瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:平家屋敷


   寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文が「祖谷紀行」です。この中で雨のために東祖谷の久保家に何泊かして、当主から聞いた平家落人伝説などのいろいろな話が載せられています。その翌日に平家の赤旗がある阿佐家を訪ねています。今回は、幕末に起きた久保家と阿佐家をめぐる事件を見ていくことにします。テキストは、 「阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7」です。

     阿佐家住宅パンフ
阿佐家パンフレット

阿佐家には「平家の赤旗」2流があり、祖谷平家落人伝説の中心であり、屋敷も「平家屋敷」として名高い旧家です。
平家の赤旗 4
阿佐家の平家の赤旗

平家の赤旗2

阿佐家の平家の赤旗(大旗と小旗)

阿佐家には28通の文書が残されています。それを研究者が内容別に分類したのが次の表です。 
阿佐文書 郷士身振の件名目録1
阿佐家文書 2

A.阿佐家の当主左馬之助の惣領で,17才となった為三郎の藩主への年頭御目見得関係文書(No.1~7)。
B.阿佐為三郎の政所助役就任関係文書(No.9~11)。
C.阿佐為三郎の御隠居様(蜂須賀斉昌)への御目見得関係文書(No.12~14)。
D.久保名名主代理関係文書。(No.15~26)。
E.外出時における供揃や藩士に出会ったときの挨拶の仕方など,郷士としての格式を記した「郷士身振」
F その他(No.8・27・28)
 ほとんどの文書は幕末の嘉永・安政期が中心です。中世や近世初頭に遡るものはありません。内容は阿佐為三郎に関係するものがほとんどです。この文書群の中で、多くの紙幅が費やされているのがDの文書です。
阿佐家住宅パンフ裏
阿佐家パンフレット(裏)
 安政2年(1855)5月に起きた久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応です。
久保家は阿佐家と同じく郷高取・郷士格となった「祖谷八士」の一人で、阿佐家の分家筋にあたるようです。名主であった久保大五郎が、どうして出奔したのかはよく分かりませんが、久保名の管理・運営に関してトラブルがあったようです。名主がいなくなった久保名を、どうするかについてについて対応が協議されます。まず考えられたのが先例に従って,次の名主が決定するまで喜多源内が管理する案です。しかし,喜多家は重末名(旧西祖谷山村)にあって、久保名とは6里も離れています。日常的な業務に差し障りありとして見送られます。
祖谷山の民家分布

 次に考えられたのが、政所喜多源内・政所助役南乕次郎・同菅生源市郎・政所助役見習喜多達太郎・同阿佐為三郎の5人による共同管理案です。この案が美馬三好郡代から藩に上申されます。この年7月、池田の郡代役所に呼び出された喜多源内ら5人に対して、郡代の上申に沿った措置が当職家老の命令として伝えられます。ここで阿佐名では無役であった阿佐為三郎が、久保名管理の中心となることが想定されていたようです。しかし、共同管理体制というのは、責任の所在が不明瞭で混乱が起きることが多々あります。この場合もそうで、早々に行き詰まります。
そこで、最後の手段として考えられたのが阿佐為三郎が久保名の久保大五郎の屋敷に移住し、政所助役見習と久保名主代理を当分の間兼帯する、そのかわりに四人扶持の扶持米(一人扶持に付き1日に玄米5合が支給)を支給するという案です。これを喜多源内は美馬三好郡代に提出します。ところが、これを徳島藩上層部は却下します。理由は「郷士格に扶持米支給の先例無し」でした。「郷士格に扶持米の支給をしたことはない、先例に無いことは困る」という所でしょう。

阿佐家上段の間
阿佐家 ジョウダンノマ
 久保名を治めるためには、阿佐為三郎の久保名移住・名主代理就任以外に方法はありません。
しかし、四人扶持支給がなければ為三郎の久保名常駐はできません。安政3年12月に、その旨の上申書が美馬三好郡代から城代家老に出されます。この中で三好郡代は、久保名の混乱が祖谷山全体に波及するおそれを強調します。それを防ぐためにも、久保名の早期の安定が必要であることを訴えます。こうして、出奔事件から2年目の安政4年4月になって、阿佐為三郎の久保名主代理就任と久保大五郎屋敷の拝借が藩によって認められます。懸案だった扶持支給については「申出之通承届(許可)」と書かれています。祖谷山の安定を優先させた妥協策が採られたようです。こうして、三好郡代や徳島の城代家老までも巻き込んだ久保名主代理一件は収束していきます。

阿佐家玄関
阿佐家玄関
 ここで研究者が注目するのは,「郷士身振」文書の中に何度も出てくる「(祖谷は)不人気之名柄」という言葉です。
祖谷が「不人気之銘柄」というのは、どういうことなのでしょうか。
 約十年前の天保13年(1842)に、東祖谷の名子が土佐への逃散事件を起こしています。近世後期の祖谷山では、名主の支配に対する名子の不満が蓄積していたようです。そのため名手と名子の関係はギクシャクしていました。それが郡代や政所・名主から見ると「不人気」という表現になると研究者は推測します。久保大五郎出奔の背景に、このような名子との対立があったようです。また「郷士格に扶持米支給の前例無し」という藩側の原則論を崩したのも、「不人気な祖谷山」に対する危機感があったと研究者は推測します。

栗枝渡火葬場

 平家落人伝説が書物に書かれ、それに従って関係する神社や名所が祖谷に姿を現すのは、近世後半になってからのことです。
そして、当時の「祖谷八家」と呼ばれる名主たちは、自らが平家の落人の子孫であると声高に語るようになります。これは自分たちの「支配の正当性」を主張するものとも聞こえます。つまり「(祖谷)不人気之名柄」=「名主の支配に対する名子の不満の蓄積」=「名主と名子のギクシャク関係」に対する名主側からの「世論工作」の面もあったのではないか、「祖谷八家=平家落人の子孫=支配者としての正当性」を流布することで、名子の不満を抑え込もうとしたとも考えられます。このことについては、またの機会にしたいと思います。
研究者は、徳島県立文書館寄託「蜂須賀家文書」の中の次の文書を紹介します。
蜂須賀家政の祖谷久保家への安堵状

①年号は慶長17年(1612)7月8日
②発行主は、阿波藩主蜂須賀家政
③宛先は、 祖谷久保名の久保源次郎
  藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書です。内容は、それまで持っていた名職と久保名内で30石の知行を安堵するものです。研究者は、これは写しでなく原本だと考えています。久保名の名主であり、郷高取・郷士格となった久保家にとって、藩主のお墨付きでもあるこの安堵書は、最も大切な文書であったはずです。
それがどうして藩主の蜂須賀家の手の元にあるのでしょうか
 研究者が注目するのが、この宛行状(判物)の包紙の差出者が阿佐左馬之助と西山内蔵之進(西山氏は西山名の名主で「祖谷八士」の一人)であることです。ここからは久保家の不始末を、わびるために久保家に残されていた宛行状を藩に「お返し」したのではないかと研究者は推測します。なお、この宛行状については宝暦9年(1759)に書かれた『祖谷山旧記』に全文が紹介されています。
以上をまとめておきます。
①「平家の赤旗」が残る阿佐家には、近世後半の多くの文書が残されている。
②その中に安政2年(1855)5月の久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応文書がある。
③それは出奔不在となった久保名の名主を、本家筋の阿佐家の一族が継承就任するまでのやりとり文書である。
④また藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書が、蜂須賀文書に収められていることは、久保家の不始末を詫びるために安堵状が藩主に変換されたことがうかがえる。
⑤当時の祖谷は名主と名子の関係が悪化しており、「不人気之名柄」と認識されていた。
⑥このようなことが久保大五郎の出奔事件の背景にある。

18世紀席末に、「祖谷紀行」を書いた菊地武矩が御世話になった久保家は、その後の約半世紀後に主人が出奔し断絶したようです。そして、入ってきたのが本家筋の阿佐家になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7
『東祖谷山村誌』(1978年 東祖谷山村)
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