瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:布勢海

  
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
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東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

前回は高野空海行状図画には、高野山開山のことがどのように描かれているのかを見ました。ただ絵伝類について研究者はつぎのように指摘します。

絵伝はその性格上、大師の行状事蹟を史実にもとづいて忠実に描写してゆくことを主眼としているのではなく、大師の偉大なる宗教性を強調し、民衆を教化してめこうとするところに、その目的がある。そのためにこれらの本は、至る所に霊験奇瑞が取り入れられているのが常である。
          「弘法大師 空海全集」第8巻 167P


行状図画などの絵巻物は、中世になって作られたもので、弘法大師伝説や高野山信仰を広めるために高野聖が絵解きのために使用されました。そのため後世に附会されたり、創作された部分が数多くあります。今回は、絵巻の作成の際に参考にした空海が残した文書に高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
まず、「高野山開創」の時期を年表化しておきます。
806(大同元)年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位。
  10月、空海帰国し、大宰府・観世音寺に滞在。
10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
809(大同4)年 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に移動・滞在
 7月 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
 空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。
810(大同5)年 薬子の変で、嵯峨天皇のために鎮護国家のための大祈祷実施
811(弘仁2)年から翌年にかけて乙訓寺の別当を務めた。
812(弘仁3)年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者には最澄もいた。  
12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名
815(弘仁6)年春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼。西国筑紫へも勧進をおこなった。
816(弘仁7)年6月19日、修禅道場として高野山下賜の上表文提出
                             7月8日、嵯峨天皇より高野山下賜の旨勅許を賜る。
817(弘仁8)年 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手
818(弘仁9)年11月、空海自身が高野山に登り翌年まで滞在し伽藍建造プラン作成?
819(弘仁10)年春、七里四方に結界を結び、高野山の伽藍建立に着手。
821(弘仁12)年 満濃池改修を指揮(?)
822(弘仁13)年 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。平城上皇に潅頂を授けた。
823(弘仁14)年正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
824(天長元)年2月、勅により神泉苑で雨乞祈雨法を修した。
         3月 少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)
空海は唐から帰朝した十年後の弘仁7(816)6月19日付に、嵯峨天皇に高野山の下賜を申し出ます。ここから高野山の歴史は始まるとされます。この願いはただちに聞き届けられ、7月8日、天皇は紀伊国司に太政官符を下し、大師の願い通りにするよう命じています。

空海が高野山の下賜を、嵯峨天皇に申し出た理由として、次の3つの説があるようです。
①空海が少年のころ、好んで山林修行をされていたとき、訪れたことがある旧知の山であり、そのころからすでにこの地に着目していたとする説
②十大弟子のひとりである円明の父・良豊田丸(よしのとよたまる)が、空海が伽藍建設にふさわしい土地を探し求めていることを聞き、高野山を進言したとする説。
③弘仁7(816)年4月、伽藍建立の地を探し求めていたとき、大和国宇智郡でひとりの猟師(犬飼)に出逢い、この犬飼に導かれて高野山にいたり、この地を譲られたとする説。

この3つの説の従来の評価は、次の通りです。
①が史料的にもっとも信憑性の高い説
②は史料的には必ずしも信頼できない説
③は伝説の域をでない説
以上を押さえた上で、空海の残した文章で、高野山の開創を見ていくことにします。
まず、 弘仁7年(816)6月19日付の空海の上表文の全文を押さえておきます。

空海上表文 高野山下賜

高野山下賜を願う空海上表文
紀伊の国伊都の郡高野の峰において、人定の所を請け乞わるるの表
A 沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤し、水積るときは魚龍産化す。是の故に嗜闍(ぎじゃ)の峻嶺には能仁(のうにん)の跡休ず。孤岸の奇峰には観世の跡相続ぐ。共の所由を尋ぬるに、地勢自ら爾なり。また台嶺の五寺には禅客肩を比べ、天山の一院には定侶袖を連ること有り。是れ則ち、国の宝、民の梁(はし)なり,
B 伏して推れば、我が朝歴代の皇帝、心を佛法に留めたまへり。金刹銀台櫛のごとく朝野に比び、義を談ずるの龍象、寺ごとに林を成す。法の興隆是において足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客乏しく、幽藪窮巌(ゆうそうきゅうがん)に入定の賓希(まれ)なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せざるが致す所なり。今禅経(密教)の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
C 空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野従り南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地有り。名付けて高野と曰ふ。計るに紀伊の国伊都郡の南に当れり。四面高峯にして人跡路耐えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を刈り夷(たいら)げて、聊か修禅の一院を建立せん。経の中に戒有り。「山河地水は悉く是れ国主の有なり、若し此丘、他の許さざる物を受用すれば、即ち盗罪を犯す」者(てへり)。加以(しかのみなら)ず、法の興廃は悉く人心に繋れり。若しは大、若しは小、敢えて自由ならず。
D 望みみ請うらくは、彼の空地を賜わることを蒙って、早く小願を遂げん。然れば則ち、四時に勤念して以て雨露の施を答したてまつらん。若し天恩允許せば、請う、所司に宣付したまへ。軽しく震展を塵して伏して深く煉越す。沙門空海、誠惇誠恐、謹んで言す。
弘仁七年六月卜九日 沙門空海上表す       (『定本全集』第八 169~171P
意訳変換しておくと
 紀伊の伊都郡高野の峰の下賜を請願書

A 私・空海は次のように聞いている。山が高いと雲集ま り、雨多くして草木を潤す。水が深いと魚龍集まり住 み、繁殖も盛んである。このように峻嶺たる嗜闊堀山に は、釈迦牟尼が出てその教えが継承され、奇峯たる補陀洛山には、観世音菩薩が追従されている。それはつまり高山峻嶺の地勢が、仏道修行者に好適地であるためである。また台嶺の五寺には、禅客が肩を並べて修行し、天山の一院には、優れた僧侶が袖を連ねています。これは、国の宝であり、民の柱です。
B 還りみると、歴代の天皇は佛法を保護し、壮麗なる伽藍や僧坊は櫛のはのごとくに、至るところにたちならび、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(じゅ)をなしています。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾におもえることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定にはいるものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法がいまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものです。いま禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
C 空海、若年のころに好んで山水をわたり歩きました。吉野の山より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること二日ほどのところに、高野と呼ばれている平原の閑寂なる土地がございます。この地は、紀伊の国伊都の郡の南にあたります。四方の峰高く、人跡なく、小道とて絶えてございません。いま、上(かみ)は国家のおんために、下(しも)は多くの修行者のために、この生い茂る原生林を刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立いたしたく存じます。
 経典の中に次のような戒めがあります。「山河地水は、総て国主(天皇)のものである。もし、国守の許さない土地を無断で受用すれば、即ち盗罪である。法の興廃は、人心の盛衰に繋がります。貴賤に関わらず、法を遵守することが大切です。
D 高野の地を下賜され、一刻も早く小願が遂げられること望み願います。そうすれば、昼夜四時につとめて、聖帝の慈恩にむくいたてまつります。もし恩顧をたれてお許したまえば、所司にその旨を宣付したまわらんことを請いたてまつります。軽軽しく聖帝の玉眼をけがし、まことに恐れ多く存じます。沙門空海誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言上いたします。        弘仁7年(816)6月19日 沙門空海表をたてまつる
この文章は空海が嵯峨天皇に宛てた上表文で、根本史料になります。後世の高野空海行状図画などの詞書は、この上表文を読み込んだ上で、これをベースにして書かれています。そして、後世になるほど付加される物語が増えていきます。
上表文の中で、空海が高野山のことを書いているのは、次の点です。
①若い頃に山岳修行で、高野山も修行ゲレンデとしてよく知っていた。
②位置は、古野から南へ一日、そこから西に向って三日の行程でたどりつける
③地理的環境は、まわりを高い峰々にかこまれ、まれにしか人の訪れることのない幽玄閑寂な沢地であること
④紀伊国伊都郡の南に位置していること

高野山4


ここで疑問に思うのは、どうして都から逮くはなれた不便な山中に、伽藍を建立しようとしたのかという点です。高野山開創の目的を、空海はDに「一つの小願を成し遂げるため」として、次のように記します。

私のお願いしたいことは、彼の空地(高野の地)を賜りまして、上は国家鎮護を祈念するための道場としての、下は多くの仏道修行者が修行するための道場としての、小さな修禅の密教の寺を建立して、早く小願を成し遂げたいことであります。



空海小願を発す。

 それでは「高野山開創」の小願を、空海は、いつ・どこで立てたのでしょうか?
それが分かるのは、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙です。主殿寮とは、天皇の行幸の際の乗物・笠・雨笠など一切の設営管理を担当する役所であり、布勢海はそこの次官でした。その手紙の全文を見ておきましょう。

A 此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。

B 貧道、少年の日、修渉の次に、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原有り。名づけて高野と曰う、計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高山にして人亦遙に絶えたり。彼の地、修禅の院を置くに宜し。今思わく、本誓を遂げんが為に、聊か一の草堂を造って、禅法を学習する弟子等をして、法に依って修行せしめん。但恐るるは、山河土地は国主の有なり。もし天許を蒙らずんば、本戒に違犯せんことを。伏して乞う。斯の望みを以聞して、彼の空地を賜うことを蒙らん。若し天恩允許せば、一の官符を紀伊国司に賜わらんことを欲す。
委曲は表中に在り。謹んで状を奉る。不具。沙門空海状す。
布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P
意訳変換しておくと

A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。次第に温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

B 私・空海は、若いときに山林修行を行いました。その際に、吉野山から南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原があることを知りました。この地は高野と呼ばれています。行政的には紀伊国伊都郡の南で、四方が高山で人跡絶えた処です。この地が、修禅の院(寺院)を置くに相応しいと考えています。今考えていることは、本願を遂げるために、小さな草堂を造って、禅法(密教)を学習する弟子等を育て、法に依って修行させたいと思います。しかし、私が恐れるのは、我が国の山河土地は、すべて国主たる天皇のものです。もし、天皇の許しを得ずして無断で、寺院を建立したとなれば、それは国法に違犯することになります。そこで、私の望みを以聞(天皇に伝えて)、彼の空地(高野山)を賜うことを取り計らって欲しいのです。もし、それが許されるのなら、官符を紀伊国司に下していただきたい。詳しくは別添の上表文に書いています。謹んで状を奉る。不具。
沙門空海状す。布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P

この手紙には、日付がありません。しかし、後半部は、先ほど見た上表文と同じ内容の文章があります。ここからは、高野山の下賜を願い出るに当たって、天皇側近の布勢海に、側面からの助力を依頼した私信と研究者は考えています。空海には、天皇側近中にも多くの支援信者たちがいたようです。
 このなか、船上で立てられた「小願」とは、Aの次の箇所です。

もし無事に帰国できたなら、諸々の天神地祇の成光を増益し、鎮護国家と人々の幸福を祈らんがために密教寺院を建て、密教の教えにもとづいた修禅観法を行いたい。願はくは善神われを護りたまい、早く本国に達せしめよ。

その結果、神々の加護をうけて無事帰国することができたのです。帰国後、月日はまたたく間に過ぎ去り、12年が過ぎ去ろうとしています。このときの小願をそのまま放置しておけば、神々をだますことになるので、一日も早く、神々との約束を成し遂げたいと、布勢海に切なる願いを伝えたのでしょう。
こうして、7月8日付で紀伊国司にあてて出された太政官符が以下の内容です。

紀伊国国司への太政官符 高野山
紀伊国司に下された太政官符 空海への下賜が命じられている

それでは、どうして高野山が選ばれたのでしょうか? 
その理由を空海は、上表文の中に次のように記しています。

今、禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宣し。

この時点では、空海は自らの教説を「密教」とは呼んでいません。「密教」という用語が登場する以前の段階です。ここでは「禅経」としています。禅経とは、『大日経』『企剛頂経』をはじめとする密教経論のことのようです。そうすると、密教経論には、密教の修行にもつともふさわしい場所が具体的に記されていることになります。それを確認しておきましょう。
金剛知の口訳『金剛頂喩伽中略出念誦経』巻 には、次のように記します。

諸山は花果を具するもの、清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所、或は寺内に在し、或は阿蘭若、或は山泉の間に於て、或は寂静廻虎、浄洗浴庭、諸難を離るる処、諸の音声を離る処,或いは、意所楽の処、彼に於いて応に念涌すべし。     (『大正蔵経』十八 224P(中段)

最後に「彼に於いて応に念謡すべし」とあり、次のような場所が密教修行には相応しい場所とされています。
①「諸山は花果を具するもの」とは、花が咲き、実を付ける木々が数多くある山
②「清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所」とは、清らかな水が湧き流れていて、そこに足を運ぶと、おのずからこころが楽しくなるような池・沼・川
③「阿蘭若」は争いのないところで、具体的には寺のこと
④「諸難を離るる庭」とは、毒蛇とか毒虫などによって修行が妨げられない所、
⑤「諸の音声を離る処」とは、耳障りな音声・ざわざわした雑踏の音がしないないところ
以上からは、高野山が修禅の道場の建立地として選ばれた理由は、「修禅観法(密教の修行)の地としてもっともふさわしいのは、深山幽谷の平地である」と説く金剛知の『略出念誦経』などの密教経典の教説に従ったと研究者は考えています。

別の視点から見ると、当時のわが国の仏教界に対する批判の裏返しでもあったようです。
上表文の前半部には、次のような部分がありました。

インドの霊鷲山の峻嶺にはお釈迦さまが垂迹されるという奇瑞が次つぎにおこり、補陀洛山には観音善薩応現の霊跡が相ついであらわれている。その理由をたずねると、高山峻嶺の地勢の故であるという。また唐では、五台山・天台山といった山岳に寺院が建てられ、そこには禅観を修する者が多く、それらの修禅者は国の宝、民の梁(国人々の大きな文え)となっている、

これらの霊山に高野山が地に優るとも劣らない霊的にすぐれた聖地であることを主張します。

その一方で、わが国に目を転じてみると、歴代の天皇は仏教を崇拝し、壮麗な寺院が数多く建て、そこには高徳の僧がたくさんいる。仏法の興隆ということからすれば、これでに充分だが、残念なことは、高山峻嶺に人って禅観(密教)を修する人が極めて少ない。それは、修禅観法を説く経典が伝わつておらず、また修禅にふさわしい場所もないからである。

と、わが国の現状を批判します。この批判の背後には、天台・律・三論・法相の諸宗に対する密教の優位性と、正統な密教を請来してきたという空海の自負がうかがえます。
以上をまとめておきます。
①高野山は、帰朝の際に嵐にあって漂流する船上で、無事帰国を願って密教寺院建立の小願を立てた。
②その建立目的は、一つには鎮護国家と人々の幸福で平安な生活を祈念するための道場として
③もう一つの目的としては、諸々の修行者の修禅の道場とするためであった。
④小願達成のために帰国から十年経った時点で、天皇側近で空海シンパの高官を通じて、嵯峨天皇に上表文を提出した。
⑤密教寺院の立地条件としては、金剛知が説くように高山・霊山が第一条件とされ、その結果、空海が若い頃の修行ゲレンデでもあった高野山が選ばれた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


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