瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:幕府巡見使

幕府巡見使を髙松藩の村々の庄屋たちがどのように準備して迎え入れたのかを、以前に見ました。今回は宇多津を中心とする鵜足郡の庄屋たちの受入準備を、まんのう町(旧琴南町)に残された庄屋文書(西村文書)から見ていくことにします。テキストは「大林英雄 巡見使の来讃 琴南町誌225P」です。

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琴南町誌
最後の巡見使となった1838(天保九)年の巡見使の行程を見ておきましょう。
4月5日に大坂を出帆
4月19日に豊前に着き、豊前と豊後を巡見、
閏4月12日に伊予へ入り、土佐・阿波を巡見
6月上旬に讃岐に入り、讃岐を巡見して大坂に帰る
7月に江戸に帰り帰着報告 その後下旬に報告書提出
全行程86日間の長旅でした。
巡見使3名一行の内訳は、次の通りです。
知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
巡見使構成表天保
天保の巡見使構成表

以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計一四人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。
巡見使来讃を藩から告げられた鵜足郡の大庄屋は、次の2名を責任者として指名しています。
会計担当 西川津村の庄屋高木左右衛門
引纏役  造田村の庄屋西村市大夫
二人は、大庄屋の十河亀五郎の指示で、前回の寛政年間の御巡見来讃の時に引纏役を勤めた東分村の庄右衛門を尋ねて、その記憶と残されていた記録をもとにして、準備に取り掛かっています。
引纏役の仕事は、次の通りです。
①巡見使の通路を中心にして、道路の整備計画作成
②巡見使の通る岡田西・小川・西坂元・東二・東分・宇足津の六村を中心に、鵜足郡の状況を調査し、通路から見える山や名所、神社仏閣について説明書作成
③藩の政治や民情について、予想される巡見使からの質問に対する想定問答集を大庄屋や藩と協議して作成
④御案内、宿舎係、警備係などの村役人の任務分担表の作成
⑤先行する伊予と阿波で、巡見使の動静調査
①道路整備表 + ②鵜足郡現況説明書 + ③想定問答書 + 村役人任務分担表 + 巡見使の動静調査」と微に入り細にいった仕事内容があったことが分かります。会計については、巡見使がやって来る約2ヶ月前の4月20日に開かれた聖通寺での郡寄合で、村々の分担額が決められています。最終的に造田村の分担は、次のとおりでした。
普請用明俵 679俵(郡全体で6200俵)。
人足 205人
御借上品
布団 32枚(四布(よぬ)20枚、三布12枚)。
蚊帳 5張 水風呂 3本 菓子盆 2
燭台 4台 硯箱 4。浴衣 3枚。
御買上品
木枕 40 炭 40俵
薪 244束。
679俵の空俵は、土を入れて土嚢を作って、岡田西の大川へ板橋を架けることと、宇足津までの街道修理、宇足津の港の一部修理が計画されています。

各村の庄屋と組頭に、巡見使案内の諸役を分担します。
これと同じような分担表を、那珂郡の岸上村(まんのう町)の庄屋奈良亮助も書き残していたことは以前に紹介しました。

巡見使役割分担表1
       那珂郡の諸役分担表の一部(奈良家文書)

 庄屋たちの説明がまちまちになるのを防ぐために、備忘録や想定問答集が作られて庄屋たちには渡されていました。
しかし、実際には夜間の案内であったり、案内の距離が短かったために、巡見使から案文を示され、文書で答えを求められることが多かったことが報告されています。巡見使にしてみれば、江戸に帰ってからの報告書作成のことを考えると文書で預かった方が便利でもあったのでしょう。
作成された鵜足郡の想定問答集は、35項目が挙げています。その内の七か条を見ておきましょう。(御巡見御案内書抜帳「西村文書)

一 畑方、秋夏両度麦納申候。尤銀納勝手次第、其年相庭にて銀納仕候事。但し、田方に作候麦は、百姓作徳に相成候事。

  畑作については、盆前納と十月納で夏成を2度に分けて麦で納めています。納税方法は銀納も可です。但し、水田裏作の麦栽培については、百姓作徳で年貢はかかりません。

一 塩浜近年相増候ケ所も有レ之候。尚又堤切損じ、 築立諸入目等は、塩口銀にて仕候事。塩国銀というは、塩壱俵に付銀三分ずつ納申候。壱俵の升目四斗八升入申候。毎年出来塩多少により、国銀規定無二御座候。
  
 塩田が近頃は増えていますが、堤が切れて修繕が必要な場合に備えて、塩口銀を納めています。塩口銀というのは、塩壱俵について銀三分を納めることです。壱俵の升目は四斗八升入です。毎年の塩生産量により決まるので、口銀額は定まっていません。

一 田地売買作徳米の歩を以て、売買致候。

 田地売買については作徳米の多い少ないによって田地の価格を決め、売買を認めています。
一 検地竿は、六尺三寸のもの用い候。

 高松藩では、寛文検地以後も、六尺三寸の検地竿で実施しています。
一 御家中御成物、先年は三つ四つ御渡し候由、当時は一つ七歩位と承居中候事。

    家中成物(家臣の俸禄米を一定額徴収)については、以前は知行百石について30~40石を渡していましたが。今は一七石程度になっています。
一 御用銀の儀、御勝手向御指支、其上御上京等芳以御入用多候につき、身上相応少々宛御用銀被  二仰付一候。尤無高の者ぇは被仰付無之候事。

  御用銀については、藩の財政支援のために殿様が将軍名代として京都の朝廷に参内するときなどの費用負担として、相応額を納めています。しかし、無高の貧しい者には免除するなど配慮しています。

一 甘藷作の義、当国は用水不自由にて、日畑共少々植付候得共、近頃員数減等被二仰付「全作付柳の義、尚又売捌は多分大坂表え積登候事。

 砂糖生産に必要なさとうきび栽培については、讃岐は水不足が深刻なために、田畑にさとうきびを少々植付けています。しかし、近頃は幕府の削減令もあり、植え付け面積を削減しています。また販売先はほとんどが大坂に積み出しています。

   事前調査で今回の天保の巡見使の巡見テーマが「各藩の特産品とその専売制の調査」と予想していたようです。そのため髙松藩の特産品である塩田と砂糖についての答え方には、特別に苦心を払っていたことがうかがえます。

巡見使の事前動静調査のために、土器村の庄屋代理林利左衛門が、4月末から5月にかけて、伊予の西条方面に出かけて調査しています。その報告書には、伊予各藩のもてなしについて次のように記されています。
①各藩が巡見使のお供の者に金子を贈っていることと、その具体的な額
②巡見使の行列の模様
③三枝様の一行はあの品(金?)を御好みの由
④片桐様御一向は御六ケ敷由
⑤平岩様は温厚にて、御家来向も慎深き由
引纏役の西村市太夫は、旧知の阿波脇町の庄屋平尾平兵衛から書状で阿波の準備状況などを教えてもらっています。
その上で巡見使が脇町に入った6月14日から16日まで三日間は、猪の尻の淡路稲田家の家臣森兵衛方に自ら出向いて「情報収集」を行っています。その方法は、当地の村役人に28か条の質問要項を示すもので、細かい点についてまで回答を得ています。この行動力と入念さには、頭が下がります。庄屋たちのやる事には、綿密で抜かりがありません。
報告書の中の中には、巡見使の従者がひき起こした問題についても、報告されています。
〇阿州南方にて、まんじゅう屋へはいり、段々喰荒し候につき、御郡代には内分にて、村方より十両程、相い手伝遣候由、全体踏荒候哉と被存候。

 意訳変換しておくと
〇阿波の南方では、まんじゅう屋へはいりこみ、無銭で喰荒した事件が起きた。これについては、郡代には内密にして、村方より十両程を、相手方に支払ったという。全体に粗暴である。


○寛政の度、脇町にて御家来より、「当町に磨屋(とぎや)は無之哉」と御尋に付、有之趣返答仕候所、手引致様に申すに付、遊女屋の心得無之、真の磨屋へ手引致候所、「ケ様の所へ連れ越候段不届、手打に致す」と苦り入、漸々、断り致し、銀談にて相済候段、此節の噺に御座侯。

意訳変換しておくと

○前回の寛政年間の折には、脇町で巡見使の家来から「当町に磨屋(遊郭)はないのか」と尋ねられたのに対して、「あります」と答えたところ、「連れて行け」と云われたので、遊女屋については知らないので、本当の磨屋へ連れて行ったところ「こんなところへ連れてきて不届である、手打に致す」ともめて、散々断りしたあげく、銀談(お金)で済ませたとのこと。

江戸では、無頼漢扱いを受けていた渡り仲間が、人足不足のために急に召し出されてお供に加えられた者もいたようです。彼らの行動は横暴・横柄だったようで、巡見一行に対する領民の目は、冷たく、厳しかったことがうかがえます。市大夫も土佐の例をひいて、お供の者が宿舎で酒の振る舞いを受け、婦女子に絡んだことのあったこと、そのため各地で、巡見使の滞在中は婦女子の外出を自粛させている藩があることを述べて、高松藩でも同様の措置をとるように求めています。
 料理については、一汁三菜のほか、うどんやそばを加え、所望があれば酒を供してもよいと述べ、個人的な好みとしては、靭負様が脂濃い物が嫌いで、鮎の筒切の煮付のお平を召し上がらなかったことなども書いています。全く、至れり尽くせりの報告です。武士ではここまでは、気が回らないのではないかとも思います。
 西村市太夫は郷会所元〆に、口頭で次の二点を申し入れています。

土州では、人足が一文字の菅笠、襦祥と下帯を赤色にそろえ、赤手拭で繰り出し、見物人も多く、賑々しく道中したので、巡見使一行に喜ばれたこと。それに対して、阿州では人足の服装もまちまちであって、見物人も制限したので少なく、行列も寂しかった。これについては、巡見使一行が不満であったことを報告して、次のように提案します。「讃岐では、人足の服装を決め、見物人の取締制限を緩めてはいかがか」

もう一つは、大庄屋や庄屋の服装についてです。
髙松藩が大庄屋・庄屋に出した通知書の中に、服装については次のように指示されていました。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。(中略) 案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。

これに対して西村市太夫は、次のように訴えています
「巡見使の相手をする村役人は、すべて百姓並で、名字も名乗らず、脇指一本で勤めるというのは高松藩だけです。他国では名字帯力を許されているものは、両刀を帯し、名字を名乗って勤めています。巡見使のことは生涯に一度あるかないかの機会であるから、高松藩でも、許されている身分に相当した服装で御相手をすべきではないでしょうか。このことについては、大庄屋などにも相当不満があります」

    巡見使接待については、生涯に一度あるかないかの機会でもあるので、二本差しを認めて欲しいと云うのです。これを見ていると、大庄屋たちは巡見使受入の機会を「ハレの場」と捉え、大名行列に参加する一員になるような気持ちで、晴れがましく思っていたようにも思えてきます。行進やパレードは祭化されていくのが近世のならいです。西村市太夫のめざす方向も、派手目の衣装に人足の衣装も揃えて、見物人を増やして、そこを大名行列のようにパレードする姿を思い描いていたのかもしれません。そこに自分も二本差しで参加できれば本望ということでしょうか。しかし、両方の願いとも髙松藩が取り上げることはなかったようです。そして、幕府の巡見使派遣は、天保のものが最後となりました。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
幕府巡見使 那珂郡から鵜足郡へ
6月18日に、巡見使一行は丸亀領に入ります。
その日のうちに苗田村からの飛脚使は、20日に予定されている岡田西での引継ぎは、夜になると思われるから、提灯の準備をするようにという連絡が大庄屋に届けられています。市太夫は人足に指示して、明松約600を用意し、岡田西村、小川村、西坂元村、東二村、東分村、宇足津村の六か村から、人足約300人を招集して、弓張提灯百張と三十目掛の蝋燭も準備しています。

巡視使讃岐視察ルート
巡見使の讃岐での巡見スケジュールと宿泊所

 前日の6月19日の夕方に村役人と人足は、岡田西村に集まり、四、五軒の民家を借りて分宿しています。
そして翌日、土器川の川原に集まって最後の打合せしてから、それぞれの持場で待機します。巡見使一行が、那珂郡の村役人と人足に案内されて、垂水から川原に着いたのは、予想通り暗くなってからでした。引継ぎは、等火と明松の明かりの中で行わます。大庄屋の十河亀太郎と、引纏役の西村市大夫と高木庄右衛門が出迎え、挨拶します。村役人が、駕籠や馬や徒歩の侍衆に付き添って御案内に立ちつのを、人足が明松で遠くから道を照らします。村役人は提灯で足元を確かめながら、行列は次々に宇足津へ向かって出発します。具足櫃と行李に茶弁当、両掛や合羽籠などの荷物は、仲間や小者などの厳しい注文を受けながら、人足が一歩一歩と、暗やみの中を宇足津まで運びます。

宇多津街道5
垂水からの宇多津街道
 村役人と人足が加わった、400人に近い一行は、三隊に分かれて、法式どおりの行列を組んで、2里20町余りの宇多津街道を進んで行きます。途中、西坂本村で休憩、湯茶と餅のもてなしを受けています。この日に備えて、領内の鉄砲はすべて庄屋宅に集められ、沿線一帯は、厳しく警戒されていました。

宇多津街道4
宇多津街道

 宇足津には、出迎える側の高松藩の御奉行・郡奉行・代官・船手奉行・作事奉行が宿泊しており、丸亀藩と塩飽の役人も宿泊していました。そのため宿も、数多い寺も、商人の家も、みな宿舎に充てられていす。不寝番が立ち、万一の火事に備えて百人の火消し人足が待機していました。この火消し人足の指揮をとったのは、造田村の組頭丹平と沢蔵でした。

宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津

 翌日21日は、塩飽に向かう日です。
巡見使の宿から船場までの「御往来共揚下見計人」(交通整理役?)は、造田村の庄屋代理太郎左衛門が務めています。その夜を塩飽で送った巡見使一行は、高松藩の船手に守られて塩飽諸島を巡見し、22日夕方には、再び宇足津に帰着して一泊します。
23日朝、宇足津を出発して阿野郡北に向かう巡見使一行を、郡境の田尾坂まで見送り、四日間にわたった、鵜足郡の巡見使への奉仕は終わりました。
巡見使受入にかかった費用は、藩から出されるのかと思っていましたが、そうではないようです。全額を各村が分割して負担しています。
造田村の巡見使受入負担金


造田村の負担銀は、総額5貫181匁8分5厘(イ・ロ・ハ・ニ)になります。これを決算すると、十石高につき8匁8分8厘の負担になります。高一石を一反歩あたりにすると約3000円になるようです。金一両(75000円)=銀六〇匁のレートで計算すると、銀一匁は約1250円になります。一反歩について、3000円強の負担となります。これらの計算が簡単にできないと、当時の庄屋は勤まりません。大棚の商家には、駄目な若旦那が出てきますが、庄屋には出てこないのはこういう役目がこなせる人間を育成したからでしょう。当時の算額など学んでいたのも、多くは庄屋層の若者だったことは以前にお話ししました。

 すべての業務を整理し終わってから西村市太夫と高木庄右衛門は、大庄屋両人に対して、次回に向けた改善点を次のように報告しています。(御巡見御案内総人数引纏取扱の様子理現記一西村文書)
御取扱の場所等動方心得の事(要約)
①遠見(斥候)を、苗田・金毘羅・榎井・四条と、二人ずつ四組出しておくこと。
②郡境案内の庄屋を三人ほど増員すること。
③予備の人足を50人、川原へ待機させておくこと。
④明松の数を、今回の600挺から200挺ほど増すこと。
⑤大蝋燭、中蝋燭200挺位用意すること。
⑥縢火・松小割を30束増すこと。
⑦質問されたことについては、想定問答集に基づいて答えたが、今後は、案内人の器量次第で答えることが多くなると思われること。
⑦夜番に立った百姓や村役人は、翌日の勤務を免じること。疲労のため失敗すると、大変である。
高松藩でも、巡見使がどのようなことを尋ねたか、それに対して村役人がどう答えたかは、大きな関心があることでした。案内の村役人全員から報告を求めたようです。市太夫の代役を務めた西村安太郎が、8月8日付で、大庄屋に報告した報告書の控えが残っています(西村文書)
口上
一私儀、六月十日御巡見の砌、岡田西村郡境より、三枝平左衛門様御案内仕、宇足津村御宿広助方迄罷越候所、御道筋岡田西村にて、是より御茶場迄道筋何程有之哉と御尋に付、 是より壱里計御座候と申上候。尚又御茶場より宇足津村迄何程有之哉と御尋に付、壱里廿丁計御座候と申上候。
一 二十一日御宿より塩飽島へ御渡海の節、御船場迄、御案内仕候。
一 二十二日塩飽島より御帰りの節、御船場より御宿広助方迄、御案内仕候。
一 二十三日阿野郡北郡境迄、御案内仕申候。
右の通御案内仕中候。外に何の御尋も無御座候。右の段申止度如斯に御座候以上。
八月五日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

意訳変換しておくと
6月20日の巡見の際には、岡田西村郡境から、三枝平左衛門様を案内そて、宇足津村の宿である広助方まで参りましたが、その道筋の岡田西村で「ここから茶場までの距離はどのくらいか」と尋ねられました。これに対して「ここからは一里ほどです」とお答えしました。また茶場より宇足津村までは、どのくらいかと尋ねられましたので、「一里二十丁ばかりですとお答えしました。
21日は、宿から塩飽島へ渡海の時に、船場まで案内しました。
22日は、塩飽からの帰りの時に、船場より宿の広助方まで案内しました。
23日は、阿野北郡の境まで、案内しました。
これらの案内中には、何のお尋ねもありませんでした。以上を報告します。
8月5日                     西村安太郎
官井清七様
十河武兵衛様

大庄屋は、案内係を務めた全員の質問・応答内容を提出させてチェックしていたことがうかがえます。
高松藩の江戸屋敷でも、次後の政治的工作を怠らなかったようです。琴南町の長善寺の襖の裏張の中からは、約20枚の高松藩江戸屋敷日記が発見されています。その中には次のように記されています。
七月二十九日
一 御講釈御定日の事
一 平岩七之助様 片桐靭負様 三枝平左衛門様の御方御巡見御帰府に付、為御歓御使者御中小姓分                              堀 葉輔
右相勤候。
ここからは、髙松藩江戸屋敷から帰着した巡見使3名に慰労のための使者を遣わしていることが分かります。化政時代の後を受けて、「世は金なり」と賄賂が横行していた天保年間の御時勢です。財政窮迫の高松藩でも、この御使者は「手土産」持参だったことが推測できます。巡見使の将軍に対する報告書の提出締切日は、8月21日でした。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    
最初に前回にお話しした幕府の巡見使について、簡単に「復習」しておきます。
江戸幕府は将軍の代替わりごとに巡見使を派遣して民情の監察を行いました。各藩の寺社数、町数、切支丹の改め、飢人の手当、孝行人、荒地、番所、船数、名産、鉱物、古城址、酒造人数、牢屋敷等々を聴取して領主の施政を把握し、帰還後は幕政に反映するべく将軍に報告しています。
 監察は全国を8つの地域に分け、それぞれ3人1組で一斉に行われました。巡見使は千石から数千石取りの幕臣が任命さるのが通常で、1名につき数名の直属の部下と十数名の近習者、および十名を越える足軽や供回りが随行したので、30名ほどの人数になりました。それが、3名の巡見使では百人ほどの一団となり、迎える側の準備も大変でした。

 受け入れ側は事前の情報収集に努め、傷んだ道路や橋梁を修築し、必要な人足と馬匹、水夫と船舶などを揃えました。巡見使の昼休憩と宿泊には、城下や藩の施設(藩主のための御茶屋)が利用されましたが、農山の村々をまわるときは座敷のある上層の農民や商人の家か、寺院があてられました。休泊所となった民家には、藩の費用で門や湯殿、雪隠が増設され、道路の清掃やさまざまな物資の手配などに追われたようです。その中心となって対応したのは、各郡の大庄屋たちだったようです。今回は、大庄屋の対応ぶりを残された史料から見ていくことにします。
テキストは、  「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

1789(寛政元)年5月には、巡見使池田政次郎・諏訪七左衛門・細井隼人がやってきます。
この巡見使の受入準備のために髙松藩は、事前に「国上書」を各巡見使用人宛に提出して「内々のお尋ね」をしています。その「御尋口上書」は50ケ条にもなります。どんな質問が行われていたのか、その一部を見ておきましょう。
一、讃成へはいつ頃御廻可被遊候哉
一、政次郎様御夜具御浴夜等用意仕候に及申間敷候哉御問合仕候
一、御供に御越被咸候御用人方御姓名承知仕度候事
一、御朱印人足の外何沿人程用意可申付候哉
一、御伝馬の外に何疋程用意可申付侯哉
一、御長持何棹程御座候哉
一、御三方様御休泊之内為伺御機嫌夜者等差出候儀是迄通可仕候哉本伺候
一、御三方様御名札是迄は御宿前に御名札長竹二鋏芝切建来り候家格も御座候余り仰山にも可営侯に付此度は御名札御休泊御宿門へ召置候様可仕侯哉御問合仕候
一、御二方御料理え義一汁一末に限り可申旨先達而被仰渡
本長候乍只一茉と申候而は奈り御不自由にも可被咸御座
侯に付′―、重箱何そ瑕集類え口"指上可然ヒロ在所役人共より私共存寄斗にて申童候も力何に村御内々御問合仕侯
一、 一茉に限り候へば平日不被召上候御品には御内々無御腹蔵御言付可被下候本頼候
意訳変換しておくと
一、讃岐へは、いつ頃巡回予定なのか
一、池田政次郎様の夜具や御浴夜などの用意のために、注意事項をうかがいたい
一、お供の御用人方の姓名が分かれば教えて欲しい
一、御朱印人足の他に、それくらいの人足を用意すればいいのか
一、御伝馬の他に、何頭ほどに馬を用意すればいいのか
一、長持は何棹程でやってくるのか御座候哉
一、御三方の休泊で夜伽などは差出した方がいいのか
一、御三方の名札は御宿前に名札を長竹に挟んで立てかけるが、家格のこともあって、この度は名札を休泊宿門へ置くようにしたいが如何か
一、御三方の料理について、一汁一菜に限るとされているが、これではあまりに質素すぎると思われるので、重箱などを加えてもよろしいか
一、 一菜に限るというなら内々にお出しするのはかまわないか

これに対し、巡見使の各御用人より一項一項に付いてこまごまと回答が寄せられています。事前の打ち合わせが髙松藩と、巡検使の用人の間で事前に行われていた事を押さえておきます。

江戸の巡見使用人からの情報を得て、高松藩では次のような指示を大庄屋を通じて、各村々の庄屋に回覧しています。
御巡見御越に付 大小庄屋別段心得
一、御宿近辺にて大破に及ぶ家々は自分より軽く取繕ひ申すべく候
一、御道筋の大制札矢来など破損の分は造作仰付られ候
尤も小破の方は郡方より取計仕L小制札場の分は村方より取繕致し申すべく候
一、御通行筋茶場水呑場郡々にて数か所相建候間見積をもって其の処へ取建仰付られ追て代銀可被ド候
一、御道筋の仮橋土橋掛渡の義幅壱間半に造立て右入用の材木等は最寄の御林にて御伐渡持運人足は七里持積り又は湯所見合積りを以て人足立遣し追て扶持被下候
一、御巡見御衆中御領分御滞留の内別けて火の元入念にいたすべく 御道筋家々戸障子常体に仕置御通の筋は土間にて下座仕るべく候 物蔭よりのぞき申す義仕る間敷惣て無礼無之様仕るべく併て無用の者外より御道筋に馳集候義堅く無用に候
一、御巡見御用に罷出候下々に至るまで惣て相慎み喧嘩口論仕候はゞ理非を構はず双方とも詑度曲事中付くべく候
勘忍成り難き趣意これあり候はゞ其段村役人共へ届置追而裁判致し遣はすべく候
一、御巡見御衆中当御領御逗留中猪鹿成鉄砲打ち申す間敷相渡し申すべく候
一、雨天にて御旅宿の前通行の節下駄足駄履き申す間敷候
一、御案内の村役人共御案内先に代り合いの節御性格等申遣りよく呑込み置きて代り合い申すべく候
一、御巡見御用に罷出候人足馬士等生れつき不具なるもの道心坊主惣髪者子供並に病後にて月代のびたる者指出す間敷候
一、相応の単物にても着用し御仕差出申すべく襦袢又は細帯等にて差出申間敷候 笠は平笠かぶらせ申すべく編笠並手拭にてほうかむりなど致候義相成中さず候
一、寛政の度政所と唱うるところ近年庄屋の名目に相改り居り申すに付自然相尋られ候へば文政六来年より庄屋と唱う様相成居候へども如何なる訳合にや存じ奉らず候段相答へ申すべく候
有の通り村々洩れぎる様中渡さるべく候

意訳変換しておくと

一、御宿附近で大破して見苦しい家々は、自分で軽く修繕しておくこと
一、道筋の制札や矢来などで破損しているものは修繕する事。小破の場合は、郡方より修理し、小制札場については村方で修繕する事
一、通行筋の茶場や水呑場については、郡々で数か所設置する事。後日、見積りに基づいて、代銀を藩が支払う。
一、道筋の仮橋や土橋などについては壱間半の幅を確保する事。これに必要な材木等は最寄の御林で伐採し、運人足は七里持積りか場所見合積りで人足費用を計算しすること。追って支払う。
一、巡見衆の領分滞在中については、火の元に注意し、道筋の家々の戸障子で破れたものは張り直すこと。通の筋の家では、土間に下座して見送る事。物蔭からのぞき見るような無礼な事はしてはならない。併て無用の者が御道筋で集まることは禁止する。
一、巡見御用衆が郡外に出るまでは、互いに相慎んで喧嘩口論などは起こさないように申しつける。
  勘忍できないことがあれば、その都度村役人へ届け出て判断を仰ぐ事。
一、巡見衆中が滞在中は、猪鹿などを鉄砲で打ことを禁止する。
一、雨天に御旅宿の前を通行する際の、下駄足駄履は禁止する。
一、案内の村役人は交代時には、巡見使の性格などを申し送り、よく呑込んで交代する事。
一、巡見御用の人足や馬は、生れつき不具なるものや、道心坊主惣髪者子供や病後にて月代のびた者などは選ばない事
一、衣類については、相応しい単物を着用すること。襦袢や細帯の着用は禁止。笠は平笠を被ること。編笠や手拭ほうかむりなどはしないこと
一、寛政年間までは「政所」と呼んでいたのを、近年に「庄屋」と名称変更したことについて、どうしてかと尋ねられたときには、「文政六年より庄屋と呼ぶようになりましたが、その理由は存じません」と答える事。
以上を村々に洩れなく伝える事。

  「髙松藩 → 大庄屋 → 庄屋 → 村民」という伝達ルートを通じて、下々までこららのことが伝えられていたことが分かります。巡検を受ける藩にとっては、一大事だったことがあります。
 満濃池で植樹祭があった時に、時の天皇を迎える時の通達を思い出します。そこにも、「2階から見てはいけない、服装は適切な服装で、沿道の家は植木などの刈り込みも行うこと」など、細かい指導・指示が行政から自治会を通じて下りてきました。ある意味では、江戸時代の巡見使を迎える準備対応ぶりの昭和版の焼き直しかもしれません。この通達がルーツにあるのかも知れないと思えたりもします。

今度は大庄屋や庄屋に出された「御巡見御越に付大小庄屋別段心得」(満濃町誌253P)を見ておく事にします。
一、惣て御案内の仕方は郡境より同境までと相心得申すべく候 郡境へ罷出相待候節諸掛場所家居これなき処は相応の小屋掛にても致し出張村役人の散らぎる様相集め置き申すべく候
一、大庄屋は羽織袴半股立に草履を履き、草履取桃灯持召連れ郡境にて御待請御先御用人ら参候まで草履取桃灯持ども召連居申し右御用人間近に相成候はゞ右家来を先に遣置き尤も俄雨又は夜に入る節は夫々用向等辯じられる様申付置は勿論の事に候
御案内の庄屋は羽織小脇指に高股立 組頭は羽織ばかり無刀にて罷出候義と相心得いづれも草履にて候
尚右大庄屋中より先方駕籠脇へ挨拶済の上夫々役割御案内に相掛り申すべく候 尤も前々は却て御案内駕籠先へ立候義もこれあり候 既に寛政の度は御駕籠脇へ引添御案内致候指図これあり候義もこれあり是等の義は臨機応変の事に候
一、御先御用人御出の節太庄屋中出迎御駕籠脇にて
〈私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候〉と申述べ御用人中より指図通り御案内仕るべき事
一、御朱印箱の義は甚だ御大切の御品にて御案内の者は勿論持人までも別けて気を付け有御箱取扱の節上問等へ指置候義は素より御旅宿にても上げ下げ等の節油断なく取扱申すべき事
一、御道中夜に人る節は御印付高張六張並八歩高付御桃灯三拾張差越候義と相心得申すべき事
一、御通筋家続のところは表軒下へ掛行燈にて燈さすべき事
一、御道筋廉末これ無き様手前に洒掃致し置候上は御通りの節俄に帯目入る義は却てごみ立ちよからず候間願くは水を打ち置く様致度き事
一、御道中夜に入る節庄屋与頭等御案内の者自分自分の定紋付桃灯燈し申すべき事
一、御案内合羽の義大小庄屋は青いろ与頭は赤合羽着用の事
一、大小庄屋組頭郡境にて他郡へ相渡候節先に相立居申す御案内の者少し先へ踏込み御巡見御衆中並用人迄も御通行順御性格等を他郡御案内の者へ申伝ふ事
六月十七日
意訳変換しておくと
一、案内の仕方は、郡境より郡境までと心得よ。郡境で出向いて待つ時に、近くに家などがない場合は仮小屋を建てて、出張村役人らがバラバラにならないように一箇所に集まるようにしておくこと。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。郡境で待請・先御用人などがやってくるまで草履取桃灯持を同伴して待機する事。御用人が間近に近づいてきたらその家来を先に立てて、その後に従う事。もっとも雨や夜になって暗い場合は、それぞれの対応を講じる事。案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。
 なお大庄屋は巡見使の乗る駕籠の脇で挨拶を済ませた上でそれぞれの役割案内に掛ること。以前には 案内駕籠先へ立って先導したこともあったようだが、寛政の巡検以後は駕籠脇へ従い案内するようにとの指示があったのでこれに従う。場所・時間によっては先導する必要もあるので臨機応変に対応する事
一、先達御用人が引継ぎ場所にやってきた時の大庄屋の駕籠脇での出迎え挨拶については次の通り
「私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候。御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候」と申し述べてから、用人の指図を受けて案内すること。
一、朱印箱については大切な品なので、案内の者はもちろんのこと、持人も特別な注意を払う事。朱印箱の取扱については、取り運びや旅宿での上げ下げについても油断なく行う事
一、道中で夜になった場合には、印付高張六張と八歩高付御桃灯三拾の提灯を捧げかける事
一、通筋の家には、表軒下へ掛行燈を燈させる事
一、道筋については、清潔さを保つために事前に清掃し、通過直前には帯目を入れ、水を打っておく事
一、道中で夜になった場合は、庄屋や与頭などの案内人は自分自分の定紋付桃灯を燈す事
一、案内合羽については、大小庄屋は青いろ、与頭は赤合羽を着用する事
一、大小庄屋組頭は郡境で他郡へ引き継ぐ時に、次の案内の者に巡見衆や用人などの性格などを次の案内者へ申し送る事
六月十七日
  この史料を読んでいて気づくのは、ここには受入側の髙松藩の武士達は一人も登場しないという事です。
私は、髙松藩の藩士達が全面に出て案内から接待まで仕切ったのかと思っていました。しかし、主役は、郡毎の大庄屋や庄屋などの村役人組織であったことが分かります。藩役人は、服装や対応の方法を書面で指示しますが、それを実際に行うのは、大庄屋や庄屋たちだったのです。これだけのことをやってのける行動力が大庄屋の下には組織されていたことに驚かされます。
 指示内容の中には、お下げ銀を出して見苦しい民家の修繕をしたり、道路に砂利を敷いたり、沿道に茶店を設けるなどして、藩の民政が行き届いて、百姓たちの生活が豊かであるように装ったことがうかがえます。
 出迎えに当たっての服装なども細かく指示されています。大庄屋は羽織袴を着用し、村方三役も規定の正装で郡境まで出迎え、宿泊には宿詰をつけて万事遺漏のないように配慮されています。

最後の巡見になる1838(天保9)年の時には、那珂郡の村役人達にどんな役割が割り当てられたのかが分かる史料が残っています。
各行事をきちんと記録していた岸上村庄屋奈良亮助が書き留めたものが満濃町誌に紹介されています。天保九戌午六月御巡見一件役割とあって、那珂郡の村役人の役割分担表であることが分かります。
巡見使役割分担表1

讃岐那珂郡の天保九戌午六月御巡見一件役割 その1

最初に平岩七之助様とあるので、3人の巡見使のうちの主査の担当係とその村名・役職が列挙されています。その役割の内で「案内」「籠付」は各村の村役人。「荷物下才領(人足)」「合印持」は百姓層に割り当てられています。人足も単独の村が出すのではなく、いくつかの村からのメンバーで編成されています。この後に残り2人の巡見使付の役割分担表が続きますが省略します。

巡見使 讃岐那珂郡ルート
讃岐那珂郡の巡見使ルート

那珂郡の巡検ルートは、丸亀を出発して、往路は金毘羅街道を金毘羅まで下って満濃池まで足を伸ばし、復路は宇多津街道を上って宇多津までであったことは前回お話しました。

巡見使役割分担表2
        天保九戌午六月御巡見一件役割 その2
この役割分担表には「公文村茶場・餅屋」とあるので、金毘羅街道沿いの休息所は公文に設けられたことが分かります。その担当者名が記されています。面白いのは、「茶運子供」とあって、給仕をおこなうのが「百姓達の倅」であったことです。
 また、宇多津への復路には「東高篠村水置場」とありますので、高篠にも休息所が設けられたようです。この他、郡家にも水置場が設置され、それぞれ担当者が割り当てられています。

巡見使想定問答書(島根県)

これは鳥取県智頭町の大庄屋が作成していた「想定問答集」です
巡見使から質問があったとき、案内などをした大庄屋、庄屋などの村方の役人が無難な返答をするためにつくられたようです。大庄屋たちがが考えた想定質問「銀札は円滑に流通しているか、勝手向き(財政のやり繰り)はうまく行っているか」などを藩に問い合わせたものに対して、藩が朱書きで模範答案を書いて送り返しています。まさにお役所仕事の入念さが、この時代から見られることにびっくりもしました。今と変わりないなあという風に思えてきます。
 このような準備が入念に行われるようになったため、江戸時代後期になると、幕府巡検は形式的になり儀礼化したともいわれます。しかし、幕府が全国支配の威光を体感せしめるための重要な役割を担っていたことに変わりはありません。このような支配システムを運用する事で、下々の「お上」意識が江戸時代に形成され、それが明治の地方行政にも形を変えながら活かされていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」

     江戸時代の寛永年代に始まった巡見使制度のことを研究者は次のように評します。
将軍の全国統治権に基づき、諸大名の行政を査察する権限の行使

初代家康は1615(元和元)年11月、諸国に監使を派遣しています。巡見使としては家光が1632(寛永十)年に五畿七道へ派遣したのが初めのようです。その後、将軍の代替りごとに派遣されるのが例となります。巡見使は3人セットでした。一人では各藩からの贈賄等によって事実を曲げて報告する恐れもあります。そのため幕府上級旗本三人を一組セットとして各地方に派遣しました。

巡見使は主席が2000石、以下1000石位までの上級旗本から任命され、その巡見使には各々家老、取次役、右筆等30名程度の家来(幕府扶持人も加わる)で編成されていました。そのため3人が引き連れてくる一行は百人程度の大人数になります。
 巡見使に任命された旗本や御家人は、時代が下がるのにつれて、定められた家臣や従者を常備している者が少なくなります。そのため命令を受けると、大急ぎで日入稼業者を通じて従者を雇い、十分な訓練もできないままで出発することになります。しかも、巡見使の旅は、数か月に及ぶ長い行程であったので、出来の良くないにわか従者などは旅先でトラブルを起こす事も多かったようです。



古絵図・貴重書ギャラリー
巡視者の質問に対する事前問答集

 巡見使の来訪は受入側の藩にとっては一大事です。何日もかけて藩を隅々まで見られたのでは、藩の内情がすべて明らかになってしまいます。事実を隠蔽していることが分かった場合は、命取りになってしまう場合もあります。従って質問に対する答弁まで考えて、「事前問答集」を作成すなどするとともに、眼に触れて欲しくないところは巡見をさせず、御馳走攻めにしておくことにも心掛けるようになります。
PayPayフリマ|小栗上野介 〈主戦派〉 vs勝海舟 〈恭順派〉 幕府サイドから見た幕末/島添芳実

「諸大名の行政を査察」するためにやてきた幕府の巡見使を、髙松藩はどのようにして迎えていたのでしょうか。
これについては、当事者である村々の庄屋が残した史料が、各所に残っているようです。それらの史料で、巡見使受入マニュアルがどのように整備されていたのかを見ていくことにします。テキストは「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

最初に幕府が巡見使に与えていた心得「巡見使の守るべき条々」を見ておきましょう。
一、今度国廻りの刻 御咸光を以て何事によらず公仕る間敷く候 勿論召連れ候下々まで堅く申付くべき事
一、召連れの下々喧嘩口論仕るにおいては 双方これを誅罰すべし 荷担せしむる者共は本人同前たるべき事
付けたり 所の者の申事仕るにおいては その領主並に代官らに相談の上理非をわかち有様に申付くべき事
一、竹木一切代採べからず
付けたり 押買狼藉すべからざる事
一、駄賃宕賃定めのごとく急度これを相渡すべし 代物これを出さざれば人馬使ふべからぎる事
右この旨を相守るべきもの也
    寛永十年 二月六日
意訳変換しておくと
一、この度の諸国巡検については、何事についても幕府の咸光を後ろ盾に、威張り散らすようなことのないように、召連れていく従者にも言い含めておくこと。
一、従者と現地の人足たちとの喧嘩口論が起きた場合には、喧嘩両成敗で双方を誅罰すること。喧嘩に荷担したものたちも本人同様である。
一 現地の者からの直訴があった時には。領主や代官らに相談した上で理非を極めた上で措置する事。
一、従者達の竹木代採は一切認めない。押買狼藉も許さない。
一、駄賃などの運送費や宿泊費は、決められた額をきちんと支払う事。代金を支払わなければ人馬使ふことは許さない。
右このし口を相キるべきもの也
寛永十(1632)年 二月六日
幕府としては、巡見使の横暴を許さないことを示す文面になっています。しかし、実際に行われているので禁止令が出るのです。「禁止令は、その行為が行われていたと思え」は、歴史学のイロハです。従者と現地の人足などとの喧嘩や、直訴についてのトンチンカンな対応ぶり、竹や木材の勝手な伐採、駄賃や運送費の不払いなどが、初期の時期からあったことがうかがえます。
 しかし、幕府としては巡見使派遣に際しては、将軍の成光をもって横暴に流れたりしないように指導していたことは分かります。例えば将軍吉宗などは巡見使に大きな期待を持っていた節があります。実際、御料(幕府の直轄地)を巡視した報告書をもとに、不正な代官を処分したり、機構の見直しを行ったりもしています。しかし、各藩の情勢を観察する諸国巡見使の報告については、幕政を進める上で参考となる情報が含まれていても、領主権の尊重という建前もあるので、藩政にまで立ち入ることは難しかったようです。
 享保以降も、将軍の代替わりごとに巡見使の派遣は続けられます。
しかし、次第に形式化して単に将軍の威光を知らしめる為だけのものになっていきます。そして、安政の頃になると、巡見使を受け入れる各藩から、出費が多い事を理由に派遣延期の願が出されるようになります。幕府もこれを認めざるを得なくなり、天保の巡見使派遣を最後に、巡見使の派遣は取りやめになります。
 

讃岐にやってきた巡見使のうち、史料によって確かめられるのは次の通りです。

巡視使来讃一覧表
歴代巡視使一覧

2回目の巡見使派遣は1667(寛文七)年でした。この時には、前回に出てきた問題を踏まえて、更に更にこまごまとした条目を定めて巡見使に守らせようとしています。また、受入側の諸大名には、巡見使を迎える際には、質素にするように命じています。そして、調査質問事項として次のような項目が追加されています。
一、公領私領各所の市井村里政蹟の可否をたづね 天主教停禁の事常に起りなくかするや否や並に盗賊捜索の様その土人に尋ね問うべし
一、何事によらず近年抽税を出さしむるにより その地諸物の価時貴し 人々難困するや また公の政法と変りたる事あるや
一、諸物を事処より買置て ひとりその利をむさばる者あるや 金銀米銭の時価を問うべし
一、許状一切受瑕るべからず 高札の写しを立てざる地はこの後これを立てしむべし もし年経て文字見えわかざるは改めてせしむべし
意訳変換しておくと
①、幕府領や大名領各所の町や村の様子を調査し、切支丹禁止以後に適切な措置がとられているかどうか、盗賊捜索状況などについて、現地住民に尋ね問うこと。
②、近年の間接税課税によって、物価急騰で人々が困っているという。幕府の政策と現地の政策で異なるろころがあるのか調査すること
③一、「買い占め・売り惜しみ」などによって利益を上げている者がいないか、現地の金銀米銭の時価を調べること
④、直訴状はなどは一切受取ってならない。 幕府の命令などを掲げる高札がきちんと建てられているかどうか、しかるべき所に高札が建てられてない場合には指導すること。もし年経て文字が見えにくくなっている場合には、新しくさせること。
①の背景には、1661年に幕府は寺請制度によって「宗門人別帳」を作成することを各藩に命じていたことがあるようです。そして1671年には全国で宗門改めが行われるようになります。そのための「地ならし政策」を推し進めている最中だったので、巡見使視察を通じて各藩に整備に向けた圧力かけたようです。
②③については、物価急騰への対応調査のようです。
④については、巡見使に対しての直訴が多かったのでしょう。それを受け取ればいろいろな問題を幕府が抱え込むことになります。それは各藩で対応解決すべきことなので、幕府は以後はこれを押し通すようになるようです。


受入側の地方の代官や領主に対しては、次のように通達しています。
一、このたび諸国式況令ぜらるヽといへども地図城図制することあるべからず
一、人馬戸口査校に及ばず 御朱印券の外に用ふる人馬は定制の直銭をとり 渋滞なく出すべし
一、 いずれの地に至るとも 使介脚力贈童一切上むべし
嚮導者なくてかなはざる地はその事告げやるべし
一、道路清掃すべからず 但し有り来りの道路橋梁往還の便よからぬ所は修むべし
一、投宿の駅舎造営すべからず 新に茶亭を設くることあるべからず
一、巡視のともがら投者の駅々にて 米豆その郷価をもって売るべし その他の諸物もこれに同じかるべし
一、各駅の旅舎筵席を新にすべからず 古きを用ふることも苦しからず 浴室厠かねて設け置かざる所はいかにも軽く造るべし 盤嗽 栗炊の具古くとも苦しからず もし設けざるは軽く特へ置くべし
一、旅宿とすべき家一村に三戸なきは寺院またほ別村にても苦しからず
  意訳変換しておくと
①今回の巡見使受入について、新たに国地図や城図を作成する必要はない。
②人馬の戸口調査を行う必要もない。御朱印券の外に使用する人馬については決められた額を支払うこと。
③巡検視察地がどんな場所であろうとも、巡検者に補助人をつける必要はない。もし嚮導者がなくては行けないところがあれば、その旨を事前に申し出る事。
④道路は清掃する必要はない。但し、橋梁など往還の便がよくないところは修理しておく事
⑤宿泊所や駅舎などを新たに造営する必要はない。 新しく茶亭を設置する事のないように。
⑥巡視従者が米豆を買い求める場合には、現地時価で売ること。その他の諸物も同様である。
⑦各駅の旅舎の新設は認めない。今まで通りの古い施設で充分である。浴室や厠がない場合は、最低限度の施設にすること。
⑧宿泊すべき家が一村に三戸用意できない場合は、別村に分宿も可である。
ここからは、ここに書かれているような事が前回にはあった事がうかがえます。同時に、藩の出費を抑え、沿道の人々に迷惑をかけないよう幕府中枢部の幕臣達が心を用いていることも分かります。

巡見使一行は、どれくらいの人数を引き連れてやってきたのでしょうか?
1838(天保九)年にやってきた巡見使の場合は次の通りです。

巡見使構成表天保

知行1500石の平岩七之助が、用人黒岩源之八・高橋東五郎以下30人、
知行千石の片桐靭負が、用人土尾幸次郎。橋部司以下30人、
知行500石の三枝平左衛門が、用人猪部荘助。小松原尉之助以下27人
以上の三班で、総員90人になります。この他に平岩七之助の組に5人、片桐靭負の組に4人、三枝平左衛門の組に5人、計14人の者が同行して、宿舎を共にしていますが、この者がどういう立場の者であったかは分かりません。召連人数は、髙松藩に連絡しています。

 巡見使は幕府の御朱印や具足一両のように権威を示すものや、実務で必要な多くの荷物を運びながら移動しました。巡察を受ける側でも用意した多数の道具を各村の休泊所へ持ち送りました。そのため御朱印台、塗り三宝、熨斗、硯など、さまざまな道具が人足によって運ばれた事が残された一覧表から分かります。
 そのため各郡の大庄屋に対して、次のような「人足依頼状」が出されています。これが各村の庄屋たちに回覧され、それを書き留めた写したものがまんのう町岸上の奈良家に、次のように残っています。


巡視使要求人足数 平岩
巡見使平岩七之助が必要とした人夫・馬の一覧表
これは平岩七之助の用心から出された必要人足分一覧です。要求された合計数は人足34人 馬13頭です。朱印人足・馬が規定された人数で、賃人足・馬というのは、賃金を支払って雇うものという意味のようです。受入側の大庄屋は、これに基づいて他の二人の巡視役分についても庄屋と協議しながら員数配分を行う事になります。つまり、全部で120人程度の人夫が必要だったことがここからは分かります。
 巡見使は三組に分かれて、一日交代で先導隊を交代し、それぞれ具足櫃(甲冑入)、行李を携行し、槍を立てて進むという作法どおりの行列を組んで行動しています。約百人の一行が、120人の人足に荷物を持たせ、120人の世話役を務める村役人の説明を受けながら、数棟の騎馬役に守護されながら御朱印を奉じて進むという賑々しい行列です。大名行列的なイメージです。しかも、遊行の旅でなく、駕籠の中から周囲の山河を視察し、見物人の状況から民情を判断し、村役人との質疑応答によって資料を集め、江戸に帰ると詳細な報告書を提出しなければならなかったようです。

巡見使は讃岐を、どんなルートで視察したのでしょうか?
 五畿内と四国に派遣された巡見使は、讃岐が最後の巡見先で伊予から西讃に入って、東讃から抜けて行くというルートがとられています。先ほど見た奈良家文書には、1838(天保九)年の讃岐順路と宿泊地が次のように記されています。

巡視使讃岐視察ルート
1838(天保九)年の巡見使の讃岐順路と宿泊地
6月18日  伊予から讃岐に入り、豊田郡を巡見して観音寺村で泊、
  19日  三野郡を巡見して那珂部丸亀城下に泊り
  20日  那珂郡を巡見して宇多津村に泊り、
    21日  塩飽本島泊
    22日  鵜足郡宇多津
以後、阿野郡、香川郡、小豆郡を巡見して6月末日には大川郡に入ります。そして、讃岐巡視が終わると江戸への帰路につきます。江戸帰還後の7月26日に登城拝謁、8月20日に改めて将軍に各藩の情況を報告し、お尋ねに答えるのが常例だったようです。
巡見使 讃岐那珂郡ルート
巡見使の那珂郡巡視ルート
 丸亀平野での視察ルートをもう少し詳しく見ておきましょう。
 那珂郡の巡見について、前日の丸亀に泊まった一行は、往路は金昆羅・丸亀街道を北から南に上がり郡家、与北、公文、高篠、苗田を経て金毘羅に入ります。その里程は3里19丁と記します。そして満濃池まで足を伸ばしています。満濃池のために幕領と池の御領が置かれた意義と、満濃池の活用状況を目にしておく必要があると考えていたのかも知れません。満濃池から宇多津への往路は、金毘羅から高篠を経て、宇多津街道を北に進んでいます。その里程は3里23丁とあります。これは、髙松藩の那珂郡や阿野郡の村々の宇多津にある米蔵への年貢米輸送ルートでもあったことは、前回お話しした通りです。

今回はこの辺りまでにします。以上をまとめておくと
①江戸幕府は将軍代替わり毎に、巡視使団を全国に派遣し、民情視察などを行い報告させた。
②その規模は巡視使1人に従者30程度で、3人の従者合計で約100人規模になった。
③受入側は、各藩の大庄屋や庄屋たちが対応し、求められた人馬の提供・配置を行った。
巡見使と各藩役人との接触は、入国と出国の時の奉行・郡奉行・代官の挨拶だけでした。道筋での説明、宿舎の接待等は、すべて大庄屋を中心とした各郡の村役人に任されていました。藩の役人は、問題の起こった時に備えて、待機するだけだったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P

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