寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。高松の由佐発しての前回までのコースは以下の通りでした。今回は、3日目夜の東祖谷の久保盛延を尋ねて、歌人でもある当主とのやりとりや、平家伝説についての話が記されます。それを、現代語訳していきたいと思います。
4月25日
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺4月27日
一宇の西福寺 → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保
小坂を下って、山のほらをめぐりめぐって、黄昏に久保という所に着いた。雌雄より久保までは約五里。久保には、久保二十郎盛延という祖谷八士の一人がいる。ここから先、私は西湖に託して大和うた(短歌)を送った。
( 中略 )これに返書があり、受入OKの歌が詠まれています)阿波国の祖谷の山里に久保氏という人が住んでいらっしゃる。門脇宰相平國盛の子孫で、敷島の道にさとく、巧みであると聞ている。そこで、今の私の気持ちを歌に託して送ります。雲の上にありし昔の月かけを 世々にうつせるわかの浦波、志き島の道を通ハん友千島いや山川の霧へたつとも、南天千嶺合、望断白雲中、借間秦時客、柳花幾責紅
歌人の紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。あくまで「歌」が主役です。別の視点から見れば、この歌を紹介したいので、紀行文を書いているともいえるようです。どちらにしても、歌を通じて「一宿一飯」の関係が結ばれていく歌人ネットワークがあったことがうかがえます。これは、当時の蘭学者たち人達にも当てはまることは以前にお話ししました。剣術で云えば「武者修行者」に、宿を提供する道場ともいえます。これが江戸時代後半の学者や文人達の活発な動きを支えていたように思えます。
案内されて久保家の主人とのやりとりが続きます。
先導した西湖が、私たち一行がやってくることを告げていたので、家僕が家の前に出て玄関まで案内してくれた。この家には阿波の浪士で赤堀権二郎という人が逗留中であった。この人は、阿波侯の家臣(四百五十石)であったが、故あって浪人中で、久保家にやってきていた。互いに名告りあって話していると、当主の長男・友三郎が出て来て、父は少々病気がちで、出迎えや接待ができないことを謝った。しかし、しばらくすると当主の三十郎も現れ、遠路の労を謝し、寝乱髪のままでの不敬を詫びながら、久保家のことについて次のように話し出した。この家は山の麓にあって辰己にむかって建っている。長十一、二間を三、四区に分けて、一間毎に三尺ほどの囲炉裏を設けて、そこで薪を燃やす。山中幽谷で、寒気が厳しいので、寒さから身を守るためだという。時が経ち燈を灯して、物語をしながら膳に着く。飯香が出された。寿香米と云う。これが世にいう「かはしこ米(?)」のようだ。やって来る道筋で見た「志ほててふ草」(?)を羹として出された。その味は蕨によりも美味である。
この家は、現存する阿佐利昭家や喜多ハナ子家の規模とほぼ同じ規模だったようです。
「三四区にわかち」については、よく分かりませんが、桁行方向に三か四室が並んでいたと研究者は推測します。しかし、奥行に一ぱいに拡がる広い部屋が並列するのか、奥行に二室あるいはそれ以上の部屋があるかは分かりません。
久保家と同規模の阿佐利昭家平面図
「三四区にわかち」については、よく分かりませんが、桁行方向に三か四室が並んでいたと研究者は推測します。しかし、奥行に一ぱいに拡がる広い部屋が並列するのか、奥行に二室あるいはそれ以上の部屋があるかは分かりません。
平国盛
膳が運び去られた後で、この家の歴史について主人が次のように話し始めます。
寿永二年に、源平の屋島合戦に破れ、平氏は安徳天皇を供奉し、長門へ落ちのびた。檀の浦でも敗れ、入水したと歴史書には書かれている。しかし、実は安徳天皇は、祖谷に落ちのびてきたと、私たちはの先祖は伝えてきた。
そのことについては、すでにお聞きして承知していますと答えると、主人は次のように答えた。
祖先の申伝えてきたことには、寿永二年に讃州屋島で敗れて、門脇宰相平國盛(教盛の弟)は、兵百人ばかりを率いて、安徳天皇を供奉し、讃岐の志度の浦に逃れた。さらに情勢を見て、大内部水主村に移動し、数日後に阿讃国境の大山(大坂越)を越えて、十二月大晦日に、祖谷にやってきた。そしてこの地の荘巖窟の内で越年した。今でも、これを平家の窟と呼んでいる。この時に門松の松がなかったので、とりあえず檜の木を用いた。そこで今でも、阿佐唯之助と某の家では、門松に檜の木を用いていると。
ここからは平家物語の安徳天皇の最期とは、異なる物語が祖谷では流布されていたことが分かります。
平家物語では、平家は1184年壇之浦の戦いに敗れ、幼い安徳天皇は入水したことになっています。その際、平清盛の甥である平教経(後に、幼名の平国盛に改名?)も海に飛び込みました。しかし、祖谷に伝わる落人伝説では、そうは語りません。壇ノ浦で入水したとされる安徳天皇は、実は影武者で、平国盛は本物の安徳天皇を連れて阿讃山脈を越え、山深い祖谷へとたどり着き、この地に潜んだというのです。しかし、安徳天皇は原因不明の高熱で、わずか8歳で亡くなってしまいます。国盛は悲しみ、平家再興を断念し、祖谷で暮らす道を選びます。そして、祖谷で生活をしている阿佐家を初めとす「祖谷八家」の多くは平家の子孫というのです。近世に書かれた歴史書には、これにいろいろな「尾ひれ」が付け加えられることになります。
美馬郡記祖谷紀行の作者・菊地武矩は、ここで美馬郡記の次の部分を引用しています。
國盛帝を供奉し、此山に分入る、時しも十二月晦日の事なりしか、日も暮けれハあたりに人家もなし、一の岩屋にやとりて、其夜を明さんとす、日かく落ふれたれと、明日元日のことふきに、門松たてよと有けれハ、郎等松を求るに、闇夜にして見え分す、檜の木を切て建つ、明れハ元日山をこえ行に人家有り、元日の雑煮いとなみ給けり、甲冑弓やなくゐ負たる大勢入けれハ、家人恐れて逃隠る、いさ雑煮くハんとて、大勢に行とヽかす、軒に兎ありけるを、幸の事とて、これをもともに喰ける、是よりここに居住し、其後西庄加茂半田、讃岐の寒川香西の地も切従へ、加茂村に城築て住す是を金丸の城といふ、其後阿佐紀伊守の時、天正年中、長曽我部に攻られ落城して、再ひ祖谷山に引こもる、家に平民の赤旗を所持す、其徒祖谷の内所々にわかれ住す、今の二十六名といふもの是也、名主の多くは、その乱後に祖谷に来りにしか、(中略)文治二年正月朔、天皇崩し給ふ、これを栗枝渡といふ所に葬奉り、帰空梁天大騨門と法号し奉る、後の世よりして其地に社を建て、いつき祭り、是を八幡宮と申、八幡宮ハ応神天皇也、思ふに応神天皇を祭り、安徳天皇を相殿にいハひまつるか、又当時源氏の威を恐れて、 いミかくするにや、
又別に社建て御鉾を納り(い)こまの鉾大明神これ也―
美馬郡記二云、当社に緋成しの鎧壱領、十五歳許の人のきるへき物也と、又当社に朝千鳥といふ琵琶あり、又の名ハ白瀧、元和二年、澁谷安大夫御意の趣を以被召上、帰空梁天大騨門とある位牌あり、これを御神体とす、実は安徳天皇の御法号なれと、世の憚あれハ、後嵯峨院の御位牌と申なり、社人宮本和泉、別当集福寺、鉾大明神大枝名にあり、帝の御所持の鉾を祭るといふ
意訳変換しておくと
平國盛が帝を供奉して、祖谷山に分入った。それは折しも十二月大晦日の事であった。日も暮れ、あたりに人家もない。そこで、一の岩屋で、夜を明そうとした。日は落ち暗やみの中ではあるが、①明日は元日なので、門松をたてよとの声がした。そこで、郎等たちが松を探したが、闇夜で見分けがつかない。そこで檜の木を切て門松とした。
開けて元日に、山を越えて行くと人家があり、住民達は雑煮を食べていた。②そこへ甲冑や弓矢の大勢の落人たちがやってきたので、家人は恐れて逃隠れた。それで残された雑煮を食べようと、大勢で押しかけると、軒に兎がぶら下げてあった。これ幸と、これも雑煮に入れて喰べた。
こうして、落人達はここで生活することになった。③祖谷を拠点として、その後には、西阿波の西庄・加茂・半田、讃岐の寒川・香西の地も切従えて、加茂村に城を築いた。これを金丸城と云う。その後は、④天正年間に長曽我部に攻られて落城して、再び祖谷山に引こもった。祖谷の有力者の家には、平氏の赤旗がある。それは平氏の子孫が祖谷の各所に分かれ住んだためで、⑤今は「祖谷三十六名」に当たる。名主の多くはその子孫である。
①文治二年正月朔に、安徳天皇が8歳でなくなると、栗枝渡(くりしど)という所に埋葬し、後に神社を建立し栗枝渡八幡宮と呼んだ。これは源氏の威を恐れて、見つからないようにするためだった。②別に社建て、御鉾を納めたのが鉾大明神である。
鉾神社(ほこじんじゃ)は、安徳天皇の鉾を納めていたという伝説に基づいています。そして伝説に基づき、江戸時代末期の1862年、この神社を正式に「鉾神社」と改称することになったようです。
以上を要約すると次のようになります。
①祖谷山に落ちのびてきたときには十二月大晦日で、門松を造ったが松がないので檜を代用とした。今でも、門松に檜を使う家があるのはこのため。
②元日に、住民の家を襲い雑煮を奪って食べ、祖谷の支配者となった。
③祖谷を拠点に、西阿波から讃岐の寒川・香西の地も従え、加茂に金丸城を築城した。
④長宗我部元親の侵攻で金丸城を落とされ、祖谷に引きこもった。
⑤彼らが祖谷に分かれて住み、祖谷三十六名を構成した。今の名主の多くはその子孫である。
これを見ると美馬郡記には、祖谷勢力が西阿波から讃岐までを勢力下に置いていたと記されています。祖谷郡記には中世の阿波の三好氏や細川氏の認識がポッカリと抜け落ちていることが分かります。また、近世の祖谷八氏と平家の落人達を、ストレートに結びつけています。
これを見ると美馬郡記には、祖谷勢力が西阿波から讃岐までを勢力下に置いていたと記されています。祖谷郡記には中世の阿波の三好氏や細川氏の認識がポッカリと抜け落ちていることが分かります。また、近世の祖谷八氏と平家の落人達を、ストレートに結びつけています。
鉾大明神(神社)について、作者は美馬郡記の次の記述を引用します。
当(鉾大明神)社に緋成しの鎧壱領、十五歳許の人のきるへき物也と、又当社に朝千鳥といふ琵琶あり、又の名ハ白瀧、元和二年、澁谷安大夫御意の趣を以被召上、帰空梁天大騨門とある位牌あり、これを御神体とす、実は安徳天皇の御法号なれと、世の憚あれハ、後嵯峨院の御位牌と申なり、社人宮本和泉、別当集福寺、鉾大明神大枝名にあり、帝の御所持の鉾を祭るといふ
意訳変換しておくと
鉾大明神には、鎧一領があるが、寸法が小さく幼年者の着用したものだろう。また、朝千鳥という琵琶があり、又の名を白瀧という。元和二年、澁谷安大夫御意の趣を以被召上、帰空梁天大騨門と書かれた位牌もある。これを御神体としている。これが安徳天皇の御法号である。しかし、世にはばかりがあるので、後嵯峨院の御位牌と称してきた。社人は宮本和泉、別当は集福寺で、鉾大明神大枝名にあって、帝の御所持の鉾を祭るとされる。