなくてはなりません。
石斧プロジェクト:沖縄生物俱楽部/旧棟

 多肥松林遺跡群を初めとして基幹的灌漑水路が開削される弥生時代中期中葉には、丘陵やそれに隣接する遺跡群から磨製石斧を多く保有する集落が出てきます。このような集落では、弥生時代前期後半期の環濠集落を中心に、立地を活かして木製品生産に傾斜した生業が行われたと研究者は考えています。
 弥生時代後期は、基幹的濯漑水路や支線的な灌漑水路が多く掘られて、灌漑水路網の再整備と灌漑エリアの拡大が行われた時期です。
この時期は、土器・鉄器・製塩などの物資流通に変化があったと研究者は考えています。
 例えば土器生産では、灌漑水路網で結ばれる2~3㎞程度のエリアで流通する香東川下流域産と呼ばれる特徴的な土器器群が現れます。この香東川下流域産土器は、高松平野の北東部の集落で専門的に生産されたものです。一方、近接する空港跡地遺跡群では、「白色系土器群」と呼ばれる土器群が周辺の集落で流通しています。ここからは、それぞれの土器を生産する拠点を中心に、生産・流通活動が活発化していることうかがえます。
川津遺跡群(坂出市)などの特定の遺跡群で、鍛冶遺構が出てきます。これは川津遺跡群を中心とした大束川流域単位での鉄の生産・流通が開始されたことを示します。製塩では、高松平野の東部丘陵の遺跡群を中心に、生産体制が整備されます。
 一方で木器生産では、後期初頭を境にして木製品が急激に減少します。これは、鉄に取って代わられたのではなく、周辺の丘陵や山間部で集中的な生産が行われ、地域分業が始まったことを示すと研究者は考えています。
 このように弥生時代後期になると、複数の生産部門で特定の集落群を中心に分掌関係が成立したことがうかがえます。それに合わせる形で、灌漑水路網の整備・拡張が行われています。両者は、無関係ではないようです。灌漑水路網の整備・拡充と、農業生産を支える必需物資はリンクして拡大再生産されます。
以上をまとめておくと
①弥生時代後期の大溝を中心にした灌漑システムは、古墳時代後期まで維持される。
②その間に古墳築造が開始される。
③それは単に灌漑システムの発展だけでなく、さまざまな必需物資の生産と流通を分掌化(分業化?)が行われた上での古墳の出現だった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」
 「西末則遺跡  農業試験場移転に伴う埋蔵文化財調査報告 2002年」

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